(四月十一日/温水視点)
四月十一日、土曜日、十二時五十八分。
東京の喫茶店の、奥の丸テーブルに、小鞠が先に着いていた。
「ぬ、温水。ば、馬剃さん。……じ、時間どおり」
「作家が一番乗りって、昔と逆だな」
「さ、作家として、し、視察に来ただけ」
「へ、編集部との打ち合わせの、ついでと伺いましたが」
「つ、ついで。あくまで、ついで」
ついで、と二回言った。
二回言うときは、ついでではないのである。
丸テーブルには、椅子が五つ、置いてあった。
「……ご、五つ」
「予約は、三名のはずですっ」
馬剃さんが、手帳を開いた。
開いた手帳の今日の頁には、『読書会(祝賀会を兼ねる)。三名。』と書いてある。
「よ、予約、か、変更されてる。……や、八奈見さんの名前で」
名前の出た人は、まだ来ていない。
来ていないのに、椅子の数だけが、先に増えていた。
十三時ちょうどに、八奈見さんが来た。
ポロシャツにカーディガンで、紙袋を二つ提げていた。
「はい、おまたせ。小鞠ちゃん、久しぶりー」
「ひ、ひさし、ぶり……や、八奈見、な、なんで椅子、ご、五つ」
「全員でやるって聞いたから」
「き、聞いてない」
「あたしが聞いたの。地獄耳だから」
地獄耳は、三月三十一日の翌週には、文芸部の総会を招集していたらしい。
八奈見さんは座るなり、メニューを開いて、ナポリタンの大盛りとホットケーキを頼んだ。
「祝賀会だからね。インフレなの」
「ここ喫茶店だよ」
「喫茶店でもインフレするの」
インフレは、店の業態を問わないらしい。
「で、あと一人は、走ってくる」
「……走ってくる?」
「駅から。電車より速いって言い張ってた」
十三時六分、店のドアが勢いよく開いた。
「間に合ったーっ!」
ジャージの上下に、キャップ。
首から、ストップウォッチ。
焼塩である。
「ぬっくん! 馬ちゃん! 小鞠ちゃん! 八奈ちゃん!」
四人の名前を、一息で呼んだ。
呼びながら、ストップウォッチを止めた。
「駅から、二分十一秒。次の電車より、三分速い」
「勝負じゃないんだろ」
「勝負じゃない。計測」
計測なら仕方がない、と馬剃さんの顔に書いてあった。
書いてあるのに、口は「……ご無沙汰しております」と動いていた。
「馬ちゃん、喋り方変わってない!」
「八月にも、同じことを言われましたっ」
「八月から変わってない!」
「褒めていませんよね」
「褒めてないよ!」
焼塩は、馬剃さんの両手を握って、ぶんぶんと振った。
振り終わって、小鞠の隣に、どすんと座った。
「小鞠ちゃん、久しぶり! あたし、新刊読んだよ!」
「よ、読んだ……?」
「聞いた。音声で。走りながら」
「は、走りながら、き、聞くな」
「五キロでちょうど三章まで行くんだよね」
「き、距離で、は、測るな」
文芸部の四人が、十六年ぶりに、同じテーブルに揃った。
十六年前の部室より、テーブルは小さく、声は大きかった。
揃ったところで、馬剃さんが、A4の紙を五枚、配った。
五枚の紙は、五通りの顔で受け取られた。
「本日の次第です。一、開会。二、課題図書の感想戦。三、報告事項。四、その他。五、閉会」
「し、次第……ぶ、文芸部に、し、次第……」
「馬ちゃん、これ手書き?」
「印字ですっ。手書きは、様式として不安定ですので」
「文芸部が、進化してる……」
小鞠が、紙を持ったまま固まった。
固まった隣で、焼塩は次第を裏返して、そこにストップウォッチの数字を書いた。
書くな、と俺が言う前に、八奈見さんが言った。
「三番からやろうよ」
「い、いきなり三番……」
「あたし、ナポリタン来る前に聞きたいの。焼塩さん、まだ何も知らないでしょ」
「え、なにが」
焼塩が、キャップのつばを上げた。
上げた顔は、本当に、何も知らない顔だった。
馬剃さんが、立った。
喫茶店で、次第の三番で、立ったのである。
「ば、馬ちゃん、なんで立つの」
「座って言っていい報告ではありませんので」
どこかで聞いた助言を、この人は、自分の側でも運用していた。
「報告事項、一件。……三月三十一日付で、温水和彦さんと、お付き合いを、開始しましたっ」
テーブルが、止まった。
