そんな彼に一匹の名もないポケモンが寄り添い、やがて彼を守るために命を落とす。その死をきっかけに、主人公はポケモンのような強大な「光線」の力を身につける。そして森の遺跡で長い年月を過ごした後、調査団に発見され、伝説的なポケモントレーナーであるシロナに保護される。
シロナとの穏やかな共同生活の中で、主人公は少しずつ人間らしい感情と生活を取り戻していく。しかし、自分の正体と「人間ではなくなっていく」という恐ろしい運命が明らかになる。
そしてついには、主人公自身が人間の姿を失い、ポケモンへと変化してしまう。それでもシロナは彼を変わらず「あなた」と呼び続ける。主人公は、名前も過去も姿も失いながら、それでも「自分は自分なのか」という問いを抱え、シロナとともに自分の正体と、この世界に来た意味を探していく。
朝はいつも決まった時間に起きる。目覚まし時計のベルが鳴る前に自然と目が覚めるようになって、もう何年になるだろうか。
窓の外では鳥がさえずり、東の空が淡く色づきはじめている。妻はまだ寝ている。子供は中学三年生で受験戦争真っ只中だ。
静かな朝だった。洗面所で顔を洗い、髭を剃り、服を着替える。いつものように黒いシャツに黒いジャケット。時計の針が七時半を指す頃、トーストの香ばしい匂いと、妻が淹れてくれたホットミルクの湯気が、ささやかな幸福を知らせてくれる。
八時。玄関を出て、車に乗り込む。エンジンをかけると同時にラジオが流れ出すが、すぐに音楽に切り替えて、お気に入りのプレイリストを再生する。90年代の邦楽、少し懐かしい洋楽、そして最近は息子が勧めてきた新しいアーティストの曲も混じっている。
アクセルを踏みながら自然と口ずさむ。思いのほか声が出る日もあれば、無意識にリズムだけを刻む朝もある。
通勤は片道およそ20分。街が目覚め始める時間、信号待ちの合間にふと歩道に目をやる。制服姿の女子高生、派手な服を着た若い女性、誰かに似ている後ろ姿。そんな瞬間に、遠い昔の記憶がふとよみがえる。
そういえば、高校のとき、クラスのマドンナと呼ばれていた女の子がいた。特別仲が良かったわけではない。ただ、教室の隅から彼女の笑顔を見るだけで、なんとなくその日が明るくなるような気がしていた。告白なんてできるはずもなかった。ただ、胸の奥に小さな灯がともっていた。それだけで十分だった。
今はもう、そんなことを思い出すことすら少なくなった。だが、何かの拍子に、あの透明な時間の欠片が、ふっと胸をくすぐってくる。
職場に着けば、顔つきが変わる。仕事一筋、20年以上。コツコツと積み上げてきたものがある。誇れるような技術ではないかもしれないが、どんな時でも人の話に耳を傾け、相手の目を見て話すことは忘れなかった。上司には笑顔で頭を下げる。部下には気を使いながらも、厳しさを忘れない。誰かが失敗すれば、陰でフォローを入れる。
「主任さんがいれば安心ですね。」
そう言われたときの誇らしさが、また明日も頑張ろうという気にさせる。
家に帰れば、晩酌をしながらテレビを観て、他愛のない話を妻と交わす。今日も特別なことはなかった。だが、何もなかったということが、どこかありがたいと感じるようになった。
そんな毎日を、ただ黙々と、丁寧に生きている。普通と言われれば、きっとそうだろう。けれどその普通のなかに、小さな喜びや、誰にも語らぬ記憶が確かにあって、それが時折、胸の奥で静かに光っている。
休日の朝は、平日よりほんの少しだけ長く眠る。といっても、8時には目が覚めてしまう。歳を重ねるにつれて、体が自然とリズムを覚えてしまったのかもしれない。隣室では妻がまだ眠っている。穏やかな寝顔を想像しながら、そっと廊下を抜けて、静かにリビングへ向かう。
窓のカーテンを開けると、光が優しく差し込んできた。昨夜の雨がすっかり上がって、庭の緑が潤んでいる。鳥の声と、遠くで犬の鳴き声が混ざる朝。テレビもつけず、スマホもつけず、ただパンを焼く。
リビングのソファに腰を下ろし、マグカップを両手で包む。休日の朝というのは、どこか音の粒が柔らかくなるような気がする。時間がふわりと浮いていて、息をするだけで、ほんのり幸福になる。
妻が起きてきて、何気ない会話を交わす。
「今日どうする?」
「んー、買い物行って、帰りにどこか寄る?」
「いいね、久しぶりにあのパスタでも……。」
「アンチョビのピザもいいよね?」
「あそこ、生ビールが美味しいのよ。」
顔を見合わせて笑う。そういう時間が、きっと一番大切なのだと思う。
午前中は、洗濯。一緒に洗いたてのシャツを干す。タオルの皺を伸ばさないと妻に叱られる。それからスマホのニュースを見て、ああでもない、こうでもない、とくだらない会話を重ねる。
昼前、ふたりでスーパーへ向かう。カートを押すのはオレの役目で、妻はいつも横にいる。たまにお菓子や新商品のカップ麺をこっそりカゴに入れて、「またそんなの買って……。」と笑われるのが、ちょっとした楽しみだ。
「でもさ、こういうのが意外と美味しかったりするんだよ。」
「はいはい、夜中にお腹空いたら食べようね。」
帰り道、あのパスタ屋に寄る。レトロな内装に、硬い椅子。昼過ぎで空いていて、窓際の席に座る。ポモドーロとマルゲリータを頼み、生ビールを飲みながら、静かな満足感が胸に満ちていく。
帰宅して、午後は少し昼寝をする。テレビをつけっぱなしにして、ソファに横になれば、まぶたが自然と重くなる。少し夢を見る。
夕方になると、庭の草を少し抜いて、洗濯物を取り込む。日が落ちるのがゆっくりで、空の色が刻々と変わっていく。近所の子供の声が聞こえる。そういえば、うちの子もあのくらいだった頃、あれ買ってくれ、これ買ってくれ、とせがまれた。あれから、ずいぶん時が流れた。
晩ご飯は、妻が作る煮込み料理。台所から漂う湯気と、だしの香り。テレビではお笑い番組が流れていて、ふたりで並んでそれを観ながら、つい笑ってしまう。
夜。湯船に浸かりながら目を閉じる。今日も、特別なことはなかった。けれど、穏やかで、柔らかく、静かに心が満たされた。何も起きない日も、大切な一日。それを忘れずにいられるうちは、きっと大丈夫だ。
湯の中で目を開けた瞬間、違和感が走った。目に沁みるはずの湯が、どこか澄んで見える。いや、それよりもまず、視界に映る景色が違う。
白いタイルの壁、磨き込まれた檜の縁、照明の光がやわらかく反射する。ここは自宅の風呂ではない。否、見覚えすらない。まるで旅館のような、だがどこか違和感のある空間。
ふと、壁に掛かった鏡が目に入った。湯気に曇るはずのその鏡に、くっきりと映った自分の顔。若い。ありえないほど、若返っていた。頬は引き締まり、目は澄んでいる。若い頃、まだ肌に張りがあった時期。まるで時を巻き戻したような顔立ちだ。
訳が分からないまま湯船から上がり、浴衣のようなものを羽織って廊下に出ると、木造建築のどこか懐かしい宿が広がっていた。だが、窓の外には見たこともないような風景が広がっていた。
真っ青な空に、浮かぶ雲。舗装された道の先を、小さな茶色の……四つ足の生き物が歩いている。耳が大きく、ピンと立っていた。
ポケモンだ。名前は知らないが、テレビで見たことがある。子供たちが夢中になる世界の、あのキャラクター。そう思った瞬間、背筋がぞくりと冷えた。
「ここは、ポケモンの世界なのか?」
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。ふかふかの布団に沈みながら、自分の掌をじっと見つめた。細くなった指。節くれだった手の甲が、滑らかになっている。
「……オレは、死んだのか?」
思わずそうつぶやいていた。あまりに現実離れした状況。まるで異世界転生ものの小説の中に入り込んだような。けれど、そういった作品のように、テンプレが自分に備わっているわけではなかった。
そもそも、ポケモンをプレイしたことがない。世代だったはずなのに、ゲームには疎かった。友達の話についていけず、部活と勉強に明け暮れた学生時代。
「今さら、どうすればいいんだ……。」
自問する。人生を積み重ね、家族を持ち、仕事に追われ、休日のささやかな幸福に癒されていた。それが、すべて奪われた。否、切り離された。
妻は? 子は?
