原作とは異なる独自設定・独自解釈・年齢や人物関係の変更を含みます。
第1話は「砂漠の街」から始まります。
気に入ってくれると嬉しいです。
――宇宙世紀。
人類が宇宙へ進出し、スペースコロニーを第二の故郷としてから、長い年月が流れた。
地球と宇宙。人類はその二つの世界を行き来しながら、幾度となく争いを繰り返してきた。
一年戦争。グリプス戦役。二度にわたるネオ・ジオンとの戦い。そして、地球へ落下するアクシズを巡って起きた、後に人々の記憶へ深く刻まれる戦い――。
それから、さらに長い月日が流れていた。
かつて宇宙を見上げ、その動向に一喜一憂していた地球の人々も、次第に宇宙への関心を失っていった。宇宙には宇宙の政治があり、地球には地球の生活がある。関わらなければ、争うこともない。そんな考え方が、いつしか地球に暮らす人々の間へ広がっていた。
だが、人々が大きな戦争を忘れ始めても――争いそのものが、この世界から消えたわけではなかった。
◇
ここは地球。アフリカ大陸北部、サハラ砂漠。
太陽に焼かれ、砂嵐が吹き荒れる大地の中に、ぽつりと一つの街が存在していた。街全体を覆っているのは、巨大な半球状の環境維持ブース。スペースコロニーで培われた環境制御技術を、地上へ転用したものだった。
灼熱の太陽が砂の大地を照りつけている。一歩外へ出れば、焼けつくような熱気。
しかし、その内側へ一歩足を踏み入れれば、光景はまったく違っていた。
子供たちの笑い声。商人たちの活気ある営み。工場や学校といった施設も整備されている。ここが砂漠の真ん中だと言われなければ、誰も気づかないほど充実した街だった。
そんな街の住宅地に、一軒の家があった。
◇
「ヒイ! いつまで寝てるの!」
「……起きてるよぉ」
少年は布団を頭までかぶった。
その少年はヒイロといった。まだ幼い、ごく普通の少年だ。
「起きてる人は、布団かぶって返事しません!」
台所から母親の声が飛んでくる。
「学校、今日は休みじゃん……」
「休みだからって、昼まで寝ていい理由にはならないでしょ」
「まだ昼になってないよ!」
母親は呆れた顔をした。
「屁理屈言わない!」
ヒイロは布団の中で顔をしかめた。
「……母さん、朝からうるさい」
「聞こえてるわよ!」
「うわっ」
母親に無理やり布団をはがされ、ヒイロはベッドから転げ落ちそうになる。一階の居間から、父親の笑い声が聞こえた。
「諦めろ、ヒイ。お前が母さんに口で勝つのは、百年たっても無理だ」
「わたしはそんなに老けていません!」
父親がビクりと肩を震わせ、無言になる。
ヒイロがようやく起きて居間へ出てくると、父親の顔を見上げて言った。
「父さんだって、いつも母さんに負けてるじゃん」
父親の笑顔が固まった。母親が吹き出す。
「言われてるわよ」
「……朝から父親の威厳を壊すな」
ヒイロは椅子へ座り、朝食を見た。
「またこれ?」
「またとは何よ」
サツマイモの炒め物に、サツマイモのサラダ。それに味噌汁と食パンであった。
「昨日も似たようなのだったじゃん」
「砂漠の街で、毎朝違うものが食べられると思わないで。食料だって安くないんだから」
「ロロ姉ちゃんのところ行けば、なんかくれるかも」
「またロロちゃんのところ?」
ロロ姉ちゃん――最近、隣の機械修理屋で住み込みで働き始めた女性である。ヒイロはすっかり彼女になつき、暇さえあれば修理屋へ遊びに行っていた。
母親はまた呆れた顔をした。
「修理屋さんは遊び場じゃありません」
「遊びに行ってるんじゃないよ」
「じゃあ何しに行ってるの?」
「……見学」
父親が笑いをこらえている。
「ほら。早く食べろ」
「分かってるよ!」
ヒイロは箸を乱暴に置いた。
「父さんも母さんも、いちいち僕のこと子供扱いするんだから」
「子供じゃないか?」
「そういうところが嫌なんだよ!」
ヒイロはパンを口にくわえこんで、立ち上がった。
「ごちそうさま!」
「ちょっと、ちゃんと食べなさい!」
「もうひらあい!」
「ヒイ!」
「いっへきまふ!」
バタン! 勢いよく扉が閉まった。
やれやれ、と母親が腰に手を当てる。
「もう……最近ほんとに言うこと聞かないんだから」
父親は残されたパンを見ながら笑った。
「まあ、あれくらいでいいんじゃないか」
「あなたが甘やかすからよ」
「俺?」
扉の向こう。ヒイロはまだ少し腹を立てながら歩いていた。
「まったく……父さんも母さんも、僕がいなくなって困ればいいんだ」
そう呟いて、少年は街へ駆け出していった。
◇
ヒイロは家を飛び出すと、そのまま隣の機械修理店へ駆け込んだ。
