彼女が彼女になってからだった
あの恐ろしい指輪と帯を箱の奥底へ封印してから間もなく、俺たちはジークフリートの故郷であるネーデルラントへと帰還する。
ヴォルムスの宮殿を包んでいた重苦しい嘘と歪んだ空気から遠ざかるにつれ、俺の胸を占めていた暗雲は少しずつ澄んだ空気によって押し流されていった。
ネーデルラントの首都クサンテンは、ライン川の下流に広がる豊かで穏やかな港町だ。
海からの潮風が吹き抜け、街には新鮮な魚の匂いと、威勢のいい船乗りたちの活気ある声が満ちている。ブルグント宮殿のあの息が詰まるような古臭いしきたりや、張り詰めた貴族たちの牽制し合う視線は、ここには存在しない。
外面は完璧な「ネーデルラントの王妃」。だがそのドレスの下で、内面の「俺」はヴォルムスで抱えていた冷や汗をかくような恐怖が少しずつ薄らいでいくのを感じていた。
(……そうだ。あの
俺は自分にそう言い聞かせ、胸の奥の不吉な予感を強引に押し込めた。
ネーデルラントでの日々は、信じられないほど平和で、あたたかな時間に満ちていた。
昼間は王妃としての公務をこなし、家臣や民たちに慈愛の微笑みを振りまく。そして夜になり、城下が暗闇に包まれると、俺の「本当の時間」が始まる。自室でサラシを胸に巻き、手慣れた動作で男装を整える。
「よし、今夜も行くか、ジークフリート」
「ああ、待っていたよ」
窓から夜の街へと飛び出し、港の路地裏にある汚く賑やかな酒場へと滑り込む。
ガタつく木製のテーブルで、粗末な木のジョッキを激しくぶつけ合い、泡立つ安酒を一気に煽る。
「今日の船乗りどもとの交渉、なかなか見ものだったな、英雄サマよ!」
「よしてくれよ、君が横から上手く助け船を出してくれなかったら、俺はまた言葉に詰まって立ち尽くすところだった。本当に……君は頼りになる相棒だ」
「ハッ、口下手な王様の世話を焼くのも相棒の役目だからな」
腹を割って笑い合い、くだらない冗談で夜を明かす。
夫としては相変わらず手探りで、男同士として抱かれるような真似には拒絶感があったが、この男は俺の最高の「相棒」であり、唯一無二の理解者だった。
(この平和が、ずっと続けばいい)
酒場で安酒の杯を重ねながら、俺は心からそう願っていた。ジークフリートのあの「願望機」としての狂気も、この穏やかな日々の中では影を潜め、ただの優しい夫、気さくな相棒として俺を満たしてくれていたのだ。
息ができる。
生きている実感がある。
あの忌々しい過酷な矯正教育の過去も、仮面劇の息苦しさも、このネーデルラントの心地よい風の中で癒やされていくようだった。
――だが、その平穏な時は、十年という歳月を経て、静かに破調を来し始める。
「……ネーデルラントからの便りか。相変わらず、ジークフリートは国民に愛され、豊かに暮らしているようだな」
ブルグントの宮殿。ヴォルムス。
遠く離れたその場所で、一人の女性が届いた書状を冷たい手で握りしめていた。
ブリュンヒルト。
彼女はグンター王の妃となってからの十年、常に胸の奥にくすぶる強烈な「違和感」と屈辱に苛まれ続けていた。
あの初夜の記憶。自分がなぜ、あれほどまでに圧倒的に組み伏せられ、誇りを奪われたのか。表向きは「グンター王の威厳と愛」に屈したことになっていたが、彼女の誇り高き武人の直感がずっと何かの狂いを告げ続けていたのだ。
そして何より、彼女の自尊心を逆撫でさせたのはジークフリートという存在だった。
「……なぜだ。なぜジークフリートは、我が夫グンターの臣下でありながら、ネーデルラントで王として君臨し、一度としてこのブルグントへ朝貢に訪れないのだ?」
アイスランドの遠征の折、ジークフリートは自ら「自分はグンター王の臣下だ」と名乗った。
ブリュンヒルトにとって、それは動かしがたい事実だった。ならば、臣下であるジークフリートとその妻クリームヒルトは、主君であるグンターと自分に対し、恭順の意を示し、義務を果たすべきではないのか?