あのリビングのソファ。あの香ばしい朝のトースト。車のハンドルを握りながら歌った曲。あの普通の、だけどかけがえのない日々は? 布団に顔を伏せ、ただ静かに目を閉じる。
今は何も分からない。ただひとつ言えるのは、自分は確かにここにいるということ。若い体に、歳月を積み重ねた精神を宿したまま。果たして、これはやり直しなのか。それとも、試練なのか。あるいは、単なる罰なのか。答えは、まだどこにもない。
布団の上で、そっと身体を起こしてみる。その瞬間、自分の体がふわりと動いたことに、思わず息を飲んだ。
軽い。あり得ないほどに軽い。関節のきしみも、背中の張りも、腰の鈍痛もない。いつもなら、朝の寝起きには「よいしょ。」と声をつけなければ体を起こせなかった。肩が固まり、膝を伸ばすとパキパキと音がしていた。だが今は、まるで羽根でも生えたように、身体が自然に起き上がる。
立ち上がって、足踏みをしてみる。スッ、スッ、と音もなく動く脚。
鏡に映る自分は、明らかに学生の頃の姿をしていた。無意識に動いても正確に筋肉が反応したあの感覚が、今、確かにこの身にある。
「……なんだこれ……。」
つぶやいて、ふと苦笑が漏れる。得たものは確かにある。けれど、失ったものの重みは、それを遥かに凌いでいる。
再びベッドに腰を下ろし、仰向けになる。天井を見上げる。木目が走る天井板。薄明かりが照らすその平面を、じっと眺める。まるで天国のような静けさだ。だが、ここが知らないどこかであることに変わりはない。
元の世界に戻れるのか。戻ったところで、どれだけの時間が経っているのか。それとも、戻るという選択肢など最初から存在しないのか。そんなことを考えているうちに、ふと気づく。
「……妻は、今、どうしているんだろう。」
「子どもの……受験は……。」
「この世界に来る前、あのとき何をしていたっけ……。」
記憶が曖昧だ。断片はあるのに、まるで夢の中の出来事のように輪郭がぼやけていく。確かなのは、自分がこの異世界の、ポケモンのような生き物がいる場所にいるという事実だけ。
胸にぽっかりと空いた穴を、手でそっとなぞる。 軽くなった身体に、重くなった心がそっとしがみついているようだった。
生きるしかない。それがどんな場所であれ、どんな姿であれ。今はただ、天井を見つめる。自分がこの場所にいる理由が、少しでも見えてくるまで。
天井を見つめて、目を閉じる。意識のどこかに指を這わせるようにして、記憶をなぞっていく。小さな音がする。風の音か、それとも記憶の残響か。耳を澄ませば、懐かしいあの世界の匂いが微かに蘇る。
朝、目覚ましの音より早く目を覚まし、窓のカーテン越しに射す朝日を浴びる。妻の寝息。キッチンから漂うミルクの匂い。スマホの光。食卓で交わす短い会話。
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
何気ない言葉。それなのに、今となっては永遠のように遠い。
通勤の車の中。助手席にカバンを投げて、音楽をかける。声を張って歌ったあのメロディ。アクセルを踏む足、朝焼けの空。会社の駐車場に着く。
「おはようございます!」
「……おう、今日もがんばろう。」
ありふれたやりとり。でも、その一つひとつが、今はもう手の届かない宝物のようだ。職場では、机に向かい、電話を取り、頭を下げ、手足を動かす。相談、調整、謝罪。部下のミスをかばっても、苦じゃなかった。むしろ、自分の居場所があるという確かな実感が、心を支えていた。
そして、家に帰ると、灯りがついていた。妻がテレビを観ながら、笑っていた。子どもはいつの間にか大きくなって、自分の部屋にこもるようになっていたけれど、朝には必ず「行ってきます。」と言ってくれていた。
食卓に並ぶいつもの味噌汁。臭い足に鼻を曲げ、照れ笑いでごまかした日々。それが、確かにあった。
「なんで……オレは、ここにいるんだ……?」
声にならない声が、喉の奥に溜まる。目の奥が、じんわりと熱くなる。元の世界に戻れなかったとして、あの毎日は、幻だったのか?否、違う。あれは、紛れもなく現実だった。普通と言われる毎日の中で、どれだけのものを自分は愛していたか。決して声に出さなかったけれど、心の奥で幸せだと何度もつぶやいていた。それを、自分は忘れていなかった。
布団の上で小さく丸まりながら、そっと胸元を押さえる。鼓動が、確かに打っている。この若い身体に流れているのは、あの人生を歩んできた、自分だけの時間だ。ならば、たとえこの世界がどれだけ見知らぬものでも。ここでどう生きるかは、自分が選ぶしかない。
記憶は消えない。そして、自分はあの日々を無駄にはしない。ぼんやりと天井を見つめたまま、思う。
そういえば、宿代はどうなっているんだ? 見知らぬ宿。立派な建具、ふかふかの布団、きちんと整えられた部屋。誰が金を払っている? まさか、初対面の客に慈善で泊まらせているとは思えない。まさか、ツケか? 働かされるのか? 纏っている浴衣を脱いでみるが、やっぱり一文もない。……ヤバい。
脳裏にいくつもの可能性が浮かび、急に胸の奥がざわつき始めた。心臓が、ズキリと跳ねる。どこかで「金がない人間は、ここにいてはいけない。」と声がした。逃げなければ。なぜか、その考えが真っ先に浮かんだ。
真夜中、まだ街が静まりかえっているうちに、そっと扉を開けた。誰にも気づかれないように足音を殺し、非常口から外へ出た。夜風が肌を撫でる。顔にかかった前髪が、ずいぶん若返った自分を実感させる。
走った。ただ、どこかへ。振り返ると、あの宿が小さく遠ざかっていった。後悔はなかった。けれど、胸のどこかがひりついていた。
オレはこの世界の路上に身を置いた。身元もない、金もない、知識もない。ただ体だけが若いというだけで、何かが手に入るわけではなかった。ポケモンのこともわからず、町のルールも知らない。当然、誰かに頼ることもできない。
街のはずれの橋の下をねぐらにし、木の実を拾い、川の水を飲んだ。腹が減れば、その辺のキノコを食べてお腹を下した。夏は暑く、冬は寒い。雨が降れば濡れるし、虫にも刺される。それでも、オレは人にすがることはしなかった。
