あれから半年の月日が流れた。
季節は巡り、ヴォルムスの街をそよぐ風には、秋の澄んだ冷たさと落葉の香ばしい匂いが混ざり始めている。
大広間に隣接する長廊下の影で、俺は重厚な絹のドレスの裾をそっと撫で下ろし、深々と溜息を吐き出した。
(……相変わらず、胃が痛くなるような空間だ)
内面で呟きつつ、表面には完璧な「ブルグントの至宝」としての淑やかな微笑みを貼り付ける。
ここ最近の俺の生活は、目に見えて穏やかだった。
昼間は完璧な貴婦人として宮殿の公務をこなし、夜になればサラシを胸に巻きつけ、男装して下町の酒場へ繰り出す。そこには、俺の「素顔」をあっけらかんと受け入れ、男同士の親友として一緒に安酒を煽ってくれるジークフリートがいた。
彼という最高の相棒を得たことで、かつて俺を死ぬほど苦しめていた「仮面劇」の苦痛は、二人だけの密やかな悪戯のような感覚へと変わっていたのだ。
だが、平穏な日々に突如として波風を立てたのは、我が兄であるグンター王の「願望」だった。
「――北方のアイスランドを統べる女王、ブリュンヒルトを我が妃として迎えたい」
グンター王が言い出したその望みは、宮殿の重臣たちを愕然とさせた。
ブリュンヒルト女王。圧倒的な武力と超人的な神通力を持ち、求婚者に対して凄惨な武芸の試練を課し、敗れた者を容赦なく殺戮してきたという恐ろしい怪物のような女性だ。
無能で実力が伴わない兄グンターに、そんな恐ろしい女王を力で屈服させられるはずがない。案の定、渡航の準備を進める兄の顔は、日に日に恐怖と焦燥で蒼白になっていった。
そして……兄が泣きついたのが、あの男だった。
「……頼む、ジークフリート! お前の力が必要なのだ! ブリュンヒルトを得られなければ、私は王としての威厳を失い、死ぬしかないのだ!」
重々しい扉の隙間から、グンター王の情けない懇願の声が漏れ聞こえてくる。
私室の応接間。薄暗い室内に漂うのは、焚かれた高級な香木の上品な煙と、グンター王が撒き散らす嫌な汗の臭気だ。
私は回廊の柱の影に身を潜め、呼吸を殺して部屋の中の様子を伺っていた。
絨毯の上に膝をつき、必死の形相でジークフリートの衣服の裾にすがりついているのは、このブルグント王国の頂点に立つグンター王その人だった。王としての誇りも矜持もなく、ただ己の欲望と恐怖のために、年下の英雄に泣きついている。
(ハッ……情けない兄上だ。自分の力で手に入れられない女なら、最初から諦めればいいものを)
俺は内面で冷ややかに吐き捨てた。
だが、俺の視線が向かったのは、懇願される側の男――ジークフリートの姿だった。
ジークフリートは、豪奢な木製椅子の前で立ち尽くしていた。
彼の灰髪が、窓から差し込む斜光を浴びて淡く輝いている。青い瞳はまっ直ぐにグンター王を見下ろしていたが、その表情には困惑と、拒みきれない優しさと、そして……恐ろしいほどの「空虚さ」が漂っていた。
(まただ……)
俺は胸の奥がひやりと冷たくなるのを感じた。
酒場で二人きりで飲んでいる時の、あの少年のような生々しい笑顔や人間らしい温かみが、今の彼の顔からは完全に削ぎ落とされていた。
そこにいるのは、ただの「願望機」だ。
求められれば誰の願いでも叶えてしまう、善悪の境界すら曖昧な、超然とした英雄としてのジークフリート。
「……グンター王。顔をお上げください」
ジークフリートの声は静かだった。けれど、どこか遠くから響いてくるように感情が籠もっていなかった。
「私にできることであれば、力を貸しましょう。……あなたがそれを心から望むのであれば」
