銀貨三十枚の少女〜猟師と元奴隷のゆったり山暮らし〜 作:マフ30
夕食を済ませたラピスは食器を片付けた後にジャベルから今度は体を流してこいと家の奥にある洗い場へと行かされた。
この家で暮らすうえで守ってもらいたい決まりの一つとして彼はラピスに毎日体を洗うようにと言い聞かせた。
長い間傭兵として生きてきたジャベルは体を清潔にすることの重要性を知っていた。
猟師として生きる現在では濃い人間の臭いが山林の獣相手の狩りにおいて無視できない弱みになることもラピスに教えた。だから、手間でも毎日の入浴を欠かさないようにしているとのことだ。
「し、失礼します……」
誰もいないと分かっていながら、つい畏まって中に入ったラピスがジャベルに渡された手燭台に灯した蝋燭の火で天井の梁から吊り下げられているランタンに灯りを点けると真っ暗でひんやりとした洗い場がぼんやりと照らされる。
出入り口には木製の
風呂桶はなく、代わりに色んな大きさの水瓶が何個か置かれて、奥には洗濯用の大きなタライが立て掛けられていた。
ラピスはしばし戸惑いがちに洗い場を見渡してから、意を決したように服を脱ぎ一糸纏わぬ姿になった。
「ここでいいんだよね……?」
入り口のすぐ脇にある背の高い棚の上下それぞれに藤で編んだ籠があるのを見つけた。
裸になる前に確認しておけば良かったと内心思いながら、ラピスは事前にジャベルに教えられた通りに上の籠には着替えを、下の籠に今日一日着ていた服を入れるといざ!とばかりに素足で洗い場の奥へと進む。
「お湯、こんなに使ってもいいの? 本当に?」
陶器の水瓶にはまだ湯気が出ているお湯が並々と溜まっていた。
夕食を食べている間にかまどで沸かしたものでジャベルが採集してきたらしきハーブや薬草を束にして縛ったものが浮かんでいる。
「⋯⋯冷めちゃう前に使わないと
彼曰く、自分が使うお湯は別に用意しているので遠慮せずにたっぷり使って、しっかりと体を洗ってこいとの言いつけだ。
ちょんちょんと何度もお湯の水面に躊躇いがちに指をつけては離していたラピスだったが自分を納得させると傍に置かれた手桶でお湯を掬って体にかけた。
「はぁー……きもちいい」
人肌に馴染むぐらいに冷めていたお湯を浴びて、彼女の体は歓喜の産声を上げたようだった。三度、四度と頭からお湯を浴びていくと汗や汚れと一緒に全身に蓄積された疲れが溶けて流れ落ちていく心地になる。
「前のご主人様にお仕えしていた頃は週に一度、桶一杯の水を使わせてもらえるだけだったっけ?」
掛け湯を済ませたラピスは石鹸とブラシを使って全身を入念に洗っていく。
馬の毛を材料にしたブラシの毛先は柔らかで余りの心地よさで睡魔が襲ってきてしまいそうだ。
そんな、夢現な意識になったからだろうか?
あるいは独りきりの空間にいるからだろうか?
