大学職員の僕たち   作:房吉

37 / 37
~25敗目・裏~ 非常用電源

 (同時期/馬剃視点)

 

 十二月三十一日、朝九時、実家の自室。

 

 スマートフォンが鳴って、画面に彼の名前が出た瞬間、心臓が、どきん、と跳ねた。

 

 大晦日の朝に、電話。

 

 用件の候補を三つ考える前に、指が勝手に出ていた。

 

「はい、馬剃です」

 

 用件は、候補のどれでもなかった。

 

「付き合ってほしい場所があるんだ。……同僚として、じゃなくて」

 

 同僚として、じゃなくて。

 

「高校の、友達として」

 

 

 

 

 友達。

 

 

 

 

 その言葉を、この人の口から聞くのは、人生で二回目である。

 

 一回目は、十六年前。向山大池の、橋の上。

 

 告白したのは、私だった。

 

「温水さん、好きです。私とつきあってくれませんか」

 

 言い切った三秒後、困り果てた彼の顔を見て、いっぱいいっぱいになった私は、自分から手を差し出したのだ。

 

「まずは、友達から始めませんか」

 

 友達から、と申請したのは、私である。

 

 気楽に話したり、出かけたり、そういうことから始めて、いつか好きになってもらえたら、と。

 

 申請は、受理された。

 

 受理されたまま、審査結果が出る前に、彼は東京へ消えた。

 

 

 

 

 その「友達」を、十六年後の電話で、彼はいま、使った。

 

 

 

 

 覚えている、ということである。

 

 あの橋の上の申請書の文言を、この人は、十六年、破棄していなかった。

 

 胸の真ん中が、かっと熱くなって、受話器を持つ手に、力が入った。

 

 入った力を悟られないように、私は確認の様式に逃げた。

 

「同僚としてと、友達としてで、何が変わりますか」

 

「断りやすさ、かな。仕事じゃないから、断っていい」

 

 断っていい、と先に言う人である。

 

 断るわけがないのに。

 

「では、友達として、行きます」

 

「行き先を聞く前に決めるんだ」

 

「友達は、そういうものだと聞いています」

 

 聞いた相手は、十六年前の、橋の上の私である。

 

 友達から始めれば、気楽に出かけられるはずだと、あの日の私が、言っていた。

 

 十六年越しに、あの日の私の申請が、初めて本来の運用をされようとしていた。

 

 

 

 

 それから彼は、事情を話した。

 

 文芸部で一緒だった、小鞠知花さんのこと。

 

 

 

 

 小鞠知花。

 

 

 

 

 その名前を聞いた瞬間、私の胸の古い場所で、錆びた釘が、ぎしりと鳴った。

 

 忘れたことはない。

 

 二学期の部長会。

 

 緊張で原稿を床にばらまいて、立ち尽くしていた文芸部の新部長に、進行席の私は言ったのだ。

 

「報告がないようなら座ってください」

 

「すいませんが時間が押しています」

 

 切り捨てた。

 

 三秒で、切り捨てた。

 

 時間に追われていた、という言い訳を、私は十六年、自分に許していない。

 

 あの三秒の冷たさは、若さでも余裕のなさでもなく、私の未熟だった。

 

 

 

 

 そして、もう一つの記憶がある。

 

 彼が知らない記憶である。

 

 こども未来館で、小鞠さんの妹の陽奈ちゃんが、迷子になった日のこと。

 

 パニックでスマートフォンを落とした小鞠さんが、私を見て、怯えて、それでも「手伝ってください」と言った日のこと。

 

 私は施設中を走った。

 

 息が切れるまで走って、絵本コーナーで眠っている小さな子を見つけて、二人でへたり込んだ。

 

 へたり込んだ床の上で、私は、ずっと言えなかったことを言った。

 

「去年の部長会、覚えてらっしゃいますか。あのときのこと、ずっと謝りたかったんです」

 

 頭を下げた私に、小鞠さんは、パタパタと手を振った。

 

「あ、あれは、わ、私が、ま、周りが見えてなくて。だ、だから、ば、馬剃さんは、わ、悪くない」

 

 悪くない、と言われた。

 

 言われて、借りが消えたことに、私はしていない。

 

 三秒の冷たさと、一時間の捜索は、等価ではないからである。

 

 帰り際、私は調子に乗って、手を差し出した。

 

