酒場からの帰り道。湿った抜け道を通り、再び「クリームヒルト」という冷たく完璧な貴婦人の仮面を装着した。サラシを解き、甘ったるい香油を肌に塗り込み、重厚なドレスのコルセットで息が止まるほど胸を締め上げる。
そして翌朝。
朝靄(あさもや)が宮殿の細長い尖塔を包み込む刻、俺の私室はにわかに騒がしくなっていた。
「クリームヒルト様、お目覚めになられましたか! ネーデルラントより、あのお方が……龍退治の英雄ジークフリート様が、我がヴォルムスの宮殿にお着きになりましたのよ!」
侍女たちが甲高い声を上げ、歓喜に震える手で俺の髪を梳かし、白銀の刺繍が施された最も豪奢なドレスを滑り込ませていく。
(……チッ、本当に来やがったのか)
頭の奥に残る昨夜の安酒の微かな頭痛を抑え込みながら、俺は鏡の中の自分を見つめた。そこにいるのは、男装して酒場の床を踏み鳴らしていた「俺」ではない。肌は透き通るように白く、唇は薔薇色に彩られ、誰もが見惚れる完璧な「ブルグントの至宝」だ。
「まあ、なんてお美しい……! ジークフリート様も、一目ご覧になれば必ずや心を奪われましょう」
侍女たちの呑気な賞賛を流し、"私"は練習し尽くした「完璧な貴婦人の微笑み」を口元に作った。
「皆、朝から大騒ぎですこと。お客様に対して失礼のないよう、慎みをお持ちなさい」
鈴を転がすような淑やかな声。喉の奥で、自分に対する激しい吐き気が渦巻く。
大広間へと続く回廊は、朝から独特の緊張感と熱気に包まれていた。我が兄であるグンター王をはじめ、重臣のハーゲンや騎士たちが整列し、遠方からの偉大な客人を出迎えている。
重厚な両開きの扉が開かれ、俺はしずしずと歩みを進めた。歩幅は小さく、指先はドレスの裾に優美に添え、視線は伏せ気味に。完璧な所作だ。
広間の中央に立ち尽くしていた男――ジークフリートが、ゆっくりとこちらを振り返った。
眩しいほどの灰色長髪、太陽の光を浴びて青く輝く瞳。そして、龍の血を浴びたというにふさわしい、隙のない堂々とした体躯。一振りで国を滅ぼすと謳われる名剣バルムンクを腰に下げたその姿は、まさに絵本から飛び出してきた「完璧な英雄」そのものだった。
広場に集まった貴族や淑女たちから、溜息のような歓声が漏れる。
「……初めまして、ブルグントの妹姫、クリームヒルト様。お会いできて光栄だ」
ジークフリートが歩み寄り、片膝をついて俺の手を取った。その手に触れた瞬間、俺は肌が粟立つような強烈な違和感を覚えた。
彼の指先は、戦いと鍛錬で硬くタコができており、そして……信じられないほど熱かった。龍の血の奇跡ゆえか、生命力の塊のような熱量が、俺の冷え切った絹の手袋越しに伝わってくる。
(男に手を握られている……)
内面が成人男性である俺にとって、男から送られるその情熱的な視線とスキンシップは、寒気を覚えるほどの異物感だった。男同士で求婚され、男同士で愛を語り合わされているような、強烈な倒錯感と居心地の悪さ。
「お噂は伺っております、ジークフリート様。遠路はるばる我が国へお越しくださったこと、心より歓迎いたしますわ」
"私"は作りものの笑みを崩さず、そっと、けれど確実に自分の手を彼の熱い手から引き抜いた。
ジークフリートは一瞬、きょとんとしたように目を丸くした。俺の拒絶とも取れる素っ気ない仕草に、ほんの少し困惑したような陰が彼の整った顔をかすめた。
それからの日々は、俺にとって地獄のような苦痛の連続だった。
ジークフリートは「求められれば応える英雄」として、兄グンター王の頼みを次々と引き受け、我が国のために眩しいばかりの功績を打ち立てていった。そしてその報賞として、俺との結婚がトントン拍子で進められていったのだ。
宮殿の庭園で、二人きりで歩く時間が作られた。
「……素晴らしい庭園ですね、姫」
「ええ、庭師たちが手塩にかけて育てておりますから」
