海へ出かけてから数日が経つ頃には、輝夜の配信にも少しずつ新しい変化が生まれていた。
これまでは歌が活動の中心にあり、その合間に雑談をしたり、ツクヨミの街を歩き回ったりすることが多かった。けれど、一人でも配信を始められるようになり、画面の向こうにいる視聴者とのやり取りにも慣れてくると、輝夜自身が「今日は何をしよう」と考えるようになっている。
彩葉がアルバイトへ出ている昼間でも、興味を引くものを見つければ自分からツクヨミへ入り、特に企画を決めずに配信を始めることさえ珍しくなくなった。歌を聞きに来た者が雑談にも残り、雑談を気に入った者が次の歌配信を待つ。木造橋で行った路上ライブの映像から輝夜を知った者もいれば、芦花や真実とのやり取りを楽しみにしている者もいる。
少し前までは、配信を始めてから誰かが来てくれるのを待つ時間があった。いまでは配信開始を知らせる表示が出るだけで、すぐに何人もの名前が並び始める。
それなら、歌以外にも色々なことをやってみればいい。そう提案したのが芦花と真実だった。
その日の配信開始前、ツクヨミには三人の姿が並んでいた。
輝夜。ROKAとして参加している芦花。そして、まみまみとして参加している真実。一方の彩葉は、ツクヨミには入っていない。
現実の部屋にいて、いつもの机に座り、パソコンに表示した配信画面から三人の様子を見ているだけだった。スマコンを装着していない以上、彩葉がこの部屋で何を話しても、その声がツクヨミの三人や視聴者へ届くことはない。芦花がゲームの一覧を開き、その中から一つを選ぶ。
「今日はKASSENやろうよ。輝夜ちゃん、自分でちゃんと遊ぶのは初めてでしょ?」
画面に浮かんだ名前へ目を向けながら、輝夜は素直に頷いた。
「見たことはあるけど、自分でやったことはほとんどないわ。二人が教えてくれるの?」
「そのつもり。今日は三人だから、最初はPvEね。いきなり対人戦するより分かりやすいし」
真実が参加設定を進めながら、今回遊ぶ形式について説明していく。選ばれたのは、三人で協力して敵を相手にするものだった。KASSENにはそれ以外にも複数の遊び方があり、一対一でプレイヤー同士が戦うSETSUNAというモードもあるらしい。その名前を聞いた途端、輝夜の興味は早くも別の方向へ伸びた。
「一対一もあるのね。それなら、そっちもやってみたいわ」
「まず今日のを覚えてからね。まだ一回も始まってないのに、もう次の遊び方気にしてるじゃん」
芦花が笑う。けれど輝夜は、何を不思議がられているのか分からないようだった。
「できることがあるなら、やってみたいでしょう?」
未知のゲームを前にしても、不安そうな様子はまるでない。むしろ、これから何をさせられるのか楽しみで仕方がないらしく、配信開始前から何度もゲーム画面へ視線を向けていた。
やがて配信開始を知らせる表示が現れる。それまで静かだったコメント欄へ、待っていた視聴者たちの文字が一気に流れ込んできた。
『きた』
『今日は三人?』
『ROKAとまみまみいる』
『KASSENだ』
『輝夜ちゃんゲーム枠珍しい』
輝夜は流れていく文字を眺め、それからいつもの調子で視聴者へ向き直った。
「こんばんは。今日は芦花と真実にKASSENを教えてもらうの。初めてだけど、終わる頃には二人より上手くなってるかもしれないわね」
その言葉を聞いた芦花が、思わず輝夜の横顔を見る。
「初めてなんだよね?」
「そうよ」
「なのに、もう私たちを超える気なの?」
輝夜は少しだけ首を傾げた。
「やる前から無理って決める方がおかしくない?」
真実が堪えきれずに笑う。
「始まる前から負けるつもりがないの、すごいなあ」
「勝負するんでしょう? だったら上手い方がいいじゃない」
本人としては、それ以上でもそれ以下でもないらしい。コメント欄にもすぐに反応が現れた。
『強気』
『初見の発言じゃない』
『輝夜ちゃんらしい』
『ROKAとまみまみ頑張れ』
最後の一文を見つけた輝夜が、少しだけ眉を寄せる。
「どうして私じゃなくて二人を応援してるの?」
