TS侍女は逃げられない 作:TSスキー
対面までの十日間、私は誰にも気づかれないよう、縁談を断る理由を探した。
正確には、フィリップ様の欠点を探した。
何か一つでも、婚姻相手として見過ごせない問題があればよい。
そう願うのは、ひどく失礼なことだと分かっている。だが、貴族の娘が両家の望む婚姻を退けるには、他人にも理解できる理由が必要だった。
家格が釣り合わないことは理由にならない。侯爵家は、私が男爵家の次女だと承知したうえで申し入れている。
仕事を続けたいという希望も弱い。
貴族の娘が婚姻を機に、それまでの役目を退くことは珍しくない。まして、嫁ぎ先の家で主人の義妹となる者が、その主人へ侍女として仕え続けるほうが不自然だった。
素行についても調べた。
フィリップ様には、賭博も借金も女性関係の噂もない。使用人へ理不尽に当たることもなく、領内の学校や会計を任されている。仕事ぶりも堅実だった。
健康上の大きな問題はない。信仰や政治的な考えがフォルク家と大きく異なるわけでもない。すでに婚姻を約束した女性も、表に出せない子供もいなかった。
調べれば調べるほど、縁談を断る材料ではなく、受けるべき理由ばかりが増えた。
自分で自分の婚約者候補に、推薦状を書いているようなものだった。
男であるという一点を除けば、断る理由が何もない。
そして、貴族令嬢の婚姻相手が男であるのは、欠点ではない。
前世で男だったから、男の妻にはなりたくない。
本当の理由は、それだけである。
今の身体で十九年生きてきた。鏡に映る小柄な女を、自分ではないと思ったことは、もう長いことなかった。女の服も、女の名も、この身体も、今ではすべて自分のものだった。
ただ、男の家へ入り、妻として扱われ、夫との子を産むことだけは、どうしても自分の人生として想像できない。
誰かに話せば、当然、理由を問われる。
フィリップ様の何が嫌なのか。ほかに心を寄せる相手がいるのか。男性を恐れるような目に遭ったのか。
どれにも、前世の記憶を伏せたまま答えることはできない。
だから私は、結婚そのものを望んでいないと、両親へ一度も伝えなかった。
縁談が届くたび、お嬢様の婚礼支度がある。嫁入りへ同行する必要がある。新しい屋敷へ慣れるまでは離れられない。
その時々で事実だった理由を並べ、一件ずつ断ってきた。
自分は結婚しない。
そう言葉にしたのは、お嬢様にだけだった。
今後も、ほかの誰かへ話すつもりはない。理解されるまで説明すれば、前世について語るほかなくなる。
そして、この縁談を断ったあとにも問題が残る。
侯爵家の次男本人から妻に望まれ、それを断った令嬢が、そのまま同じ屋敷で嫡男の妻の専属侍女を続ける。
何もなかったように働けるはずがない。
フィリップ様は兄を補佐するため、毎日本邸へ出入りする。お嬢様はその兄の妻であり、私はお嬢様のすぐ後ろに控え続ける。
使用人たちは事情を知る。社交界にも、いずれ話は漏れる。
侯爵家の次男を退けながら、その庇護下に居座っている。
身分をつり上げるために焦らしている。
主人との関係を盾に、侯爵家へ無理を通している。
事実でなくとも、噂はいくらでも作られる。
侯爵夫妻が報復を考えなくとも、家の面目と屋敷の秩序を守るため、私を今までと同じ場所には置けないだろう。
リースフェルト侯爵家へ戻ることはできるかもしれない。だが、お嬢様はすでにヴァルデック家へ嫁いでいる。
生家へ戻れば、私が望んだ、お嬢様のそばでその世話をする暮らしは失われる。侍女の仕事を理由に縁談を断ることもできなくなり、十九歳の未婚の次女が、侯爵家の令息との良縁を退けて帰ってくる。
両親は、今度こそ私の婚姻を急ぐだろう。
次に持ち込まれる相手が、フィリップ様よりよい人物である保証はない。
結婚を避けるためにフィリップ様を断れば、仕事とお嬢様のそばにいる立場を失い、もっと条件の悪い婚姻へ近づく。
ひどい話だった。
誰かが仕掛けた罠ではない。
侯爵家は正式な手順を踏んでいる。父は家長として良縁を受けようとしている。母は娘の将来を喜び、お嬢様は本気で私の幸せを願っている。
フィリップ様も、ふざけて申し入れたわけではない。
皆がそれぞれ正しく振る舞った結果、私の逃げ道だけがなくなっていた。
せめて誰か一人くらい、分かりやすく横暴であってほしかった。そうすれば、その者のせいにできたのに。
◇
両親を乗せた馬車が、ヴァルデック侯爵家の王都本邸へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
私は玄関広間で待っていた。
侍女服ではない。
お嬢様が選んだ青いドレスを着ている。
十日前、お嬢様が侍女服姿の私へ重ねていた一着だった。若草色と比べた末、フィリップ様は青を好むという理由で、お嬢様に熱心に勧められ、こちらに決まった。
私の好みは、最後まで考慮してもらえなかった。
私の身長は百五十二センチしかない。
鏡へ映る顔は、年齢より若く見える。
その下には、どう見ても成人した女の身体がある。
十九年間見慣れてきた組み合わせのはずなのに、婚姻のために着飾らされると、急に他人のものを見ているような気分になった。
前世であれば、私は女性のドレス姿を眺める側だった。
似合っていると思うことはあっても、お嬢様ならこうした方がよいと思うことはあっても、自分の胸元をどう見せ、腰をどの位置で絞れば婚姻相手へ美しく映るかなど、考えたことはない。
今は、自分がその対象になっている。
閉口することしかできなかった。
馬車から降りた父は、婚礼のときに会った姿より、少し白髪が増えたように見えた。
母は旅の疲れを見せながらも、私を認めると目を細める。
人前では、両親も礼を崩さなかった。
本日の私は、この屋敷の侍女ではなく、婚姻の対面へ臨むフォルク男爵家の娘として、形式どおりに礼をした。
抱きつくことも、気安く声をかけることもない。
それが、妙に寂しかったのかもしれない。
案内された客室で扉が閉まり、付き添っていた者たちが退出すると、母はすぐに私を抱き締めた。
「エリナ」
「母上、苦しいです」
「少しくらい我慢なさい」
母の腕は、言葉ほど強くなかった。
肩へ置かれた手が、わずかに震えている。
私はどうすればよいか分からず、母の背へ手を回した。
前世の私は、成人してから母親に抱き締められた記憶がない。
今の私は十九歳の娘である。
母へ抱き締められても、おかしい年齢ではないらしい。少なくとも、この部屋でそれを笑う者はいなかった。
「ソフィア様の婚礼の前後は、ろくに話す時間もなかったもの」
母は私の頬へ触れた。
「元気そうね。痩せてはいない?」
「変わっておりません」
「食事は取っている?」
「はい」
「きちんと眠っている?」
「必要なだけは」
「それを、きちんと眠っているとは言わないのよ。休みの日にまで働いていないでしょうね」
返事に詰まった。
なぜ母親というものは、離れて暮らしていても余計なところだけ正確に見抜くのだろう。
「その顔なら、働いているのね」
「……お嬢様のお役に立つ必要がございましたので」
「今はもう、ソフィア様も新しいお家へ慣れられたのでしょう?」
「だからといって、仕事がなくなるわけではありません」
「まったく」
母は呆れたように息を吐いた。
それでも、口元は笑っている。
