- ブレーズ・パスカル
大聖堂の前で繰り広げられた、あの衆目の中での小競り合いから数刻。
宮殿内を包む空気は、もはや爆発を待つばかりの弾薬庫のごとく、張り詰めた緊張感に支配されていた。俺は自室の重々しい木製扉を閉ざし、深く息を吐き出した。
部屋の中に満ちる香水とハーブの香りが、今の俺には酷く不快に感じられる。冷たい大理石の床を踏みしめながら、内面の男としての思考を高速で回転させた。
(……このまま大聖堂のミサで対決すれば、ブルグントとネーデルラントの決定的な亀裂になる。大衆の前でブリュンヒルトを叩きのめすのは容易いが……そうなれば、あいつ(ジークフリート)が被った汚名も無意味になる)
胸元を締め上げる過酷なコルセットの圧迫感に耐えながら、俺は自分の指先を見つめた。
ジークフリートという男は、己が不名誉な泥をかぶってでも、他者の平和と面目を守ろうとする歪んだ高潔さを持っている。彼がグンター王の『頼み』を聞き入れ、身隠しの頭巾を使ってまで隠し通そうとした不誠実な真実。それを大衆の前で暴露してしまえば、グンター王の面目は完全に潰れ、ブリュンヒルトの誇りは粉々に砕け散る。
(大衆の前での告発は避ける。二人きりで……政治的な牽制としてのみ、あの女に『真実』を突きつけ、引かせる)
それが完璧な貴婦人であり、かつ冷徹な現代男性としての自我を持つ俺が導き出した、唯一の回避策だった。
ジークフリートをこれ以上臣下扱いさせず、かつ全面戦争を回避するための、ぎりぎりの政治的綱渡り。
「……侍女を呼びなさい」
俺は扉の向こうに控える配下に、鈴を転がすような淑やかな声で命じた。
「ブリュンヒルト様へお伝えしなさい。『両国の名誉と、王家同士の未来のために、大聖堂のミサの前に二人きりでお話ししたいことがございます』と」
宮殿の最も奥深くに位置する、静寂に包まれた別室。
重厚なタペストリーが飾られたその小部屋は、外の喧噪から完全に切り離されていた。窓から差し込む斜光が、宙を舞う埃の粒を黄金色に浮かび上がらせている。
カチャリと、重い扉が開く音が響いた。
姿を現したのは、白銀のドレスを纏ったブリュンヒルトだった。
彼女は従者や侍女を一人も連れず、ただ一人で部屋へと足を踏み入れた。その青灰色の瞳には、依然として氷山のような冷徹さと、俺を見下す傲慢なまでの自尊心が宿っている。
「……私を二人きりで呼び出すとは、何の真似だ、クリームヒルト」
ブリュンヒルトは扉を背にして立ち止まり、扇子を優雅に揺らしながら、冷ややかに俺を射抜いた。
「大聖堂の前で恥をかくのが怖くなり、私に命乞いでもするつもりか? ならば、いまこの場でジークフリートとともに我が夫グンターに膝を屈し、臣下としての礼を執ると誓うがいい」
上から目線の、絶対的な自信に満ちた宣告。
彼女自身は、自分が正義であり、事実を口にしていると固く信じ込んでいる。
俺は部屋の中央に置かれた丸テーブルの傍らに立ち、静かに彼女を見つめ返した。
(……哀れな女だ)
内面で冷ややかに呟く。
自分を力で屈服させたのは夫グンターだと信じ込み、その虚飾の勝利の上に己のプライドを打ち立てている。ジークフリートが影となって助けていたことなど、何ひとつ知らずに。
「……ブリュンヒルト様。私はあなたに命乞いをするために、ここへお呼びしたのではございませんわ」
俺は優雅な動作で、袖口の中に隠していた小さな革袋をテーブルの上へと置いた。
ずしり、と重い金属音が小部屋に響く。
「……何の真似だ?」
ブリュンヒルトの眉が微かにひそめられた。
俺は真珠を転がすような美声のまま、けれどその瞳からは一切の感情を削ぎ落とし、静かに言った。
「ジークフリート様は臣下ではございません。そして……あなたが誇っておられる『グンター兄上による勝利』もまた、すべては偽りでございます」
