私たちが流す血は、人間のそれよりも少しだけ青みがかっていて、そして酷く生臭い。
外界の陽光を拒絶した紅魔館の、その広大な庭園の隅で、私は大輪の吸血薔薇の根元にたっぷりと水を注ぎ込んでいた。じょぼじょぼと湿った音を立ててふやけていく黒土の隙間から、昨日殺された同僚の肉片が泥に塗れて覗いている。それはやがて、薔薇の滋養となっておぞましいほどの鮮赤を咲かせるのだ。誰もそれを片付けようとはしない。だって、どうせ私たち妖精は、放っておけばそのうち世界の隙間から勝手に湧き出て、また元通りに働くのだから。
「ねえ、そっちの剪定は終わった?」
密集した生垣の向こうから、友人──私たちは互いに名前を持たないから、心の中で『三番』と呼んでいる──が、錆びた鋏をカチカチと不穏に鳴らしながら顔を出した。
「まだ。この株、やけに育ちが良くてさ。やっぱり、先週あそこで間引かれた奴らの血を吸ったからかしらね」
「ああ、あの時の。あれは傑作だったわ。メイド長の機嫌が悪くて、モップのバケツをひっくり返しただけで頭を叩き割られたものね」
三番は他愛のない世間話のように言って、けらけらと喉を鳴らした。私も釣られて乾いた笑いを漏らす。笑うしかないのだ。私たちの命の価値なんて、博麗神社の賽銭箱に放り込まれている木の葉同然なのだから。
三番と私が組まされるようになったのは、もう何度目かも数えるのが馬鹿らしくなるほど昔のことだ。妖精に記憶の連続性なんてあってないようなものなのに、なぜか彼女とだけは、毎回同じ調子で軽口を叩き合える。まるで、そういう風に世界の隙間に縫い付けられているみたいに。
「ねえ、知ってる? 昨日の夜、配膳班のあの子が、パンの耳をこっそり自分の口に隠して持ち帰ろうとして、咲夜様に見つかって説教されてたって」
「へえ。命が惜しくないのかしらね、あの子」
「命なんて、私たちにとっては消耗品でしょ。惜しいのはパンの耳よ」
三番は真顔でそう言ってから、自分の言葉に自分で吹き出した。私も堪えきれずに噴き出す。こんな冗談で笑えるくらいには、私たちはこの檻の理不尽さに順応してしまっていた。順応、というより、麻痺、と呼ぶべきなのかもしれないけれど。
「そういえばさ」と三番が鋏の刃先で私を指す。「あんた、この前の花壇整理の時、パチュリー様の部屋の前をうろついてたでしょ。あれ、何してたの」
「別に。ただ、本の匂いが好きなだけ」
「嘘つき。あんた、いつかあそこに忍び込んで本を読んでやろうって企んでるでしょ」
図星だった。私は言葉に詰まり、誤魔化すように薔薇の棘を弄る。妖精の分際で文字を覚えたところで何になるわけでもないのに、それでも私はこっそりと、廊下に落ちていた古い羊皮紙の切れ端の文字を目で追うのが好きだった。三番だけがそれを知っていて、そして一度も咎めたことがない。
「まあいいけどさ。次死ぬときは、その本の呪いで死んでみたら? ちょっとは変化があって面白いじゃない」
「縁起でもないこと言わないでよ」
私はそう言って笑ったが、三番も私も、「死ぬとき」という言葉を、まるで「明日の天気」くらいの軽さで口にすることに、もう何の違和感も持っていなかった。
──あ、ああ、あああああああッ!!
