【あらすじ】
夏を迎えたアビドスで、対策委員会の生徒が一人ずつ姿を消す事件が起きる。
名前を呼ぶ声。記録から消えていく存在。百鬼夜行に伝わる「帰り道」の怪異。
セリカ、アヤネ、ノノミ、そしてシロコまで失ったホシノは、かつてユメを失った頃のように追い詰められていく。先生は残されたホシノと共に、生徒たちを取り戻すため、存在しない駅から出発する怪異列車へ乗り込む。
会話中心の長編シリアスSSです。
キャラクターの口調や関係性には注意していますが、独自解釈およびif設定を含みます。
【注意】
・連続失踪事件、怪談、ホラー表現
・小鳥遊ホシノの強い曇らせ
・梔子ユメに関する原作ストーリーのネタバレ
・シロコ*テラーを含む最終編以降の要素
・百鬼夜行の怪異、カイザーPMC、ゲマトリアに関する独自設定
・精神的に追い詰められる描写
・軽度の戦闘、負傷表現
以上の要素が苦手な方はご注意ください。
セリカ「だから、絶対に返事しちゃ駄目だからね」
夏の夕暮れだった。
アビドス高等学校の対策委員会室では、古びた空調が唸りながら生温い風を吐き出していた。
窓の外では、赤く染まった砂が校舎の壁を撫でている。少し前まで鳴いていた蝉は、暑さに疲れたように声を潜めていた。
セリカは机の上へ、五枚の小さな札を並べた。
白い紙に赤い糸が縫いつけられ、中央にはそれぞれの名前が書かれている。
シロコ「ん。お守り?」
セリカ「この前のバイト先で余ったからって、店長にもらったの。百鬼夜行のお祭りで仕入れたらしいわ」
ノノミ「まあ。全員分あるんですね~」
アヤネ「ですが、少し変わった形をしていますね。この赤い糸にも意味があるのでしょうか?」
セリカ「そこまでは知らないわよ。怪談つきのお守りだって聞いただけ」
先生「それで、返事をしてはいけないんだね」
セリカ「そう。日が沈んだあと、誰もいない場所で誰かに名前を呼ばれることがあるんだって」
セリカは自分の札を持ち上げた。
セリカ「呼んでくるのは、一番会いたい人の声。でも、返事をしたら駄目。答えた人は、その声がする場所に連れていかれるの」
ノノミ「それは怖いですね~」
シロコ「連れていかれたあとは?」
セリカ「誰にも覚えてもらえなくなる。写真からも、名簿からも、全部消えるんだって」
アヤネ「では、こちらのお守りは?」
セリカ「名前を忘れないためのものらしいわ。本人が消えても、名前を書いた札だけは残るとか」
ホシノ「うへ~。ずいぶん都合よくできた怪談だねぇ」
ホシノは机に頬杖をついたまま、札を裏返した。
表には『小鳥遊ホシノ』と書かれている。
ホシノ「こんなので守られるなら、おじさんたちも苦労しないよ」
セリカ「どうせ迷信なんだから、細かいことはいいの。店長がわざわざ人数分くれたんだから、持っててよね」
先生「私の分は?」
セリカ「ないわよ」
先生「少し残念だな」
セリカ「なんで本気で欲しそうなのよ!」
シロコ「ん。私のを半分にする」
セリカ「駄目! お守りを破ろうとしない!」
ノノミ「それでしたら、先生の分は私が作って差し上げますね~」
ホシノ「先生は人気者だねぇ。おじさんなんて、もうお守りを持ち歩く歳でもないんだけど」
セリカ「ホシノ先輩も持ってて。なくしたら罰金にするから」
ホシノ「横暴だなぁ」
口ではそう言いながら、ホシノは札をポーチへしまった。
その瞬間だった。
空調の音が止まった。
砂が窓を擦る音も、遠くの蝉の声も消える。
音という音が、校舎から一斉に吸い出されたようだった。
誰かが対策委員会室の扉を叩いた。
一回。
二回。
三回。
誰も声を出さない。
磨りガラスの向こうに、人影は見えなかった。
それでも扉の外から、優しい女の声がした。
???『セリカ』
セリカの肩が跳ねる。
???『迎えに来たよ、セリカ』
セリカ「お母さ――」
ホシノ「セリカちゃん」
ホシノの声が割って入った。
セリカは両手で口を塞いだ。
セリカ「い、今のは違うから! 返事じゃないわよね!?」
アヤネ「大丈夫です。最後まで答えてはいません」
ノノミ「きっと誰かのいたずらですよ~」
シロコ「確認する」
先生「私も行くよ。一人では出ないほうがいい」
私とシロコが扉へ近づく。
ホシノはいつの間にか席を立ち、セリカの前へ移動していた。
扉を開ける。
廊下には誰もいなかった。
西日が窓から差し込み、床に長い影を作っている。
砂埃の積もった床には、小さな足跡が残されていた。
裸足の足跡だった。
それは扉の前から始まり、昇降口へ向かって続いている。
シロコ「外から入ってきた跡がない」
先生「扉の前で、急に現れたみたいだね」
足跡を辿ろうとしたとき、背後から何かが落ちる音がした。
振り返る。
ホシノのポーチから、先ほどの札が落ちていた。
札を縫っていた赤い糸の一部が、焼け焦げたように黒く変色している。
ホシノ「……嫌な色だねぇ」
ホシノは札を拾った。
いつもの眠そうな笑顔だった。
けれど、その指先はわずかに震えていた。
翌朝、セリカは学校に来なかった。
アヤネ「連絡がつきません」
対策委員会室に入るなり、アヤネはそう告げた。
セリカの机は残っている。しかし教科書にも、ノートにも、名前は書かれていなかった。
出席簿にも、当番表にも、黒見セリカという生徒は存在しない。
先生「自宅には?」
アヤネ「確認しました。ですが……」
アヤネは端末を握る手に力を込めた。
アヤネ「セリカちゃんのご家族は、セリカちゃんのことを知りませんでした」
ノノミ「そんな……」
シロコ「おかしい。セリカは昨日まで、ここにいた」
アヤネ「商店街にも問い合わせました。アルバイト先の店長も、セリカちゃんを覚えていません」
先生「シャーレに残っている記録も調べてみるよ」
端末を開き、過去の報告書を検索する。
対策委員会から提出された書類は何十件も残されていた。だが、作成者の欄からセリカの名前だけが抜け落ちている。
写真を開く。
そこには私とホシノ、シロコ、ノノミ、アヤネが写っていた。
本来ならセリカが立っていたはずの場所には、不自然な空間がある。
シロコ「消されている」
ノノミ「ですが、私たちは覚えています」
ノノミが机の上へ札を置く。
そこには、はっきりと『黒見セリカ』と残されていた。
ホシノ「お守りの怪談だけは、本当だったってことかな」
先生「まだ何が起きたのかは分からない。でも、普通の失踪ではないね」
