フィクサーの憂鬱 作:とくめい
呼び出し音は、三回目の途中で途切れた。
『こんばんは、乾くん。真澄さんから、ちゃんと伝言を受け取っていただけたようですね』
囁くように穏やかなのに、一言一言がはっきりと耳に届く声だった。
言葉を丁寧に区切るような話し方で、電話越しでもわかるほど機嫌がいい。
「番号だけな」
『ふふ。それでも、こうしてお電話をくださいました。私に少しは興味を持っていただけた、と受け取ってもよろしいのでしょうか』
「伝言を無視すると、あとが面倒そうだったからな」
『正直な方ですね。嫌いではありません』
乾は自販機の側面に肩を預け、開けていない缶コーヒーを指先で弄んだ。
蒸し暑い夜の空気がシャツの襟元にまとわりつき、自販機の低い唸りだけがずっと続いている。
廊下や食堂で見かけたことなら何度かある。
杖をついてゆっくりと歩く姿と、その隣で退屈そうにしている神室の組み合わせは、一年の間ではよく知られていた。
向こうも、龍園の後ろに立つ乾の顔くらいは知っているはずだ。
だが、こうして名前で呼ばれるような間柄になった覚えはない。
『乾くんは、チェスはお好きですか』
「ルールくらいは知ってる。まともに指したことはないけどな」
『それは残念です。乾くんとなら、一局お相手をお願いしたかったのですけれど』
電話の向こうで、坂柳が楽しそうに息を漏らした。
『でしたら、たとえ話をしましょうか。龍園くんは、決められたルールの中で勝つより、盤ごとひっくり返してしまいたい人です。勝ち負けよりも、向かいに座った相手が慌てる顔を見るのがお好きなのでしょう。けれど、ひっくり返すための下準備まで、龍園くんがご自分でなさっているとは思えません。その役目を担っているのは、乾くんですよね』
首筋を、汗が一筋伝った。
蒸し暑い夜のせいだけではなかった。
龍園の下準備を引き受けているのは乾だと、この女は迷いもなく言い当てた。
どこまで知っているのか。
真っ先に頭をよぎったのは、毎朝、外周を走る途中で交わす五分ほどの立ち話と、雑貨店のレジ裏に並んだ予約票の箱だった。
だが、乾はすぐにその考えを打ち消した。
あの道は、学校の記録のどこにも足跡を残していない。
客はまだ十人にも満たず、その中にAクラスの生徒は一人もいない。
注文を取り次いでいる連中でさえ、乾が一番上にいることは知らない。
何より、もしあの女がそこまで掴んでいるのなら、チェスの話などで遠回りはしない。
最初の一言で、それを突きつけてくるはずだ。
ならば、用件は別にある。
ここ数週間で、乾がAクラスに手を伸ばしたのは、一度きりだった。
乾は声の調子を少しも変えずに、缶を指先でくるりと一回転させた。
「なら俺はポーンか。前にしか進めない、使い捨ての」
『いいえ。ナイトです』
迷いのない声だった。
『ナイトは、ほかの駒を飛び越えて動ける、ただ一つの駒です。真っすぐにも斜めにも進めない代わりに、気がつくと誰も予想していなかったマスに立っている』
「おだてて油断させるのは、詐欺師のよくある手口だって聞くけどな」
『ふふ。おだてるだけの相手に、わざわざ番号をお渡ししたりはしません。乾くんだから、こうしてお話ししているのですよ』
皮肉は、柔らかい声にあっさりと受け流された。
『それに、もう一つ。ナイトはクイーンを狙えるのに、そのクイーンからは決して狙い返されない駒でもあるのです』
クイーンが誰のことなのかは、聞くまでもなかった。
電話の向こうで笑っている、この女自身だ。
「物騒な駒だな。けど、ナイトは盤の端に追いやられると役に立たないって、どこかで聞いたことがある」
『ええ、その通りです。ですから、少しだけ心配しているのです。乾くんが龍園くんのもとで、端に追いやられたまま使われていないかと』
