立派に育った主人を内心では妹のように可愛がり、専属侍女として一生その世話を焼いて暮らせれば、それで十分。自分自身の結婚など御免だった。
そんなある日、お嬢様に政略結婚の話が持ち上がる。
貴族の娘として婚姻を当然の責務と受け入れるお嬢様。しかし、覚悟と不安は別のもの。エリナは誰にも見せない主人の弱音を聞きながら婚約から婚礼までを支え、そのまま嫁入り先の侯爵家へ同行する。
新しい屋敷でも、これまでと変わらずお嬢様の侍女として暮らしていく――はずだった。
なぜか嫁ぎ先の侯爵家の次男から、今度はエリナ自身に縁談が持ち上がるまでは。
しかも実家は大喜び。お嬢様まで全力で背中を押してくる。
私はただ、一生お嬢様を愛でながら侍女をしていたかっただけなのだが。
「父上には、縁談を進めていただきたいとお伝えするわ」
鏡の前に座ったお嬢様は、まっすぐ前を見たまま言った。声は落ち着いていた。けれど、膝の上で重ねた指が、さっきから何度も組み直されている。
私は返事をする前に、お嬢様の淡い金髪へ挿しかけていた髪飾りを抜いた。真珠が三つ連なった飾りが、少しだけ右へ寄っている。差し直して、鏡の中で左右を確かめる。
「かしこまりました」
「驚かないのね」
「昨夜から、同じお言葉を三度練習しておられましたので」
「聞こえていたの?」
「隣の衣装室におりましたから」
鏡越しに目が合う。お嬢様は気まずそうに唇を結び、すぐに視線をそらした。その表情を見ていると、八歳の頃を思い出す。
初めて会った日、お嬢様は母君の後ろへ半分隠れながら、こちらを警戒していた。侯爵家の一人娘と、行儀見習いとして送り込まれた男爵家の次女。立場だけを見れば、最初から主従だった。
それでも、私の目には同い年の友人というより、ひどくませた妹のように映っていた。
前世の私は成人した男だった。その記憶を持ったまま、この世界で女として生まれ直した。
今の身体で十九年も過ごしているのだから、鏡の中の自分を女だと思うことには、もう何の抵抗もない。ドレスも着る。化粧もする。女の声で話すことも、相手の身分に応じて礼の深さを変えることも、意識せずにできる。
それでも、内側まで何もかも女になったわけではなかった。
同じ年のお嬢様を見ても、張り合いたいとは思わない。きれいなドレスを着せてやりたい。おいしい菓子を食べて機嫌を直すところを見たい。危なっかしいことをすれば叱り、落ち込んでいれば話を聞き、誰かに粗末に扱われれば腹が立つ。
主人に向ける感情としては、いくらか不敬なのだろう。だが、私にとってお嬢様は、昔から妹分だった。立派な令嬢へ成長した今でも、それは変わらない。
その妹分が、もうすぐ知らない男の家へ嫁ぐ。
表向きは冷静にしているものの、私の内心は、妹の縁談を前にして相手の男を値踏みする兄そのものだった。
「本当によろしいのですか」
髪飾りを整えながら尋ねる。
「その質問は、何について?」
「縁談を進めることについてです」
「それが私の務めでしょう」
お嬢様は静かに答えた。
今日、リースフェルト侯爵家には、ヴァルデック侯爵家の方々がいらっしゃる。両家の当主同士では、すでに婚姻についての打診が交わされていた。
ヴァルデック侯爵家は大河沿いの港を持ち、リースフェルト侯爵家は北方に広い穀倉地帯を持つ。両家のつながりが深まれば、長年揉めていた通行税の話がまとまり、冬場の穀物輸送も安定する。
そのための縁談だった。
相手はヴァルデック侯爵家の嫡男、レオナルト様。本日は両家の父母が同席する中で、二人が初めて正式に顔を合わせる。
その場で重大な異存がないことを確かめたのち、持参金や婚礼後の住居、妻に保障される財産などを詰める。両家の条件が整えば、正式な婚姻の申し入れと受諾を経て、婚約証書が交わされる。
若い男女が好き合ってから家族へ報告するような習慣は、この国の貴族にはない。家と家が結びつき、その中で夫婦が互いを知っていく。
お嬢様も、それを当然のこととして育てられていた。
「私はリースフェルト侯爵家の一人娘よ」
お嬢様は鏡の中の自分を見たまま言った。
「領民の納めた税で守られ、望めば学問も音楽も習えた。家の娘として果たすべき役目を教えられてきたのに、婚姻だけは自分の好みを優先します、では筋が通らないもの」
悲壮な声ではなかった。自分が犠牲になるのだと酔っている様子もない。侯爵家の娘として与えられたものを理解し、その代わりに果たすべき責任も理解している。
お嬢様は、そういう女性だった。
私はその姿を誇らしく思う。同時に、そこまで気丈に振る舞わなくてもよいのだと言ってやりたくなる。
まったく、妹というものは、兄が心配していることに気づかず、勝手に立派になっていく。私に兄がいた経験はないが、たぶん似たようなものだろう。
「お嬢様が望まぬ婚姻を受け入れることまで、領民は求めていないと思いますが」
「望むか望まないかを決められるほど、レオナルト様を知らないわ」
それも道理だった。
