扉を開けた瞬間、熱気と暴力的なほどの熱情が一気に顔を張るように押し寄せてきた。
酒と汗の匂気、肉が焦げる脂の臭気、そして長年染みついた古い煙草と木床の黴臭さ。宮殿の冷ややかなハーブの香りとは真逆の、荒々しくも泥臭い「生の匂い」が俺の鼻腔を激しく刺す。
「おい親父! エールを追加だ! 今度は薄めるんじゃねえぞ!」
「やかましい! 飲んで潰れるなら表のドブ川で寝てやがれ!」
木製の丸テーブルが所狭ましと並べられた店内で、荒くれ者たちが拳を突き合わせ、溢れんばかりに注がれた木のジョッキを激しくぶつけ合っていた。泡立つ黄金色の液体が飛び散り、ガタつく床に黒いシミを作る。隅っこでは、弦の切れかけた竪琴を抱えた吟遊詩人が、誰にも聴かれていない淫らな俗謡を掠れた声で歌っていた。
(これだ……この汚くて、うるさくて、最高の場所だ)
俺はフードを目深にかぶり直しながら、肩を竦めて店内へと足を踏み入れた。
宮殿の絨毯とは違う、油と泥で固められた硬い木床の踏み心地。一歩踏みしめるごとに、膝から全身へとしっくりと伝わる揺らぎ。ここでは誰一人として、俺の顔を見ようとすらしない。ただの「客の一人」、ただの「酒を飲む男」としてしか扱われない快感が、背筋を心地よく駆け抜けていく。
空いていた壁際の小さな丸テーブルに歩み寄り、粗末な丸椅子を足で引いてどっかりと腰を下ろした。膝を大きく広げ、肘をガタつくテーブルの上につく。
淑やかさなど微塵もない、無骨で下品な座り方。だが、それこそが俺の魂を急速に解きほぐしていった。
「おう、兄ちゃん。一人かい?」
ドスドスと重い足音を立ててやってきたのは、丸太のような腕をした丸顔の店主だ。泥汚れのついたエプロンで手を拭きながら、ギラついた目で俺を見下ろしてくる。
「ああ。喉がカラカラなんだ。一番強い酒を、なみなみ頼む」
俺は喉の奥を鳴らすように、意図的に低くかすれさせた声を放った。
「威勢がいいねぇ! 落ちこぼれの騎士サマか、駆け出しのならず者か知らんが……へっ、すぐに持ってきてやるよ!」
店主はニヒヒと不敵に笑うと、汚れた布を肩にかけ直し奥の巨大な酒樽へと戻っていった。
俺はテーブルの上に頬杖をつき、店内をゆっくりと見渡した。
隣のテーブルでは、鎧を部分的に脱ぎ捨てた兵士らしき男たちが、ダイスを転がして金を奪い合っている。その向こうでは、大きな肉塊を骨ごと噛みちぎる巨漢の男が、豪快に口の端から肉汁を垂らしていた。
(見てくれよ、母上。あなたの自慢の娘は今、こんな場所で下衆どもと肩を並べているぞ)
心の中で冷ややかに、けれど最高の解放感を込めて呟く。
完璧な貴婦人クリームヒルト。
全ての騎士が羨望の眼差しを向ける、ブルグントの至宝。
そんな虚飾の皮を剥ぎ取ったここにいるのは、ただの「俺」だ。自分の足で立ち、自分の言葉で話し、己の意思で酒を飲む一人の人間だ。
間もなくガタリと重い音を立てて、波々と注がれた安酒のジョッキがテーブルに叩きつけられた。泡が溢れ、俺の指先を濡らす。
「へい、お待ち! 潰れるなよ、兄ちゃん!」
「……はっ、誰に向かって言っている」
俺はフッと口元を歪めると、粗末な木のジョッキを力任せに掴み上げた。
ずっしりとした重み。冷たい木肌の感触。
俺は頭を後ろに反らし、一気にその安酒を喉奥へと流し込んだ。
ガツンと鼻に抜ける粗悪なアルコールの酸味と、焼きつくような熱さが喉から胃袋へと落ちていく。激しい刺激に一瞬咽びそうになったが、それを強引に飲み込み、ハァッと荒い息を吐き出した。
「……ふう、美味い」
手に残った酒の滴をシャツの袖口で雑に拭う。
胸の奥のモヤモヤが、アルコールとともに一気に熱となって溶けていくようだった。ここからが、俺の本当の一日が始まるのだ。
「おいおい、そんな勢いで煽ったら一息に潰れちまうぞ、兄ちゃん!」
隣のテーブルから、赤ら顔の兵士が不躾な笑い声を飛ばしてきた。腕には使い込まれた革の護腕が巻きつき、すり減った剣の鞘が足元でコトコトと揺れている。
「……放っておいてくれ。喉が渇いてただけだ」
