三匹の猫   作:黒猫ヨル

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第006話『コウキシン × ト × キッカケ』

1989年8月7日 晴れ

 

ノノをこの国境の街の路地裏で保護してから、ちょうど一ヶ月が過ぎた。

「痛っ……! なんだよクソッ、何でこんなとこで……!」

うだるような熱気がアスファルトから立ち上る、昼下がりの大通り。

わたしたちの少し先を前方から走って来た小柄な男が、何もない平坦な道で突如として足をもつれさせ、派手に地面を転げ回った。

「そこまでだ! 大人しくしろ!」

直後、息を切らして後を追って来た二人の警官が、呻く男に覆い被さるようにして手錠をかけた。どうやらスリかコソ泥の類らしい。男は「何も無かったぞ!何で!」と喚き散らしていたが、容赦なく両脇を抱えられ、引き摺られるようにして連行されていった。

「……まただ」

わたしは、その呆気ない捕物劇を見送ってから、隣を歩く女性へと視線を向けた。

わたしのハンター同期である音響ハンター、セシリア=オーランド。今日は彼女が、わたしと共に買い出しの荷物持ちを引き受けてくれている。

「ふふ、見事な転びっぷりだったわね。……さ、早く入りましょう。機材がないとはいえ、流石にこの暑さは堪えるわ」

セシリアは涼しげな顔でクスリと笑うと、目の前にあるカフェのドアを押し開けた。

 

カラン、と乾いたベルの音が鳴る。

殺人的な日差しから逃れるように店内へ足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が火照った肌を優しく撫でた。

「ふぅ……生き返る」

わたしたちは、伽藍堂の店内の奥、冷房の風がよく当たる角席へと腰を下ろした。

セシリアはふうと息をつき、窮屈だったのかフォーマルな上着を脱いで、仕立ての良い白いブラウス姿になる。

足元には、明日からの「旅」に必要な細々とした備品と、わたしたちの数日分の着替えが詰め込まれたバッグが置かれている。

「お疲れ様、セシリア。今日は荷物持ち、押し付けちゃってごめんね」

「気にしないで。これからお世話になるんだから、これくらい当然の雑務よ」

運ばれてきたアイスティーのストローに口をつけながら、わたしたちは友人同士の気楽な女子会を始めるのだった。

内容は少々物騒だったけど。

「それにしてもさ。よくゼルビンさんの居場所なんて突き止められたね。ここ一ヶ月、ノノの事があったから、あの人はキャンプ場から一歩も……一歩も動いてなかったんだよ?」

わたしの素朴な疑問に、セシリアはグラスの結露を指で拭いながら、静かに微笑んだ。

「本人の居場所を直接見つけたわけじゃないわ。……クガーニャ。貴女、この街でここ一ヶ月の間に起きている『異常現象』に気づいていないの?」

「異常現象?」

「ええ。さっきのコソ泥の捕り物、見たでしょう?」

セシリアは、トントンと人差し指でテーブルを叩いた。

「この街は国境近くという土地柄、密輸や裏取引、窃盗や麻薬を始めとした様々な犯罪の温床だったはずよ。なのに、ここ一ヶ月で犯罪件数が統計的にあり得ないほどの異常な減少値を示しているの。僅かに起きる事件も、さっきみたいに逃走中に何もないところで転んだり、決定的な証拠品を間抜けにも落としたり……しょうもないミスの連発で、即座に解決しているわ」

「えっ……」

「数年前からの未解決事件すら、不自然なタレコミや偶然の証拠発見で次々と進展を見せている。おまけに、街の裏稼業を牛耳っていた幹部連中が、急な出張だの長期の旅行だのと言い訳をして、我先にとこの街から逃げ出しているのよ」

まるで、目に見えない何かに怯え、蜘蛛の子を散らすように。

「こんなことを人知れず、しかも街の機能そのものを停滞させることなく裏から操作できる可能性がある人間なんて、世界中を探しても両手で数えるほどしかいないはずだわ」

セシリアは真っ直ぐにわたしを見た。

「その限られた僅かな人間の中で、更に現在『所在不明』となっている人物は数名しか居ない。だから、アルト財団の創設者にして、世界最大のコレクターであるゼルビン=アルトの仕業であることに賭けて、私はこの街の調査に来たのよ」

「……それで?」

「そうしたら、クガーニャ、貴女がヴェラムさんと二人で大荷物を抱えて、異常現象が始まった数日前に、立ち入り禁止になった、いかにも訳ありそうなキャンプ場に入っていくのを見かけたの。だから、確信を持って後を付けさせてもらったってわけ」

探偵顔負けの推理力と行動力に感心しながらも、わたしの胸の奥には、小さな『違和感』がもたげていた。

(……おかしい。あの人なら、もっと上手くやるはずだ)

相手の手札を読み切り、わたしを封殺すると息をするように語ったあのベテランハンター。

街の浄化を行うにしても、裏社会の幹部が一斉に逃げ出すような「あからさまな異常」に勘付かれるような、ずさんなやり方をするだろうか?

