何番煎じだよって感じだと思うんですが暖かく見守っていただけると幸いです!
第1話 凶兆
十四歳になっても、リオン・アルヴェルトは、自分の席がどこにあるのかをよく知らなかった。
王立セレスティア学院、第二学年A組。王侯貴族の子弟ばかりが集められた教室には、生徒一人ひとりのために黒檀の机と革張りの椅子が用意されている。机の端には小さな銀板が打ち込まれ、そこに持ち主の名が刻まれていた。
リオンの名も、もちろんある。
窓際の最後列から二番目。
《リオン・アルヴェルト》
アルヴェルト侯爵家の次男にして、王国でも有数の名門貴族の子弟。その家名だけを見れば、誰かが勝手に席を使うことなど考えられない。教師が見れば叱責され、場合によっては家同士の問題にすらなり得る。
けれど今朝も、その椅子の上には三人分の鞄が積み上げられていた。
一つは上質な黒革。もう一つは赤茶色の鞄で、金糸による家紋の刺繍がある。最後の一つは、昨日も同じ場所に置かれていた濃緑色のものだった。
リオンは教室の入口でそれを見つめ、ほんの少しだけ足を止めた。
別に驚いたわけではない。
昨日もそうだったし、その前の日も似たようなものだった。
ただ、今日はどこに座ろうかと考えただけだ。
「それ、午後まで置いといて」
声が飛んできた。
鞄の持ち主の一人である伯爵令息、レイモンド・エルガーが、友人との会話を続けたまま手だけをひらひらと振っている。
リオンは一度、自分の名が刻まれた銀板へ視線を落とした。
「……はい」
それだけ答えると、教室の一番後ろへ歩いていった。
壁際には、教師が補助用に使う古い木椅子が二脚置いてある。そのうち一脚を引き寄せた。長年使われているせいで表面は擦れ、右前の脚だけが僅かに短い。腰を下ろすと、体重が移るたびにかた、かた、と小さな音がした。
何人かがそれに気づいていたが、誰も何も言わなかった。
むしろ、その音を聞いて笑う者が一人いた。
「またそれ使ってんのかよ!貧乏くせえ〜」
レイモンドの隣に座っていた子爵家の少年が振り返る。
「侯爵家のお坊ちゃんには、ずいぶん上等な椅子だな。くははっ!」
教室の一角から小さな笑いが起こった。
リオンはそちらを見なかった。
机がないので、授業道具は膝の上に置いた。教本、羽根ペン、ノート。どれも別に高価なものではない。侯爵家の子弟が使うものとしては、むしろ質素な部類に入る。
リオンにとってはそれで十分だった。
字を書くことはできるし、教本も読める。
不自由というほどではない。
少なくとも、リオン自身はそう考えている。
ほどなくして教師が教室へ入ってきた。
五十代ほどの男性で、学院では魔術理論を担当している。生徒たちが席へ着くと、教師は教壇へ立ち、いつものように出席簿を開いた。
名前が一人ずつ読み上げられていく。
「レイモンド・エルガー」
「はい」
「ユリウス・フォード」
「はい」
淡々と続き、やがて教師の目が一瞬だけ止まった。
「……リオン・アルヴェルト」
「はい」
返事をすると、教師が視線を上げる。
最後列の壁際。
正規の席ではない場所に座っているリオン。
その向こうには、当然のように三つの鞄が積まれた椅子がある。
教師が気づいていないはずはなかった。
一度、レイモンドたちへ目を向ける。
それから再び出席簿へ視線を落とした。
「……いるな」
羽根ペンで印をつける。それだけだった。
リオンは膝の上で教本を開いた。
誰かに席を返してほしいと思ったことがないわけではない。
入学したばかりの頃は、彼らに一度だけ言った。
そこは僕の席です、と。
その結果、授業が終わった後に教本を池へ投げ込まれた。
二度目はなかった。
別に、その一件だけが理由というわけでもない。