「今度、文芸部の部室に伺わせてください。一緒にお話をしませんか」

 

「そ、それは、やめとく」

 

 即答で、振られた。

 

 振られたのに、あの日の帰り道は、不思議とすがすがしかった。

 

 あの人は、怯えながら、自分の線を引ける人だった。

 

 引かれた線の手前で、私はまた振られちゃいましたね、と一人で呟いて、笑ったのだった。

 

 

 

 

 その小鞠さんに、彼は十六年ぶりに会いに行くという。

 

 迷子事件のことは、言わなかった。

 

 昔の話は、本人の許可なく開示しない。

 

 それに、あれは私と小鞠さんの物語で、彼の詫びの旅に、先に色をつけるべきではなかった。

 

 一人じゃ来られなかった、と彼は言った。

 

 その一言を、私は、たぶんずっと、待っていた。

 

 高校のときも、この九か月も、頼るのはいつも私だった。

 

 赤点の秘密も、選挙の推薦人も、仕事の一つ一つも、差し出す手は、いつも向こうからだった。

 

 その人が、初めて、私に手を出した。

 

 一人では無理だから、と。

 

「……頼られました」

 

 電話を切った部屋で、私は誰にともなく、声に出して報告した。

 

 報告する相手は、いなかった。

 

 いなかったので、もう一度言った。

 

「頼られましたので」

 

 二回言うと、事実の輪郭が濃くなる。

 

 濃くなった事実を胸に、私は、クローゼットの前で三十分、研究をした。

 

 同僚の服と、友達の服は、何が違うのか。

 

 研究の結論は、結局いつものコートだったが、マフラーは赤にした。

 

 いつも赤だが、今日は、選んで赤にした。

 

 選んだ、という事実だけが、研究の成果である。

 

 鏡の前で、赤いマフラーを巻きながら、ふと、口から出た。

 

「……友達、ですか」

 

 自分の声が、部屋に落ちた。

 

「友達から始めましょうと申請したのは、私ですけれど。……十六年と九か月は、『まずは』の範囲内でしょうか」

 

 鏡の中の私は、答えなかった。

 

 答えないので、私が代わりに認定した。

 

「……範囲外だと思いますっ」

 

 認定しても、現状は変わらない。

 

 変わらないが、言わないでいると、胸の中の在庫が増える一方なのである。

 

 最近、この在庫の棚が、少しずつ、手狭になってきている。

 

 それから、鞄に缶コーヒーを二本、入れた。

 

 一本は彼が引き返しそうになったとき用。

 

 もう一本は、私の手が震えたとき用である。

 

 二本目の用途は、言っていない。

 

 

 

 

 荷造りの話も、白状しておく。

 

 帰省の鞄に、私は久遠うさぎ先生の文庫を三冊、入れてきていた。

 

 旅の供、と彼には言った。

 

 正確には、供ではなく、電源である。

 

 久遠うさぎ先生の本と出会ったのは、省にいたころ、日付の変わった帰り道の書店だった。

 

 平積みの表紙と目が合って、一冊買って、始発までに読み終えた。

 

 読み終えた朝、私は生きて出勤した。

 

 省の最後の年は、タクシーで帰る夜と、帰らない夜の二種類しかなかった。

 

 辞令が出た夜も、私は一章、読んだ。

 

 読んだ章の中で、登場人物が、逃げることを「移動」と言い張っていた。

 

 私の転職を「移動」と言い張る勇気は、あの一章にもらったのである。

 

 大げさに聞こえるだろうが、あのころの私の消耗の仕方を知っているのは、私だけである。

 

 以来、あの人の本は、私の非常用電源だった。

 

 枯れそうな夜に一章読むと、翌朝が来た。

 

 だから三冊は、帰省という消耗戦への、正規の装備である。

 

 ペンを三本入れたのも、荷造りのときである。

 

 作家に会う予定など、なかった。

 

 なかったが、ファンというものは、会う予定を人生に常備しておくものなのである。

 

 

 

 

 喫茶店で、小鞠さんは、彼を見て「うなっ」と鳴いて、それから私を見た。

 

 見た瞬間、小さな体が、テーブルの下に三センチ沈んだ。

 

 

 

 

 ずきり、と胸が痛んだ。

 

 

 

 

