ソードアート・オンライン ― 仮想世界のアンティフォン 作:ありさかいずも
戸口の鐘が鳴ったとき、リズベット
「ごめん、今日はもう――」
見慣れない地味な身なりの少女。
生成りのシャツに濃色のベスト、足元まで届く長いスカート。
肩には矢筒と、鈍い銀色をした奇妙な武器を掛けていた。
客は店内を見回したあと、作業台の前まで歩いてきた。
「直せる?」
肩から下した武器が、重い音を立てて台に置かれた。
リズは手を止めた。
「これ、弓?」
「そう」
「刃がついてるんだけど」
「弓」
リズは諦めて武器を持ち上げた。
普通の弓よりも遥かに重い。
弓身は金属で作られ、外縁が刃のように薄くなっている。
もっとも、剣ほどの鋭さはなく、両端だけが槍のように尖っていた。
金属糸を撚った弦は摩耗し、片側の弓身には僅かな歪みが生じていた。
中央の金具も緩み、動かすたびに小さな音を立てた。
「ずいぶん傷んでるわね」
外縁には、細かな傷がいくつも並んでいた。
「何と戦ったら、弓にこんな傷がつくの?」
「……いろいろ?」
「いろいろじゃ分かんないでしょ。こっちは直す方なのよ」
「斧、槍……爪?」
「最後のは武器ですらないじゃない!」
リズは女の顔と弓を交互に見た。
冗談を言っているようには見えなかった。
「名前は?」
「ルカ」
「武器のほう!」
「……弓剣」
「そのまんまじゃない」
リズは弓剣を作業台に寝かせ、中央の金具に指を掛けた。
接続部を外すと、左右の弓身が僅かにずれる。
内部には太い軸と留め金が組み合わされていた。
見慣れない構造だったが、仕組みは分かった。
「留め金を替えて、歪みを直すわ。外側の傷も均して、弦は交換ね」
「どのくらい?」
「三日。下手したら、もう少し」
ルカは弓剣に手を置いた。
「預けたくない?」
「……できたら」
「でも、持って帰られたら直せないんだけど」
しばらく沈黙があった。
「じゃ、待ってる」
「……まあ、邪魔しないならいいけど」
ルカは頷くと、壁際の椅子に腰を下ろした。
*
ルカは本当に座っているだけだった。
リズが炉に火を入れ、金具を熱し、形を整える様子を黙って見ていた。
日が暮れ、リズが炉の火を落として店の戸締まりを終えても、ルカは動かなかった。
「……あんた、まだいるの?」
「待ってる」
「三日かかるって言ったでしょ」
「知ってる」
「まさか、そこで寝るつもり?」
ルカは座っている椅子を見た。
「たぶん」
「たぶんじゃない!」
リズは額に手を当てた。
「泊まるところはあるの?」
「ある」
「じゃあ帰りなさいよ」
「弓剣を預けた」
それだけ答えると、ルカは作業台の弓剣を見た。
リズも弓剣を見てから、二階に続く階段を指した。
「物置の隣が空いてるわ。ベッドはないけど、毛布くらいならあるから」
「借りる」
「決めるの早いわね……。その代わり、店のものには勝手に触らないでよ」
「分かった」
「それと、先にお風呂入ってきて」
ルカは小さく頷くと、階段に向かった。
その晩から、ルカは工房の二階に泊まり込んだ。
*
翌朝、リズが階下に下りると、炉の灰が片づけられていた。
薪も炉のそばに積まれている。
「店のものには触らないでって言ったでしょ」
「片づけただけ」
「……まあ、きれいになってるからいいけど」
ルカは床に落ちていた金属片を拾い、材質ごとに分け始めた。
「それ、こっち。素材は右の箱ね」
リズが工具を探していると、必要なものが差し出された。
「使ったことあるの?」
「……たぶん」
「どこで?」
「工房?」
「まあ、いっか」
炉の前に立たせてみると、火の扱いにも慣れていた。
金属の色を見ながら送風を弱め、温度が上がりすぎる前に止める。
鍛冶の技能を持っているわけではないらしいが、何をすれば良いのかを知っていた。
「まだ早い」
金具を取り出そうとしたリズの手を、ルカが止めた。
「もう十分熱いでしょ」
「内側まで届いてない」
「分かるの?」
「色が違う」
半信半疑で待ってみると、今度は素直に軸が抜けた。
「何者なの、あんた」
ルカは炉の火を見つめたまま答えなかった。
「……明日から、炉の準備は任せていい?」
「分かった」
*
三日目の夕方、リズは弓身の歪みを直した。
新しい軸を中央の金具に通し、留め金を嵌める。
弓身を数度動かしても、もう余計な音はしなかった。
ルカが弓剣を受け取り、両端を確かめる。
弦を軽く引くと、低い音が工房に響いた。
「どう?」
「前よりいい」
「元どおり、じゃなくて?」
ルカは中央の金具を指で撫でた。
「前より滑らかに動く」
その一言だけで、三日分の苦労が報われた気がした。
「当然でしょ。誰が直したと思ってるのよ」
胸を張ってリズが言った。
ルカは代金を払って、弓剣を肩に掛けた。
これで帰るのだろう。
そう思ったが、ルカは壁際に戻り、いつもの椅子に座った。
「もう終わったけど」
「知ってる」
「じゃあ、何してるの?」
「……休憩」
「休憩って……あんた、帰る気ないでしょ」
炉には、まだ火が残っていた。
外は暗くなり、通りを歩く者の声も少なくなっている。
リズベットは作業台の上を見た。未整理の素材と、明日仕上げる予定の短剣が残っていた。
「そこにいるなら、これ分けて。色の濃い方は左」
「分かった」
ルカは椅子から立ち上がった。
*
修理が終わっても、ルカは工房を出ていかなかった。
朝はリズより先に炉へ薪を運び、素材を分け、客が置いていった武器を棚に移す。
矢羽根が傷んでいれば、自分の矢を直すついでに他のものまで整えた。
時折、矢筒と弓剣を携えて外に出た。
日が暮れる前には戻り、何事もなかったように工房の仕事を手伝った。
報酬を求めることはなかった。
代わりに、夕食を出せば黙って食べた。
毎日の食事の際、決まってルカは右手で額から胸、右肩から左肩に十字を描いた。
「Очи всех на Тебя, Господи, с надеждою взирают, и Ты даёшь им пищу во время благоприятное; отверзаешь Ты щедрую руку Твою и насыщаешь всё живущее по благоволению」
「……今、何て?」
「お祈り」
「クリスチャンなの?」
「
「ハリスチ……、なに?」
「
ある夜、リズベットが買ってきたパンを卓に置くと、ルカは最後に残った一つを手に取った。
少し考えてから半分に割り、片方をリズベットの皿に置く。
「なに、これ」
「半分」
「見れば分かるって」
ルカは残りの半分を食べた。
その手が、途中で止まった。
「どうしたの?」
「……何でもない」
しばらく俯いていたが、また静かに食べ始めた。
「ねえ、ルカ」
ルカが顔を上げた。
「あんた、いつまでいるつもり?」
「……分からない」
リズは二階に続く階段を見た。
「まあ、いいけど。いるなら店を手伝って。あと、勝手に工具の場所を変えないで」
「分かった」
「それと――」
リズは言いかけて、やめた。
「……何」
「何でもない。先お風呂入ってきて」
ルカは小さく頷くと、階段に向かった。
その背中が見えなくなると、工房が少し広くなった。