「本当か、ジークフリート! おお、感謝する! 何でもする、お前の望むものなら何でも与えよう!」
グンター王が歓喜の声を上げ、ジークフリートの手を両手で強く握りしめる。
ジークフリートは拒みもせず、ただ小さく首を縦に振った。
「ただし……ブリュンヒルト女王は、私ではなく『あなた』が勝利したと思わせねばなりません。私が『
「おお……! 影となって私を助けてくれるのだな! 見事だ、完璧な策だ!」
グンター王は己の保身と欲が満たされたことに狂喜乱舞し、ジークフリートの肩を何度も叩いた。
(……バカな)
柱の影で、俺の指先が冷たく凍りついた。
身隠しの頭巾を使って、グンター王の「身代わり」となって女王を騙し討ちにする? そんな卑劣で歪んだ騙し討ちに、大それた魔道具を使うというのか。
もしそれが発覚した時、どれほど恐ろしい破滅が訪れるか、兄上は理解していないのだ。そして何より……ジークフリート自身も、己が犯そうとしている「不誠実さ」の重みを、全く理解していない顔をしていた。
「……ジークフリート様」
グンター王が興奮冷めやらぬまま部屋を立ち去った後、俺はしずしずと部屋の中へ足を踏み入れた。ドレスの裾を優雅に引きずり、鈴を転がすような淑やかな声で話しかける。
ジークフリートがゆっくりと振り返った。俺を見るなり、彼の青い瞳にふっと人間らしい温かな光が戻り、口元が少しだけ綻んだ。
「……クリームヒルト。見ていたのかい」
「ええ。……兄上の頼みを、引き受けられたのですね」
俺は彼の数歩手前で足を止め、伏せ目がちに問いかけた。
部屋の中に満ちる香木の煙が、二人の間にぬるい膜を作っている。彼の体から発せられる熱気が、肌に伝わってくる。
「……ああ。グンター王があれほどまでに困り果てておられたのだ。俺に手伝えることがあるのなら、断る理由はないだろう?」
ジークフリートは当然のことをしたと言わんばかりに、屈託のない笑みを浮かべて見せた。
その無垢な笑顔が、今の俺にはたまらなく痛々しく、そして恐ろしかった。
(お前は……本当に『頼み』を断れない男なんだな)
内面で激しい葛藤が渦巻く。
喉まで出かかっていた。
『やめろ、ジークフリート。そんな嘘と騙し討ちに手を貸すな。兄上のくだらない虚栄心のために、お前の高潔な名を汚す必要なんてないんだ』と、男装の時の砕けた口調で、彼の胸ぐらを掴んで叫びたかった。
だが……俺を縛る「クリームヒルト」という貴婦人の仮面が、その言葉を喉の奥で強く押し留めた。
ここで俺がそこまで踏み込んだ発言をすれば、なぜ俺がグンター王とジークフリートの密談の詳細を知っているのか、なぜそれほどまでに政治や武人の誉れに口を挟むのか、疑問を持たれてしまう。
「理想の貴婦人」は、夫の政治的・軍事的な決断に口を出してはならないのだ。
「……そうですか。ですが、ジークフリート様。どうかご無事で……お怪我のないよう、お祈りしておりますわ」
俺は作りものの完璧な微笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
「ありがとう、クリームヒルト。大丈夫さ、俺には
ジークフリートは嬉しそうに目を細め、俺の手にそっと自分の熱い手を重ねた。その手のひらの熱さが、今の俺にはどこか苦しかった。
(お前のその『誰の頼みでも叶えてしまう狂気』が……いつかお前自身を、そして俺たちのこのささやかな幸せを、叩き潰してしまうんじゃないのか……?)