「あの男は……我が夫を、そして私を見下しているのではないか?」
鏡に映る自分の顔を見つめながら、ブリュンヒルトは美しく研ぎ澄まされた眉を深くひそめた。
一度芽生えた疑問と不快感は、やがて鋭い毒となって彼女の心を蝕んでいく。
かつて自分を屈服させた(と信じている)夫グンターへの不審。そして、臣下でありながら悠々自適に暮らし、自分たちを無視し続けるジークフリートとクリームヒルトへの、静かだが苛烈な怒り。
「グンター」
ある日の夕刻、ブリュンヒルトは執務室にいたグンター王の前へと歩み寄った。
白銀のドレスを纏い氷のような圧力を放つ彼女の姿に、グンター王はびくっと肩を揺らし、手にしていたペンを滑らせた。
「な、なんだい、ブリュンヒルト……? 急にどうしたのだ」
「……十年です、グンター。あなたの妹であるクリームヒルトと、その夫ジークフリートが、我が国を去ってから」
ブリュンヒルトの青灰色の瞳が細く冷ややかに光る。
「臣下である者が、十年も主君のもとへ挨拶にも来ぬとは、あまりにも不敬。我が国の威厳に関わります。……そろそろ、彼らをこのヴォルムスへ呼び寄せるべきではありませんか?」
「っ……!」
グンター王の顔から、一瞬で血の気が引いた。
ジークフリートとクリームヒルトを呼び寄せる。それは、自分がかつてジークフリートに依頼した「二重の嘘」――身代わりの初夜、身隠しの頭巾を使った騙し討ちという、恐ろしい秘密の共有者を再び目の前に引きずり出すことを意味していた。
「いや、しかし……彼らもネーデルラントの政務で忙しいだろうし、なにも今すぐでなくとも……」
「いいえ。今すぐです」
ブリュンヒルトは机に細く美しい指を突き、グンター王を覗き込んだ。その威圧感に、無能な王は喉を鳴らして言葉を詰まらせる。
「豪華な大宴会を催し、使者を送りなさい。『久しい再会を祝したい』と。……私は、あの二人が我が前でどのような態度を取るのか、この目で確かめたいのです」
拒絶の言葉を飲み込み、情けなく首を縦に振るグンター王。
ネーデルラントで育まれていた、完璧で穏やかな「相棒」としての平和な時間。
その足元で、かつてジークフリートが撒いた小さな嘘の種が、十年という歳月を経て、ついに暗い芽を吹き出そうとしていた。
ヴォルムスからの「招待状」がネーデルラントへ向かって放たれたことを、まだ誰も知らない。
穏やかな港の風を受けながら、俺はただ、今夜も相棒と交わす安酒の味を楽しみに、静かに日暮れの街を見つめていたのだった。
ヴォルムスからの使者がネーデルラントの城門を潜り抜けたのは、海風が一段と冷たさを増した秋の夕刻だった。
豪奢な羊皮紙に記されたグンター王からの招待状。表向きは「長年の離別を埋めるための盛大な宴」と打たれていたが、その文面から漂う異様な粘つきを、俺は見逃さなかった。
「……ヴォルムスへの里帰りか。嬉しいな、クリームヒルト! 君の兄上たちも、きっと君に会いたがっている」
私室で書状を読んだジークフリートは、まるで少年のように青い瞳を輝かせ、屈託のない笑みを浮かべた。
その無邪気な顔を見つめながら、俺の胸の奥では冷たいアラームが甲高く鳴り響いていた。
(……嫌な予感がする)
現代人としての冷静な分析脳が、高速で危険信号を弾き出す。
十年だ。十年もの間、音沙汰もなく放置されていた関係が、なぜ今になって急に大大的な招待となって届くのか。グンター王の意図というよりは、あのプライドの塊のような女王――ブリュンヒルトの影が透けて見える。
あの夜、ジークフリートの宝箱の底で見つけた、ブリュンヒルトの帯と指輪。
冷や汗が背筋を伝い落ちはじめる。あの忌々しい爆弾が、十年の時を経てついに導火線に火をつけられたのではないか。
「……ジークフリート」
「ん? なんだい」
「……本当に行くのか? ネーデルラントの政務も忙しい時期だ。丁寧にお断りすることもできるのですよ?」
ドレスの袖口を強く握りしめ、淑やかな声音の裏に必死の牽制を込めた。
だが、ジークフリートは首を傾げ、心底不思議そうに微笑んだだけだった。
「何を言っているんだい。義理の兄上からのせっかくの招きだ。断る理由なんてどこにもないじゃないか。それに……君もたまには、生まれ故郷の風に当たりたいだろう?」
(お前は……本当にどこまでも空気が読めない男だな……!)
