1989年8月10日 晴れ
国境の街を出発してから、三日が経過していた。
『アベル国際自然保護区』は、このヨルビアン大陸でも指折りの広大な面積を誇る自治領だ。そこへ至るまでには、実に三つの国を跨ぐ長旅になる。天候や道路状況にもよるが、順調に行っても十日前後はかかる予定だった。
「ふぁ……よく寝た」
わたしはキャンピングカーの後部座席で大きく伸びをし、窓の外に目をやった。
抜けるような青空の下、険しい岩肌と深い森が続く山道がどこまでも連なっている。照りつける太陽がアスファルトに蜃気楼を作っていたが、車内は快適な冷房が効いており、過酷な外気とは無縁の別世界だった。
運転席では、分厚い背中を見せたヴェラム先生が、大きなハンドルを片手で器用に回しながらキャンピングカーを操っている。
助手席には、同期のハンターであるセシリアが座り、地図と睨めっこしながらナビゲーションを行っていた。
そして、わたしの座る後部座席の向かい側。
そこには、キャンピングカーの揺れなど全く意に介さない様子で、優雅にコーヒーカップを傾けるゼルビンさんの姿があった。
もちろん、その膝の上という特等席には、大きな黒猫のヨルを抱きしめたノノが、スゥスゥと静かな寝息を立てて丸くなっている。
この見慣れた光景に、わたしはふと口元を綻ばせた。
(最初は、どうなることかと思ったけど……)
三日前の出発時のドタバタを思い出し、わたしは密かに苦笑した。
◆
それは、ゼルビンさんの手配した最新式の大型キャンピングカーがキャンプ場に到着し、いざ乗り込もうとした時のことだった。
「……あ。マズい」
ノノが車内に足を踏み入れた瞬間、わたしは顔を引き攣らせた。
ノノの全身を覆う『削り取る鮫肌』のオーラ。彼女が少し身動きするだけで、高級そうな本革のシートや、ピカピカの木目調の壁面が、チリチリと音を立ててヤスリをかけられたように削れ始めたのだ。
いくらゼルビンさんとヨルが平気でも、物理的な車という「物」は別だ。このまま十日間も旅を続ければ、目的地に着く頃にはキャンピングカーの内装はズタボロのスクラップと化してしまう。
「ゼルビンさん! このままじゃ車が……!」
慌てふためくわたしをよそに、ゼルビンさんは「おや」と少しだけ困ったような顔をして、自分の右腕を軽く振った。
ゼルビンさんの右腕の袖口から、あの銀色の液体金属──念獣『シルバタール』が大量に溢れ出したかと思うと、それは瞬く間に車内全体へと広がり始めた。
壁面、天井、シート、果ては床に至るまで。シルバタールは薄く、しかし絶対的な硬度を持った膜となって、キャンピングカーの内装すべてをあっという間にコーティングしてしまったのだ。
ギラギラした銀色ではなく、落ち着いた艶消しのマット銀仕様。
ノノのオーラが触れても、全く傷つかない完全な防壁。
ついでに、ゼルビンさんが座るシートだけは、いつもの豪奢な椅子の形にカスタマイズされていた。
「……またやってる」
わたしが思わず呆れて呟くと、隣でヴェラム先生も眉間を揉んで重い溜め息を吐いた。だが、当のゼルビンさんは平然と済ませてしまった。
「シルバタールは万能ですから」
(いや、万能の一言で済ませていいことじゃないからね!?)