「先方に大きな問題があるなら、父上も私へ強いることはなさらない。でも、家柄も年齢も釣り合っていて、両方の領地に利がある。私が不安だというだけで、退ける理由にはならないでしょう」
お嬢様は膝の上で指を組み直した。
「怖いのですか」
私が尋ねると、鏡の中の青い目が揺れた。
「少し」
「何が一番?」
「分からないことが多すぎるわ」
お嬢様は自分の手へ目を落とした。
「レオナルト様がどのような方なのか。ヴァルデック家では、妻に何を求めているのか。嫁いだあと、私は家の一員になれるのか。それとも、両家をつなぐために置かれた飾り物になるのか」
「本日の対面で、いくつかは尋ねられます」
「初対面から、そこまで聞いてよいもの?」
「聞かずに婚約するよりはよろしいかと」
「あなたは簡単に言うわね」
「私が嫁ぐわけではありませんので」
口にしてから、ずいぶん無責任な言い方だったと思った。
もっとも、私自身が嫁ぐなど、想像しただけでも御免だった。
男だった頃、当然結婚するなら妻を迎える側だと漠然と思っていた。
実際に結婚した経験はない。家庭を持つことへ強い憧れがあったわけでもない。それでも、自分が男の家へ入り、妻として扱われ、跡継ぎを産むことを期待されるなど、一度も考えたことはなかった。
女として生きるのは構わない。今の身体も、エリナという名前も、自分のものだ。
ただ、男の妻になるのは嫌だった。
夫に守られ、夫へ従い、夫の子を産む。貴族の娘として教え込まれた役目を理解はしている。理解しているからこそ、余計に自分には無理だと思う。
前世のことを誰かへ話すつもりはなかった。話したところで信じられるはずもないし、信じられたほうが困る。
だから私は、結婚しない理由を、今の仕事が好きだからという言葉で包んできた。
嘘ではない。
お嬢様の髪を結い、服を選び、食事を忘れれば叱り、悩みがあれば話を聞く。このまま一生、お嬢様の世話をして暮らせるなら、それでよかった。
「知らない役目に不安を覚えるのは、当然です」
私は言った。
「侯爵家の娘として婚姻を受け入れることと、何も怖がらないことは別でしょう」
「役目なのだから、弱音を吐くべきではないと思っていたわ」
「弱音を口にしたところで、役目を投げ出したことにはなりません」
「レオナルト様にも話すの?」
「初対面で胸の内をすべて明かす必要はありません。まずは、尋ねたことへ誠実に答えてくださる方か見ればよろしいかと」
「あなたにだけは、話してもいい?」
「そのための専属侍女です」
お嬢様は、そこでようやく息を吐いた。
「エリナ」
「はい」
「あなたは、一緒に来てくれる?」
婚姻が成立すれば、お嬢様はヴァルデック侯爵家へ入る。生家から侍女を一人か二人伴うのは、珍しいことではない。
私は最初から、そのつもりでいた。
「先方から許可が下りれば」
「あなた自身は?」
「お供いたします」
「迷わないのね」
「お嬢様のお支度を、今さらほかの方へ任せるほうが不安ですので」
「そこは私を信用していると言うところでしょう」
「お嬢様がお一人で起きられるようになってから申し上げます」
お嬢様が振り返った。
「昨日は起きたわ」
「私が三度お声をかけました」
「四度目の前には起きたでしょう」
「立派でございます」
「馬鹿にしているわね」
お嬢様の口元に、ようやくいつもの笑みが戻った。
可愛い。
もちろん口には出さない。妹を可愛がる兄というものは、たいてい本人へは素直に言えないものだ。たぶん。
◇
ヴァルデック侯爵家の一行は、正午前に到着した。対面には青の客間が使われた。
リースフェルト侯爵夫妻、ヴァルデック侯爵夫妻、お嬢様とレオナルト様。私はお嬢様の後ろに控え、ヴァルデック家から来た侍従とともに給仕を手伝った。
レオナルト様は二十四歳だった。濃い茶色の髪を短く整え、装飾の少ない濃紺の上着を着ている。背が高く、姿勢がよい。顔立ちも整っているのだろう。
ただ、男の顔を見て胸を高鳴らせる感覚は、十九年経っても身につかなかった。せいぜい、こちらの話を聞きそうな顔だとか、殴り合いになったら勝てそうにないとか、その程度である。
私が見ていたのは、容姿よりも態度だった。
お嬢様の言葉を遮らないか。使用人を物のように扱わないか。自分の立場を盾にして、都合のよい約束ばかり並べないか。
やはり、完全に妹の結婚相手を見定める兄の気分だった。
初めは両家の当主が、領地や王都の情勢について話した。そのあと、ヴァルデック侯爵夫人がお嬢様へ、普段どのように過ごしているのかを尋ねた。
お嬢様は音楽や刺繍だけでなく、侯爵夫人の補佐として施療院の会計を見ていること、領地から届く報告書にも目を通していることを答えた。
「嫁いだあとも、続けたいとお考えですか」
侯爵夫人が尋ねる。
「同じ施療院へ直接関わり続けるのは難しいと承知しております。ですが、許されるならば、ヴァルデック領でも同じような務めを持ちたいと思っております」
「結構なことです。ただし、我が家には我が家の慈善事業がございます。まずはそちらを知っていただき、そのうえで何をお任せするか相談いたしましょう」