内面で激しい怒りと焦燥が渦巻く。
だが、「クリームヒルト」という完璧な貴婦人の仮面が、それ以上踏み込んだ拒絶を許さない。夫の判断に異を唱え、取り乱すような真似は、完璧な姫君の型から完全に逸脱してしまうからだ。
「……ええ、そうですわね。ジークフリート様がお決めになったことでしたら、喜んでお供いたしますわ」
俺は作りものの可憐な微笑みを深め、優雅に頭を下げた。
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――――――――――
―――――
ネーデルラントを発って数週間。俺たちは再び、あの重々しい花崗岩の城壁で囲まれたヴォルムスへと足を踏み入れた。
宮殿全体が、我が国の誇る英雄とその妃を迎えるための絢爛豪華な装飾で彩られていた。大聖堂からは鐘の音が鳴り響き、敷き詰められた薔薇の花びらが馬車の車輪に踏み潰されて甘い香りを振りまく。
だが、大広間の大階段で俺たちを出迎えた人々の視線は、決して温かい歓迎のそれだけではなかった。
階段の最上段。グンター王の隣に立つブリュンヒルト。
白銀のドレスを纏った彼女は、氷山のように冷徹な佇まいで、階段下から歩み寄る俺たちをじっと見下ろしていた。
その青灰色の瞳に宿っているのは、歓迎の喜びなどではない。獲物を値踏みし、己の支配下にあるかどうかを確認しようとする、冷酷なまでの威圧感だった。
「よくぞ参られた、ジークフリート、クリームヒルト! 待ちわびたぞ!」
グンター王が引きつった笑みを浮かべ、両手を広げて歩み寄ってくる。だがその額には微かな汗が浮き、視線はジークフリートとブリュンヒルトの間を泳ぐように彷徨っていた。
「お久しぶりでございます、グンター兄上、ブリュンヒルト様」
俺は膝を折り、ドレスの裾を広げて最も美しいとされる角度で深々と一礼した。
完璧な貴婦人の挨拶。だが、頭を下げた俺の視線の先で、ブリュンヒルトの冷たい一言が大広間の静寂を切り裂いた。
「……相変わらず、素晴らしい淑女の鑑だな、クリームヒルト。だが……」
ブリュンヒルトの視線が、俺の隣に立つジークフリートへと向けられる。
「ジークフリート。臣下であるお前が、我が夫グンターの前に立つ時、なぜそのように堂々と胸を張っているのだ? 朝貢の品も持たず、王と同等の身分であるかのように振る舞うのは……いささか無礼が過ぎるのではないか?」
大広間の空気が、一瞬で凍りついた。
出迎えていたブルグントの騎士たちの体が緊張で強張り、手持ちの槍がわずかに擦れ合う音が響く。
「……臣下……?」
俺は伏せていた視線をゆっくりと上げ、ブリュンヒルトの顔を見つめた。
彼女の瞳にあるのは、絶対的な優越感。かつてアイスランドでジークフリートが「自分はグンターの臣下だ」と名乗った嘘を根拠に、ジークフリートと俺を明白に見下そうとする意図が、隠しようもなく剥き出しになっていた。
(ハッ……そういうことかよ、女王サマ)
内面の男としての自我が、冷酷に状況を理解した。
彼女は十年間、胸にくすぶり続けた「屈辱」と「違和感」を晴らすために、俺たちをここへ呼び寄せたのだ。自分が従属させたはずの男(グンター)の臣下であるジークフリート夫婦を、大衆の前で徹底的に「下」として扱い、己のプライドを満たすために。
ジークフリートは、困ったように眉を下げ、不器用に口元を歪めただけだった。