「今の台詞だけで理由分かる気がする」
芦花が笑い、真実も肩を揺らした。配信開始から数分もしないうちに、三人の間にはいつもの賑やかな空気ができあがっていた。
◇ ◇ ◇
KASSENを始める前、輝夜は並んだ武器の中から、ひときわ大きな武器を迷うことなく選んだ。
三方と竹筒を組み合わせたような、巨大なハンマーだった。
「それにするんだ?」
芦花に聞かれ、輝夜は当然のように頷く。
「だって、これが一番強そうじゃない」
性能を比べた末の選択ではないらしい。
真実が小さく笑う横で、輝夜は早速ハンマーを構えた。
ツクヨミの中で身体を動かすこと自体に、輝夜が苦労することはなかった。
初めてこの仮想空間へ足を踏み入れてから、すでに何度も街を歩き、配信を行い、木造橋の上では路上ライブまで経験している。アバターを思った方向へ動かすことも、視線を切り替えることも、周囲を見ながら行動することも、いちいち操作として意識するほどのものではなくなっていた。
KASSENで輝夜が戸惑ったのは、そこではない。
何を、いつするべきなのか。
ゲームとして勝つために必要な判断だった。
開始して間もなく、輝夜は視界に入った敵へ向かおうとした。ハンマーの竹筒部分から噴射させれば、一気に距離を詰めることができる。
しかし、その直前に芦花から制止の声が飛んできた。
「輝夜ちゃん、今そっちに行かなくていいよ。真実の方を手伝って」
言われれば進路を変えること自体は簡単だった。輝夜はすぐに真実のいる方へ向かったものの、納得したわけではないらしく、移動しながら芦花へ視線を向ける。
「でも、あっちにも敵がいたわよ。先に倒しておいた方がよくない?」
「今追いかけると時間がかかるからね。それより、こっちを先に片付けた方が後が楽になるの。見えてる敵を全部順番に倒せばいいゲームじゃないんだよ」
真実の説明を聞いて、輝夜は初めて自分が見ていたものと、二人が見ていたものの違いに気づいたようだった。
目の前に敵がいる。
だから倒す。
それだけなら間違ってはいない。
ハンマーで直接叩くこともできれば、離れた相手には竹筒から鰻を撃ち出すこともできる。噴射を使えば素早く距離を詰めることもできた。
だが、できるからといって、すぐに使えばいいとは限らない。
三人でまとまった方がいい場面もあれば、それぞれ別の場所を担当した方がいい場面もある。敵を見つけてすぐ飛び込めば、味方から一人だけ離れてしまうこともあった。
そうした判断は、ツクヨミを自由に歩けることとは何の関係もない。
純粋に、KASSENをどれだけ知っているかの差だった。
その数分後、輝夜は複数の敵を見つけると、すぐさま噴射を使ってその中心へ飛び込み、勢いのまま巨大なハンマーを振り下ろした。敵の一体が大きく吹き飛ぶ。
ところが、真実が思わず声を上げた。
「あ、それ今行っちゃった?」
「何?」
「もうちょっと待ってたら、こっちに敵をまとめられたんだよ。そこに輝夜ちゃんが入ったら、一気に倒せたかなって」
輝夜は周囲を見回した。
真実の近くには、別の敵が集まり始めている。
あと少し待っていれば、まとめてハンマーを叩き込めたのだろう。
輝夜の眉が少し寄った。
「それを知ってたら待ったわ」
「初見なんだから知らなくて普通だって」
「じゃあ、次は待つ」
短く言った通り、次に似た状況が訪れたとき、輝夜はすぐには飛び込まなかった。
敵を見つけてもハンマーを構えたまま、芦花と真実の動きを確認する。
真実が敵を誘導し、何体かが一か所へ集まったところで声が飛んだ。
「今!」
その瞬間、輝夜は噴射を使った。
一気に距離を詰め、敵の中心へ飛び込む。
巨大なハンマーが振り下ろされ、集まっていた敵がまとめて吹き飛んだ。
「できた!」
嬉しそうな声を上げる輝夜に、芦花が笑う。
「そうそう。そんな感じ」
一度理由まで理解したことについては、覚えるのが早い。
ただし、一つ覚えれば、今度は別のことを考えなければならなくなる。