その時、重厚な石造りの館の、おそらく二階の窓の奥から、複数の甲高い悲鳴が響き渡った。
引き裂かれるような肉声。骨が軋み、肉が爆ぜる音。それらは夕暮れの霧のようにどんよりと庭園へ流れ出し、そしてぷつりと不自然に途切れた。
「お、また始まった」
三番が鋏を動かす手を止め、館の不気味な窓を見上げて歪な笑みを浮かべる。
「今度は誰だろね。フランドール様の、お可哀想な『お人形』に選ばれたのは」
「さあね。まあ、私達みたいな底辺のうちの誰かでしょう。あの地下室の『暇つぶし』に付き合わされて、五体満足で戻ってきた試しがないもの。どうせ夕方には、また台所あたりから勝手に生えてくるわよ」
私たちは再び作業に戻ったが、言葉の端々に、隠しきれない泥のような愚痴が混じり始める。妖精にだって、感情はある。痛覚もある。死ねば一丁前に怖いし、全身が引き裂かれる瞬間には、気が狂うほどの激痛が走るのだ。
「……それにしても、先月のパーティーの時は本当に最悪だったわ」
私が薔薇の鋭い棘で指を突いた拍子に、ぽつりと言った。
「あの『癇癪赤』。カードゲームで負けただけで帰りに殺してくるなんて」
「なにそれ、ただの八つ当たりじゃない」
「私、あの時ただ廊下を雑巾がけしてただけなのに、あの紅白。目が合った瞬間に『邪魔』って吐き捨てて、お札で私の身体を破裂させたのよ? 内臓が全部床に飛び散って、死ぬまで三分間も苦しんだんだから」
「あはは、あんたも災難ね。でも私は、あの『白黒ドブネズミ』の方がもっと嫌いだわ」
三番が鋏を激しく動かし、可憐な若芽を無残に切り落としながら吐き捨てた。
「先週。図書館の本の整理中にいきなり殴りかかって、本を奪っていったんだよ。仲間と共に取り返しに向かったら、いつものアレされたよ」
「ああ、先週のアレか…大分散らかしてくれたよね。私も掃除班や配膳班と共に呼び出された」
「何がマスタースパークよ。ただの泥棒のくせに。あいつが派手にぶっ放した熱線の余波に巻き込まれて、私、下半身が瞬時に消し飛んだのよ。炭みたいに焼け焦げながら、死んだわ。全身が熱くて、痛くて、たまらなくて……あのドブネズミ、絶対に面白半分に私たちが苦しむのを分かってて殺してるわ」
「そうよ、あいつら人間は、私たちが何度でも生き返るからって、ただの物みたいに扱う。お嬢様たちだってそう。私たちがどれだけ痛がって泣いたって、羽虫の羽をむしるくらいにしか思ってな──」
その時、庭園の勝手口の重い鉄扉が、音もなく静かに開いた。
私と三番は、冷水を浴びせられたように瞬時に口を噤み、姿勢を正した。
現れたのは、完全なるメイド長、十六夜咲夜だった。その怜悧で冷徹な瞳が、私たちをじっと見下ろしている。
「あなたたち。油を売っている暇があるなら、中へ来なさい。昼の給仕の手が足りません。──そこの六人、ついてきなさい」
咲夜様の背後から、いつの間にか集められていた他の同僚たちが、怯えた顔でこちらを見ていた。私と三番を含めて、ちょうど六人。
私たちは無言で平伏するように頷き、錆びた鋏を泥の上に置いた。館の内部へと続く、あの薄暗い、二度と戻れないかもしれない扉の向こうへ、私たちは足を踏み入れるしかなかった。
廊下を歩きながら、三番がこっそりと私の袖を引いた。
「ねえ、給仕の仕事なら、まだマシな部類よ。お茶を運んで、お菓子を並べて、あとは壁際で突っ立ってるだけ。パチュリー様の書斎の給仕なら、静かでいいのよね」
「そうだといいけど」
私がそう答えると、三番は場違いなほど明るい声で続けた。
「もし本当に書斎に呼ばれたら、こっそり本のタイトルだけ盗み見といてあげる。あんたが読みたがってたやつ」
「ありがとう。でも、盗み見て見つかったら、今度こそ私たち二人まとめて灰にされるわよ」
「その時は道連れね」
三番はそう言って、悪戯っぽく片目を瞑った。恐怖の底にいるはずなのに、こういう瞬間だけは、まるで外界の学校に通う少女たちのような、無邪気な温度が私たちの間には確かに存在していた。
その日の「お役目」は、いつもとは少しだけ趣を異にしていた。
厨房に呼び出された私たちに手渡されたのは、磨き抜かれた重厚な銀のトレイ。上質なリネンで覆われたその上には、まだ仄かに温かい、甘美な異臭を放つ「お食事」が載せられていた。