龍園の下にいるのはもったいない、という遠回しな誘いだということくらいは、乾にもわかった。
坂柳はくすりと笑うと、まるで天気の話でもするように、柔らかな声のまま続けた。
『ところで乾くん。最近、私のクラスの駒に、勝手に手を出されましたね』
缶を回していた乾の指が、ぴたりと止まった。
読みどおり、真田のことだ。
「何の話だ」
『ふふ……では、そういうことにしておきましょう』
坂柳はそれ以上聞いてこなかった。
聞くまでもない、という口ぶりだった。
『それから、これはただの余談です。乾という名字は、父から一度だけ聞いたことがあります。あまりいいお話ではありませんでしたけれど』
乾の返事が、ほんの一拍だけ遅れた。
「珍しい名字でもないだろ」
『ふふ。ええ、そうですね。では、それもそういうことにしておきましょう』
『水曜日、楽しみにしています』
「そうか。……おやすみ」
乾は返事を待たずに通話を切った。
暗くなった画面に、街灯の白い光がぼんやりと滲んでいる。
坂柳が口にしたのは、真田のことだけだった。
真田が口を割ったのなら、あいつが知っていることは、全部あの女に伝わっていると思ったほうがいい。
カラオケの個室で話したことも、黒い布に包んだ箱のことも。
それでも、綾小路のことだけは、真田は何も知らない。
あの夜の特別棟のことも、乾が誰を調べているのかも、知っているのは乾一人だ。
そこまで考えて、乾はようやく、缶を握る指の力を少しだけ緩めた。
だが、緩めた指には、すぐにまた力がこもった。
父から聞いた、とあの女は言った。
坂柳の父親が何者なのか、乾は詳しく知らない。
それでも、乾という名字がよくない話として大人の耳に入るのなら、その出どころは一つしかなかった。
神室は、坂柳がここのところ乾の話ばかりしていると言っていた。
あの女が乾に目をつけたのは、真田の件よりずっと前だったのかもしれない。
真田のことも、箱のことも、知られたところでまだどうにでもなる。
だが、自分がどの家の人間なのかだけは、この学校の誰にも知られたくなかった。
水曜日。
お茶会の日だ。
わざわざその日を口にしたということは、箱がどこに置かれるのかまで、あの女はもう知っている。
普通なら、ここで手を引く。
箱を回収させ、真田との繋がりを切って、何もなかったことにする。
それが一番安全で、一番損の少ないやり方だった。
だが、乾は端末をポケットに戻しただけで、真田に連絡しようとはしなかった。
結局一度も開けなかった缶コーヒーをゴミ箱に落とし、乾は寮への道を戻り始めた。
◆
翌日の放課後。
ケヤキモールの食品売り場は、夕方の買い出しに来た生徒たちでそれなりに混み合っていた。
乾は買い物かごを片手に、陳列棚の前で黙々と品物を選んでいた。
紙皿、紙コップ、ペットボトルのお茶が数本。
それに、龍園が気まぐれに「切らすな」と言い出したスナック菓子の詰め合わせ。
Cクラスの「備品」の買い出しは、いつの間にか乾の仕事の一つになっていた。
「乾さん、それ俺持ちますよ」
後ろからついてきた
龍園の取り巻きの一人で、喧嘩には自信があるが、頭を使うことは昔から苦手らしい。
それでも、乾にだけは妙に懐いている男だった。
「助かる」
「いやいや、こんくらい当然っす。……つーか、龍園さんの買い物って毎回乾さんがやってるんすか?」
「誰かがやらないと、あいつは菓子が切れたくらいで平気で机を蹴り飛ばすからな」
「はは、確かに」
石崎は屈託なく笑い、山盛りのかごを軽々と持ち直した。
会計を済ませると、乾はもう一つ用事を切り出した。
「悪いが、もう一つ頼まれてくれ。向こうの家電売り場で、ライトと電池を買ってきてほしい」
「ライトっすか?」
「停電の備えだ。代金はあとで渡す」
「了解っす! で、どれ買えばいいんすか?」
乾は型番を口で伝えた。