扉を開けると、修理屋特有の油と金属の匂いが鼻をついた。店内には修理を待つ家電製品や機械部品、それに用途の分からない部品まで、所狭しと並んでいる。
「おはよう、アルおじさん!」
カウンターの奥にいた老人が、ゆっくりと顔を上げた。白髪の混じった髪に、年季の入った作業着。この店の店主、アルフレッドである。
「おう、ヒイちゃん。また来たのかい」
老人は目尻に皺を寄せて笑った。
「うん。あ……そういえば、ロロ姉ちゃんは?」
「ははっ。わしじゃなくて、やっぱりロロちゃんがお目当てか」
「ち、違うよ! アルおじさん、いつも難しい機械の話ばっかりするから」
「ここは機械修理屋なんだがねえ」
アルフレッドは苦笑すると、奥の作業場へ続く扉を首で示した。
「あそこにいるよ」
ヒイロはさっそく扉へ向かう。途中、壁際に展示された古い作業用ロボットのマニピュレーターが目に入った。以前から置いてあるものだ。
「……まだ、こんなのあるんだ」
だが特に気にすることもなく、そのまま作業場の扉へ手をかけた。
「あ、ヒイちゃん。ただ今は――」
アルフレッドの制止より早く、ヒイロは勢いよく扉を開けた。
「ロロ姉ちゃーん!」
「えっ、ヒイ君?」
振り返った瞬間――バチッ!
「わっ!」
「……あ」
ロロが恐る恐る手元を見る。細い煙が、修理中の機械からゆらりと立ち上っていた。
「ちょ、ちょっとヒイ君!」
「な、なに?」
「今、すごく大事なところだったんだけど……」
「ご、ごめん」
「もう……急に大声出さないでよ」
ロロは工具を置き、煙の出た箇所を覗き込んだ。
「……壊れた?」
「うーん」
難しい顔でしばらく機械を睨んでから、ロロはぱっと胸を張った。
「大丈夫だと思うよ」
「ほんと?」
「ロロ姉さまに不可能はない! ここからまた直してみせるよ!」
「さすがロロ姉!」
ヒイロの顔がぱっと明るくなる。
「まっかせなさーい!」
腰に手を当て、得意満面のロロ。その直後――。
プスン……。
修理中の機械から、また細い煙が上がった。
「あ……」
二人の声が、見事にハモった。しばしの沈黙。
すると、作業場の扉からアルフレッドがひょいと顔を出した。
「……ロロちゃん?」
「……はい」
「それ、今日中にお客さんへ返すやつなんだけどねえ」
ロロの顔が引きつる。
「だ、大丈夫だよ、アルフさん! ちゃんと直すから!」
「その台詞、昨日も聞いたような気がするんだがねえ」
「……」
ヒイロがそーっと後ずさる。
「じゃ、じゃあ僕はこれで……」
「ヒイ君! 一人だけ逃げない!」
「だって僕、修理屋じゃないもん!」
「元はと言えば、ヒイ君が急に入ってきたからでしょ!」
「二人とも」
アルフレッドの声が、少し低くなった。
「……はい」
ロロとヒイロは、並んで小さくなった。
◇
その頃、街のブースの外。
砂埃の向こうから、一人の人影がゆっくりと街へ近づいていた。頭からフードをかぶり、強い日差しを避けながら、一歩、また一歩と砂を踏みしめる。
男は立ち止まると、口元を覆っていた布を少しずらした。
「ぺっ!」
口の中に入った砂を吐き出す。
「まったく……どこにでも入り込んでくるな、こいつは」
顔を拭っても、汗に砂が張りついて取れない。
男の名はアベルといった。年の頃は二十代後半。まだどこか幼さの残る顔立ちをした青年だった。
顔を上げれば、ようやくたどり着いた街の入り口がある。アベルが認証装置の前に立つと、機械音声が流れた。
《認識カードを提示してください》
アベルは懐へ手を入れ、そして困ったように首をかしげた。
《認識カードを提示してください》
「いや……それが、ないんだ」
《認識カードを提示してください》
「だから、ないんだって」
当然、機械に事情など通じない。
《認識カードを提示してください》
アベルは認証装置をじっと見つめた。
「君、なかなか頑固だね」
「おい。機械相手に何を話してるんだ?」
横から声がした。検問所の警備員だった。
「すみません。認識カードを持っていなくて」
「紛失したのか?」
「いえ……取られました」
警備員の表情が変わる。
「取られた?」
「ここへ来る途中、砂漠で襲われまして」
「誰に?」
アベルは少し間を置いた。
「……黄色いパイロットスーツを着た連中です」
「イエロースーツか!?」
警備員の顔から笑みが消えた。アベルは頷く。
「食料も、水も、ホバーカーも。認識カードも、その中に……」
「それで、ここまで歩いてきたのか?」
「ええ。おかげでこの有様です」
アベルは砂まみれになった自分の服を見下ろした。