自分の周囲だけではなく、芦花や真実がどこにいるかを見る。敵がどちらへ動いているのかを確かめる。ハンマーで叩くのか、鰻を撃つのか、それとも噴射して一気に近づくのか。
自分だけなら正しそうに思える選択も、三人で協力するなら別の答えが生まれることがある。
経験者の二人は、それをいちいち言葉にしなくても自然に判断している。
輝夜は、状況を見てから考える。
その差は簡単には埋まらなかった。
何度目かの挑戦を終えたところで、輝夜は結果を見つめながら少しだけ唇を尖らせた。
「もう一回やりたい。最後のところ、今ならもっと上手くできると思うの」
芦花は、悔しがるより先に再戦を求めてくる輝夜がおかしかったのか、楽しそうに笑った。
「結構気に入ってるじゃん。最初は今日中に私たちより上手くなるって言ってたけど、まだやる?」
「まだ二人より上手くなってないからやるのよ」
「そこ諦めてなかったんだ」
真実まで笑うと、コメント欄にも、
『負けず嫌い』
『一回教えたところ直すの早い』
『その武器めっちゃ似合ってる』
『これ続けたら普通に強くなりそう』
といった言葉が流れる。
その中から最後の一文を見つけた輝夜が、ほら、とでも言いたげな目を二人へ向けた。
「やっぱり続けたら強くなるって」
「視聴者のコメントを証拠にしないで」
芦花の言葉に、今度は輝夜まで笑った。
そのあとも何度か挑戦し、最初は目についた敵へすぐ向かっていた輝夜が、一度周囲を確認してから動けるようになったところで、ようやくKASSENは一区切りとなった。
「今日はこのくらいでいいんじゃない? 初めてにしてはかなり覚えたと思うよ」
芦花にそう言われても、輝夜はまだ少し名残惜しそうだった。
「次はもっと上手くなるわ」
「次もやる気満々だ」
「だって面白かったもの。それに、まだ二人に教えてもらってばっかりだし」
最後の言葉だけは、勝ち負けとは別に素直だった。
芦花と真実もそれを聞くと、少しだけ嬉しそうに笑う。
そこで真実が、別のゲーム画面を呼び出した。
「じゃあ、そのやる気が残ってるうちにもう一つやってみよっか。こっちはKASSENとは全然違うよ」
画面に表示された名称を、輝夜がゆっくりと読み上げる。
「DANMAKU……?」
輝夜がゆっくり読み上げた。
「そう。今度は空を飛びながら戦うの」
その言葉とともに、三人を取り囲んでいた景色が切り替わった。
◇ ◇ ◇
足元にあった地面が、音もなく遠ざかっていく。落ちているわけではない。何かに吊り上げられているわけでもない。それまで当然のように身体を預けていた地面だけが意味を失い、三人の身体がそのまま空間の中へ解き放たれた。
前後左右だけだった移動へ、上と下が加わる。芦花が少し高度を上げれば、真実は斜め下へ降りる。同じ方向に見えていても、高さが違えば位置関係は大きく変わる。地上なら、足場そのものが自分の位置を教えてくれる。ここには、その基準がない。
「最初は飛ぶだけでも難しい人が多いよ。避けることばっかり考えて、自分がどこ向いてるのか分からなくなったりするし」
真実の説明を聞きながら、輝夜は一度、自分の足元を見下ろした。遥か下に地面がある。その光景を怖がる様子はなかった。
次の瞬間、輝夜はゆっくり前へ進み、横へ、上へ、斜め下へと身体を動かした。動きそのものは慎重だったものの、そこに迷いはほとんど見えない。地面から足が離れていることよりも、空間の中で好きな方向へ動けることの方を自然に受け入れているようだった。
芦花が途中で黙る。
「……輝夜ちゃん?」
「何?」
「これ、本当に初めて?」
「初めてよ。さっき名前を聞いたばかりでしょう?」
真実まで不思議そうに輝夜を見ていた。
「普通はもうちょっと上下の感覚に戸惑うんだけどなあ」
二人からそう言われても、本人には理由が分からない。輝夜は少し考えたあと、むしろこちらが不思議だというように首を傾げた。
「そんなに難しい?」
コメント欄にもすぐ反応が流れた。
『普通に飛んでる』
『初見とは』
『KASSENより自然じゃない?』
『こっち向いてそう』
