そんな彼に声をかける少女からは、甘いにおいが漂っていた――。
香水小説の賞に応募した記憶がある小説です。
※こちらはpixivにも小説しています。
先輩からは、甘く、どこかほろ苦い香りがした。
廊下ですれ違うと胸が疼く。
長い黒髪が、するり横切っていった。
校舎の天井を見上げて息をつく。こうでもしないと、まだ先輩の姿を目で追いかけてしまいそうだ。早く諦めなくちゃいけないのに。
放課後の学校はどこもかしこも橙色で、陽の匂いと先輩の残り香がゆるく絡み合っている。
まるで三日前みたいに。先輩に想いを告げたのも、こんな夕焼けの中だった。
ぼくは逃げるように階段を下る。背中にのしかかるリュックが重い。
そして、下り終わるまであと一段というときだった。
「流石、帰宅部くんは帰りも早いね」
声のしたほうを目を向けると、クラスメイトの樋田が階段の踊り場に立っている。彼女は癖っ毛のショートをふわふわと揺らし、日に焼けた顔に笑みを浮かべていた。
何か言い返したいが言葉が出てこない。
困ったように見ていたら、首を傾げつつ樋田が階段を下りてくる。
「せっかく声かけたんだから、何か言ってほしいな。あたし、これから部活で忙しいんだから」
ほら、と背負った竹刀袋を見せられた。
しかし、それよりもぼくが気になったのは彼女から発せられる香り。
甘い、砂糖菓子のような匂い。その甘さは先程のものとよく似ていて、それでいてほろ苦さがない。
「香水つけてる?」
とっさに訊ねたら、樋田が目を丸めた。
「……わかった? けっこー前からなんだけどね」
彼女は笑うと口の両隣にえくぼができる。教室で毎日のように会っているのに、初めて気がついた。
「これから汗かくってのに臭いだけかもしんないけど。これ、良い香りだよね。神林先輩がつけてるヤツ、ずっと気になってたから、自分でも買っちゃった」
不意打ちで先輩の名前が出てきて、どきりとする。
やっぱり同じ香水らしい。それなのに、先輩と樋田では匂いが違う。
目の前の香りは、胸を締めつけたりしない。
「……よく見てるよね、先輩のこと」
樋田の笑みが陰る。息をのむと、彼女はすぐに元の表情に戻った。
「ま、だからわかったかな。先輩だと、もっと大人っぽい香りになるけど、あたしじゃ甘々になっちゃうみたい」
香水って、人によって匂いが変わっちゃうんだよね。
樋田は不自然なくらい満面の笑みで言った。
逆光で見えづらいが、彼女の笑顔は人懐っこくて触れたら溶けてしまいそうだった。
「あたしも、あんな風に大人っぽかったらいいのになぁ」
そう言うと彼女は、ぼくを押し退けるように先を急ごうとする。
「そろそろ行かなきゃ。じゃあ、また明日ね」
後ろ頭を覆う細い猫っ毛も、触り心地がよさそうだった。思わず手を伸ばそうとするのを我慢して、ぼくは訊く。
「……明日も、その香水つけてくる?」
樋田がぱっと振り向いた。今度は夕陽が照り映えて、どんな顔をしているか、よく見える。
心底びっくりしたような顔だ。
「う、うん。つけてくるよ」
上擦った声で答えてくれた樋田は、橙色にキラキラと輝いていた。ぼくはそれに微笑み、頷く。そうすると、彼女はまたすぐにそっぽを向いて去ってしまった。
小さくなる背中を見ながら、深く息を吸う。今度はほろ苦さはなく、甘い香りだけが胸いっぱいに広がった。
おわり