立ち去る彼の後ろ姿を見つめながら、俺は胸元をきつく掴んだ。
重厚なコルセットが息苦しいのではない。ジークフリートという「願望機」が引き受けた小さな嘘の歯車が、ゆっくりと、けれど確実に、破滅へのカウントダウンを刻み始めた予感に、俺はただ身震いするしかなかったのである。
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北の果て、氷煙と荒波が岩肌を噛むアイスランドの地からヴォルムスへ帰還した船団を、港全体を揺るがす大歓声が出迎えた。
王船の甲板に立つグンター王の顔には、誇らしげな微笑が張り付いていた。だが、その瞳の奥には、消し去ることのできない怯えと浅薄な安堵が泥のように沈殿している。
その隣に立つ女性――アイスランドの女王、ブリュンヒルト。
彼女が船のタラップを踏みだし、ブルグントの土へと足を下ろした瞬間、出迎えに集まった群衆の歓声が一瞬だけ途切れた。
圧倒的な存在感だった。
磨き抜かれた白銀の甲冑を思わせる重厚な衣に身を包み、背筋を一切曲げずに歩む姿。風にたなびく美しい銀髪と、氷山を削り出したかのように冷たく研ぎ澄まされた青灰色の瞳。一歩を踏みしめるごとに、大地そのものを威圧するような武人の覇気が、彼女の全身から刺すように放たれていた。
(これが……アイスランドの女王、ブリュンヒルト……)
出迎える貴族たちの最前列、グンター王の妹として完璧な角度で佇む俺は、伏せ目がちな視線の端で彼女の姿を検分していた。
ドレスの胸元を締め上げるコルセットの圧迫感に耐えながら、内面の「俺」としての冷静な分析が頭を巡る。
腕の引き締まり方、重心の落ち方、そして周囲の騎士たちを「羽虫」か何かのように見下ろす冷酷なまでの矜持。間違いなく、戦場に立てば一撃で数十の首を飛ばすような本物の怪物だ。
そして……そんな怪物が、なぜ無能な兄グンターの妃としてここに立っているのか。
俺は、ブリュンヒルトの数歩後ろを静かに歩む男――我が夫であり、相棒であるジークフリートへと視線を向けた。
ジークフリートは、まるでただの無害な随行員であるかのように気配を消して歩いていた。だが、その手首の微かな角度やグンター王が誇らしげに胸を張るたびに彼が見せる、ほんのわずかな目線の泳ぎ。
(……やったんだな、ジークフリート)
胸の奥に、ざらりとした砂を呑み込んだような不快感が広がる。
アイスランドで行われたという恐ろしい武芸の試練。巨石を投げ、槍を交える死の闘技において、グンター王が自力でこの女王に勝てるはずがない。ジークフリートが
(嘘の上に成り立った婚約……。こんなものが、長く持つはずがない)
騙し討ちによって力を奪われ、偽りの敗北を喫させられた孤高の女王。そして、自分が自力で勝ち取ったと信じ込み、歪んだ全能感に酔いしれる無能な王。
「……お初にお目にかかります、ブリュンヒルト様。我がブルグントへ、心より歓迎申し上げますわ」
俺はしずしずと歩み寄り、練習し尽くした完璧な角度で礼を執った。鈴を転がすような淑やかな声、一切の乱れもない指先の動作。完璧な姫君クリームヒルトとしての挨拶。
ブリュンヒルトの冷徹な視線が、上から下へと俺を射抜いた。
「……あなたがグンターの妹、クリームヒルトか。なるほど、噂通りの可憐な咲き始めの花のような姫だ」
彼女の声は、氷の結晶が擦れ合うように低く、美しく、そして硬かった。
だが、彼女の視線が俺の隣――ジークフリートへと移った瞬間、その瞳に微かな違和感の影が走ったのを、俺は見逃さなかった。
「……ジークフリート。お前はネーデルラントの王でありながら、なぜグンターの臣下のように後ろに控えているのだ? アスガルド(遠征)の折も、お前は我が国で『自分はグンター王の臣下だ』と名乗っていたはずだが」
刺すような問いかけ。
瞬間、周囲の空気が凍りついた。グンター王の顔から血の気が引き、右手が小さく震える。
ジークフリートが「臣下」のフリをして手を貸したという口八丁の嘘。それが今、この二人の『格』のねじれとなって、早くも表面化し始めていた。
ジークフリートは、困ったように眉を下げ、不器用に笑ってみせただけだった。
「……私はただ、グンター王の威光を称え、その良き友人として従っているまでに過ぎません、ブリュンヒルト様」
言葉足らずで、下手くそな弁明。
ブリュンヒルトは深く眉間にしわを寄せ、納得のいかない様子でジークフリートを凝視したが、やがてフンと短く鼻を鳴らして視線を外した。
「……まあいい。どのような経緯であれ、私は勝ち取られたのだ。……グンター、婚姻の儀を進めるがいい」
「あ、ああ! もちろん論だ、ブリュンヒルト! 国を挙げての大宴会を催そう!」