輝夜はそんな反応に首を傾げながらも、それ以上気にしなかった。芦花と真実はひとまず疑問を脇へ置き、今度はDANMAKUのルールを説明していく。
試合開始前に残機数を選び、基本は三機。五機へ増やすこともできれば、残機を無限にして純粋なスコアバトルにすることもできる。通常の残機制なら、通常弾でもスペルカードの弾幕でも、被弾するたびに残機を一つ失い、すべてなくなれば敗北となる。
攻撃には通常弾と、三枚まで選択できるスペルカードを使用する。どちらにも運営が用意した汎用品があり、さらにプレイヤー自身で作ることもできる。ただし、自作した通常弾やスペルカードは完成しただけでは正式な対戦へ持ち込めない。一度運営へ申請し、回避可能性や性能面などの審査を通過して初めて使用が許可される。自作スペル同士の対戦では、弾幕そのものの美しさもスコアへ加点されるという。
「通常弾まで自分で作れるの?」
説明の中でも、そこだけは輝夜が目に見えて食いついた。
「作れるよ。弾の速さとか、どう飛ぶかとか、見た目とか。スペルも同じ」
真実が自作画面を見せると、輝夜はしばらく黙って眺めていた。いまにも触り始めそうなほど興味深そうではあったものの、まだ一度も実戦を経験していない。何が使いやすいのかも、どんな弾幕なら面白いのかも分からないまま作るのは違うと思ったらしい。
「今日は普通のにするわ。まだ何がいいのか分からないもの」
「意外と慎重なんだ」
芦花が言うと、輝夜は少し不満そうに眉を寄せた。
「どういう意味?」
「勢いで作り始めるかと思ってた」
「私だってそれくらい考えるわよ」
コメント欄に笑いが流れた。
そして、もう一つ。DANMAKUの通常試合は九十秒だが、スペルカードが展開されている間だけ試合時間のカウントは止まる。スペルを発動している本人はその最中に被弾せず、通常弾に当たりながらスペルを差し込んで逃れる「喰らいボム」という技も存在する。
ただし相手がすでにスペルを展開している最中は、こちらのスペルカードを重ねて使うことはできない。
その場合、弾幕を避け切るか、通常弾でスペル自体へ攻撃を重ねて途中で破るかを選ぶことになる。スペルを破ればスコアが入り、一方で弾幕ぎりぎりを抜けるグレイズを重ねながら避け切ることでもスコアを伸ばせる。
一通り説明を聞いた輝夜の前へ、芦花が練習用の通常弾を数発放った。最初の一発を、輝夜は大きく離れず、身体をほんの少し横へずらして避けた。
二発
三発
少し間隔を空けて飛んできた光の間へ、今度は身体を滑り込ませる。そのたびに、グレイズを示すスコアが増えていった。真実が思わず表示を見る。
「……輝夜ちゃん、それ狙ってやってる?」
「何を?」
「グレイズ」
輝夜は自分の横を通り過ぎた弾を振り返った。
「別に。避けやすいところを通っただけだけど」
「普通、最初はもうちょっと大きく避けると思うんだけどなあ」
輝夜は少し考え、それから当たり前のことを言うように答えた。
「大きく動いたら、その次が避けにくくならない?」
芦花と真実が揃って黙る。コメント欄だけが勢いよく流れ始めた。
『もうグレイズしてる』
『感覚が最初から違う』
『KASSENより明らかに自然』
『本当に初めて?』
輝夜だけが、その反応に心当たりがない。それよりも、もう説明を聞くだけでは足りなくなったらしい。
「そろそろ戦ってみてもいい?」
芦花は少し考えたあと、笑った。
「そこまで普通に飛べるなら、実戦で覚えた方が早そう。じゃあ私からね」
◇ ◇ ◇
対戦は標準の三機で行われた。
二人とも、使用するのは運営が用意した汎用通常弾と汎用スペルのみ。実戦が始まってみても、輝夜の動きは変わらなかった。
芦花の通常弾に対して大きく逃げることはせず、弾と弾の隙間へ必要最低限の動きで身体を入れ、そのたびにグレイズによるスコアを自然と積み重ねていく。もちろん初めから完璧だったわけではなく、自分の通常弾を当てようと意識しすぎて周囲への注意が薄れ、残機を失う場面もあった。