金を奪わなかった。物乞いをしなかった。理由は単純だった。今までの人生が、それを許さなかった。
オレには積み重ねた日々がある。誠実に働き、誰にも迷惑をかけず、できる限りのことをして生きてきた。家族のために、仲間のために、そして自分の誇りのために。たとえこの世界で名前を知られていなくても、オレの中には確かにそれがあった。
夜、焚き火を囲みながら、空を見上げる。星が滲む。少しだけ涙が出そうになる。腹が減っているだけじゃない。心が寂しいのだ。話す相手もなく、笑い声もない。けれど、オレは人の目を避けるようにして暮らし続けた。まるで透明人間のように、風の音だけを友にして。
ときどき、村の広場に子供たちが集まり、ポケモンたちと遊んでいるのが見えた。その笑顔を、遠くから見つめる。声をかけることはできなかった。それでも、なんとなく安心した。この世界には、ちゃんと優しさがある。そのことだけで、ほんの少し心が温まった。いつか、また歩き出せる日が来るのだろうか。誰かに出会い、名を呼ばれ、笑い合える日が。今はまだ、その資格が自分にはないように思えた。
その日もまた、風が冷たい朝だった。木々の葉がカサカサと音を立て、焚き火の煙が青白く空にのぼっていく。昨夜はほとんど眠れなかった。腹が減って、背中が冷えて、夢も見なかった。火にあたる手のひらを見つめる。骨張った指先。若返ったこの体にも、寒さと飢えは等しく訪れる。それでも、やはり人には頼れなかった。
「すみません。」「助けてください。」と口にすることは、オレにはできなかった。
そのときだった。木の茂みの奥から、サクッ、と小さな足音がした。反射的に立ち上がる。風のせいではない。何かが、確かに近づいてくる。しばらくして、藪の向こうからひょこっと顔を出したのは、見たこともない不思議な生き物だった。
大きな瞳。ふわふわの体毛。耳なのか羽なのか、左右に丸い突起を揺らしている。色は灰色に近い。
「……ポケモン……か?」
名前は分からない。だが、それがこの世界では普通に存在することだけは、本能的に理解できた。それは、子供たちが憧れ、仲間として迎え入れる存在。ただの動物ではない。それでも、目の前のこの小さな生き物は、オレのことをじっと見つめていた。警戒している風でも、怯えている風でもなかった。まるで、「ようやく見つけた。」とでも言いたげな目だった。
「……来るなよ。」
思わずそう口にしてしまう。関わりたくなかった。何かを失うのが怖かった。それに、オレはもう、誰かと笑い合えるような人間ではなかった。
けれど、それでも、そのポケモンは、ゆっくりとこちらに歩いてきた。ごそごそとポケットを探る。わずかに残っていた、前日に採った木の実を一つ差し出す。ポケモンは小さく鼻を鳴らし、迷うことなくそれを咥えた。その瞬間、心の奥に、小さな火が灯ったような気がした。温かくもなく、はっきりとした感情でもない。ただ、この世界で、初めて何かが自分に「手を伸ばしてきた。」ように思えた。
ポケモンは木の実を食べ終わると、満足そうにしっぽを揺らした。そして、火のそばにちょこんと座り、こちらを見上げる。
「……帰らなくて、いいのか?」
問いかけても、返事はない。だが、その体温が確かに傍にあった。それから、ポケモンは毎日現れるようになった。朝も昼も、雨の日も。名前も分からない。それでも、オレの足音を聞き分け、焚き火の前にちょこんと座って待っている。
ある夜、ふと思い立って、小さく笑ってみた。その笑みに反応するように、ポケモンがこちらに跳ねてきて、胸に頭をすり寄せた。涙が出そうになった。
「……お前、名前なんて言うんだ。」
もちろん、返事はない。けれど、そのまなざしが語っていた。
「名前なんてない。」
何かが、少しずつ、ゆっくりと、溶けていくのを感じていた。氷のように張り詰めていた心が、春先の雪解けのように、音もなく静かに。
その日も、朝から腹が減っていた。森の奥へと足を踏み入れ、木の実を探していた。薄暗い木立の下、踏みしめる土が湿っている。この辺りには時おり赤紫色の実がなる。あれを見つければ、今日一日をしのげる。
ポケモン。名前も知らないあいつは、いつも通り後ろをついてきていた。決して先には出ず、オレの一歩後ろを、静かに、けれど確かに歩いていた。
そんなときだった。空気がピンと張り詰めた。背後の草がガサリと音を立て、こちらを睨みつけるような息遣いが聞こえた。振り返る。クマだった。異様にでかい。鋭く光る目。よく見れば、この世界の生き物だ。普通のクマではない。爪と牙が異常に長い。
「ポケモン……なのか……?」
もはやそんなことはどうでもよかった。次の瞬間には、雄叫びとともにそれが襲いかかってきた。
「……ああ、終わったな……。」
膝が砕けそうになる。逃げられない。身を守る術もない。こんな形で、人生の幕が下りるのか。そう思ったそのときだった。背後から、まぶしい光が走った。金属音のような高音が耳を貫き、熱を帯びた風が横を通り過ぎる。見れば、あのポケモンがオレの前に立っていた。体中に光をまとい、口元から強烈な光線を放っている。まるで、自分のすべてをそこに注ぎ込むかのように。
ビームのような閃光がクマの体を打ち抜く。しかし、倒れない。クマは吠え、突進し、あいつはそれを避け、再び攻撃する。何度も。何度も。
「もう、いい! 逃げよう! やめろよ!」
オレの声は届かない。あいつは、オレを守るために戦っている。それだけは、はっきりとわかった。
最後の一撃。クマが倒れた。地面が揺れたような衝撃。そして、あいつは、その場にパタリと倒れ込んだ。
「……おい!」
駆け寄って、その小さな体を抱きかかえる。目を閉じている。息が浅い。熱い。体温が異様に高い。わけも分からず、必死で走った。地図も道も知らない。だが、とにかく下り坂を辿って、街の灯を目指した。
「誰か……っ、誰か助けてくれ!」
喉が裂けそうになるまで叫んだ。ようやくたどり着いたポケモンセンター。オレは受付の女性にそいつを差し出し、まともに説明もできず、ただ繰り返した。
「お願いします……助けてください……お願いします……!」
