貴婦人の仮面
重苦しいほどに分厚い絨毯が、俺の足音をすっかり呑み込んでいた。
ブルグント王国の王宮、その一角にある私室。高い天井からは豪奢な燭台が吊り下げられ、幾筋もの蜜蝋の焔がゆらゆらと揺れている。空気を満たしているのは、甘ったるい香油の匂いと燻らせた乾燥ハーブの煤けた香りだ。それは俺にとって、鼻腔を突く芳香などではなく、己を塞ぎ止める窒息の毒に等しかった。
「ご令嬢、背筋を伸ばしなさいませ。顎をあと指一本分上げ、視線は優ややかに伏せるのです」
背後から刺すような声が飛ぶ。年老いた家庭教師が、細い骨ばった指で俺の背骨をぞっとするほど冷ややかに撫で上げた。
俺は言われた通り、ゆっくりと息を吐き出しながら顎の位置をミリ単位で調整する。首筋の筋肉が引きつり微かな痛みを訴えたが、まばたき一つ変えてはならない。
鏡に映っているのは、黄金の髪を完璧に編み込み、絹とベルベットの重厚なドレスに身を包んだ、誰もが見惚れる可憐な姫君――クリームヒルト。
(……くだらない。反吐が出る)
胸の内で、冷ややかな声が毒づいた。
俺には今の令嬢になる以前、所謂前世の記憶がある。論理を好み、自由を愛し、気さくに人と酒を汲み交わすことを良しとする現代日本の男の精神。それが何の因果か、この中世の王国で、ブルグント王の妹姫という「極上の飾り人形」として生まれ変わり、その肉体に閉じ込められてしまった。
俺の内面、その本質は、かつて現代の日本で成人男性として生きていた記憶そのものだ。
幼少期、ふとした拍子に出てしまった男らしい仕草――大股で歩く、豪快に笑う、肘をついて物考える――そのすべてが、母ウーテや教師たちにとっての「悪夢」であった。彼らは俺を正すため、過酷な矯正教育を施した。歩き方、指先の添え方、息の吸い方に至るまで、徹底的に「理想の貴婦人」としての型を叩き込まれたのだ。
痛みと責め苦から逃れるために、"私"は覚えた。「演技」を。完璧な仮面を被ることを。
「そう、素晴らしゅうございます、クリームヒルト様。これこそが、全ての騎士が膝を屈する美しき姫君のお姿」
家庭教師の満足げな吐息が、耳元をかすめる。
"私"は内に渦巻く苛立ちを一切表に出さず、ただ口元に可憐で微かな笑みを浮かべてみせた。練習し尽くした、完璧な角度の微笑み。
「ありがとう、お教えくださって。私の振る舞いが王家に泥を塗ることがないよう、常に心掛けますわ」
鐘の鈴を転がすような、淑やかで澄んだ声。それが己の喉から発せられるたび、吐き気が胃の腑から込み上げてくる。内面の男としての自分が、その偽善的な声援に「いい加減にしろ」と激怒して壁を殴りつけたがっているのを、必死で抑え込む。
家庭教師が静かに部屋を辞し、重厚な木製の扉が重々しい音を立てて閉ざされた。
カチャンと鍵がかかるような音が響いた瞬間、俺はふうっと深く、長く息を吐き出した。
首を支えていた緊張を解き、肩を落とす。だが、まだ油断はできない。姿見の鏡に映る自分を見つめる。どれほど心を冷たく尖らせていても、鏡の中の少女はあまりに無垢で、儚げで、そして美しい。この美貌こそが"私"の檻であり、俺を縛りつける鎖だった。
ドレスの胸元を締め上げるコルセットが、容赦なく肋骨を押し潰している。呼吸が浅くなる。吸っても吸っても、十分な酸素が肺に届かない感覚。それは物理的な苦しさだけでなく、この「クリームヒルト」という役割に自我を塗り潰されそうになっている恐怖そのものだった。
指先を細かく震わせながら、俺は自らの腕を強く抱きしめた。絹の冷たい感触が、肌を通して伝わってくる。
(俺は……私はいったい、いつまでこの人形劇を演じ続ければいいんだ?)