アヤネ「昨日の足跡を調べます。校内の監視映像と、近隣の交通記録も確認します」
シロコ「私も行く」
先生「二人一組で動こう。返事もしないように。誰の声が聞こえても、必ず端末で本人を確認してから話すんだ」
ノノミ「ホシノ先輩は?」
ホシノ「おじさんは少し、カイザーの施設を見てくるよ」
先生「一人では行かせられない」
ホシノ「別に乗り込むわけじゃないよ。ちょっと話を聞くだけ」
シロコ「ホシノ先輩の『話を聞く』は、たまに銃声が混ざる」
ホシノ「信用ないなぁ」
先生「私が一緒に行くよ。シロコとノノミは、アヤネの調査を手伝ってくれる?」
アヤネ「分かりました」
全員が動き始める中、ホシノだけがセリカの机の前に残った。
引き出しを開け、何も書かれていないノートを一冊ずつ確認している。
先生「ホシノ」
ホシノ「先生。記録が消えてもさ」
先生「うん」
ホシノ「本人まで、最初からいなかったことにはならないよね」
先生「ならないよ」
ホシノ「……そっか」
ホシノはノートを元の場所へ戻した。
ホシノ「じゃあ、早く連れ戻さないとね」
その日の夕方、私は百鬼夜行のキキョウへ連絡した。
応答までには少し時間がかかった。
やがて端末の画面に、百花繚乱の詰所らしき部屋が映る。
キキョウ『先生から電話とは珍しいね。何か面倒事?』
先生「急にごめん。百鬼夜行の怪異について、聞きたいことがあるんだ」
キキョウ『怪異というだけでは範囲が広すぎる。特徴は?』
先生「知っている人の声で名前を呼ぶ。返事をした人は姿を消して、周囲の記憶や記録からも消えるんだ」
画面の中で、キキョウの表情が変わった。
キキョウ『……それは、どこで起きているの?』
先生「アビドス。すでに一人、いなくなった」
キキョウ『先生。そこにいる全員の名前を紙へ書いて。端末じゃなく、手書きで。それぞれが自分の名前を書いたあと、他の人にも上からなぞってもらって』
先生「互いの筆跡を重ねるんだね」
キキョウ『そう。名前を呼ぶ怪異に対して、自分が誰で、誰と繋がっているのかを決めておく』
ホシノ「それで連れていかれなくなるの?」
隣から声を挟むと、キキョウがこちらへ目を向けた。
キキョウ『そこにいるのは、小鳥遊ホシノ?』
ホシノ「初めまして、百花繚乱のお嬢さん」
キキョウ『残念だけど、確実に防げるとは言えない。本来、その怪異は人を連れ去るものじゃないから』
先生「本来は?」
キキョウ『百鬼夜行の古い伝承にある、「返り路」と呼ばれるものだと思う。帰る場所を見失った人に道を示す怪異。祭りの夜や、山で遭難した人の前に現れるとされている』
ホシノ「じゃあ、どうしてセリカちゃんを?」
キキョウ『分からない。ただ、伝承と違いすぎる。誰かが意図的に性質を歪めている可能性が高い』
画面の外から、足音が近づいてきた。
ナグサ『キキョウ。何か起こっているの?』
キキョウの隣に、ナグサが姿を見せる。
キキョウ『アビドスで、返り路らしき怪異が人を攫っている』
ナグサ『返り路が?』
先生「ナグサも知っているの?」
ナグサ『記録で読んだだけ。返り路は、基本的に人へ害を与えない。帰る場所を教えても、強制的に連れていくことはないはず』
キキョウ『百鬼夜行から祭具が持ち出されていないか調べる。先生は周辺で、鳥居や線路を模した道具を探して』
先生「分かった。助かるよ」
ナグサ『先生』
先生「どうしたの?」
ナグサ『呼ばれても、過去の人に返事をしてはいけない』
ナグサの言葉に、隣のホシノがわずかに身じろぎする。
ナグサ『怪異は本人を蘇らせるわけではない。こちらが持つ記憶を使って、最も望ましい姿を作るだけ』
ホシノ「……心配しなくても、幽霊に騙されるほど子どもじゃないよ」
ナグサ『そう』
ナグサは一度だけ目を伏せた。
ナグサ『分かっていても、答えたくなることはあるから』
通話を終えたあと、ホシノは札へ自分の名前を書き直した。
私もその上から、同じ文字をなぞる。
ホシノ「先生の字、あんまり上手じゃないねぇ」
先生「ホシノに言われるとは思わなかったな」
ホシノ「おじさんの字は、味があるっていうの」
先生「私の字にも味があるんじゃないかな?」
ホシノ「これは焦げた味だね」
ほんの少しだけ、ホシノがいつもの顔で笑う。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
翌日、アヤネが消えた。
校内放送の録音には、消える直前までの会話が残されていた。
アヤネ『先生、旧放送室の地下からセリカちゃんの端末反応が出ています』
先生『今、ホシノと向かっている。アヤネは委員会室から動かないで』
アヤネ『はい。ですが、反応が移動しています。これは……』
雑音が入る。
何かを引っかくような音。
その向こうから、セリカの声がした。
セリカの声『アヤネちゃん』
アヤネ『セリカちゃん?』
セリカの声『暗いの。何も見えない。お願い、助けて』
アヤネ『場所を教えてください。すぐに――』
先生『アヤネ、答えないで!』
私の声が届くより先に、放送室の照明が落ちた。
駆け戻ったとき、アヤネは消えていた。
椅子だけがゆっくり回り、ヘッドセットからセリカの泣き声が流れ続けている。
机には、赤い糸が黒く変色した札が残されていた。
ノノミ「アヤネちゃん……」
シロコ「地下の反応も偽物だった。私たちを引き離すための罠」
先生「もっと早く気づくべきだった」
ホシノ「先生のせいじゃないよ」
放送室の入り口に立ったホシノが言った。
ホシノ「指示を守らなかったアヤネちゃんが悪い」
ノノミ「ホシノ先輩?」
ホシノ「返事をするなって言ったでしょ。それなのに、声がセリカちゃんに似てたくらいで答えた」
先生「アヤネはセリカを助けようとしたんだと思う」
ホシノ「それで自分まで消えたら意味ないじゃん」
ホシノは笑っていた。
いつもの気の抜けた笑顔ではない。
薄い膜を顔に貼りつけたような、何も届かない笑顔だった。
ホシノ「おじさん、間違ったこと言ってる?」
先生「間違いだとは言わない。でも、アヤネの気持ちまで否定する必要はないよ」
ホシノ「先生は、残された側じゃないからそんなことが言えるんだ」
そのとき、廊下の奥から声がした。
???『ホシノちゃん』
明るく、少し頼りなく、それでもホシノの名を呼ぶことが心からうれしいような声。