グンター王が浮き足立った声を上げ、彼女の手を取ろうとしたが、ブリュンヒルトはその手を滑らかな動作でかわし、一人で大広間へと歩みを進めてしまった。その背中に漂うのは、敗北を受け入れつつも、決して膝を折らない誇り高き女王の威厳だった。
残された俺たちは、宮殿の石造りの広場で静まり返っていた。
夕闇が迫り、松明の焔がポツポツと灯り始める。
「……ジークフリート」
すれ違いざま、俺はドレスの袖に隠した手で、彼の豪奢な上着の裾をそっと引っ張った。
彼が振り返る。その青い瞳には、無事に役目を終えたという安堵と、相変わらずの屈託のなさがあふれていた。
(お前は……本当に、自分が何をしたのか分かっていないんだな)
グンター王の「望み」を叶えてやったという達成感。だがその足元には、力づくで誇りを砕かれた女王の怨嗟と、偽りの勝利に固執する王の虚栄心という、いつ爆発するとも知れぬ凶弾が埋め込まれたのだ。
「大丈夫かい、クリームヒルト? 顔色が悪いようだが……」
ジークフリートが心配そうに身を乗り出し、俺の顔を覗き込んでくる。その体から発せられる熱気が、ぬるい夜風に乗って俺の肌を叩く。
「……いいえ。ただ、長旅のお疲れが出ませんよう、ジークフリート様もお体を大切になさってくださいませ」
つくりものの笑みを浮かべ、俺はそっと身を引いた。
頭の中で、前世の浅い知識――『ニーベルンゲンの歌』という惨劇の記憶が、濁った酒の泡のように浮かんでは消える。
二人の妃の対立。崩壊する王国。殺されるジークフリート。
いま、その破滅へと至る最初の大ギヤが、カチリと音を立てて噛み合ってしまった。
(頼むから……俺の相棒でいてくれ、ジークフリート。お前のその甘さが、俺たちを地獄へ引きずり込む前に……)
華やかな婚約の宴の準備が進む宮殿の影で、俺はただ一人、胸元の重い布地を強く握りしめ、訪れるであろう暗雲の予感に身を震わせていたのだった。
ヴォルムスの宮殿に、狂乱の余韻が冷めやらぬ夜が明けても、異様な緊張感は去るどころか一層その濃度を増していた。
グンター王とブリュンヒルト女王の婚姻の儀から、数日が経過していた。
宮殿の長廊下を歩く俺の耳に、侍女たちのヒソヒソという不穏な囁き声が滑り込んでくる。
「……ねえ、聞いた? 初夜の晩、お部屋で凄まじい音が響いていたらしいわよ……」
「ええ、女王様がグンター様を帯で縛り上げて、天井のフックに吊るし上げたって……」
「でも、次の夜には……グンター様が完全にブリュンヒルト様を組み伏せて、その処女も、あの恐ろしいお力も全て奪い去ってしまわれたんですって……!」
絹の裾を優雅に引きずりながら、俺は視線を動かさずにその噂話を耳の奥で拾い集めた。
外面は「可憐で無知な姫君」の装いを崩さず、静かに歩みを進める。だが、その胸の内では冷ややかな嘲笑と、強烈な違和感が渦巻いていた。
(……あの無能な兄上が、あの暴れ馬のような女王を自力で組み伏せただと?)
思い出すのは、アイスランドから連れ帰られた時のブリュンヒルトの姿だ。一撃で数十の男を叩き潰すような圧倒的な武と、天を突くようなプライド。そんな怪物を、普段剣の稽古すら満足にこなせないグンター王が力でねじ伏せられるはずがない。
(どうせ、重臣たちに薬でも盛らせたか、あるいは力づくで従わせたという虚飾の尾ひれがついた話だろう。男のくだらない虚栄心と保身の産物だな)
俺は噂の真相を「グンター王が何らかの姑息な手段で勝ち誇っているだけ」と断定し、それ以上深追いすることはしなかった。
その日の午後、宮殿の最深部にあるジークフリートの部屋。
俺は部屋の掃除と書類の整理という名目で、人目を忍んでその重々しい木造扉を開けた。昼間の公務の合間、ほんの少しでも「完璧な貴婦人」の緊張から解放されたかったからだ。
部屋の中は、ジークフリートの不器用で大雑把な性格を映し出すように、武具や皮袋が雑然と置かれていた。龍の血を浴びた男の、ぬるく熱い気配が残る空間。
(たくっ……相変わらず片付けが下手くそな男だ)
内面で呆れつつ、俺はデスクの脇に置かれた古びた重厚な宝箱へと視線を向けた。
普段は頑丈な錠前が下ろされているはずのその箱の蓋が、ほんの数ミリ、隙間を空けて浮いていたのだ。ジークフリートが今朝、急な呼び出しで部屋を出る際に鍵をかけ忘れたのだろう。
「……ジークフリートの奴、うっかりにも程がある」
俺は溜息を吐きながら宝箱に歩み寄り、錠前をかけ直そうと手に取った。
その時だった。隙間から漏れ出てきた異質な「匂い」が、俺の鼻腔を突いた。
香油の甘い香りでも、ジークフリートの武具の手入れ油の匂いでもない。甘やかな薔薇の香料と強烈な拒絶の汗、そして……微かに焦げついたような独特の匂い。
指先が止まる。
胸の奥で、嫌な虫がざわざわと蠢き始めた。
(……なんだ、これは?)