「でも、その勤勉さを見てくださる方がいらしたのだから、何が縁になるか分からないものね」
そこへ話が向かった。
私は母から離れ、父の向かいへ座った。
「……お手紙は拝見しました」
「驚いたか」
父が尋ねる。
「驚きました。私が知らされる前に、父上が王都へ向けて出立なさっていたことにも」
「先方からの打診へ、早く返答する必要があった」
「家として受ける意向を示すだけならば、書状でも足りたのでは?」
「お前の婚姻だ。最後は顔を見て話すべきだろう」
父は淡々と答えた。
それから、ほんの少し視線をそらす。
「それに、アンナが、手紙を受け取った翌朝には荷造りを終えていた」
「翌朝ではありません。夜のうちです」
母が訂正した。
否定するところは、そこではないと思う。
父も同じことを思ったらしいが、賢明にも口には出さなかった。
「それほどお喜びなのですか」
私が尋ねると、母の顔から笑みが消えた。
代わりに、どこか困ったような表情になる。
「喜んでいるわ、心の底から」
「……侯爵家との縁ができるからですか」
「それも、家にとって大きなことだ。だが、それだけではない」
父は膝の上で指を組んだ。
「先方からの書状には、お前が長年ソフィア様へ誠実に仕え、その働きぶりをフィリップ様ご本人が見ておられたと書かれていた。家柄だけで選ばれたのではない。お前がどのように働き、周囲へ接してきたかを知ったうえで、妻に望んでくださった」
「私は仕事をしていただけです」
「十一年続けた仕事を、ただのこととして扱うものではない」
父の声は穏やかだった。
「お前の忠勤は、フォルク家にとっても誇りだ。それが評価され、このような良縁へつながった。親として、喜ばずにいられるものか」
母が私の手を取った。
「私たちは、ずっと心配していたのよ」
「……仕事についてですか」
「婚姻についてです」
やはり、そちらだった。
「お前は、縁談を持ちかけるたび、今はソフィア様から離れられないと断った」
「いずれ時期が来れば、考えてくれると思っていたの」
母が続けた。
「ソフィア様の婚礼が終われば。新しいお屋敷へ慣れられれば。あなたの仕事が落ち着けば。そのうち、あなた自身も誰かと会ってみようと思うのではないかと」
その日は来ない。
私はそう決めていた。
ただし、そのことを知っているのは、お嬢様だけだった。
「十九歳は、今すぐ行き遅れと呼ばれる年齢ではないわ」
母は私の手を握ったまま言った。
「でも、来年になっても何も決まっていなければ、陰でそう呼ぶ者が出てくるでしょう。あなたと同じ頃に社交界へ出た令嬢の中には、もう子供を持つ方もいるのよ」
前世の感覚でいえば、十九歳で婚姻を急かされるなど冗談にしか聞こえない。
こちらでは違う。
令嬢は十五、六歳で社交界へ出る。家同士の話が早ければ、それ以前から婚約者が決まっている。十八歳までに相手を定め、二十歳になる前後で婚礼を挙げる者が多い。
十九歳は、まだ遅くない。
だが、余裕があるとも言いにくい。
「行き遅れと言われること自体が心配なのではないの」
母は続けた。
「そう見られ始めれば、まともな縁談ほど減っていく。事情も知らず、何か問題のある娘なのではないかと疑う者も出る。最後には、こちらが相手を選ぶことさえできなくなるわ」
「私はお嬢様の侍女として……」
「ソフィア様が、あなたを大切にしてくださっていることは分かっています」
母は遮らなかった。
「けれど、ソフィア様にも家庭ができたでしょう。いずれお子が生まれ、役目も立場も変わっていく。どれほど信頼されていても、主人と侍女は家族ではないのよ」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
私はお嬢様を家族のように思っている。
だが、私がそう思うことと、法や家が私たちを家族として扱うことは別だった。
「お前が役目を失うと思っていたわけではない」
父が言った。
「だが、忠勤だけを頼りに、自分の将来を何も持たずにいることが正しいとも思えなかった。だからといって、無理に呼び戻せば、ソフィア様にもリースフェルト侯爵家にも不義理となる。お前自身も望まない。私たちには、見守ることしかできなかった」
私は初めて、両親が縁談を送るたびに何を考えていたのかを知った。
断りの手紙を受け取るたび、母はまた駄目だったと肩を落とし、父は次に誰へ声をかけるべきか考えていたのだろう。
それでも、仕事を辞めて戻れとは一度も命じなかった。
「フィリップ様なら、あなたがどのように生きてきたかをご存じです」
母が言った。
「侍女として働いていたことを隠す必要もない。ソフィア様のそばから、遠く引き離されるわけでもない。お人柄にも悪い評判はなく、将来も定まっている」
母の目に涙が浮かんだ。
「あなたが、誰にも選ばれないと思っていたのではないの。ただ、あなた自身が誰にも見つからない場所へ隠れ続けるのではないかと、それが怖かったのよ」
返す言葉がなかった。
私は隠れていた。
侍女の仕事を愛していた。お嬢様を愛でていられればそれでよかった。それは事実だ。
同時に、その仕事を、婚姻から逃げるための壁にもしていた。
「エリナ」
父が私を呼んだ。
「フィリップ様から、何か不当な扱いを受けたことはあるか」
「……ございません」
「言葉や態度に、恐怖を感じたことは」
「ありません」
「ほかに心を寄せている相手はいるか」
「おりません」
「……ソフィア様から、婚姻を受けるよう命じられたのか」
少し考えた。
「命じられてはおりません」
熱心に背中を押されてはいるが、命令はしたくないとお嬢様自身が仰った。
「では、フィリップ様ご本人について、何か重大な懸念があるか」
「…………ございません」
すべて本当だった。
私が言葉にしなかったことを、父は、突然の縁談に戸惑っているだけだと受け取ったらしい。
「分かった」
父は頷いた。
「では、先方のお考えと条件を、私が確認する」
「侯爵家からのお申し出ですよ」
母が少し心配そうに言う。
「だからこそだ」
父の声が固くなる。
「良縁であることと、娘を安心して預けられることは別だ。侯爵家からの申し入れだからと、何も尋ねず頭を下げるつもりはない」
男爵と侯爵では、家格に大きな差がある。
それでも父は、私の父として席に着くつもりだった。
その姿を見てしまえば、ますます拒みづらくなった。
父は娘を守ろうとしている。
貴族として見れば、これ以上ないほどに尊重してくれている。父に悪意は……ない。
◇
正式な対面は、両親が旅装を解き、遅い昼食を済ませたあとに設けられた。
ヴァルデック侯爵夫妻、フォルク男爵夫妻、フィリップ様と私が出席した。
レオナルト様とお嬢様も、近しい親族として席の端にいる。両家の家令は壁際へ控え、卓上には、これまで書面で交わされた条件の写しが用意されていた。
初めに、父が侯爵家からの打診へ礼を述べた。
侯爵も、遠路への労いを返した。
そこまでは、貴族同士の穏やかな挨拶だった。
「恐れながら、いくつか確認させていただきたく存じます」
父が口を開いた。
「無論です」
侯爵が頷く。
「第一に、此度のお話は、我が娘をフィリップ様の正妻としてお迎えいただくものと理解してよろしいでしょうか」
部屋の空気が、わずかに張った。