それでも、一度失敗したことをそのまま繰り返すことはなかった。通常弾へ被弾しかければ、説明を受けたばかりの喰らいボムを使って切り抜ける。芦花がスペルを展開したときには、最初こそ回避しながら通常弾を撃ち込み、スペルブレイクまで同時に狙った。しかし、攻撃へ意識を割いたことで回避が遅れ、さらに残機を失うと、次からは無理に破ることへ拘らなくなった。
弾幕によっては攻撃を捨てて回避へ集中し、グレイズを積み重ねる。別のスペルでは、比較的余裕があると判断すると再び通常弾を重ね、ブレイクを狙う。一度目の結果から、二度目の行動を変える。その切り替えの速さは、KASSENで一つ一つ理由を教えられながら動いていたときとは明らかに違っていた。
芦花の経験があるぶん、簡単な勝負にはならなかった。それでも終盤には互いに残機一。最後は、序盤には単調だった輝夜の通常弾の間隔が僅かに変化し始め、それまでと同じつもりで回避した芦花の進路へ遅れて放たれた一発が届いた。
残機ゼロ
勝敗表示に輝夜の名前が現れる。数秒だけ、本人自身が結果を理解していないように見えた。それから意味が追いつくと、途端に表情が明るくなる。
「勝った!」
コメント欄も一気に沸いた。
『初戦勝った』
『ROKA倒した』
『喰らいボム覚えるの早すぎ』
『途中から戦い方変わってた』
『グレイズすごい』
芦花は敗北画面を見ながら、半ば呆れたように輝夜を見る。
「……本当に今日初めて?」
「またそれ?」
勝った嬉しさを隠しきれないまま、輝夜は少しだけ眉を寄せた。
「初めてよ。でも、こっちの方が動きやすいわ。KASSENよりずっと分かりやすい」
「空飛びながら弾避けて、スペル破るかグレイズするか考える方が?」
「うん」
迷いのない答えだった。現実の部屋で配信を見ていた彩葉は、いつの間にか手を止めていた。少し前まで遊んでいたKASSENでは、輝夜は芦花や真実から何度も理由を説明され、それを理解して初めて次の判断へ繋げていた。
けれどDANMAKUでは違う。空を飛ぶことに戸惑わない。弾が迫れば、その間にある隙間を自然に見つける。覚えたばかりの喰らいボムを使い、スペルブレイクを狙うのが危険だと分かれば、次には回避とグレイズへ切り替える。
知識を覚えるのが早いだけでは説明しきれない。もっと身体に近いところで、最初から何かを知っていたような動きだった。
「……なんでだろ」
彩葉が小さく漏らした声は、配信にもツクヨミにも届かない。画面の向こうでは、すでに真実が輝夜の前へ進み出ていた。
「じゃあ次は私。芦花との試合は全部見てたから、同じようにはいかないよ」
輝夜は三枚の汎用スペルを確認し、楽しそうに笑った。
「いいわ。次も勝つ」
真実との一戦は、芦花との対戦以上に簡単ではなかった。
先ほどの試合をすべて見ていた真実は、最初から輝夜の小さな回避や喰らいボムを警戒し、同じ状況を作らないように攻めてきた。それでも輝夜は、通じなかった方法をそのまま繰り返さず、相手のスペルによって攻撃を重ねるか、回避へ徹するかを選び直していった。
そして最後には、真実の残機も削り切った。
二戦、二勝。
初めてDANMAKUへ触れた人間の結果としては、あまりに出来すぎている。けれど本人は、そのことを深く考えている様子もなかった。二人に勝てたことを素直に喜びながら、もう一度できないかと楽しそうに尋ねている。
その日、輝夜が使っていた通常弾もスペルカードも、まだ運営が用意した汎用品にすぎなかった。自分だけの通常弾を作れる。自分だけのスペルも作れる。
作ったものが運営の審査を通れば、正式な対戦にも使える。その事実だけは、説明を聞いたときから、輝夜の中へしっかりと残っていた。
◇ ◇ ◇
配信を終えて現実へ戻った頃には、窓の外はすっかり夜の色に沈んでいた。スマコンを外した輝夜が部屋の中を見回すと、彩葉はいつもの机に座り、パソコンへ向かっていた。画面に映っているのは見覚えのある青空と、その下で水しぶきを撒き散らしながら勢いよく飛び上がっていくペットボトルロケットだった。
少し前に二人で撮影した映像である。輝夜はすぐに興味を引かれたように彩葉の隣へ歩み寄ると、椅子の背へ軽く手を掛けながら画面を覗き込んだ。