ホシノの体が硬直する。
???『今度こそ、迎えに来てくれたんだね』
ホシノ「……違う」
???『ホシノちゃん』
ホシノ「違う!」
ホシノが銃を抜き、誰もいない廊下へ向ける。
私はすぐに銃身を押さえた。
先生「ホシノ、撃たないで」
ホシノ「離して」
先生「銃を下ろしたら離すよ」
ホシノ「平気だって言ってるでしょ!」
先生「今のホシノを一人にはできない」
ホシノ「おじさんは、間違えない」
先生「うん」
ホシノ「もう二度と、間違えないから」
引き金にかかった指が震えている。
やがてホシノは力を抜き、ゆっくりと銃を下ろした。
ホシノ「あれは、ユメ先輩じゃない」
先生「分かってる」
ホシノ「分かってるんだよ、そんなこと」
ホシノは私の手を振り払い、廊下の壁にもたれた。
ホシノ「分かってるのに……声だけは、忘れてなかった」
その横顔へ、かけるべき言葉を見つけられなかった。
ノノミは、私たちの目の前で消えた。
百鬼夜行から取り寄せた古い記録を調べていたとき、床に突然、水たまりが現れた。
水面には、存在しない赤い鳥居が映り込んでいる。
そこから白い手が伸び、ノノミの足首を掴んだ。
ノノミ「きゃっ……!」
シロコ「ノノミ!」
シロコが発砲する。
弾丸は白い手を貫通し、床だけを砕いた。
ホシノが飛びつき、ノノミの両腕を掴む。
ホシノ「引っ張って!」
先生「分かった!」
私とシロコも加わる。
けれど、ノノミの体は浅い水たまりへ腰まで沈んでいた。
あり得ない。
床下に空間はない。
それでも水面の向こうから、顔のない人影がノノミを引きずり込もうとしている。
???『お嬢様』
ノノミ「……」
???『皆様がお待ちです』
ノノミは返事をしなかった。
代わりにホシノの顔を見上げる。
ノノミ「ホシノ先輩。手が……」
ホシノの手のひらから血が滲んでいた。
砕けた床の破片が刺さっている。それでもホシノは離さなかった。
ホシノ「こんなの、なんでもない!」
ノノミ「ですが、このままでは先輩まで」
ホシノ「離さない!」
ホシノは泣きそうな顔で叫んだ。
ホシノ「ノノミちゃんまでいなくなったら、おじさんは――」
ノノミの札を縫う糸が、赤から黒へ変わる。
一本ずつ、糸が切れていく。
ノノミ「ホシノ先輩」
ホシノ「謝るな」
ノノミ「はい」
ホシノ「大丈夫だなんて言うな」
ノノミ「……はい」
ホシノ「帰ってくるなんて、簡単に約束するな!」
ノノミはしばらく黙っていた。
やがて、いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
ノノミ「では、お願いしてもいいですか?」
ホシノ「なに」
ノノミ「今度は、ちゃんと迎えに来てください」
最後の糸が切れた。
掴んでいた腕の感触が消える。
ホシノの両手が床へ叩きつけられた。
水たまりも、白い手も、ノノミも消えていた。
床には、札だけが残っている。
ホシノ「……また」
先生「ホシノ」
ホシノ「また、手を離した」
先生「違う。最後まで掴んでいたよ」
ホシノ「同じだよ」
ホシノは札を拾い上げた。
ホシノ「残らなかったら、同じなんだよ」
その夜、私とシロコは砂漠の外れにあるカイザーの放棄施設へ入った。
ホシノも来ると言い張ったが、手の治療を理由に校舎へ残した。
地下倉庫には、百鬼夜行から持ち出されたと思われる祭具が並べられていた。
鳥居を模した柱。
黒い鈴。
線路のように組み合わされた細長い石。
シロコ「カイザーが怪異を運んだ?」
先生「その可能性は高いね」
奥には、祭具と接続された観測装置があった。
黒い金属と、幾何学模様。人の感情や神秘を測定するような、カイザーの技術体系から外れた機械。
以前、ゲマトリアと対峙した際に見たものと似ている。
シロコ「先生。これを知っている?」
先生「……心当たりがある」
シロコ「誰?」
先生「生徒を人としてではなく、研究対象として見る大人たちだよ」
シロコ「カイザーとは違う?」
先生「違う。カイザーが利益のために祭具を運び、別の誰かが怪異を実験へ利用したんだと思う」
装置の側面に触れる。
画面に四つの波形が表示された。
セリカ、アヤネ、ノノミ。
そして、まだこちら側にいるはずのシロコ。
先生「シロコ、離れて!」
叫ぶと同時に、装置の背後で空間が裂けた。
白い腕がシロコの肩へ絡みつく。
シロコ「先生、来ないで」
シロコは銃床を床へ突き立てた。
さらに何本もの手が現れ、体を裂け目へ引き込もうとする。
先生「手を伸ばして!」
シロコ「先生まで捕まる」
先生「それでも放せないよ!」
手を掴む。
けれど、人間一人の力では抗えない。
空間の向こうから、崩壊したアビドスが見えた。
誰もいない教室。
黒い空。
白い砂。
その中に、黒い外套をまとった少女が立っていた。
シロコ*テラー「離れて」
銃声が響く。
シロコに絡みついていた腕が消し飛ぶ。
シロコ*テラーは裂け目の向こうから手を伸ばし、こちらのシロコを引き寄せた。
先生「待って!」
シロコ*テラー「このままだと、先生も巻き込まれる」
シロコ「もう一人の、私」
シロコ*テラー「時間がない」
先生「二人とも、一緒に戻る方法を探そう」
シロコ*テラー「できない」
先生「まだ試していないよ」
シロコ*テラー「先生は、変わらない」
一瞬だけ、シロコ*テラーの目が柔らかくなる。
だが、裂け目は急速に閉じ始めていた。
シロコ*テラー「先生。ホシノ先輩に伝えて」
先生「自分で伝えてほしい」
シロコ*テラー「死んだ人に呼ばれても、答えないで、と」
シロコ「待って。先生を置いていけない」
シロコ*テラー「今は、こちらへ来たほうが生き残れる」
シロコ「でも」
シロコ*テラー「大丈夫」
シロコ「それは、嘘」
シロコ*テラー「……ん。そうかもしれない」
裂け目が閉じる。
掴んでいたシロコの手が、私の手の中から消えた。
装置には四つの波形が並んでいる。
全員が、向こう側へ連れていかれた。
校舎へ戻ると、ホシノは対策委員会室にいた。
五つの机を並べ直し、セリカの席に教科書を、アヤネの席に無線機を置いている。
ノノミの席にはティーカップ。
シロコの席には、自転車の整備道具。
自分の机だけが、部屋の端へ移動されていた。
ホシノ「シロコちゃんも、消えたんだね」
先生「……ごめん」
ホシノ「先生が謝ることじゃないよ」