石崎は真剣な顔で頷き、三回、復唱しようとして、三回とも途中で詰まった。
「……すんません、もう一回いいすか」
乾は小さく息を吐き、受け取ったばかりのレシートを裏返した。
ペンを走らせ、型番と、最大光量モードがついているかどうかと、電池の種類を書きつけて、石崎に渡す。
「これを店員に見せればいい」
「さすが乾さん!」
石崎は何の疑いもなくレシートを受け取り、人混みの向こうへ小走りで消えていった。
あのライトは、ただの懐中電灯ではない。
屋外用の市販品に手を加えて、ボタン一つで最大光量のまま不規則に点滅させられるようにしてある。
暗がりで相手の目をくらませ、その隙に距離を取るための、乾が怪しまれずに持ち歩ける唯一の武器だった。
週末の夜、綾小路の手刀を受け止めたせいで、ジュラルミンの胴の縁はへこみ、スイッチは押すたびに引っかかるようになっている。
これでは、いざという時に光るかどうかわからない。
ただ、乾が自分で組み込んだ点滅用の部品だけは、運よく無事だった。
同じ型の本体さえ手に入れば、部品を移し替えるだけで元どおりに使える。
型番を指定し、最大光量モードがついているかどうかまで書き添えたのは、そのためだった。
特別棟の下見は、まだ終わっていない。
カメラの死角を確かめるには、人のいない夜に足を運ぶしかない。
そして、あの男が一人で歩いていたのも、同じ特別棟の近くだった。
あの夜と同じ場所に、身を守る道具も持たずに入る気にはなれなかった。
それに、龍園も石崎も、乾がいつもあのライトを持ち歩いているのを見ている。
へこんだまま持ち歩けば、どこでぶつけたのかと必ず聞かれるだろう。
週末の夜のことを龍園に伏せている以上、黙って同じものに替えておくしかなかった。
それでも、替えを自分で買いに行くつもりはなかった。
あのライトをへこませた張本人なら、替えを買いに来る奴を売り場で待ち伏せればいいと考えるはずだ。
自分が向こうの立場でも、きっとそうする。
二十分ほどして戻ってきた石崎は、家電量販店の袋を得意げに掲げてみせた。
「買ってきましたよ。これで合ってます?」
「ああ。助かった」
「あ、そうだ。そういや俺、さっきの紙落としちまって。Dクラスの地味な奴が拾ってくれたんすよ」
袋を受け取ろうとした乾の手が、宙で止まった。
「……Dの?」
「名前は知らねっすけど、Dの教室の前で見かけたことある顔っす。なんか、ぼーっとした顔した奴で。ずっと懐中電灯の棚の前に突っ立ってたんすよね。暇なんすかね、ああいうの」
石崎はくしゃくしゃになったレシートを、ポケットから引っ張り出して差し出した。
乾はそれを受け取り、何気ない手つきで広げた。
裏には自分の字で、ライトの型番と、最大光量モードのことと、電池の種類が並んでいる。
名前はどこにも書いていない。
それでも、そこには間違いなく、乾自身の筆跡が残っていた。
六月の湿気を吸ったシャツが、背中にじっとりと貼りつく。
乾は表情一つ変えないまま、レシートを元の折り目に沿って畳んだ。
一度で済むはずのところを、二度、丁寧に。
それから胸ポケットにしまい、財布を取り出して、代金より少し多めの額を石崎の手に握らせた。
「ついでに何か飲め。釣りはやる」
「マジすか! ゴチになります!」
自販機の方へ駆けていく石崎の背中を、乾はしばらく黙って見送っていた。
袋の持ち手を握る指に、いつの間にか余計な力がこもっていた。
◆
話は、その二十分前に戻る。
家電量販店の一角、アウトドア用品が並ぶ棚の前で、綾小路は懐中電灯のパッケージを一つずつ眺めていた。
あの夜、手刀を叩き込んだ瞬間、掌の縁に硬いライトがわずかにへこむ感触が伝わってきた。
あれだけへこめば、スイッチかレンズか、どこかが壊れているはずだ。
次に同じ使い方をする前に、相手は替えを用意しようとするだろう。
