結婚から数ヶ月が経つ。
ネーデルラントへ嫁いでからも、胸の奥を刺すような息苦しさは一向に消え去ることはなかった。
むしろ「ネーデルラント妃」という新たな称号が加わったことで、俺を締め上げる見えない紐は、以前にも増して強固に、そして容赦なく食い込んでくる。
昼間の俺は、完璧だった。
「まあ、クリームヒルト様。本日のお召し物も大変お似合いでございますわ」
「ありがとう。ジークフリート様が選んでくださった色なのですの。とても気に入っておりますわ」
淑やかに微笑み、鈴を転がすような声で応える。指先の角度、背筋の伸ばし方、一切の隙もない「至宝の姫君」。
だが、その完璧な演技の裏で、内面の男としての自我はボロボロに擦り切れ悲鳴を上げていた。
ジークフリートとのぎこちない夫婦生活。彼は相変わらず不器用で、俺に対して極めて紳士的に、けれどどこか遠慮がちに接してくる。彼が優しさを見せれば見せるほど、冷たい嘘をつき続けている自分の醜さが際立ち、吐き気が胃の腑から込み上げてきた。
(……限界だ。息が、吸えない……)
その夜、宮殿が深い静寂に包まれた丑の刻。俺は耐えきれず、暗闇の中で動き出した。
ジークフリートは別の部屋で休んでいる。今夜を逃せば、俺の精神は本当に焼き切れてしまうかもしれない。
鍵を掛けた自室の闇の中、俺は身を震わせながら、重厚なドレスの紐を解いた。
メリメリと音を立てて解けるコルセット。締め付けられていた肋骨が解放され、浅かった呼吸が途端に深く、荒くなる。
「……はぁっ……くそっ……!」
押し殺した低い男の声が、己の喉から漏れた。
慣れた手つきでサラシを胸にきつく巻きつけ、女性的な起伏を完全に押し潰す。手触りの粗い麻のシャツに腕を通し、履き古した革ズボンに足を滑り込ませた。ズボンの布地が皮膚を擦るざらざらとした感触。それだけで、死にかけていた「己」の魂に、じわじわと血が通い始めていくのが分かった。
銀髪をきつく後ろで束ね、大きなフードの付いた古ぼけたマントを頭から被る。姿見の鏡に映るのは、可憐な姫君などではない。どこにでもいる、少し身軽な若い男の影だ。
(……帰ろう。俺のいるべき場所へ)
俺は冷え切った隠し通路へと滑り込んだ。
湿った石壁、泥とカビの臭気。膝を突き、手を汚しながら狭い穴を這い進む。ドレスを汚さぬよう怯えていた昼間の自分を嘲笑うように、汚れなど気にせずガツガツと前へ進んだ。膝に痛みが走る。だが、その痛みこそが「自分が生きている」という何よりの証拠だった。
水車小屋の裏手から外の空気へ飛び出すと、ぬるい夜風が湿った首筋を撫でた。
香水やハーブの澄んだ匂いではない。馬の糞、焼き魚の煙、安酒の酸っぱい臭気、そして生身の男たちの汗の匂い。
「……ふう……」
俺は深く息を吸い込み、肩を軽く揺らしながら、ガニ股気味に大股で歩き出した。
首をすくめる必要もなければ、優雅に手を添える必要もない。腰にまとわりつく重い絹の裾もない。己の足で、己の重みを踏みしめて歩く感覚。
下町の灯りが近づくにつれ、俺の足取りは自然と軽くなっていった。目指すのは城下町にある薄暗い酒場だ。
すり減った石段を下り、油と埃で黒ずんだ重い木造の扉に手をかける。
錆びついた蝶番がギィと悲鳴を上げ、店内から暴力的な熱気と喧噪、安酒の匂いと不協和音の竪琴の音が、一気に俺を呑み込んだ。
「へい、いらっしゃい! 空いてる席へ行きな!」
店主のダミ声が飛ぶ。誰も俺を「クリームヒルト様」とは呼ばない。誰も俺に跪かない。
俺はフードを深く被り直すと、荒くれ者たちの間を縫うように歩き、壁際のいつもの丸テーブルへと向かった。
ガタつく木製の椅子に、行儀悪くどっかりと腰を下ろす。膝を大きく開き、肘をテーブルにつく。
「おい親父! 一番強い酒を、なみなみと頼む!」
喉の奥を鳴らし、掠れた男の声で怒鳴る。
「はいよ! 勢いがいいねえ、兄ちゃん!」
運ばれてきた粗末な木のジョッキを掴み、俺は頭を後ろに反らして一気に煽った。
ガツンと鼻に抜ける粗悪なアルコールの熱さと酸味が、喉を焼きながら胃袋へと落ちていく。
「……くぅっ……生き返る……!」
手の甲で口元を雑に拭い、俺はふっと口元を歪めた。
ここには息苦しい仮面も、噛み合わない夫への罪悪感もない。あるのはただ、安酒と、泥臭い自由だけだ。