「はい」
侯爵夫人は、相手を喜ばせるためだけの返事をしなかった。無条件に迎合してはいない。それでも、お嬢様の希望を軽く扱ってもいなかった。
お嬢様の肩から、わずかに力が抜けた。
その後、若い二人が話す時間が設けられた。二人きりではない。両家の母君と、私たち使用人が同じ部屋に残っている。
「婚礼後は、本邸で父母とともに暮らしていただくことになります」
レオナルト様が言った。
「私はいずれ父の跡を継ぎますが、当面の家政は母が取り仕切ります。あなたには、母を補佐しながら我が家のやり方を覚えていただくことになるでしょう」
「承知しております」
「ただし、あなたがリースフェルト家で学んだことを捨てていただくつもりはありません。役立つことがあれば、遠慮なく申し出てください」
「ありがとうございます」
お嬢様は一度、呼吸を整えた。
「いくつか、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「実家との書状のやり取りや、必要な際の訪問は認めていただけますか」
「書状に許可は必要ありません。訪問については互いの予定もありますが、理由なく妨げるつもりはありません」
「生家から、専属侍女を一人連れていくことは?」
レオナルト様の視線が私へ向いた。私は一歩進み、礼をする。
「フォルク男爵家のエリナ嬢ですね」
「ご存じでしたか」
「事前にいただいた同行者の候補に、お名前がありました」
婚姻は二人だけの話ではない。持参金、婚礼後の居所、病や死別の際に妻へ保障される財産、同行する使用人の人数まで、すでに両家の家令が書面を交わしている。
「ご本人と我が家の侍女頭に異存がなければ、問題ありません。長く仕えた者が一人いるほうが、ソフィア様も新しい家に慣れやすいでしょう」
「ありがとうございます」
その返事を聞いたとき、お嬢様がこちらを見た。ほんの一瞬だった。それでも、安堵したことは分かった。
私は胸の内で、レオナルト様へ一つ丸をつけた。
まだ合格ではない。だが、今のところは悪くなかった。
話し合いは一時間ほど続いた。レオナルト様は、お嬢様の言葉を途中で遮らなかった。判断できないことについては、父母や家令へ確認すると答えた。機嫌を取るために、何でも許すとも言わなかった。
先方を見送ったあと、お嬢様は自室へ戻るまで一言も発しなかった。扉が閉まると、私は外套を受け取り、手袋を外すのを手伝った。
「どうでしたか」
「立派な方だと思うわ」
「それは何よりです」
「好きかどうかは、分からない」
「本日初めてお会いしたのですから、当然でしょう」
「でも、あの方となら話し合えると思う」
お嬢様は、外した手袋を自分で揃えた。
「私が何を考えているのか、聞くつもりがある方だと思う」
「では」
「ええ。父上には、正式にお受けすると伝えるわ」
その顔に浮かんでいたのは、恋に落ちた娘の喜びではなかった。自分の生涯を決める重さを知りながら、それでも前へ進むと決めた人の顔だった。
立派になったものだ。
八歳の頃、木へ登ったまま降りられなくなり、半泣きで私を呼んでいた少女と同じ人物には見えない。
少し寂しくて、かなり誇らしかった。
◇
それから一月かけて、両家の条件が整えられた。
ヴァルデック侯爵家から正式な婚姻の申し入れが届き、リースフェルト侯爵家が受諾する。婚約証書には両家の当主と本人たちが署名し、証人として親族二名が名を連ねた。指輪と贈答品が交換され、教会で婚約が告知された。
その日から、レオナルト様はお嬢様の婚約者となった。
婚約したからといって、二人で自由に出歩くようになるわけではない。レオナルト様がこちらを訪ねるときは、必ず家族が同席した。庭を歩く際も、少し離れて私か別の侍女が付き添った。手紙も交わされたが、家の使者が運ぶ正式なものだった。
婚礼までの半年は、互いを知るためだけではない。両家が滞りなく一つの婚姻を成立させ、娘が別の家へ移るための準備を整える時間でもある。
私は嫁入り道具の一覧を作り、衣装の仕立てを手配し、向こうへ運ぶ私物を仕分けた。ヴァルデック家の侍女頭とは三度手紙を交わした。お嬢様の生活習慣や体調について、伝えるべきことと、本人の私的な領分として伏せるべきことを分ける。
お嬢様の予定は一つも落とさなかった。
その一方で、自分の実家から届いた手紙を、私は三日間返し忘れた。
「また縁談?」
お嬢様が尋ねた。
私は作業机の上に置いた手紙を裏返した。
「母からです」
「だから、縁談でしょう」
「遠縁の方をご紹介したいそうです」
「お会いするの?」
「お断りします」
「相手の名前も読まずに?」
「読みました」
「職業は?」
「地方の代官補佐です」
「年齢は?」
「二十六歳」
「ずいぶん覚えているじゃない」
「手紙に書いてありましたので」
お嬢様は、こちらをじっと見た。
「本当に結婚するつもりがないのね」
「ございません」
今度は、はっきり答えた。
今の仕事を続けたい。それは事実だった。
ただし、建前でもある。