会話が途切れる。
ジークフリートは決して不遜な男ではなかった。むしろ恐ろしいほどの武功に似合わず、驚くほど口数が少なく、不器用な男だった。彼は俺に何を話せばいいのか分からない様子で、時折チラチラと俺に視線を送っては、気まずそうに口を噤む。
彼の手が、俺の手袋をした手に触れようと伸びてくる。俺はそれに気づかないフリをして、優雅に扇子を広げ、わずかに歩幅を早めて距離を置いた。
ジークフリートの伸びかけた手が、宙で寂しげに止まる。
(すまないな、英雄様。だが、お前のその熱い視線も、男としての情熱も、俺にはただただ重くて気味が悪いんだよ)
彼が"私"に注ぐ愛慕の視線は、全て「可憐で美しき姫君クリームヒルト」に向けられたものだ。もし彼が、このドレスの下に隠された男の自我と、夜な夜な下町の酒場で安酒を煽っている泥臭い素顔を知ったら、どれほど幻滅するだろう。
「……クリームヒルト様。私は、不器用な男で……言葉でうまく伝えることができません。ですが、あなたを心から……」
ジークフリートが意を決したように足を止め、真剣な眼差しで俺を見つめて囁いた。
言葉の途中で、彼の不器用な情熱が伝わってくる。それが余計に、俺の胸を冷たく冷やしていった。
「お戯れを、ジークフリート様。私のような者には、もったいないお言葉ですわ」
"私"は薄く笑い、そそくさと視線を外した。徹底的にドライで、一線を画した余人を取り付かせない態度。
彼の顔にかすかな傷つきと、どうしていいか分からない困惑の色が浮かぶ。
無敵の龍退治。万人が憧れる完璧な英雄。
だが、その彼と向き合う俺の胸にあったのは、解けることのない孤独と、男同士で夫婦を演じなければならないという、暗く冷たい諦念だけだった。
婚礼の日取りが刻一刻と近づくにつれ、宮殿内の狂乱じみた華やかさとは裏腹に、俺の心は冷たい石壁のように冷え切っていった。
昼間は「最高の英雄に嫁ぐ、世界一幸せな姫君」を完璧に演じ切らねばならない。
「ご覧になって、クリームヒルト様。このヴェールに施された真珠の刺繍……ジークフリート様がネーデルラントからお取り寄せになった特別な品ですのよ」
侍女が感嘆の声を上げながら、広げられた白銀の衣装を俺の体に当てがう。
俺は静かに微笑み、首をわずかに傾けてみせた。
「ええ、本当に素晴らしいわ。ジークフリート様の細やかなお心遣いには、感謝の言葉もございません」
鈴の鳴るような声。完璧な角度の首傾げ。侍女たちは「まあ、なんと奥ゆかしくお美しい」と胸を熱くして溜息を漏らす。
(……ゲロが出そうだ)
内面で冷ややかな毒を吐き捨てる。
指先ひとつ、視線ひとつに至るまで叩き込まれた貴婦人の型。それがいまや、自分という男の魂を絞め殺す歪な金網となっていた。
そして何より苦痛なのは、ジークフリートという存在そのものだった。
彼と廊下ですれ違うたび、あるいは夕食の席で隣り合うたび、彼は不器用極まりない様子で俺に視線を送ってくる。龍の血を浴びたという男の体からは、まるで熱い炉のそばに立っているかのような、濃密な生命の熱気が漂っていた。
彼の手が、俺の絹の手袋に触れる。
「……クリームヒルト様。気分の優れないお顔をされているが……何か、私にできることはあるだろうか」
低い、けれどどこか自信なさげに掠れた声。
無敵の英雄が、一人の女の顔色を窺ってオドオドしているのだ。世の淑女であれば、その落差に胸をときめかせるのかもしれない。
だが、俺の内面は成人男性だ。
自分より頭一つ分背が高く、一撃で巨岩をも砕くような男から、濡れた仔犬のような情熱的な眼差しを向けられる。そのたびに背筋にぞっとするような寒気が走り、胃の腑が雑巾のように絞られる感覚に襲われた。
(男に好意を寄せられ、男として抱かれる……冗談じゃない。俺は……私は、一体何のために生きているんだ?)