「……なに……?」
「お確かめになってくださいませ。……あなたが初夜の寝所で失われたはずの、その『証拠』を」
俺は革袋の紐を解き、中のものをテーブルの上へと滑り出させた。
コトン、と小さな音を立てて転がり出たのは――特大のルビーが妖しい光を放つ黄金の指輪と、アイスランド王家の繊細な刺繍が施された鮮やかなシルクの帯。それらが太陽の光を浴びて、テーブルの上で赤裸々に晒された。
ブリュンヒルトの視線が、その二つの品へと落ちた。
瞬間。
小部屋を満たしていた空気が、音を立てて凍りついた。
ブリュンヒルトの揺らめいていた扇子が、ピタリと止まる。
彼女の顔から、血の気が引いていくのが目に見えて分かった。小麦色に輝いていた肌が一瞬で死人のような蒼白へと変わり、青灰色の瞳が信じられないほどの恐怖と驚愕で見開かれる。
「……な……ぜ……」
彼女の唇が、震えた。
「なぜ……お前が……それを持っている……! それは……私の寝所で……グンターが……っ!」
「いいえ、ブリュンヒルト様」
俺は冷徹に、一言一言を噛み締めるように告げた。政治的牽制として、彼女を引かせるための絶望の真実を。
「初夜の寝所で、身隠しの頭巾を被り、あなたを力で組み伏せたのは……グンター兄上ではございません。我が夫、ジークフリート様でございますわ」
小部屋の中に、死のような静寂が落ちた。
二重の嘘の暴露。
ジークフリートを臣下扱いさせないため、そして大衆の前での破滅的な対立を避けるために俺が放った一手。だが、それが誇り高き女王の自尊心を根底から粉々に打ち砕き、狂乱の惨劇を引き起こす引き金になろうとは――俺自身もまだ、その真の恐ろしさを知り尽くしてはいなかったのである。
別室の空気は、完全に凍りついていた。
丸テーブルの上に置かれた特大のルビーが、窓からの斜光を受けて妖しく紅い光を投げかけている。アイスランド王家の刺繍が施された絹の帯が、まるで生贄の血のように生々しくテーブルクロスの上に横たわっていた。
ブリュンヒルトの青灰色の瞳が、極限まで大きく見開かれていた。
その視線は、指輪と帯、そして俺の顔を何度も往復する。彼女の全身が、まるで極寒の吹雪に晒されたかのようにカタカタと激しく震え始めていた。
「……嘘だ……」
掠れた、蚊の泣くような声。
「嘘だ……! そんなはずが……そんなはずがない……!! 私を……私を屈服させたのは……我が夫、グンターだ……! あの男が、私を力でねじ伏せたのだ……っ!」
彼女の指先が、テーブルの縁を壊さんばかりの力で握りしめられる。上質な白銀のドレスの胸元が、激しい乱呼吸によって狂ったように上下していた。
俺は冷徹な視線を崩さず、静かに彼女を見つめ続けた。
政治的牽制。この女に真実を突きつけ、二度とジークフリートを臣下として見下させず、引き下がらせるための手札。それ以上でも以下でもないはずだった。
「嘘ではございません、ブリュンヒルト様」
俺は真珠を転がすような淑やかな声のまま、逃げ場を塞ぐように淡々と宣告を重ねた。
「我が夫ジークフリート様は、『身隠しの頭巾』をお持ちです。姿を消し、グンター兄上の影となってあなたを抑え込み、その証拠としてこの品を持ち帰られたのです。……これが、あなたが信じ込んでおられた『勝利』の真実でございますわ」
「あ……あ…………」
ブリュンヒルトの顔から、すべての血の気が引いた。死人のような蒼白。
彼女が十年間、己の誇りを繋ぎ止めるために縋りついていた唯一の支柱――「自分は勝利した夫グンターに屈したのだ」という幻想が、音を立てて粉々に砕け散った瞬間だった。
自分を騙し討ちで力づくで組み伏せ、処女と超人的な力を奪ったのは、夫ではなく、影に潜んでいたジークフリートだった。