止まったテーブルの上で、最初に動いたのは、焼塩のストップウォッチだった。
「――えっ」
かちり、と音がした。
「えっ、えっ、えっ!? ぬっくんと!? 馬ちゃんが!?」
「はいっ」
「いつから!?」
「三月三十一日、です」
「そこは聞いた! じゃなくて、いつから!」
「じゅ、十六年前の三月から、で、ですっ」
焼塩は、ストップウォッチを見た。
見て、俺を見た。
「……遅っ! あたしの一万メートルより遅い!」
「一万メートルは十六年かからないだろ」
「ぬっくん、そういうとこだよ!」
そういうとこだよ、が、八月に続いて二回目である。
二回目のほうが、少しだけ嬉しそうだった。
焼塩は、それから、急に何かに気づいた顔をした。
「……あ。馬ちゃん、生徒会室の前の、あれ」
「あ、あれとはっ」
「足で、『の』の字」
「か、書いていませんっ!」
「誰かと喋ったあとに書いてたやつ。……ぬっくんだったんだ」
「――書いていませんっ!!」
声が、喫茶店に響いた。
カウンターのマスターが、一人こちらを見た。
馬剃さんは、姿勢を正して、小さく「失礼しました」と言った。
言った足の先が、テーブルの下で、小さく円を描いていたのを、俺は見ないことにした。
見ないことにしたのに、焼塩は見ていた。
「いま書いてるよ、足」
「書いていませんっ」
「あたし、目もいいんだよね」
「耳と足と目で生きていらっしゃるんですね」
「うん」
「……肯定されました」
八月の中庭と、まったく同じ流れである。
同じ流れを、この二人は、たぶん一生やる。
「あたしは、開票済みだから」
ナポリタンが来た八奈見さんが、フォークを持ったまま言った。
「開票?」
「三日前に済ませたの。馬剃さんの勝ち。文句なし」
「し、進捗報告は、わ、私も、う、受けてる」
「えー、あたしだけ知らなかったの!?」
「檸檬ちゃん、電話出ないもん。いつも走ってる」
「走ってるときは出ないよ!」
「走ってないときがないでしょ」
焼塩は、反論しなかった。
しないで、馬剃さんのほうを向いて、にかっと笑った。
「馬ちゃん、おめでとう」
「……あ、ありがとうございますっ」
「ぬっくんは、おめでとうじゃないな」
「なんでだよ」
「十六年待たせた側だから。……よかったね、が正しい」
正しかった。
正しいことを、この人は昔から、走りながら言う。
言われた側は、立ち止まって、それを受け取るしかない。
「よかったね、ぬっくん」
「……うん」
うん、しか出なかった。
出なかったぶん、八奈見さんがナポリタンを一口分、余計に食べた。
三番が終わって、二番に戻った。
感想戦は、白熱した。
「主人公が最後に傘を置いていくのは、あれは、戻ってくる伏線だと思って読んだ」
「異議がありますっ。あれは決別です。三章の靴紐の描写と対応していますっ」
「く、靴紐……そ、そこ、拾う読者、は、初めて見た」
「あたしは、置いてった傘、誰かが拾うと思ったんだよね」
「拾うって、誰が」
「知らない。でも、傘って拾われるじゃん、だいたい」
焼塩の読みは、伏線でも決別でもなく、傘の物理だった。
「あたし、レジの合間に読んだんだけど」
八奈見さんが、ホットケーキを切りながら言った。
「傘の色、書き込みすぎ。あれ、未練だよ」
「未練と自由は、両立しますっ」
「するの?」
「しますっ。……こ、小鞠さん。どちらの読みが」
審判を求められた小鞠は、コーヒーを一口飲んで、遠い目をした。
「……さ、作者の解釈が、よ、四方向から、ま、負けそうだから、だ、黙秘する」
「作者が黙秘するんだ」
「よ、読者が、こ、怖いんだよ、この読書会……」
書いた本人の前で、書いた本人より熱く語る読者が四人。
部としては、たぶん、最高の状態である。
感想戦が一段落したところで、小鞠が、鞄から包みを出した。
紙袋ではなく、丁寧な布の包みだった。
「そ、その他、の議題。……ぬ、温水に、へ、返却物」
「返却物?」
「じゅ、十六年、あ、預かってた」
包みを開くと、薄い冊子が出てきた。
最後の部誌だった。
高三の三月に刷った、俺たちの代の、最後の一冊。
表紙の題字は、小鞠の字である。
目次には、懐かしい名前が並んでいた。