心の中の一人称すら、「私」と「俺」の間で激しく揺れ動く。油断すれば「男」としての自分が顔を出し、それが露呈すれば再びあの冷ややかな教育という名の拷問が待っている。だから普段の思考すら「私」という貴婦人の言葉遣いに矯正せざるを得ない。その二重の思考回路が、脳を焼き切るほどの疲労をもたらす。
歩み寄った窓辺から外を見下ろす。
重厚な城壁の向こう、小さく見える城下町の明かりが、闇の中でぽつぽつと灯り始めていた。立ち上る煙、かすかに届く馬車の車輪の音、活気ある人々のざわめき。
あそこには、泥と汗の匂いがあり、飾らない人間の生が生き生きと脈動している。仮面を脱ぎ捨て、泥臭い一人の人間として息ができる場所。
俺はそっとドレスの裾を握りしめた。皺ができるほど強く、指の関節が白くなるほど強く。
夜が深まるのを待つ。全員が眠りにつき、この重苦しい宮殿が完全な静寂に包まれる刻を。
この息詰まる可憐な仮面を剥ぎ取り、ただの「自分」に戻るための密かな逃避の時間が、もうすぐ訪れようとしていた。
夜の帳が完全に下り、王宮全体が死んだような静寂に沈む。廊下を巡回する衛兵の規則正しい靴音が、遥か遠くで響いては遠ざかっていった。
燭台の焔をそっと吹き消す。部屋は一瞬にして濃密な闇に包まれ、月光だけが細い帯となって床に落ちた。
俺は息を殺し耳を澄ます。気配がないことを確認すると、迷わずベッドの脇を抜け、部屋の隅に置かれた重厚な衣装箪笥へと歩み寄った。鍵のかかった最下段の引き出しを密かに開き、奥深くに隠してあった「それ」を取り出す。
手触りの粗い、使い古された麻のシャツ。着古して膝の出た革のズボン。そして、あらかじめ潰してしわを寄せた粗末なブーツ。
「……ふう」
着慣れた――いや、本来の自分の魂にしっくりと馴染むその衣服を抱え、俺は素早く貴婦人の仮面を脱ぎ捨てにかかった。
背中の紐を解き、あのアホみたいにキツく締め上げられていたコルセットの結び目を緩める。メリメリと音を立てて肋骨の圧迫が解けた瞬間、肺のすみずみまで一気に空気が流れ込んできた。
「……はぁっ……くそっ、生き返る……」
思わず口から漏れたのは、淑やかな姫君の声ではなく低く掠れた男の吐息だった。
胸元を晒すと、まずはあらかじめ用意していた頑丈なサラシ(晒布)をきつく巻きつける。可憐な膨らみを押し潰し、平坦な男の胸板へと偽装していく。締め付けは苦しいが、コルセットのそれとは違った。「自由を得るための代償」としての苦痛なら、いくらでも耐えられた。
粗末な麻シャツに腕を通し、革のズボンを穿く。最後に、溢れんばかりの美しい銀髪をきつく束ね上げ、深いフードの付いた古ぼけたマントの中にすっぽりと押し込んだ。
姿見の前に立つ。月光に照らし出されたのは、美しいブルグントの姫君ではない。どこにでもいる、少し背の低い華奢な青年の影だ。
(よし……これで「俺」に戻れる)
俺は細く息を吐き出すと、身を軽くして部屋の隠し扉へと向かった。幼少期、この城の退屈さに耐えかねて探索し尽くした末に見つけた、かつて抜け道として使われていた古い給水路の跡だ。
湿った石壁の冷気と、カビと泥の匂いが鼻をつく。貴婦人なら悲鳴を上げて逃げ出すような汚臭も、今の俺にとっては自由への香水のようなものだった。
狭く暗い穴を、手膝を泥で汚しながら這うように進む。カサカサと小動物が這う音が闇の奥で聞こえたが、かまわず進んだ。膝に鋭い石片が当たり、ジンと痛みが走る。だが、その痛みすらも「自分が生きている」という実感を与えてくれた。
どれほど進んだだろうか。やがて前方から、ぬるい夜風とともに、かすかな薪の煙の匂いが漂ってきた。抜け道の出口は、城壁の外外郭、破棄された水車小屋の裏手に繋がっている。
格子状に組まれた古い木の柵を力任せに押し開き、俺は外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……ん……っ」
冷たい夜風が、湿った首筋を撫でていく。城の中の甘ったるい香油の匂いではない。馬の糞と、焼き魚の煙と、酒の匂い、そして生身の人間たちが吐き出す熱気が混ざり合った、生々しい下町の匂いだ。
