夜の静寂がヴォルムス宮殿を覆い尽くしていた。が、見張り塔の最上階に位置するジークフリートの私室には、救いのない重苦しい沈黙が居座り続けていた。
窓の外から届くのは、湿った夜風が石壁を擦る音と遠くライン川の川鳴りだけである。
部屋の隅に据えられた燭台の蝋燭は半ばまで溶け落ち、揺らめく焔が壁に歪んだ影を投げかけていた。その細い光の輪の中に、ネーデルラントの王ジークフリートはぽつりと佇んでいた。
昼間の大会議室で浴びせられた怒号や、重臣たちの放つ殺気はすでに去った。だが彼の耳奥には、いまだに破滅へ向かって進軍を開始しようとする兵士たちの足音と、戦火に包まれる両国の民の悲鳴が幻聴となって響き渡っていた。
「……なぜだ」
ジークフリートは自らの大きな手を見つめた。
龍の血を浴び、いかなる刃も通さぬ不死身の肉体を得た手。魔剣バルムンクを振るい、数々の怪異を討ち払い、人々を救ってきた無敵の腕。
彼はただ、「求められるがまま」に力を貸してきたに過ぎない。
グンター王に請われればその虚栄心と命を守るために影となり、妻となったクリームヒルトが素顔を見せれば彼女の最高の親友としてその存在をまるごと肯定した。誰かの望みに応え、誰かの笑顔を引き出すことだけが、超然とした願望機としての彼の存在理由だった。
悪意など、ただの一片すら存在しなかった。
それなのに、なぜ己の差し出した手が、巡り巡ってブルグントとネーデルラントという二つの国を丸ごと呑み込む全面戦争の引き金となってしまったのか。
「俺の……俺のしたことが、無数の人間を殺そうとしている……」
ジークフリートの低く掠れた声が、石造りの壁に虚しく吸い込まれていく。
彼の脳裏に浮かぶのは、ネーデルラントの港で明るく笑う船乗りたちや、ヴォルムスの下町で懸命に生きる名もなき民たちの姿だった。彼らには何の罪もない。妃同士の面目や、王家の嘘、英雄の軽率な助け船などという愚かな理由で、泥の中で肉を削がれ骨を砕かれて死んでいい命など、ひとつとして存在するはずがなかった。
ジークフリートという男は、普段は徹底して他者に流され己の主張を持たない。誰に何を頼まれようと「すまない、空気を読めない男で」と不器用に笑いながら引き受けてしまうような、強固な自我の欠落した男だった。
だが――この男には、たったひとつだけ、誰の言葉であっても絶対に譲ることのない強烈で頑固な「己の美学」が存在していた。
それは、「弱者への不当な暴力」と「無意味な大殺戮」に対する、強烈な拒絶反応である。
「戦を起こしてはならない……。絶対に、戦にしてはならないんだ……」
ジークフリートの青い瞳から、昼間の狼狽や傷心の色が静かに消えていった。
代わりに宿り始めたのは、底なしの静寂と冷酷なまでに研ぎ澄まされた「狂気的とも言える凄絶な意思」だった。
弱者を救うためなら、己がどうなろうと構わない。自分の命への執着など、この無私の英雄には最初から欠片も存在しなかった。
(この惨劇を止める方法は……ひとつしかない)
ジークフリートはゆっくりと歩み寄り、卓の上に置かれた魔剣バルムンクの柄に手を置いた。冷たい金属の感触が、彼の指先を通して全身へと伝わっていく。
両妃の対立の元凶は誰か。
二重の嘘を持ち込み、ブリュンヒルトの誇りを打ち砕き、ブルグントとネーデルラントを血の海へ引きずり込もうとしている「不和の根源」は誰か。
グンター王でもない。ブリュンヒルトでもない。クリームヒルトでもない。
自分だ。
「求められるがまま」に力を振るい、中途半端な嘘に手を貸した自分自身こそが、この醜悪な悲劇のすべての元凶なのだ。
(俺が死ねばいい)
その結論に至った瞬間、ジークフリートの胸の奥を締め付けていた苦痛が、嘘のようにスッと消え去った。
元凶である自分がこの世から消え去り対立の真実が永久に闇の中に葬られれば、ブリュンヒルトの怒りは収まりブルグントの騎士たちの面目も保たれる。ネーデルラントへの侵略の名分も消え去り、十万の兵も、無数の民も、誰ひとりとして無駄な血を流さずに済む。
自分ひとりの命と引き換えに、すべてが丸く収まる。
これほどまでに簡潔で、合理的で、美しい解決策が他にあるだろうか。
「……そうだ。俺が死ねば、誰も傷つかずに済む……」
ジークフリートの口元に、どこまでも清らかで、悲痛なほどに穏やかな微笑みが浮かんだ。