家格の離れた婚姻では、下位の家の娘が正式な妻ではなく、立場の曖昧な同居人として扱われることもある。
侯爵家からの書状には妻とあった。
それでも父は、皆の前で明言を求めた。
「そのとおりです」
侯爵は即座に答えた。
「教会で正式な婚礼を挙げ、我が家の系譜にもフィリップの正妻として記します。生まれた子は、二人の嫡出子として扱います」
「婚姻後は、私どもの義娘として迎えます」
侯爵夫人が続ける。
「ソフィアの元侍女としてではありません。家族の食卓へ着き、フィリップの妻にふさわしい居室と使用人を用意いたします」
「娘がこの屋敷で侍女を務めていたことを理由に、立場を軽く扱われることはございませんか」
「させません」
侯爵夫人の返答には迷いがなかった。
「主家の令嬢へ長く仕えたことは、貴族の娘として恥じる経歴ではございません。使用人たちには、婚約が成立した時点で、エリナ嬢への応対を改めるよう命じます。過去の立場を理由に侮る者がいれば、屋敷の秩序を乱した者として私が処分します」
侍女頭のマーサ夫人が聞けば、一度で全員へ徹底するだろう。
私のほうが耐えられるかは、別の問題だった。
「婚資につきまして、我が家からは、すでにお伝えした範囲が限度となります」
父が言った。
男爵家が侯爵家の婚姻に合わせた額を用意しようとすれば、領地へ無理な負担をかけることになる。
「それ以上を求めるつもりはありません」
侯爵は答えた。
「こちらから望んだ婚姻です。フォルク家の家格と収入に沿った婚資で十分です。品目についても、先に交わした書面から増やすことはございません」
侯爵夫人が卓上の書類を開いた。
「婚資と、エリナ嬢がご実家から贈られる宝飾品は、婚姻後も本人の固有財産として記録いたします。フィリップが勝手に処分することはできません」
父は一つ頷き、次の問いへ移った。
「婚礼後の住まいについて、お聞かせください」
「当面は、この本邸で暮らします」
フィリップ様が自ら答えた。
「私は兄上の補佐を続けながら、南部の所領を引き継ぐ準備をいたします。本邸では東側の一画を、私ども夫婦の居室として整える予定です。家政全体は母上の管轄ですが、私どもの私的な支出と使用人については、別に予算を設けます」
「南部へ移られたあとは?」
「現任の代官からの引き継ぎを終えたのち、南部の三つの荘園と付属する町を預かり、分家を立てます」
フィリップ様は、父の目を見て答えた。
「その際は、エリナ嬢が家政を預かることになります。雇われた管理人としてではなく、分家の女主人としてです」
侯爵が補足する。
「三つの荘園は、侯爵位に付随する本領ではなく、我が家が所有する家産です。婚姻が成立すれば、フィリップを分家当主として独立させ、分家の世襲財産として譲ります。そのことは、婚姻契約と家産台帳の双方へ明記いたします」
父は書面の該当箇所へ目を落とした。
「爵位を新たに伴うものではない、という理解でよろしいでしょうか」
「そのとおりです。ただし、家政と収支は本家から分け、フィリップの一存だけで本家へ戻せないものとします。南部領から得られる収入のうち、夫妻の生活と家政に充てる最低額も記します。私やレオナルトの都合だけで減じることはできません。二人に子が生まれれば、その子へ継がせます」
子。
その一語で、書面の上にあった婚姻が、急に身体の話へ変わった。
夫婦となり、寝台を共にし、私が子を宿して産む。
今の身体が女であることは理解している。月ごとの変化にも慣れた。子を宿せる身体であることも、知識としては知っていた。
それでも、その役目を自分のものとして思い浮かべると、頭のどこかが強く拒んだ。
産むのは今の私で、前世の私ではない。
そんな区別に意味がないことも分かっている。だが、今の私も、前世の私も、同じ一人の人間としてつながっている。
だからこそ、他人事にはできなかった。
私は膝の上の手へ、力を込めないようにした。
婚姻条件を確認する席で、子供の話にだけ怯えた顔をすれば、別の懸念を持たせることになる。
「もし、娘が子を持たぬまま、フィリップ様に先立たれた場合は」
父の問いは、さらに踏み込んだものだった。
恋物語であれば、縁談の場で夫の死後を尋ねるなど興ざめなのだろう。
だが、婚姻は生活であり、財産であり、生涯の身分を決める契約でもある。
むしろ、今尋ねなければならない。
「南部の館を、そのまま居所として使えるようにします」
侯爵は不快な顔をしなかった。
「加えて二つの荘園から生じる一定額を、寡婦となったあとにも終身で保障する。子がなければ、荘園の所有は家産規定に従って本家へ戻しますが、フィリップの死後も、本人の同意なく減ずることはできません。再婚を望む場合には、婚資と固有財産を持って出られるようにいたします」
母が小さく息を呑んだ。
男爵家の娘に対する保障としては、十分すぎる。
「娘とソフィア様との関係は、婚姻後、どのようになりますでしょうか」
「義理の姉妹となります」
侯爵夫人が答えた。
「書状や訪問を妨げる理由はございません。本邸にいる間は、今までより顔を合わせる機会も多いでしょう。南部へ移ったあとも、夫妻が本邸へ戻る機会は定期的に設けます」
そこで侯爵夫人は私を見た。
「ただし、専属侍女として仕え続けることは認められません。あなたはフィリップの妻となり、ご自分の家を預かることになります」
分かっていた。分かっていたことだった。
それでも、改めて言われると胸の内が重くなる。
「もう一つ、フィリップ様ご本人へ伺ってもよろしいでしょうか」
父が言った。
「どうぞ」
「娘の忠勤を評価してくださったと伺いました。それはありがたいことです。しかし、娘は、おとなしく命じられたことだけを行う性格ではございません」
よく分かっている。
娘の短所を婚姻相手へ説明する場で、父の言葉は正確だった。訂正できるところがないのが、少し腹立たしい。
「必要と思えば、相手の身分にかかわらず意見を述べます。仕事を抱え込み、自分の体調には無頓着です。妻として迎えたあと、それを妻らしくないと責められることはございませんか」
「ございません」
フィリップ様は、やはり迷わなかった。
「私は、彼女が意見を持たぬ女性だと思って望んだのではありません。必要なときに言葉を選び、それでも言うべきことを言う方だからこそ、心を寄せました」
フィリップ様の視線が私へ向く。
男からそのような目で見られることに、まだ慣れない。
前世の私は、女性から好意を向けられることなら想像したことがある。
男から、その隣へ立つ妻として望まれることは、今も自分の話には聞こえなかった。
「南部の学校や施療院について、いずれ意見を聞きたいとは考えています」
フィリップ様は続けた。
「ですが、それを妻の義務として押しつけるつもりはありません。彼女が望むなら力を借りたい。望まないなら、別の役目を探しても、何もせず休んでも構いません」
母が小さく頷いた。
私が休日にも働いているという情報は、すでに両家で共有されているらしい。
「夫妻の意見が食い違った場合は?」
「話し合います」
「それでも折り合わなければ」
「すぐに私が正しいと決めつけず、第三者を交えて改めて話します。兄上夫妻が、そのようにしておられますので」
レオナルト様がわずかに笑い、お嬢様は満足そうに頷いた。