閃光の色味と、明かりが消えた時のスイッチの音。
手刀越しに伝わってきた、ジュラルミンの胴の太さ。
そこから改造の元になった市販品を絞り込むと、候補は一つのモデルに行き着いた。
敷地の外へ出られない以上、それを買える場所は限られている。
扱っているのは、この店だけだった。
(ただ、本人は来ない)
あれだけ用心深い相手が、自分で顔を出すとは思えない。
来るとすれば、事情を何も知らない使い走りだ。
売り場に通い始めて、三日目。
綾小路の読みは当たった。
レシートを片手に棚の間をうろつき、何度も首を傾げながら型番を見比べている男子生徒がいた。
Cクラスの石崎だ。
龍園の周りでよく見かける顔だった。
石崎は目当ての品をようやく見つけると、電池と一緒にレジへ運んだ。
会計の最中、ポケットに押し込み損ねたレシートが、ひらりと床へ落ちる。
本人は気づいていない。
拾って返せば、石崎はきっと、レシートを書いた本人にそのことを話す。
Dクラスの誰かが売り場にいた、と。
だが、襲撃者はもともと綾小路の顔を知っている。
今さら姿を見せたところで、失うものは何もない。
むしろ見られていると知れば、相手はしばらく下手に動けなくなる。
綾小路はレシートを拾い上げ、ごく自然な足取りで石崎の背中に追いついた。
「落としたぞ」
「お、おう。サンキュ」
石崎はレシートをひったくるように受け取り、ろくにこちらの顔も見ずに店を出ていった。
拾ってから手渡すまでの、ほんの一、二秒。
それだけあれば十分だった。
レシートの表に印字されていたのは、モールの食品売り場の名前と、ほんの十分ほど前の時刻だった。
その裏に書いてあるということは、メモ用紙を探す手間もかけずに、買い物を済ませたその場で書いたものだろう。
薄いレシートに、下敷きもなしに書いたはずなのに、字は少しも崩れていなかった。
最大光量モードがついているかどうかまで、わざわざ書き添える几帳面さ。
型番の中の数字の「7」には、縦線の途中に小さな横棒が引いてある。
日本ではあまり見かけない書き方だ。
一つの数字を、ほかの数字と読み違えられないようにするための書き方で、数字を正確に伝えなければならないものを、日頃から書き慣れている人間の癖に見えた。
(書いたのは、石崎じゃない)
背格好も身のこなしも、石崎はあの夜の襲撃者とまるで違う。
それに、石崎がこんなに綺麗な字を書くとは思えない。
書いた人間は別にいて、石崎はただの使い走りだ。
わかったのは「Cクラスの誰か」というところまでだった。
それでも、何の手がかりもなかったこれまでに比べれば、十分すぎる収穫だ。
綾小路は手にしていた懐中電灯のパッケージを棚に戻し、それ以上は何もせずに店を後にした。
◆
水曜日の放課後。
本校舎三階の多目的室には、長机が向かい合わせに並べられていた。
机の上には紙コップのお茶と、誰も手をつけていないお菓子。
それをすべて用意した雑務担当の真田は、お茶を注ぎ終えると逃げるように部屋の隅へ下がり、今は壁際で目を伏せて立っている。
一度だけ窓際の棚の下へちらりと目をやったきり、真田はもう顔を上げようとしなかった。
上座に座った
「改めて、集まってもらったことに礼を言う。今日の提案は単純だ。この先しばらくの間、ここにいる三クラスは、どのクラスに対しても不要な干渉や挑発を控える。足の引っ張り合いで全員が消耗するより、それぞれが自分のクラスを高めることに力を注ぐべきだと、俺は考えている。Dクラスには、まだまとまった代表がいない。話がまとまった段階で、こちらから伝えるつもりだ」
「うん、考え方には賛成だよ。ただ、私たちのクラスはみんなで決めることにしてるから、一度持ち帰って話し合ってから返事をさせてもらえるかな」
真っ先に口を開いたのは、
隣に座る