俺は二杯目のジョッキを要求し、この泥沼のような解放感へと深く深く沈み込んでいった。まさかこの後、あの「無敵の英雄」とここで鉢合わせることになるとは、この時の俺は露ほども知らずに。
そうして、三杯目のジョッキに手を伸ばした時だった。
「—――おいおい。そんな勢いで煽っていると、流石に明日の朝に響くぞ、青年」
背後から、不意にかけられた声。
どこか朗らかで、けれど腹の底に響くような澄んだ低音。酒場の猥雑な狂乱とはあまりに不釣り合いなその声に、俺の背筋が冷たく凍りついた。
(この声……まさか……)
手にしていた木のジョッキが、指先で微かに震える。
ゆっくりと首だけを巡らせ、フードの陰から声の主を盗み見た。
そこに立っていたのは、粗末な旅人の外套を羽織った一人の男だった。だが、どれほど地味な布切れで身を包もうと、その圧倒的な存在感を隠し通せるはずもなかった。頭を覆うフードの隙間から覗く、月光を閉じ込めたような眩い灰色長髪。暗がりでも鮮やかに光を放つ、青い瞳。
ジークフリート。
"私"の夫であり、ネーデルラントの王、そして龍退治の無敵の英雄。
(なんで……なんで『あいつ』がこんな場所にいる……!?)
心臓が早鐘のように跳ね上がった。胃の腑がギュッと締め上げられ、一瞬で酒の酔いが吹き飛ぶ。
変装して街を視察していたのか、あるいは単なる気まぐれか。だが理由はどうあれ、今の俺は「男装して城下町の汚い酒場に忍び込み、粗野な男の振る舞いで安酒を煽っている」最中だ。
もし正体が露呈すればどうなる?
ブルグント王家の面目は丸潰れになり、母ウーテや教官たちのあの冷酷な矯正教育が再び始まる。何より、ジークフリート自身が「自分の妻がこんな淫らで汚らわしい真似をしていた」と知れば、呆れ、怒り、俺を軽蔑するに違いない。
喉の奥がカラカラに乾き、息が上手く吸えなくなる。
俺は深くフードを引き下げ、顔を完全に影の中に隠すと、意図的に声を一段と低く掠れさせて吐き捨てた。
「……お節介だ、兄さん。俺がどう飲もうと俺の勝手だろ。あっちへ行ってくれ」
指先が細かく震えるのを隠すため、机の下で強く拳を握りしめた。荒い息がマントの布地を揺らす。
だが、ジークフリートは去ろうとしなかった。
それどころか、彼はフッと口元に爽やかな笑みを浮かべると、俺の向かいにある空いた丸椅子を引き、どっかりと腰を下ろしてしまったのだ。
「すまない、邪な意図はないんだ。ただ、君があまりにも切なそうな顔をして酒を飲んでいたものだからね。……それに、その声」
「っ……!」
ジークフリートがゆっくりと手を伸ばしてくる。
その指先は戦いと鍛錬で硬くタコができており、龍の血の奇跡ゆえか、生命力に満ちた熱気を孕んでいた。俺は弾かれたように身を引こうとしたが、ガタつく椅子が床を鳴らしただけで、避けることはできなかった。
ジークフリートの大きな手が、俺のマントのフードの縁を優しく掴む。
そして、引き下げた。
「……やはり、君だったか。クリームヒルト」
燭台のゆらめく黄金色の焔が、俺の顔を赤裸々に照らし出す。
粗末な麻シャツの襟元、サラシで押し潰された平坦な胸、そして恐怖と絶望で蒼白になった俺の顔。
静寂が、俺たちの周囲だけを切り取ったかのように包み込んだ。周囲の荒くれ者たちの怒号や不協和音の竪琴の音すら、遠い世界の出来事のように遠のいていく。
(終わった……)
俺は歯を食いしばり、固く目を閉じた。
言い訳などできるはずもない。貴婦人としての面目を失い、夫に軽蔑され、嘲笑われ、汚物でも見るような目で睨まれるのだ。覚悟を決め、全身の筋肉を硬直させて、訪れるであろう激しい怒声と咎めの言葉を待った。
だが。
数秒が過ぎても、冷たい怒声は降ってこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、耳を疑うような音だった。
「――く……ふっ……ハハハハハハ!」
低く、けれど腹の底から響くような、屈託のない笑い声。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
ジークフリートが、お腹を押さえて心底楽しそうに笑っていたのだ。あの宮殿で見せる不器用で固い表情でもなく、戦場で見せる無敵の英雄の顔でもない。少年のような、あまりにも爽やかで無邪気な笑顔。