先生「でも、止められなかった」
ホシノ「だから、先生のせいじゃない」
ホシノは穏やかに笑った。
その静けさが、何より恐ろしかった。
先生「その机を戻そう」
ホシノ「おじさんの場所はいらないよ」
先生「どうして?」
ホシノ「席が一つ空いてれば、みんなが戻ってこられるかもしれない」
先生「そんな決まりはない」
ホシノ「あるかもしれない」
ホシノは自分の札を机に置いた。
ホシノ「誰か一人が残る代わりに、四人が戻ってくるなら安いでしょ」
先生「それは駄目だよ」
ホシノ「先生には関係ない」
先生「あるよ」
ホシノ「これはアビドスの問題だ!」
机が蹴り倒される。
置かれていたティーカップが床へ落ち、割れた。
ホシノ「おじさんが守るって決めた! それなのに、全員いなくなった!」
先生「うん」
ホシノ「ユメ先輩のときもそうだった! 何もできなかった! また同じことになった!」
先生「同じじゃない」
ホシノ「何が違うの!」
先生「今は、ホシノが一人じゃない」
ホシノ「一人だよ!」
ホシノの声が、空っぽの部屋に響いた。
ホシノ「もう、みんないないじゃん!」
先生「私がいる」
ホシノ「先生に何ができるの!」
先生「分からない」
ホシノが息を止める。
先生「何が正しいのか、まだ分からない。みんながどこにいるのかも、確実に連れ戻せるかも分からない」
ホシノ「だったら――」
先生「それでも、ホシノ一人を代わりに差し出すのは間違っている」
ホシノ「綺麗事だよ」
先生「そうかもしれない。でも、綺麗事を言うことまで諦めたら、あの大人たちと同じになる」
ホシノ「あの大人たち?」
先生「ゲマトリア。怪異を歪めたのは、おそらく彼らだ」
ホシノ「先生は知ってたの?」
先生「今、痕跡を見て気づいた。もっと早く結びつけるべきだった」
ホシノ「また先生の知ってる大人が、おじさんたちを実験に使ったんだ」
先生「そうだと思う」
ホシノ「なら、先生が責任を取ってよ」
先生「取るよ」
ホシノが私を見る。
先生「でも、責任を取ることと、一人で全部背負うことは違う。ホシノも同じだ」
ホシノ「おじさんは、もう疲れた」
ホシノは床へ座り込んだ。
ホシノ「どうして、またおじさんだけ残るの」
声が震えていた。
ホシノ「待ってたのに。信じてたのに。今度は守れると思ったのに」
先生「怖かったんだね」
ホシノ「そんな言葉で片づけないでよ」
先生「片づけない。私も怖いから」
ホシノ「先生も?」
先生「みんなを連れ戻せないかもしれない。次はホシノが消えるかもしれない。私の判断が間違うかもしれない。怖いよ」
私はホシノの隣へ座った。
先生「だから、一人で決めたくない。ホシノはどうしたい?」
ホシノ「……取り戻したい」
先生「うん」
ホシノ「何をしてでも」
先生「その中に、ホシノ自身を捨てることは入れないでほしい」
ホシノ「約束できない」
先生「なら、今は約束できなくてもいい。ただ、私を置いて一人で行かないで」
ホシノ「先生は、ずるいね」
先生「そうかもしれない」
端末が鳴った。
キキョウからだった。
キキョウ『先生、祭具の移送記録を見つけた。百鬼夜行から盗まれた返り路の御神体が、カイザーの貨物列車でアビドスへ運ばれている』
先生「怪異へ入る方法は?」
キキョウ『旧アビドス駅。今夜、存在しない臨時列車が停車する』
ナグサ『私たちも向かう』
先生「危険だよ」
ナグサ『百鬼夜行の怪異が利用されている。それに、もうアビドスだけの問題ではない』
キキョウ『何か起こっていると分かっていて、電話の向こうから指示を出すだけでは百花繚乱の名が廃るからね』
先生「ありがとう。待ってるよ」
通話を切る。
ホシノは立ち上がり、盾を背負った。
ホシノ「行こう、先生」
先生「うん」
ホシノ「みんなを迎えに行く」
先生「一緒に行こう」
日付が変わる頃、私たちは旧アビドス駅へ到着した。
しかし駅前には、カイザーPMCの部隊が待ち構えていた。
カイザーPMC兵「対象を確認。小鳥遊ホシノ、およびシャーレの先生を拘束する」
ホシノ「先生、下がってて」
先生「一人で無理をしないで」
ホシノ「大丈夫。すぐ終わるよ」
ホシノが盾を構える。
その瞬間、駅舎の照明が消えた。
ファウスト「困りますね」
暗闇の中から、聞き覚えのある声が響く。
ファウスト「これから列車に乗ろうという乗客を、切符も確認せず拘束するとは」
カイザー兵の足元で閃光が弾けた。
混乱の中、紙袋を被った少女がホームへ飛び込んでくる。
ファウスト「そのような横暴、このファウストが見過ごすと思いましたか!」
先生「ヒフ――」
ファウスト「ファウストです!」
ホシノ「まだ最後まで言ってないよ」
ファウスト「言おうとしたのは分かります!」
ファウストの背後から、キキョウとナグサが姿を現す。
キキョウ「先生、話はあと。ホームへ向かって」
ナグサ「ここは私たちが引き受ける」
先生「二人だけで大丈夫?」
キキョウ「百花繚乱を甘く見ないでほしいね」
ナグサ「それに、二人だけではない」
駅の外で複数の銃声が響く。
百花繚乱の生徒たちが、カイザー部隊の退路を塞いでいた。
ホシノ「おじさんたちだけで十分だよ。これ以上、巻き込む必要は――」
ファウスト「巻き込まれたのではありません」
ファウストが紙袋の奥から、はっきり言った。
ファウスト「私が、自分で来ると決めたんです」
ホシノ「でも」
ファウスト「仲間が危険な場所へ向かうと知って、黙って待っていることはできませんから」
ホシノが言葉を失う。
ファウスト「覆面水着団の絆を、甘く見ないでください!」
先生「ヒフミらしいね」
ファウスト「ファウストです!」
ホームへ駆け込む。
錆びた線路の上に、赤い光が浮かんでいた。
時刻表には、存在しない『二十五時』の文字が表示されている。
遠くから列車の音が聞こえた。
だが、近づいてきた車両は怪異のものではなかった。
ハイランダー鉄道学園の紋章をつけた機関車が、火花を散らしながらホームへ突入してくる。
ヒカリ『まもなくぅ、旧アビドス駅ぃ、旧アビドス駅ぃ』
ノゾミ『怪異のお客さまは乗車禁止! 先生たちは早く乗って!』
アオバ『勝手に放送内容を変えないでください! それと制限速度を百二十も超過しています!』
ヒカリ『だってぇ、止まらないんだもん』
アオバ『止めるのが運転士の仕事でしょうが!』