自分の死によって万人が救われるのであれば、彼は喜んで笑顔で己の命を差し出せてしまう。それが英雄ジークフリートという存在の本質であり、同時に彼が抱える救いがたい「狂気」そのものだった。
だが、不死身の体を持つ自分を、一体誰が殺せるというのか。
並の剣術では皮膚に傷ひとつつけられず、魔剣バルムンクを退けられる者などこの世に存在しない。
ジークフリートの脳裏に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
暗い情熱と誰よりも深い情を抱き、自分を怪物と警戒しながらも、背中を託すことを許してくれた命の友。
(ハーゲン……)
ジークフリートは深く息を吸い込み、決意を込めてバルムンクを腰に帯び直した。
己の美学を貫き、無辜の民を救うための最期の大仕事。
そのあまりにも身勝手で、あまりにも残酷な「死の願い」を託すため、龍退治の英雄は、静かな足取りで部屋の扉を開け、闇に包まれた回廊へと踏み出していったのである。
ヴォルムス宮殿の地下深く。重厚な花崗岩に囲まれたハーゲンの私室は、冷たい湿気と油煙の匂いに満たされていた。
卓上の油ランプがかすかなオレンジ色の光を放ち、壁に掛けられた黒ずんだ甲冑を鈍く照らし出している。
ハーゲンは肘をつき、両手で顔を覆ったまま微動だにせず座していた。彼の深い吐息が、冷え切った室内で白く立ち上る。
両国の全面戦争、十万の兵の衝突、そして王国の崩壊。
昼間の大会議室で燃え上がった憎悪の残り火が、彼の脳裏を焦がし続けていた。親友ジークフリートが持ち込んだ二重の嘘。それを暴き立てたクリームヒルトの暴走。狂乱するブリュンヒルト。
どれほど鋭い知恵を絞ろうとも、両国の全面戦争を回避する手立ては見つからなかった。ブルグントの誇りとネーデルラントの尊厳が激突すれば、地獄の蓋が開く。
その時――カチャリと、部屋の重い木製扉が静かに開いた。
ハーゲンが覆っていた手を外し、鋭い眼光を扉へ向ける。入ってきたのは、灰色の髪を滑らかに流した男――ジークフリートだった。
足音もなく、気配すら消して滑り込んできた男の表情には、昼間の動揺や怯えは欠片も存在しなかった。窓のない地下室の暗がりの中で、彼の青い瞳だけが、透き通った氷のように冷たく、静かに澄み渡っている。
「……ジークフリート様」
ハーゲンは掠れた声で呟き、不審そうに眉をひそめた。
「こんな深夜に何の用ですかな。上の階では、貴方の処遇とネーデルラントへの対応を巡って、騎士たちが今にも剣を抜き出さんばかりだというのに」
ジークフリートは答えず、静かに足を進めた。卓の向かいにある無骨な木椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
油ランプの細い焔が、彼の美しく高潔な側顔を浮かび上がらせる。
「……ハーゲン」
ジークフリートの声は、驚くほど低く、そして優しかった。
「君にしか……頼めないことがあるんだ」
「頼み、だと……?」
ハーゲンは胡散臭そうに目を細めた。この期に及んで何を手助けしろというのか。王国の重臣として、親友として、胸の奥で渦巻く複雑な感情を押し殺しながらハーゲンは問いかけた。
ジークフリートは真っ直ぐにハーゲンの暗い瞳を見つめ返し、呆気らかんと、日常の雑談でも交わすかのような軽いトーンで言った。
「俺を、殺してほしい」
「………………………………は?」
部屋の中の時間が、完全に停止した。
ハーゲンの喉から、間抜けた吐息が漏れる。耳に届いた言葉の意味が脳に伝達されるまで、数秒の空白があった。
「な……何を……言っている……?」
「俺を殺してほしいんだ、ハーゲン」
ジークフリートは、自分の言葉を確かめるように静かに繰り返した。
「この不和の元凶は俺だ。俺が死ねば、ブリュンヒルト様の怒りは収まり、グンター王の面目も保たれる。ネーデルラントとブルグントが戦う理由も消え去り、罪のない兵や民が血を流さずに済む。……元凶である俺が消えることこそが、唯一の解決策なんだ」
その顔には、一切の迷いも死への恐怖もなかった。
ただ、「自分が死ぬことで無数の人間が助かる」という計算式を、誇らしげに提示しているだけだった。弱者を救うためなら笑顔で己の命を投げ出せてしまう、超然とした願望機の狂気。
一瞬の静寂の後――。
ドオォォォンッ!!!!