「それと、期間と、約束を破った場合の扱いも詰めておきたい。曖昧なまま結べば、あとで自分たちの首を絞めることになる」
Bクラスは、上を狙っている。
手足を縛られるかもしれない約束に、二つ返事で飛びつくつもりはないらしい。
葛城の向かいでは、
その後ろでは、付き添いの神室が退屈そうに壁へもたれている。
「葛城くんらしい、誠実なご提案だと思います」
本心なのかどうか、葛城は探るように坂柳を一瞥したが、何も言わなかった。
そして、長机の一番端。
椅子の背もたれに深くふんぞり返り、組んだ足を机の縁に乗せていた龍園が、喉の奥で笑った。
「ククッ……つまり、あれか。殴り合いが怖ぇから、みんなで仲良く手ぇ繋ぎましょうって話か」
「そういう話をしているわけではない」
「同じだろ。自分が勝てねぇのがわかってる奴ほど、ルールを増やしたがるもんだ」
龍園は机から足を下ろすと、葛城の方へ少しだけ身を乗り出し、心底楽しそうに唇を吊り上げた。
「安心しろよ、葛城。お前みたいな奴は、俺が手を出さなくても勝手に沈む」
長机の下で、葛城の拳が音もなく固く握りしめられた。
一之瀬が慌てて何か言いかけるより早く、龍園は椅子を蹴るようにして立ち上がり、ひらひらと手を振って扉へ向かった。
「茶ぁ、ごちそうさん」
乱暴に閉められた扉の音が、多目的室に響き渡った。
◆
扉の閉まる音は、イヤホン越しだとひどく遠く、くぐもって聞こえた。
ケヤキモールのカラオケの個室。
一週間前に真田と向かい合ったのと同じ部屋で、乾はソファに浅く腰掛け、片耳にだけイヤホンを差していた。
箱の中身は、外から取り寄せた小型の盗聴器だった。
電波の届く範囲で、誰にも邪魔されずに座っていられる防音の個室は、このカラオケくらいしかない。
テーブルの上には、運ばれてきたばかりのコーヒーが一杯。
湯気がまだ細く立ちのぼっている。
龍園のあの挑発は、昨日のうちに乾が頼んでおいたものだった。
好きなだけ葛城をコケにしてくれ、と。
龍園は理由も聞かずに、笑って引き受けた。
もともと箱を仕掛けたのは、Cクラスが席を外したあとの話を聞くためだった。
龍園がいなくなれば、残った連中は遠慮なくCクラスの話を始める。
約束を結んだあとでCクラスが何かを仕掛けてきたら、三クラスでどう締め上げるつもりなのか。
龍園が次に何をやるにしても、それを知っておけば段取りが組みやすくなる。
カラオケの個室からでは、多目的室の様子は見えない。
頼りになるのは、イヤホンから聞こえてくる音だけだ。
しばらくの間、イヤホンからは一之瀬が場をなだめる声と、それに応じる葛城の低い声が続いていた。
『龍園くんはああ言ってたけど、私たちは前向きに考えてみるね。クラスで話し合ったら、すぐに連絡するから』
『……感謝する。龍園が何を言おうと、三クラスが同じ約束の下でまとまっていれば、あいつも好き勝手はできない。もしCクラスが何か仕掛けてきたら、その時は三クラスそろって学校に訴え出ればいい』
乾は、葛城の言葉を頭の中で繰り返した。
約束が結ばれれば、Cクラスが誰かに手を出したとたん、三クラスがそろって学校へ駆け込んでくる。
龍園の次の仕事は、始める前から潰されることになる。
紙コップを置く音。
椅子の脚が床を擦る音。
やがて話し合いは、まとまったのかどうかもはっきりしないまま終わり、いくつもの足音がばらばらと扉の向こうへ遠ざかっていった。
後片付けを任されていたはずの真田の足音も、逃げるようにその中に混じっていた。
最後に残った気配は、二人分だった。
床を叩く、硬く規則正しい音。
杖の先だ。
『……まだ帰らないの?』
神室の、うんざりしたような声が聞こえた。
『少しだけ。もうお一人、ご挨拶をしておきたい方がいらっしゃるので』
杖の音が近づいてくる。
一歩、また一歩と、イヤホンの中でその音がはっきり大きくなっていく。
