三匹の猫   作:黒猫ヨル

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『オカルト×ト×ミンゾクガク』
第008話『キロク × ト × キオク』


1989年8月14日 雨

 

パラ、パラ……と、柔らかい布地を叩く規則的な雨音が、夕暮れ時の薄暗い空地に響いていた。

国境の山道を抜けて旅路も七日目となり、わたしたちが辿り着いたのは、どこかセピア色の匂いが漂うレトロな地方都市「パウリ市」の郊外だった。

街外れの広大な空地に停めた特注のキャンピングカーの側面に、巨大なサイドタープが張られている。

雨脚はそれほど強くないが、この広々とした屋根のおかげで、わたしたちは濡れることなく快適な屋外リビングを満喫できていた。

「はい、ノノ。お口、あーん」

「……ん」

わたしがスプーンですくった温かいコンソメスープを口元へ運ぶと、ノノは小さな唇を素直に開けて、パクリと口に含んだ。

咀嚼し、ごっくんと飲み込むと、琥珀色の瞳が満足そうに緩む。

座っているのは、シルバタールがしなやかな銀色の流線型に形作った長椅子だ。ノノの座る位置は、ゼルビンさんのすぐ隣。背中と肩がピッタリと触れ合うほど隙間なくくっついているが、一ヶ月前のあのシチューの時のように「ゼルビンさんの膝の上に乗せろ」と不満げにオーラをチリチリと荒立たせるようなことは、もうなかった。

ノノの小さな膝の上には相変わらず、漆黒の念獣ヨルが大人しく抱えられっぱなしで、ノノの小さな手に撫で回されるたびに「ふにゃ……」と気持ち良さそうに喉を鳴らしている。

寝ている時は相変わらず、強迫観念めいた強さでゼルビンさんのシャツを握りしめている。けれど、起きている間の彼女は、こうして『隣』に座れるほどに落ち着きを取り戻していた。

(あんなに威嚇して、世界を拒絶していた子が……)

わたしは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、次のスプーンをスープ皿へと伸ばした。

「おい、クガーニャ。焼き上がったぞ、冷めないうちに食え」

タープの下に設置されたキャンピングカー付属の展開式野外キッチンから、香ばしい肉の焦げる匂いと共に威勢の良い声が飛んできた。 腕まくりをした分厚い腕で、大皿に盛られた厚切り肉のグリルと温野菜をテーブルへ運んできたのは、ヴェラム先生だった。

「わぁ、美味しそう! ありがとうございます、ヴェラム先生!」

わたしはパッと目を輝かせ、先生の手元を見上げた。

「ヴェラム先生が料理するの、なんだかすごく久しぶりな気がしますね」

「まあな。最近はお前に任せっぱなしだったからな」

先生はアタッシュケースを引っ張り出してどっかりと腰掛け、愛用の丸眼鏡を押し上げながら苦笑した。

「だがまあ、そこの銀ピカ念獣だって料理するんだ。俺でも一通りは出来るさ」

「ふふ、昨日のフルコースは凄かったですものね。念獣が、見事な調理器具にまで変形するなんて思わなかったわ」

セシリアが上品にクスクスと笑いながら会話に加わった。

(あの時は「……本当に、何でもありなんだな、この念獣」って、呆れるのを通り越して感心するしかなかったっけ)

わたしは昨晩のあり得ない光景を思い出しながら、小さく切り分けたお肉をノノに差し出した。

「先生の作ってくれたお肉も、すごくジューシーで美味しいですよ! ほら、ノノも一口食べる?」

わたしが小さく切り分けたお肉を差し出すと、ノノは小さくこくりと頷き、モグモグと美味しそうに頬張る。 その穏やかな食事風景を、ゼルビンさんは相変わらずの呑気で優しいオッドアイで見守りながら、優雅に温かい紅茶を口に運んでいる。

雨の音に包まれたタープの下は、ひどく穏やかで満ち足りた時間に満ちていた。

「──で、クガーニャ。昼間の買い出しの件だが」

肉を豪快に噛みちぎっていたヴェラム先生が、ふとグラスを置いてわたしとセシリアに鋭い視線を向けた。

「あの街で聞いた噂話、気になってるんだろ?」

「え……っ、あ、はい。やっぱり、顔に出てました?」

わたしは図星を突かれ、気恥ずかしさに思わず苦笑いを浮かべた。

──今日の昼間。

食材の買い出しのために足を踏み入れたパウリ市の市街地は、わたしの探究心を強く揺さぶる、不思議な魅力を持った街だった。

「わぁ……すごい……!」

街に足を踏み入れた瞬間、わたしは思わず足を止め、感嘆の声を漏らしていた。 パウリ市は、近代的な開発の波から取り残されたかのような、レトロで独特な情緒を残す地方都市だった。