あの小さな体が、扉の向こうへと運ばれていく。白い灯り。機械音。オレは、ただ待つしかなかった。そして、しばらくして、看護師らしき女性が、ゆっくりと首を横に振った。
言葉が頭に入ってこなかった。耳鳴りがする。胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされるように痛んだ。オレは、その場に膝をついた。何も言えなかった。何も言いたくなかった。あいつは、オレを守って死んだ。この世界で、ただひとつオレに寄り添ってくれた存在が。名前も知らず、ただ目を見て通じ合っただけのあいつが。
涙が止まらなかった。若い身体の目から、どうしようもなく涙がこぼれて、こぼれて、止まらなかった。こんなにも苦しいのに、名前すら呼んでやれなかった。
オレは森の中へと戻っていった。背中は重く、足取りは沈む。呼吸が浅い。胸が冷たい。あいつが、いなくなった。この世界で、初めて通じ合えたあの存在が。
空は曇っていた。枝葉の隙間から射し込む光が、妙に白々しい。風が頬を撫でるたびに、あの小さな体温を思い出す。
オレは、あのクマを探した。戦いのあとの残骸。巨体が倒れた場所へと戻る。まだそこにあった。血が滲み、目を閉じ、もう動かない。
「……あいつが、こいつに……。」
目の奥が熱くなる。あいつは、オレを守るためにここで命を燃やした。たった一人で。涙がこぼれる。けれどそれは、すぐに怒りに変わった。
「……こいつ……!」
手を握りしめた。殴りたい。でも何も持っていない。ナイフも包丁も、手斧もない。
それは復讐でも、供養でも、生存でもあった。理由なんてどうでもよかった。吠えた。我を忘れて、森の中で吠えた。胸が焼けつくように熱くなる。すると、口の奥が光った。
「……まさか。」
あいつの光線。
オレが、放った? 信じられない。けれど、今は考える余裕などなかった。震える身体で、クマの巨体に向かってもう一度息を吸い込み、思いきり吐き出した。光線が走る。音がなく、ただ空気が歪む。クマの肉体が、一瞬にして引き裂かれた。骨、肉、皮がバラバラに吹き飛び、樹皮に赤黒いものがはねる。
「肉だ!」
オレは無我夢中で肉片を集めた。汚れた布で拭き取り、焚き火に並べ、串もないまま枝に刺して焼いた。焼け焦げた匂いが鼻を突いた。生焼けのまま口に運び、むさぼった。血が口の中に広がる。脂が舌にまとわりつく。胃が拒絶するようにうねったが、それでも食った。吐きそうになるのをこらえ、飲み込んだ。
「……生きるってのは、こういうことか……。」
涙がまた一滴だけ、こぼれ落ちた。今までの人生。規則正しく、誠実で、穏やかだった日々。それが今、こうして野生の中で、名も知らぬポケモンを失い、獣の肉をむさぼっている。それでも、オレは生きている。火に照らされる自分の手が、そう証明している。そして何より、あいつの光が、オレの中に残っていた。それが、なによりも確かなことだった。
ある日、食料を求め、森を彷徨い続けているうちに、オレはそれを見つけた。木々の合間、踏み慣れていない獣道を辿った先。視界の奥に、苔むした石の塊がぽつんと立っていた。近づいてみると、それは祠のようにも、古びた遺跡の入口のようにも見えた。風雨に削られ、石と石の隙間からは根が這い出ている。建築様式など分からない。けれど、どこか意志のようなものを感じた。
「……ここは、なんだ……?」
入口に立つと、古びた文字が彫られていた。読めない。言語自体が違うのか、それとも文字そのものが象形的なのか。ただ、言葉にならない圧力だけが、肌にじわりと染み込んでくるようだった。それでも、今のオレには関係なかった。
遺跡の中は想像以上に広く、乾いていた。雨風もしのげる。陽の光は差さないが、その分、冷えも少ない。何よりも、誰もいないという事実がありがたかった。
その夜、オレは祠の中で火を焚いた。木の実と、掘り出した根菜と、拾った山草。石を並べて火を囲み、じっくり炙った。焦げた苦味が口の中に広がる。だが、それも悪くなかった。食える。それだけで、今は十分だった。
この遺跡に巣食うことを決めた。石の床に草を敷き、骨を組んで簡単な棚を作った。川から水を運び、木の実の皮で作った容器に貯めた。文明的とは程遠い。だが、ここで生きられる。それだけで、十分だった。
目覚めれば、まず空を見上げた。晴れていれば、外へ出て食糧を探した。木の実を拾い、芋を掘り、葉の裏についた水を集めた。この森での生活は、毎日が同じようでいて、どこか違っていた。気温、風の流れ、鳥の声、匂い。世界は絶えず動いていた。そしてオレもまた、少しずつその一部になっていくような気がした。
かつては仕事でカレンダーを見て、時刻に合わせて動いていた。 今は、風の冷たさと腹の虫が、時間を教えてくれる。火を囲んでいると、ふと思い出す。あのポケモンが、静かに体を寄せてきた夜のことを。オレが、あいつの名を呼べなかった日のことを。
「……もし、あいつがここにいたら……どう思ったろう。」
誰も答えない。風が木々を撫でて、焚き火の火が揺れるだけだった。それでもオレは、生きている。生き延びているのではなく、生きていると、ようやく思えた。
食うために動き、雨を避けるために考え、火を絶やさぬように手を動かす。それは、原始のようでいて、どこか充実したものだった。あの遺跡の文字が、何を語っているのか。この場所に何が眠っているのか。そんなことは、今のオレにはまだわからない。ただ、ひとつだけ確かなのは、ここで、オレはようやく世界の中にいると思えた。
ある朝だった。焚き火の灯が尽きかけた頃。オレは藁くずで作った即席の寝床に横たわり、ぼんやりと天井の石を見上げていた。風が止み、森がやけに静かだった。遠くで木の軋む音が聞こえた気がした。それが人の足音だと気づいたのは、もうすぐ入口に影が差した頃だった。
「……誰かいるぞ!」
「中だ、明かりがある!」
複数の声。男も女もいる。やがて石の階段を踏み鳴らす音が近づき、数人の影が松明をかざしながらオレを取り囲んだ。
「……え? 人間……?」
「いや、待て。格好が……これは……原始人か?」