男の妻になるのが嫌だなど、誰にも言えるはずがない。相手が乱暴だからでも、不誠実だからでも、家格が釣り合わないからでもない。
ただ自分が男を夫として見られない。
それは、この世界では婚姻を拒むに足る理由として扱われない。
女として生まれ、貴族の娘として育った以上、いつか誰かの妻になることを求められる。
私は男爵家の次女で、幸いにも侯爵令嬢の専属侍女だった。お嬢様の身の回りには長く仕えた者が必要だ。それを理由にすれば、これまでの縁談は断れた。
このまま一生、お嬢様の侍女でいられればよい。
朝は寝台から引きずり出し、似合う服を選び、食べすぎた菓子を取り上げる。悩みを聞き、失敗すれば一緒に考え、子供が生まれればその子の世話も手伝う。
主人を愛でながら暮らす。
それ以上の人生など、別に望んでいなかった。
「私のために結婚しない、というのは嫌よ」
お嬢様は静かに言った。
「お嬢様のためだけではありません」
「本当に?」
「この仕事を、私が選んでいるのです」
それも事実だった。
お嬢様はしばらく私を見たあと、小さく頷いた。
「なら、いいわ」
「ご理解いただけて何よりです」
「でも、返事は書きなさい。お母様を三日も待たせるものではないでしょう」
「本日中に」
「今書いて」
「婚礼衣装の確認が」
「逃げない」
私は便箋を出した。
他人の婚姻についてなら、いくらでも手順を整えられる。誰と会い、何を確認し、どの文書をいつまでに用意するか。
自分の話になった途端、紙を前にして手が止まった。
その日の手紙は、断りの文面を書き終えるまでに半刻もかかった。
◇
婚礼前夜、お嬢様は私の部屋を訪ねてきた。
寝間着の上に薄い上掛けを羽織り、髪も下ろしたままだった。
「眠れませんか」
「ええ」
「お茶をお持ちします」
「ここにいて」
お嬢様は、私の寝台の端へ腰を下ろした。八歳の頃から、不安な夜は同じ場所に座る。
私は向かいの椅子へ座った。
「明日、私はヴァルデック家の人間になるのね」
「婚礼を終えれば」
「分かっていたはずなのに、今になって妙な気分だわ」
「後悔しておられますか」
「いいえ」
返事に迷いはなかった。
「レオナルト様は誠実な方よ。向こうのご家族も、私を粗略には扱わないと思う。両家にとって必要な婚姻だという考えも変わっていないわ」
「はい」
「それでも、怖いの」
お嬢様は自分の手を見た。
「明日からは、知らない屋敷で、知らない者たちから若奥様と呼ばれる。私は何をしても、リースフェルト家から来た嫁として見られるでしょう」
「しばらくは、そうでしょうね」
「慰めてくれないの?」
「事実でないことを申し上げても仕方がありません」
「相変わらずね」
お嬢様は少し笑った。
「私に務まるかしら」
昔の私は、目を覚ましただけで娘になっていた。周囲は私をエリナと呼び、女児として扱った。けれど、名を呼ばれた瞬間に、心の中身まで今の自分になったわけではない。
少しずつ覚えた。身体の扱い方も、女としての振る舞いも、この世界での立場も。
気づけば演技ではなくなり、今の自分を形作るものになっていた。
新しい役目へ馴染むというのは、そういうことなのだろう。
「明日、婚礼を終えれば、お嬢様はレオナルト様の妻になります」
「ええ」
「ですが、明日一日で立派なヴァルデック家の若奥様になる必要はありません」
「でも、務めを果たさなければ」
「まず家の者の名前を覚えて、先方のやり方を知ってください。分からないことは侯爵夫人やレオナルト様へ尋ねる。ご自分の考えを出すのは、それからで十分です」
「妻も、少しずつなればいいということ?」
「婚礼は立場を変えますが、人の中身まで一日で作り替えるわけではありません」
お嬢様は不思議そうに私を見た。
「まるで、自分で経験したことがあるような言い方をするのね」
「侍女になったときの話です」
嘘ではない。すべてを話していないだけだ。
「お嬢様なら務まります」
私は改めて言った。
「怖くないからではありません。怖いままでも、なさるべきことを投げ出さない方ですから」
お嬢様は、しばらく黙っていた。
「それを最初に言ってほしかったわ」
「先に現実的な話をしたほうが、落ち着くかと思いまして」
「あなた、自分では人の気持ちが分かるつもりでいるけれど、ときどき妙に抜けているわね」
「初めて言われました」
「嘘よ。私が何度も言っているもの」
お嬢様は立ち上がり、扉へ向かった。
「明日も、そばにいて」
「もちろんです」
「明後日も?」
「ヴァルデック家の侍女頭に追い出されなければ」
「追い出させないわ」
扉を開ける前に、お嬢様は振り返った。
「おやすみ、エリナ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
◇
婚礼は、春の終わりに執り行われた。
教会で誓約を交わしたあと、お嬢様はリースフェルト侯爵家を出た。私は、嫁入りに伴う使用人の一人として馬車へ乗った。
本邸へ向かう馬車の窓から、生まれ育った屋敷が遠ざかっていく。お嬢様は泣かなかった。ただ、膝の上に置いた手を強く握っている。