もっと単純だった。
皆がそうするなら、きっと自分が間違っているのだろう。
そう思う方が楽だったし、そうやって生きてきた。
授業が始まる。
教師が黒板へ魔術式を書き込み、王国式魔力循環について説明を始める。リオンは黙ってノートを取り続けた。
木椅子は何度も傾いたが、そのたびに身体の重心をずらし、倒れないように調整する。
慣れればどうということもない。
リオンは、そういうことだけは上手かった。
与えられた環境の中で、できるだけ邪魔にならずに過ごすこと。
声を上げないこと、反論しないこと、誰かが不機嫌になりそうなら先に謝ること。
それさえ守っていれば、大きな問題にはならない。
殴られることも減る。物を壊されることも少なくなる。
少なくとも、そう信じていた。
教室の窓から朝の光が差し込んでいた。
その光がリオンの横顔を照らす。
暗い琥珀色の左目は光が強く当たった瞬間だけ、その瞳孔が人間のものとは異なる形へ変わる。
細い縦線。爬虫類にも似た、鋭い瞳孔。
前の席に座る少女が偶然振り返り、それを見た。
顔が強張ると、汚物でも見たかのような目をして、すぐに逸らした。
リオンは何も言わない。
袖口を少し引き上げ、頬へ落ちた髪を直すふりをしながら顔を窓とは反対側へ向けた。
少しくたびれた制服は他の生徒と同じ濃紺。
左胸にはアルヴェルト侯爵家の紋章が縫い込まれている。
王国建国以前から続く家系であり、代々騎士団長や宮廷魔術師を輩出してきた広大な領土を持つ名門だった。
父は現当主で兄は嫡男。
妹も名門貴族の令嬢として魔術を教えられながら育てられている。
そしてリオンも、本来ならそこと同じ家の子供だった。
本来なら。
首筋には、小さな黒い鱗がある。
襟を閉じていれば大半は隠れる。昔は二、三枚ほどしかなかったが、十四歳になった今では鎖骨へ向かって少しずつ増えていた。
固く、黒く、触れば明確に人間の皮膚とは異なる。
それを見た者は、決まって同じ言葉を口にする。
忌み子、あるいは、龍の堕慧児や災厄の兆し。
呼び方はいくつかある。
意味は、ほとんど同じだったが。
リオンが生まれたその夜。北の霊峰グラン・エルデを覆っていた雲が真紅に染まったという。
王都からも見えるほど鮮明な赤だったらしい。
封龍宮の鐘が、誰も触れていないにもかかわらず十三度鳴った。
一度目で宮司が目を覚まし、三度目で衛兵が集まり、十三度目が鳴り終わる頃には王城へ早馬が走っていた。
そして夜明け前。アルヴェルト侯爵家に一人の男児が生まれた。
首筋には黒い鱗、左目には龍の瞳。
その報せが王城へ届くと、すぐに地下文書庫から《黒龍暦》が持ち出された。
三百年以上前に記された古い文書。
途切れ途切れの文章を繋ぎ合わせると、そこには、こうある。
──災いの御子、生まれし時。
──深き眠りに伏す災龍、再び世を見ん。
──その子を決して殺すことなかれ。
──白銀の髪を持つ王家の姫を、ただ災龍の御許へ捧ぐべし。
文章だけを見れば、曖昧な箇所も多い。
なぜ災いの御子を殺してはならないのか。
なぜ供物が銀髪の王女でなければならないのか。
そもそも災いの御子が生まれることと、災龍が目覚めることの間にどのような関係があるのか。
何一つ説明されていない。
けれど王国では、疑問そのものを抱く者がほとんどいなかった。
過去にも同じことがあったからだ。
黒い鱗を持つ子供が生まれ。
数年、あるいは十数年の後に封龍宮の封印が弱まり、銀髪の王女が霊峰へ送られる。その後、災龍の気配が消える。
その繰り返しだった、何百年も。それだけで十分だった。
伝承とは、そういうものだった。
理由を知らなくとも、従っていれば国は続く。
