ヴォルムスの宮殿を包む空気は、秋の深まりとともに冷たく乾ききっていた。
俺の自室――豪奢な重厚さを誇る貴婦人の寝所には、朝から気味が悪いほどの静寂が横たわっている。
窓枠の隙間から滑り込んでくる風は、冷ややかに頬を撫で、壁に掛けられた羊毛のタペストリーを微かに震わせる。卓上に据えられた銀製の燭台からは、今朝焚かれたハーブの煙が細く一筋だけ立ち上り、天井の木目へと溶け込んでいく。
「……遅いな」
俺は鏡台の前に佇み、つや消しの銀鏡に映る自分の姿をそっと見つめた。
鏡の中にいるのは、細やかに整えられた銀髪と透き通るような白肌を持つ、誰もが見惚れる完璧な「ブルグントの姫君」。だが、そのコルセットで強く締め上げられた胸の内側では、苛立ちと焦燥に苛まれて渦巻いていた。
ジークフリートが、グンター兄上やハーゲンたちと共に狩猟へ出かけてから既に丸二日が経過している。
(……ジークフリートの奴、また大物を追いかけて夢中になっているのか?)
胸の奥で、嫌な虫がざわざわと蠢き続けていた。
数日前、あの別室でブリュンヒルトに「指輪と帯」を突きつけ、彼女が狂乱の悲鳴を上げて飛び出していったあの瞬間。あの時から、宮殿の空気は狂っていた。両国の重臣たちが鞘を払わんばかりに睨み合い、全面戦争の危機が日増しに膨らんでいく恐怖。
だが、ジークフリートは「大丈夫さ、俺がなんとかする」と、あの無邪気で不器用な笑顔を浮かべて森へ向かったのだ。
(……大丈夫なはずがないだろう、バカ野郎)
内面で呟きながら、俺は右手の指先で鏡台の端をきつく握りしめた。爪が木肌に食い込み、微かな音を立てる。
ジークフリートという男は、誰かの『頼み』を断れない「願望機」だ。弱者を救い誰も血を流させないためなら、どこまでも不器用に自分を曲げようとする。その高潔さが、そして社会の空気を読まない無垢さが、どれほど危ういものか。
しかし、今回の当事者である俺が表立って動くわけにもいかない。歯痒い時間だけが淡々と過ぎていく。
(早く帰ってこい、ジークフリート。……帰ってきたら、今夜はまたあの男装で酒場へ行こう。安酒を飲みながら、お前のそのお人好しさを散々愚痴ってやるからな……)
そう自分に言い聞かせ、呼吸を整えようとした、その時だった。
重々しい木造の扉の向こうから、荒々しく不揃いな足音が近づいてくるのが聞こえた。
ひとつやふたつではない。甲冑の金属性の擦れ合う音、焦りを含んだ複数の重い靴音。それらは廊下を疾走し、俺の部屋の前でピタリと止まった。
バンッ! と音を立てて、強引に扉が開け放たれる。
「……!? なに事ですの、不作法な――」
俺はとっさに完璧な貴婦人の仮面を張り付け、淑やかな声音で振り返った。
だが、そこに立っていた人々の姿を目にした瞬間、俺の喉から言葉が消え去った。
扉の前に集まっていたのは、青ざめた顔の侍女たちと、血の気を失った宮殿の騎士たちだった。その誰もが、俺と視線を合わせることを恐れるようにうつむき、手先を震わせている。
そして、人波を割って前に歩み出てきたのは――ハーゲンだった。
彼の甲冑には、乾いた泥と、暗赤色の濃いシミがこびりついていた。
その目つきの鋭い顔は、まるで灰で塗られたかのように蒼白で、一切の感情を削ぎ落とした鉄の仮面のようだった。だが、その奥にある瞳は、深く、深く絶望の闇に沈み込んでいる。
「……ハーゲン?」
俺は胸元に手を当て、不審そうに問いかけた。
「狩猟からのお戻りですか? ……ジークフリート様は、どちらにいらっしゃいますの?」
俺の言葉が、静寂に響く。
ハーゲンは一瞬だけ、苦痛に耐えるように瞼を強く閉じ、それからゆっくりと開いた。彼の唇が、乾いた音を立てて微かに震える。
「……クリームヒルト様」
ハーゲンの声は、低く、地底から響いてくるような不吉なかすれ声を帯びていた。
「……ジークフリート様は、お戻りになりません」
「……え?」
意味が、すぐに頭に届かなかった。
「お戻りにならない……とは、どういうことですの? 森で道に迷われたとでも……」
「……オーステル川の沿岸にて、死体となって発見されました」
ハーゲンは視線を俺から逸らさず、鉄のように冷たい声で宣言した。
「背中の……弱点である一箇所を、何者かの槍によって貫かれ、即死でございます」
――世界から、すべての音が消え去った。
風の音も、燭台の焔が爆ぜる音も、自分の心臓の跳ねる音すらも。
「……し……たい……?」
俺の口から漏れたのは、自分でも驚くほど細く、間抜けた声だった。
死体。背中の弱点。貫かれた。即死。
単語がバラバラに脳内を駆け巡り、激しいめまいが襲いかかる。視界がグニャリと歪み、銀鏡に映る部屋の景色が黄色く濁っていく。
(何を……何を言っているんだ、この男は……?)
