ブルグント王国の王宮を囲む外壁は、湿った
石造りの回廊に響くのは、鉄の甲冑が擦れ合う無骨な摩擦音と、重厚な軍靴の足音だ。
ハーゲンは、雨で湿った石の
ジークフリート。
ネーデルラントから突如として現れた、あの龍退治の英雄である。
ハーゲンの右手が、無意識のうちに腰の剣の柄へと伸びる。冷たい革の柄巻きの感触が指先に伝わる。彼の呼吸は浅く、胸の奥で燻る強い警戒心が、喉をヒリヒリと焼きつかせていた。
(龍を叩き殺し、不死身の体を得た男……さらには魔剣バルムンクとニーベルンゲンの宝を従えた、化物め)
ハーゲンの頭脳は冷徹な算盤を弾いていた。王国の重臣として、このブルグントを守る立場にある男にとって、ジークフリートという存在はあまりにも規格外であり、あまりにも危険だった。一国を容易に滅ぼし得る圧倒的な武力が、事前触れもなくヴォルムスへと足を踏み入れたのだ。
もし奴が我が国を丸ごと呑み込もうとする侵略者であるなら、あるいは己の武に任せて主君グンター王を脅かそうとする不遜な野心家であるなら、何としてでもその首を跳ねねばならない。たとえそれが、不死身の怪物を相手にする絶望的な戦いであろうとも。
「……ハーゲン閣下、すでに迎えの準備は整っております」
背後で控える部下の騎士が、緊張に声を震わせながら報告する。ハーゲンは振り返りもせず、ただ低く、肉食獣のような唸り声を返した。
「ああ。……絶対に隙を見せるな。あの男が爪を立てた瞬間、俺たちは総力で討ち取る」
大広間へ向かう階段を下りるハーゲンの背中には、死地へ赴く者の凄惨な気が満ちていた。
大広間を包んでいたのは、静寂という名の薄氷だった。
王座に座るグンター王の顔色は青ざめ、両脇を固めるブルグントの騎士たちは息を殺し、腰の剣に手をかけたまま硬直している。広場の中央に立つジークフリートの存在感が、部屋全体の空気をあまりにも重く、密度濃く圧迫していたからだ。
ハーゲンはグンター王の斜め後ろに陣取り、鋭い視線でジークフリートの全身を穴が開くほど検分した。
鍛え上げられた巨躯、堂々たる肩幅、そして腰に下げられた禍々しいまでの威光を放つバルムンク。隙がない。立ち姿ひとつ取っても、あらゆる死角が存在しない無敵の威容。
(いつでも来い、ネーデルラントの若造。我が主君に不敬を働いた瞬間が、お前の命日だ)
ハーゲンは柄を握る指にさらに力を込め、間合いを詰める機会を窺った。掌にじんわりと冷や汗が滲む。目の前の男が動けば、一瞬で広間は血の海と化すだろう。
しかし――
「初めまして、ブルグントのグンター王。そして高潔なる騎士の皆様」
静寂を打ち破ったジークフリートの声は、ハーゲンの想定していたどのような言葉とも異なっていた。
それは威圧でもなく、不遜な通告でもない。澄み切った青空のように朗らかで、隠し事の欠片もない、どこまでも純粋な響きを持っていた。
ジークフリートはゆっくりと歩み寄ると、なんと自ら腰の魔剣バルムンクを鞘ごと外し、重々しい音を立てて床に置いたのだ。そして、無防備に両手を広げてみせた。
「私は戦いに来たのではない。貴国との良き友情と、礼節を結びに参ったのだ。もし私の存在が皆に恐怖を与えているのなら、誠に申し訳ない」
ジークフリートは不器用そうに頭を下げ、照れくさそうに頭を掻いた。
その顔には、一切の打算も、野心も、他者を踏みにじる王の傲慢さもなかった。あるのはただ、呆れるほどに真っ直ぐで、求められれば誰の手でも握り返そうとする、無私の高潔さだけだった。
広間に満ちていた殺気が、潮が引くように霧散していく。
ハーゲンは目を見開き、灰髪の英雄を凝視した。
(な……んだ、この男は……?)