そして、ほとんど耳元で囁かれているような距離で、坂柳の声がした。
『乾くん。コーヒーは、温かいうちにどうぞ』
乾は、テーブルの上のカップに目をやった。
カラオケでコーヒーを一杯だけ頼み、一口も飲まずに帰る。
そんな細かいことまで、真田は洗いざらい喋ったらしい。
『……葛城くんの平和ごっこ、楽しんでいただけましたか? ご安心ください。あんな約束、私には守るつもりなどありませんから』
くすくすと、楽しげな笑い声が続く。
『このお話は、どなたにお聞かせになっても構いませんよ。……真澄さん、こちらをお願いします』
『……なんで私が』
不満げな声と一緒に、イヤホンの中で布の擦れる大きな音がした。
誰かが、棚の下から箱を持ち上げたのだ。
ごそごそと手探りするような音がしばらく続き、やがて、カチリという小さな音を最後に、何も聞こえなくなった。
乾はしばらく、何も聞こえなくなったイヤホンを耳に当てたままでいた。
欲しかったのは、約束を守るつもりはないという、あの一言だった。
ただ、誰に聞かせても構わない、という最後の一言は、乾の読みになかった。
つまりあの女は、自分の言葉が葛城の耳に届くことを、はじめから望んでいる。
乾は端末を操作して録音を止め、データを保存した。
二十分ほどして、個室の扉が乱暴にノックされた。
返事をする前に扉が開き、神室が顔を出した。
その手には、黒い布に包まれた掌ほどの箱がある。
「忘れ物。坂柳から」
神室は箱をテーブルの上に放り出すと、心底うんざりした顔で続けた。
「伝言もあるわよ。『これだけ大がかりな仕掛けをなさって、手に入ったのは私が差し上げた一言だけ。それで本当によろしかったのですか』だって」
「そうか」
乾は箱を手に取り、布の上から一度だけ重さを確かめた。
布の端には、棚の下の埃がうっすらとついている。
「……で、なんで私が、毎回あんたへの使い走りをさせられなきゃいけないわけ?」
「さあな。気に入られてるんじゃないか」
「最悪」
神室は吐き捨てるように言って、背を向けかけた。
「コーヒー、飲んでくか。ここのは美味いぞ」
「いらない。坂柳が言ってたわよ。あんた、ここのコーヒーは一口も飲まないんでしょ」
扉が閉まる音を聞きながら、乾は湯気の消えたコーヒーに目を落とした。
坂柳の言うとおり、使える録音は、あの女が差し出した一言だけだ。
だが、その一言を誰に、どうやって届けるかまで、あの女に決めさせるつもりはない。
乾は箱を鞄にしまうと、ゆっくりとソファに背中を預け、長く静かに息を吐き出した。
◆
翌日の昼休み。
図書館の奥、本棚に囲まれた閲覧席の一角で、
「Cクラスが、俺に何の用だ」
自分こそが葛城の右腕だと信じて疑わない男だった。
葛城の言うことなら何でも信じる。
その代わり、葛城以外の人間の言葉は、何一つ信じようとしない。
乾は向かいの椅子に腰を下ろすと、端末を机の上に置いた。
「聞きたくなければ、このまま帰ってもいい。聞いたあとで、誰にも言わずに忘れるのも自由だ。俺は、たまたま手に入ったものを聞かせに来ただけだ」
「……何の話だ」
「昨日のお茶会のあと、ほかの連中が帰ってからの多目的室の録音だ」
戸塚の眉が、ぴくりと跳ねた。
しばらくの間、戸塚は端末と乾の顔を交互に睨みつけていた。
立ち上がりかけ、また腰を落とし、唇を噛む。
葛城のための集まりのあとで、何があったのか。
それを知らないまま背を向けることは、この男にはできないのだ。
「……再生しろ」
乾は黙って再生ボタンを押した。
杖の音。
坂柳の声。
乾くん、とCクラスの男の名前を親しげに呼ぶ声。
平和ごっこ、という言葉。
あんな約束、守るつもりなどない、という言葉。
誰に聞かせても構わない、という言葉。
くすくすと続く笑い声。