俺は意図的に低い声で返し、ジョッキの縁を手で弄びながら椅子の背もたれに体を深く預けた。膝を大きく開き、つま先で床を軽く叩く。この下品でぞんざいな身体動作のすべてが、俺にとっては自由の味だった。
「つれねえ言い方すんなよ。ほら、そこのダイス勝負に加わらんか? 金がないなら、その上等なマントでも賭けてみろ」
兵士たちが下品にニヤニヤと笑い合い、ガサツな動作でダイス筒をシャカシャカと振り始める。
(粗末に見えるように汚したマントだが、縫い目の細かさで見破られたか。目ざとい野郎どもだ)
俺は内心で舌を打ちつつも、不思議と悪い気はしていなかった。彼らは俺を「守られるべき可憐な姫君」としては扱わない。奪い取り、騙し、対等に奪い合う「男」として見ている。その脅威すらも、今の俺には心地よかった。
「断るよ。今夜は静かに酔いたい気分なんだ」
「けっ、気取りやがって!」
兵士は鼻を鳴らすと、すぐに興味を失ったように身を翻し、再び仲間の壺札に夢中になり始めた。
一人になった俺は、再びジョッキを口に運んだ。酸っぱく、どこか麦の殻の生臭さが残る安酒。だが、喉を通るたびに、胸の奥で固まっていた硬い結び目が解けていくのがわかる。
(王宮の連中に見せてやりたいよ。あんな、息もできないような刺繍の部屋や、うわべだけの礼儀作法が何だっていうんだ)
そっと胸元の衣服の上から、きつく巻きつけたサラシの感触を確かめる。
仮面を被り、声を作り、指先まで「完璧な貴婦人」を演じ続ける毎日。少しでも男らしい仕草を見せれば、母ウーテや教官たちの冷ややかな視線と、過酷な「矯正教育」が待っていた。あいつらは俺の「中身」なんてどうでもよかったのだ。ブルグント王家の価値を高めるための、美しく可憐な飾り人形さえ手に入れば。
だからこそ、この薄暗く汚い酒場だけが、俺の真実(ホーム)だった。
「……おい、酒のおかわりだ」
空になった木のジョッキを、ガタリと粗暴な音を立ててテーブルに置く。店主が嫌そうな顔をしながらも、新しい樽から並々と濁った酒を注ぎ足してくれた。
安酒の黄金色の泡を見つめながら、俺はふっと口元を緩めた。
(ここでは、俺は誰の所有物でもない。ただの、一人の男だ)
泡立つ酒を煽りながら、俺はこの束の間の自由を、骨の髄まで噛みしめるように深く、深く飲み干していった。
二杯目のジョッキを干し終える頃には胃の腑の底からじんわりと熱が広がり、手足の先端まで心地よい痺れが漂い始めていた。
アルコールが脳の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。いつもなら頭の片隅で常に警鐘を鳴らしている「貴婦人としての警戒心」が、薄紙を剥ぐように薄れていくのが分かった。
俺は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井の煤けた
この粗野で無秩序な狂乱の中に身を置いているだけで、昼間の自分を縛りつけていた重密なドレスの重量感が、跡形もなく吹き飛んでいくようだった。
「はいよ、三杯目だ。兄ちゃん、顔は綺麗だが案外いい呑みっぷりじゃねえか」
店主がドスンと大きな音を立てて、三杯目のジョッキを置いていった。表面に浮かぶ泡の粒がプチプチと弾け、独特の酸っぱい香りを撒き散らす。
「……感謝する」
俺は短く答え、粗末な木製のジョッキを指先で弄んだ。指の節々には、昼間の刺繍針でついた小さな傷跡や、締め付けられたドレスの摩擦痕がまだかすかに残っている。だが、その痛いですら今の俺には遠い出来事のように思えた。
(完璧な貴婦人、クリームヒルト……か)
心の中でその名を反芻するたび、可笑しさと吐き気が交互に込み上げてくる。
ブルグントの国民も、兄たちの騎士たちも、皆あの「美しく淑やかで完璧な姫君」を崇め奉っている。だが、あいつらが愛しているのは「クリームヒルト」という概念であって、今こうして安酒を煽り、泥臭い街の空気に救われている「俺」という人間ではないのだ。
「ぐっと飲んで、全部忘れちまえばいい……」
呟きは、酒場を包む怒号と竪琴の不協和音の中に綺麗に掻き消された。
俺はジョッキを持ち上げ、再び一気に煽った。喉を突く熱い衝撃が、体内の「貴婦人の仮面」を跡形もなく焼き尽くしていく。