わたしは心の中で盛大にツッコミを入れたが、もはやこの人の規格外な念の使い方には呆れるのを通り越して慣れつつあった。この十日間の旅の間、ずっと車内をシルバタールで覆い続けるのだろう。頼りになるがもう好きにしてくれという感じだ。
そうして始まった車での旅。
最初は、ノノも落ち着かない様子だった。スラムで暮らしていた彼女にとって、猛スピードで景色が流れていく「車」という乗り物自体が未知の体験だ。
エンジンの振動やカーブの遠心力に驚き、ビクッとするたびにオーラの出力が微かに上がり、周囲の銀色の壁をチリチリと引っ掻いていた。
けれど、彼女が座っている「安全地帯」──ゼルビンさんの膝とヨルの温もりだけは、車の揺れなど一切関係なく、常に絶対的な安定と静寂を保っていた。
「大丈夫ですよ、ノノ。どこにも行きませんから」
ゼルビンさんが大きな手でゆっくりと背中を撫で、ヨルがゴロゴロと喉を鳴らす。
その不変の安心感に包まれることで、ノノは半日も経たないうちに車の揺れに完全に慣れてしまったのだ。
怯えが消えると、次に芽生えたのは「好奇心」だった。
安全な箱の中から、絶対に自分を害さないクッションの上で、窓の外を流れる世界を見る。
それは、ノノにとって初めての体験だった。
「……あっ!」
ある時は、窓の外の広大な牧場に放牧されている牛の群れを見て、ノノが身を乗り出し、ゼルビンさんの隠されたオーラに守られた窓ガラスにペタリと張り付いた。
「ノノ、あれは牛さんだよ。白と黒の模様がいっぱいいるでしょ?」
わたしが隣からそっと教えると、ノノは琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、こくりと頷いた。
またある時は、夕暮れ時に通りかかった街のネオンサイン。赤や青、緑の人工的な光が連なる光景に、ノノは目を丸くして息を呑んでいた。
スラムの汚れた路地裏と、大人の怒号しか知らなかった彼女。
でも、世界はそんなに狭くない。広くて、大きくて、不思議なものや綺麗なものがたくさんある。
窓越しの風景ではあるけれど、ノノは確実に「世界」を知る第一歩を踏み出していた。
そして、その好奇心を後押ししていたのが、助手席に座るセシリアの存在だった。
車内での休憩時間や夜の野営の際、セシリアは自身のヴィオラを取り出して静かな曲を奏でていた。
彼女は決して自分からノノに近づこうとはしない。物理的な距離をしっかり保ち、「無理に踏み込まない」というスタンスを崩さなかった。
その代わり、彼女は「音」という目に見えない、触れられない波でノノの世界に彩りを与えていた。
美しい弦の響きは、警戒心を刺激することなくノノの耳に届く。
ノノは、セシリアがヴィオラを構えるたびに、ゼルビンさんのシャツを掴みながらもジッとその手元を見つめ、静かに音色に聴き入っていた。
過度に干渉してこない、でも心地よい音をくれる人。
セシリアのその絶妙な距離感の取り方は、極度の人間不信であるノノにとって、ゼルビンさんたちとはまた違うベクトルの「安心できる他者」になり得るかもしれない。
(ノノの世界が、少しずつ広がっていく……)
わたしは、その小さな変化が嬉しくてたまらなかった。
◆
「おっと……」
不意に、ヴェラム先生がブレーキペダルを踏み込み、キャンピングカーが鈍い音を立てて停車した。
慣性の法則で体が前に持っていかれそうになるが、わたしは踏ん張って姿勢を保った。
「どうしました、ヴェラムさん?」
助手席のセシリアが地図から顔を上げ、フロントガラスの先へ視線を向ける。
「……面倒なのが道を塞いでやがる」
先生の不機嫌な声に、わたしも席を立って運転席と助手席の間から前方を覗き込んだ。
キャンピングカーの数メートル先。険しい山道のど真ん中に、巨大な丸太が横たえられていた。
落石や自然倒木ではない。明らかに人為的に切り出され、車の進行を妨害するように配置されている。
そして、その丸太の向こう側から、薄汚れた身なりの男たちがぞろぞろと十人ほど姿を現した。
手に持っているのは、錆びたナタや鉄パイプ、それに古めかしい猟銃が数丁。
「おいおい、立派な車に乗ってんじゃねえか。通行料を払ってもらおうか。命ってやつでもいいぜ?」
先頭に立つ、顔に大きな傷のある男が、下品な笑い声を上げながら銃口をこちらに向けた。
典型的な、山賊や野盗の類だ。
「……『纏』が全くできていませんね。オーラがただ垂れ流しになっているだけです」
セシリアが冷静に分析する。わたしも凝を使って確認したが、彼らから念能力者特有の練られたオーラは微塵も感じられなかった。生命エネルギーの漏出を防ぐ初歩技術すら持たない、ただの盗賊だ。
「チッ、どこの国にもこういう羽虫は湧くもんだな」
先生が舌打ちをし、ドアノブに手をかけた。
わたしはハッとして後ろを振り返った。