音声が終わる頃には、戸塚の首筋から耳までが、怒りで赤黒く染まっていた。
「……坂柳は、お前らが盗み聞きしてるのを知ってたのか。知ってて、葛城さんには黙ってたのか」
「そういうことになる」
「……これを、葛城さんに聞かせろって言うのか」
「葛城に話すかどうかは、お前が決めればいい。盗み聞きしたのは俺たちだ。学校に訴えたければ、それも好きにしろ。ただ、データは渡さない。お前の口から聞いて、信じるかどうかは葛城が決めることだ」
乾は端末をポケットに戻し、静かに立ち上がった。
「ただ、これだけは覚えておいてくれ。葛城がいつか困った時は、Cクラスにも話の通じる相手が一人いる」
「……何が狙いだ」
「何か企んでるなら、もっとうまく恩を売ってる」
それだけ言い残し、乾は本棚の間を抜けて閲覧席を後にした。
背中に突き刺さる視線は、図書館の扉をくぐるまで消えなかった。
その日の放課後。
Cクラスの教室には、また西日が差し込んでいた。
窓枠に腰掛けた龍園は、乾の報告を最後まで聞き終えると、腹を抱えて笑い出した。
「ハッ……箱は最初からバレてて、おまけにご丁寧に返しにまで来た。で、坂柳の奴に好き勝手喋らせて、その声を葛城の犬に聞かせてきたってか」
「箱はバレたが、そのぶんの元は取った」
「お前が葛城をコケにしろって言ったのは、そのためか」
「あの女は、箱の場所を知ってた。知ってるなら、ほかの連中が帰ったあとで、俺に何か一言言ってくるはずだ。葛城がお前に笑われた直後なら、その一言には、きっと葛城を馬鹿にする言葉が混ざる。そういう性格だ」
乾は淡々と続けた。
「録れたのは、悪口だけじゃない。『あんな約束、守るつもりはない』って一言だ。おまけに、誰に聞かせても構わない、とまで言ってきた」
「ハッ、聞かせてくれって頼んでるようなもんじゃねぇか。……なるほどな。あの女も、葛城に手柄を取られたくなかったってわけか」
「そういうことだ。約束がまとまれば、Aクラスをまとめたのは葛城だってことになる。かといって、自分の手で潰せば、クラスの中で角が立つ。だから俺に運ばせた。盗み聞きをしたと責められるのも、こっちだしな」
「知ってて乗ったのか」
「約束を潰したいのは、こっちも同じだ。乗ってやる代わりに、運び賃はもらった」
「運び賃?」
「録音は、俺が直接戸塚に聞かせた。葛城の取り巻きに、Cクラスへの借りが一つできた。あの女の計算には、たぶん入ってない」
「戸塚の野郎が、学校に泣きついたらどうする」
「データは渡してない。戸塚が学校に駆け込んでも、証拠は何も残ってない。それに、学校が調べ始めれば、Cクラスの盗聴を知ってて黙ってた坂柳まで巻き込まれる。Aクラスの揉め事を学校に晒すような真似は、葛城が止める」
「言い出したAの中に守る気のねぇ奴がいるとわかりゃ、一之瀬んとこの慎重な連中は乗ってこねぇ。葛城も、自分のクラスすらまとめられねぇ約束を、よそに持ち込めるほど図太くはねぇ。……そういうことか」
「ああ。戸塚は今ごろ、葛城に全部話してる。約束は、もう流れたも同然だ」
「ククッ、上出来だ」
龍園は満足そうに目を細めた。
「あんな約束を結ばれてたら、次に俺たちが何を仕掛けても、全クラスから『約束破りだ』と袋叩きにされるところだった。学校だって、ここぞとばかりにこっちを睨んでくる」
「だから潰した。ついでに、Aの中の喧嘩が大きくなれば、しばらくはこっちを見てる暇もなくなる」
「お前、ほんっと性格悪ぃな」
「お前に言われたくはない」
龍園はひとしきり笑うと、ふと声のトーンを落とした。
「これで心置きなく次に移れる。次はDだ。須藤って赤髪の猿がいるだろ。あいつを使う。場所は特別棟だ。段取りはお前に任せる」
特別棟。
カメラの目が届かない、あの場所。
乾の頭に、ストロボの白い光の中に浮かび上がった、あの無表情な顔がよぎった。