酔いが回るにつれ、俺の意識はゆっくりと、けれど確実に、宮殿の重苦しい日常から切り離され、この泥と熱気と自由の渦へと没入していった。
三杯、四杯と重ねるにつれ、安酒の熱が頭の真ん中までじわじわと侵食していく。
頭の芯がぼんやりと痺れ、身体が重く床へと沈み込んでいく感覚。胸を縛るサラシの圧迫感すら遠のき、俺はただ、粗悪なアルコールがもたらす浮遊感に身を任せていた。
その時だった。店内の猥雑な狂乱を切り裂くように、少し離れた中央の大きな長テーブルから、怒鳴り声に近い大きな声が響いた。
「――だから言ったろ! ネーデルラントの若き王子様だよ! あの恐ろしい龍をたった一騎で叩き斬り、その返り血を浴びて『不死身の体』を手に入れたって噂の……!」
「ハッ、また尾ひれはひれのついた吟遊詩人の法螺話かよ! 人間が龍の血を浴びて不死身になるわけねえだろ!」
「本当なんだっての! それだけじゃねえ、かの有名なニーベルンゲン族の膨大な財宝と、一振りで国を滅ぼすって魔剣バルムンクまで手に入れたんだとよ!」
ジークフリート。
その名が直接出たわけではない。だが、酒の混じった空気の中で放たれた「龍退治」「ネーデルラントの王子」「バルムンク」という単語の羅列が、俺の麻痺しかけていた思考の端を不意にチクリと刺した。
(龍退治の英雄……ジークフリートか……)
ジョッキを握る右手の指先に、ほんのわずかに力がこもる。
前世の記憶――現代日本で生きていた頃に読んだ、あのおとぎ話や伝承の記憶が、濁った酒の泡のように頭の底から浮かび上がってきた。
『ニーベルンゲンの歌』
確か、そういう題名の物語だったはずだ。ネーデルラントの無敵の英雄ジークフリートが、ブルグントの王妹クリームヒルトに求婚し、華々しく結婚する。だが、やがて夫は暗殺され、残された妻は凄惨な復讐の鬼と化してすべてを破滅に導く……という、救いのない悲劇。
(くだらない……)
俺は鼻から重い息を吐き出し、ジョッキに残った数滴の酒を揺らした。
第一、今聞いた話が事実なら、ジークフリートなんて男は雲の上の存在。ネーデルラントの無敵の英雄と、ブルグントの深窓の令嬢。どれほど宮殿の連中が政略結婚の夢を膨らませようと、所詮は酒場の酒の肴に過ぎない遠い世界の夢物語だ。
「おいおい、もし本当なら、その王子様がこのブルグントにもやって来るかもしれねえぞ! 我が王国の『至宝』、クリームヒルト様に求婚するためにさ!」
「ガハハ! そいつは傑作だ! 無敵の龍退治と、国一番の美しい姫君か! まさに絵に描いたようなおとぎ話じゃねえか!」
男たちの下品な大笑いが重厚な木造の天井に反響する。
(絵に描いたような、おとぎ話……ね)
俺はフードの陰で、自嘲気味に口元を歪めた。
もしあいつらが知ったら、どんな顔をするだろう。いま噂しているその「至宝の姫君」本人が、粗末な男装をして、汚れたテーブルに肘をつき、自分たちのすぐ隣で安酒をあおっているなどと知ったら。
「……結婚、か」
掠れた低い声で、ぽつりと呟く。
胸の奥に、冷ややかな違和感が広がった。精神は成人男性であるこの俺に、どこかの貴族と結婚しろというのか。男同士で睦み合い、可憐な妻として夫に仕えろと?
考えただけで反吐が出る。俺にとって結婚とは、この「クリームヒルト」という貴婦人の仮面を永久に剥がせなくなることを意味していた。仮面をかぶり続けたまま、見知らぬ男の所有物として生きる未来。
「冗談じゃない……」
俺はジョッキをテーブルに叩きつけた。ガタン、と重い木音が響き、隣の男が一瞬こちらを振り返ったが、俺が深くフードを被り直して背中を向けたのを見ると、興味を失って再び龍退治の話に戻っていった。
龍を殺した無敵の英雄。
完璧な美しさを誇る姫君。
世間が望むその手垢のついた配役の中に、俺の居場所などどこにもない。
(お前がどれほどの英雄だろうと知ったことか。俺をその『おとぎ話』に巻き込むなよ……)
胸の中でそう吐き捨てると、俺は店主に向かって粗暴に手を挙げ、四杯目の酒を要求した。遠くで繰り広げられる英雄の噂話を、冷え切った酒と一緒に一気に腹の奥底へと流し込むために。