声に混じる困惑と警戒。彼らは調査団と名乗った。この森の奥に残された古代遺跡の調査のため、遠くの町から派遣されたという。彼らの服装は清潔で、言葉もはっきりしていた。
オレとは違う。全てが違った。オレは、立ち上がり、ぼさぼさの髪をかきあげながら言った。
「……オレは、人間だ……。」
声が掠れていた。長く誰とも喋っていなかったせいか、口の動きがぎこちない。調査団の数人が顔を見合わせる。その表情はまるで、幻を見ているのではとでも言いたげだった。
「……名前は?」
その問いが、ぽつりと投げられた。オレは口を開いた。けれど、出てこなかった。何度も脳を探った。舌を動かした。昔の記憶。会社、家庭、町並み。それらはぼんやりと霧の向こうに浮かんでいる。だが、名前が、ない。呼ばれていたはずの音が、見つからない。
「……オレは……。」
自分でも、驚いた。こんなにも、簡単なことだったはずなのに。さらに、思い出そうとした。妻の顔。子の名前。何も、出てこない。確かにいた。誰かと暮らしていた。笑ったり、喧嘩したり、温かいご飯を食べたり。けれど、それらの輪郭がどんどん曖昧になっていく。
「……誰だったっけ……オレの……家族……。」
目の奥が熱くなる。火の残り香が鼻を突いた。調査団の一人が、そっと声をかけた。
「君は……ここで、どれくらい暮らしていたんだ?」
わからない。時間の感覚なんて、とっくにどこかへ消えていた。月の満ち欠けも、木の葉の色も、ただの風景になっていた。
「……ずっと、ここにいた。」
自分の声が遠く聞こえた。まるで別人の言葉のようだった。そのとき、不思議なことに、あのポケモンの姿が浮かんだ。名前もなかった、小さな光。オレを守り、オレに力をくれた、あいつのことだけは、今でもはっきりと覚えていた。
「……あいつの名前も、ない……。」
膝から崩れるように座り込む。調査団の誰かが、「水を。」とか「報告を。」とか、何かを言っていた。でも、もう聞こえなかった。オレはただ、自分の中にぽっかり空いた穴を、必死で見つめていた。名前を忘れた男。過去をなくした男。ただ一匹のポケモンを、心の奥に抱いている、ひとりの人間。
その日の帰り道、オレは調査団の馬車の荷台に揺られていた。 目的地は、町。人の暮らす場所。オレにとって、それはもう遠い昔の世界だった。けれど、調査団の一人が名乗り出て、オレを保護してくれた。名をシロナといった。金色の長い髪が風にそよいでいる。黒いロングコートに身を包んだ彼女は、オレの隣に座り、ただ静かに森を見つめていた。
「あなた、ずいぶん長く……あの遺跡で暮らしていたのね。」
そう言った声は柔らかく、どこか懐かしい響きがあった。オレは黙ってうなづいた。名前を尋ねるでもなく、過去をしつこく問うこともなかった。ただ、ぽつりと「あなた。」と呼んでくれる。それが、妙に嬉しかった。
町へ着くと、まず彼女はオレを銭湯へと案内した。人の声、湯気、木の桶。すべてが懐かしくもあり、異質だった。長い髪と汚れきった身体を、オレはゆっくりと洗った。湯に沈めたとき、体中の傷と、記憶の穴が、少しだけ和らぐような気がした。
そのあと、シロナに連れられて理髪店へ。理容師はオレの髪と髭を見て、少し絶句したようだった。
「ずいぶんワイルドな…いや…、なんとかしますよ。」と苦笑いして、ハサミを握った。鏡の中の自分は、まるで他人だった。けれど、髪が整い、髭が剃られ、顔があらわになると、そこには確かに、人間の顔が戻っていた。
「……あなたって、意外と男前だったのね。」
ぽつりと、後ろからシロナが言った。その声に、思わず振り返る。彼女は、わずかに目を丸くしながらも、すぐに微笑んだ。
「ごめんなさい、ほら、ずっと獣みたいな姿だったから……でも、びっくりした。ちゃんと目を見てくれるのね。あなた。」
オレは、ただ俯いた。恥ずかしいというより、胸の奥がじんわりと温かくなったのだ。
「さ、帰りましょう。」
そう言ってシロナは歩き出し、オレはその背中を追った。
彼女の家は、町のはずれの高台にあった。書物とポケモンに関する資料がずらりと並ぶ、静かな空間。けれど堅苦しさはなく、日だまりのような匂いがする。リビングにはティーポットとカップが用意されていた。
「あなた、お茶って飲める? それとも、名前も味も忘れちゃった?」
彼女は笑いながら言った。オレも、少しだけ口元が緩んだ。
シロナは、名前をつけようとはしなかった。「あなた。」と呼びかけ、対等に接した。まるで、オレの過去に名前があったことを知っていて、無理にそれを押しつけないように。それが、たまらなく優しかった。
シロナの家には、朝の光がよく入った。高台にあるその家は、町を見下ろすように建っていて、朝になると白いカーテン越しに柔らかな陽が差し込んでくる。オレはいつしか、朝一番にその光を浴びるのが好きになっていた。目を覚ますと、まず背伸びをして、窓を開ける。町の匂い、遠くのポケモンたちの鳴き声、温かいパンの香り。それらが、オレがこの世界にいることを気付かせてくれる。
「おはよう、あなた。」
キッチンから、シロナの声が聞こえる。黒いロングコートはもう着ていない。家ではラフな格好だ。淡いベージュのシャツに、ゆるやかな長ズボン。髪は結んでいることが多い。
「今日はね、甘めのジャムを作ってみたの。朝ごはんに、どう?」
オレは小さくうなづく。言葉はまだ、たどたどしい。けれど、彼女は待ってくれる。急かさず、詮索せず、ただ今のオレを見てくれている。
朝食のあとは、一緒に庭を整えることが多かった。草を抜き、花に水をやり、小さな畑に根菜の種を植える。文明と自然が、ここでは緩やかに溶け合っている。
午後には、シロナの研究に付き合った。ポケモンに関する古文書を読み、遺跡の写真を整理し、簡単な記録を手伝う。読めなかった文字が、少しずつ読めるようになってきた。思考が戻ってくる感じがあった。言葉が、頭の中で意味を取り戻していく。
「そういえば、あなた……最近、よく笑うようになったわね。」
ある日、シロナがそう言った。
「……そうか?」
自分では気づかなかった。けれど、ふと手にしたティーカップの縁に、笑みが滲んでいた。