猛烈な衝撃音が地下室に轟いた。
ハーゲンが勢いよく立ち上がり、卓を拳で叩き割らんばかりに殴りつけたのだ。油ランプが大きく揺れ、激しい油煙が立ち上る。
「ふざけるなあああぁぁぁっっっっっ!!!!」
ハーゲンの顔が、怒りと凄絶な屈辱で朱に染まっていた。肉食獣のような目つきでジークフリートの胸ぐらを掴み上げ、力任せに揺さぶる。
「冗談じゃないぞ、ジークフリート! 己の命を何だと思っている!? 『死ねば丸く収まる』だと!? そんな子供の寝言のような身勝手が通ると思っているのか!!」
ハーゲンの咆哮が、石造りの狭い部屋に激しく反響する。
だが、胸ぐらを掴まれたジークフリートは、痛がりもせず、ただ悲しそうにハーゲンを見つめ返した。
「冗談ではないんだ、ハーゲン。……俺には、前しか見えない。民が泥の中で殺し合う未来を、俺は見過ごすことができないんだ」
「なら自分で生き抜いて収めてみせろ! なぜ私に……なぜ親友であるこの私に、貴様を殺せなどと抜かす!!」
ハーゲンの右拳が振り上げられた。
ガンッ! と鈍い音が響き、ジークフリートの美しい頬にハーゲンの拳が叩きつけられた。
ジークフリートの顔がわずかに横を向く。だが、不死身の肉体を持つ英雄の肌には、傷ひとつ付かなかった。ハーゲンの拳の方が打撲で赤く腫れ上がり、鈍い激痛が走る。
その絶対的な「生」の頑丈さが、いまや耐えがたい皮肉となってハーゲンを痛めつけた。
「……頼めるのは、君しかいないんだ」
ジークフリートは殴られた頬を拭いもせず、正面からハーゲンの激昂を受け止めた。
「不死身の俺を討ち取れるのは、俺の意志を理解し、背中を任せられる……命の友である君しかいない。……ハーゲン、お願いだ。俺の背中を貫いてくれ」
ジークフリートは深々と頭を下げた。
己の美学(弱者救済)を完遂するためなら、どれほど親しい相手の制止であっても絶対に折れない、不気味なまでの頑固さ。
ハーゲンは掴んでいた胸ぐらを離し、フラフラと後退りした。
(……この男は……狂っている……)
理解してしまった。
この男は、本気だ。どれほど自分が拳を振るおうと、罵倒しようと、この男の「命を捨てて平和を守る」という決意を曲げることは絶対にできない。彼が生きている限り、いつか別の方法で己の身を犠牲にし、事態を収めようとするだろう。
そして――ジークフリートの言う通り、彼が死なねば、十万の兵が泥の中で焼き殺される全面戦争は回避できないのだ。
「……最悪の……親友だよ、お前は……」
ハーゲンの口から、血を吐くような呟きが漏れた。
ジークフリートという存在の尊さに魅せられ、その背中を守ると誓った。それなのに、その背中を突いて彼を殺す役割を、他ならぬ彼自身から懇願されている。
ジークフリートが死ねば、自分は「英雄を討ち取った卑劣な暗殺者」として、永遠に地獄の悪名を背負うことになる。
親友の身勝手な「美学」のために、自分は地獄へ落ちろというのか。
「……ハッ……ハハハ……」
ハーゲンは両手で顔を覆い、乾いた失笑を漏らした。指の隙間から溢れ出るのは、激しい涙と、どうしようもない諦念だった。
「……引き受けろというのか。親友を殺し……世界中から唾を吐きかけられる悪役を……私にやれと言うのか……!」
「……すまない、ハーゲン。……本当に……すまない」
ジークフリートは深く、深く頭を下げた。
その言葉に、ハーゲンはゆっくりと顔を上げた。その瞳からは一切の涙が消え去り、ただ死人のような、漆黒の覚悟だけが宿っていた。
親友の無私なる狂気を、その美学を完遂させてやるために。
自分がすべての地獄を背負う。
「……よいだろう、ジークフリート」
ハーゲンの声は、氷のように冷たく、鉄のように硬かった。
「お前の望み通り……その命、俺が引き受けてやる」
「……ありがとう、ハーゲン」
ジークフリートは、心から救われたような、どこまでも清らかな笑顔を浮かべた。