「……ブリュンヒルト様。私はただ、グンター王との友情のためにここへ赴いたのであり……」
「友情だと? 臣下が主君に向かって使う言葉ではないな」
ブリュンヒルトが冷ややかに言い放ち、扇子で口元を覆う。
(この女……)
胸の奥で、ドロリとした熱い感情が首をもたげた。
ジークフリートがどんな思いで兄上の「頼み」を聞き届けたか。彼がその無駄なまでの高潔さゆえに、どれほど不名誉な泥をかぶって兄上を助けたか。それを何も知らず、騙し討ちで力を奪われただけとも知らずに、上から目線で俺の相棒を見下し踏みにじろうとしている。
仮面の下で、俺の歯がカチリと音を立てて噛み合わさった。
「……ブリュンヒルト様」
"私"は鈴を転がすような淑やかな声を維持したまま、ゆっくりと立ち上がった。
完璧な微笑み。けれどその瞳の奥には、氷の下で燃え盛る激しい炎のような怒りが静かに宿り始めていた。
「我が夫ジークフリート様は、ネーデルラントの正統なる王でございます。臣下などという言葉は、いささかお戯れが過ぎるのではございませんでしょうか?」
二人の妃の視線が、宙で激しく激突する。
破滅へのギアが、ゆっくりと、けれど確実に、不穏な音を立てて狂い始めていた。
大広間に満ちていた華やかな喧噪が、一瞬にして打ち捨てられたように霧散した。
静寂。
重々しい花崗岩の柱の合間を吹き抜ける秋風が、壁に掛けられた織物をかすかに揺らし、燭台の焔を不安げに弄んでいる。居並ぶ貴族や騎士たちは息を殺し、誰一人として身動きひとつ取ろうとしない。
ふたりの妃――「ブルグントの至宝」と呼ばれた可憐な姫君と、「氷の国の女王」として恐れられた白銀の美女。
大段階の中腹で交錯するふたりの視線は、目に見えぬ火花を散らして空間を焼き焦がしていた。
ブリュンヒルトの青灰色の瞳が、細く、氷の刃のように研ぎ澄まされる。扇子を握る彼女の指先に、かすかに力が入るのが見えた。上質な絹地が引き絞られ、ミシミシと小さく不穏な悲鳴を上げる。
「……お戯れ、だと? クリームヒルト」
ブリュンヒルトの声は、低く、低音の鐘のように重々しく広間に響き渡った。
「私は事実を口にしたまでだ。アスガルドの折、ジークフリートは自らの口で『自分はグンター王の臣下だ』と明言した。私の前で、私の臣下たちすべての前でな。臣下の妻であるお前が、主君の妃である私に向かって口を挟むこと自体、無礼の極みであると知れ」
畳みかけるような冷酷な宣告。
彼女の言葉には、一切の揺らぎもなかった。彼女にとって、それは偽りのない「事実」であり、己の打ち砕かれたプライドを繋ぎ止めるための、絶対の拠り所だったからだ。
俺は淑やかな立ち姿を一切崩さず、完璧な角度で首をわずかに傾けてみせた。指先はドレスの重厚な布地の陰に隠し、爪が掌に食い込むほどきつく握りしめている。
(……ハッ、笑わせる)
内面の男としての自我が、腹の底で激しい毒を吐き捨てていた。
お前が「事実」と信じ込んでいるその前提そのものが、哀れなまでの騙し討ちの上に成り立っているのだと、この女王は欠片も知らんのだ。
我が相棒ジークフリートが、あの情けない兄グンターに請われるがままに被った「臣下」という不名誉な泥。それを真に受けて勝ち誇り、大衆の前で俺の
胸の奥で、ドロリとした熱い憤怒が首をもたげる。
(俺の相棒を……あんなにも無邪気で、言葉足らずで、お人好しなだけのあいつを、これ以上見下すな……ッ!)