俺はすっと視線を伏せ、彼の厚く熱い手からごく自然を装って自分の手を滑り落とした。
「いいえ、ジークフリート様。ただ、長引く儀式の準備で少しばかり疲れておりますの。お気遣いなさらないでくださいませ」
「……そうか。ならば、無理をなさらずゆっくり休んでほしい」
彼の手が宙で虚しく彷徨い、拳を握りしめて静かに落ちる。
その背中に漂う孤独と困惑の気配に気づかないわけではない。彼はただ、彼なりに真摯に妻となる俺を愛そうとしてくれているのだ。彼に悪気がないことなど、痛いほど分かっていた。
分かっているからこそ、この噛み合わない歯車が俺の心をゴリゴリと削り取っていく。
(お前が愛しているのは、この『クリームヒルト』という可憐な人形だ。このドレスの下にある、泥臭く酒をあおる男の魂なんぞ、お前は知る由もないし知れば間違いなく吐き気を催すだろうよ)
夜、私室の扉が閉ざされ鍵がかかる音を聞くと同時に、俺は床に倒れ込むように膝をついた。
豪奢なドレスの裾が床に広がり、重厚なコルセットが容赦なく胸を締め上げる。息が浅い。吸っても吸っても、酸素が喉の奥で止まって肺まで届かない。
指先を震わせながら、俺は胸元を強く掴んだ。
あいつとの結婚が完了すれば、俺はネーデルラント妃として彼の城へと赴き、永久に「妻」としての役割を強要されることになる。もう二夜と、あの城下町の酒場へ逃げ出すことすらできなくなるのだ。
「……くそっ……」
口から漏れたのは、可憐な姫君の声ではなく、掠れた男の怨嗟だった。
俺は膝を抱え、冷たい石床に額を押し当てた。暗闇の中、虚飾の姫君として死んでいく自分と、男としての自我が引き裂かれる激痛に、ただひとり絶望の息を吐き出し続けた。
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やがて、婚礼の儀が執り行われた。
大聖堂のパイプオルガンの重厚な響き、頭上から降り注ぐ色彩豊かなステンドグラスの光、そして敷き詰められた薔薇の芳香。参列した貴族たちの惜しみない拍手と祝福の嵐の中で、"私"は完璧な歩幅と優雅さで祭壇へと歩みを進めた。
指輪の交換、神父の誓いの言葉。
「汝、ジークフリートを夫とし、生涯愛し、支えることを誓うか」
「……はい。神の御前にて、固くお誓い申し上げますわ」
真珠を転がすような淑やかな声で答えた瞬間、
その夜。ネーデルラント妃となった俺に与えられた豪奢な寝所は、息が詰まるほどの静寂に包まれていた。
部屋の壁際に置かれた太い蝋燭が、ゆらゆらと不安定な影を壁に投げかけている。空気中に漂うのは、重苦しいほど濃密な香油とハーブの匂い。
俺はベッドの縁に腰掛け、細く息を吐き出した。
着慣れぬ重厚な寝衣の袖口を強く握りしめる。指先がしびれるほど冷たい。ついに、来てしまったのだ。仮面を被り続けた報いが、この「初夜」という避けようのない現実となって俺を押し潰しにかかってくる。
カチャリ、と重い鉄の鍵が回る音が静寂を破った。
重厚な扉が開き、姿を現したのはジークフリートだった。彼は普段の鎧を脱ぎ捨て、上質な着込み姿をしていたが、その肩幅と胸板の厚みは隠しようもなかった。龍の血を浴びた男の、圧倒的な「肉体」という暴力的なまでの存在感。
「……クリームヒルト」
彼が"私"の名を呼んだ。低い、どこかすり減ったような、自信なさげな声。