「……わかった」
「それとな」
窓の外へ視線をやりながら、龍園は思い出したように付け加えた。
「石崎の奴が言ってたぜ。お前の使いでライトを買いに行ったら、Dの陰気な野郎がお前の書いた紙を拾ってくれたんだとよ。……そいつは、お前が調べてる奴か?」
「別人だ」
答えは、ほとんど反射的に口から出ていた。
龍園の視線が、窓の外から乾の顔へとゆっくり戻ってくる。
何かを確かめるように、じっと乾の顔に据えられたまま動かない目だった。
教室に、ほんの数秒の沈黙が落ちる。
「……そうか」
龍園はそれだけ言って、また窓の外へ顔を向けた。
乾は軽く頷いて教室を出た。
誰もいない廊下を歩きながら、左手で右の手首をそっと握る。
痺れはとっくに引いているはずなのに、その奥がまだ鈍く疼いている気がした。
龍園に嘘をついたのは、これが初めてだった。
◆
金曜日の放課後。
人のいなくなったAクラスの教室で、坂柳は窓際の席に一人座り、小さなチェス盤の上で駒を動かしていた。
向かいの席には誰もいない。
白も黒も、坂柳が一人で指している。
「坂柳」
教室に戻ってきた神室が、気怠げに声をかけた。
「なんか、葛城派の様子がおかしいわよ。昨日からやけにピリピリしてるし、さっきなんか廊下で、戸塚があんたの派閥の男子に食ってかかってた」
「あら。何と仰っていたのですか?」
「『Cクラスに盗み聞きさせておいて、葛城さんの約束なんか守る気もないってか』って。……それ、お茶会のあとで、あんたがあの部屋で言ってたことじゃない」
「ええ。思っていたより、ずっと早く届きましたね」
坂柳は盤の上のポーンを一つ進めながら、楽しそうに目を細めた。
お茶会のあと、箱に向かって口にした言葉は、はじめから葛城派の耳に届けるためのものだった。
葛城の約束がまとまれば、ばらばらだったAクラスをまとめたのは葛城だ、ということになってしまう。
かといって、坂柳が表立って約束を壊せば、クラスの中で角が立つ。
だから、壊す役目はCクラスに任せた。
録音を運んだのが乾である限り、盗み聞きをしたと責められるのもCクラスだ。
お茶会の場で箱のことを暴いてしまえば、三クラスはCクラスへの怒りで一つにまとまり、葛城の約束はかえって固まってしまう。
だから坂柳は、箱に気づかないふりをして、葛城の話を最後まで黙って聞いていたのだ。
「私は何もしていないのに、葛城くんの約束は流れてしまいました。乾くんには、お礼を申し上げないといけませんね」
「……あんた、ほんと性格悪いわね」
神室は呆れたように息をつくと、思い出したように付け加えた。
「そういえば、昨日の昼、戸塚が図書館でCクラスの乾と二人で話してたって。見た子がいるわよ」
白のナイトに伸ばしかけていた坂柳の指が、盤の上でぴたりと止まった。
いつも絶やさない微笑みが、ほんの一瞬だけ、その顔から消える。
録音を葛城派に届けるだけなら、乾が自分で戸塚の前に座る必要はない。
噂として流すだけでも、戸塚の耳には十分に届く。
それでも乾は、わざわざ戸塚と顔を合わせた。
葛城派の中に、Cクラスと話のできる相手を作るためだ。
坂柳が運ばせたつもりの録音で、乾は自分の取り分まで、しっかり手に入れていた。
「……私が差し上げた一言だけでなく、運び賃まで、ちゃんと受け取っていかれたなんて」
小さく呟いてから、坂柳は細く息をついた。
「乾くんも、ずいぶん抜け目のないことをなさるのですね」
声だけは、いつもと変わらず柔らかかった。
盤の端に追いやられたナイトは役に立たない。
数日前の電話で、乾とそんな話をしたばかりだった。
坂柳はすぐに微笑みを取り戻すと、白のナイトをつまみ上げ、盤の端ではなく真ん中へこつりと置いた。
「面白くなってきました」
神室は何も答えず、肩にかけた鞄の紐を握り直して、窓の外へ目を逸らした。