「彩葉、それ、この前のペットボトルロケット?」
「そう。撮ったままだったから、そろそろ動画にしようと思って。全部そのまま出すと長いから、要らないところを切ったり、順番を整えたりしてるの」
彩葉の手元では、一本に繋がっていた映像が細かな断片へ切り分けられていた。
ロケットへ水を入れている時間
空気を送り込んでいる時間
撮影位置を何度も調整している場面
準備を間違えて最初からやり直しているところ
実際にその場にいた二人にとっては必要だった工程でも、動画として見せるなら、そのすべてを同じ長さで残す必要はない。変化のない時間は短くし、同じような場面が続けば一方を削る。一方で、ロケットが綺麗に飛んだ瞬間や、思わぬ方向へ飛んで二人が慌てたところは残していく。撮影した映像とは、起きたことをそのまま見せるものだと思っていた輝夜には、その作業自体が新鮮に映るらしい。
彩葉の手元と画面を交互に見ながら、しばらく黙って編集の様子を眺めていた。やがて映像の中に、撮影中の輝夜が現れた。カメラの位置を確かめようとしたのだろう。顔を近づけすぎた結果、画面のほとんどが輝夜の顔で埋まっている。彩葉がその部分へカーソルを合わせた瞬間、輝夜が素早く画面を指差した。
「そこまで消しちゃうの? せっかく私がちゃんと映ってるのに」
「ちゃんとっていうか、輝夜の顔しか映ってないでしょ。これじゃロケットがどこにあるのか全然分からないよ」
彩葉は呆れたように笑いながら、顔が映り込んだ場面を短く切っていく。もっとも、全部を削除したわけではない。突然、輝夜の顔が画面いっぱいに現れる最初の瞬間だけを残し、その後に何秒も続いていた同じ映像を削っただけだった。それでも輝夜には不満が残ったらしい。
「でも、私の動画でもあるんでしょう? だったら私がたくさん映ってた方が、見てる人も嬉しいんじゃない?」
「その自信はどこから来るの……。輝夜が映るのはいいけど、何の動画か分からなくなるくらい映るのは違うの。全部残したら長くなるし、見る方だって途中で飽きるから、面白いところを選んで残すのも編集なんだよ」
彩葉は説明しながら、次の映像へ進めた。今度は、打ち上げたペットボトルロケットが予定していた方向から大きく逸れ、撮影していた二人の方へ飛んできた場面だった。映像の端で輝夜が逃げ、カメラまで慌てて横を向いている。それを見た瞬間、輝夜は先ほどまでの不満を忘れたように笑った。
「これは残すのね。失敗してるのに」
「こういうのは残した方が面白いから。成功したところだけ綺麗に並べてもいいけど、失敗したところがある方が見てても楽しいでしょ?」
輝夜は少し考えた。そして当然のように先ほどの話へ戻る。
「だったら、私が画面いっぱいに映ってたところも面白かったと思うわ」
彩葉の手が止まった。横を見ると、輝夜は冗談を言っている顔ではない。本気でそう思っているらしい。数秒見つめ合った末、先に折れたのは彩葉だった。
「……分かった。最初のところだけ残す。でも、本当にちょっとだけだからね」
その返事に満足したのか、輝夜は小さく頷いた。
それからは、映像が少しずつ一本の動画へ変わっていく様子そのものが面白くなったらしく、輝夜が口を挟む回数も減っていった。長かった準備が縮まり、打ち上げる直前の緊張と、飛んだ瞬間の反応、その後の失敗や成功が繋がっていく。撮影したときには、ただ起こった順番に並んでいただけの出来事が、彩葉の手を通すことで一つの見せ物へ変わっていく。
やがて画面の中で、一機のペットボトルロケットが綺麗に打ち上がった。圧力から解放された水が白い飛沫となって地面へ弾け、その反動を受けた機体が青空へ向かって真っ直ぐ上昇していく。カメラが追いかけるほどロケットは小さくなり、最後には画面の上端へ消えていった。輝夜の視線も、その軌跡を追うように上へ動く。
「このロケットって、どこまで飛んでいけるの?」
「ペットボトルロケットなら、そんなに遠くまでは行かないよ。高く上がっても、最後には落ちてくるし」