拍子抜けというレベルではない。世界をひっくり返すほどの武力を持ちながら、その内面には「己のための欲望」というものが欠片も存在しないのだ。他者からの願いに応えるためだけに力を振るい、怪異を倒し、国を救ってきた「超然とした願望機」――それが、ジークフリートという男の本質だった。
ジークフリートが、ふとハーゲンの方へと視線を向けた。
「君がハーゲン伯爵だな。外壁の上から、私の動きを片時も逃さず監視していた」
「……ッ」
気づかれていた。ハーゲンは一瞬身構えたが、ジークフリートは腹を立てるどころか、感銘を受けたように青い瞳を輝かせた。
「見事な警戒だ。王を守る者として、君以上に頼もしい忠臣はいないだろう。私は、君のような真に忠義ある男と出会えて嬉しい」
そう言うと、ジークフリートは無防備に大股で歩み寄り、ハーゲンに向かって右手を差し出した。
龍を殺した不死身の右腕。戦いと鍛錬でタコが固くなり、熱い生命力に満ちあふれた大きな手。
ハーゲンは自分の握りしめていた右手の力を抜き、しばらくその手と、ジークフリートの屈託のない笑顔を交互に見つめた。
(王国を脅かす怪物だと……? 冗談じゃない)
ハーゲンは不器用に舌を打ち、剣から完全に手を離すと、差し出された熱い手を強く握り返した。
「……不躾な無礼をお許しくだされ、ジークフリート様。このハーゲン、己の愚かな疑ぐり深さを恥じ入るばかりです」
「気にしないでくれ、ハーゲン。君は自分の役目を果たしただけだ」
握り合わされた二人の手のひらから、力強い圧力が伝わってくる。
あまりにも眩しく、あまりにも無私で、それゆえにどこか危うさを抱えた英雄。 そして、誰よりも義理堅く、人間の泥臭い情熱と情を抱えた高潔な重臣。
王国を巡る暗雲の中で、二人の「最高の親友」となる男たちの出会いは、激しい雨の降るヴォルムスの宮殿で、こうして静かに、けれど固く果たされたのだった。
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ヴォルムス宮殿の北端に聳(そび)える見張り塔は、深夜の漆黒の闇の中に静かに沈み込んでいた。
石壁の隙間から吹き込む夜風は荒々しく冷ややかで、壁に据えられた松明の焔を低く揺らしている。パチ、パチと爆ぜる木薪の音と、下界のライン川が奏でる重厚な水鳴りだけが、この
ハーゲンは、油煙で黒ずんだ卓の上に羊皮紙の報告書を広げ、油ランプの細い光を頼りに羽根ペンを走らせていた。
執務の合間、彼の手がふと止まる。
ペン先から滴り落ちた黒いインクが、羊皮紙の上に小さなシミを作った。ハーゲンはそれを拭いもせず、ただ暗い瞳を微かに細め、幾重にも重なる石造りの壁の向こう……あの激しい雨の日にジークフリートと初めて言葉を交わした、大広間の情景を回想していた。
(あの時、俺は本気で奴の首を撥ねるつもりだった……)
龍を討ち、不死身の肉体を得て、魔剣バルムンクを携えて現れた男。我がブルグントを一夜で
だが、あの男はどうしたか。
ジークフリートは自ら魔剣を床に置き、何の手策もなく両手を広げて無邪気な子供のように微笑んだのだ。「君のような頼もしい騎士と出会えて嬉しい」などと、刺客の殺気を真正面から受け止めながら欠片の計算もなく言い放った。
(あんなバカは見たことがない。己の命を何だと思っているのか……)
ハーゲンは自嘲気味に鼻から息を吐き出し、深く椅子の背もたれに体重を預けた。
自分は、王国の安寧を守るためなら手を血で汚すことも厭わない泥臭い人間だ。だからこそ、あまりにも清廉で、あまりにも無私なあの灰髪の英雄にどうしようもなく惹かれ、そして深い敬意を抱いてしまったのだと、今なら分かる。
「……ふむ。人の部屋で難しそうな顔をして、何を考えているんだい? ハーゲン」
不意に、塔の重い鉄扉の隙間から爽やかな声が滑り込んできた。
ハーゲンが視線を上げると、そこには豪奢な外套を肩にかけ、両手に大きな陶器の酒壺と二つの角杯を抱えたジークフリートが立っていた。灰色長髪が松明の光を反射してキラキラと輝き、青い瞳には柔らかな悪戯っぽさが宿っている。
「……ジークフリート様。こんな深夜に、見張り塔へ何のご用ですかな」
ハーゲンは羽ペンを置き、無骨な動作で立ち上がった。
「固い呼び方はよしてくれと言っているだろう、ハーゲン。執務で忙しい君を労おうと思ってね。上等なネーデルラントの熟成酒が手に入ったんだ。……二人で飲もう」
ジークフリートは返事も待たずに大股で室内へ踏み込むと、散らかった羊皮紙を端に寄せ、ドスンと重い音を立てて酒壺を卓の上に置いた。
「ハッ……見張り中の重臣を酔わせるおつもりか。まったく、相変わらず空気を読まないお方だ」
口では呆れ果てたように吐き捨てながらも、ハーゲンは卓の端にあった木椅子を引き寄せ、ジークフリートの向かいに腰を下ろした。