兄夫妻を第三者と呼んでよいかは少し疑問だったが、話し合う意思があることは分かった。
父は最後に、フィリップ様の立場を損なうような先約や負債、そのほか婚姻後に私の立場へ影を落とす事情がないかを尋ねた。
侯爵は、ないと明言した。
父の確認は、領地の調査より念入りだった。
すべての問いが終わったあと、両親はしばらく言葉を発しなかった。
父は卓上の書面へ目を落としたまま動かない。
母は閉じた扇を両手で持ち、何か言おうとして、結局口を閉じた。
二人とも、良縁だとは分かっていたはずだ。
それでも、侯爵家がここまで明確に私の立場を保障するとは思っていなかったのだろう。
私も思っていなかった。
父が確認するたび、拒否するための隙が一つずつ消えていった。
「ありがとうございます」
ようやく父が言った。
「男爵家の娘へ、これほどのご配慮をいただけるとは、望外のことでございます」
「家格に差はあっても、婚姻を結べば両家は縁者となります。不明なままにしておくべきことではないでしょう」
父は深く頭を下げた。
しかし、まだ話を終えなかった。
「最後に、婚姻が成立しなかった場合についても、確認させていただきたく存じます」
父の言葉に、室内が静まった。
「娘が此度の縁談へ重大な異存を申し立てた場合、現在の職は、どのようになりますでしょうか」
尋ねてほしくなかった。
だが、父としては確認しなければならない。
私はフォルク家の娘であると同時に、この屋敷で働く者でもある。縁談を断った結果、職も住まいも失うのであれば、それを知らぬまま意思を尋ねることはできない。
侯爵夫人は少し考えてから答えた。
「縁談を断ったことへの報復として、エリナ嬢の経歴を傷つけるつもりはございません。これまでの働きに見合う退職金と推薦状を用意し、フォルク家へ戻るのであれば、安全に送り届けます。リースフェルト侯爵家への再出仕を望む場合にも、私から橋渡しをいたしましょう」
そこで一度、言葉を切った。
「しかし、これまでどおり、この屋敷でソフィアの専属侍女を続けることは難しいと申し上げざるを得ません」
母の指が、扇の上で動いた。
「やはり、そうなりますか」
父は責める口調ではなかった。
「フィリップ本人が不当な扱いを望まなくとも、同じ屋敷で日々顔を合わせることになります」
侯爵夫人が言う。
「使用人たちにも事情は知られるでしょう。縁談を断った令嬢が、兄嫁の庇護を得て同じ家へ残ったとなれば、本人にも我が家にも、好ましくない噂が立ちます」
「……そうなってしまった場合、私にも、エリナをこれまでどおり置いてほしいと求めることはできません」
お嬢様が静かに言った。
声に、わずかな苦さがあった。
「私が無理に残せば、エリナが私との関係を利用しているように見られます。フィリップ様にとっても、同じ屋敷で暮らすことを強いる形になるでしょう」
お嬢様も分かっていた。
私がこの縁談を断れば、主人と侍女としての暮らしへ戻ることはできない。
婚姻を受けても、侍女ではなくなる。
断っても、この屋敷の侍女ではいられない。
フィリップ様から申し入れがなされた時点で、私が望んでいた日々は、すでに終わっていた。
「縁談を受けさせるため、職を盾にする意図はございません」
侯爵夫人が私を見た。
「重大な異存があるならば、申し出てください。その場合も、我が家はエリナ嬢の名誉を損なわぬよう努めます。ただ、何も変わらないと約束することだけはできません」
誠実な返答だった。
それどころか、破格の対応といってもいいだろう。
貴族の婚姻では、本人の希望より家の判断が先に立つ。まして、両家がすでに同意している以上、私の一存で退けられる話ではない。
それでも侯爵夫人は、断った場合の身の振り方まで明らかにしたうえで、私へ異存を申し出る機会を与えている。
これは、私が侍女としてヴァルデック侯爵家で働いていたからしてくれている特別待遇だろう。
だからこそ困る。
いっそ、断れば路頭に迷わせると脅されたなら、相手の不当を理由にできた。
侯爵夫人は、私が断った場合の生活まで保障しようとしている。
ただし、お嬢様のそばには残れない。
私は、どちらを選んでも、専属侍女ではなくなる。
それならば、フィリップ様との婚姻を断る理由は何だろう。
お嬢様のそばで働き続けたい。
その最大の理由は、もう選択肢から消えている。
残るのは、男の妻になりたくないという、誰にも説明できない感覚だけだった。
私にとっては、生涯を決めるほど重い。
だが、前世を知らない者から見れば、相手にも条件にも関係のない、理由にさえならない拒絶でしかない。
加えて、断って生家に帰っても、両親に別の婚姻相手を探される可能性が高い。
完全に詰んでしまっていた。
「エリナ」
父が私を呼んだ。
全員の視線が集まる。
「今の話を聞いたうえで尋ねる。フィリップ様ご本人、あるいは示された条件について、婚姻を受け入れられないほどの異存はあるか」
問いは、私が婚姻を望むかではなかった。
貴族の婚姻で求められる最低限の確認だった。
私は言おうと思えば言えた。
婚姻そのものが嫌です。
けれど、そう口にすれば、父母は理由を尋ねる。
フィリップ様を嫌っているのか。
ほかに相手がいるのか。
拒否する理由とは何か。
何も答えられない。
言葉にした瞬間、私の中だけで完結していた前世の記憶を、他人へ説明する責任が生まれてしまう。
私は、それを望まなかった。
フィリップ様を見る。
誠実な方だと思う。
仕事もできる。話をしていて楽しい。私が意見を述べても、身分を理由に遮ったことはない。
前世の私が男のまま出会っていたなら、気の合う同僚か友人になれたかもしれない。
妹の結婚相手として連れてこられても、反対しなかっただろう。
問題は、その男へ嫁ぐのが私だということだけだった。
それは、この場にいる誰にも明かせない。
「………………ございません」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
嘘は言っていない。
フィリップ様にも、条件にも、重大な異存はない。
私が言わなかったことを、誰も知ることはできない。
父が一度、私の顔を確かめるように見た。
それから、ヴァルデック侯爵へ向き直った。
「フォルク家として、謹んでお申し入れをお受けいたします」
母が息を吐いた。
目元に涙が浮かんでいる。
お嬢様は喜びを隠しきれず、隣のレオナルト様から袖を軽く押さえられていた。
ヴァルデック侯爵は姿勢を正し、改めて父へ、次男フィリップの正妻として私を迎えたいと正式に申し入れた。
父は、フォルク家当主としてそれを受諾した。
まだ婚約証書へ署名していない。
指輪も贈答品も交換していない。
それでも、両家当主が皆の前で申し入れと受諾を交わした以上、もはや簡単には戻れなかった。
私は結局、拒否の理由を一つも口にできないまま、フィリップ様との婚姻を受けることになった。
◇
それから八日後、両家の家令が婚姻条件の最終確認を終えた。
婚約証書には、ヴァルデック侯爵とフォルク男爵、フィリップ様と私が署名した。両家から一人ずつ親族が証人となり、婚資や婚礼後の住居、南部領の扱い、私に保障される財産については、別紙に細かく記された。
私は、エリナ・フォルクと署名した。
自分の名を書いただけなのに、以前とは別の人間になったような気がした。