警備員はしばらくアベルを見たあと、検問所の奥を指した。
「仕方ない。有人確認に切り替える。こっちへ来い」
「助かります」
顔認証。指紋照合。いくつかの確認を終えると、認証装置のランプが変わった。
《本人確認完了。入街を許可します》
重い隔壁が、ゆっくりと開いていく。アベルは警備員へ軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「中で水でも飲んで休め。運が悪かったな」
「命だけは取られませんでしたから……逆に、運がいいのかもしれませんね」
アベルはそう答えると、街の中へ足を踏み入れた。
途端、涼しい空気が身体を包んだ。フードを脱ぎ、砂まみれの髪を軽く払う。
「ふぅ……」
行き交う人々。軒を並べる商店。元気に走り回る子供たち。先ほどまで歩いていた砂漠とは、まるで別世界だった。
アベルはしばらく、その光景を眺めていた。そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
「……いい街だ」
アベルは再び歩き始めた。
◇
一方、修理屋でアルフレッドからたっぷり説教を受けたヒイロは、ぶつぶつ文句を言いながら通りに出ていた。
「まったく……今日は朝から怒られてばっかりだ」
母親に怒られ、店の店主に怒られ。おまけにロロと一緒になって、作業場の片づけまでさせられた。
「僕は悪くないのに……」
もちろん、そう思っているのは本人だけである。
歩き出した矢先、耳障りな甲高い声が耳に入った。
「だから、払えねえってんなら、こいつはもらってくぜ」
通りの先だ。ヒイロが足を止めると、そこには人だかりができていた。
「……なんだろう?」
人混みをすり抜け、前へ出る。そこでは一人の男が、露店の主人と言い争っていた。
三十代ほど。小柄で、人相が悪い。身につけているのは、街の憲兵の制服だ。
男の名は――醜。まさしく名前通りの男であった。
醜は露店に並んでいた果物を一つ手に取り、そのまま齧った。
「お、お代を……」
店主がおそるおそる声をかける。
「ああ?」
「いえ、その……代金をいただかないと……」
醜は食べかけの果物を見た。
「俺たちはこの街を守ってやってんだぜ?」
「それは分かっています。しかし、こちらも商売で……」
「じゃあ警備代ってことでいいじゃねえか」
醜が笑う。周囲の露店商たちは目をそらした。誰も逆らおうとはしない。
ヒイロの眉がつり上がった。朝から機嫌が悪かったことも、少しは関係していたのかもしれない。
「おじさん」
醜が振り返る。
「あ?」
ヒイロは醜を指差した。
「それって、泥棒じゃん!」
強気な声に、周囲が静まり返った。店主の顔から血の気が引く。
「ぼ、坊や……!」
醜は食べかけの果物を口から離した。
「……今、なんつった?」
「お金払わないで持っていったら、泥棒だろ?」
「……」
「憲兵なら泥棒していいの?」
醜の口元が、ゆっくり吊り上がった。
「面白えガキだな」
果物を放り捨て、ヒイロへ近づいていく。
「誰に向かって口きいてんだ?」
「泥棒」
周囲から、小さく息を呑む音がした。
「お前……親から口の利き方ってもんを教わらなかったのか?」
「父さんは、悪いことしてる人を見て黙ってるほうが恥ずかしいって言ってた」
醜の表情から笑みが消えた。
「そうかい」
ヒイロの胸ぐらをつかむ。
「じゃあ、その立派な父ちゃんに――」
「痛っ! 離せよ!」
「ガキの教育をやり直してもらわねえとなぁ」
「離せ!」
ヒイロが腕を振り回す。しかし、子供の力でどうにかなる相手ではない。
「誰か……」
店主が周囲を見る。だが、誰も動かなかった。
醜はヒイロを軽々と持ち上げると、群がる人垣へ思い切り投げ捨てた。
◇
「それって、泥棒じゃん!」
店の外から聞こえてきた子供の声に、ロロの手が止まった。
「この声って……ヒイロ?」
聞き間違えるはずがない。つい先ほどアルフレッドに言いつけられた作業を始めようと、ゴーグルをかけ、口元には作業用のマスクまで着けたところだった。
ロロは店の入口へ顔を向けた。外が何やら騒がしい。ざわざわと人の声まで聞こえてくる。
「一体なにがあったのよ……」
嫌な予感がした。ロロは手にしていた分厚いスパナを握りしめ、そのまま入口へ駆け出す。
「おい、ロロ! 待て!」
背後からアルフレッドの声が飛ぶ。
「そんな格好でどこへ――」
最後まで聞かなかった。ゴーグルも、マスクもつけたまま。ロロは勢いよく扉を開け、通りへ飛び出していった。