彩葉が動画を少し巻き戻すと、画面の中でもう一度、ロケットが青空へ飛び上がった。輝夜はその小さな機体をじっと見つめた。
「じゃあ、本物のロケットならもっと遠くまで行けるの? こういうのより、ずっと高くまで飛んでいくんでしょう?」
「うん。まあ、ペットボトルロケットをそのまま大きくしたものじゃないけどね。本物なら宇宙まで行けるよ。人が乗っていくものもあるし」
「宇宙まで……?」
その言葉を口にした途端、輝夜の表情が少し変わった。先ほどまで編集を面白がっていた顔から笑みが薄れ、代わりに何かを思い浮かべるような静けさが浮かぶ。視線は再び、画面の中に広がる青空へ向けられていた。
「それなら……月にも行けるの?」
彩葉はマウスを動かしていた手を止めた。問い自体に不自然なところはない。ロケットが宇宙まで行けると聞けば、その先にある月へ興味が向くこともあるだろう。
「行けるよ。もちろん簡単に行ける場所じゃないけど。昔、アポロ11号っていう宇宙船で、人が実際に月まで行ったこともあるんだよ」
「月まで?」
思っていた以上に強い反応が返ってきて、彩葉はわずかに目を瞬かせた。
「うん。本当に月まで行ったの」
それ以上、彩葉は詳しく説明しなかった。けれど、輝夜にはその一言だけで十分だったらしい。画面の中では、ペットボトルロケットが青空へ飛び上がっている。勢いよく上昇しても、やがて力を失い、地上へ戻ってくる小さなロケット。その遥か先まで、人間は行ったことがある。
夜になれば当たり前のように空へ浮かび、どれほど手を伸ばしても届かない月。それまで輝夜にとって、月は見るだけのものだった。遠くにあることだけは知っていても、誰かがそこへ向かい、実際に辿り着ける場所だとは考えたことがなかった。その認識が、彩葉の何気ない一言によって静かに変わっていく。
「……月って、本当に行ける場所なのね」
小さく漏れた言葉に、彩葉は特に深い意味を感じた様子もなく頷いた。
「そうだよ。簡単じゃないけど、行けない場所じゃない」
輝夜はその答えを聞きながら、再生を止められた画面をしばらく見つめていた。
青空
その中へ消えようとしている小さなロケット。そのさらに向こうへ、目には見えない道が続いているような気がした。なぜそんなことを考えたのか。本人にも分かっていなかったのだろう。それでも、しばらくしてから輝夜は静かに彩葉の名前を呼んだ。
「彩葉。もしもの話なんだけど……もし私が、いつか月へ行ってしまったら、そのときは月まで迎えに来てくれる?」
彩葉はすぐには答えなかった。冗談として笑い飛ばすこともせず、隣にいる輝夜の顔を見つめる。
輝夜自身も、本当に自分が月へ行く日が来ると考えているわけではないのだろう。ただ、もし自分がそこまで遠くへ行ってしまったなら、この部屋にいる彩葉はどうするのか。それを知りたくなっただけのように見えた。
彩葉は少しだけ言葉を選んだ。そして、この時点では照れも誤魔化しもなく、自分の考えをそのまま口にする。
「迎えには行かないよ。もし輝夜が月に行かなくちゃいけない理由がちゃんとあるなら、私がそこまで行って、勝手に連れ戻すのは違うと思うから」
思っていた返事とは違ったらしい。輝夜は瞳を閉じながら小さく漏らす。
「……そう」
悲しそう、と呼ぶほど大きな変化ではない。それでも、先ほどまで柔らかく上がっていた口元から、少しだけ笑みが消えた。彩葉も、その小さな変化には気づいた。
ここまでは、自分が本当にそう思っていることを話しただけだった。
もし輝夜が、自分の意思で月へ行く。
あるいは、どうしても月へ行かなければならない事情がある。そんなとき、自分が寂しいからという理由だけで地球へ連れ戻すのは違う。
けれど、そこで話を終わらせるつもりもなかった。次の言葉を口にしようとしたところで、彩葉の視線が僅かに揺れる。先ほどまでとは違う種類の気恥ずかしさが、急に込み上げてきたらしい。彩葉は輝夜から顔を逸らすと、何でもないことを言うようにパソコンへ視線を戻し、頬のあたりを指先で軽く掻いた。