セシリアは優秀なハンターとはいえ、足跡を辿られるような真似を。

(もしかして……わざと?)

背筋が微かに粟立った。

自らはキャンプ場の椅子から一歩も動かず、念獣を使って街を裏から綺麗にしてしまう。その『異常現象』そのものを、まるで誰かに見せつけているかのように。

周囲の不穏な輩に対する、絶対的な『威圧』として。

(……だとしたら、セシリアが辿り着いたのも、あの人の計算通りだったりして)

深読みしすぎだろうか。

だが、あの底知れない暇人なら、あり得ない話ではないと思えてしまうのが恐ろしかった。

――セシリアがわたしたちの前に現れたのは、昨日の夕方のことだった。

真夏のじっとりとした熱気が森に籠もる中、買い出しから戻ってきたわたしと先生は、キャンプ場に足を踏み入れ、そこに存在する理不尽に改めて呆れ果てるしかなかった。

『お帰りなさい。今日は一段と暑いですね』

ゼルビンさんがいつも通り、定位置でノノとヨルを抱えて微笑んでいたのだが……その環境はここ数日の暑さによって一ヶ月前とは劇的に変わっていた。

銀色の液体金属『シルバタール』は、もはやただの椅子だけではなく、日差しを完全に遮る豪奢な『東屋』へとその姿を拡張させていた。

それだけでも驚きなのに、椅子の背もたれから上部へ向かって伸びた、銀色の止まり木だ。

そこには、淡い青色の美しい羽根を持つ念獣──『エレメンタルバード』とやらが留まり、東屋の周囲を心地よい冷気を循環させていたのだ。

 東屋の周囲を心地よい冷気を循環させていたのだ。

 これほどの質量の『シルバタール』を形作り、冷気を生み出す念獣を飛ばし、さらにヨルまで……。

 一瞬、この人の並行処理能力(キャパシティ)はどうなっているんだと戦慄しかけたのだが、わたしはふと、ある違和感に思い至った。

(……待って。本当に、全部をゼルビンさんが『手動』で動かしてる……?)

 視線を落とすと、ヨルはノノに抱っこされていない時、勝手に木陰で毛づくろいをしたり、蝶々を追いかけてあくびをしたりと、どこからどう見ても『ただの気ままな黒猫』として過ごしている。あの完璧すぎる猫の仕草や気まぐれさを、ゼルビンさんが裏で細かく意識を割いて演技・操作しているなんて、どう考えてもおかしい。

(……まさか、自律行動型……!?)

 そうだ。それなら合点がいく。あらかじめ明確な意思や行動パターンを与えられた『自律型』の念獣なら、発動させた後の『動かすための脳の処理負荷』は劇的に減るはずだ。

 ……けれど、だからといって「なーんだ」とはならない。むしろ別の意味でおかしいのだ。

(動かす手間を減らした代わりに、具現化と操作の難易度を極限まで跳ね上げてるんじゃないの……!?)

 自我や独自の習性を持つ念獣を具現化し、自律して動かすなんて、念能力の技術としては途方もなくハードルが高い。一体どれほどのイメージ精度と、どんな重い制約を重ねればそんな芸芸しい真似ができるというのか。

 脳のキャパシティを食わない代わりに、破格の技術とオーラを注ぎ込んで生み出された自律念獣たち。

 その規格外の存在たちの使い道が、「膝の上のクッション」と「日除けとクーラー」……。

 あまりにも贅沢すぎる、念能力の無駄遣い。

 隣を見ると、ヴェラム先生が眉間に深いシワを寄せて、ハァと重い溜め息を吐いていた。

(先生……わかります。その呆れちゃう気持ち……)

わたしはただただ、この大先輩の底知れない無駄遣いっぷりに先生と共に脱力するしかなかった。

食材をテーブルに置き、わたしもその恩恵にあやかろうと東屋の屋根の下へ入り、しゃがみ込んだ。

「ただいま、ノノ」

わたしの声に、ゼルビンさんの膝にいたノノが顔を向ける。

一ヶ月前なら、わたしや先生が近づくだけで激しく威嚇してきた彼女だが、今はもうパニックになることはない。

ゼルビンさんとヨルという別格の『絶対的な安全地帯』にいるという安心感もあるのだろうが、彼女なりにわたしたちの顔と気配に慣れてくれたのだ。

特に、威圧感のある大男の先生よりも、わたしの方にいくらか気を許してくれているのがわかる。

「クガ……ニャ」

たどたどしい、小さな声。

「うん、お留守番えらかったね。お土産があるんだよ」

「おみ……やげ……ゼル、いっしょ……」

言葉を思い出すように単語を繋ぎ、ノノが自分の頬をゼルビンさんの腕に擦り寄せる。

わたしは嬉しくて、彼女の頭を撫でてあげたかったが、グッと堪えた。能力の性質上、わたしのオーラで耐えられる接触はほんの数分が限界だ。今はまだ、このギリギリ触れ合わない距離での会話が、わたしたちの精一杯のコミュニケーションだった。

