【あらすじ】 ユウカに厳しく叱られると、なぜか仕事が捗る。
その事実に気づいた先生は、徹夜で凝り固まった背中を前に、ユウカへあるお願いをしようとする。
しかし肝心な部分だけをノアに聞かれ、シャーレに取り返しのつかない誤解が広がり始めてしまう。
会話中心の短編コメディです。 キャラクターの口調や関係性には注意していますが、独自解釈を含みます。
【注意】 ・誤解を招く台詞 ・非性的な足圧マッサージ ・先生の過労表現 ・ユウカとノアによる先生への追及
ユウカ「駄目です」
先生「まだ何も言ってないよ」
ユウカ「先生の顔を見れば分かります。どうせ、ろくでもないお願いでしょう?」
シャーレの執務室。
ユウカは提出された経費報告書から顔を上げると、疑いに満ちた視線を先生へ向けた。
机の上には、三日分の領収書と、計算の合わない帳簿、正体不明の通販サイトから届いた納品書が並んでいる。
先生はその向かい側で、両手を膝の上へ置き、珍しく姿勢よく座っていた。
先生「今回は経費の相談じゃないんだ」
ユウカ「では、何ですか?」
先生「少しだけ、踏んでほしい」
室内が静まり返った。
壁掛け時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てる。
ユウカは瞬きすらせず、先生を見つめていた。
先生「ユウカ?」
ユウカ「……聞き間違いでしょうか」
先生「少しだけ踏んでほしいんだ」
ユウカ「二回言わなくていいです!」
ユウカが机を叩いた。
領収書が数枚、空中へ舞い上がる。
ユウカ「先生は、いったい私に何をお願いしているんですか!?」
先生「だから、私を――」
ノア「ユウカに踏んでもらいたい、と」
執務室の扉が開いていた。
そこに、白い髪の少女が立っている。
ノアは口元に柔らかな笑みを浮かべ、端末の録音画面を先生へ見せた。
先生「ノア。いつからそこに?」
ノア「『今回は経費の相談じゃない』というところからです」
ユウカ「ほぼ最初からじゃない!」
ノア「いえ、まさか先生にそのような願望があったとは。長く記録係を務めていますが、まだまだ知らないことがあるものですね」
先生「待って。誤解だよ」
ノア「もちろんです。私はまだ何も決めつけていません」
ノアは端末へ視線を落とす。
ノア「ただ、『ユウカに少しだけ踏んでほしい』という先生の発言を、発言どおりに記録しているだけです」
ユウカ「それを記録しないで!」
ノア「すでに自動保存されています」
先生「削除してくれる?」
ノア「理由を説明していただければ検討します」
ノアは空いていた椅子へ腰を下ろした。
完全に見届ける構えだった。
ユウカは頬を赤くしたまま、先生へ向き直る。
ユウカ「説明してください」
先生「実は、昨日から背中が痛くて」
ユウカ「背中?」
先生「椅子で寝ていたから、凝り固まってしまったみたいなんだよね。それで、足圧マッサージというものを思い出したんだ」
先生は端末を取り出し、保存していた健康情報の記事を表示した。
画面には、専門家が足裏で背中へ圧をかけるマッサージ方法が紹介されている。
ユウカ「……つまり、背中を踏んでほしいという意味ですか?」
先生「最初からそう言ってるよ」
ユウカ「主語も目的も説明も足りていません!」
先生「ごめん」
ノア「なるほど。誤解が解けましたね」
ノアは微笑みながら端末を操作した。
ノア「先生がユウカに、背中を踏んでもらいたいとお願いした。そう記録を修正しておきます」
ユウカ「余計にしっかり記録しないで!」
先生「それで、お願いできるかな?」
ユウカ「できません!」
先生「そうだよね……」
先生は目に見えて肩を落とした。
その動きだけで背中に痛みが走ったのか、途中で顔をしかめる。
ユウカの眉がわずかに動いた。
ユウカ「そもそも、どうして私なんですか?」
先生「ユウカなら、力加減を正確に計算してくれそうだから」
ユウカ「他にも理由があるでしょう?」
先生「他?」
ユウカ「アスナやトキにお願いするとか、セリナに診てもらうとか、専門の施設へ行くとか!」
先生「セリナには、今日中に仕事を終えないなら強制的に休ませると言われていて」