夜になれば、暖炉に火を焚き、暖かいスープをすすりながら小さな声で今日のことを話す。ときどき、シロナは昔の冒険の話をしてくれる。かつて戦ったポケモンたちのこと。訪れた土地のこと。オレはそれを黙って聞く。ときどき、うなづく。それで、十分だった。
そうして夜が更けて、眠りにつく頃。ふと、思う。こうして誰かと食卓を囲み、言葉を交わし、笑い合える日々は、やはり、温かい。
自分の名前は、まだ思い出せなかった。過去は霧の向こうにあるまま。けれど今は、それでもいい。「あなた。」と呼ぶ声がある限り、オレは、ここにいていい。そう思えた。
また別の日、窓から差し込む陽が柔らかく傾く。シロナは書斎に籠り、ポケモンの古文書を調べていることが多い。オレはその隣の部屋で、ほうきを持って廊下を掃いたり、庭の雑草を抜いたりして過ごしていた。ふと気づけば、誰に言われたわけでもなく、自然と役割が生まれていた。シロナの家に住む男として。名もない、けれど今ここにいる人間として。
彼女は、特別に優しくもしなければ、遠ざけもしなかった。オレが何かを尋ねれば丁寧に教えてくれ、オレが黙っているときは無理に話しかけたりはしない。けれど時折、何気なく話す言葉の中に、深い優しさが含まれていた。
「あなた、夕飯は何が食べたい?」
「今日はちょっと寒いから、シチューにしようか。」
「この花、この辺りにしか咲かないのよ。」
他愛のない言葉たち。けれど、それらが日々を形づくっていった。
ある日、少し遠くの市場へふたりで出かけた。ポケモン用の道具を買い、果物を見て、町の子どもたちが遊んでいるのを見た。その中のひとりが、ポケモンを肩に乗せていた。オレは、それをしばらく見つめていた。
「……何か思い出す?」
シロナがそう聞いた。
「いや……。」
言葉は途切れた。あの森で、オレのために命を燃やした、名も知らぬポケモン。温かさだけが胸の奥に残っていた。それを聞いたシロナは、「きっと、その子も、あなたのこと、ずっと見てるわよ。」
そう言ってシロナは、買い物袋を片手に歩き出す。その背中を見て、オレは不思議と安心した。夕暮れの道を、ふたりで歩く。たまに風が吹き、彼女の金色の髪が揺れる。オレは何も言わず、その後ろを歩いた。
名前がなくても、構わない。過去を失っても、今この時を、誰かと分け合えるなら。
夜、食卓を囲む。ろうそくの灯り。皿の上の温かな湯気。スプーンですくったシチューの味が、心に染み渡る。
「……うまい。」
オレがそうつぶやくと、シロナは少しだけ嬉しそうに笑った。
「そう言ってくれると、作り甲斐があるわ。」
それだけの会話が、今日は特別に胸に残った。
その夜は、ことさら静かだった。暖炉の火は小さく、時折パチリと音を立てて木を弾いた。外では風がゆるやかに草を撫でている。窓の外に白い月が浮かんでいた。
夕食を終えて、オレは湯を飲んでいた。甘く香る草花の香りが、口の奥にじんわりと広がる。シロナは、ソファに腰をかけて膝を抱き、しばらく黙って月を見ていた。何かを思い出しているような目だった。やがて、ぽつりとつぶやくように言った。
「ねえ、あなた……私ね、シンオウ地方のチャンピオンなの。」
オレは湯呑みを置き、ちらりと彼女を見た。
「……チャンピオン?」
その言葉には、現実味がなかった。オレの中には、この世界の知識が何もなかったから。
「うん、そう。ポケモンバトルの頂点にいるの。私……ちょっとは、すごいんだから。」
金色の髪が、月の光に透けて揺れた。彼女は穏やかに語った。けれど、オレにはそれがどれほどすごいことなのか、分からなかった。オレは焚き火を見ながら、首を傾げて、ただ言った。
「……ふーん。」
ほんの、ひとこと。まるで、友達が「今日カレー食べたよ。」とでも言ったときのように。しばらく沈黙があった。それから、シロナがくすくすと笑った。
「……あなた、ほんと変わってるわね。」
肩を揺らして笑っている。軽やかで、どこか嬉しそうな笑いだった。オレは訳が分からず、彼女の方を見た。
「誰もがびっくりしたの。私がチャンピオンだって知ったときは。でも、あなたは「ふーん。」だけ。まるで、そんなことどうでもいいって顔して。」
「……いや、だって、知らないし……。」
オレは正直に言った。すると、シロナはますます笑った。心からほっとしたように。どこか、肩の荷が下りたような顔だった。
「……ねえ、あなた。私、チャンピオンって呼ばれるより、こうして、ただの人でいられる方が、きっと幸せなのかもね。」
彼女はカップを手に取り、月を見上げた。その横顔は、まるで月の光そのもののように静かで、美しかった。オレは、何も言わなかった。けれどその時間は、たしかに心の奥にしみ込んでいった。
朝は、陽の光で目を覚ます。窓辺にかかった白いカーテンが、やわらかく揺れる。隣の部屋からは、食器の触れ合う音。お湯を沸かす、かすかな湯気の匂い。オレが起きてダイニングへ行くと、シロナがもう朝食を並べていた。
「おはよう、あなた。」
変わらない、優しい声。オレはまだその呼び方に少し照れるけれど、悪い気はしなかった。パンと目玉焼き、茹でた野菜、季節の果物。シロナの料理はいつも手間がかかっているわけじゃない。でも、どれも丁寧で、温かくて、美味しい。食べ終わると、ふたりで後片付け。食器を洗い、拭きながら、何でもない話を交わす。
「そういえば、昨日の本に出てた石板の模様……ちょっと見覚えあるのよね。」
「ふーん……それ、どこで見たんだ?」
「たぶん、南の山。昔、調査したときにね。」
そんなふうに、ふたりの時間は静かに流れていった。
午前中は別々に過ごすことが多い。オレは庭に出て、草むしりや野菜の手入れをする。シロナは書斎で、ポケモンの記録や論文を広げている。それぞれが、自分のことをする時間。でも、不思議と孤独は感じない。窓の向こうから、シロナがふと立ち上がって、オレに手を振る。そのたびに、胸の奥があたたかくなる。
昼は軽く、ふたりで簡単なサンドイッチを作る。午後は近くの森を散歩したり、市場に出かけたり。人混みは苦手だが、シロナが隣にいれば、それもまた悪くない。