「これを、地下のお嬢様のもとへ運びなさい。無事に勤め上げたなら、あなたたちには、今日焼き損じたマドレーヌの端切れを分けてあげます」
メイド長たる十六夜咲夜は、氷細工のような唇を僅かに緩めてそう言った。
それは私たち底辺の羽虫にとって、滅多にない贅沢な報酬だった。私たちは顔を見合わせ、まるで外界の学校に通う人間の少女たちのように、弾んだ声を立てて地下への階段を降り始めた。
「マドレーヌだって。嬉しいね。きっとバターがたっぷりで、甘くて、美味しいよ」
三番が銀のトレイを恭しく掲げながら、悪戯っぽく微笑む。
「ええ、本当に。たまにはあのメイド長も、まともな温情を持ち合わせることがあるのね。お嬢様がご機嫌でいてくれれば、私たちはただ皿を置いて戻るだけ。割のいい仕事だわ」
「あんたさ、もしマドレーヌもらえたら、半分こしない?」
「なんで最初から半分こする前提なの」
「だって、一つ丸ごと貰えるとは限らないでしょ。もし一つだけだったら、公平に分けるのが道理ってものよ」
「……まあ、いいけど。じゃあ私が半分に割る係ね」
「絶対あんた、自分の方大きくするでしょ」
「しないわよ、多分」
私たちはそんな益体もない話をしながら、暗い階段を軽やかな足取りで降りていった。この時ばかりは、これから何が待ち受けているかなど、想像すらしていなかった。
紅魔館の地下は、意外なほどに広大だった。
地下一層の回廊は、外界の光を完全に遮断された、静謐な闇に満ちている。多くは埃を被った物置であり、時折咲夜様たちが足を運ぶ食糧保管庫が並んでいる。さらにその奥の、古びたワイン樽や大図書館へと続く重い通路があるのが、地下二層。
弱々しく揺れる壁の燭台の光を浴びながら、私たちはさながら遠足に向かう子供のように、先ほどまでの愚痴も忘れて、賑やかに冗談を言い合っていた。痛みの記憶など、これから訪れる甘い報酬の予感に比べれば、いくらでも洗い流せるものだと信じていたのだ。
フランドールお嬢様の部屋は、その最奥にある。閉じ込められている、というのは人間の勝手な妄想に過ぎない。ただお嬢様自身が、地上よりもこの静かな地下を好んでいるというだけのことだった。
重厚な扉を開け、私たちは礼儀正しく頭を垂れた。
「お食事をお持ちいたしました、お嬢様」
トレイを差し出し、完璧な作法をなぞって、あとは静かにこの場を辞するだけ。そう、誰もが信じて疑わなかった。
しかし、銀の髪飾りに似た異形の羽を小さく羽ばたかせながら、幼き吸血鬼は邪気のない笑みを浮かべて私たちを呼び止めた。
「待って。お食事の前に、少しだけ、身体を動かしたいわ」
その真紅の瞳が、爛々と輝く。
血の凍るような、けれどどこまでも無垢な声が、広い地下室に響き渡った。
「“隠れ鬼”をしましょう。ルールは簡単。あなたたちが私から逃げ切れたら、勝ちよ」
「……っ」
私の隣で、三番の身体が小さく硬直した。
勝ったらどうなるのか。負けたらどうなるのか。そんな問いを挟む余地などない。
「──スタート」
短い合図と共に、私たちは一斉に、文字通り死に物狂いで走り出した。
心臓が肋骨を叩き割らんばかりに跳ね狂う。
私と三番は、銀の皿を床に投げ捨て、地下一層の薄暗い回廊へと必死に駆け上がった。背後からは、まだ誰も追いかけてくる気配はない。だが、それこそが底知れぬ恐怖だった。
「さっきの、半分この話……」三番が息を切らしながら、震える声で無理に笑おうとする。「もし、どっちかしか生き残れなかったら、マドレーヌは全部そっちのぶんね」
「そんなの、要らない。二人で食べるから」
「じゃあ、絶対に二人で食べましょ」
その言葉は約束というより、祈りに近かった。
──あはっ、見ぃつけた。
遥か地下二層の奥から、鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
直後、鼓膜を破らんばかりの凄惨な悲鳴が、三つ、同時に重なって響き渡る。肉が、骨が、まるでおもちゃの粘土を握りつぶすように「ぐしゃり」と拉がれる悍ましい音が、冷たい空気を通じて私たちの背中に追いついてきた。一瞬にして、三人の同僚が文字通りの肉塊に変えられたのだ。
「こっちよ……!」
三番が私の腕を引っ張り、近くの古い物置小屋へと滑り込む。