その無垢な笑顔を見つめながら、ハーゲンは胸の中で、二度と癒えることのない猛毒の傷が深く刻まれるのを感じていた。
英雄の勝手な願いと、重臣の凄惨な忠義。
誰ひとりとして悪人がいない中で、最悪の暗殺計画が、深夜の地下室で静かに、けれど決定的に結ばれたのだった。
ヴォルムス宮殿を覆う夜霧は深く、冷気は石造りの壁を濡らしていた。
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地下室で交わされた密約から数日。王国の運命を決する暗殺計画は、静かに、けれど寸分の狂いもなく実行へと移されようとしていた。
ハーゲンは、見張り塔の影で佇み、手に握りしめた細い糸巻きを見つめていた。
その糸は、ジークフリート自身から授けられたものだった。
『俺の身体は、龍の血によっていかなる刃も通さない。……だが、たった一箇所だけ、
暗闇の中で自ら衣を脱ぎ捨て、己の背中の弱点を指で示してみせた親友の顔が、ハーゲンの脳裏に焼きついて離れない。一切の迷いもなく、まるで旅立ちの支度でもするかのように清々しく弱点を明かしたあの青い瞳。
(……どこまでも身勝手な男だ)
ハーゲンはきつく口唇を噛み締め、血の味が口中に広がるのを感じた。
この狩猟の提案も、ハーゲンがグンター王を唆して整えさせた「舞台」だった。両国の緊張を和らげるための狩猟大会という名目で、ジークフリートを城外の深い森へと連れ出し、そこで命を落とさせる。
「名もなき暗殺者、あるいは森の魔物による不幸な事故」として処理することで、ネーデルラント側の報復を封じ、ブリュンヒルトの怒りを静め、両国の全面戦争を回避する。
ジークフリートの願った「誰も血を流さない解決」を果たすための、完璧で、凄惨なシナリオ。
「……ハーゲン閣下、支度が整いました」
暗がりから現れた部下の騎士が、低く告げる。
ハーゲンは無言で首を振ると、自らの手で重い槍を取った。鍛え抜かれた鋼の穂先が、松明の焔を受けて鈍い光を放っている。
ヴォルムス郊外、オーステル川の沿岸に広がる広大な深緑の森。
朝靄が立ち込める木々の間を、馬たちの蹄の音が軽やかに響いていた。
「ハハッ! 見事な鹿だったな、ハーゲン! ヴォルムスの森は実に豊かだ!」
馬上で豪快に笑うジークフリートの姿があった。
狩猟の獲物を満載した馬車を従え、彼の顔には何の憂いもない。これから自らの命が奪われることなど、まるで他人事であるかのように、秋の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
その隣を進むハーゲンの顔は、死人のように硬く、蒼白だった。喉が焼きつくように乾いている。腰に下げた皮の水袋は、意図的に空にしてあった。
「……ジークフリート様。走ったせいで、喉が酷く渇きましたな。……川の清水で喉を潤しましょう」
「ああ、良いな! 俺も喉がカラカラだ!」
ジークフリートは爽やかに応じ、迷うことなく馬から飛び下りた。
二人は馬を木々に繋ぎ、せせらぎの音が響く川辺へと歩み寄った。
澄み切った川面に、朝の光がキラキラと反射している。川底の小石まで透き通って見えるほどの清流。
「いやあ、美味しい水だ!」
ジークフリートは膝をつき、両手を川に浸して無造作に水を汲み上げた。
無防備に丸められた背中。
豪奢な狩衣装の背骨の開口部――菩提樹の葉が覆っていたその狭い場所に、ジークフリート自身の手によってあらかじめ目印の刺繍が施されていた。
ハーゲンの手が、ゆっくりと背中の槍へと伸びる。
指先が凍りついたように震えていた。掌に滲むのは、恐ろしいほどの冷や汗。
目の前にいるのは、かつて見張り塔で背中を預け合うと誓った、世界で唯一無二の親友だ。その男の命を、その背中を、自らの手で貫かなければならない。
(命をかけて守ると誓った……! その背中を……俺が……俺の手で……!!)