白玉さんの掌編があって、見開きには、焼塩の描いた部員全員のイラストがある。
「うわ、あたしの絵だ。……画力ないなー、あたし」
「檸檬ちゃん、あたしの顔、丸すぎない?」
「八奈ちゃん、そのときそうだったもん」
「もん、じゃないの」
全員、若い。
当たり前だが、若い。
奥付の頒価の欄を見た会計係が、小さく呻いた。
「は、頒価、百円……こ、この頁数と装丁で……げ、原価割れですっ」
「ぶ、文芸部の会計は、じょ、情熱で補填するんだよ」
「補填できませんっ、情熱ではっ」
できていたのである、あのころは。
取りに来て、とメッセージが来て、取りに行かないまま、十六年たった、あの部誌である。
「と、取りに来なかったから。も、持ってきた」
「……十六年、置いといてくれたの」
「す、捨てる理由が、な、なかった。ぬ、温水の分だから、ぬ、温水のもの」
冊子は、少しも傷んでいなかった。
日に焼けてもいない。
しまい続けた人の手間を、俺は、受け取った重さで初めて知った。
「ぬ、温水のページは、と、特に、わ、笑っていい」
「笑うとこなの?」
「じ、自分で読んで、た、確かめろ」
ページを開いた。
十六年前の俺が書いた、短い小説が載っている。
題は、『始発』。
読み始めて、三行で、俺は顔を上げた。
「……これは、笑っていいやつだ」
「だ、だろ」
「拝読しますっ」
馬剃さんが、身を乗り出した。
八奈見さんも、焼塩も、左右から覗きこんだ。
十六年前の俺の文章が、三方向から読まれていく時間は、正直、重い拷問だった。
拷問の途中で、馬剃さんの目が、ある行で止まった。
「……この主人公、最後、町を出ていくんですね」
「…………」
「置いていった傘のことを、考えながら」
テーブルが、静かになった。
八奈見さんの、フォークが止まった。
この人のフォークが止まるのは、本当に聞いているときだけである。
十六年前の俺は、卒業の一か月前に、これを書いていた。
町を出ていく話を、である。
書いた本人は、伏線のつもりなどなかった。
なかったが、読み返せば、これは予告だった。
予告を載せた部誌を、置いていかれた側の一人が、十六年保管して、今日、返しに来た。
「……こ、これ読んだとき、わ、私は、ぬ、温水が、い、いなくなる気がした」
小鞠が、カップを見たまま言った。
「き、気がして、で、でも、き、聞けなかった。……き、聞いてたら、ち、違ったのかな、とか、た、たまに、考えた」
「……変わらなかったと思う。あのころの俺は」
「そ、そう」
「でも、聞こうとしてくれてたのは、今日、初めて知った」
「じゅ、十六年遅れの、じょ、情報開示」
「受け取った。……ありがとう」
焼塩が、キャップを、深くかぶり直した。
「……あたしは、気づかなかった。走ってばっかで」
「檸檬ちゃんはそれでいいの」
八奈見さんが、フォークを置いたまま言った。
「気づいた人が、一人いれば、部としては足りるの」
足りていたのである。
一人が気づいて、十六年、部誌を保管していたのだから。
部誌の最後の頁は、編集後記だった。
小鞠の字で、三行だけ書いてある。
最後の一行に、目が止まった。
『またいつか、全員で。』
またいつか、は、十六年かかった。
かかって、今日、全員で、ここにいる。
三行の一番下に書かれた約束は、十六年前から、このテーブルの上に置かれていたのである。
俺は、何も言わずに、頁を閉じた。
言わなくても、書いた本人が向かいにいる。
小鞠は、返事の代わりに、砂糖の袋を、意味もなく三回折った。
折り終えて、顔を上げたときには、いつもの毒の顔に戻っていた。
「じゅ、十六年前の文章、こ、恥ずかしいだろ」
「恥ずかしい」
「も、もっと恥ずかしがれ。わ、私は、じ、自分のなろう時代の文章を、ま、毎晩思い出して、し、死にそうになってる」
「作家でもそうなんだ」
「さ、作家だから、そうなる」
「そ、それと。ほ、報告。……わ、私からも」
小鞠が、座り直した。
「し、新作を、か、書き始めた。し、締切のない、な、長い話」
「おお」
「ど、どんな話ですかっ」
「……じゅ、十六年ぶりに、さ、再会する、ふ、二人の話」
俺と馬剃さんは、同時に、小鞠を見た。
「じ、実話は、さ、参考にしてない」