わたしは急いで専用の肩掛けカバンから愛用のフィルムカメラを取り出すと、慣れた手つきでファインダーを覗き込んだ。

レンズの向こうに広がるのは、歴史の重みを静かに物語る景観だ。 点々と残る古い様式の重厚な石造りの建物の数々。

街角の壁面に設置された、かつて街灯として使われていたのであろうアンティークなガストーチの台座。

「すごい……あの橋の装飾、最近の都市部じゃ絶対にお目にかかれない古い意匠だ」

わたしは橋の欄干から足元へとレンズを下ろした。

(石畳には、馬車が行き交っていた頃の深い轍の痕跡が残ってる。これ、絶対良い資料になる……!)

カシャ、カシャ、と夢中でシャッターを切り続けていると、セシリアが呆れたように微笑んだ。

「ふふ、クガーニャはこういう古風な街並みが本当に好きなのね。」

「あ、うん! ごめん、つい夢中になっちゃって!」

わたしは興奮気味に答えながら、再びシャッターを切った。

これは絶対、わたしのフィールドノートの良い記録になる。

「ええ、とても素敵ね。でも、まずは目的の買い出しを済ませましょうか」

「あ、うん! そうだね!」

わたしはカメラを大事にカバンに仕舞い直すと、セシリアと共に市場や商店街へと向かった。 しかし、その買い出しの最中、街の人々の間で囁かれている「おかしな噂話」が、嫌でも耳に入ってきたのだ。

立ち寄ったパン屋でバゲットを受け取ろうとした時、隣の果物屋の店主とひそひそ顔を寄せ合う声が、ふと耳に飛び込んできたのだ。

『なぁ、聞いたか? また東区の公衆電話で人が倒れたらしいぞ』

『ええ……。やっぱり例の「幽霊」の話、本当なの……?』

『しっ、声に出すな。……まるで、昔の「アレ」の再来じゃないか。気味が悪い……』

わたしはお釣りをしまう手を止め、思わずセシリアと顔を見合わせた。街のあちこちで、人々が何か見えない影に怯えるように、声を潜めていたのだった。

「──って感じで、あちこちで気味の悪い噂が立ってたんです。『深夜の公衆電話で電話を取ると倒れる』とか」

「『半透明の人影、幽霊が出る』なんて古典的な怪談も囁かれていたわね」

わたしとセシリアが買い出し中に耳にした不穏な単語を並べ立てると、ヴェラム先生はコーヒーの入ったマグカップを弄りながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「興味があるんだろ? 死亡者も出てないみたいだしな。せっかくだ、急ぐ旅でもなし、良い経験だ。お前ら二人で調べてみろよ」

「えっ!? わたしとセシリアで、ですか!?」

思いがけない先生の提案に、わたしは思わず身を乗り出した。

「まぁ、良いんじゃないですか?」

ノノの隣に座るゼルビンさんも、市街地の方角へ静かに視線をやりながら、あっさりと頷いた。

「何か微かに蠢いている様ですが、ここまで届く様な激しい害意や凶悪な気配は街から感じられませんし。若いハンターの経験としては、丁度良い課題でしょう」

「セシリアは大丈夫なの? ほら、目的の山椒魚のコーラスの件もあるし……」

わたしが心配そうに隣のセシリアを振り返ると、彼女は優雅にナプキンで口元を拭い、クスリと微笑んだ。

「気にしないで。元々、事務局とのゴタゴタでベストな時期は逃しちゃってるから。次のチャンスまでは数週間の猶予があるわ」

「それに、この古めかしい街の音には、私も少し興味があるの。貴女の調査に付き合うくらいの寄り道、何の問題もないわ」

「セシリア……! ありがとう!」

同期の力強い言葉に、わたしの胸が高鳴った。未解決の怪異、そして過去の都市伝説。ハンターとしての好奇心が、沸々と湧き上がってくるのを感じる。

「ただし、だ」

ヴェラム先生が指を一本立てて、釘を刺すように言った。

「定期的に報告に戻ってこい。……それか、連絡用にショルダーフォンを持っていけ。何台かゼルビンが用意させたのが、キャンピングカーのストレージに積んであっただろ。あのアンテナを伸ばせば、街中くらいならなんとか電波が届くだろ」