人混みをかき分け、騒ぎの中心へ飛び込む。そこで目にしたのは――見知った少年が、一人の憲兵によって人垣の中へ投げ捨てられる光景だった。
「ヒイ君!」
醜は、生意気な子供を投げ飛ばしたことで少しは腹の虫が収まったのか、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、何してんのよ!」
甲高い声が飛ぶ。醜は声のしたほうを振り向いた。
そして、面食らった。そこに立っていたのは、作業着姿の女だった。
「……何してるってよ」
醜は目の前の女を上から下まで眺めた。
「おめえ……お前こそ、なんちゅう格好してんだ?」
「え?」
ロロの動きが止まった。言われて初めて、自分の格好を思い出す。
作業着姿のまま。目元には大きなゴーグル。口元には作業用のマスク。
作業場なら何ということもない格好だ。だが――ここは人通りの多い往来のど真ん中。しかも、周りには野次馬がびっしり。
ロロの頬が、マスクの下でじわりと熱くなった。
――わ、僕……この格好で飛び出してきたの!?
急に恥ずかしさが込み上げてくる。だが、ここで動揺したところを見せるのは、もっと恥ずかしい。
「そ、そんなことどうでもいいでしょ!」
ロロは勢いだけで押し切った。
「子供相手に何やってんのよ!」
そして醜の返事を待つこともなく、くるりと背を向ける。
「ヒイロ! 大丈夫!?」
逃げるようにヒイロのもとへ駆け寄った。
「どこ打ったの? 見せて!」
先ほどまでの威勢はどこへやら。ロロは醜のことなどすっかり放り出し、ヒイロの前にしゃがみ込む。
「もう! だから無茶しちゃダメっていつも言ってるでしょ!」
「ああ、もう……邪魔!」
ロロはゴーグルを額へ押し上げ、続いて口元を覆っていたマスクを外した。
「な……なんだぁ。ロロ姉だったんだ……」
「ヒイちゃん、こっち向いて。どこ打ったの?」
「顔……赤いよ?」
「うるさい」
ロロはぶっきらぼうに言い返し、ヒイロの頭を覗き込んだ。
醜はふと、我に返った。
――あの女、いったいなんて格好してんだ?
そう思い、問いただそうとした、その矢先。
「――何をやっておる、醜!」
通りに鋭い声が響いた。
「げっ……」
聞き覚えのある声に、醜の顔が引きつる。振り返った先には、ストレッチォ司教。その傍らには、守備隊長の姿もあった。
先ほどまでの横柄な態度はどこへやら。醜は途端に弱腰になっていた。
◇
一方――実はその場には、もう一人。騒ぎを見つめている男がいた。
人垣の後方に立つ、異国風の旅人。頭には深く笠をかぶり、背には、その体躯にすら不釣り合いなほど巨大な大剣を背負っている。
身の丈六尺はあろう長身のおかげで、人垣に遮られることなく、騒ぎの中心を見渡すことができた。
そして先ほどから、作業着姿の女が憲兵と騒いでいることには気づいていた。大きなゴーグルに、口元を覆うマスク。この街の住人には、どこか不釣り合いな格好だった。
――自分と似たようなものか。
異国の装いでこの街に立つ男は、そんな女の姿に、わずかな親近感すら覚えていた。
その女が、ゴーグルを額へ上げた。そして、マスクを外す。
「ヒイちゃん、痛いところは?」
その横顔が――男の目に入った。
「……!」
(信じられない……)
男の目が大きく見開かれる。一瞬、周囲の喧騒が遠のいた。
見間違いか。いや――。
笠の下から、男は食い入るようにその横顔を見つめた。胸の奥から突き上げてきた衝動に、足が半歩動く。
今すぐ人垣をかき分け、あの女のもとへ――。
そのときだった。
「ちっ……分かったよ!」
醜の苛立った声が響いた。
「おいガキ! 今日は司教様に免じて、このくらいで勘弁してやらぁ!」
「何を偉そうに言っておる!」
ストレッチォの一喝に、周囲から失笑が漏れる。
「うるせえな……帰りゃいいんだろ、帰りゃ!」
醜は悪態をつくと、踵を返した。
「おい、お前ら! 行くぞ!」
憲兵たちが一斉に動き出す。ざわり、と人垣が割れた。
その流れが、前へ出ようとした男の行く手を塞ぐ。
男は足を止めた。目の前を、醜たちが横切っていく。
何かを考えるように、笠をわずかに伏せる。
次の瞬間。男はロロに背を向けると、人混みの中へ静かに踏み出した。
向かった先は――醜たちが立ち去った方角だった。
◇
しばらくして。
大通りから一本外れた、人気のない路地裏。醜たち憲兵の一行が、教会へ向かって歩いていた。
「ちっ……」
醜は忌々しそうに舌打ちした。先ほどの一件が、まだ腹に据えかねているらしい。
「ったく……なんなんだよ、あのクソガキは」