部屋の隅には、空になった大きなワイン樽がいくつか転がっていた。私は躊躇うことなく、その中の一つへ滑り込み、木の蓋を内側からぴったりと閉めた。隙間から漏れる僅かな光だけが、私の世界になった。
三番は、部屋の壁際に据え付けられた大きな本棚の裏へと、その細い身体を滑り込ませた。
息を殺す。自分の手のひらで口を強く塞ぎ、肺が破裂しそうなほどに呼吸を止める。
どくん、どくん、と、全身の血が逆流するような音が頭の中で響く。
その時、ガタガタと部屋の扉が震え、静かに開いた。
カチ、カチ、と、お嬢様の羽に付けられた結晶が擦れ合う、冷酷な金属音が近づいてくる。
足音は、私のすぐ隣にある「もう一つの樽」の前でピタリと止まった。隙間から覗く視界に、お嬢様の小さな靴が見える。
「……ここかな?」
楽しげな声と共に、隣の樽の蓋が乱暴に引き剥がされた。中に隠れていた同僚の、短い悲鳴。
「いや、いやぁあああッ!」
懇願の声など、お嬢様は聞いていない。小さな手が同僚の髪を掴んで樽から引きずり出すと、そのまま床へ叩きつけた。小気味よいほどに鈍い音が響き、同僚の鼻腔や口から青い血が噴き出す。お嬢様はその細い両足を同僚の胸の上に載せ、じわじわと体重をかけていった。
メキメキ、ぐち、と、生きた妖精の肋骨が一本ずつ折れ、内臓を突き刺していく音が静かな部屋に響き渡る。同僚はカエルのような声を漏らし、手足を不規則に痙攣させながら、やがて肉の袋へと変わっていった。
私は樽の中で、歯がガチガチと鳴るのを必死に堪えていた。
お嬢様は満足したように、鼻歌を歌いながら部屋の奥へ──三番が隠れる本棚の方へと歩いていく。
心臓が止まるかと思った。だが、お嬢様の足音は、本棚の手前でふっと向きを変え、そのまま部屋の入り口へと向かっていった。
通り過ぎた。助かった。本棚の裏の三番も、私も、心の中で安堵の息を漏らした──その、刹那だった。
お嬢様の視線が、部屋の奥、三番が隠れる本棚へと向けられたのだ。
「そこにも、誰かいるね?」
「ひ、っ……!」
そう声を上げた時、お嬢様の白い腕は、三番の薄いお腹を正面から深く突き破り、彼女の肉体をその手で直接掴んでいた。お嬢様が腕を引くと、邪魔な本棚が派手に引き倒され、床に激突する。
お腹を貫かれ、口からドロリとした血を溢れさせる三番。お嬢様は容赦なく彼女の細い首を掴み、そのまま宙へと吊り上げた。
「あ、が……ぁ……」
三番の痩せた両手が、自分を締め上げるお嬢様の腕を弱々しく引っ掻く。必死の、けれどあまりにも無力な抵抗。お嬢様はそれを楽しむように、すぐには殺さず、細い指先にゆっくりと力を込めていく。
締まる気管。鬱血していく三番の顔。彼女の爪が剥がれ、お嬢様の肌に青い血の筋がつくが、吸血鬼の笑みは崩れない。
──ミジ、ィ。ピキ、キ……。
骨が、繊維が、限界を迎えて軋む音が樽の中まで聞こえてくる。
そして、ゴキリ、と、鈍く湿った音が響いた。
三番の首が、あり得ない方向へと直角に折れ曲がる。
彼女の生気のない瞳が、一瞬だけ、私が隠れる樽の方向を向いた。そのまま、彼女の身体は、お腹から内臓をこぼしながら、床へと力なく崩れ落ちていった。
「……う、あ……」
叫びたかった。喉を掻きむしって、狂ったように悲鳴を上げたかった。
それを、私は自分の手を血が滲むほどに噛み締めることで、強制的に抑え込んだ。
目からは、熱い涙が止めどなく溢れ出し、頬を伝って樽の底へと落ちていく。身体の震えが止まらない。もし、この木の板が一鳴きでもすれば、次は私の首が折られる番だ。
数分間。それは永遠のようにも思える地獄の時間だった。
お嬢様は、私の隠れる樽のすぐ前を通り過ぎ、ふんふんと鼻歌を歌いながら、満足したように部屋を出て行った。
けれど、私は動けなかった。
お嬢様が去った後も、さらに数分間、暗闇の中でただ涙を流し、震え続けることしかできなかった。
どれほどの時間が、私の世界をあの狭隘な樽の底へ縫い付けたままであったろう。
お嬢様の鼻歌が遠ざかり、地下一層の静寂が完全な漆黒を連れて戻ってきた頃、私はようやく、己の歯の根が噛み締めすぎて砕けかけていることに気がついた。口内には鉄の味が広がっていたが、それが己の血なのか、それとも隙間から霧のように流れ込んできた同僚たちの飛沫(しぶき)なのか、最早判別もつかなかった。