ジークフリートが?
あの龍の血を浴び、いかなる刃も通さない無敵の英雄が?
あの、酒場でくだらない冗談を言って、俺の男装姿を爽やかに笑って受け入れてくれた、最高の相棒が?
「……嘘だ」
淑やかな貴婦人の声音ではなく、私の内面にある「男」の声が、喉の奥で悲鳴を上げた。
「嘘を……吐くな……っ!」
俺はドレスの裾を踏みつけそうになりながら、一歩前へ踏み出した。膝が激しく笑い、指先は氷のように冷たくなっている。
「ジークフリート様が……あの方が死ぬはずがないでしょう! あの男は不死身だ! 龍を倒した英雄なのだぞ! なぜ……なぜそんな嘘を……!!」
感情が溢れ出し、完璧に躾けられたはずのマナーも、仮面も、ボロボロと剥がれ落ちていく。
ハーゲンは微動だにせず、ただ直立していた。その暗い瞳の奥に、二度と拭い去ることのできない凄惨な苦痛と、地獄の罪悪感が燃え盛っているのを――絶望に狂いかけた今の俺は、知る由もなかった。
「……まもなく、ご遺体が城門へと届きます」
ハーゲンは低く告げ、深々と頭を下げた。
「……お覚悟を、クリームヒルト様」
回廊の遠くから、重々しい大鐘がゴーン、ゴーンと、死を告げる不吉な音を響かせ始めた。
俺の世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
唯一の理解者、ありのままの自分を愛してくれた「最高の相棒」を奪われた瞬間。
その崩壊した世界の瓦礫の中で、私の胸の奥に芽生えたのは、現代人としての倫理観をすべて焼き尽くすほどの、昏く凄惨な「復讐」の黒い炎だった。
クサンテンの大聖堂を取り巻く空気は、氷のように冷たく、沈黙の重みに押し潰されていた。
黒布で覆われた祭壇の最上段には、石の台座に鎮座する重厚な棺が横たわっている。その中には、龍の血を浴び、いかなる刃も通さないはずだった無敵の英雄――私の夫であり、生涯で唯一の相棒であったジークフリートが、二度と目を覚ますことのない無言の骸となって横たわっていた。
大聖堂の巨大なステンドグラスから差し込む斜光は、宙を舞う灰色の埃の粒を淡く浮かび上がらせ、石造りの床を血のように暗い紫に染め上げている。
周囲を取り囲むネーデルラントの臣下や民たちの、押し殺した啜り泣きと絶望の呻きが、パイプオルガンの重低音のように低く低く堂内に反響していた。
だが、俺の耳には、そんな悲痛な叫びなど一切届いていなかった。
(……温かい……わけがないよな)
俺は漆黒の喪服の袖の影で、棺の冷たい縁にそっと指先を滑らせた。
指先から伝わってくるのは、生前の彼が纏っていたあの陽だまりのような熱気ではなく、世界を拒絶するような命の失われた冷気だけだった。
外面は「最愛の夫を失い、悲嘆に暮れる可憐な未亡人」。
完璧に躾けられた姿勢で深々と頭を垂れ、漆黒のベールの下で静かに涙を流してみせる。手幅の揃った美しい立ち姿、微かに震える肩。誰が見ても、ブルグントの姫君クリームヒルトは悲しみのあまり今にも倒れ伏しそうな痛々しい美貌を保っていた。
だが――その完璧な「理想の貴婦人」の仮面の下で、私の内面にある「俺」という意識は、冷酷で凄惨な狂気の炎に焼き尽くされていた。
(どうして……どうしてこんなことになった……?)