ノア「それは、診察を避けているだけでは?」
先生「そうとも言うね」
ユウカ「今すぐセリナに連絡します」
先生「待って、ユウカ」
ユウカが端末を取り出す。
先生は慌てて止めようとしたが、背中を痛めているため動きが鈍い。
身を乗り出したところで、机の端に膝をぶつけた。
先生「痛っ」
ユウカ「もう! じっとしていてください!」
ユウカは先生の肩を掴み、椅子へ座らせた。
動くなと言い聞かせるように、両肩をしっかり押さえる。
先生は素直に姿勢を正した。
先生「やっぱり、ユウカに厳しくされると落ち着くね」
ユウカ「……はい?」
ノア「おや」
ノアの目が楽しそうに細められる。
先生「最近、ユウカに叱られながら仕事をすると、普段より集中できることに気づいたんだ」
ユウカ「それは、叱られないと仕事をしない習慣がついているだけでは?」
先生「そうかもしれない」
ノア「それで『踏んでもらいたい』という結論へ?」
先生「背中の痛みも取れて、仕事も捗るかもしれないと思って」
ユウカ「私を何だと思っているんですか!」
先生「頼りになる会計担当」
ユウカ「そういうことを言えば許されると思わないでください!」
ユウカは先生の肩から手を離した。
しかし、完全に突き放すことはできないらしい。背中を気にするように先生の周囲を一周し、姿勢や椅子の高さを確認する。
ユウカ「どのあたりが痛むんですか?」
先生「肩甲骨の少し下かな」
ユウカ「押すと痛みます?」
先生「たぶん」
ユウカ「たぶんでは分かりません」
ユウカが指先で、先生の背中を軽く押した。
先生「そこだね」
ユウカ「かなり硬くなっていますね……」
ノア「触っただけで分かるものなのですか?」
ユウカ「ずっと同じ姿勢でいたからです。先生、この書類を最後に確認したのは何時ですか?」
先生「今朝の四時かな」
ユウカ「現在時刻は?」
先生「午後三時だね」
ユウカ「その間、休憩は?」
先生「ユウカが来る前に、少し机へ突っ伏していたよ」
ユウカ「それは休憩ではありません!」
ユウカの指が、もう一度先生の背中を押す。
先ほどよりも少し力が強い。
先生「効くね」
ユウカ「……妙に満足そうな顔をしないでください」
先生「ユウカは上手だね」
ユウカ「褒めても何もしませんから」
そう言いながらも、ユウカは何度か位置を変えて背中を押した。
ノアはその様子を興味深そうに見守っている。
ノア「手で押すだけでも、十分なのでは?」
ユウカ「そうですね。踏む必要はありません」
先生「少し残念だな」
ユウカ「どうして残念そうなんですか!?」
先生「せっかくお願いする覚悟を決めたから」
ユウカ「その覚悟を、仕事に使ってください!」
ユウカが再び机を叩く。
その衝撃で、一枚の領収書が床へ落ちた。
ノアが拾い上げる。
ノア「先生。こちらは何の領収書でしょう?」
先生「どれかな?」
ノア「『特大ペロロ抱き枕、疲労回復仕様』とあります」
ユウカ「……先生?」
先生「健康のために必要だったんだ」
ユウカ「経費で買ったんですか?」
先生「シャーレの仮眠環境を改善すれば、業務効率も上がると思って」
ノア「数量は三点となっていますね」
ユウカ「どうして三つも必要なんですか?」
先生「洗い替えと予備かな?」
ユウカ「返品してください」
先生「でも、もう使ってしまったから」
ユウカのこめかみに青筋が浮かぶ。
ノアは静かに端末の録音を開始した。
ノア「先生。先ほど、ユウカに叱られると仕事が捗るとおっしゃっていましたね」
先生「うん」
ノア「よかったですね。しばらく集中できそうです」
先生「ノア?」
ユウカは眼鏡を押し上げた。
先ほどまでの動揺は消えている。代わりに、冷静な会計担当の顔が戻っていた。
ユウカ「先生。とりあえず、床に正座してください」
先生「え?」
ユウカ「領収書を一枚ずつ確認します」
先生「椅子では駄目かな?」
ユウカ「駄目です」
先生「背中が痛いんだけど」
ユウカ「自業自得です」
先生「厳しいね」
ユウカ「うれしそうにしないでください!」
先生は机の横に正座した。
ノアが領収書を日付順に並べ、ユウカへ渡していく。