ついつい、彼女はこの石造りの家に流れ着くまでの日々を思い返してしまっていた。
「……シュタルケ翁」
ラピスはポツリと先々代の主人の名前を口にする。
海辺の国でどういう経緯か行き倒れていて、家族や故郷のことも覚えていなかったラピスを拾って育ててくれた老爺の富豪。
色々な制約があり、奴隷と言う形でしかラピスのことを養育する環境を用意できなかったとはいえ彼に仕えている間は屋敷での仕事や労働は幼い体には辛く大変なものだったが主人は温厚で奴隷たちにも気を配ってくれていた。
一緒に働く奴隷たちとも仲良く苦楽を共にして毎日を慎ましく暮らしていた。
事態が変わったのはシュタルケ翁が急病に倒れそのまま亡くなってしまってから。
ラピスたち奴隷は彼の四人目の息子の所有物となった。
この先代主人はシュタルケ翁とは真逆に奴隷たちに理不尽なまでに厳しく、そして我儘に接する人物だった。
暴力や暴言は日常茶飯事だった。
言われた通りに命令をこなしても彼の気分次第で難癖をつけられて、仕置きをされる。
シュタルケ翁は奴隷たちみんなに正式なものでないにしろ、愛称をつけて個々を尊重してくれていたが先代主人は最後まで彼女たちを番号でしか呼ばなかった。
ラピスも何度あの男に殴られたり、蹴られたりしただろう。
自分では確認することは出来ないが背中には鞭で打たれた跡がまだ残っているのかもしれない。
「うぅ……っ」
地獄の日々を思い出してしまい、ラピスは堪らず自分で自分の肩を抱いて縮こまる。
もう過ぎたことだと必死に自分に言い聞かせる。
けれど、あの日々の記憶が脳裏に鮮明に呼び起こされたせいで寒気が止まらない。
熱を求めて、この寒気を忘れ去りたくて、ラピスは壊れた玩具のように何度も何度もお湯を被る。水瓶の中のお湯が全て無くなるまで泡や汚れ、垢と一緒にこの忌まわしい記憶も流れて消えてくれと祈るようにお湯を浴び続けた。
自分が大人になっても続くと思われた救いのない日々は唐突に終わった。
先代主人は自らの癇癪が招いた不慮の事故でこの世を去った。
遺された彼女たちは金品や資産と同じく、遺族たちに平等に分配されて呆気ないほど簡単に散り散りとなったのだ。
※
「ご主人、お風呂いただきました。ありがとう、ございます」
「おー、ちゃんと温まったか? 長椅子は運んどいたから、いつでも寝れるぞ」
湯浴みを終えて、寝間着に着替えたラピスはおずおずと沈んだ様子で洗い場から出てきた。途中までとても気持ち良かった入浴だったのに、つい余計なことを思い出してしまったせいで胸の奥がまだ悶々としている。
そのせいか、彼女は折角良くしてもらっているのに申し訳ないとジャベルの顔も満足に見られない。
「おい」
このまま部屋に行って寝てしまおうかと思案していたラピスだったが急に呼び止められて、しかも初めて聞いたジャベルの怒気を孕んだような一声にぞわりと悪寒が走る。
「お前なんだそれ……ちょっとここ座れ」
「っ……あ、は、はい! はい、ただいま!」
ラピスはぶわりと顔中に冷汗を浮かべて、大急ぎで言われるがままにジャベルが指さす椅子へと座る。
何か粗相をしてしまったのだろうか?
不興を買ってしまったのなら、いますぐに謝らないと。
理由は分からないけど、きっと悪いのは自分だ。そうに違いない。
あの逞しい腕で殴られでもしたら、きっとすごく痛いんだろうな……そんなことを考えながら小さく震えていると背後からジャベルの足音が近づいてきて。
「え……?」
ふわりとタオルを頭に掛けられて、ラピスは状況が理解できずに間の抜けた声を漏らして目を丸くする。
「やっぱりだ。おいおいおい、髪まだ濡れてるじゃねえか? ちゃんと拭いて乾かせラピス」
まだしっとりと水気が残るラピスの鮮やかな緋色の長い髪をジャベルは彼女を嗜めながら、タオルでごしごしと力加減に気を付けて乾かし始めた。
「山が近いからな、ここの夜は春でも冷え込む。お前さん、髪の毛長いんだから気ぃつけることだ」
「はい。その、ごめんなさい……短く切った方がよろしいでしょうか?」