私は向かいの席から手を差し出した。
お嬢様は一度こちらを見てから、何も言わずに私の指をつかんだ。
妹分を他家へ渡す兄の気分というのは、思っていたより複雑だった。隣には私もいる。
嫁いだ先で粗末に扱わせるつもりもない。それでも、昨日までとは違う家の人間になるのだと思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
「エリナ」
「はい」
「向こうへ着いても、二人きりのときはお嬢様と呼んで」
「人に聞かれないところであれば」
「約束よ」
「承知しました」
お嬢様の手から、少し力が抜けた。
ヴァルデック侯爵家の本邸へ到着すると、玄関前には一族と使用人たちが並んでいた。侯爵夫妻が新しい嫁を迎え、レオナルト様がお嬢様の手を取る。
私はその少し後ろで礼をした。
お嬢様を任せる相手として、ひとまずレオナルト様は合格だった。
今後何かあれば、すぐ減点するつもりだが。
◇
新しい屋敷では、何もかもが少しずつ違った。朝食の時刻。使用人を呼ぶ鐘の回数。洗濯物を出す曜日。衣装部屋の鍵を預かる者。
私は手帳を一冊使い切り、侍女頭のマーサ夫人と何度も相談した。
「リースフェルト家のやり方を、そのまま持ち込むつもりはございません。ただ、若奥様は雨の前に頭痛が出やすく、食欲をなくされることがあります。香辛料の強い料理を避け、温かい果物か粥を用意いただけると助かります」
「料理長には私から伝えましょう」
「ありがとうございます」
マーサ夫人は厳しい人だったが、理不尽ではなかった。私が自分の役目を越えて口を出さなければ、こちらの経験も尊重してくれた。
お嬢様も、すぐに屋敷を変えようとはしなかった。
侯爵夫人のもとで家政を学び、使用人の名を覚え、領地の報告書へ目を通す。施療院や孤児院への支出についても、まず従来の仕組みを調べてから意見を述べた。
誰に対しても礼を失わず、それでいて必要なところでは退かなかった。
レオナルト様は、そんなお嬢様の言葉をよく聞いた。
二人は燃えるような恋をしているわけではない。食事の席で意見が食い違うこともある。レオナルト様が仕事に夢中になって約束を忘れ、お嬢様が腹を立てたこともあった。
それでも、黙ったまま相手を罰するような真似はしなかった。話し合い、翌日には決め直す。
夫婦としての形を、一つずつ作っていた。
私はその様子を、少し離れた場所から見守った。
お嬢様が笑っていれば嬉しい。レオナルト様が気を回してくれれば、内心で評価を一つ上げる。
お嬢様を泣かせれば、たとえ主人の夫であろうと許さない。
立場上、表立って殴るわけにはいかないが、洗濯の順番を一日遅らせる程度の抵抗はできる。
そんなことを考えながら、お嬢様の髪を結う毎日は、実に満ち足りていた。
私はこのまま一生、ここで働くつもりだった。
◇
レオナルト様の弟君であるフィリップ様と顔を合わせる機会が増えたのは、お嬢様が屋敷の仕事へ慣れ始めた頃だった。
フィリップ様は二十二歳。侯爵家の次男であり、兄を補佐しながら領内の学校や会計の一部を任されている。いずれ南部の所領を預かる予定だが、侯爵位を継ぐ立場ではない。
初めてまともに言葉を交わしたのは、お嬢様が孤児院の教育について意見を求められた席だった。
私は後ろに控え、必要な資料を渡していた。
「昨年、リースフェルト領では女児向けの読み書き教室を始めたと伺いました」
フィリップ様が言った。
「はい。施療院に併設した教室です」
お嬢様が答える。
「エリナ、最初の生徒は何人だったかしら」
「十二人でございます。冬までに十九人となりました。ただし、農繁期には半数近くまで減っております」
「理由は?」
フィリップ様が私へ尋ねた。
「家の手伝いです。通わせたくないのではなく、人手が足りません。授業の時刻を変えるか、曜日を分けたほうが現実的だと、担当者から報告がありました」
「報告書をご覧になったのですか」
「お嬢様が内容を確認なさる際に、整理を手伝っておりました」
フィリップ様は、もう二つほど質問した。私は知っている範囲だけを答え、分からないことは分からないと伝えた。
話し合いが終わったあと、フィリップ様に呼び止められた。
「先ほどは助かりました」
「お嬢様のお役に立てたのでしたら、何よりです」
「細かなところまでよく覚えていますね」
「仕事ですので」
「兄から、若奥様がこちらへ慣れるのが早かったのは、あなたのおかげだと聞いています」
「お嬢様ご自身が努力なさった結果です」
「そう答えるところまで、兄の話どおりだ」
フィリップ様は少し笑い、そのまま去っていった。
話の通じる方だと思った。年齢も近く、仕事の話もできる。
前世の感覚でいえば、職場で少し話しやすい後輩か同僚のようなものだった。
◇
ある日は、廊下で若い侍女が花瓶を割り、私が片づけを手伝っているところを見られた。
「怪我はありませんか」
フィリップ様は、青ざめている侍女へ先に尋ねた。
「ございません」