 十六年前の私の三秒が、まだ、あの人の反射の中に住んでいる。

 

 和解しても、反射は消えない。

 

 消えないものを作ったのは、私である。

 

 だから私は、三十度ではない礼をした。

 

 腰から、深く。

 

「そ、その節は、お、お世話になりました」

 

「こちらこそ。その節は」

 

 その節の中身を、隣の彼は知らない。

 

 知らないまま「どの節だ」という顔をしていたが、これは私と小鞠さんの節である。

 

 開示予定は、当面、ない。

 

 それから小鞠さんは、私たちを見比べて、聞いた。

 

「……で、しんちょく、どこまで?」

 

 しんちょく。

 

 進捗。

 

 その語の攻撃力を、私は本日、初めて知った。

 

 どこまで、と聞かれて、答えられる項目が、私の帳簿には存在しない。

 

 存在しないことが、いちばんの答えである気もしたが、認定はしなかった。

 

 彼が「進捗って言うな」と流してくれたので、私は水を一口飲んで、心拍を三つ数えた。

 

 

 

 

 筆名を、彼が口にした。

 

「筆名、まだ『久遠うさぎ』なんだよね。なろうのころの」

 

 

 

 

 世界が、がこん、と音を立てて、組み変わった。

 

 

 

 

 久遠うさぎ。

 

 私の非常用電源。

 

 枯れそうな夜を何度も充電してくれた、あの文章の書き手が――

 

 十六年前に私が三秒で切り捨てた、あの声の主だった。

 

 気づいたときには、立っていた。

 

 立とうと思って立ったのではない。膝が、勝手に椅子を押していた。

 

「久遠うさぎ先生っ!?」

 

 声量の制御は、その日はもう、戻ってこなかった。

 

 二冊ずつ買っている話も、旅の供三冊も、そらんじている一行も、全部その場で白状した。

 

 そらんじた一行を作家本人の前で暗唱するという事故については、夜の反省会を予約した。

 

 予約したが、撤回はしない。

 

 事実なので。

 

 白状しながら、胸の中では、別の音が鳴り続けていた。

 

 あの深夜の書店で私を拾い上げた文章は、部長会で私が切り捨てた人が、書いたものだった。

 

 私が三秒で見捨てた人に、私は十六年、何度も救われていた。

 

 帳簿が、音を立てて崩れて、組み直された。

 

 組み直した結果、借りの残高は、増えた。

 

 

 

 

「ぬ、温水は。じゅ、十六年ぶん、よ、読んだ?」

 

 その質問が来たとき、私は息を殺した。

 

「読んでない」

 

 彼は、正直に言った。

 

「開くと、書き続けてる小鞠が見つかって、読み続けなかった俺が、確定するから」

 

 確定するから、開かない。

 

 数えると負けるから、数えない。

 

 同じ構造の逃げ方を、私は知っている。

 

 知っているので、隣で、何も言わなかった。

 

 言わない代わりに、テーブルの下で、鞄の中の二本目の缶を、握った。

 

 私の手用の、二本目である。

 

 震えは、握るだけで、止まった。

 

 渡す出番は、最後まで来なかった。装備とは、そういうものである。

 

 あなたの分の読書は、私が十六年、先にしておきました。

 

 そう言いたいのを、握った拳で止めた。

 

 今この席の主役は、二人であって、私ではない。

 

「や、約束、わ、私は守ったから。か、書き続けた」

 

 小鞠さんの声に、目頭が熱くなった。

 

「し、信用は、し、してなかった」

 

「で、でも、し、信じてた。じゅ、十六年」

 

 信用してないけど、信じてる。

 

 十六年もつ言葉を、この二人は、高校の部室で作っていたのである。

 

 作った言葉の強度に、部外者の私の目の防波堤が、先に決壊しかけた。

 

 決壊は、コーヒーを一口飲んで、ごまかした。

 

 

 

 

 途中、小鞠さんが彼に「ご、五回くらい、し、死ね」と言った。

 

 言われた彼は、笑っていた。

 

 五回の死を笑って受け取る横顔に、私の知らない部室の空気が、一瞬だけ見えた。

 

 十六年前の、二人の空気である。

 

 ……少しだけ、いいなと思った。

 

 思ったことは、帳簿に載せない。載せない頁が、また増えた。

 

 読書会の提案をしたのは、勢いではない。

 