ジークフリートはゆっくりと部屋の奥へ歩み寄り、俺の少し手前で立ち止まった。彼から発せられる熱気が、ぬるい空気の波となって俺の肌を叩く。
内面が男である俺にとって、その距離感は耐えがたいものだった。男同士で肌を重ねるという生理的な拒絶感、そして何より、この男に「女」として抱かれることへの強烈な屈辱が、胃の腑から一気にせり上がってくる。
俺は反射的に身を竦め、膝の上で握りしめた手にぎゅっと力を込めた。
ジークフリートは俺の呼吸の乱れと、身を強張らせた小さな身体動作を見逃さなかった。彼は一瞬、宙で手を止めた。伸ばしかけたその大きな手が、俺の頬の数センチ手前で痛々しく固まる。
「……すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ」
彼がそっと手を引き、困惑と傷つきの交じった眼差しで俺を見下ろした。その瞳は、あまりにも澄んでいて、まっすぐだった。
「気分が優れないなら、今夜は……無理をしなくていい。俺は、お前が嫌がることをしたくはない」
(……嘘をつけ)
俺は心の中で冷ややかに毒づいた。
求められれば誰の願いでも叶えるという、世間から絶賛される「無敵の英雄」。だがその高潔さは、今の俺にとってはただの「理解し合えなさ」の象徴でしかなかった。彼は目の前にいる「クリームヒルト」という可憐な仮面を気遣っているだけで、その奥で死にそうになりながら叫んでいる「俺」の存在など、欠片も気づいていないのだから。
「お気遣い……感謝いたしますわ、ジークフリート様」
俺は視線を伏せたまま、決して彼と目を合わせようとはせず、冷ややかな声で答えた。
「ですが、私はあなたの『妻』でございます。あなたが望まれるのであれば……私は、従うまでです」
「……クリームヒルト」
完璧な貴婦人としての、冷酷なまでの受容。それは「心まではお前になど渡さない」という、最大の拒絶でもあった。
ジークフリートの青い瞳に、切ない影が落ちる。彼は俺の心を開こうと何か言葉を探すように唇を動かした。何かを伝えたい、この分厚い氷のような隔たりを壊したい――そんな焦燥が彼の肩の揺れや呼吸の浅さに表れていた。
だが、根が口下手で言葉を選ぶのが苦手な彼は、結局何も言えなかった。
「……今日は、長旅で疲れているのだろう。ゆっくり休みやすむといい」
彼は小さく、掠れた声でそう吐き捨てると、俺に背を向けた。そしてベッドには横たわらず、部屋の隅にある堅い木製の椅子に腰を下ろし、肘をついて目を閉じた。
夜の静寂が再び部屋を支配する。
俺は一人、広いベッドの中で冷たいシーツを抱きしめ、暗闇を見つめていた。
ジークフリートの荒い息遣いと、その体から発せられる余剰な熱気だけが、部屋の空気を重く湿らせている。
(完璧な英雄と、完璧な姫君……か)
前世の知識にあった「二人の悲劇」の歯車はもう回り始めていた。けれどそれは、運命なんて大層な代物じゃない。ただの「男としての自我を隠す私」と「言葉足らずで不器用な英雄」という、あまりにも噛み合わない二人の悲しいすれ違いに過ぎないのだ。
背中を向けたジークフリートの影を見つめながら、俺は自分の胸元をきつく絞めつけるように抱きしめた。
息が苦しい。宮殿のどこにいても、夫の隣にいても、俺の自我を救ってくれる空気はどこにも存在しなかった。