「じ、ジークフリート様……? なぜ、笑うのです……?」
思わず、貴婦人の声と男の声が混ざり合った妙な擦れ声で問いかけてしまった。
ジークフリートは笑いを噛み殺すように小さく咳払いをすると、青い瞳を真っ直ぐに俺の目へと向けた。その瞳には、軽蔑も、怒りも、呆れも一切存在しなかった。
あるのはただ、純粋な感嘆と、暖かな親しみだけだ。
「すまない、笑うつもりはなかったんだ。ただ……驚いたのと、同時に合点がいったんだよ」
彼が身を乗り出し、机の上に肘をついた。粗末な木のテーブル越しに、彼の熱い息遣いが伝わってくる。
「宮殿での君は、いつも冷たい仮面を被っているようだった。美しく、完璧で、だがどこか遠くで息を殺しているような……俺には、どう接すればいいのか分からなかった。だが、いまの君を見て理解したよ」
ジークフリートは俺の男装姿――粗末なシャツと革ズボン、束ねられた髪をじっと見つめ、口元を緩めた。
「そちらの姿の方が、ずっと生き生きとしていて……実に良い顔をしている」
「……え……?」
思考が完全に停止した。
良質で完璧なドレスを着ている時でもなく、王家の姫として跪かれている時でもなく。泥と汗に塗れ、安酒をあおるこの粗野な男姿を、この男は「良い顔だ」と笑ったのだ。
「君が夜な夜な街へ繰り出し、こうして一人で酒を飲む理由までは分からない。だが、誰にも縛られず、己の意思でそこに立っている君は……どんな美しいドレスを纏った時よりも、ずっと輝いて見える」
ジークフリートの言葉が、私の胸の奥深く、固く凍りついていた壁を激しく突き穿った。
「俺が愛した……いや、俺が添い遂げると決めた妻が、こんなにも力強く魅力的な人間だったとはな」
言葉足らずで口下手なはずの男が、まっすぐな瞳で俺を見つめ、屈託のない笑みを浮かべている。
(この男は……何を言っているんだ……?)
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
幼少期から「男らしい」と咎められ続け、過酷な矯正教育によって殺されかけた俺の自我。誰も見てくれなかった「泥臭い俺」という存在を、この無敵の英雄は何の手触りの不快感もなく、あっけらかんと受け入れてみせたのだ。
「……後悔はしていないか? 完璧な貴婦人だと思っていた妻が、こんな下衆な酒場で安酒を飲むような『男』だったと知って」
俺はかすれた声で探るように問いかけた。
ジークフリートはきょとんとした後、力強く首を振った。
「後悔? まさか! むしろ、嬉しいくらいだ。宮殿の退屈な噂話よりも、君とここで飲む安酒の方がずっと魅力的じゃないか」
彼はそう言うと、店主に向かって朗らかに手を挙げた。
「おい、親父! この青年の連れだ! 俺にも一番強い酒を、なみなみ頼む!」
「はいよ! 今日は威勢のいいのが揃ってやがるな!」
運ばれてきた二つの木のジョッキ。ジークフリートは自分のジョッキを掴むと、俺の前に置かれた安酒に向かって、カツンと景気よくぶつけてみせた。
「ようこそ、自由な夜へ。……クリームヒルト」
跳ね飛ぶ安酒の泡。
俺は呆然と自分の手元を見つめ、それから向かいで爽やかに酒を煽る「英雄」の顔を見つめた。
胸を締め付けていた見えないコルセットが、音を立てて完全に崩壊していく。
息ができる。
吸い込んだ空気が、肺のすみずみまで熱く満ち渡っていく。
(……ハッ、バカな男だ)
俺はフードを完全に脱ぎ捨てると、乱れた銀髪をガシャガシャと手で弄び、口元を大きく歪めて笑った。淑やかな貴婦人の笑みではない。男としての、不敵で、けれどどこか晴れやかな笑みだ。
「……言っておくが、ジークフリート。俺の酒の強さに付き合おうなんて思うなよ。後悔することになるぞ」
「はは、望むところだ! 龍を倒した俺に、酒で勝てるかな?」
二人して、安酒を一気に煽る。
鼻を突く粗悪なアルコールの熱さと、喉を焼く刺激。だが今の俺にとって、その酒は人生で最も甘く、澄み渡った味がした。
夫婦としてではなく。
姫と英雄としてではなく。
ただの「男同士の親友」として、泥臭い下町の酒場で杯を交わす二人。
前世の悲劇の記憶も、二重生活の抑圧も、すべてがこの熱い酒の泡の中に溶けていくようだった。俺はジョッキをテーブルに叩きつけると、最高の相棒を得た歓喜とともに、豪快に笑い声を上げたのだった。