道端に勢いよく唾を吐く。
「ガキのくせに、人を泥棒呼ばわりしやがって……」
「醜さん、まだ気にしてるんすか?」
後ろを歩いていた憲兵の一人が苦笑した。
「ああ!?」
「い、いや……なんでもないっす」
醜に睨まれ、男は慌てて口をつぐんだ。
守備隊長が呆れたように振り返る。
「いつまで子供相手に腹を立てている。司教様のお耳に入ったら、今度こそ叱られるぞ」
「分かってるよ!」
醜は吐き捨てるように答えた。
「こっちは恥かかされて、腹の虫が収まらねえんだよ……」
そのときだった。
路地の向こうから、一人の女性が歩いてきた。買い物か、それとも何か用事でもあったのだろう。手には小さな包みを抱えている。
醜たちの姿に気づいた女性は、邪魔にならぬよう急いで路地の端へ寄った。
すれ違おうとした、そのとき。
「あれ?」
憲兵の一人が足を止めた。女性の顔をじっと見る。そして何かを思い出したように、醜の肩を小突いた。
「醜さん」
「あ?」
「あの女……」
男は声を潜めた。
「さっきのガキの母親っすぜ」
醜の足が止まった。ゆっくりと振り返る。
「……何?」
「ほら。醜さんに食ってかかってきた、あのガキっすよ。何度か一緒にいるところ、見たことありますから」
醜は女性をじっと見つめた。先ほどまで不機嫌そうだった顔が、徐々に別の表情へと変わっていく。
「へぇ……」
口元が、にたりと歪んだ。
「こいつが、あのクソガキの母ちゃんか」
女性の足が止まる。
「……何か?」
醜は答えず、ゆっくりと近づいていった。
「いやぁ、ちょうどよかった」
「?」
「さっきな。あんたんとこの坊主に、えらい恥かかされちまってよ」
女性の表情が変わった。
「……ヒイロですか?」
「ああ」
醜は女性の前まで来ると、その進路を塞いだ。
「親なら、子供の不始末には責任持たねえとなぁ?」
「不始末って……あの子が何をしたんです?」
「人を泥棒呼ばわりしやがった」
女性はしばらく醜を見つめた。そして――
「それで?」
「あ?」
「あなたは、お金を払ったんですか?」
「……」
「払わずに品物を持っていこうとしたのなら、あの子の言ったことは間違っていないと思いますけど」
後ろにいた憲兵たちが、一斉に黙った。醜の頬がぴくりと引きつる。
「……子も子なら親も親だなあ。ずいぶん口が達者じゃねえか」
「事実を言っただけです」
「へえ……」
醜の機嫌が、再び悪くなっていく。だが次の瞬間、何かを思いついたのか、その顔に下卑た笑みが浮かんだ。
「だったらよぉ――」
醜は女性との距離を詰める。
「息子の代わりに、母ちゃんが詫び入れてくれてもいいんだぜ?」
女性が一歩後ろへ下がった。
「……どういう意味です?」
「分かるだろ?」
醜の視線が、女性の身体を舐めるように動いた。
「金がねえなら……別の払い方ってもんもある」
「……!」
「幸い、あんたは俺の好みだぜ」
女性の表情が強張った。
「醜!!」
守備隊長の低い声が飛んだ。
「くだらん真似はするな」
「へいへい」
醜は片手を上げた。だが、女性から離れようとはしない。
守備隊長は眉をひそめる。
「俺は先に教会へ戻る。お前もさっさと来い」
「分かってるって」
守備隊長はしばらく醜を睨んでいたが、やがて踵を返した。数人の憲兵がその後に続いていく。
足音が遠ざかる。やがて路地裏に残ったのは、醜と数人の取り巻き。そして、ヒイロの母親だけだった。
「さて……」
醜が再び女へ向き直った。
「邪魔者もいなくなったことだし――」
そのとき。
――コツ。
路地の奥から、足音がした。醜の動きが止まる。
――コツ。
ゆっくりと。こちらへ近づいてくる。
「……あ?」
醜が振り返った。
路地の入口。そこに――深く笠をかぶった、一人の男が立っていた。
背中には、巨大な大剣。先ほどの騒ぎを人垣の後ろから見つめていた、あの異国の旅人だった。
男は背中の大剣へ、ゆっくりと手を伸ばした。そして――抜く。
スー……。
その巨体にすら不釣り合いな大剣が、まるで重みがないかのように、すっと鞘から姿を現した。
「俺の勘が告げている」
男は静かに言った。
「お前が、諸悪の根源だと」
「……あ?」
醜の眉が吊り上がる。
男は大剣を構えた。
「お前を斬る」
切っ先が、ゆっくりと円を描く。男はそのまま、醜との間合いを詰めていった。
「……はっ」
醜が、ほくそ笑む。
「何を言い出すかと思えば……頭がおかしいんじゃねえのか、てめえ?」
醜が顎をしゃくった。その合図に、周囲の憲兵たちが一斉に銃を抜く。
ガチャッ――!