ぎぃ、と。
呪わしい棺を開けるようにして、私は樽の蓋を押し上げた。
這い出た床は、酷く滑った。闇に慣れた眼が捉えたのは、部屋の半分を覆い尽くさんばかりに広がった、あの粘り気のある青い絨毯──三番の、そしてもう一人の、命の残滓であった。肉を裂かれた本棚の残骸が、墓標のように斜めに突っ立っている。私は三番の遺骸に視線を落とすことすら出来なかった。もし彼女の、あのあり得ない角度に曲がった首と目が合ってしまえば、私の精神は肉体の死よりも先に、修復不可能なほどに木端微塵に砕け散るという確信があったからだ。
ただ、視界の端に、彼女の握りしめたままの手だけが見えた。何も握っていない、ただ空を掴んだままの、小さな手。さっき、笑いながら「絶対に二人で食べましょ」と言った、あの手だった。
私は、逃げた。
妖精という、世界の歪みから生まれた吹けば飛ぶような羽虫の分際で、その時はただ、生という無意味な執着のために、泥に塗れた四肢を動かした。
物置部屋を飛び出し、地下一層の冷たい回廊を走る。しかし、曲がり角に差し掛かった瞬間、私は己の足を強引に止めざるを得なかった。
第二層、さらに深い闇へと続く階段の踊り場が、仄暗い燭台の光に照らされていた。
そこに、転がっていたのだ。共にマドレーヌの夢を見た、残りの三人が。
一人は、頭部が完全に消失していた。
硬い石壁に、まるで熟しすぎた柘榴を叩きつけたかのように、肉と脳漿がべっとりとこびり付いている。衣服だけが、それがかつて給仕班の物静かな少女であったことを証明していた。
もう一人は、腰の境界を失っていた。
上半身と下半身が、まるで汚れた雑巾でも絞るようにして引きちぎられ、内臓の蛇が這い出したまま、数メートルも離れた場所に各々転がっている。
そして、最後の一人。
彼女は、まだ、生きていた。
「あ……、あ、う、……」
顎を砕かれ、言葉にならない獣の呻きを漏らしながら、彼女は上半身だけで、血塗れの階段を一段、また一段と、爪を剥がしながら這い登っていた。引き摺られた下半身からは、すでに生命の灯火が泥水のように零れ落ちている。彼女の、濁りきった眼が私を仰ぎ見た。
助けて、と。その眼が確かに訴えていた。
──私は、その手を、踏み越えた。
慈悲など、この紅魔の檻には存在しない。私は恐怖という名の濁流に脳を支配され、ただ息を吐き、足を進めるだけの機械に成り果てていた。彼女の指先が私の靴に触れ、そして力なく滑り落ちていく感覚を、私は生涯、いや、次の死を迎えるまで忘れることはないだろう。
黙ってその場を離れ、狂ったように走り出す。地上へ、外界の光を拒絶したあの、せめて薔薇の匂いのする庭園へ。
しかし、背後から、それは聞こえてきた。
──カチ、カチ、カチ。
お嬢様の羽の結晶が擦れ合う、あの無慈悲な時計の針の音。
そして、ズサリ、と、先ほど私が踏み越えた「最後の一人」が、一瞬にして圧殺されたであろう、短い肉の爆ぜる音が回廊を伝って鼓膜を刺した。
追ってくる。闇そのものが、大きな顎を開けて私の背中を追いかけてくる。
「いや、嫌、いや、いやぁあああああッ!!」
私は生まれて初めて、あの大嫌いな「癇癪赤」や「白黒ドブネズミ」の名を心の中で叫んだ。彼女たちの理不尽な暴力ですら、今のこの、絶対的な『消滅』の恐怖に比べれば、まだ対等なゲームの範疇であったのだと、その時になって初めて理解した。彼女たちは私たちを『邪魔な物』として排除したが、あのお嬢様は、私たちを『壊れる玩具』として愛しているのだ。その愛の、なんと悍ましく、なんと逃れがたいことか。
前方、闇の向こうに、地上へと続く最後の階段が見えた。
あの階段を登りきれば、咲夜様がいる。冷徹で、残酷で、けれど規律あるあのメイド長が、いつも通りの冷たい瞳で私を現実へと引き戻してくれる。
あと一歩。その、刹那であった。
不意に、世界の上下が、おかしな具合に反転した。
「え──」
視界が、ぐらりと回転する。
なぜか私の視界は、冷たい大理石の床に張り付くような形になり、そこから天井を見上げるような歪な角度へと固定された。
視界の端に、奇妙なものが映る。
見覚えのある、フリルに縁取られたメイド服。その首から上が綺麗さっぱり消失した身体が、重力に従って、力なく床へ膝を突く。