そして、目の前に立つこの可憐な姫君こそが、自分を屈服させた男の「真の妻」であり、己の恥辱の証を手に握りしめて嘲笑っている――。
(……これで、引け、ブリュンヒルト)
内面の男としての自我が、静かに命じた。
これ以上、大衆の前で争えば、お前のこの恥辱が王国中に知れ渡ることになる。大人しくジークフリートへの不敬を取り下げ、引き下がれば、この秘密は俺が墓場まで持っていってやる――。
そう、計算していた。
だが、俺は根本的なことを見誤っていた。
北方の島国を統べ、孤高の武芸と誇りだけを生き糧として生きてきた女王にとって、この「真実」が死以上の屈辱であることを。そして、その誇りが砕かれた時、人間がどのような暴走を起こすのかを。
ブリュンヒルトの瞳から、理性の光が消え去った。
そこに宿ったのは、漆黒の絶望と、世界すべてを呪い倒すかのような狂気的な殺意だった。
「……あ、ああ……あああっ……!!!!」
喉の奥から絞り出されるような、引きつった呻き。
次の瞬間――。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ物!!!!!!!!」
大聖堂の鐘の音すら掻き消すような、凄絶な狂乱の悲鳴が小部屋に轟き渡った。
それは人間の上げる声ではなかった。傷ついた野獣が、己の胸を切り裂かれた時に上げるような、凄惨で、悲痛で、怨念に満ちた叫び。
「騙したな……!! お前たち……私を……私をハメたなあああっっっっ!!!!」
ブリュンヒルトは狂ったように頭を抱え、自身の銀髪を掻きむしりながら叫び散らした。
衝撃波のような声量が、部屋の燭台の焔を激しく揺らし、壁のタペストリーを震わせる。彼女の口から泡が吹きこぼれ、美しい顔が鬼のように醜く歪み切っていた。
「グンターァァァッ! ジークフリートォォォッ!! 許さない……絶対に許さんぞおおおっっっ!!!」
バンッ! と重い音を立てて、彼女は部屋の木製扉を叩き開けた。
「誰か! 誰か来いっ! グンターを呼べ! ハーゲンを呼べえぇぇぇっっっ!!!」
狂乱した女王の金切り声が、宮殿の長い回廊へと響き渡っていく。
石造りの回廊に、驚愕した騎士たちの足音がバタバタと近づいてくるのが聞こえた。
「な……っ!?」
私は丸テーブルの傍らで、凍りついたように立ち尽くした。
手袋の中で、指先が激しく震える。
(な……なんだ……? なぜ、自ら晒す真似を……ッ!?)
思考が停止した。
隠すべき恥辱のはずだ。二人きりの部屋で突きつけられれば、恥と恐ろしさで顔を伏せ、政治的妥協に応じるのが「知性ある人間」の選択はずだった。
なぜ、この女は自らその恥辱を叫び散らし、大衆や家臣の前で醜聞を赤裸々に晒そうとするのか。
「お前だ……! お前たちが私を踏みにじったのだあああっ!」
廊下へ飛び出していくブリュンヒルトの凄惨な後ろ姿を見つめながら、私の背筋を、今まで経験したこともないような暗く冷たい戦慄が駆け抜けた。
二人きりの密談で抑え込むはずだった政治的牽制。
それが、誇りを砕かれた女王の狂乱によって、二重の嘘のすべてを破裂させる最悪の不協和音となって、宮殿全体へと波及してしまったのだ。
(しまっ……た……)
テーブルの上に残された指輪と帯を見つめながら、私は自分の胸元を強く掴んだ。
あいつ(ジークフリート)を守るために放ったはずの一手が、破滅の引き金を引き抜いてしまったのだと――冷や汗に濡れる私は、己の致命的な誤算にただ呆然と立ち尽くすことしかできなかったのである。
狂乱したブリュンヒルトの叫び声は、毒液のように宮殿のすみずみにまで瞬く間に広がり、ヴォルムス全体を凄惨な混乱の渦へと叩き落とした。