「では、破片を素手で触らないように。エリナ嬢も」
「承知しております」
そう答えた直後、自分の指先に小さな切り傷があることに気づいた。
フィリップ様が黙って私の手を見る。
「浅い傷です」
「承知しているようには見えませんが」
近くにいた従僕へ、清潔な布を持ってくるよう命じる。
私は大げさだと思ったが、主人の家族の前で逆らうわけにもいかず、指へ布を巻かれた。
気が利く方なのだろう。それ以上の意味はない。
前世で男同士の親切へ、いちいち裏の意味を探したことなどなかった。
本を貸す。食事を忘れた者へ料理を届ける。怪我をすれば布を用意する。
どれも、気が利く人間なら相手の性別に関係なくすることだ。
◇
別の日には、私が自分の休日に働いていることを指摘された。
「今日は休みでは?」
「若奥様が王都からのお客様を迎えますので」
「それは別の侍女が担当すると聞いています」
「念のため、衣装だけ確認しようかと」
「休む日に仕事を探すのは、働き者とは少し違う気がします」
「ほかにすることもありませんので」
「……本は読まれますか」
「時間があれば」
意味が分からず、その場はそう適当に答えることしかできなかった。
◇
数日後、お嬢様の居間に領地の旅行記が置かれていた。
「フィリップ様からよ」
「お嬢様へですか」
「あなたに」
「なぜ私に?」
「読みたいと言ったのでしょう」
「時間があれば読むと答えただけです」
「同じではないの?」
「かなり違います」
それでも、せっかくなので借りた。読み終えて返すと、今度は感想を尋ねられた。
内容について話すうちに、気づけば半刻ほど経っていた。
近くにはお嬢様とレオナルト様もいたから、礼を失するような状況ではない。
フィリップ様は、単に本の話ができる相手を求めているのだと思った。
「エリナは、自分のことになると本当に鈍いわね」
「何のお話です?」
「何でもない」
◇
ヴァルデック侯爵家へ移って四か月が過ぎた頃、私は侯爵夫人から小客間へ呼ばれた。
部屋には侯爵夫人のほか、お嬢様とレオナルト様もいた。卓上に一通の手紙が置かれている。封蝋に刻まれているのは、実家であるフォルク男爵家の紋章だった。
「実家で何かございましたか」
私が尋ねると、侯爵夫人は座るよう勧めた。
侍女としてではなく、フォルク男爵家の娘として話すということらしい。
私はお嬢様の隣へ腰を下ろした。
お嬢様が、妙に落ち着かない顔をしている。
「エリナ嬢」
侯爵夫人が口を開いた。
「フィリップの婚姻について、我が家からフォルク男爵家へ打診をいたしました」
嫌な予感がした。
根拠はない。ただ、お嬢様がこちらを見ない時点で、ろくな話ではない。
「お相手は、妹でしょうか?」
「いいえ、あなたです」
逃げ道を探すより先に、答えが来た。
「私を?」
「ええ」
私はお嬢様を見る。
お嬢様は、わずかに目をそらした。
「ご存じだったのですか」
「三日前に、レオナルト様から聞いたわ」
「なぜ何も」
「侯爵夫人から正式にお話しするまで、黙っているよう言われたのよ」
よく三日も我慢できたものだ。
それよりも、聞きたいことがある。
「実家からの返事はどのように……?」
「フォルク男爵は、家としてこの縁談をありがたく受けると返答なさいました」
侯爵夫人は卓上の手紙へ目を向けた。
「家格にも条件にも、異存はないとのことです」
目の前が遠くなった。
まだ正式な婚約ではない。だが、父が家長として縁談を受ける意向を示した以上、話はほとんど決まっている。
貴族の娘が婚姻を拒めるのは、相手に重大な問題がある場合か、家にとって明確な不利益がある場合だ。
フィリップ様には悪評がない。侯爵家の次男で、将来の役職も所領も決まっている。
男爵家の次女にとって、望んでも得られないほどの良縁だった。
ここで私が嫌だと言えば、理由を問われる。
男の妻になりたくない。
前世で男だった感覚が残っているから、男に求められても嬉しくない。
そんなことを口にできるはずがない。
「父から、私宛ての手紙はございますか」
「こちらです」
侯爵夫人から受け取った手紙を開く。父の筆跡だった。
内容は、想像したとおりだった。
侯爵家からこのような申し入れをいただくことは、フォルク家にとって大きな名誉である。お前が長年誠実に務めた結果だと、父も母も喜んでいる。母は手紙を受け取ったその日に、持参させる品の確認を始めた。フィリップ様は人柄も堅実であり、お前も異存はあるまい。
最後の一文だけ、二度読んだ。
お前も異存はあるまい。
命令ではない。
だが、問いかけでもなかった。
「あなたに、何か重大な異存があるのでしたら、正式な申し入れの前に伺います」
侯爵夫人は言った。
形の上では、私の意思を問うている。
けれど、拒否できる問いではない。
父はすでに受け入れ、母は持参品を調べ、侯爵家は条件を整え始めている。
しかも主人であるお嬢様まで、この縁談を知っている。
「フィリップ本人から、理由を聞いていただいたほうがよいでしょう」
侯爵夫人が扉のほうを見る。