ハーゲンの胸の中で、狂おしいほどの叫びが渦巻いた。
逃げ出したい、槍を投げ捨てて「やめろ」と叫びたい。だが、ここで自分が手を緩めれば、ジークフリートの命を懸けた決意は無駄になり、十万の兵が泥の中で焼き殺される全面戦争が始まるのだ。
親友の無私なる狂気を完遂させるため。
ハーゲンは歯を喰いしばり、血の涙を胸中で流しながら、右腕の筋力を限界まで跳ね上げた。
「……許せ……ジークフリート……ッ!!」
声なき呪詛とともに、ハーゲンは渾身の力を込めて槍を突き出した。
鋭利な鋼の穂先が、空気を切り裂く。
――刹那
凄惨な肉の裂ける音が、静かな森に響き渡った。
槍先は正確無比に目印の刺繍を穿ち、菩提樹の葉の痕跡――不死身の肉体に残された唯一の弱点を通って、ジークフリートの心臓を深く深く貫き通した。
「ガハッ……!?」
川面に鮮血の華が大きく咲き乱れた。
ジークフリートの体が激しく跳ね上がり、両手が川底の砂利を強く掴みしめる。口から大量の赤い血が噴き出し、透き通った川水を赤く染めていく。
「……あ……カハッ……」
ジークフリートはゆっくりと膝を折り、血の海と化した川辺へと倒れ伏した。
背中に突き立ったままの槍。そこから溢れ出る熱い血が、ハーゲンの靴底を濡らしていく。
ハーゲンは膝から崩れ落ち、震える手で血塗れの親友の肩を抱き起こした。
「ジークフリート……! ジークフリート……!!」
鉄の冷血を演じきれず、ハーゲンの口から引きつった叫びが漏れる。
ジークフリートの灰色の髪が川水に濡れ、青い瞳から光が徐々に失われていく。
だが――血を吐き出しながら、息絶えようとする英雄の顔に浮かんでいたのは、無念でも怒りでもなかった。
どこまでも救われたような、心からの穏やかな微笑みだった。
「……すま……ない……ハーゲン……」
絶命の淵で、ジークフリートの掠れた声がハーゲンの耳に届いた。
「……不器用な男で……本当に……すまない……」
それが、龍退治の英雄ジークフリートの最後の言葉だった。
その青い瞳から完全に光が消え、大きな身体から力が抜け落ちる。
無辜の民を救い、王国の平和を守るために、己の命を捧げ尽くした男の最期。
「あああああぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
静まり返る深い森の中で、ハーゲンは亡き親友の冷たくなっていく骸を抱きしめ、天を仰いで凄絶な咆哮を上げた。
自分が引き受けた、永遠の地獄。
親友を殺した「卑劣な暗殺者」という悪名。
血で汚れた自らの手を見つめながら、ハーゲンは二度と拭い去ることのできない深い罪悪感と絶望の淵へと、静かに落ちていったのである。