激しい音を立て、列車がどうにかホームへ停車する。
扉が開いた。
ノゾミ「乗車券はあとでいいから、早く!」
先生「どうして三人が?」
アオバ「百鬼夜行側から、存在しない路線を走れる列車が必要だと依頼を受けました」
ヒカリ「路線図にないならぁ、新しく登録すればいいよねぇ」
ノゾミ「終点はアビドス! 途中下車は禁止!」
アオバ「そんな簡単な話ではありません。怪異側が線路を書き換え続けています。こちらが一つ駅を作れば、向こうは三つ偽の駅を増やす状況です」
先生「それでも走れる?」
アオバ「走れないと答えたら、諦めますか?」
先生「諦めないよ」
アオバ「でしょうね。なら、聞くだけ無駄です。早く乗ってください」
私とホシノ、ファウストが列車へ乗り込む。
キキョウとナグサも続いた。
キキョウ「カイザー側の指揮車両は止めた。御神体の回収は百花繚乱の別動隊に任せる」
ナグサ「怪異の中へ入れば、外側からの援護はできない。私たちも行く」
扉が閉まり、列車が走り出す。
窓の外から旧駅が消えた。
代わりに、誰もいない百鬼夜行の夏祭りが現れる。
提灯には明かりが灯り、屋台には料理が並んでいる。だが、人の姿は一つもなかった。
次の車両へ続く扉を開ける。
誰もいないはずの客席に、紫色の髪の少女が座っていた。
ヒナだった。
ヒナ「遅かったわね、先生」
先生「ヒナ。どうしてここに?」
ヒナ「百鬼夜行からゲヘナへ、カイザーの武装列車に関する情報提供があった。調べているうちに、この列車へ辿り着いたの」
ホシノ「風紀委員長さんまで来るとは思わなかったなぁ」
ヒナ「私も、またあなたを追うことになるとは思わなかったわ」
ホシノ「だったら止める?」
ヒナは席から立ち上がり、銃を手に取った。
ヒナ「止めないわ」
ホシノの目がわずかに見開かれる。
ヒナ「小鳥遊ホシノ。今度は、あなたを止めない」
ホシノ「……どういう風の吹き回し?」
ヒナ「あなたが仲間を連れ戻しに行くなら、協力する」
ヒナはホシノの横を通り、前方車両へ続く扉を開いた。
ヒナ「でも、自分だけを置いて帰るつもりなら、そのときは力ずくで止める」
ホシノ「結局、止めるんじゃん」
ヒナ「当然でしょう」
列車が激しく揺れる。
アオバ『まもなく最初の停車駅です! ただし、停車時間は怪異側の都合で変動します!』
ノゾミ『つまり、降りたら急いで戻ってきて!』
ヒカリ『置いてっちゃうかもしれないよぉ』
アオバ『置いていかないように努力してください!』
最初の駅は、アビドスの商店街だった。
砂に埋もれていたはずの店々が立ち並び、通りには大勢の人がいる。
しかし誰も、セリカを見ていなかった。
セリカはアルバイト先の前に立ち、道行く人へ必死に声をかけていた。
セリカ「店長! 私よ! ずっとここで働いてたでしょ!」
店長の姿『人違いじゃないかな』
セリカ「そんなわけない! 先週だって、在庫の整理を私が――」
店長の姿『うちに君みたいな子はいないよ』
セリカの体が透け始めている。
ホシノが駆け寄った。
ホシノ「セリカちゃん!」
セリカ「……誰?」
ホシノの足が止まる。
セリカ「私を知ってるの?」
ホシノ「何言ってるのさ。おじさんだよ」
セリカ「おじさん……?」
セリカは自分の札を見た。
そこには名前が書かれていない。
セリカ「私、誰なの?」
通りの人々が、一斉にセリカを振り返る。
通行人たち『誰でもない』
通行人たち『必要とされていない』
通行人たち『いなくても困らない』
セリカ「うるさい……」
店長の姿『借金を返すために働いて、感謝もされず、毎日怒ってばかり。そんな場所へ帰る必要があるのかい?』
セリカ「それは……」
ホシノがセリカへ手を伸ばす。
ホシノ「帰ろう」
セリカ「帰って、どうするの?」
ホシノ「みんなが待ってる」
セリカ「嘘よ」
セリカがホシノの手を叩いた。
セリカ「みんな、私がいなくても困ってない! 私がいなくなれば、喧嘩する人も、文句を言う人もいなくなる!」
先生「セリカ」
セリカ「先生も、私が面倒だったんでしょ!」
先生「面倒だと思ったことはあるよ」
セリカが目を見開く。
ホシノ「先生」
先生「でも、それとセリカにいなくなってほしいと思うことは、全然違う」
セリカ「……そんなの」
先生「私たちは、いつも楽しいだけの関係じゃない。意見がぶつかることもある。怒られることも、怒らせることもあるよ」
通行人たちが近づいてくる。
ヒナとナグサが銃を構え、人影を押し返す。
キキョウ「急いで! この駅全体がセリカの名前を消そうとしている!」
ホシノ「セリカちゃん」
ホシノはもう一度、手を差し出した。
ホシノ「おじさんは、セリカちゃんがいなくて困ってる」
セリカ「何に?」
ホシノ「いっぱいあるよ。部屋が静かすぎるし、誰もおじさんを起こしてくれないし、当番を忘れても怒ってくれない」
セリカ「それ、私じゃなくてもいいじゃない」
ホシノ「うん」
セリカ「……え?」
ホシノ「代わりができることは、たくさんある」
ホシノはセリカを真っ直ぐ見た。
ホシノ「でも、おじさんは代わりが欲しいんじゃない。セリカちゃんに帰ってきてほしいんだ」
セリカの目から涙が溢れた。
セリカ「私は……」
店長の姿がセリカの肩を掴む。
店長の姿『帰れば、また借金と苦労が待っている』
セリカ「分かってるわよ!」
セリカはその手を振り払った。
セリカ「必要とされたいから帰るんじゃない! 私が、あそこに帰りたいの!」
札に『黒見セリカ』の文字が浮かぶ。
通りの景色が崩れ始めた。
一行は列車へ駆け戻る。
扉が閉まる直前、白い手がセリカの足を掴んだ。
セリカ「きゃっ!」
セリカの体がホームへ引きずり戻される。
ホシノ「セリカちゃん!」
ホシノが腕を掴み、ヒナが白い手を撃ち抜く。
ファウストと先生も加わり、セリカを車内へ引き込んだ。
扉が閉まる。
セリカ「……遅いのよ」
ホシノ「ごめん」
セリカ「もっと早く来なさいよ、馬鹿……!」
セリカはホシノの胸元を掴み、そのまま顔を埋めた。
ホシノは何も言わず、その背中へ腕を回した。
二つ目の駅は、無数のモニターが並ぶ管制室だった。
画面の一つ一つに、対策委員会の仲間たちが映っている。
セリカが消える。
ノノミが沈む。
シロコが裂け目へ飲み込まれる。
映像は何度も繰り返されていた。
中央の椅子に、アヤネが座っている。