前世の感覚でいえば、契約書へ署名すること自体は理解できる。
理解できないのは、自分が婚姻によって家を移る側であり、妻として迎えられる側だということだった。
婚約の指輪には、小さな青い石が使われていた。
指輪そのものは、驚くほど軽かった。
フィリップ様が私の手へ触れる前に、一度こちらを見る。
私は頷いた。
左手の指へ、指輪が通された。
私の手は小さい。
フィリップ様の指に包まれると、その違いがはっきり分かる。
男だった頃、自分より大きな男の手を見ても、力が強そうだと思う程度だった。
今は、その手が自分へ触れるたび、男と女の違いを意識させられる。
私が小柄だから、余計にそう感じるのかもしれない。
教会への届け出がなされ、親族と親しい家々へ婚約が告知された。
その日から、フィリップ様は私の婚約者となった。
◇
婚約者となって初めて二人で話す機会は、その日の午後に設けられた。
場所は庭に面した小さな居間だった。
二人だけとはいっても、扉は開けられている。少し離れたテーブルでは、母とお嬢様が刺繍をしていた。
少なくとも、刺繍をしているふりをしていた。
お嬢様は、先ほどからこちらを見すぎている。
「……落ち着きませんね」
私が言うと、フィリップ様もテーブルの方を見た。
「若奥様に、もう少し自然にしていただくよう頼みましょうか」
「若奥様の性格からして、不可能かと」
「それでは、諦めるしかありませんね」
フィリップ様は苦笑した。
卓上には茶と、小さな花束、それから一冊の本が置かれていた。
本は、南部の街道と集落を記した旅行記だった。以前借りたものより新しい版で、近年整備された道が書き加えられている。
「婚約者へ初めて贈る品としては、ずいぶん実務的ですね」
「花だけのほうがよろしかったでしょうか」
「いいえ。こちらのほうが助かります」
「そうおっしゃると思いました」
すでに性格を読まれている。
喜ぶべきか、警戒するべきか判断できなかった。
「改めて、婚約をお受けいただきありがとうございます」
フィリップ様が言った。
「礼を言われると、私が何かを差し上げたように聞こえます」
「私にとっては、そのようなものです」
私は茶へ目を落とした。
それから、対面の席から考えていたことを口にする。
「私が縁談をお断りしていれば、この屋敷には残れませんでした」
フィリップ様の表情から、笑みが消えた。
「はい」
言い訳をしなかった。
「申し入れをなさる前から、ご存じでしたか」
「考えてはいました」
「それでも、申し入れたのですね」
「はい」
フィリップ様は私の顔をまっすぐ見た。
「私が何も申し上げなければ、あなたは若奥様の侍女として、この屋敷で暮らし続けたでしょう」
おそらく。
少なくとも、しばらくは。
「その暮らしを、私の望みで変えてしまうことは分かっていました」
「では、なぜ」
「あなたを妻に望んだからです」
あまりにもそのままの答えだった。
「黙って諦めることも考えました。ですが、それでは、あなたが私を選ぶ可能性は最初からなくなります。私は、自分の望みをなかったことにはできませんでした」
ずいぶん勝手な話である。
同時に、フィリップ様が何も言わず諦めるべきだったと、私が当然のように求めることも勝手なのだろう。
「直接あなたへ申し上げることも考えました」
フィリップ様は続けた。
「ですが、私はあなたの主人の義弟で、あなたはこの家で働く侍女でした。その立場で先に返事を求めれば、家を通した申し入れ以上に、断りにくい状況を作ることになります」
どの手順を選んでも、家格と立場の差は消えない。
フィリップ様が私を望んだ時点で、何の影響も与えずに気持ちだけ伝える方法はなかった。
「だから、両親を通し、条件を明らかにしたうえで、あなたの異存を確認する方法を選びました」
「私が断った場合の身の振り方まで手配なさったのは、フィリップ様ですか」
「はい。母にそのように取り計らうよう頼みました。少なくとも、職や名誉を脅しに使う形にはしたくありませんでしたので」
「ですが、以前と同じ暮らしには戻れなかった」
「それだけは、私にも変えられません。……申し訳なく思っています」
謝られても、失ったものが戻るわけではない。
だが、都合よく、何も変わらないと取り繕われるよりはよかった。
「お嬢様から、何をお聞きになりましたか」
「あなたが、侍女としての暮らしを何より大切にしていることを」
「……理由を尋ねないのですか」
「あなたが話したいのであれば伺います」
「話さなければ?」
「無理に聞くつもりはありません」
そこでも、逃げ道を塞ぐようなことは言わなかった。
この方は、私を追い込んでいるように見えて、最後の一歩だけは必ずこちらへ残す。
だから断れなかった。
いっそ横暴であればよかった。
「私は、婚約したからといって、すぐにあなたへ妻らしい情愛を向けられるとは思いません」
本心だった。
少なくとも、恋愛対象として見ることができるかと聞かれると、生涯、恋愛対象として見られないことさえあり得る。
そんな今の感情だけを伝えた。
「承知しています」
「それでもよろしいのですか」
「今ここで、愛情を返していただくために申し入れたのではありません」
「では、何をお望みです?」
「これから、互いを知る機会をいただきたいのです」
フィリップ様は答えた。
「婚約したからと、今まで許されなかったことが何でも許されるわけではありません。距離を縮めることも、二人の間で決めることも、急ぐつもりはございません」
夫婦になれば、いつか寝台を共にする。
子を求められる。
それを避け続けられないことは、分かっている。
フィリップ様も、跡継ぎを一生求めないと約束することはできないだろう。
それでも、婚礼の日を境に、すべてを当然のものとして押しつけないと言っている。
今は、それ以上を求めることもできなかった。
フィリップ様が右手を差し出した。
「手を取ってもよろしいでしょうか?」
前世であれば、男同士で握手することに何の意味もなかった。
今は違う。
婚約者である男女が手を重ねる。それだけで、周囲は親しさの証として見る。
私は少し迷ってから、自分の手を差し出した。
フィリップ様は、指先を包むように触れた。
強く握られることはなかった。
手は大きく、温かい。
胸が高鳴ることはなかった。
ただ、不快でもなかった。
「ありがとうございます」
「毎回、許可を取るおつもりですか」
「あなたが、必要ないと言うまでは」
「律儀ですね」
「そこを好ましく思っていただければ助かります」
私の手が離される。
少しだけ、肩の力が抜けた。
手を取られただけで、何も失ってはいない。
そう一つずつ確かめなければならない程度には、私はこの関係へ身構えていた。
フィリップ様は、旅行記を私のほうへ押し出した。
「南部の所領について書かれています。道や産業は少し古い情報ですが、土地の雰囲気は分かるでしょう」
「婚礼後の仕事を、今から覚えろということでしょうか」
「いいえ。まず、どのような場所か知っていただきたいのです」
「領内学校の報告書もご用意しているようにお見受けしましたが?」
フィリップ様が、一瞬黙った。
視線が、傍らに置かれた革鞄へ向く。
「入っているのですね」
「ご興味があればと思いまして」
