その日、俺はひどく酔っていた。それが大方の原因だった。
そこそこの懸賞金がかかっていた魔王を立て続けに始末して、俺の懐はそれこそ『そこそこ』に暖かかった。
《グーニーズ》で《ソルト》ジョーと《二代目》イシノオを相手にした賭けカードで惜敗して、何枚かの紙幣を失うことにはなったが、それでもしこたまにビールを飲める程度には。
「おい、新人バイト。ビールだ」
「ヤシロ様、飲み過ぎではありませんか?」
《ソルト》ジョーと《二代目》イシノオが一時の虚栄に酔って高笑いをしながら去り、店主であるエド・サイラスは夜も遅いというのになんの用事か店にいなかった。
弟子を自称する三人娘も出歩くような時間ではなく、《グーニーズ》の店内にいるのは俺と新人バイト——元《嵐の柩》卿の二人きりだった。
「俺の山岳歩兵デッキを更に完璧なものにするために脳にガソリンを入れる必要があるんだよ」
「《メダリオン》には詳しくありませんが、更なる山中遭難に陥るだけなのでは?」
《メダリオン》——正式名称《七つのメダリオン》の何たるかも知らない新人バイトが、ビールも注がずにそんなことを言ってくる。
俺は空になったジョッキを突きつけて言った。
「良いからビールだ! ほれ、ジョッキは替えなくて構わねェよ」
「仕方のないお客様ですね」
洗い物の手間を減らしてやっている優良客である俺に、新人バイトがそんなことを抜かす。
それで少しばかりイラッと来たのが原因かも知れない。
俺は空のジョッキを新人バイトに渡し損ねた。
ジョッキが落ちる。受け止めようとする俺。新人バイトも機敏に反応していた。
お互いにジョッキを掴もうとして——それは成功した。二人共に。
ジョッキを掴んだ俺の手の上から、更に新人バイトの細い指が添えられる形になった。
「まあ」
わざとらしく目を見開いてみせる新人バイト。
「なんだか恋愛小説の一場面みたいですね」
「るせぇ」
俺は今度こそ落とさないように注意しながら、ジョッキと新人バイトの指の間から手を抜く。
普段、魔王——新人バイトは元・魔王だが——を相手には、基本的に鉄を介した触れ合いしかしない。つまりは剣で切り裂くとか、剣で突き刺すとか、あるいは鉄板入りのブーツで脛をへし折るとかだ。
そのせいか、生身の手と手の触れ合いが妙に印象的だった。
酔いで体温の上がった俺の手に、新人バイトの冷たい指の感触が残っている気がする。嫌な感じだった。
「ホレ、ビールだ。早くしろ」
「やはり飲み過ぎなのではないでしょうか。視線も定まってないように見えますが? 《死神》ヤシロ殿」
何か、妙な勘違いをしたのか。新人バイトはカウンターから回り込んで俺の隣に座る。距離が妙に近かった。
「オイ、なに座ってんだ。仕事をしろ仕事を。それがバイトの役目だろう」
「確かにそれはそうですが。行き過ぎた暴走をする男性を嗜めるのも女性の役目ではありませんか?」
勇者と魔王に男も女もあるかと俺は思った。女のほうがエーテル知覚——《E3》による強化の効率が良いとか、そんな程度の違いしかない。少なくとも切り合いの上では。
何か気の利いた皮肉で追い払おうと俺が口を開きかけたとき、新人バイトがスッと、俺の背中から手を回して脇の下に腕を差し入れようとしきてきた。酔客の介抱のつもりか。
ゾッとする話だった。元魔王に介抱される勇者なんて笑い話にもならない。いや、《ソルト》のジョーあたりに聞かれたら爆笑されるだろうか。どちらにせよ俺は御免だった。
俺は腰を浮かせて新人バイトの腕を避けようとする。
しかし、やはり俺は酔っていたのだろう。その動きは失敗し、足をもつれさせる。
大失態だった。戦いの場でやっていたなら即座に生命を落としかねないほどの。
幸いにして深夜の《グーニーズ》は戦いの場ではなく、だが不幸にもそこには『相手』がいた。
バランスを崩した俺は新人バイト相手に倒れかかる形になる。「あっ」と妙に艶めいた、腹立たしい声を新人バイトがあげる。
最強の勇者である俺は、酔っていても、《E3》無しでも、そして無様に倒れこもうとしている最中でも最強にふさわしかった。少なくとも並の《E3》無しの勇者であったなら、ならそのまま新人バイトに覆いかぶさる失態を晒していただろう。
だがそうはならなかった。なんなら、後ろ向きに倒れ込む新人バイトが着ている潰れたカエルの様な柄が描かれたエプロンを観察する余裕すらあったし、こいつも仮にも元魔王なら受け身くらいはとるだろうと考えることも出来た。
だが俺はとっさに、新人バイトの頭をかき抱くようにして後頭部が床と激突するのを防いでいた。そんな無様を晒すとは思えなかったが、もしも新人バイトが頭を打ち付けるようなことになったら流石に目覚めが悪いと思ったからだ。暴力亭主のような——クズ以下のクズの所業に近くなってしまう。
右手で新人バイトの頭を抱き、左腕で俺自身が床と激突するのを防ぐ。妙に冷静な表情の——あえて感情を表に出すのを抑えているかの様に見える新人バイトの顔と、俺の顔が間近にあった。
「提案なのですが、《死神》ヤシロ殿」
「なんだ」
俺では自分でもひどく不機嫌とわかる声で尋ね返した。ここに来て、猛烈に酔いが脳を侵しているのを自覚する。急に動いたせいかもしれない。
「近くに私のセーフハウスが一軒あるので、そちらで飲み直すのは如何でしょうか? そこなら飲み過ごされても、ベッドもありますし」
酔いのせいだろう。新人バイトの瞳が妙に揺れている様に見えた。だが、それよりも俺はたかが下宿先のことをセーフハウスと抜かす新人バイトの気取った態度に、どっと疲れを感じていた。
「おまえな……」
先を続けようとして、うまく言葉が出てこない。そのまま、新人バイトの顔の横、自分の身体を支えている左腕へと俺は額を押しつけた。
やはり、俺はひどく酔っていたのだろう。あるいは毒でも盛られたかなどと、益体の無い思考を走らせながら、疲れとともに猛烈な睡魔が襲いかかってくるのを自覚した。
「エドのやつが……」
そこで俺は意識を手放した。未来永劫、誰にも知られたくない無様だった。
硬い感触と、柔らかな体温。相反する二つを同時に感じながら俺は目を覚ました。
渋谷の路地裏に俺の身体は座り込む形で寝かされていた。空模様からして時刻は明け方に近い。
場所は《グーニーズ》のすぐそば。恐らくは酔いつぶれて寝落ちした俺をエド・サイラスのやつが叩き出したのだろう。客商売をする人間の態度とは思えない。
まず真っ先に俺は自分の財布を確認し、恐らくは飲んだ分の料金分の紙幣は抜かれているものの、中身が残っていることに安堵する。
それから、ようやっと俺は直視したくない現実を直視した。
俺を枕代わりにするかのように身体を押し付けて、隣で新人バイトのやつが眠っていた。
その表情は見たことがないほどに安らかだった。
身を寄せ合って眠る勇者と元魔王。そんな光景を誰かに見られたかと思うと、俺は猛烈な吐き気に襲われた。実際に吐くことはしない。あまりにも無様過ぎる。
「ったく——」
だから俺は、少女のような顔で眠る女の額を指で弾いた。
そうしなければならない気がしたのだ。
元《嵐の柩》卿、ほんと好き。