アヤネ「駄目です。もう一度、最初から……」
セリカ「アヤネちゃん!」
アヤネ「第三班は昇降口を封鎖してください。シロコちゃんは西側へ。ノノミ先輩は――」
セリカ「アヤネちゃん、私よ!」
アヤネは振り返らない。
アヤネ「偽物は黙っていてください」
セリカ「偽物じゃない!」
アヤネ「皆さん、そう言うんです」
モニターに無数のセリカが映る。
セリカの姿『アヤネちゃん』
セリカの姿『助けて』
セリカの姿『あなたのせいよ』
アヤネ「私が正しい指示を出せば、今度こそ全員を救えます」
先生「アヤネ、一人で全部を管理するのは無理だよ」
アヤネ「ですが、私が見ていなければ、また誰かが消えます!」
アヤネが操作盤へしがみつく。
指先は擦り切れ、血が滲んでいた。
アヤネ「私が間違えたから、セリカちゃんが消えた。私が返事をしたから、皆さんを危険に巻き込んだ」
セリカ「違うわよ!」
アヤネ「その言葉も、もう何度も聞きました!」
管制室の扉が閉まる。
列車の警笛が遠ざかり始めた。
アオバ『駅が列車を拒絶しています! あと三分で線路ごと切り離されます!』
ノゾミ『早くして!』
セリカは操作卓を乗り越え、アヤネの前に立った。
セリカ「じゃあ、確認しなさいよ」
アヤネ「何をですか」
セリカ「前に私が、当番を忘れたことがあったでしょ」
アヤネ「そのようなことは、何度も」
セリカ「多いみたいに言わないで!」
アヤネの指が止まる。
セリカ「そのとき、あんたは怒らないで自分で全部やった。だから私、次の日に早く来て、こっそり掃除をやり直したの」
アヤネ「……知っています」
セリカ「見てたの!?」
アヤネ「監視カメラに映っていましたから」
セリカ「だったら、そのとき言いなさいよ!」
アヤネ「セリカちゃんが恥ずかしがると思って」
アヤネが初めて振り返る。
アヤネ「本当に、セリカちゃんなんですね」
セリカ「そうよ」
アヤネ「私のせいで――」
セリカ「その話は列車で聞く。今は帰るわよ!」
アヤネ「ですが、管制を止めれば、皆さんの進路が」
先生「止めなくていい。最後の切り替えを、アヤネ自身でやろう」
アヤネはモニターを見上げた。
無数に分岐する線路。その中に一本だけ、赤い糸で結ばれた道がある。
アヤネ「皆さん、私の指示に従ってください」
ホシノ「了解、アヤネちゃん」
アヤネ「右側の補助盤を破壊してください。セリカちゃんは、私と同時にレバーを」
セリカ「分かった!」
ヒナとホシノが補助盤を撃ち抜く。
アヤネとセリカが二人でレバーを倒した。
偽の線路が消え、列車への道が繋がる。
管制室が崩れ始めた。
アヤネは自分の足で椅子から離れた。
アヤネ「帰ります」
セリカ「当たり前でしょ!」
アヤネ「はい。一緒に帰りましょう、セリカちゃん」
三つ目の駅は、砂漠の中に建つ大きな屋敷だった。
食堂の長いテーブルに、ノノミが一人で座っている。
周囲には顔のない使用人たち。
テーブルの向こうには、アビドスの仲間たちを模した人形が並んでいた。
使用人『お嬢様がアビドスへ関わらなければ、彼女たちは狙われませんでした』
別の使用人『あなたの善意は、いつも他人を巻き込みます』
ノノミ「そうかもしれませんね~」
ノノミは笑っていた。
ティーカップを持つ手だけが震えている。
使用人『帰らなければ、彼女たちは自由になれます』
ノノミ「はい」
ホシノ「ノノミちゃん」
ノノミの手から、カップが落ちた。
ノノミ「ホシノ先輩」
ホシノ「迎えに来たよ」
ノノミ「……来てしまったんですね」
ホシノ「約束したからね」
ノノミ「でも、私は帰らないほうがいいのかもしれません」
ホシノの足が止まる。
ノノミ「私が皆さんと一緒にいることで、実家やカイザーの事情へ巻き込んでしまう。私がいなければ、もっと自由に生きられるのではありませんか?」
ホシノ「そんなことないよ」
ノノミ「本当に?」
ノノミの笑顔が崩れる。
ノノミ「私のせいで、迷惑をかけたことは一度もありませんか?」
ホシノはすぐには答えなかった。
ノノミ「ほら。あるんですよね」
ホシノ「あるよ」
セリカ「ホシノ先輩!」
ホシノ「ノノミちゃんの事情で、危ない目に遭ったことはある。お金の使い方で困ったこともあるし、何を考えてるのか分からなくて不安になったこともある」
ノノミが俯く。
ホシノ「でもさ」
ホシノはノノミの前に立った。
ホシノ「迷惑をかけなかった人だけが、仲間になれるわけじゃないよ」
ノノミ「……先輩」
ホシノ「おじさんだって、みんなにいっぱい迷惑かけてる。それでも一緒にいたいって思ってる」
セリカがノノミの片手を取る。
セリカ「帰ってきたら、迷惑をかけた分だけ働いてもらうから」
アヤネ「勝手に仕事を増やさないでください。ですが、ノノミ先輩がいなければ困ります」
ノノミ「皆さん……」
使用人『それは一時の感情です』
使用人『いずれ、あなたを負担に思う』
ノノミ「そうかもしれません」
ノノミは立ち上がった。
ノノミ「ですが、そのときはちゃんと話し合います。勝手に消えて、皆さんの気持ちを決めることはしません」
屋敷の窓が一斉に割れる。
顔のない使用人たちが、ノノミへ殺到した。
ヒナ「道を開けるわ!」
ナグサ「右側は任せて」
キキョウ「御神体の影を撃って! 本体を狙っても意味がない!」
激しい銃撃の中、ノノミがホシノへ手を伸ばす。
ノノミ「ホシノ先輩」
ホシノ「なに?」
ノノミ「今度は、離さないでください」
ホシノ「うん」
ホシノはその手を強く握った。
ホシノ「絶対に離さない」
四つ目の駅が近づくにつれ、列車の窓が黒く染まっていった。
アオバ『警告します。次の駅は二つの世界に同時に存在しています』
ヒカリ『線路も二本あるよぉ』
ノゾミ『でも、乗れるのは一人だけって表示されてる』
先生「一人だけ?」
アオバ『怪異側が乗車人数を制限しています。同一の存在が二人いるため、片方を異物と判定しているようです』
列車が白い砂漠へ停車する。
シロコとシロコ*テラーは、崩れかけた駅舎で無数の白い手と戦っていた。
シロコ「先生」
シロコ*テラー「どうして来たの」
先生「迎えに来たよ」
シロコ*テラー「こちらのシロコだけ連れて帰って」
シロコ「駄目。あなたも乗る」
シロコ*テラー「私は違う世界の存在。乗れば列車が現実へ戻れなくなる」
シロコ「なら、私が残る」
シロコ*テラー「それは駄目」