いくつもの銃口が、大剣の男へ向けられた。
「動くな!」
「剣を捨てろ!」
だが――男の歩みは止まらない。銃口を向けられているというのに、その足取りには微塵の迷いもなかった。
そして。男は、落ち着き払った声で告げた。
「――不殺」
「……?」
醜の笑みが、わずかに止まった。
何だ。この男は――。
理由など分からない。ただ、大剣の男から漂う異様な圧に呑まれ、醜の身体が本能的に後ずさった。
「……っ!」
次の瞬間。
「お、お前ら! やれ!」
醜は突然身を翻すと、取り巻きの憲兵たちの後ろへ逃げ込んだ。
「なっ、醜さん!?」
「撃て! 撃っちまえ!」
憲兵たちが一斉に銃を構える。
そのとき――。
かつて、「西暦」と呼ばれた時代があった。
その時代。日本料理界や料亭の職人たち――その中でも、世に「達人」と呼ばれた者たちには、常人には到底理解できぬ技を持つ者がいたという。
生きた魚を、その命を損なうことなく捌く。あまりにも鋭く。あまりにも速く。斬られた魚自身ですら、己がすでに捌かれたことに気づかぬほどに――。
そして。まさに今。その「達人」の域に達した剣技が、ここに再現された。
大剣の男が動いた。巨大な刃が、軽々と円を描く。
一閃。ただ、それだけだった。
「……?」
憲兵たちは呆然としていた。何が起きたのか、誰一人として理解していない。銃声すら上がらなかった。
やがて男は大剣を振り終えると、何事もなかったかのように刃を鞘へ戻した。
――カチン。
その音だけが、路地裏に響いた。
そして。憲兵たちはようやく気づく。
自分たちが――もう、戦うことのできない身体になっていることに。
「……え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。痛みすら、まだ追いついていない。
あまりにも速く。あまりにも鮮やかに。
それが――大剣の男が口にした、「不殺」なのであった。
◇
大剣の男は、そのまま路地を立ち去ろうとした。
――そのとき。
「ん……?」
背後から、微かな物音が聞こえた。男が振り返る。
そこには――五体満足のまま、じりじりと後ずさる醜の姿があった。
男はわずかに首を傾げた。
「おかしいな……」
醜を見る。
「君も討ち取ったと思ったんだがな?」
「ひっ……!」
醜の顔が引きつる。次の瞬間、勢いよく身を翻した。
「この化け物め! 俺は勝てる戦いしかしねえんだよ!!」
そのまま全速力で逃げ出す。
「こんなの、やってられるかぁ!!」
情けない叫び声だけを残し、醜は路地の向こうへ消えていった。
男は追わなかった。ただ静かに、その背中を見送っている。
やがて、ぽつりと呟いた。
「これも、世の流れか……」
そして、ふっと笑みを漏らす。
「あの小心者ならば、これに懲りて、しばらくは悪行もできまい」
笠を深くかぶり直し、醜が消えていった方角へ、もう一度だけ目を向けた。
「天がまだ生かすというのなら――それもまた、善しか」
それ以上追うこともなく、男は踵を返した。巨大な大剣を背負ったその姿は、ゆっくりと路地の向こうへ消えていった。
◇
ここは川沿いの土手。
街の診療所で簡単な手当てを受けたヒイロは、一人、土手に腰を下ろしていた。額には小さな絆創膏。幸い怪我は大したものではなく、少し擦りむいた程度だった。
「はぁ……」
ヒイロは流れていく川をぼんやりと眺めた。今日は朝から、いろんな出来事があった。
小石を拾い、川へ放る。ぽちゃん。
「なんか疲れた。明日、学校行きたくないなぁ……」
「それは先生としては聞き捨てならないな」
「え?」
聞き覚えのある声に、ヒイロが振り返った。
「あっ!」
そこに立っていたのは、一人の若い男だった。まだ二十歳にも届いていないように見える。教師というより、少し年上の学生と言われたほうが納得できるほど若い。
整った顔立ちに、穏やかな笑み。ヒイロの通う学校へ研修に来ている――白川先生だった。
「先生!」
「やあ、ヒイロ君」
先生は軽く自分の頭に手を当てた。
「その頭、どうしたんだい?」
「あー……これは、その……」
ヒイロは頭に触れた。
「ちょっと転んだ」
「へえ?」
先生が目を細める。
「ずいぶん派手な転び方をしたみたいだね」
「う……」
「また何かやったんじゃないだろうね?」
「やってないよ! 今日は僕、悪くないもん!」
「今日は?」
「あっ」
白川はくすりと笑った。
「やっぱり普段は心当たりがあるんだね」