それでも、確かな成長だ。

 

わたしが目を細めて微笑んだ、その時だった。

「……ごきげんよう、クガーニャ」

木立の陰から、涼しげな声と共にセシリアが姿を現したのだ。

わたしが驚きの声を上げるよりも早く、未知の気配を察知したノノの肩がビクッと大きく跳ねた。

「シャーッ!!」

激しい威嚇の声。

一瞬にして、穏やかな雰囲気は見知らぬ人間の登場にパニックを起こしたノノの全身から、発せられる『削り取る鮫肌』の凶悪なオーラによって消し飛ばされた。

「うわっ!?」

至近距離にしゃがみ込んでいたわたしは、肌を撫でるヤスリのオーラに反応し、慌てて東屋から後ろへと大きく飛び退いた。

チリチリチリッ!

退避と防御がコンマ数秒遅ければ顔の皮が剥がれていたかもしれない。

東屋の空気が軋みを上げ、周囲の小石や草が瞬時に削り飛ばされていく。

ノノはそのままゼルビンさんの背中と椅子の背もたれの間に潜り込むようにしてヨルを抱えて隠れた。

「セシリア! 近づいちゃダメ!」

わたしが叫ぶと、セシリアは即座に歩みを止め、状況を瞬時に判断した。

彼女はそのまま静かにその場に片膝をつき、両手を軽く上げて「私に敵意はない」ということを明確な姿勢で示した。一切の無駄のない、完璧な初動だった。

その間も、背中で荒れ狂うオーラの嵐を、ゼルビンさんは「おやおや」と苦笑したが全く気にしていなかった。

ノノのパニックに巻き込まれ、背中と背もたれの間で抱きしめられているヨルに至っては、ヤスリのオーラを浴びながら、寝ぼけ眼で「にぁ……」と大あくびをする始末だ。

「驚かせてしまって申し訳ありません。ですが、どうしても直談判させて頂きたく、不躾ながら、ここまで追わせていただきました。……アルト財団代表、ゼルビン=アルト様」

「……おや、こんなお飾りの暇人にご用が?」

「はい」

セシリアは真摯な瞳で、自身の目的を語った。

「私が保護区事務局に申請させて頂いておりました、アベル国際自然保護区、保全地区への立ち入りと、 そこに生息する希少生物『晶琴鳴き山椒魚』の歌声の録音許可……そちらが、幾度となく却下され続けておりまして。どうか、オーナーであるゼルビン様の権限で、特別に御許可をいただけないでしょうか」

その言葉に、ゼルビンさんのオッドアイが微かに細められた。

普段の呑気な空気が、一瞬にして冷徹な経営者のそれへと切り替わる。

「事務局が却下したということは、それが保護区の公式な見解です。いくらハンターの学術調査といえど、許可を出すわけにはいきません」

「しかし! 彼らの生み出すあの奇跡の共鳴は、世界的な遺産です。現在出回っているような、波形が切り取られた薄っぺらいデジタルの金属ノイズなどではなく、最高峰のアナログ機材で、空気を震わせる『波』そのものをテープの磁気に直接刻み込まなければならないんです! 本物の音を未来に残すために!」

セシリアの言葉には、音響ハンターとしての執念と、並々ならぬ熱量が籠もっていた。

だが、ゼルビンさんはその熱を、柳のように静かに受け流した。

「音を未来に残す、ですか。素晴らしい情熱だとは思いますが……保護区を管理する立場から言わせていただければ、その『本物の音』とやらが世に広まることは、我々、保護区にとって不利益となる。」

「不利益……?」

「ええ。希少価値が広く世間に認知されればされるほど、物好きどもの標的となり、彼らの安全が脅かされる危険性が高まります。当保護区は、手掛ける様々な事業によって、単独での黒字を維持しています。外部のパトロンの評価も、世界的な認知も必要としていない。彼らの安全を秤にかければ、貴女が薄っぺらいと評したデジタルで満足していただくのが一番なのです」

ぐうの音も出ない、完璧な正論だった。

「保護」という観点において、ゼルビンさんの判断は冷酷なまでに合理的だった。

セシリアも反論の言葉を見つけられず、悔しそうに唇を噛み締めた。

(……ダメか)