シロコ「あなたが残るのも駄目」
二人の足元に、一枚だけの乗車券が落ちていた。
白い手が駅舎を覆い始める。
アオバ『あと二分で駅が崩壊します!』
ホシノ「二人とも乗ればいい」
シロコ*テラー「できない」
ホシノ「どうして?」
シロコ*テラー「切符が一枚しかないから」
ホシノ「そんなの、そっちが勝手に決めたルールでしょ」
ホシノは乗車券を拾い上げ、真ん中から破いた。
シロコ*テラー「何を――」
ホシノ「一枚を二人で使えばいい」
アオバ『無茶苦茶なことをしないでください!』
ノゾミ『でも、一人分の切符を半分ずつならぁ』
ヒカリ『二人で一人分だねぇ』
アオバ『あなたたちは黙って――』
アオバが言葉を止める。
アオバ『いえ、待ってください。同一人物として扱うなら、運賃は一人分。別人として扱うなら、座席を二つ用意すればいい』
先生「できる?」
アオバ『鉄道会社の規則は、怪異の屁理屈より優先されます。少なくとも、今はそういうことにします』
ノゾミ『臨時乗車券、発行!』
ヒカリ『お客さま二名、ご案内しまぁす』
列車の扉が大きく開く。
しかし怪異が二人を逃がすはずもない。
白い手がシロコとシロコ*テラーを引き離す。
シロコ「くっ……」
シロコ*テラー「私を置いて!」
ホシノ「その台詞、聞き飽きたよ!」
ホシノが盾で白い手を押し潰す。
セリカとアヤネ、ノノミが続いた。
セリカ「勝手に残ろうとしないで!」
アヤネ「全員分の席は確保しています!」
ノノミ「帰ってから、ゆっくりお話ししましょう!」
ヒナとナグサが左右から援護し、キキョウが護符で怪異の動きを封じる。
ファウストがシロコ*テラーへ手を伸ばした。
ファウスト「早く!」
シロコ*テラー「私まで助ける理由はない」
ファウスト「助けたいと思ったからです!」
シロコ*テラー「私を知らないのに?」
ファウスト「知らない人を助けてはいけないなんて規則はありません!」
シロコ*テラーは、差し出された手を見つめた。
やがて、恐る恐る握る。
全員が列車へ飛び込んだ。
扉が閉まる。
二枚に裂かれた切符が光り、シロコとシロコ*テラーの手の中で、それぞれ一枚の乗車券へ変わった。
全員を回収した。
それなのに、列車は現実へ戻らなかった。
窓の外に、砂に覆われる前のアビドスが現れる。
明るい校舎。
大勢の生徒。
借金も、廃墟もない街。
列車は最後の駅へ停車した。
アオバ『終点です』
先生「ここは?」
アオバ『乗客の一人が、最も帰りたいと願っている場所です』
扉が開く。
ホームに、背の高い少女が立っていた。
ユメの姿『ホシノちゃん』
ホシノの呼吸が止まる。
ユメの姿『遅かったね』
ホシノ「ユメ、先輩……」
ホシノが列車を降りる。
ヒナも続こうとしたが、先生が腕で制した。
先生「少しだけ、待とう」
ヒナ「でも」
先生「最後に選ぶのは、ホシノだよ」
ホシノはユメの前まで歩いた。
ユメの姿『ずっと待ってたよ』
ホシノ「うん」
ユメの姿『今度は、迎えに来てくれたんだね』
ホシノ「うん」
ユメの姿『ここなら、何も失わないよ。借金もない。砂漠もない。みんなも笑ってる』
ホームの向こうに、対策委員会の仲間たちの姿が現れる。
セリカも、アヤネも、ノノミも、シロコもいる。
誰も傷ついていない。
ユメの姿『だから、一緒に帰ろう?』
ホシノが手を伸ばす。
その指先が、ユメへ触れかける。
ホシノ「……先生」
先生「ここにいるよ」
ホシノ「みんなも?」
セリカ「いるわよ」
アヤネ「ここにいます」
ノノミ「ずっと一緒ですよ」
シロコ「ん。待ってる」
ホシノは目を閉じた。
ホシノ「そっか」
そして、ユメへ伸ばしていた手を下ろす。
ホシノ「ごめんね、ユメ先輩」
ユメの姿『どうして謝るの?』
ホシノ「見つけてあげられなくて、ごめん。あのとき、ちゃんと話を聞けなくてごめん。一人にして、ごめん」
ユメの姿『だったら、今度は一緒にいよう』
ホシノ「それはできない」
ユメの姿『どうして?』
ホシノ「おじさんには、帰る場所があるから」
ユメの姿から笑顔が消える。
ユメの姿『また置いていくの?』
ホシノ「違うよ」
ホシノは涙を拭わずに笑った。
ホシノ「先輩は、おじさんの中にちゃんといる。だから、こんな偽物のアビドスで待ってなくていい」
ユメの姿『ホシノちゃん』
ホシノ「さよなら、ユメ先輩」
駅全体が激しく揺れる。
ユメの姿が崩れ、無数の白い手へ変わった。
黒い観測装置が地面からせり上がり、その前に仮面を被った男が現れる。
仮面の男「実に残念です、小鳥遊ホシノ」
先生「ゲマトリア」
生徒たちが先生を見る。
仮面の男「帰りたいという願い。失われた者への執着。それらが神秘をどのように変質させるのか、あと少しで観測できたというのに」
先生「生徒を実験に使うのは、ここで終わりだよ」
仮面の男「先生。あなたに、この怪異を否定する権利があるのですか?」
先生「私が否定するんじゃない。帰る場所を選ぶのは、生徒たち自身だ」
装置から黒い鎖が伸び、列車へ絡みつく。
アオバ『動力低下! このままでは現実へ戻れません!』
ヒカリ『線路が消えてくよぉ!』
ノゾミ『早く装置を壊して!』
仮面の男「装置を破壊すれば、帰り道も消えます」
キキョウ「御神体と装置の接続だけを切る!」
ナグサ「先生。指示を」
先生「怪異そのものは傷つけない。カイザーの動力装置と、ゲマトリアの観測部分を分離しよう!」
ヒナ「分かったわ」
ヒナが先頭に立つ。
銃声が響き、カイザー製の外装が吹き飛ぶ。
ホシノが盾で黒い鎖を受け止め、シロコとシロコ*テラーが左右へ展開した。
シロコ「右を狙う」
シロコ*テラー「私は左」
セリカ「私たちは中央!」
アヤネ「敵の出力が上がります! 十五秒後に撃ってください!」
ノノミ「道を開けます!」
ファウスト「覆面水着団、突撃です!」
セリカ「今その名前を使うの!?」
ノノミの射撃が装置の防壁を削る。
セリカが内部へ弾丸を撃ち込み、アヤネが回路を解析する。
アヤネ「今です!」
シロコとシロコ*テラーが同時に引き金を引く。
二つの弾丸が観測装置を貫いた。
黒い仮面の男の姿が揺らぐ。
仮面の男「まだ核が残っている」
装置の中心から巨大な腕が伸び、ホシノを掴んだ。
ホシノ「くっ……!」
先生「ホシノ!」
仮面の男「一人が残れば、他の全員は帰ることができる。小鳥遊ホシノ。あなたが最も望む結末でしょう?」