先生の言葉に、キャンピングカーに取り付けられたアンテナと、荷台に積まれていたショルダーフォンの大きく無骨な姿を思い浮かべた。

「……お気持ちはありがたいですけど、ショルダーフォンは置いていきます。だって今回の噂、『電話』が絡んでるんですよね? そんな怪談を追うのに、自分たちから強力な通信機器を持ち歩くなんて、怪異に『わたしを狙って!』って目印をぶら下げて歩くみたいで嫌です。それに、もし念が電波を媒介にするタイプだったりしたら最悪ですし。報告なら、直接ここまで走って戻りますよ」

わたしが頭を振って断ると、先生は肩をすくめながら告げるのだった。

「……なるほどな。だが、そこまで範囲を広げると念の制約としては少々弱いとも思うが。まあ、お前がそう思うなら好きにしろ。深追いはするなよ。危なくなったら手を引け。」

こうして、明日からのパウリ市における怪奇事件の調査が、正式に決定したのだった。

食後の片付けを素早く終え、夜の帳が完全に降りたタープの下。

ランタンの柔らかいオレンジ色の光に包まれながら、わたしたちは折りたたみテーブルの上にパウリ市の簡単な地図を広げていた。

ノノはすっかりお腹がいっぱいになったらしく、ゼルビンさんの膝の上に戻り、ヨルを抱きしめたまま気持ちよさそうにスゥスゥと寝息を立て始めている。ゼルビンさんはそんなノノの頭を優しく撫でながら、静かにわたしたちの会話に耳を傾けていた。

 

「クガーニャ。明日からの調査だけど、まずはライセンスを使って、市警や病院で被害者の記録を洗うのがセオリーよね。私が交渉しましょうか?」

セシリアが地図を指で撫でながら、わたしに問いかけてきた。

「うーん……被害者の今の状況を知るのも大事だけど、わたしは先に『街の図書館』に行きたいな。できれば、郷土資料や古い地方新聞の保管室に」

「図書館? 警察の現場資料ではなくて?」

「うん。街の人が言ってた『昔のアレ』って言葉が、どうしても引っかかってて。もし念が関係していて、過去の都市伝説を『念の制約』に組み込んでいるなら、警察の最新記録より、噂のルーツを辿る方が早いと思うんだ」

わたしは地図の上をトントンと指で叩いた。

「それに、土地の記憶を掘り起こすのは、わたしの本分だからね。もしもの時の判断材料は、多い方がいいでしょ?」

「そうね。現場の『現象』の解析は私、怪異のルーツをを探るのは貴女。面白いアプローチだわ」

セシリアが洗練された仕草で頷く。

「でしょ? だから明日は朝一番で手分けしよう。わたしは図書館の書庫に籠もるから、セシリアは警察か病院の伝手をお願いできる?」

「ええ、任せて。昼過ぎには情報を持ち寄って、夕食を兼ねてすり合わせをしましょう。……そして夜は?」

セシリアが試すように微笑むと、わたしは当然のように頷いた。

「もちろん、実際に被害が出てるっていう公衆電話の周辺で『張り込み』だよ。噂の幽霊さんに、直接お目にかからなきゃね」

「ふふ、最高ね。もし相手が何らかの念能力の類だとしたら、噂通りの『条件』が揃う現場を押さえるのが一番確実だもの」

 

セシリアの知的なサポートに、わたしは嬉しくなって笑った。

「倒れちゃった人たちがいるみたいだから、不謹慎かもしれないけど……なんだかすごくワクワクしてきたよ。どんな仕掛けがあるんだろうって」

わたしがそう呟くと、セシリアは目を細め、どこか誇らしげに微笑んだ。

「ふふ、謝る必要はないわ。未知のモノを前にしてその正体を解き明かしたいと思うのは、私たちが『ハンター』である以上、当然の欲求だもの」

「うん……そうだよね!」

セシリアの言葉に、わたしは深く頷いた。

「よし。明日は朝一番で手分けして、過去の記録から、怪異の輪郭を引っ張り出す」

「ええ。そして夜は、その輪郭に実態があるのか……現場で確かめましょう」

わたしとセシリアは顔を見合わせ、静かに頷き合った。

タープの外では、静かな小雨が石畳や草木を優しく叩き続けている。 キャンピングカーの温かい明かりの下で眠るノノの穏やかな寝顔を見つめながら、わたしは明日から始まる新たな未知の追跡に向けて、胸の奥で静かに、けれど熱く燃え上がる好奇心を感じていた。

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