合図を受けた侍女が扉を開けた。廊下で待っていたらしいフィリップ様が、部屋へ入ってきた。
私は立ち上がりかけたが、侯爵夫人にそのままでよいと言われた。フィリップ様は私の正面へ座った。
「突然のことで、申し訳ありません」
「本当に突然です」
「私としては、少しずつお伝えしていたつもりでした」
「いつでしょうか」
「本をお貸ししたり、休日を尋ねたり」
「あれが?」
フィリップ様が困ったように笑った。
隣で、お嬢様が小さくため息をつく。
「だから言ったでしょう。自分のことになると鈍いのよ」
「お嬢様は、少し黙っていてください」
「今はお嬢様ではなく、ソフィアよ」
「どちらでも同じです」
侯爵夫人が口元を隠している。
笑われている気がした。
「エリナ嬢」
フィリップ様が、改めて私を見る。
「私は、あなたを妻に迎えたいと考えています」
妻。
その一語だけで、背中に冷たいものが走った。
男だった頃なら、好意は自分から伝える側にいるものだと、どこかで思っていた。誰かを望み、相手の家へ話を通し、返事を待つ。
今の私は、侯爵家の男性から望まれ、妻として迎えられる側にいる。
十九年女として生きても、その状況だけはどうしても現実として受け入れにくかった。
「あなたがソフィア様へ誠実に仕える姿を、好ましく思いました」
フィリップ様は続けた。
「ただ従うのではなく、必要なときは意見を言い、相手の立場も損なわない。身分の低い使用人にも丁寧に接し、自分の働きをことさらに誇ろうともしない」
「仕事をしていただけです」
「その仕事の仕方を含めて、あなたに心を寄せました」
困った。
いっそ性格の悪い男ならよかった。
使用人を見下すとか、浪費癖があるとか、家族へ横暴だとか。そうであれば、堂々と拒む理由になる。
フィリップ様は誠実だった。仕事もできる。話をしていて不快に感じたこともない。
男であるという一点を除けば、断る理由が見当たらない。
そして、その一点だけは誰にも説明できない。
「あなたが婚姻を望んでいないことは、ソフィア様から伺っています」
「そこまで話したのですか」
「私が尋ねたのよ」
お嬢様が答えた。
「フィリップ様がどこまで本気なのか、確かめる必要があるでしょう」
「私の知らないところで確かめないでください」
「あなたに直接聞いたら、何も始まる前に断ると思ったもの」
正しい。
それができる段階で知っていれば、何か理由をつけて逃げた。
「私は、すぐに婚約を結んでほしいと申し上げているわけではありません」
フィリップ様が言った。
「まずは両家が同席する対面の席で、婚姻後の暮らしについて話す機会をいただきたい」
「私が、今後も侍女を続けたいと申し上げたら?」
「婚姻したまま、ソフィア様の専属侍女として働き続けることは難しいでしょう」
フィリップ様は、都合のよい約束をしなかった。
「私は、妻となる方を侍女として扱うつもりはありません」
やはり駄目だ。
私は侍女でいたい。
毎朝お嬢様の髪を結い、似合う服を選び、焼き菓子を食べすぎれば取り上げたい。
妹分を眺め、世話を焼き、時折呆れられながら一生を終えたい。
侯爵家の次男の妻など、私の人生設計には一行もない。
「ただ、ソフィア様の近くで暮らすことはできます」
フィリップ様は続けた。
「私は当面、本邸で兄を補佐します。将来、南部の所領を預かったあとも、本邸との往来は続きます」
私の逃げ道を塞いでいるつもりはないのだろう。
だが、悪い条件ではないことを一つずつ示されるほど、こちらの立場がなくなる。
「本日は、ここまでにいたしましょう」
侯爵夫人が言った。
「十日後、フォルク男爵夫妻を迎え、両家の対面の席を設けます。それまでに、エリナ嬢も心を整えておくように」
「対面は、もう決まっているのですか」
「あなたの父君が、すでに王都へ向けて出立なさいました」
遅かった。
私が知ったときには、すべてが動き始めていた。
「何か、ございますか」
侯爵夫人が尋ねる。
ここで言わなければならない。
結婚したくありません。
私は一生、お嬢様の侍女でいたいのです。
口を開きかける。
その横で、お嬢様がこちらを見ていた。
不安そうな顔ではない。
期待している顔だった。
私がフィリップ様と結婚すれば、主人と侍女ではなく、義理の姉妹になれる。この屋敷に近い場所で暮らし、これからも家族として行き来できる。
お嬢様は、きっと心から、この縁談が私のためになると思っている。
実家も喜んでいる。
母は持参品を調べ、父は王都へ向かっている。
侯爵家も、男爵家の娘である私を、次男の妻として迎えるつもりでいる。
私はゆっくり口を閉じた。
「……ございません」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「では、対面の日程は予定どおりに」
侯爵夫人が言った。
フィリップ様は私へ一礼し、レオナルト様とともに部屋を出ていった。
侯爵夫人も、父からの手紙を私へ渡して退出する。
部屋には、私とお嬢様だけが残された。
