菜の花畑が咲き誇る町外れのとある一角に石造りの家がある。
ちょっとボロいがそこそこ広くて丈夫な家だ。
家主のジャベルはいつも日の出と一緒に目を覚ます。
本当は昼近くまで眠っていたいのだが傭兵上がり身体に沁みついた習慣が怠惰を許してくれないのだという。
それとは別にも最近では彼が密かに憧れている自堕落な生活というものとはますます無縁になっている。
「曇りじゃねえかよ……クソクソクソ」
窓の外から見える鈍色の雲に一面を覆われた空に恨み言をぶつくさ言いながらも寝台から起き上がると朝支度を始める。
くすんだ金髪の頭を掻きながら台所に立つと手際よくかまどに火を起こし、片手鍋を水瓶に豪快に突っ込んで水を汲むと上に載せた。
「昼から一雨くるだろうな。ちょいと薪を多めに用意しておくか……水はどうだった?」
お湯が沸く間にジャベルは空模様を眺めながら軽い柔軟運動を行う。肩や腰を捻るたびに彼の全身からポキポキと大きな音が鳴った。
今年で三十一になるジャベルにしてみれば老境を感じるには早すぎるが武器や道具と同じで小まめな手入れで老いによる肉体の摩耗を防ぐためにもこの体操はどんな日でも欠かさないようにしていた。
古傷だらけのやや小柄な肉体は傭兵稼業を退いたとはいえ微塵の衰えもなく逞しくて、まるで猟犬のような雰囲気を残している。
「お、そろそろいいな」
お湯がぐつぐつと煮えているのを確かめるとジャベルは戸棚からコップと茶筒を取り出す。コップにセットした茶こしに適当に茶葉を入れてお湯を注いでしばらく置く。
時折茶こしを軽くゆすればお湯の色がどんどんと淡い黄金色へと変わっていき、爽やかな香りが台所に漂う。ジャベルが近くの竹林から採集した笹の葉から作った笹茶の出来上がりだ。
コップの熱で両手を温めながら淹れたての笹茶を一口飲んで噛み締めるように息を吐く。体の芯から末端へとじんわりと熱が巡り、一日の始まりを実感する。眠気はとうに覚めていた。
窓辺の壁にもたれてジャベルが笹茶を飲んでいると奥の部屋からパタパタと足音が聞こえてきた。
「おはよう、ございます……
小走りだった足音の歩調がゆっくりになって、やがて止まると一人の少女が遠慮しがちに台所の入り口から顔を出した。
感情の起伏が乏しそうな翡翠色の瞳をした端麗な顔立ち。
無造作に伸びた髪はカテドラル地方では珍しい鮮やかな緋色でまるで煌めく炎のようだ。
「おう。おはようラピス」
「あの……」
「ん?」
「わたしにもできるお仕事はなにかありますか?」
この家で暮らすようになって日が浅い少女は古めかしい革製の黒い首輪を揺らしながら、遠慮がちにジャベルに問う。
「そうだな。朝飯の手伝いやら頼みたいことは沢山あるがまずは……ほれ」
ジャベルはコップをもう一つ用意して笹茶を淹れるとまだ台所の入り口で立ち止まっているラピスを手招いた。
「一服付き合ってくれ」
「……はい」
ラピスはおずおずとジャベルの傍に寄るとコップを受け取り、顔の近くに持っていく。
湯気と一緒に豊かな笹の香りが鼻孔を通り抜けて、自然と彼女の頬を緩ませた。
「熱いからな。舌を火傷するなよ」
ジャベルからの忠告にこくりと頷いて、ラピスは何度か息を吹いて笹茶を冷ますとそっとコップに口を付けてひと口飲んでみる。
ほんのりとした甘みのあるスッキリとした味わいの笹茶に思わず、といった感じに「おいしい」と声を漏らす。
「気に入ったようで嬉しいよ。このお茶は口や腹ん中の殺菌も助けてくれる優れもんだからな。飲んで損はない」
「あの……お茶というものをはじめて飲みました」
「良かった。今日は記念日になるな」
「でも、
「ああ……そうだな」
コップをギュッと両手で握り戸惑い混じりに真剣な表情でこちらを見つめるラピスに合わせるように真面目な面持ちを作っていたジャベルはすぐに我慢できなくなって、くつくつと笑い始める。
「安心しろ。偉そうに高説なんて垂れてみたがいま飲んでるお茶はお前さんが聞いたことのある本物のお茶じゃない。昔、東の方の戦場にいた頃に知り合った奴の話を頼りに近くに生えている笹の葉で俺が作ったもんだ。銀貨一枚の価値もない」
「…………にせものですか?」
「良くない誤解を招く言い方だな。派生品とでもしておこう」
なにか物申したいような眼差しでこちらを見上げるラピスにジャベルはわざとらしく気取った様子でさらりと答えた。
ご主人であるジャベル相手にこれ以上異議を申し立てるつもりはないのか、或いは笹茶の味そのものはお気に召したのかラピスは何も言わず、ゆっくりと楽しむように中身を飲み干すまで何度もコップを傾けていた。
「今日は昼ぐらいから雨が降りそうだ。朝飯を食ったらたっぷりと頑張ってもらうことになりそうだ」
「仰せのままに、何なりと……です」
「拗ねるなよぉ。からかったことは悪かった」
「いえ、そういうつもりで言ったわけでは……」
「分かってる。無駄口が好きなんだよ。お前さんのご主人はこう見えて寂しがり屋だからな」
精巧な人形のような端麗な顔を感情豊かにコロコロと表情を変えるラピスの挙動を面白がるのを惜しみつつ、ジャベルは一服を終えて朝食の準備に取り掛かる。
「我が家に買い置いたパンはもうどれもカチカチだ。なので手っ取り早くパン粥にして食っちまおう。異論はないか?」
「はい」
「良い子だ。それじゃあラピスは昨夜の残りの野鳥のスープを温めながら、パンを千切って鍋に入れていってくれ」
「分かりました」
「パンがスープをよく吸って柔らかくなったらチーズを削って少し入れてくれ。コクが出て美味くなる」
「塩やスパイスを追加で入れた方が良いですか?」
「良い提案だ。ラピスの好きな味加減に仕上げておいてくれ。俺は畑ですぐに食える手ごろな野菜が成ってないか見てくる」
台所をラピスに任せたジャベルは彼女の背中をポンと叩いて外の畑へと向かっていく。少女の背中に触れた手にはまだぎこちないけれど確かな親愛のぬくもりがあった。
こうして、彼らの何でもない一日が動き出す。
これは剣と魔法が息づく世界で紡がれる名もなき人々の他愛のない暮らしの記録。
これは平和に馴染めない男と家族を知らない少女のありふれた、けれど色彩に満ちた毎日の一片。
まずは二人の出会いから語るとしよう。
少女が銀貨三十枚の代わりに男の家にもらわれたその日のことから。