「極端に考えなくていい。夏場に暑苦しくなけりゃそれでいいんじゃねえか? 俺は似合っていると思うがね。それよか、痛くはないか? ちゃんと本当のこと言えよ?」
「大丈夫、です」
「そうかい。お前の部屋にな、シーツだけじゃ寒いかもしれんから毛皮の毛布も運んでおいた。風邪引かないように精々気をつけろよ」
ラピスの胸中を知ってか知らずか、ジャベルは何気ない会話をマイペースに振りながら念入りに彼女長い髪の水分をしっかりとタオルで拭き取っていく。
「あの、ご主人……どうして」
「うん?」
「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか?」
震えた声で、絞り出すようにラピスは尋ねた。
「まあ、なんだ……俺の勝手な事情だが恩送りってやつだ」
「え?」
「飯の時に話したみたく、俺は拾ってもらった傭兵団の大将に随分と世話になった。返しきれない恩があるが戦場から離れたいまとなっちゃ気軽に会えないし、探しようもない。だから、ずっと考えていたんだ……俺が受けた恩を返せないなら他の誰かに送ろうって」
ラピスの頭にタオルを被せたまま、ジャベルは彼女の頭を優しく撫でる。
「そんな時にお前さんがきた。巡り合わせが良かったのさ」
「…………よく、わかりません。ご主人の理由も、私なんかがこんなにも良くしてもらえる理由にも」
「そんな簡単に物事分かったら人生苦労しねえよ。いまは、あれだ……一緒に暮らす上でラピスは分からないことだらけだろう?」
「はい」
「だから、心得がある俺が教えている。いまは俺が授けてばかりだけど、その内に俺もお前さんに世話になることになる。程度も増えていくだろうさ」
「そういうものでしょうか?」
「人が誰かと生きていくなんて、そんなもんさ」
ラピスの髪がしっかり乾いたのを確認するとジャベルはパン!と彼女を元気付けるように両の肩を少しだけ強く叩いた。
「あとは……我ながら浅い考えだと思っちゃいるが可愛い子には早く懐かれたいものだろう?」
タオルを畳んでテーブルに置くとジャベルはラピスの対面に座ってわざとらしく苦笑いをして見せた。そんな彼の姿に不思議とラピスは肩の力が抜けるような気持になっていた。
個室を賜り、お肉たくさんの美味しい食事を出してもらい、たっぷりのお湯を使わせて体を流させてもらいながらも、ずっとラピスはジャベルのことを信用しきれないでいた。
何か裏があるのではないか?
ふとした拍子に豹変するのではないか?
裏切られるのではないだろうか?
様々な不安や懸念がずっと彼女の胸の裡には渦巻いていた。
「なあ、ラピス」
「はい」
「ここはもうお前さんの家だ。お客様でも、奴隷でもない」
「……はい」
「だから、すぐにとは言わないがそうよそよそしく畏まらなくていいんだよ」
「がんばります」
「おう。それから、ありがとうな……俺のところに来てくれて」
「……え?」
「おかげで、もう寂しい夜を一人で耐える必要がなくなったよ」
自分でも格好の悪いことを言っている自覚はあるのだろう。
ジャベルはなんとも情けない様子で照れ臭そうに言って、すぐにごまかし笑いを浮かべる。けれど、その顔は満更でもなさそうだ。
「お役に立てて、なによりです」
そんなジャベルを見て、ラピスは彼を信じてみようと思えた。
主人としても、一緒に日々を暮らす同居人としても。
そう、思わせてくれるぬくもりをくれた彼にいま一度深い感謝の念を抱いていた。
「さて、俺も体を流して寝るとするよ。お前さんも今日一日色々あって疲れただろう?」
「ええ、はい……なんだか急に眠たくなってきました」
「俺は早くに勝手に起きるかもしれんが無理して合わせる必要はないからな。しっかり寝ろよ? 寝る子は育つだ」
「はい。ほどほどにゆっくり寝させていただきます」
「良い返事だ。じゃあ、また明日な」
「はい。ご主人、おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
猟師は寂しさを埋めてくれる人を得た。
元奴隷は再び、心に色彩を与えてくれる人に巡り会えた。