ユウカ「まず、この抱き枕三点」
先生「必要経費として認めてもらえるとうれしいな」
ユウカ「却下です」
先生「もう少し検討を」
ユウカ「却下」
ノア「二秒で結論が出ましたね」
ユウカ「次。深夜のデリバリー代」
先生「夜食だよ」
ユウカ「一人分にしては多すぎます」
先生「配達員さんもお腹が空いているように見えたから、一緒に注文したんだ」
ノア「先生らしい理由ですね」
ユウカ「美談にしないでください!」
ユウカが身を乗り出した拍子に、先生の膝の近くへ落ちていた領収書を踏んだ。
先生「あ」
ユウカ「何ですか?」
先生「今、踏んだね」
ユウカ「領収書をです!」
先生「お願いの半分くらいは叶ったのかな」
ユウカ「まったく叶っていません!」
ユウカが領収書を拾おうとして、足を引く。
その足元で、長時間の正座に耐えられなくなった先生が姿勢を変えようとした。
タイミングが重なった。
ユウカの靴底が、先生の足の甲へ軽く乗る。
先生「あ」
ユウカ「あ」
ノア「おや」
三人の動きが止まった。
ユウカは慌てて足を浮かせる。
ユウカ「ご、ごめんなさい! 痛くありませんでしたか!?」
先生「大丈夫だよ」
ユウカ「本当に?」
先生「うん。お願いも一応叶ったし」
ユウカ「今のは事故です!」
ノア「しかし、『ユウカに踏んでもらう』という目的自体は達成していますね」
先生「そうだね」
ユウカ「二人とも変な結論を出さないでください!」
ユウカは顔を赤くして反論した。
それから先生の足へ視線を落とし、怪我がないことを確かめる。
ユウカ「……本当に、痛くないんですね?」
先生「大丈夫。心配してくれてありがとう」
ユウカ「当然です。生徒が先生に怪我をさせるわけにはいきませんから」
ノア「では、背中のほうはどうします?」
先生「可能なら、引き続きお願いしたいかな」
ユウカ「踏みません!」
先生「やっぱり駄目?」
ユウカ「当たり前です。素人が下手に踏んだら、余計に悪化するかもしれません」
ユウカは少し考え込み、端末を取り出した。
ユウカ「近くの治療施設を予約します。そのあと、シャーレの椅子と仮眠環境を見直します」
先生「ペロロの抱き枕は?」
ユウカ「返品です」
先生「一つくらいは残してもいいんじゃないかな」
ユウカ「駄目です」
先生「そこを何とか」
ユウカ「駄目なものは駄目です」
先生が肩を落とす。
ユウカは呆れたように息を吐いた。
そして周囲に誰もいないことを確認するように、扉へ目を向ける。
もちろん、ノアはすぐ隣にいた。
ユウカ「……一回だけですからね?」
先生「え?」
ユウカは先生の背後へ回る。
床へ座るよう指示し、肩へ両手を置いた。
ユウカ「足ではなく、手です。これ以上変なことを言わず、じっとしていてください」
先生「マッサージしてくれるの?」
ユウカ「今日だけです」
ユウカの指が、凝り固まった肩をゆっくり押した。
先生「効くね」
ユウカ「相当ひどいですよ。これからは一時間ごとに立ち上がってください」
先生「うん」
ユウカ「椅子で寝ない」
先生「気をつけるよ」
ユウカ「食事を抜かない」
先生「努力する」
ユウカ「努力ではなく、守ってください」
ユウカの指へ少し力が入る。
先生「分かった。守るよ」
ユウカ「よろしい」
満足そうに頷くユウカを、ノアが微笑みながら眺めていた。
ノア「それにしても、先生の願いが叶ってよかったですね」
ユウカ「だから、踏んでません!」
ノア「先ほど、足の甲を」
ユウカ「あれは事故です!」
先生「私は満足してるよ」
ユウカ「先生は黙っていてください!」
肩へ込められる力が強くなる。
先生「少し痛いかな」
ユウカ「自業自得です!」
先生「でも、仕事は捗りそうだね」
ユウカ「マッサージが終わったら、朝までに帳簿を全部修正してもらいますから」
先生「朝まで?」
ユウカ「安心してください。私も監督します」
ノア「私も記録係として残りますね」
逃げ道を失った先生は、机の上に積み上がった領収書を見た。
ユウカに踏まれるという願いは、一応叶った。
その代償として、先生の睡眠時間は完全に踏み潰されることになった。