ベールの奥で、俺の瞳は血走ったように昏く澄んでいた。
思考の輪郭が、激しい怒りと絶望によって灼熱の鉄のように熱く煮立っている。
前世の記憶――現代日本で生きていた頃の浅い知識。
『ニーベルンゲンの歌』という物語の、あまりにもお粗末で途切れ途切れな断片が、濁った水のように脳裏を駆け巡る。
そうだ。俺は知っていたはずだった。
ジークフリートという英雄は、背中の菩提樹の葉が張り付いていた唯一の弱点を刺され、ハーゲンという男に卑劣に暗殺されるのだと。
(俺は知っていた……。ハーゲンが……あの男がジークフリートを殺す結末を……!)
胸の奥で、爪が肉を破るほど強く拳を握りしめた。手袋越しにじんわりと熱いものが滲む。
なぜハーゲンはあいつを殺した?
答えなど、考えるまでもなかった。
あの別室で、俺がブリュンヒルトに
グンター王の虚栄心と、王家の醜聞が白日の下に晒された。ブルグントの面目は丸潰れとなり、王家の威信は地に堕ちかけた。
だからだ。
ブルグント王家に絶対の忠誠を誓うあの冷酷な暗殺者ハーゲンは、王家の保身のために、そして自分たちの不祥事の元凶であるジークフリートを消し去るために、卑劣な暗殺を企てたのだ。
英雄の圧倒的な強さへの恐れと嫉妬。王家の醜聞を闇に葬るための口封じ。
(ハッ……ハハッ……! 笑わせる……ッ!!)
内面で、男としての不快な笑いが喉を焦がした。
「王国の安寧」だの「忠義」だのと言い張りながら、結局は自分たちの保身のために我が相棒を汚い手で屠ったのだ。
あいつは……ジークフリートは、そんなくだらない陰謀に巻き込まれて殺されるような男じゃなかった。
あの夜、城下町の汚い酒場で、男装した俺の姿を見て「その姿の方がずっといい」と爽やかに笑ってくれた男。
過酷な矯正教育で「自分」を消されかけていた俺の自我を、ありのまま丸ごと肯定してくれた、世界で唯一の理解者。俺の最高の相棒。
その男が……こんな冷たい石の箱の中で、ただの肉塊になって転がっている。
(許さない……)
黒いベールの陰で、私の呼吸がすうっと静まった。
現代人としての倫理感? 人間としての良心?
そんなものは、この男の冷たくなった体に触れた瞬間に綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
俺から「ジークフリート」という光を奪った世界なんて、存在する価値すらない。
ハーゲン。グンター。ブルグント王国。
ジークフリートの命を吸い上げてのうのうと生き永らえようとする奴ら全員に、同じ地獄を味わわせてやる。
(待っていろよ、ハーゲン……。お前が王家のために守ろうとしたその『平和』も『国』も、俺がこの手ですべて焼き尽くしてやる……!)
ジークフリート自身が「民と兵を救うため」に自ら死を選び、ハーゲンに背中を預けたという真実など――
前世の浅い知識に縛られた私には、永遠に辿り着けない絶望の死角であった。
すれ違う怒り。掛け違えられたボタン。
最愛の相棒を奪われた現代男性の魂は、完璧な貴婦人の肉体を器として世界を滅ぼす凄惨な「復讐の鬼」へと静かに、確実に変貌を遂げていたのである。
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――――――――――
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國葬の儀が終わり、クサンテンの城内を静寂が満たしていた。
王妃の私室。かつてジークフリートと共に笑い合いあったあの部屋は、今や昼間であっても薄暗く死んだような静けさに沈んでいる。
俺は鏡台の前に座り、つや消しの銀鏡に映る自分を見つめていた。
鏡の中にいるのは漆黒の喪服に身を包んだ、この世の物とは思えぬほど洗練された貴婦人である。一筋の乱れもない銀髪、透き通るような白い肌、引き締まった美しい目元。幼少期に母ウーテや家庭教師たちから叩き込まれた「理想の姫君」としての完璧な形骸がそこにあった。
だが――その鏡に映る双眸の奥には、かつてあった等身大の男としての気さくさや苦悩など、欠片も残っていなかった。
爛々と揺らめいているのは、現代人としての倫理観をすべて焼き尽くした後に残った、純粋で冷酷な殺意と復讐の黒い炎である。
(……クソ喰らえだ)
内面で、野卑で冷酷な男の毒声を吐く。