「婚約者を得たというより、領務の補佐役を雇ったように見えます」
「可能であるならば、私自身が尊敬できる方と結婚したいと思っていたのです。両立はするかと」
思わず笑いそうになった。
かろうじて口元を押さえる。
前世の私にとっては、こうして仕事の話ができる関係のほうが、男女の甘い言葉より理解しやすい。
その理解しやすい男が、自分の婚約者であることだけが理解できない。
フィリップ様は、そんな私を見て少し笑った。
「いつか、フィリップと呼んでいただけますか」
「今もフィリップ様とお呼びしております」
「敬称なしで、という意味です」
「……難しいご相談です」
「そうですか。では、それも急がずに待つこととしましょう」
この方は、待つと言いながら諦めるつもりはないらしい。
婚約者としては、誠実なのだろう。
逃げようとしている側には、たいへん都合が悪かった。
◇
翌朝、私はいつもの時刻に目を覚ました。
侍女服へ着替え、お嬢様の部屋へ向かおうとした時に、お嬢様自身から呼び出しがかかった。
それだけで、事の重大さが分かった。
入ったお嬢様の部屋には、侯爵夫人とマーサ夫人もいた。
嫌な予感がした。
「おはようございます」
「おはよう、エリナ」
「……どういったご用件でしょうか」
私が尋ねると、お嬢様は姿勢を正した。
妙に改まっている。
「エリナ・フォルク」
「……はい」
「本日をもって、あなたを私の専属侍女の任から解きます」
予想していた言葉のはずだった。
それでも、すぐには返事ができなかった。
「婚礼までは、これまでどおりお仕えしても問題ないのでは?」
「問題があります」
侯爵夫人が答えた。
「あなたは公に、フィリップの婚約者となりました。まだ我が家の一員ではありませんが、将来の義娘として迎えることが決まっています。その者を使用人として置いたまま、家族へ給仕させることはできません」
「……私は気にいたしません」
「あなたが気にするかどうかだけの問題ではございません」
マーサ夫人が言った。
「ほかの使用人が、あなたへ仕事を命じられなくなります。失敗を注意することも、若奥様に関する業務を割り振ることも難しいでしょう。屋敷の秩序が保てません」
あまりにも正論だった。
「給与は昨日までの分を精算いたしました」
マーサ夫人は封筒を差し出した。
「リースフェルト家での期間を含めた勤務の記録と、ソフィア様からの慰労金もございます」
「慰労金など」
「エリナ」
お嬢様が言った。
「十一年よ。十一年も、あなたは私に仕えてくれたの。受け取って」
私は封筒を受け取った。
これまでの仕事が、紙一枚と硬貨へ変わったわけではない。
分かっている。
それでも、何かが終わったのだと、はっきり形を与えられた気がした。
「長い間、私に仕えてくれてありがとう」
お嬢様は、主人として言った。
「あなたがいなければ、私はここまで来られなかったと思うわ」
「買いかぶりです」
「そう答えると思った」
お嬢様の目が潤んでいる。
私は、いつものように侍女の礼をした。
これが最後になる。
「お嬢様にお仕えできたことを、光栄に存じます」
声が震えなかったのは、長年の訓練のおかげだった。
顔を上げると、お嬢様が近づいてきていた。
身長が百六十四センチあるお嬢様に抱き締められると、百五十二センチの私は、すっかり腕の中へ収まってしまう。
「これからは、侍女ではなく妹になって」
お嬢様を妹分のつもりで見ていた。
だが、並んで立てば、向こうのほうが明らかに背が高い。
その妹分から、今は本当の妹になれと抱き込まれている。
本当に、何かが間違っている。
「まだ婚礼前です」
「練習すればいいでしょう」
「……急ぐ必要性を感じません」
「それから、以前、侍女頭に追い出させないと約束したことは覚えているかしら」
「はい。覚えております」
「屋敷からは追い出していないから、反故にはしていないわよね?」
少し茶目っ気を含んだ笑顔で見下ろされた。
「侍女の役目からは追い出されました」
「それは、あなたがフィリップ様と婚約したからでしょう」
「そこへ至るまで、誰が最も熱心に背中を押したのでしたか」
お嬢様は聞こえなかったふりをした。
侯爵夫人が口元を扇で隠している。
笑われている気がした。
未婚の令嬢が、婚約者の屋敷へ何の取り決めもなく住み続けるのは、外聞が悪い。
そのため父は、婚礼までの私を侯爵夫人の保護下へ置くことへ正式に同意していた。
居室は、フィリップ様の部屋から離れた婦人客用の一画に移される。婚約者と会う際には、これまでどおり家族か年長の婦人が近くに控える。
母は婚礼支度のため、しばらく王都に残る。母の居室も、私と同じ婦人客用の一画へ用意されていた。
父が領地へ戻ったあとも、母が私の付き添いを務め、侯爵夫人が家として保護する。私が侯爵家の屋敷へ留まる理由と監督者は、書面で明らかにされていた。
まだヴァルデック家の人間ではない。
フォルク男爵家の令嬢として、将来の婚家に客分として預けられる。
貴族社会としては、何も問題がない。
私の心情だけが、まったく追いついていなかった。
「それから、エリナ嬢」
侯爵夫人は、今度は侍女ではなく男爵令嬢へ言い聞かせる口調で続けた。
「はい」
「まず、その服を着替えなさい」
私は自分の身体を見下ろした。
濃い色の簡素な生地。動きやすい袖。装飾はほとんどなく、汚れれば自分で手入れできる。
十一年間、形こそ少しずつ変わっても、着慣れてきた服だった。
「今すぐでございますか」
「今すぐです」
侯爵夫人はきっぱりと言った。
「侍女服は、屋敷における役目と立場を示すものです。専属侍女の任を解かれたあなたが着続ければ、ほかの使用人を混乱させます」
「婚礼までは、まだ数か月ございます」
「婚約者として公に告知されたのは昨日です」
「それは承知しておりますが」
「ならば今日から、男爵令嬢として過ごしなさい」
逃げ道はなかった。
「舞踏会へ出るような衣装を、毎日着ろと申しているのではありません」
侯爵夫人は、私の顔を見て続けた。
「午前には午前の、午後には午後の装いがあります。屋敷の中で過ごすだけならば、簡素な昼用のドレスで構いません。ただし、食卓へ着くときや客を迎えるときには、侯爵家の次男の婚約者として恥ずかしくない姿を整えること。それも今後のあなたの務めです」
侍女服なら、一着選べば一日を過ごせる。
令嬢の衣装は、時刻と場所と相手によって変わる。
知識としては知っていた。
これまで、その準備をする側だったのだから。
自分が着る側になることを想定していなかっただけだ。
「……手持ちのドレスだけでは足りません」
「仕立屋を呼んであります。フォルク男爵夫人とも相談し、婚礼までに必要な衣装を順に整えます」
「そこまで急がなくとも」
「本日は、すでにあるものを使います」
侯爵夫人がマーサ夫人へ目を向けた。
マーサ夫人が扉へ合図を送る。
入ってきた若い侍女を見て、私は目を瞬いた。
見覚えがある。
「クララ様?」
「はい、エリナ様」
クララ・ノルデン。
ヴァルデック侯爵家と縁の深いノルデン子爵家の三女で、結婚前の行儀見習いを兼ね、侯爵夫人のもとへ出仕している。
私がこちらへ来て間もない頃、廊下で花瓶を割った娘でもある。
あのときのクララ様は顔を青くし、散らばった破片の前で動けなくなっていた。