ゼルビンさんの膝の上で、ノノはまだスヤスヤと眠っている。
もしここでノノが目を覚まし、窓の外にいるあの悪意の塊のような盗賊たちを見たらどうなるか。
せっかく外の世界に興味を持ち始めていた彼女の心は一気に閉ざされ、あの凶悪な『削るオーラ』がパニックで暴発してしまうかもしれない。
絶対に、ノノに見せるわけにはいかない。
「先生、セシリア! ノノが起きる前に、一瞬で片付けましょう!」
わたしが小声で急かすと、先生は無言で頷き、セシリアも「ええ、そのつもりよ」と冷たく言い放った。
「行ってきます、ゼルビンさん。ノノをお願いします」
「ええ、お気をつけて。……あまり騒動にならない様にお願いします」
ゼルビンさんはコーヒーカップを傾けたまま、相変わらずの呑気な声でわたしたちを見送った。
ガチャリ、とドアを開け、わたしたち三人は夏の熱気が立ち込める山道へと降り立った。
「なんだぁ? でかいオッサンと、女が二人? 舐めてんのか?」
盗賊のリーダー格が、わたしたちを見て下卑た笑いを深める。
「ヘヘッ、いい女じゃねえか。通行料の代わりにお前らで……」
「わたしが行きます!」
(手入れのされていない旧式の猟銃に、継ぎ接ぎだらけの防寒着……。この季節にあの厚着、それにあの独特の訛り。近隣の村の住人じゃない。国境を越えられずに山に居着いた、隣国の脱走兵か難民崩れ……)
そう判断し、わたしが両手に獣の爪(オーラ・クロー)を顕現させて前に出ようとした。
接近戦なら、わたしが一番速い。舞いのステップを踏むまでもなく、ただの人間相手なら初動のパワーとスピードだけで数秒で制圧できる。
しかし。
「待って、クガーニャ。私がやるわ」
セシリアが、スッとわたしの前に片手を出して制止した。
「えっ? でも、セシリア……」
音響ハンターである彼女の実戦での戦闘スタイルを、わたしは見たことがない。こんな野蛮な連中を相手に、どう立ち回るつもりなのだろうか。
疑問に思うわたしをよそに、セシリアはブラウスの胸元から、小さな金属製の道具を取り出した。
U字型に曲がった金属の棒。『音叉(おんさ)』だ。
セシリアは、その音叉を指で軽く弾いた。
キィン……。
澄んだ、ひどく冷たい金属音が、熱気に満ちた山道に響き渡った。
(……っ! オーラが、音の波に乗って広がっている……!?)
『凝』を凝らしたわたしの目に、セシリアの音叉から放たれた目に見えないはずの音波が、緻密に練られたオーラの波紋となって賊たちに蓄積されていくのが見えた。
「あぁ? なんだそりゃ。武器でも何でもねぇただの棒っ切れじゃねぇか。舐めてんのか!」
盗賊の一人が馬鹿にしたように笑い、ナタを振り上げて一歩前に出た。
セシリアは動かない。ただ音叉を真っ直ぐに構え、その音の余韻に合わせて何かを探るように、数秒間、じっとタメを作った。
「セシリア! 危ない!」
わたしが叫ぼうとした、その瞬間だった。
直後、ナタを振り上げていた男の動きが、ピタリと止まった。
それだけではない。後ろで猟銃を構えていたリーダー格も、ヘラヘラと笑っていた他の男たちも、全員が突然、見えない巨大なハンマーで後頭部を殴られたかのように大きくよろけたのだ。
「オ゛ェェッ……!?」
「な、なんだ……!? ぐわぁぁっ、目が、回る……ッ!!」
盗賊たちは次々と武器を取り落とし、両手で自分の頭を抱え込んだ。
その顔は真っ青になり、白目を剥き、口から泡を吹きながら、平衡感覚を完全に喪失して地面に崩れ落ちていく。
まるで激しい船酔いと目眩を同時に引き起こされたような、極限の生理的嫌悪感と苦痛。
ものの数秒。
十人近い荒くれ者たちが、誰一人としてわたしたちに指一本触れることなく、自分の嘔吐物にまみれながら完全に昏倒してしまったのだ。
「……えっ?」
わたしは、その場に立ち尽くした。
(……蓄積させたオーラに合わせて、音を相手の三半規管に直接叩き込んだ……!?)
距離を保ったまま、しかも十人近い大人の平衡感覚を一瞬で狂わせる離れ業。
アレなら分厚いオーラの防御すら、音の波として容易くすり抜けて内部を直接破壊する。近接での殴り合いしか手札のないわたしにとって、それは想像するだけで総毛立つような、天敵とも言える制圧力だった。
(これが、念能力者としてのセシリアの力……!)
ゼルビンさんが先日、わたしの能力拡張の案として提示してくれた言葉が、痛烈な実感として脳裏に蘇る。
『遠距離攻撃の手段を確保しておけば、敵も簡単には近寄れず、舞う時間を稼ぎやすくなる』。
もしわたしが今のセシリアと戦うことになれば、蓄積までに近づかなければ、この能力で内耳を狂わされ、まともにステップ一つ踏めずに無力化されてしまうだろう。
相手に触れさせず、時間を稼ぐどころか一瞬で場を制圧してしまう手札。
(……そうか。遠くから倒す必要なんてないんだ。相手の歩調を狂わせ、隙を作り出しさえすれば……!)