「理想の貴婦人」としての完璧な所作という肉体。そして「現代日本の成人男性」としての冷徹で計算高い分析脳という精神。その二つが惨劇の熱炉の中で溶け合い、ドロリとした異様な怪物として結実していた。
コンコン、と控えめなノックの音が静寂を破った。
「……お妃様。ブルグントより、グンター王の使節団が到着いたしました。……ハーゲン閣下も、ご同行されております」
侍女の震える声。
私はゆっくりと立ち上がった。黒い絹のドレスの裾が、音もなく床を滑る。動作の端々に宿るのは、徹底的に磨き上げられた王家最高峰の気品。だが、そこから発せられる空気は、周囲の温度を数度下げるほどの威圧的で凄惨な「覇気」そのものだった。
「……通しなさい」
口から突いて出たのは鈴を転がすような、どこまでも優雅で美しく清らかな声音。
しかし、その響きには、相手の存在そのものを踏みつぶすような冷酷な質量がこもっていた。
接見の間に入ってきたハーゲンとブルグントの使節たちは、私の姿を目にした瞬間ぴたりと足を止めた。
ハーゲンの顔には、親友を自らの手で殺めた罪悪感と地獄の疲労が濃く刻まれている。彼は私と視線を合わせるまいとするかのように、僅かに眉根を寄せていた。
「……お久しぶりでございます、クリームヒルト様」
ハーゲンが深々と頭を下げ、重々しく言った。
「ジークフリート様の不運な死に対し、我がブルグント王家も深い哀悼の意を表します。……つきましては、ネーデルラントとブルグントの友情を保ち続けるため、今後の関わりについて……」
「――ふふっ」
ハーゲンの言葉を遮り、私の口から微かな微風のような淑やかな微笑みが漏れた。
その瞬間、部屋の中の騎士たちが一斉に身体を強張らせた。
私はゆっくりと大理石の階段を下り、ハーゲンへと歩み寄った。完璧な背骨の伸び、一切揺れない視線、指先の微かな描き方まで、何ひとつとして非の打ち所がない完璧な貴婦人の歩み。
だが、距離が詰まるにつれ、ハーゲンの表情が明確な警戒と恐れへと強張っていく。
彼ほどの武人が、一歩も動いていない私の「存在感」に圧され、腰の剣に手を伸ばしかけていた。
「……哀悼、でございますか。ハーゲン閣下」
私はハーゲンの眼前に立ち、少しだけ首を傾げてみせた。
真珠のような清らかな声。可憐な笑み。
「我が夫……ジークフリート様を何者かに奪われ、私の心は引き裂かれんばかりに痛んでおりますわ。……ええ、本当に。夜も眠れぬほどに」
言葉は、痛ましい未亡人のそれだった。
だが、ハーゲンを正面から見下ろす私の瞳には、一切の感情が通っていなかった。冷徹な猛禽が獲物の喉元を値踏みするような暴力的な覇気が、完璧な美貌の裏側からダダ漏れになって彼を射抜いていた。
(……この男だ)
内面の男が、冷たく嗤う。
王家の保身のため、不祥事を隠すため、そして英雄への恐怖のために、あいつの背中を貫いた男。
いまさら哀悼だと? 友情だと?
(吐き気がする。……お前が守ろうとしたその『国』も『名誉』も、"私"が形も残さず噛み砕いてやる)
「……クリームヒルト様」
ハーゲンの声が、かすかに震えていた。
彼は察知していた。目の前にいるのは、かつてヴォルムスで可憐に微笑んでいた可憐な姫君ではない。ジークフリートという唯一の重しを失い、完全に狂い咲いた冷酷で底知れない怪物なのだと。
「ブルグントは、貴女の幸福のためにあらゆる支援を惜しみません。……ですが、どうか……これ以上の不和を望まれますな」
ハーゲンの言葉は、暗に「復讐のために動くな」という牽制だった。
私はうつむき、手袋をはめた指先で目元をそっと拭う仕草をしてみせた。
「不和など、とんでもございませんわ。私はただ……夫の遺した愛を、この手で慈しみたいだけでございます」
私は顔を上げた。
ベールの下で浮かべた微笑みは、洗練され尽くした気品に満ち溢れ、そして恐ろしいほどに美しく、醜かった。
「近いうち、ブルグントへ里帰りをさせていただきますわ。兄上や、あなた方にお会いするのが……今からとても、楽しみでございますの」
洗練された貴婦人の美貌と口調。
その奥で渦巻く、世界すべてを焼き尽くす男の復讐心。
ハーゲンは何も言えず、ただ冷や汗を流しながら完璧に頭を下げる私の姿を、深淵を覗き込むような恐怖の瞳で見つめ返すことしかできなかった。
噛み合わないギアは破綻し、ついに最悪の歯車が回り始めた。
ありのままの自分を愛してくれた相棒を奪われた「俺」は貴婦人の仮面を二度と脱ぐことなく、この世界を地獄へ変えるための歩みを静かに踏み出したのである。