わたしも内心でそう思った、その時だった。

チリッ……チリリ……。

ふと、東屋を覆っていた異様な圧迫感が、僅かに和らいでいることに気がついた。

荒れ狂う暴風のようだったノノの「削るオーラ」が、少しずつ、少しずつその切っ先を丸くしていく。周囲の石を削り飛ばしていた激しい音が、静電気のような微かなざわめきへと収まっていくのがわかった。

ノノは、ゼルビンさんの背中からじっと観察していたのだ。

片膝をつき、必死に言葉を紡ぎ、そして決して自分に危害を加える距離まで踏み込んでこないセシリアの姿を。

段々と「危険ではないかもしれない」と感じ始めたこと。そして何より、スラムでは決して出会うことのなかったであろう、洗練された女性が発する「未知への情熱」に当てられたこと。

完全に警戒が解けたわけではない。

最近の落ち着いていた頃よりはまだ出力は高いままだが、それでも、剥き出しの敵意は明確な『興味』──ささやかな好奇心へと変化し始めていた。

ゼルビンさんの背中に隠れながらもギュッと彼のシャツを握りしめたノノが、ひょっこりと顔を僅かに覗かせる。

「……?」

ノノの琥珀色の瞳が、膝をつくセシリアをじっと見つめていた。

「……」

ゼルビンさんが、背中のノノのオーラの変化と様子を、肩越しにチラリと確認したのが分かった。

数秒の静寂ののち、小さな溜息を一つ。

「……まあ、ちょうど良い機会かもしれません」

ゼルビンさんが、不意に口を開いた。

「え?」

「保護区にいる我が師……『アベル』に、久しく顔を見せていませんでしたから。少し、挨拶しに行きましょうか……」

あくまで「師匠への挨拶」という体裁をとってはいたが、その真意がノノの好奇心に応えるためのものであることは、わたしにはすぐにわかった。

「警備部門も暇をしていましたからいい遊び相手になるでしょう」

「では、御許可を……!?」

「条件があります」

ゼルビンさんは、驚くセシリアとわたしを交互に見て、静かに言った。

「貴女一人で、ではなく、この場の全員が保護区、保全地区へ同行すること。そして、移動中および保護区滞在期間間、貴女自身の録音作業時を除き……このノノの『護衛と雑務』を担っていただく。それが条件です」

突然の条件提示に、セシリアは目を丸くしたが、迷うことなく深く頭を下げた。

「わかりました。その条件、喜んでお受け致します」

――そして、昨日の晩。

夕食後の静かなキャンプ場に、深く、豊潤な弦の響きが満ちていた。

セシリアが持ち込んだ『ヴィオラ』の演奏だ。

パチパチと爆ぜる焚き火の光に照らされながら、彼女は目を閉じ、滑らかに弓を引く。

セシリアは、あえてノノに近づこうとはしなかった。ただ一定の距離を保ち、音楽という『直接触れないもの』を通して、彼女の世界にそっと語りかけていたのだ。

『……』

空気そのものを揺らす、深く豊潤な弦の響き。

スラムの怒号や、大人たちの荒い息遣い、削り取る己のオーラの軋み音しか知らなかったノノの耳に、その音色はあまりにも鮮烈に届いたのだろう。

ヨルを抱きしめていた手を僅かに緩め、ノノは呆然と口を開けながら、セシリアの手元を見つめていた。

自分のオーラが届かない遠くから、自分を傷つけることのない「温かい波」が夜空を満たしていく。

彼女の琥珀色の瞳の奥で、小さく、けれど確かな好奇心の火が灯った瞬間だった。

 

「……結局、セシリアのそのアナログへの執念が、あの難攻不落の扉をこじ開けちゃったわけだ」

わたしは残っていたアイスティーを飲み干して笑った。

「結果オーライよ。どんな雑務だってこなしてみせるわ」

セシリアも自信ありげに微笑んだ。

明日には、ゼルビンさんが手配してくれた最新式の大型キャンピングカーが到着する手はずになっている。

それが来れば、いよいよ出発だ。

目的地は、アルト財団立『アベル国際自然保護区』の保全地区。

手つかずの自然と生態系が厳重に守られた、究極のサンクチュアリ。

泥と煤にまみれ、世界を拒絶していたあの小さな女の子に、悪意のない美しい世界がたくさんあることを教えてあげたい。

それが、ノノが背負っているかもしれない『見えない代償』に立ち向かう、最初の一歩になると信じて。

初秋の気配を微かに含んだ冷房の風が、火照った体を冷やしていく。

わたしの心は、これから始まる未知への旅への期待で、力強く高鳴っていた。

 




少しずつですが動かしていきたい
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