「先生!」
「ははは。冗談だよ」
ヒイロもつられて笑った。
学校では先生と生徒。だが白川先生は年齢が近いせいか、ヒイロにとっては少し年上の兄のような存在でもあった。クラスの女子たちにも人気があった。
「そういえば先生」
「ん?」
「もう研修、終わりなんでしょ?」
「ああ。ここの学校での研修はね」
「やっぱり……」
ヒイロの声が少し沈んだ。白川はそれに気づく。
「なんだ。寂しいのか?」
「べ、別に!」
「そうか」
「……ちょっとだけ」
白川が笑った。
「正直でよろしい」
「次はどこ行くの?」
「さてね。次の研修先が決まれば、また別のところへ行くことになるかな」
「先生も大変だね」
「そうでもないさ」
白川は川へ目を向けた。
「いろんな場所へ行って、いろんな人間を見るのも面白いものだよ」
「ふーん……」
ヒイロには、いまひとつ分からない。だが先生が楽しそうなので、きっとそういうものなのだろう。
白川は再びヒイロを見る。
「それよりヒイロ」
「なに?」
「今日はあまり寄り道しないで帰ったほうがいい」
「なんで?」
「さっき、この辺りで騒ぎがあったらしい」
「騒ぎ?」
「ああ」
白川は、いつもと変わらない穏やかな口調で言った。
「憲兵が何人か襲われたそうだ」
「えっ!?」
ヒイロが目を丸くする。
「し、死んだの?」
「詳しいことまでは知らないよ。ただ、かなり物騒なことになったらしい」
白川はヒイロの額を指先で軽く示した。
「君は今日、もう十分怪我してるだろ?」
「う……」
「だから真っ直ぐ帰ること。いいね?」
「はーい」
「返事だけはいいなぁ」
「ちゃんと帰るって!」
「ならよし」
白川は満足そうに笑うと、ヒイロに背を向けた。
「あ、先生!」
「ん?」
白川が振り返る。
「また学校来る?」
ほんの一瞬。白川は黙った。
そして――いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。
「今度は本当の先生になれたらね」
「絶対だよ!」
「ああ」
白川は軽く手を振った。
「じゃあね、ヒイロ。気をつけて帰るんだよ」
「先生もね!」
「ああ」
白川はそのまま歩き出す。ヒイロは、遠ざかっていく若い先生の背中をしばらく見送っていた。
「……やっぱり、先生っていい人だよなぁ」
白川の姿は、街の人混みの中へ消えていった。
◇
「ただいまー」
ヒイロが家の扉を開ける。
「おかえりなさい」
奥から母親の声がした。
居間へ入ったヒイロは、足を止めた。
「……あれ?」
母親の向かいに、見知らぬ男が座っていた。穏やかな顔つきの男だった。テーブルには、湯気の立つ茶が二つ。
「母さん、このおじちゃん……誰?」
「おじちゃんではないんだけどね」
男が苦笑する。
「あら、すみません。ヒイロ、まずご挨拶でしょう? それに、お兄さんね」
「あ……こんにちは……お兄さん」
男が柔らかく微笑んだ。
「こんにちは」
母親がヒイロを手招きする。
「こちらはアベルさん。今日、母さんを助けてくださったのよ」
「助けた?」
「ちょっとね……ゴタゴタがあってね」
母親は詳しく話そうとはしなかった。アベルが代わりに口を開く。
「大したことはしていないよ。たまたま近くに居合わせただけさ」
「そうなの?」
「ああ」
ヒイロはアベルをじっと見る。
「じゃあ……母さんを助けてくれたんだ」
「結果的には、そうなるかな」
「ありがとう、アベルさん!」
あまりにも真っ直ぐな礼に、アベルは一瞬目を丸くした。そして笑った。
「どういたしまして」
そのとき、母親がヒイロの額に気づいた。
「――ヒイロ」
「え?」
「その額、どうしたの?」
「あ」
ヒイロは反射的に絆創膏を押さえた。
「これは、その……」
母親の目が細くなる。
「まさか……」
「ち、違うよ! 大したことないって!」
「あなた、また危ないことしたんでしょう!」
「またって何だよ!」
「母さん、聞いたのよ。憲兵に喧嘩を売ったんですって?」
「喧嘩じゃないよ! あいつが泥棒してたから――」
「それでも!」
母親の声が強くなる。
「相手は大人なのよ。あなたに何かあったらどうするの!」
「でも悪いことしてたんだよ!」
「そういう話をしているんじゃありません!」
「むぅ……」
ヒイロは頬を膨らませた。今日、何度目の説教だろう。
アベルは二人のやり取りを眺めながら、まあまあ、となだめに入る。
そのとき――。
ドンドンドン!