「でも……月まで会いには行ってあげる」
最後だけ、少しぶっきらぼうだった。輝夜は一瞬、何も言わなかった。彩葉は画面を見たまま、こちらを見ようとしない。先ほどまで動いていたマウスも、手の中で静止したままだった。その横顔を見つめているうちに、輝夜の口元へ少しずつ笑みが戻っていく。
「月まで会いに来てくれるの?」
念を押すように尋ねられると、彩葉はますます輝夜を見ないまま、小さく頷いた。
「行けるようになったらね。輝夜が月にいるなら、無理やりこっちへ連れてくるんじゃなくて、私がそっちまで行けばいいでしょ」
そのとき輝夜の表情から、先ほど一瞬だけ浮かんでいた寂しさが完全に消えた。代わりに、彩葉の横顔を観察するような目になる。言い切った本人は、自分でも少し恥ずかしくなったらしい。
小さく咳払いをすると、このまま話を続けられないように、強引に普段通りの調子へ戻そうとした。
「……まあ、そんな遠いところまで行く前に、早く迎えに来てほしいけど」
何でもないことのように流そうとした一言だった。けれど輝夜には通じない。少し前まで月について真剣に考えていた顔が、途端にいたずらを見つけたようなものへ変わった。椅子の横から身を屈め、彩葉の横顔を覗き込む。
「彩葉、照れてるでしょう?」
彩葉の動きがぴたりと止まった。
「……照れてないよ」
否定だけは早い。しかし、そう言いながらも視線は一度も輝夜へ向かない。それどころか、急に編集が重要な仕事になったかのようにパソコンへ集中し始めたため、輝夜にはむしろ分かりやすかった。
「でも、さっきからこっち見てくれないわよ」
「編集してるから」
「手、止まってるけど」
指摘されて初めて、彩葉は自分がマウスを動かしていなかったことに気づいたらしい。慌てたようにカーソルを動かし、意味もなく再生位置を少しずらす。その様子を見て、輝夜の笑みがさらに深くなった。
「やっぱり照れてる」
「もう、この話終わり!」
とうとう彩葉が少し声を大きくし、強引に動画を再生した。否定すればするほど分かりやすくなっていることに、本人だけが気づいていない。輝夜はそれ以上追い詰めることこそしなかったが、満足そうな笑みを浮かべたまま彩葉の隣へ戻った。画面の中では、先ほどのペットボトルロケットがもう一度青空へ飛び上がっている。
しばらくその映像を眺めたところで、輝夜が今度はいつもの調子で口を開いた。
「ねえ彩葉。このロケット、本当に月まで飛んでいくみたいに編集できない?」
あまりにも唐突な提案に、彩葉は数秒だけ黙ってから隣を見る。
「できなくはないけど、急に宇宙まで飛ばしたら何の動画か分からなくなるよ。普通にペットボトルロケットを飛ばしてたのに、最後だけ月へ行くんだよ?」
「その方が面白そうじゃない。見てる人だって、最後まで飛んでいったら驚くと思うわ」
輝夜はすでに乗り気だった。彩葉は最初こそ断ろうとしたものの、横から期待に満ちた視線を送り続けられているうちに、結局は折れることになった。
本編には使わない。その条件だけ付けて、ほんの数秒の遊びとして作ってみる。青空へ飛び上がったペットボトルロケットが、そのまま画面の上へ消える。
次の瞬間、背景が宇宙へ切り替わり、その先へ小さな月が置かれた。見るからに急ごしらえで、本物らしく見せようという気さえない編集だった。それでも、完成した数秒の映像を見た輝夜は満足そうに笑う。
「ほら。ちゃんと月まで行けたわ」
「行ってないよ。私が編集で無理やり飛ばしただけだから」
彩葉が元の映像へ戻すと、宇宙も月も消え、再び何の変哲もない青空が画面いっぱいに広がった。それでも輝夜はしばらく、その空のさらに向こうを見るように画面を眺めていた。
もし、自分がいつか月へ行ってしまったとしても。
彩葉は迎えには来ない。
けれど、会いには来てくれる。
その違いが、なぜだか今の輝夜にはとても嬉しかった。
何事もなかったように編集を再開した彩葉のすぐ隣で、輝夜はどこか満足そうな表情を残したまま、もう一度青空へ飛び上がるペットボトルロケットを一緒に眺めていた。