大聖堂の前庭に集まっていた群衆も、宮殿を埋め尽くしていた貴族や騎士たちも、何が起きたのかを理解できず呆然と立ち尽くしていた。だが、狂ったように髪を振り乱し、血の涙を流しながら「騙された」と叫び続ける女王の姿と、大広間に引きずり出されたルビーの指輪と鮮やかなシルクの帯を目にした瞬間、事態の異常さは誰の目にも明らかとなった。
王家の「二重の嘘」が、最悪の形で白日の下に晒されたのだ。
宮殿の大会議室。
重厚な花崗岩の壁に囲まれたその部屋は、今や殺気立つ男たちの怒号と、押し殺した呼吸の熱気で破裂しそうだった。
「どういうことだ、ジークフリート! 我が国の妃であり、かつてのアイスランドの尊貴なる女王を騙し討ちで辱めたというのは真実か!?」
「ネーデルラントの王ともあろう者が、影に潜んで他国の初夜を侵すなど、前代未聞の不義理! 断じて許されぬ!」
ブルグントの重臣や将軍たちが、腰の剣の柄に手をかけながらジークフリートを取り囲み、激しい糾弾の声を浴びせる。
その中心に立つジークフリートは、灰色長髪を濡らしたように垂らし、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼の青い瞳には、一切の怒りも弁明の色もなく、ただ「なぜこうなってしまったのか」という痛烈な困惑と傷心が漂っている。
「……私は……ただ、グンター王に頼まれて……」
「黙れ! 言い訳など聞きたくはない!」
不器用で言葉足らずなジークフリートの弁明は、怒り狂う騎士たちの咆哮によって容赦なくかき消された。
王座に深く沈み込むように腰掛けているグンター王の顔色は、泥のように蒼白だった。額から不快な汗を垂らし、爪を噛みながらガタガタと震えている。己の保身と虚栄心のためにジークフリートを利用したこと、そしてその不祥事が暴露された恐怖で、まともに声を出すことすらできていない。
(……胸糞悪い)
俺は会議室の壁際に佇み、ドレスの袖の影で拳をきつく握りしめた。
内面の「俺」としての自我が、胃の腑が焼きちぎれるような激痛とともに冷ややかに状況を俯瞰している。
(俺が……俺の判断が甘かった。あの女に二人きりで真実を突きつければ恥じて引くはずだという計算が、すべての狂気を引き放ってしまった……!)
相棒を守りたかった。臣下として見下されるジークフリートの屈辱を雪ぎたくて放った一手だった。だが、中世の「誇り」というものの持つ狂的な重みを、現代日本の思考に慣れ親しんだ俺は見誤っていたのだ。
ジークフリートの背後に控えるネーデルラントの騎士たちもまた、黙ってははいなかった。
「控えよ、ブルグントの将ども! 我がジークフリート様は龍を退治し、ネーデルラントを統べる無敵の英雄であられるぞ!」
「貴様らの無能な王に乞われて助け船を出してやったものを、恩を仇で返す気か! 侮辱を重ねるならば、我が国の軍勢を総動員し、このヴォルムスを火の海に変えてくれる!」
ネーデルラントの将軍が剣を半分抜き放ち、眼光を鋭く光らせる。
「なんだと!? 宣戦布告と受け取るぞ!」
「望むところだ! 我が国の英雄を辱めた罪、血で洗わせてやる!」
部屋中で剣が鞘を擦る甲高い金属音が響き渡り、空気が破裂せんばかりに緊迫した。これは、もはや妃同士の面目の張り合いという次元を完全に超えていた。
ブルグント王国と、ジークフリート率いるネーデルラント王国。中世ヨーロッパの均衡を支えていた二大強国が、互いの尊厳と誇りをかけた全面戦争の危機へと足を踏み入れてしまったのだ。
もし戦が始まれば、どれほどの血が流れるか。
十万を超える兵が激突し、無数の城塞が焼き払われ、罪もない民や兵士が泥の中で虫のように踏みつぶされ、死に絶えていく。この中世の凄惨な戦場が広がっていく未来が、鮮明な映像となって俺の脳裏をよぎった。
(……そんな……そんな真似をさせられるかよ……!)