「してるだろ」
「し、してない。……さ、三割しか」
「三割はしてるんだ」
「あたし出る?」
「で、出る。は、走る役」
「あたしは?」
「た、食べる役」
「扱いが雑!」
「取材協力費、請求しますっ」
「し、死ね。ご、五回くらい」
協力費は、五回の死で相殺された。
文芸部の経理は、昔からこの水準である。
閉会の前に、馬剃さんが、もう一度、居住まいを正した。
「小鞠さん。……一件だけ、感想戦の外で、お伝えしたいことがあります」
「な、なに」
「文科省にいたころ、小鞠さんの本に、命を救われていました。誇張ではなく、事実として」
小鞠が、瞬きを止めた。
「読み終えた朝に、生きて出勤する。それを、何度もさせていただきました。……ずっと、お伝えしたかったんです。書き続けてくださって、ありがとうございました」
深い礼だった。
小鞠は、しばらく黙っていた。
黙って、それから、小さい声で言った。
「……そ、それは、さ、作家に、い、一番、効くやつ」
「効きましたか」
「き、効いた。……じゅ、十年ぶんくらい、か、書ける」
十年ぶん、と作家は言った。
言ってから、照れ隠しに、次第の紙を手に取った。
「へ、閉会。じ、次回は、ら、来月。か、課題図書は――」
「私が三案、用意しますっ」
「三案! 馬ちゃん、そういうとこだよ!」
「や、焼塩さんは、お、音声以外で読んでくださいっ」
「次回はあたしの店ね。ナポリタン以上を出すから」
次回の会場と課題図書が、閉会の三十秒で決まった。
決まったところで、焼塩がスマートフォンを構えた。
「写真。全員で。白玉ちゃんにも送るから」
五人が、丸テーブルに寄った。
寄ったところで、焼塩が、ストップウォッチを押した。
「三秒で笑って。計測するから」
「笑顔は計測するものじゃないだろ」
「三、二、一」
シャッターが、鳴った。
五人分の顔が、一枚に入った。
十六年前の見開きの絵と、並びだけが、同じだった。
鳴った瞬間、俺の隣で、馬剃さんの背筋が、面接の角度になっていた。
角度のまま、耳だけが赤かった。
喫茶店を出て、駅までの道を、五人で歩いた。
歩いた、というのは正確ではない。
焼塩は途中から走り、八奈見さんは紙袋のホットケーキを食べながら歩き、小鞠は小さい背中で先に行った。
残った二人で、最後の坂を上った。
「……や、焼塩さんの、せ、生徒さん」
「うん?」
「い、入学式の受付に、い、いらっしゃいました。し、資料をお渡しした、あの子ですっ」
「気づいてたの」
「よ、四百人対応中でしたので、こ、声はかけられませんでしたが。……受付の列で、い、一礼されましたっ」
八月に、この人が「私の担当です」と言って渡した資料の子である。
その子が、四月の受付で、この人に一礼した。
一年が、そういうふうに閉じるのだと、俺は今日まで知らなかった。
「い、いい一年でしたっ」
「うん」
「じゅ、十六年ぶんの、い、一年分、でしたっ」
十六年ぶんの一年を、この人は、隣の席で回した。
回して、今日、全員の前で、立って報告した。
駅の改札で、焼塩が待っていた。
「ぬっくん、二分二十秒。行きより遅い」
「歩いたからな」
「二人で歩くと、遅くなるんだよね」
にやりと笑って、焼塩は改札の向こうへ走っていった。
走らなくていい距離を走るのは、たぶん、一生である。
夜、家で、部誌をもう一度最初から読んだ。
読み終えて、小鞠にメッセージを送った。
『部誌の感想も、送っていい?』
『じ、十六年遅れの感想、受け付ける』
『長くなるけど』
『長文でも。……ぶ、文芸部だから』
文芸部だから、で、今夜も全部が通った。
感想を打ち終えたところで、別の通知が来た。
写真が、一枚。
湯気の立つ、味噌汁だった。
『十六年ぶんの、二枚目です』
二枚目、と数える人である。
数える人の隣で、俺は数えない側を、これからやる。
やるのに、返事の四文字だけは、あの人の様式を借りた。
『受理します』
送ってから、部誌の最後の頁を、もう一度開いた。
『またいつか、全員で。』
いつか、は今日で使い切った。
使い切ったので、来月から、その下に一行ずつ足していくことにする。
締切のない、長い話になる。