だから変える必要がないし考える必要もない。
それが王国の常識だった。
リオンが生まれたのと同じ年、王家にも一人の女児が生まれている。
長い銀髪を持つ王女。エリシア・セレスティア。
雪より淡く、月光のようだと称えられる美しい髪。
王国では王家の銀髪を祝福の証と呼ぶ者が多い。
けれど、災いの御子と同じ時代に生まれた銀髪の王女だけは、その意味が異なる。
供物。いつか災龍へ捧げられる少女。
エリシアもまた、リオンと同じ十四歳だった。
その事実を、学院の生徒で知らない者はいない。
だからこそ、リオンを見る視線には、ただの嫌悪だけではなく、別の感情が混ざることがある。
王女殿下を死に向かわせる者。
それが、彼だった。
本人が何もしていなくても。本人がそれを望んでいなくても。
生まれたという、それだけで。
授業終了を告げる鐘が鳴った。
教師が教本を閉じると、生徒たちが一斉に立ち上がる。
リオンも膝からノートを下ろした。
木椅子を元の位置へ戻す。
その間、誰も彼の椅子から鞄を退かさなかった。
次の授業も同じ教室で行われる。なら、また木椅子を使えばいいと、そう判断した。
休憩時間になると、レイモンドたちが席の周りに集まっていた。
楽しそうに昨日の剣術演習について話している。
「昨日のアレン見たか?」
「あいつ最後、剣ふっ飛ばされてただろ」
「先生にめちゃくちゃ怒られてたな」
──あはは!
笑い声。
リオンは少し離れた場所で、水を飲んでいた。
誰かに混ざろうとは思わないし、話しかけられれば答える。
そうでなければ、黙っている。それが普通だった。
昼休み。
鐘が鳴ると、生徒たちは食堂へ向かう。リオンも教本を閉じ、廊下へ出た。
自分の昼食を買うためだった。
学院の食堂は、貴族子弟向けとはいえ簡素なものも売っている。
黒パンとスープ。それだけなら安く済む。平民の生徒用の……いや平民でも頼まないようなメニュー。
家から昼食を持たされることはないので、普段はそれを買っていた。
廊下を半分ほど進んだところで。
「アルヴェルト」
後ろから呼び止められた。
リオンは足を止め、振り返る。
レイモンドたち三人が立っていた。
そのうち一人が大量の教材を抱えている。
古代魔術史。宮廷儀礼概論。魔物生態学。王国史。
十冊以上はあるだろう。
「これ、資料室まで運んどけ」
か細い両腕へ押しつけられる。
一冊がずり落ちそうになり、リオンは慌てて腕を回した。
「三階の東資料室だからな」
「分かりました」
「棚番号は十四。間違えんなよ」
「はい」
素直に頷く。
三人のうち一人が吹き出した。
「ほんと何でもやるよな、こいつ。使用人みたいだわ」
隣の少年が肩をすくめる。
「そりゃやるだろ。こいつに断る権利なんかあるかよ」
「おいおい」
レイモンドが、わざとらしく声を潜める。
「一応、侯爵様のご子息だぞ」
少しの間。
そして三人が笑った。
「ぷっ、あはは!そうだったな」
「忘れてたわ!」
「俺より家格上じゃん」
冗談として面白いらしい。
リオンは黙っていた。
怒ってはいないし、腹も立たない。
少なくとも本人は、そう思っている。
笑い声そのものより、自分の細い腕にのしかかる本の重みの方が今は問題だった。
十冊以上。落とせば、きっとまた何か言われる。
両腕を少し持ち直した。
「では、運んでおきます」
立ち去ろうとする。
「待てよ」
肩を掴まれ、危うく本が崩れそうになる。
「俺たちの昼飯も買ってきてくれ」
「あ……」
リオンは廊下の壁にかけられた時計を見る。
昼休みは残り三十分ほど。
ここから三階へ上がり、東資料室へ本を戻し、食堂へ降り、三人分の昼食を買って、また教室へ戻る。
おそらく、自分の食事を取る時間はなくなる。