──シュー、と。
その首の断面から、まるで博麗神社の境内に湧き出る清らかな噴水のように、鮮やかな青い血が、天井へ向かって美しく吹き荒れるのを、私は他人事のように眺めていた。
ああ、私は、また。
意識は、そこでぷつりと、心地よいほど深い闇へと沈没していった。
「──ちょっと、いつまで寝てるのよ。夕方の鐘が鳴っちゃうじゃない」
鼓膜を揺らしたのは、聞き馴染んだ、少し高めの乾いた声だった。
私は勢いよく跳ね起き、己の首を両手で強く、狂ったように確かめた。繋がっている。皮一枚の違和感もなく、私の頭部は確かにそこにあった。お腹にも、突き破られたような穴などどこにもない。
そこは、紅魔館の地下に設けられた、薄暗い妖精メイドたちの寝室だった。
隣のベッドには、三番が腰掛け、楽しげに足を揺らしていた。その手には、少し形が崩れたマドレーヌの端切れが握られている。
「ほら、あんたの分。メイド長が『よくお仕事を勤め上げました』って、本当にくれたんだから。寝てたら私が全部食べちゃうところだったわよ」
三番はけらけらと笑い、私の膝の上に、甘い匂いのする焼き菓子をぽんと置いた。
「……それ、半分こするんじゃなかったの」
私は震える声で、そう尋ねた。自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。ただ、喉の奥に何か、言葉にならない塊が引っかかっているような気がしたのだ。
三番は一瞬、きょとんとした顔をしてから、いつもの調子で肩をすくめた。
「何言ってるの。あんたの分はちゃんとそこにあるでしょ。私のはこれ。二人で一個ずつよ」
「……そう、だったわね」
私は、自分の手のひらを見た。
泥の汚れは綺麗に消え失せ、薔薇の棘で突いた傷の跡だけが、微かに赤く残っている。
その傷跡を見つめながら、私はふと、言いようのない違和感に襲われた。この赤い小さな傷は、いつついたものだったろうか。今朝だったか、それとも──もっと、ずっと昔からあったものだったか。記憶の輪郭が、暖かい湯気のように曖昧に溶けていく。
「どうしたの、ぼーっとして」
三番が私の顔を覗き込んで首を傾げる。彼女の首は、まっすぐで、綺麗で、何の異常もない。あの、あり得ない角度に折れ曲がっていたはずの首は、今、こうして私の目の前で、いつも通りに小さく傾いでいる。
「……ううん、なんでもない」
私はマドレーヌを口に運んだ。バターの濃厚な風味と、砂糖の焦げた甘みが、痺れた舌の上に広がっていく。それは涙が出るほどに美味しく、そして、酷く無機質な味がした。
「ねえ、明日の庭園の剪定だけどさ」
三番がマドレーヌを齧りながら、他愛のない世間話を始める。
「あの東側の生垣、またあいつらが暴れて散らかしていったから、片付けが大変そうよね」
「そうね……。また明日も、忙しくなりそうわね」
「それに、ほら、あんたが気にしてたパチュリー様の書斎。今度また給仕に呼ばれたら、こっそり本のタイトル見といてあげる」
三番はそう言って、悪戯っぽく片目を瞑った。
私はその表情を見て、ようやく小さく笑うことができた。彼女がその約束をしてくれたのは、これが初めてではないような気がする。何度も、何度も、私たちはこうして同じ約束を交わしてきたのではないか──そんな、掴みどころのない予感が胸の奥をよぎったが、私はそれを深く考えることをやめた。考えたところで、答えなど出ないと分かっていたから。
私たちは、まるで何事もなかったかのように、少女たちの健やかな放課後の如く、楽しげに笑い合った。
窓の向こうからは、また誰かの、短い悲鳴が小さく響いていたが、私たちはもう、それについて言葉を交わすことすら忘れていた。
ただ、私の手の中に残ったマドレーヌの最後のひとかけらだけが、いつまでも、じんわりと甘く、そして冷たかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今後も二次創作・オリジナルを問わず、いろいろな小説を書いていく予定です。
本作や今後投稿する作品について、YouTubeなどで紹介・感想・考察等をしていただくことも歓迎しています。
一人でも多くの方に作品を知っていただけたら嬉しいです。
それでは、また次の作品で。