扉が閉じた途端、お嬢様がこちらへ寄ってきた。
「エリナ」
「何も申し上げません」
「まだ何も聞いていないわ」
「お顔を見れば分かります」
「フィリップ様を嫌っているの?」
「嫌ってはおりません」
「話していて楽しい?」
「仕事や本の話であれば」
「誠実な方だと思う?」
「思います」
「条件も悪くないわ」
「お嬢様」
「私の義妹になれば、これからも近くにいられる」
「やはり、それが一番の理由ですね」
「それは否定しないけれど……」
お嬢様は少しだけ姿勢を正した。
「私はあなたの主人よ。だから、私の都合だけで婚姻を命じるつもりはない」
「もう十分に勧めておられます」
「勧めてはいるわ」
あっさり認められた。
「だって、フィリップ様は良い方だもの。あなたの仕事も性格も分かったうえで、妻に望んでくださっている。家柄も問題ない。お父上もお母上も喜んでいらっしゃる」
一つずつ逃げ道を塞がれていく。
「それに」
お嬢様は、少し照れたように笑った。
「あなたが本当の妹になってくれるなら、私は嬉しいわ」
それを言われると弱い。
私はお嬢様を、ずっと妹のように思ってきた。
当人にそのつもりはなくても、今度は向こうが、私を妹にしようとしている。
何かが致命的に間違っている気がする。
「あなたは、私の侍女でいることを、結婚しない理由に使っているでしょう」
「私は本当に、この仕事を続けたいのです」
「それは分かっているわ」
お嬢様は私の顔を見た。
「でも、それだけで、ほかの生き方を全部閉じるのは違うと思う」
「私は閉じたいのですが」
「どうして?」
答えられない。
男の妻になりたくないからだ。
夫婦として寝台を共にする自分など、考えたくもないからだ。
だが、それを今の私の言葉として説明すれば、フィリップ様個人を嫌っているように聞こえる。
前世のことを話さない限り、本当の理由にはたどり着かない。
「私が怖がっていたとき、あなたが言ったのよ」
お嬢様は続けた。
「分からないことは尋ねればいい。話し合える相手か確かめろ、と」
「自分へ返ってくるとは思いませんでした」
「あなたも、まずフィリップ様とお話しなさい」
「対面へ出れば、断りにくくなります」
「もう十分、ほとんど断れないでしょう?」
「お嬢様」
「事実よ」
高潔な主人は、こういうときだけ妙に正直だった。
「衣装は青がいいわね」
「なぜ衣装の話になるのです」
「男爵令嬢として対面へ出るのよ。侍女服では駄目でしょう」
「持っているドレスで十分です」
「若草色も似合うけれど、フィリップ様は青がお好きだそうよ」
「なぜそこまでご存じなのです?」
「レオナルト様に聞いたから」
お嬢様は立ち上がると、侍女を呼ぶ鐘へ手を伸ばした。
「待ってください」
「何?」
「まだ正式な申し入れではありません」
「だから、対面のための支度をするのよ」
「婚約するとは決めておりません」
「お父上は、もうこちらへ向かっているわ」
「それは先ほど聞きました」
「お母上は、持参品を選んでいらっしゃる」
「それも読みました」
「フィリップ様は、あなたを妻に望んでいる」
「聞きました」
「私は賛成よ」
「それが一番困っています」
鐘が鳴った。廊下から侍女の返事が聞こえる。
「青と若草色のドレスを持ってきて」
お嬢様が、入ってきた侍女へ命じた。
「お嬢様、二着も必要ありません」
「比べなければ決められないでしょう」
「決めるのは衣装ではなく、婚姻を受けるかどうかです」
「それは対面のあとに考えればいいわ」
対面へ出る。父母が同席する。侯爵家から正式な申し入れがなされる。
両家がすでに賛成している中で、私一人が断る。
そんな真似ができるはずがない。
お嬢様も、それを分かっている。
分かっていながら、本気で私のためになると信じているから、嬉しそうにドレスを選んでいる。
私は一生、お嬢様の侍女でよかったのに。
毎朝髪を結い、寝坊を叱り、菓子を食べすぎれば取り上げる。立派な侯爵夫人になっていく姿を近くで眺め、たまに昔のような顔を見せれば内心で可愛がる。
それだけで満足だった。
それなのに、なぜか主人の嫁ぎ先で、その弟君から妻に望まれている。
実家は喜び、主人は猛然と背中を押し、当人は誠実で、断るためのまともな理由さえない。
「まずはこちらから合わせましょう」
お嬢様が青いドレスを私の胸元へ当てる。
「お嬢様」
「何?」
「私は、結婚したくありません」
せめてもの抵抗として、正直に言った。
お嬢様は少し考えたあと、にっこり笑った。
「では、フィリップ様にそうお伝えしたうえで、どうすればよいか一緒に考えましょう」
話し合える相手か確かめろ。
かつて私が言った言葉を、また返された。
「エリナが正直に申し出ることができるなら、ね」
「……分かっていていってますよね」
逃げられない。
鏡の中では、侍女服姿の私に、お嬢様が青いドレスを重ねている。
お嬢様の嫁入り支度は、とうに終えたはずだった。
次に着せ替えられるのが自分になるなど、私の予定表には一行も書かれていない。
どうしてこうなった。