ほんの少しだけ考えた。
だが、だからどうした。
一食抜いたくらいで死ぬわけではない。
家へ帰れば冷めた夕食は出る。
「分かりました」
リオンはそう答えた。レイモンドが満足げに笑う。
「俺、燻製肉のサンド」
「俺チーズ」
「俺は鶏肉のやつ。ソース多めな」
「はい」
「飲み物もな」
「分かりました」
リオンは一歩進み、また止まる。
「……あの」
三人が振り返る。
「何だよ」
「お金は……」
一瞬。沈黙。レイモンドが眉を上げた。
「ちっ……。後で払う」
「あ……はい」
それだけ。
リオンは頭を下げた。
実際に後から払われたことは、一度もない。
けれど、それを指摘したこともない。
入学した頃、一度だけ請求したことがある。
その時は「侯爵家のくせに細かいな」と笑われた。
次の日、自分の机に泥に塗れた自身の文房具が入れられていた。
それ以来、言っていない。
自分の手持ちで買えるなら、それでいい。
足りなくなれば、自分の昼食を減らせば済む。
三人は先に教室へ戻っていった。
リオンは大量の本を抱え直し、三階へ向かう。
階段を一段、また一段。
教本の角が腕へ食い込む。重い。
けれど、これくらいなら大丈夫。そう言い聞かせるしかなかった。
東資料室へ着くと、身体を使ってなんとか扉を開ける。
棚番号十四。
一冊ずつ本を戻す。
全て終えた頃には、昼休みが十分近く減っていた。
急いで食堂へ向かう。階段を下り、廊下へ出る。
その途中だった。
正面から、女子生徒の集団が歩いてくる。
廊下の空気が変わった。騒いでいた生徒が声を抑える。
自然に道が空き、皆が左右へ寄る。
中心にいる少女の髪だけが、窓から差し込む昼の光を白く弾いていた。
銀色の長く美しい髪。
腰近くまで伸びているそれは歩くたび、柔らかく揺れる。
エリシア・セレスティア第二王女。
十四歳という年齢にしては、静かな顔立ちをしていた。
まだ幼さは残っている。
けれど王族として育てられたためか、背筋は真っ直ぐで、歩き方も整っている。
青灰色の瞳、肌は白磁のような白さ。
学院の制服も他の女子生徒とほとんど同じだが、胸元には王家の紋章が留められている。
彼女の周囲には、伯爵家や公爵家の令嬢が数名付き従っていた。
リオンはすぐに壁際へ寄った。
王族が通るのだ。道を空けるのは当然だった。
その拍子。腕の中の一冊が滑った。
王国史の教本が床へ落ちると、乾いた音が廊下に響いた。
一瞬。周囲の視線が集まった。リオンはすぐにしゃがむ。
「申し訳ありません」
誰に謝ったのか自分でも分からなかった。
王女へ?周囲の生徒へ?教本へ?
ただ、何か失敗した時には謝る。
身体がそう覚えているだけだった。
教本を拾うと、その表紙へ少し埃が付いた。
制服の袖で拭うその間に、
エリシアたちが横を通り過ぎていく。
リオンは顔を上げなかった。
見れば嫌な顔をされるかもしれない。それなら見ない方がいい。
視界の端を銀色の髪だけが横切った。
ほんの一瞬。月光のような、綺麗な色。
それで十分だった。
王女もまた何も言わなかった。
足音が遠ざかっていくのを聞くと、リオンは本を抱え直し、そのまま食堂へ向かった。
リオンは気づかなかった。
エリシアが、彼を通り過ぎたあと、ほんの一度だけ、振り返っていたことに。
そして、大量の本を抱え、誰に言われたのかも分からない謝罪を口にし、一人で食堂へ向かうその背中を、しばらく、見つめていたことに。
リオンは知らなかった。
王女もまた自分を見なかったのだと。彼にはそう見えていた。
そう思っていた。
そして、
──それでいい。
そう思えるようになったのは。
ずっと昔。
まだ彼が、誰かに分かってもらえると信じていた頃。
雪の降るあの日からだった。