ホシノは抵抗を止めた。
ホシノ「……そうだね」
セリカ「ホシノ先輩?」
ホシノ「みんな、列車に戻って」
先生「駄目だよ」
ホシノ「先生。今度はちゃんと全員を連れ戻せた。これでいいでしょ」
ヒナ「小鳥遊ホシノ」
ホシノ「止めないって言ったよね、風紀委員長さん」
ヒナ「ええ。あなたが前へ進むなら、止めない」
ヒナは黒い腕へ銃口を向けた。
ヒナ「でも、それは前じゃない」
ホシノ「みんなが帰れるなら同じだよ」
ヒナ「同じではないわ」
ホシノ「おじさん一人で済むんだ!」
先生「一人で済むなんて言わないで!」
ホシノが息を呑む。
先生「ホシノが残ったら、みんなはホシノを取り戻すために戻ってくる。今の私たちと同じことをするよ」
セリカ「当たり前でしょ!」
アヤネ「委員長を置いて帰るわけにはいきません!」
ノノミ「今度は私たちが、ホシノ先輩を迎えに来ます」
シロコ「ん。何度でも来る」
シロコ*テラー「一人で残っても、誰も救われない」
ホシノ「でも……!」
ヒナ「いい加減にしなさい」
ヒナの声は静かだった。
それでも、ホシノの言葉を止めるには十分だった。
ヒナ「あなたは仲間の意思を尊重しろと言うくせに、自分を助けたいという意思だけは無視するのね」
ホシノ「それは」
ヒナ「帰りたいのか、帰りたくないのか。小鳥遊ホシノ、あなた自身の言葉で答えなさい」
ホシノは黒い腕に掴まれたまま、仲間たちを見る。
セリカは泣きながら怒っている。
アヤネは端末を握りしめている。
ノノミは笑顔を作れずにいる。
シロコは真っ直ぐホシノを見ている。
先生も、手を伸ばしている。
ホシノ「おじさんは……」
ユメの姿が、崩れる駅の向こうに現れた。
ユメの姿『ホシノちゃん』
ホシノは目を閉じる。
そして、自分の札を強く握った。
ホシノ「帰りたい」
札の赤い糸が輝く。
ホシノ「みんなと一緒に帰りたい!」
黒い腕に亀裂が走る。
セリカたちの札も、次々と光り始めた。
ホシノ「黒見セリカ!」
セリカ「ここにいる!」
ホシノ「奥空アヤネ!」
アヤネ「はい!」
ホシノ「十六夜ノノミ!」
ノノミ「ここにいます!」
ホシノ「砂狼シロコ!」
シロコ「ん。いる」
シロコ*テラーが目を伏せる。
ホシノは彼女へ手を伸ばした。
ホシノ「もう一人のシロコちゃん!」
シロコ*テラー「私も……ここにいる」
最後に、自分の名前が書かれた札を掲げる。
ホシノ「小鳥遊ホシノ!」
先生「ここにいるよ!」
札を縫う赤い糸が、全員を繋ぐ。
黒い腕が砕けた。
ヒナとナグサが同時に発砲し、キキョウが御神体へ護符を叩きつける。
キキョウ「今だよ、先生!」
先生「アヤネ!」
アヤネ「切り離します!」
アヤネが端末を操作する。
観測装置と御神体を繋いでいた回路が断ち切られた。
怪異の駅が崩壊を始める。
アオバ『全員、乗車してください! 最終列車が発車します!』
ノゾミ『急いで!』
ヒカリ『置いてっちゃうよぉ!』
全員で列車へ走る。
仮面の男の姿は、崩れる装置と共に消えていった。
ホシノが最後尾で足を止める。
駅の向こうに、ユメが立っていた。
今度のユメは何も言わない。
ただ、昔と変わらない笑顔で、ホシノへ手を振っている。
ホシノも小さく手を振り返した。
それから、列車へ飛び乗る。
扉が閉まった。
ホシノ「今度は、おじさんも一緒に帰るよ」
列車は崩壊する怪異を抜け、朝焼けの砂漠へ走り出した。
翌日。
アビドス高等学校の記録には、全員の名前が戻っていた。
セリカの家族も、商店街の人々も、彼女のことを覚えている。
アヤネの端末には、大量の未処理通知が届いていた。
ノノミの関係者からは何度も連絡が入り、シロコの自転車はなぜか百鬼夜行の山中で発見された。
シロコ「ん。あとで取りに行く」
セリカ「今日は休みなさい!」
対策委員会室には、久しぶりに全員が揃っていた。
ヒフミは机の下へ紙袋を隠している。
キキョウとナグサは、回収した御神体を百鬼夜行へ戻すための手続きを進めていた。
ヒナはゲヘナへ帰る前に、窓際でコーヒーを飲んでいる。
ヒカリとノゾミは校庭に停車させた列車で遊び、アオバが二人を追いかけていた。
アオバ「勝手に警笛を鳴らさないでください!」
ヒカリ「出発進行~」
ノゾミ「次はゲヘナまでノンストップ!」
アオバ「運行許可が出ていません!」
ヒナ「……私は別の方法で帰るわ」
先生「そのほうがよさそうだね」
ホシノは自分の机に突っ伏していた。
セリカ「ホシノ先輩、ちゃんと寝るまで見張るから」
ホシノ「おじさんなら平気だよ」
アヤネ「少なくとも三時間以上、連続した睡眠を取ってください」
ノノミ「添い寝が必要でしたら、私がお隣にいますね~」
シロコ「私もいる」
ホシノ「うへ~。おじさん、信用ないなぁ」
ヒナ「当然でしょう。前科があるもの」
ホシノ「風紀委員長さんまで厳しいねぇ」
先生「みんな心配しているんだよ」
ホシノ「先生はどっちの味方なのさ」
先生「ホシノが自分の席で眠れるようにしたい人たちの味方かな」
セリカが毛布を持ってくる。
文句を言いながらも、ホシノは立ち上がろうとしなかった。
ノノミが温かい飲み物を用意し、アヤネが空調の温度を調整する。
シロコはホシノの隣へ椅子を置いた。
ホシノは毛布の中に顔を隠す。
ホシノ「先生」
先生「どうしたの?」
ホシノ「少しだけ、ここにいて」
先生「うん。みんなと一緒にいるよ」
ホシノ「……それなら、いい」
やがて、ホシノの呼吸が穏やかになる。
机の上には六枚の札が並んでいた。
セリカ、アヤネ、ノノミ、シロコ、ホシノ。
そして、シロコ*テラーが残した名前のない札。
窓から吹き込んだ風が、札を揺らす。
名前のない札の隣に、見覚えのない一枚が落ちていた。
古びた紙。
色あせた赤い糸。
中央には、かすかな文字が残っている。
『梔子ユメ』
顔を上げる。
校庭の向こうに、背の高い少女が立っていた。
少女は眠っているホシノを見つめ、うれしそうに微笑んでいる。
瞬きをしたときには、もう誰もいなかった。
名前を呼ぶ声も聞こえない。
ただ、ホシノの手が毛布の中から伸び、隣にいるシロコの袖を掴んだ。
シロコ「ん。ここにいる」
眠ったままのホシノが、小さく笑う。
ホシノ「知ってるよ」
窓の外では、夏の蝉が鳴いていた。
その声はもう、途切れることなくアビドスの空へ響いていた。