夜は早めに、スープとパン。暖炉の火を囲み、たまに考古の本を読む。知らない世界の話。けれど、それが心地いい。
「あなた、今日もよく笑ったわね。」
「……そうか?」
「うん、ほら……眉のところ、いつもより柔らかい。」
そんなことを言われて、照れ隠しにそっぽを向くと、シロナはくすっと笑って、少しだけ椅子を近づけてくる。
夜が深くなれば、言葉は減る。でも、それがいい。火の揺れだけを見つめている時間が、何より落ち着く。ベッドに入る前、シロナが小さく「おやすみ。」と言う。それを聞くと、ようやく一日が終わるのだと実感できる。
こうして、日々が過ぎていく。大きな出来事は何もない。でも、この静けさが、今のオレには何よりも大切だった。
春の風がやわらかく吹いていた。若草が萌え、鳥たちが頭上をかすめる。シロナの調査に同行することになったのは、ほんの気まぐれだった。
「今日は東の山道に、古い石碑を見に行くの。」
そう言われて、「行く。」と答えたのは、ただ彼女の隣を歩いてみたかっただけかもしれない。リュックを背負ったシロナは、山道を歩く姿も凛としていた。長い金髪が風に揺れて、黒いブーツの音が土を踏む。オレはその少し後ろを歩く。何も言わなくても、居心地がよかった。
昼前には山の麓に着いた。道はやや傾斜を増し、周囲は木々が覆う静かな森へと変わっていった。野鳥の声、草を踏む音、そして……枝を踏みしめる、重く低い音。
「……!」
シロナが一歩止まった。その視線の先、茂みががさりと揺れる。空気が凍るように変わった。そこに現れたのは、大きなクマ。鋭い爪と牙を持ち、怒りを孕んだ両目でこちらを睨んでいる。
「危ない……っ!」
シロナが反射的に腰からモンスターボールを取り出す。その動きは迷いがなく、さすがチャンピオンの手際だった。けれど、オレの身体が、先に動いた。どこからか湧き上がるような熱。胸の奥から喉を伝い、口の先へと昇っていく。
「ぐっ……!」
咆哮が漏れた瞬間、喉の奥が灼けるように光り、口からまばゆい閃光が放たれた。白く、熱く、暴力的な光。それがクマを包み込み、空気を裂いた。
数秒ののち、静寂。そこには、爆風で散った葉と、蒸気のような熱気だけが残っていた。クマは跡形もなかった。オレはその場に立ち尽くしていた。 息が荒く、両手が震えていた。
「……あなた……?」
ふと、後ろから声がする。シロナだった。その顔には、明確な驚きがあった。恐れではない。ただ、圧倒されたような、沈黙。彼女は、モンスターボールを手にしたまま、動けなかった。やがて、そっと言葉を探すようにつぶやいた。
「……いまの、あなたが……?」
オレは何も答えられなかった。何が起きたのか、自分でも分からない。ただ、あのときと同じだった。
あのクマを見たとき、あの光と、熱と、叫びと、同じものが、自分の内側にあった。自分は、ただの人間なのか? あのポケモンと、自分の何かが混ざったのか? それとも、最初から?
「……あなた、何者なの……?」
シロナの声には、優しさと、ほんの僅かな、戸惑いが混じっていた。オレは振り返り、ただ、首を横に振るしかなかった。
「……わからない。オレにも。」
風の音がしていた。それは、山の上を抜けてきた風だった。どこか冷たく、けれど優しく、オレの頬をなでていった。
頭の片隅に残っていた。咆哮と共に口から放たれたあの光。あのクマを一瞬で粉砕した、自分でも信じられない力。シロナは何も聞かなかった。けれど、それでもオレは、怖かった。何かが、自分の中で変わっていく気がした。心の奥に、静かに何かが目覚めている。それは、あの日、命をかけてオレを守ったポケモンと、何かを交わした証かもしれない。でも。
オレは、人間でいたい。
朝、布団の中で目を覚ます。窓の外の陽射しが、白いカーテンを透かしている。隣の部屋からは、食器の触れ合う音。台所には、湯気とパンの香り。椅子に腰をかけ、温かいスープをすする。パンをかじる。シロナが静かに微笑んでいる。ただそれだけで、胸が満たされる。
食後に本を読む。難しい言葉はまだたまに読み飛ばしてしまうけれど、だんだんと馴染んできた。わからない単語は、シロナに聞けばいい。彼女は嬉しそうに、ゆっくりと説明してくれる。
午後は畑。腰を曲げ、土をいじる。根菜を抜く。虫にかじられた葉に、どこか微笑ましさを覚える。この土の匂いは、命の匂いだ。
夕食の準備を手伝い、食卓にふたり分の皿を並べ、ろうそくの灯りの下でゆっくりとスープを口に運ぶ。シロナは、たまに少しだけワインを飲む。オレにも注いでくれる。その赤い液体のなかに、心が静かに沈んでいく。
食後は、風呂に入る。温かな湯に肩まで浸かり、深く息を吐く。そのひと呼吸が、今日という一日をそっと包みこむ。
夜は、布団にくるまって眠る。寒い日はシロナが湯たんぽを入れてくれる。 朝まで、ぐっすりと。そういう日々が、何よりも大切なんだ。
光を吐けなくていい。誰を救えなくてもいい。記憶がなくても、名前がなくても。
オレは、人間でいたい。
笑い、食べ、眠り、誰かと声を交わし、日々を積み重ねる。それだけでいい。それ以上を、望んではいけない気がする。そう思っていた。心の奥で、何かがうごめいていたとしても。今のこの、人間としての暮らしだけは、絶対に手放したくなかった。
家に戻ってきたとき、扉の軋む音がやけに大きく感じた。ふたりとも何も言わなかった。シロナは無言でブーツを脱ぎ、淡々といつも通りの動作で上着を脱ぎ、洗濯かごに放った。それからキッチンに向かい、水を汲み、薬缶に火をかけた。その背中が、遠かった。
食器の音。水の音。包丁がまな板に打つリズム。どれも、何ひとつ変わらない日常のはずなのに、耳に入るそれはどこか冷たくて、胸の奥がざわついた。
オレは何も言えなかった。「ごめん。」とも、「知らない。」とも、言えなかった。シロナの背中は、ただ静かに、いつも通りだった。その静けさが、怖かった。何より怖かったのは、自分が、もう人間じゃないかもしれないという感覚だった。
咆哮、光線、粉砕されたクマ。焼け焦げた匂い、シロナの驚いた目、そして、何も話さない彼女の沈黙。オレはそっと自分の指を見つめた。ちゃんと人間の指だ。けれど、あのときの熱が、まだ喉の奥に残っている気がした。