吸い寄せられるように、俺は宝箱の重い蓋をそっと押し上げた。
軋んだ音が静寂に響く。箱の底に収められていたのは、金銀の財宝などではなかった。
一番奥深くに、まるで見る者から隠すように押し込められていたのは――一輪の黄金の指輪と、鮮やかなシルクで織られた豪華な帯だった。
「……っ!?」
俺は息を呑み、指先を震わせながらその帯を持ち上げた。
上質な絹地に施されているのは、ブルグント王家の文様ではない。氷と嵐の国……アイスランド王家の繊細で重厚な刺繍。そして指輪には、北方の女王だけが身につけることを許された、特大のルビーが妖しく光を放っていた。
ブリュンヒルトの帯と、指輪。
なぜグンター王の妃となったはずの女の、身につけているべき最極上の秘宝が、夫であるグンターではなく我が夫ジークフリートの部屋の箱底に封印されているのか。
(待て……落ち着け、考えろ)
現代男性としての冷徹な思考回路が、猛スピードで回転を始める。
伝聞で聞いた噂。「グンター王が初夜でブリュンヒルトを組み伏せた」という事実。アイスランドでの試練で、ジークフリートが『身隠しの頭巾』を使ってグンターの影となったという前例。そして……いま手の中にある、奪い取られたかのような女王の象徴。
バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい音を立てて噛み合っていく。
(……まさか……兄上が組み伏せたのではなく……)
喉の奥がカサカサに乾き、激しい寒気が背筋を駆け抜けた。
身隠しの頭巾を被り、姿を消した男。グンター王の身代わりとして初夜の寝所に入り込み、暴れる女王を力づくでねじ伏せ、その証拠としてこの品を持ち帰った男――。
(……ジークフリート……お前が、やったのか……!?)
手に持っていた帯が、ハラリと床へ落ちた。部屋の燭台の焔が、ひときわ大きく揺れる。
俺は両手で自分の顔を覆い、深く、荒い呼吸を繰り返した。
あの不器用で、言葉足らずで、求められれば誰の願いでも叶えてしまう男。グンター王に「頼む、初夜で殺されてしまう、助けてくれ」と泣きつかれ、またしてもあの恐ろしい「願望機」としての狂気を発動させたのだ。
『これ以上グンター王が脅かされないための証拠』として奪い取り、けれど自分が行った卑劣な不誠実さに耐えかねて、「見てはならない見屈しい品」としてこの箱の奥底に封印したのだと。
(あいつは……どこまで空気が読めないんだ……! どこまでお人好しで、狂っているんだ……!!)
胸の中で、悲鳴のような怒りと絶望が爆発した。
ジークフリートに悪気がないことなど痛いほど分かっている。彼はただ、情けない義兄の命と尊厳を守るために、己の手を汚して「頼み」を聞き届けただけに過ぎない。
だが、その無邪気で歪んだ高潔さが、どれほど恐ろしい爆弾を生み出したか。
もしこの帯と指輪の存在がブリュンヒルトに知れたら? 「自分を力で屈服させたのは夫ではなく、ジークフリートだった」という真実を知った時、あの誇り高き女王はこの王国を焼き尽くすほどの怒りとなって襲いかかってくるだろう。
「……くそっ……くそっ……!」
押し殺した男の声で呪詛を吐き捨てながら、俺は震える手で帯と指輪を拾い上げ、再び箱の奥底へと押し戻した。
重い蓋を閉め、鍵をかけ直す。だが、一度開いてしまった惨劇の扉は、二度と閉まることはなかった。
ジークフリートが善意で引き受けた二重の嘘。そして、彼が封印したはずの恐ろしい「起因」。
それがやがて、俺とブリュンヒルトを、そしてこのブルグント王国全体を惨劇の渦へと呑み込んでいく引き金になったことを、冷や汗に濡れる俺は痛烈に予感していたのだった。
ジークフリートは救いの手を差し伸べる
その先に破滅があろうとも、彼は救えさえすればいい