セシリアが音で平衡感覚を奪ったように。わたしにも、敵を足止めし、わたしが安全に『舞う』ための空間と時間を強制的に作り出す手札が必要だ。
(一撃必殺の『牙』だけじゃない。中遠距離から相手を牽制し、コントロールする技を絶対に開発しなきゃ……!)
わたしは、己の能力の未熟さを痛感すると同時に、今後の明確な課題を再認識し、ギュッと拳を握りしめた。
「ふん。何とも、えげつない能力だな」
ヴェラム先生が、アタッシュケースを片手にのっしのっしと歩み出てきた。
パチン、とケースの留め金が外され、中から大量の紙片が宙に舞い上がる。
「どうせ、その気になったら、内臓や骨を直接破壊するような真似も出来るんだろ?」
「ええ、この『共鳴の調律(レゾナンス・チューニング)』なら可能です。そんな野蛮なことはしたくありませんが」
セシリアは当然のように頷いた。
「流石、あのサイラスの弟子だ。嫌な仕上がりだな」
先生は呆れたように鼻を鳴らすと、宙に舞わせた紙片を操り、昏倒している盗賊たちを次々と簀巻きにしていく。
強靭なジャポン紙による完璧な拘束だ。
「サイラスさんって……セシリアの師匠のことですか?」
わたしは、先生がセシリアの師匠の名前を出したことに驚いて尋ねた。
「ヴェラムさん、ご存知なんですか?」
「お前ら、同じ第277期の同期だろ。俺がクガーニャの裏試験の試験官だったんだ。同じ期の試験官を担当したヤツの名前と素性くらい把握してるさ」
先生は紙の操作の手を止めず、顎でセシリアをしゃくった。
「それに、サイラスは俺みたいな裏方と違って、骨の髄まで『戦闘狂』で有名な弾撃ちだからな。どうせお前も、一人立ちするまでロクでもない紛争地帯や戦場を連れ回されたんだろ」
「ええ、それはもう」
セシリアは苦笑しながら、肩をすくめた。
「おかげで、どんな過酷な環境でも、あの重たい機材を背負って走る体力と、相手を近寄らせない戦術だけは身につきました」
(なるほど……)
あの優雅な立ち振る舞いに似合わない、極めて実戦的で凶悪な能力の設計理由は、その戦闘狂の師匠の教えの賜物だったのか。どんな修羅場を潜ってきたのか想像するだけで恐ろしい。
「おいクガーニャ、ぼーっとしてないで手伝え。こいつらをキャンピングカーの後ろの荷台に放り込むぞ。次の街の警察に引き渡す」
「ええーっ!? なんでわたしが肉体労働なんですか!」
「強化系だろ。お前が一番適任だ」
「セシリアだって重たい機材背負って走れるんですよね!?というか、先生が一番馬鹿力じゃないですか!?」
文句を言いながらも、わたしは『積層する紙片』の『現状維持(キーピング)』でガチガチに簀巻きにされた盗賊たちを担ぎ上げ、盗賊たちをキャンピングカーのストレージに押し込みながら、わたしはふと、ある疑問に行き着いた。
(セシリアの師匠がそんな戦闘狂なら……あの規格外のゼルビンさんを育てた師匠って、一体どんなバケモノなんだろう?)
「ねえ、先生。師匠繋がりで聞きたいんですけど……ゼルビンさんの師匠の『アベルさん』って、どんな人なんですか?」
保護区の最高責任者であり、ゼルビンさんが「挨拶に行こう」と言った人物。
あの大怪物を育て上げた師匠なのだから、ただ者であるはずがない。
わたしが最後の盗賊を押し込んでストレージの扉を閉めると、先生は腕を組んで記憶を探るように空を仰いだ。
「アベル老師、か。俺が初めて会ったのは、もう十年以上前だな。保護区にある未発掘の遺跡群の、大規模調査依頼を受けた時だ」
「十年以上前……」
「ああ。その頃にはもう落ち着いていたが昔はそれはもう、凄まじい武闘派だったらしいぞ。密猟組織をたった一人で壊滅させたとか、一キロ先の賊の眉間を、小石を投げて撃ち抜いたとか……ぶっ飛んだ逸話には事欠かない人だ」
「い、一キロ先の相手を、小石で……!?」
わたしは絶句した。
一キロ先の標的を小石で撃ち抜く? そんなの、筋力や投擲技術の問題じゃない。どれだけ恐ろしい念能力を使えばそんな真似ができるのか。
(アルト財団の周り、規格外のバケモノしかいないじゃない……!)