私が片づけを手伝い、慣れない者へ一人で運ばせた側にも落ち度があるとマーサ夫人へ説明した。
自分の指を切ったことまで思い出す。
浅い傷だった。
フィリップ様だけが、妙に大げさに布を用意させた。
クララ様は私の前まで来ると、深く腰を落とした。
使用人が主人へする礼である。
反射的に同じ深さの礼を返しかけたところで、マーサ夫人に咳払いをされた。
私は何事もなかったように背筋を伸ばした。
何事もなかったことには、ならなかったと思う。
「本日より、エリナ様付きの専属侍女を務めさせていただきます」
「クララ様が?」
「はい。ですので、その呼び方はおやめください。主人が侍女にそのような呼び方をすれば、外聞に関わりますので」
生家の爵位だけを比べれば、クララ様は子爵令嬢で、私は男爵令嬢である。
「よろしいのですか」
私は侯爵夫人へ尋ねた。
「クララ様の生家は、フォルク家より上位でしょう」
「クララはフォルク男爵家へ仕えるのではありません」
侯爵夫人が答えた。
「ヴァルデック侯爵家の侍女として、我が家の次男の婚約者へ付くのです。ノルデン子爵からも承諾を得ています。将来、分家の女主人となる方へ仕えることは、子爵令嬢の立場を損なう役目ではございません」
この国では、下位貴族の娘が上位貴族の家へ侍女として出仕することは珍しくない。
衣装や予定を管理し、外出へ付き添う貴族出身の侍女は、掃除や洗濯を担う一般の使用人とは役割が異なる。
私が行儀見習いからお嬢様の側仕えとなったのも、同じような理由だった。
今度は、侯爵家の次男の婚約者となった私へ、子爵令嬢が付けられる。
家格だけではなく、今いる家の中での立場によって役目が決まる。
理屈は分かる。
自分が仕えられる側になることだけが分からない。
「それに」
クララが、わずかに顔を上げた。
「私から、どうしてもとお願いしたのです」
「なぜです?」
「エリナ様にお仕えしたかったからです」
迷いのない声だった。
「私が花瓶を割ったとき、エリナ様が助けてくださいました」
「あれは、見かけた以上私にも責任があったからです」
「ございませんでした」
即座に否定された。
「あの花瓶を運ぶよう命じられたのは私です。エリナ様は、偶然通りかかったにすぎません。それなのに破片を片づけ、私がまだ屋敷の仕事に慣れていなかったことを、マーサ夫人へ説明してくださいました」
「事実を申し上げただけです」
「謝罪の仕方も、その後に何をすれば信用を取り戻せるかも教えてくださいました。エリナ様がいなければ、私は失敗を隠そうとして、もっと大きな叱責を受けていたと思います」
クララ様は両手を身体の前で重ねた。
「ご自分の指を傷つけてまで助けてくださったことを、ずっと忘れておりません」
「浅い傷でした」
「そう言うところも、私はお慕いしております」
真正面から言われた。
フィリップ様に好意を告げられたときとは違う種類の困惑があった。
前世で後輩から尊敬していると言われれば、多少照れながらも受け取れただろう。
今は、令嬢として、年下の子爵令嬢から目を輝かせて慕われている。
自分の認識と、他人から見た自分の姿が、まるで一致しない。
「本人の希望だけで選んだのではございません」
マーサ夫人が言った。
「クララは一度の失敗を繰り返さず、それからはよく務めています。子爵令嬢としての学びも深く、貴族社会の作法も知り、令嬢の外出へ付き添うこともできます。何より、あなたを心から敬っている。専属侍女として適任でしょう」
「ご不満でしょうか」
クララ様が不安そうに尋ねた。
「そんなことはありませんが……」
「では」
「私へ仕えることを、本当に望んでいるのですか」
「はい」
今度の返事にも、迷いはなかった。
「エリナ様からいただいたご恩を、少しでもお返ししたいのです」
そこまで言われては断れない。
「分かりました。よろしくお願いします、クララ様」
「はい。誠心誠意お仕えさせていただきます。……それはそれとして、エリナ様、その呼び方は直してください」
「……分かりました、クララ」
クララの顔が明るくなる。
心の底から喜んでいるようだった。
そこへ、お嬢様が口を挟んだ。
「頼もしい方が付いてくれてよかったわね」
「なぜ、お嬢様もついてこようとしているのですか?」
「あなたが着替えるからね」
「ご一緒していただかなくても結構なのですが……」
「嫌よ。私も選ぶもの」
何を選ぶのかは、聞くまでもなかった。
◇
新しい居室には、隣接する衣装室があった。
私が侍女として使っていた部屋より、衣装室だけで広い。
母が領地から運んできた衣装箱に加え、お嬢様が選ばせた生地見本と装飾品まで並べられていた。
クララは衣装棚を一通り確認したあと、真剣な顔で私を見た。
「まず、今お持ちのドレスをすべて確認させていただきます」
「本日着る一着だけでよいのでは?」
「今後の組み合わせも考えなくてはなりません」
「仕立屋が来てからでも」
「仕立屋へ、どのような形をお願いするか決める必要がございます」
仕事熱心だった。
以前の私なら、感心しただろう。
自分が着せ替えられる側でなければ。
「私のものを直して使えないかしら」
お嬢様が若草色のドレスを取り出した。
「色はエリナにも似合うと思うの」
クララは一度、私とお嬢様を見比べた。
お嬢様は百六十四センチ。
私は百五十二センチ。
十二センチの差は、裾を詰めるだけでは埋まらない。肩の位置も、腰の高さも違う。胸元に至っては、同じ仕立てで収まるはずがなかった。
「エリナ様ならば若奥様のドレスも大変お似合いになるとは思いますが、大幅に仕立て直す必要がございます」
クララは丁寧に答えた。
「丈だけではなく、胴の形が異なりますので」
お嬢様が私の胸元を見た。
私もお嬢様を見る。
「何です?」
「何でもないわ」
視線をそらされた。
言いたいことは分かる。
「こちらはいかがでしょう」
クララが、私のために作られた一着を取り出した。
「あら、いいじゃない。エリナによく似合いそうね」
お嬢様が言う。
その間にもクララは生地を私の身体へ当てた。
「ですが、胸元の飾りは外したほうがよろしいかと存じます」
「どうして?」
「エリナ様は小柄で、お顔立ちもお若く見えます。胸元へリボンやフリルを重ねますと、少女向けの衣装を無理に着ているように見える恐れがございます」
ずいぶん率直だった。
「では、可愛らしいものは似合わない?」
私としては、むしろそちらの方がありがたい。
そう期待して確認した。
「いいえ。愛らしさは、衣装で加えずとも十分にお持ちです」
クララは真顔で答えた。
「ですから、衣装では成人した令嬢としての落ち着きを補うべきです」
お嬢様が感心したように頷く。
私の意見は尋ねられなかった。
クララは、今度は青いドレスを取り出した。
対面の席で着たものだった。
「エリナ様は華奢でいらっしゃいますので、布量の多い袖や、横へ大きく広がる飾りは避けたほうがよろしいでしょう。衣装に隠れてしまいます」
「隠れても、私は困りません」
「困ります」
なぜか叱られた。
「上半身には十分な存在感がおありですから、胸元へ飾りを重ねる必要もございません。襟元はすっきりとさせ、縦に流れる刺繍を入れます。腰の位置が美しく見えるよう仕立てれば、エリナ様の良さを損なわず、全体が均整よく見えるはずです」