「小鞠さん。……文芸部には、私も、忘れられない借りが一つあります」

 

「か、返してもらった。む、昔」

 

「いいえ。まだです」

 

 まだ、である。

 

 三秒と一時間は、等価ではない。

 

 それに今日、残高は増えた。

 

 十六年分の充電の代金を、私はまだ一円も払っていない。

 

 一括で返せる額ではないので、長期の分割にする。

 

 読書会は、その返済計画の第一回である。

 

 返済計画に楽しみという利子がつくのは、会計として例外的だが、この帳簿は例外が多いので、もう慣れた。

 

 

 

 

 精文館で、サインをいただいた。

 

 ペン三本の常備が、人生で初めて実戦投入された。

 

「お、お名前は」

 

「馬剃天愛星です」

 

「て、てぃあら……」

 

 小鞠さんは、ペンを止めて、少しだけ私を見た。

 

「……い、いい名前。ひ、響きが、つ、強くて、や、やさしい」

 

 

 

 

 どきん、と心臓が鳴った。

 

 

 

 

 この名前を、いい名前だと言われた回数を、私は片手で数えられる。

 

 数えられる回数の最新の一回が、いま、私の非常用電源の作者から来た。

 

 返事は「……っ、あ、ありがとうございます」になった。

 

 様式が、音を立てて崩れた返事だった。

 

 崩れた様式のまま、書いてもらっている三十秒、心臓は、どっどっと走り続けていた。

 

 受け取った本は、両手で持った。

 

 家宝の持ち方は、缶コーヒーの持ち方と、同じでいいはずである。

 

 

 

 

 帰り道、彼が言った。

 

「今日は、ありがとう。友達枠」

 

 友達枠。

 

 朝の電話の二文字が、夜にもう一度、正式名称になって返ってきた。

 

「本日の私は、同僚でしたか、友達でしたか」

 

 確認したのは、様式のためではない。

 

 もう一度、耳で聞きたかっただけである。

 

「友達。全面的に」

 

 全面的、まで付いた。

 

 胸が、ぽっとあたたかくなって、その奥で、小さく別の音がした。

 

 全面的に友達、ということは、全面的に、まだ友達、ということでもある。

 

 手帳を出したのは、耳が熱くなったのを隠すためで、書いた一行は、こうである。

 

 『十二月三十一日。友達(全面的)。』

 

 括弧の中身まで書くのは、記録として過剰だが、過剰でない書き方が、見つからなかった。

 

 その下に、もう一行、書きかけた。

 

 『※いつまで』

 

 三文字で、手が止まって、消した。

 

 消した跡は、頁に残った。

 

 跡が残るのが、手帳というものである。

 

 

 

 

 夜、手帳に新しい頁を立てた。

 

 見出しは『返済計画』である。

 

 第一回、読書会。日程三案、一月五日までに送付。

 

 第二回以降、未定。未定のまま、長く続くこと。

 

 計画に「長く続くこと」と書くのは様式違反だが、この頁は、様式より願いを優先することにした。

 

 除夜の鐘が鳴りはじめたころ、私は布団の中で、一冊目を再読していた。

 

 『傘は、二人には小さかった』

 

 その行で、今日の喫茶店の光景を思い出した。

 

 この町のどこかで、いま、あの人が同じ本の一頁目をめくっている。

 

 作者も、この町のどこかの屋根の下にいる。

 

 十六年遅れの読者と、十六年書き続けた作者と、十六年分先に読んでいた私が、同じ鐘の音の下にいる。

 

 そう思ったら、年越しの読書が、いつもより、少しだけあたたかかった。

 

 本を閉じて、電気を消す前に、窓の外の鐘の音に、一つだけ聞いてみた。

 

「……来年こそ、と言っていい案件でしょうか」

 

 鐘は、答えなかった。

 

 答えない代わりに、百八つ鳴るらしい。煩悩の数だけ。

 

 私の煩悩の第一位は、十六年、更新されていない。

 

 非常用電源は、今夜は、非常用ではなかった。

 

 ただの、いい本だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

卍解までは転生者の嗜み。(作者:点差惨敗)(原作:BLEACH)

ナチュラルボーンド畜生主人公が無双する話


総合評価:33820/評価:8.88/連載:10話/更新日時:2026年09月16日(水) 12:10 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>