俺の呼吸が浅くなり、胸元を締めつけるコルセットが肋骨を容赦なく圧迫する。
俺が相棒と慕うジークフリートは、誰よりも無私で、誰よりも高潔な男だ。その男の「助け」が起因となって、無数の人間が惨死する全面戦争が起きるなど、そんな皮肉を誰が許せるというのか。
その時だった。
糾弾の嵐と剣の交錯する不穏な空気のただ中に、重厚で冷徹な足音が響いた。
「――控えい!!」
会議室の鉄扉を押し開き、入ってきたのはハーゲンだった。
目つきの鋭いその顔は、まるで鉄を打ち固めたかのように硬く、一切の感情を削ぎ落としている。だが、彼の胸の奥で渦巻く凄惨な覚悟と憤怒が、その全身から冷気となって溢れ出ていた。
ハーゲンの冷酷な視線が、部屋の中を見回し、やがて呆然と立ち尽くすジークフリートの上で止まる。
「……ハーゲン様! ネーデルラントの非道、断じて許しがたく――」
ブルグントの重臣が叫びかけたが、ハーゲンは鋭い一瞥でそれを一蹴した。
「双方、剣を収めよ。……今、ここで血を流して何になる」
ハーゲンの声は低く、地鳴りのように静かだった。
「戦を起こせば我がブルグントも、ネーデルラントも、互いに骨も残さず滅び去るのみ。罪なき民や兵を無意味な大殺戮に巻き込むことが、両国の望みか?」
ハーゲンの言葉に、殺気立っていた将軍たちが息を呑み、わずかに毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
ハーゲンはゆっくりと歩み寄り、ジークフリートの目の前で足を止めた。
「……ジークフリート様」
「……ハーゲン」
ジークフリートが、すがるような、そして申し訳なさで押し潰されそうな青い瞳で彼を見つめた。
「俺は……俺は、誰も傷つけたくはなかったんだ……。グンター王を助け、そして……平和を守りたかっただけなのに……」
掠れた、子供のようなジークフリートの声。
ハーゲンはその言葉を静かに聞きながら、無言で深く、深く目を閉じた。
その男らしい目元に、一瞬だけ痛切な歪みが走ったのを、俺は壁際で見逃さなかった。
(ハーゲン……お前は……何を考えている……?)
胸の奥で、嫌な予感が渦を巻く。
ハーゲンはジークフリートを誰よりも英雄として尊敬し、その「背中」を託された男だ。そのハーゲンが今、かつてないほどの暗い深淵を瞳に宿して彼を見つめている。
両国の全面戦争、無数の民の大量死という最悪の未来。
それを回避するために、この冷徹で情に厚い男が、どのような「極断」に思い至ろうとしているのか。
「……ジークフリート様。今日のところは、自室へお引き取りくだされ」
ハーゲンは目を開け、鉄のような声で告げた。
「……これ以上の言葉は無用。ブルグントの命運は、我ら重臣がしかと預かります」
ジークフリートは力なく頷き、ネーデルラントの騎士たちに促されながら、重い足取りで会議室を去っていった。
残された会議室の中で、俺はただひとり、手袋をはめた自分の手を見つめていた。
完璧な貴婦人の仮面の下で、男としての「俺」の魂が、破滅の足音に恐怖し、激しく震えていた。
噛み合わないギア。
誰も悪人がいないはずなのに、それぞれの「愛」と「誇り」と「義」が絡まり合い、逃げ場のない惨劇の淵へと全員を叩き落としていく。
全面戦争という名の最悪の危機の陰で、英雄の「ある決断」の歯車が、静かに、けれど決定的に動き出そうとしていた。
人間は感情の動物である
- ウィリアム・シェイクスピア[偽史]