頭上のフードを深くかぶり直し、目深に隠す。俺は軽やかな足取りで、暗い路地裏を抜けて城下町の街頭へと歩き出した。
遠くから、酒場の喧噪と不協和音の竪琴の音、そして男たちの粗野な怒鳴り声が聞こえてくる。
歩幅を広く取り、少しガニ股気味に、肩を揺らして歩く。歩くたびに腰のあたりに感じる軽快さ。ドレスの裾を引きずる重みもなければ、一歩ごとに視線を気にする必要もない。
今夜も、あの薄暗い酒場の扉を開ける。泥と汗に塗れた荒くれ者たちに混ざり、安酒を煽り、くだらない冗談に腹を抱えて笑うのだ。
貴婦人クリームヒルトを殺し、ただの「男」として生きる、束の間の息抜きのために。
城外へ繋がる路地裏は、月光も届かないほどに暗く狭い。石畳の隙間にはぬかるんだ泥が溜まり、歩くたびにグチャリと靴底が湿った音を立てた。
宮殿の磨き上げられた大理石の床とは程遠い、雑多で汚れた道。だが、俺にとっては一歩進むごとに脚の筋肉が解放されていくような、妙な全能感があった。
腕を大きく振り、やや膝を外側に向けて歩く。貴婦人の淑やかな歩幅ではなく、男としての粗野で重心の低い歩調。腰にまとわりつく重厚な絹のドレープはもうない。革のズボンが肌と擦れるざらついた感触が、たまらなく愛おしかった。
角を曲がると、突如として視界と鼓膜が開けた。
城下町の大通り――昼間の賑わいは息をひそめ、いまや夜の顔を見せている。立ち並ぶ木造店舗の軒先には油を浸した松明が揺れ、黒々とした煙と煤を夜空に打ち上げていた。
鼻を突くのは、香油やハーブの澄んだ匂いではない。安酒の酸っぱい臭気、薪の煙、油で揚げた肉の脂っこい匂い、そして汗と泥に塗れた男たちの熱気。それらが混ざり合い、ぬるい夜風に乗って重く漂ってくる。
「おい、そこの兄ちゃん! 今夜届いたばかりの樽から汲んだエールだ、引っかけていかねえか!」
「邪魔だ、どきな!」
呼び込みの威勢のいい声や、酔っ払いの罵声、娼婦たちの甲高い笑い声が交錯する。
俺はマントのフードを軽く引き下げ、目元を陰らせながら大通りの雑踏へと紛れ込んだ。
すれ違いざま、泥で汚れた外套を着た大柄な男の肩が、俺の肩と激しくぶつかった。
「……あ?」
男が立ち止まり、低い声でこちらを睨みつける。宮殿であれば、騎士たちが即座に剣を抜き、不敬罪で首を撥ねるような局面だ。
だが、今の俺は「姫君」ではない。
俺は足を止めず、首だけをわずかに傾けると、意図的に声を低く掠れさせて短く吐き捨てた。
「……すまねえな、兄さん。急いでるんだ」
男は一瞬、俺を品定めするように見下ろしたが、腹の底からのけぞるような大声を上げて笑い、俺の背中をバシンと叩いた。手加減のない衝撃でつんのめりそうになったが、俺は必死に踏み踏みとどまった。
「ハッ、気をつけな! ガキが歩くにはちと早い時間だぞ!」
「……ああ、肝に銘じておくよ」
背中に残る痛みに口元を歪めながら、俺は密かに興奮を感じていた。
誰も"私"を「クリームヒルト様」と呼ばない。誰も"私"に膝を折らない。ここでは誰もが対等で、誰もがただの「生身の人間」だ。
目指す酒場は大通りから一本入った、半地下のような作りの古い居酒屋だった。
使い古された木の看板には、傷だらけの麦の穂の絵が刻まれている。建物の歪んだ隙間から、漏れ出す黄色い明かりと腹に響くような喧噪、そして不調法な竪琴の音が漏れ出ていた。
すり減った石段を二つ、三つと下りる。湿った木製の重い扉に手をかけると、手のひらに油分と埃のざらりとした感触が伝わってきた。
俺は深く息を吸い込み、胸を張る。背骨を固定するためのコルセットはない。だが、俺の心には確かに「己の足で立っている」という強い軸があった。
扉を力任せに押し開く。
ギィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、一気に酒場の狂乱と熱気が俺を呑み込んだ。
トラオムをプレイした時に思い付いたネタ
叙事詩の範囲はFate的要素薄いかも
主人公の前世はただの一般人です。