胸が大きめであることを、ずいぶん婉曲に説明された。
お嬢様が小さく咳払いをした。
そちらを見ると、何事もなかったように生地見本へ目を落としている。
この衣装室に、咳が出るほどの埃はない。
今の身体で十九年も暮らしている。
自分の体型くらい把握しているつもりだった。
ただし、それを男性の目へ魅力的に映す方法など、考えたことはない。
前世では、女性が衣装を選ぶのに時間をかけていても、似合うものを着ればよいのではないかと考えていた。
実際には、その似合う一着を選ぶために、色、身長、顔立ち、胸元、腰の位置、装飾の量まで計算する。
その常識自体は把握している。お嬢様の着替えを選んできたのは私なのだから。
お嬢様に似合うもの、お嬢様を魅力的に見せるものであれば、私以上にうまくやれる者はそういないはずだ。
だが、その計算をされる側になるとは思っていなかった。
「こちらの深い青がよろしいと思います」
クララは言った。
「エリナ様の肌にも合いますし、幼く見えません。フィリップ様がお好きなお色とも伺っております」
「誰からです?」
「私からよ」
お嬢様が得意そうに胸を張った。
また余計な情報を与えている。
「私が着るものに、フィリップ様の好みまで取り入れる必要はありません」
「すべてを合わせる必要はございません」
クララは答えた。
「ですが、エリナ様がフィリップ様のお目に、少しでも美しく映るよう努めることも、専属侍女の役目です」
「すでに婚約は成立しておりますが……」
「婚約したあとだからこそ、大切でございます」
反論する隙がない。
これまで、私がお嬢様へしてきたことだった。
髪を整え、体型に合う衣装を選び、一番美しく見えるよう布を直す。
お嬢様を男性の目に美しく映すためだけにしていたわけではない。
本人が自信を持ち、その身分にふさわしく見えるよう整えていた。
分かっている。
それでも、自分が婚約者へ美しく見せるために着飾らされる側になると、話が違った。
クララは青いドレスを私へ着せると、胸元の布を丁寧に整えた。
そうやって整えられるたび、自分の身体が女のものであることを意識させられる。
前世で男だった私が、今は令嬢として、男に気に入られる装いを選ばれている。
他人の話なら、何の不思議もない。
自分のことになると、現実味がなかった。
鏡の中には、小柄な女が立っていた。
隣にいるお嬢様より、頭半分ほど低い。
顔立ちは幼い。
だが、身体つきまで幼いわけではない。
侍女服では目立たなかった胸や腰の線が、仕立てのよいドレスでは隠れない。かといって、下品に強調されているわけでもなかった。
小柄な少女ではない。
十九歳の令嬢に見える。
鏡だけを見れば、男の妻になることへ怯えている人間には見えない。
衣装は、中身まで映してくれなかった。
どうにも落ち着かなかった。
クララは私の髪を結い直し、顔立ちが幼く見えすぎないよう、飾りを一つに絞った。
最後に一歩下がり、全体を確認する。
表情は真剣そのものだった。
「いかがでしょうか」
私が尋ねる。
「とてもお美しいです」
「そこまで断言しなくとも」
「いいえ」
クララは強く首を振った。
「フィリップ様にも、必ずそう思っていただきます」
「そのために、ここまで?」
「もちろんです」
まるで自分のことのように、嬉しそうに笑っている。
「エリナ様がどれほど素晴らしい方か、私は存じております。フィリップ様にも、外見を含めて余すところなく分かっていただかなくてはなりません」
「すでに妻へ望まれているのですが」
「今より、さらに大切にしていただきます」
どうやら私の専属侍女は、主人の婚姻を成功させることへ、私以上に意欲を燃やしているらしい。
以前の私も、お嬢様の婚姻に際して似たようなことを考えていた。
相手の男へ、お嬢様の価値を思い知らせる。
嫁いだあとも大切に扱わせる。
まさか同じことを、自分がされる側になるとは思わなかった。
「この衣装でしたら、午後のお茶にもふさわしいでしょう」
クララが言った。
「お茶ですか」
「私が提案したのよ」
お嬢様が私の隣へ立った。
鏡の中で見ると、身長差がよく分かる。
お嬢様は私の肩越しに顔をのぞかせ、満足そうに笑った。
「今日は仕事もないのでしょう?」
「それは、解任されたばかりですから」
「なら、将来の義姉とお茶をする時間はあるわね」
「お嬢様のお茶でしたら、私がご用意を」
「エリナ様」
背後から、クララの声が飛んできた。
「本日より、お茶を用意するのは私どもの役目です」
自分より年下の子爵令嬢に、正しい役目を教えられてしまった。
◇
お嬢様の居間へ移ると、茶の支度はすでに整っていた。
私はいつもの位置へ立とうとした。
「エリナ。いい加減認めなさい」
お嬢様が、向かいの椅子を示す。
「お掛けになってください、エリナ様」
クララにまで促された。
仕方なく腰を下ろす。
クララが茶を注いだ。
湯の温度も、蒸らす時間も問題ない。菓子皿の向きが少しだけずれている。
私が気づくのと同時に、クララが半寸だけ直した。
仕事を奪われた気がした。
いや、すでに奪われている。
私は無意識に確認していた自分へ気づき、膝の上で手を組んだ。
「変な感じね」
お嬢様が言った。
「私もそう思います」
「あなたと向かい合ってお茶を飲むのは、初めてではないはずなのに……」
「それは……こうした席と、お嬢様が眠れない夜などに私的にお茶をするのとでは、話が違います」
「そうね。あのときは、あなたが侍女として付き合ってくれただけ。今日は違うわ」
お嬢様は嬉しそうに笑った。
「将来の義妹と、お茶を飲んでいるの」
「……まだ婚礼前です」
「だから、将来のと言ったでしょう」
言葉の使い方が正確で、訂正できなかった。
しばらくお茶会は続き、お嬢様は焼き菓子を一つ食べ終わり、二つ目へ手を伸ばした。
それを食べ終わって、さらに三つ目を取ろうとしたところで、私は菓子皿を自分のほうへ引いた。
「二つまでです」
「エリナ」
「昼食を終えたばかりでしょう」
「あなたは、もう私の侍女ではないのよ」
「侍女でなくとも、食べすぎは止めます。……私の義姉となるのですよね。手本を見せてくださいませ」
お嬢様が目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
その笑みは、安心したような色が強かった。
「なら、よかった」
「何がです?」
「侍女でなくなっても、あなたは変わらないのね」
「それは……そうですよ。お嬢様とは幼少の頃から共にいるのですから」
変わっていない。
中身は何も変わっていない。
「それなら、次はその呼び方を改めさせないとね」
「呼び方ですか?」
「そうよ。クララの呼び方を変えたように、私にもいつまでもお嬢様ってわけにはいかないでしょう?」
「それは、そうですが」
「……そうね。じゃあ、お姉様とでも呼んでもらおうかしら」
「……調子に乗らないでくださいませ、ソフィア様」
「つれないわね。あ、ソフィア姉様でもいいわよ」
「……保留とさせていただきます」
お嬢様があまりにも急速に姉面しようとしてくる。
私からしたらお嬢様は妹分でしかないというのに。
近い将来に義妹になるとしても、なぜこうも性急に妹にされそうになっているのか。
本当に、どうしてこうなった。