最愛の
だが、表面の俺は「理想の貴婦人」クリームヒルトだ。
激昂して声を荒らげることも、男らしく胸ぐらを掴みかかることも許されない。
俺は喉の奥を滑らかに鳴らし、真珠を転がすような、どこまでも清らかな声で応じた。
「……ブリュンヒルト様。夫がどのような謙遜を口にされたかに関わらず、ネーデルラントの広大な領地と、そこに暮らす万の民がジークフリート様を『王』と仰いでおりますの。一時の戯れ言を真に受けられ、公の場で我が夫の格を貶めようとされるのは……いささか、王妃としての器を疑われてしまいますわ」
「……なっ……!?」
ブリュンヒルトの顔から、一瞬で色味が失せた。
「器を疑われる」――誇り高き女王にとって、それは何よりも許しがたい侮辱だった。彼女の頬が屈辱と激怒で朱に染まり、胸元が激しく上下する。
「無礼者……! 勝ち誇ったような口を利くのではない、クリームヒルト! お前たち夫婦がどれほど着飾ろうと、我が夫グンターの足元にも及ばぬ存在であることを、私が教え込んでやる……!」
「まあ、恐ろしい。ですが、事実と異なることを認めよと仰られても、お答えのしようがございませんわ」
俺はふっと細く息を吐き出し、うつむき加減に可憐な溜息を添えてみせた。完璧な被害者としての演技。
だが、二人の間に漂う空気は、もはや会話で収められる領域を完全に超えていた。
「――や、やめないか、二人とも! 大宴会の場で、このような争いは……!」
耐えかねたように、グンター王が引きつった声を上げて間に入ろうとした。その顔は蒼白で、額からは嫌な汗が滝のように流れ落ちている。
己が撒いた二重の嘘。それが今、目の前で破裂しようとしている恐怖に、無能な王はガタガタと膝を震わせていた。
「黙っていらっしゃい、グンター!」
ブリュンヒルトの一喝が、グンター王の言葉を叩き潰した。
彼女は立ち尽くすジークフリートを一瞥し、それから俺を凍りつくような眼差しで射抜いた。
「……よいだろう、クリームヒルト。明朝、大聖堂でのミサの折、どちらが先に扉を潜るべき『上の立場』であるか、大衆の前でハッキリとさせようではないか」
大聖堂への優先入場。それは中世の貴族社会において、どちらの格が上であるかを白日の下に晒す、最も分かりやすく、最悪の政治的対決を意味していた。
「……ええ、望むところでございますわ、ブリュンヒルト様」
"私"は静かに膝を折り、淑やかに礼を執った。
「失礼いたします」
背を向け、大階段を下りていく。
俺の隣に追いついてきたジークフリートが、困惑と切なさに満ちた青い瞳で、俺を覗き込んできた。
「……クリームヒルト。なぜ、あんなにも激しく義姉上と争ったんだ? 俺は……臣下だと思われていても、一向に構わないというのに」
彼の低く掠れた声。自分さえ我慢すれば丸く収まるのだと言いたげな、狂気的なまでの自己犠牲。
その無垢な顔を見つめた瞬間、俺の胸の中で、愛おしさと激しい苛立ちが激しくぶつかり合った。
(……バカ野郎)
内面で呟く。
お前が我慢すればいいなんて、俺が許すと思うか?
俺の命を、俺の自我を救ってくれた「最高の
「……いいえ、ジークフリート様」
俺は夫の手袋にそっと自分の手を重ね、熱い体温を感じながら、静かに、けれど二度と覆らない声で言った。
「私はただ……妻として、貴方の『誇り』を守りたいだけでございますわ」
完璧な貴婦人の言葉。だがその裏に込められたのは、相棒のためにすべてを投げ打つ覚悟を決めた、男としての不敵な決意だった。
(……ああそうだ。上手くやってやる……!)
大聖堂の前で待つ、悲劇の決戦。
ジークフリートが隠し通そうとした「あの二重の嘘」を破裂させる毒針を、俺自身が手に握りしめていることへの痛切な予感を抱きながら、俺は冷たい大理石の回廊を、どこまでも強く踏みしめて歩んでいったのだった。