わたしは内心で頭を抱えた。
「だがまぁ、それは大昔の話だ。今はすっかり丸くなって、外敵以外には優しい、ただの骨董好きの好々爺さ」
先生は肩をすくめて笑った。
「ゼルビンもそうだが、あの人も身内や自分が認めたヤツにはとことん甘い。気難しく考える必要はねえよ」
「……そうなんですね」
少しだけ安堵しつつ、わたしはもう一つの希望を口にした。
「遺跡群もですけど、わたし、保護区にある『黄金域』を絶対見ておきたいんですよ!」
わたしは思わず前のめりになって熱弁を振るった。
「規模は小さいとはいえ三つの宗教が、かつて血で血を洗う争いを繰り広げた聖地ですよ!? それが、一度停戦したというだけで一つのエリアに重なり合って共存できてるんです! 急な出来事すぎて当時何があったのか資料も少ないみたいですし、民俗学を志す者として、あの狂気と奇跡のバランスはこの目で見ておかないと一生後悔します!」
わたしは鼻息荒く語ったが、すぐに現実的な問題にぶち当たってスンッと肩を落とした。
「でも、あそこは信者以外の立ち入り制限が厳しいって聞きますし……ゼルビンさんが特別許可を出してくれたとしても、今のノノに、人混みが多い聖地を歩かせるのは厳しいですよね」
あの削り取るオーラを纏ったまま人混みに入れば、大惨事になることは目に見えている。
しかし、先生は苦笑しながらも悩む素振りも見せず、あっさりと答えた。
「心配すんな。あの人なら、ノノに触れても大丈夫かもしれんからな」
「えっ?」
「しばらくしてノノがアベル老師に慣れたら、一時的に預けて、お前はゼルビンに黄金域を案内して貰えばいいさ。……それか、ノノはゼルビンに任せて、ゼルビンの代わりにアベル老師を案内役として引っ張り出してもいいな。面倒くさがりのゼルビンよりマシな話が聞けるかもな」
先生は、さも簡単なことのようにニヤリと笑った。
「どっちが案内役に回るにしろ、保護区のトップと同伴なら、聖地の関係者だってノーとは言えんだろうよ。まぁ、ノノが懐くかどうか次第だがな」
「アベルさんなら、ノノに触れても大丈夫……?」
わたしは信じられない思いで先生を見た。
あの、わたしの渾身の『堅』すら容赦なく削り取った凶悪なオーラに、触れられる?
わたしは信じられない思いで先生を見た。
あの、わたしの渾身の『堅』すら容赦なく削り取った凶悪なオーラに、触れられる?
ゼルビンさんのような常軌を逸した静寂のオーラで誤魔化すのではなく、正面から耐えられる力が、この世に存在するのだろうか。
先生はニヤリと笑っただけで、それ以上アベルさんの種明かしをしてはくれなかった。
(どんな能力なんだろう……でも、先生がそう言うなら、本当に預けられるのかもしれない)
だとしたら、わたしの夢である『黄金域』のフィールドワークも叶うかもしれない。
俄然、目的地への期待が高まっていく。
「よし、後始末は終わりだ。行くぞ」
先生の声で、わたしたちはキャンピングカーへと戻った。
ガチャリ、とドアを開けて車内に入ると、ひんやりとした冷気と共に、コーヒーの香りが漂ってきた。
「おや、終わりましたか?」
マット銀のシルバタールでコーティングされた特等席。
そこでコーヒーカップを傾けるゼルビンさんの膝の上で、ノノはまだ、ヨルをギュッと抱きしめたまま、スヤスヤと平和な寝息を立てていた。
外で起きた殺伐とした出来事など、欠片も気づいていない、無防備で純粋な寝顔。
「……ええ。お待たせしました」
わたしは静かにドアを閉め、自分の席へと腰を下ろした。
(この平和な寝顔を、ずっと守れるように)
そしていつか、この子が自分の足で、安全な世界を歩けるようになるために。
わたし自身も、もっともっと強くならなければならない。セシリアの見せてくれたような、圧倒的な手札を手に入れるために。
キャンピングカーが、再び重低音を響かせて山道を走り出す。
窓の外に広がる青空の向こう、まだ見ぬ保護区と、規格外の師匠アベルさんとの出会いを思い描きながら、わたしは『霊峰の守護獣』の新たなイメージを、頭の中で静かに練り始めていた。