ジークフリートは嬉しそうに目元を緩めると、手際よく二つの角杯になみなみと琥珀色の酒を注ぎ入れた。部屋いっぱいに、甘く濃密な果実酒の香りが広がる。
「はい、君の分だ」
「……いただきます」
カツンと角杯同士がぶつかり、乾いた音が石壁に反響した。
ふたりして一気にその液体を喉へと流し込む。芳醇な香りと力強いアルコールの熱線が、寒気に晒されていた食道を通って胃の腑へと落ちていった。
「……美味いな」
ハーゲンが小さく漏らすと、ジークフリートは満足そうに胸を張った。
「だろ? 母国から取り寄せた自慢の品なんだ。……最近の君は、いつも険しい顔で軍政の書類とにらめっこをしているだろう? 俺にできる手助けがあれば何でも言ってほしいのに、君は何も頼んでくれない」
ジークフリートは角杯を弄びながら、ほんの少し寂しげに口元をすぼめた。他者から頼まれることこそが己の存在理由であると言わんばかりの、その「願望機」としての性質が、言葉の端々に滲み出ている。
「王国の政は、武力だけで解決できるほど甘くはありませんよ」
ハーゲンは溜息を混じえて返し、角杯の縁を手で擦った。
「それに……私まで貴方に甘えてしまっては、グンター様や王国の者たちが示しにつきません。……ところで、ジークフリート。貴方の方こそ、最近は随分と晴れやかな顔をされているではありませんか」
「えっ? 俺か?」
ジークフリートはきょとんとして、自分の頬を触った。
「ええ。妹姫……クリームヒルト様とのご婚礼の当初は、失礼ながら、どこかお互いに固い壁のようなものを感じておりました。だが、ここ最近のお二人は……何と言いますか、妙な一体感というか、心から打ち解けておられるように見えます」
ハーゲンの観察眼は正しかった。大広間や庭園で並び立つ二人の間に漂う空気は、以前の凍りつくような緊張感から、互いを深く信頼し合っている者のあたたかな気配へと変化していた。
ジークフリートの青い瞳が、一層あたたかな光を帯びて細められた。
「……分かるかい、ハーゲン。ああ、本当にその通りなんだ」
彼は角杯を置き、両手を組んで楽しそうに語り始めた。
「以前の彼女は、完璧で、美しく……だが、どこか遠くで苦しそうに呼吸を止めているように見えていた。俺のような言葉足らずの男では、彼女の心に触れることすらできないのだと諦めかけていたんだ」
「……ですが、違ったと?」
「ああ!」
ジークフリートは身を乗り出し、少年のように目を輝かせた。
「彼女は……クリームヒルトは、本当はとても力強く、己の足でしっかりと立つ、素晴らしい人間だったんだ。飾らない素顔を見せてくれた時、彼女は実に晴れやかで、いい顔をして笑うんだよ。……俺にはもったいないほどの、最高の相手だ」
心の底から溢れ出るような、妻への誇りと深い愛慕。
ハーゲンはその言葉を静かに受け止めながら、不器用な笑みを口元に浮かべた。
(あの強情で完璧主義なクリームヒルト様を、ここまで骨抜きにするとはな……)
「結構なことです。……王妹殿下が幸せであられるなら、我ら臣下にとってもこれ以上の喜びはありません」
ハーゲンは二杯目の酒を角杯に注ぎ、ジークフリートに向かって掲げた。
「ですがね、ジークフリート。貴方は相変わらず甘い。人を疑うことを知らず、求められれば誰にでも背中を見せてしまう。龍の血を浴びて不死身になろうと、そのお人好しな性格こそが、貴方の最大の弱点だ」
半ば呆れたような、けれど深い身内への情愛がこもった指摘。
ジークフリートはハハハと朗らかに笑い、己の大きな背中をポンと手で叩いた。
「大丈夫さ、ハーゲン。前しか見えない俺の背中は……君に預けているのだから」
誇り高く、一切の疑念もない言葉。
その言葉が着地した瞬間、見張り塔を抜ける夜風が一瞬だけ止まり、部屋の燭台の焔がまっすぐに伸びた。
ハーゲンは角杯を握る手にぐっと力を込めた。指の節々が白くなるほどに。
この無敵の英雄は、自分の生命すら他者のためにあっさりと投げ出しかねない狂気的な高潔さを持っている。だからこそ、自分が誰よりも鋭い刃となって、この男の影に寄り添い、仇なす者すべてを打ち払わねばならないのだ。
ハーゲンはゆっくりと立ち上がり、角杯を卓の上に置くと、己の胸に右拳を強く当てた。
「……誓いましょう、ジークフリート様」
その声は低く、けれど鉄のように硬く、石壁の深くまで染み込んでいくようだった。
「我が命がある限り、貴方の背中に刃を向けさせるような真似は、絶対にさせません。たとえこの身が地獄に落ちようとも、私が貴方の背後を守り抜きつづけます」
ジークフリートもまた立ち上がり、力強い手でハーゲンの右腕をガシッと掴んだ。
「頼みにしているよ、親友」
二人の男の視線が、暗がりの中で深く、熱く交錯する。
背中を預け合える、唯一無二の存在。
この固く切っても切れない誓いが、やがて来る残酷な運命の中で、あまりにも悲壮で惨烈な破滅の引き金になろうとは、見張り塔の夜風に包まれた二人には、知る由もなかったのである。