ふと、立っていられなくなった。何かが崩れてしまいそうで、何もかも壊してしまいそうで、怖かった。オレは自分の部屋に戻り、布団に潜り込んだ。頭まで被って、目をぎゅっと閉じた。まるで子どものようだった。怖かった。この家から追い出されたらどうしよう。あの光を見て、シロナがオレを化け物だと思っていたら。温かいスープも、パンも、焚き火のぬくもりも、もう二度と戻ってこなかったら。怖くて、怖くてたまらなかった。
外からは、シロナが皿を洗う音が聞こえていた。ときどき、風で軒が揺れる音。暖炉で焚火がはぜる、小さな破裂音。それでも、彼女は何も言わなかった。優しい沈黙があるのではない。ただ、言葉のない時間がそこに広がっているだけだった。
きっと、彼女にも整理がついていない。オレの中の何かを見て、まだ何を思えばいいのか、どう向き合えばいいのか、分からずにいるのだろう。それが分かっても、やっぱり怖かった。自分が、もう人間じゃないのかもしれない。それを、オレ自身が信じられなくなっていた。
夜が深くなり、家の中はしんと静まりかえっていた。布団の中で、オレはずっと目を閉じていた。眠れないわけではない。ただ、身体のどこかが、ずっと緊張していた。ふいに、扉がそっと開く音がした。床を静かに踏みしめる、柔らかな気配。オレは目を開けた。月明かりに照らされて、シロナの輪郭が浮かんだ。彼女は、何も言わずにオレの布団のそばにしゃがみ込むと、少しだけ呼吸を整えるように、静かに目を伏せた。
「……起きてたのね。」
オレは何も言わなかった。ただ、うなずいた。
「……今夜、あなたに話しておきたいことがあるの。」
その声は、いつもの穏やかさの奥に、なにか硬いものを隠していた。それが彼女にとって、どれほどの覚悟を必要とすることなのか、すぐにわかった。
「私はね、これまでに、あなたのような人を、何人も見てきたの。」
暗闇の中で、シロナはまっすぐにこちらを見ていた。声は静かだった。でも、その静けさは重たく、どこまでも慎重だった。
「記憶をなくし、名前をなくして、この世界に現れる人たち。……あなたと同じように、不思議な力を持った人もいたわ。」
オレは息を飲んだ。
「彼らは最終的に……ポケモンになったの。伝説として語られるような存在に。」
喉の奥がひゅっと締めつけられる。
「自分を人間だと思いながら、やがてその境界が曖昧になっていって……最後には、人間としての名を完全に失って、ポケモンになった。姿も、記憶も、心さえも。それでも、どこかに人だった痕跡は残っている。だからこそ、伝説になったのよ。」
オレは、何も言えなかった。まるで、それが自分の運命のように思えて、口が開けなかった。シロナは、小さく息を吐いた。
「……実は、私もそうなのよ。私も、この世界に落ちてきた元人間。名前も、過去も、持っていなかった。だから私の名はシロナ。『空白の名』なの。」
彼女は目を閉じた。それは、自らを告白することへの、ある種の祈りにも似ていた。
「私は、あなたのような不思議な力は持っていなかった。でも、ポケモンと共に生きる力だけは誰よりも強かった。だから私は、チャンピオンになった。 あなたのような元人間だったポケモンたちを従えてね。」
風が、窓の隙間からやさしく吹いた。部屋の中がわずかに揺れるような気がした。シロナは、立ち上がらず、その場で膝を抱えた。
「これからどうするかは……あなた次第よ。」
「人間でい続けるか、あるいは……その力に飲み込まれるか。」
彼女の声は、淡々としていた。でも、その最後に、かすかに揺れるようなあたたかさがあった。
「……おやすみなさい。」
それだけ言って、シロナは立ち上がり、静かに部屋を出ていった。扉が閉じられる音。また、沈黙。オレは、布団の中で目を開けたまま、天井を見つめていた。
ポケモンになった人間。空白の名を持つチャンピオン。そして、今の自分。オレは……どうする? このまま、畑を耕して、スープを飲んで、風呂に入って眠るだけの人生を。守りたいのか、逃げているのか。答えはまだ出なかった。ただ、ひとつだけ確かなのは、明日も、あの温かな朝が来てほしいと、心から願っていたことだった。
朝だった。どこからか小鳥の鳴き声がしていた。やわらかい陽の光が窓から差し込み、床を白く照らしている。目を覚ましたとき、オレは、もう人間ではなかった。四肢のかたちが違う。手の指がない。喉がうまく動かない。身体が、軽い。だが、どこか芯が揺れているような違和感。息を呑もうとするが、うまくいかない。鏡を見なくても、わかる。
もう、オレは人間の姿をしていない。
それはまるで、カフカの『変身』のようだった。ただ、あの物語のように、絶望に呑まれることは、なかった。
扉が静かに開いた。シロナがそこに立っていた。彼女は、驚かなかった。目を細めて、ふっと微笑んだ。
「……おはよう、あなた。」
その声は、昨夜と何ひとつ変わっていなかった。オレの変化など、最初から知っていたかのように、否、それでもいいと、決めていたかのように。
シロナは朝の支度を始めた。パンを焼き、スープを温め、テーブルにふたり分の食器を並べた。ひとつは人間用、もうひとつは、オレのためのものだった。
「今日は、少し遠くまで出かけましょう。南の遺跡に、あなたに似た姿の……元人間の伝承が残っているの。」
オレは言葉を持たない。けれど、胸の奥で何かが確かに動いた。人間でいたいという願いは、もう叶わないかもしれない。でも、それでも、オレはオレだ。そして、隣には彼女がいる。
オレはシロナの後ろを歩いた。尻尾を引きずりながら。低くなった視線で見上げる彼女の背中は、いつも通りだった。それだけで、心が少しだけ温かくなった。
風が吹いた。遠くの空が青く澄んでいた。今日も、陽が昇っていた。オレはシロナについていくことに決めた。たとえ、もう人間ではなくても。名を持たなくても。言葉を失っても。オレには、この歩幅がある。この歩幅で、彼女のすぐうしろを歩いていけばいい。
「行きましょう、あなた。」
「……きっと、まだはじまりよ。」
彼女のその言葉を最後に、静かに、オレの一日は始まった。〈了〉