玄関が強く叩かれた。三人が一斉に振り返る。
「……誰かしら?」
母親が扉を開ける。そこには二人の憲兵が立っていた。
「失礼。こちら、ヒイロ君のお宅ですね?」
「はい……」
「奥様に、少々お話を伺いたいことがあります」
母親の表情が曇る。
「私に?」
「先ほど、この近くで我々の同僚が襲撃されました」
「……」
「その現場に、奥様がいらしたという証言がありまして」
ヒイロが母親のそばへ駆け寄った。
「母さん?」
憲兵は淡々と続ける。
「逮捕ということではありません。事情を確認したいだけです。ご同行願えますか?」
母親は不安そうにヒイロを見た。
そのとき。
「でしたら――」
背後からアベルが立ち上がった。
「私もご一緒しましょう」
憲兵がアベルを見る。
「あなたは?」
「アベルと申します。私もその現場に居合わせました」
「現場に?」
「ええ」
アベルは穏やかに答える。
「皆さんを襲った男についても、多少ですが特徴を覚えています」
憲兵たちが顔を見合わせた。
「それは助かります。では、あなたにも事情をお聞かせ願えますか?」
「もちろんです」
母親がほっとした表情を浮かべる。
「アベルさん……」
「心配ありません。私も一緒に行きますから」
「ありがとうございます」
「僕も行く!」
ヒイロが声を上げた。
「ヒイロ、あなたは家に――」
「嫌だよ!」
ヒイロは母親の服をぎゅっと掴んだ。
「母さんとアベルさんだけじゃ心配だもん!」
「君が嫌じゃなければ、一緒について来てもかまわないんだよ」
憲兵の一人が、ヒイロの頭を軽くなでた。
母親は困ったようにアベルを見る。アベルはヒイロを見下ろすと、わずかに笑った。
「いいんじゃないでしょうか」
「アベルさん?」
「お母さんと離れて一人で待っているほうが、この子には不安でしょう」
ヒイロが大きく頷く。
「うん!」
「……仕方ないわね」
母親は小さく息を吐いた。
◇
守備隊詰所。
ヒイロは一人、待合室の長椅子に座っていた。足をぶらぶらさせる。
母親とアベルは、それぞれ別の部屋で話を聞かれていた。子供のヒイロには、
「すぐ終わるから、ここで待っていてね」
と言われただけだった。
別室では――。
「では、その男とは面識がなかった?」
「はい。今日初めて見ました」
母親が答える。机を挟んだ憲兵が、調書へ書き込んでいく。
「あなたが絡まれていたところへ、突然現れた」
「そうです」
「大きな剣を背負い、笠をかぶっていた?」
「はい」
「名前は?」
「知りません」
憲兵はしばらく母親の表情を見つめた。
「……分かりました」
そして、もう一室。
「あなたも、あの男とは面識がない?」
アベルが頷いた。
「ありません」
「偶然、現場に居合わせただけだと」
「ええ」
「襲撃前に、男と会話は?」
「していません」
「なるほど……」
憲兵は調書へ視線を落とした。二人の証言に、大きな食い違いはない。
やがて――廊下で二人の担当者が顔を合わせた。
「どうだった?」
「白だろうな。襲撃者との繋がりはなさそうだ」
「こっちも同じだ」
一人が、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
「まったくだ」
もし違っていたら――話は、単なる憲兵襲撃事件では済まなくなるところだった。特に、あの一家については。
「これで母親まで関係していたら、さすがにな……」
「ご主人の件もある」
「……ああ」
二人は声を潜めた。
「一家揃って、となれば話が変わってくる」
「だが、今のところ母親にその兆候はない」
「そうだな」
一人が調書を閉じた。
「これでいいだろう」
二人の間に、わずかに安堵した空気が流れた。
だが――それで、すべてが終わったわけではなかった。
◇
「では――」
調書を閉じた憲兵が、母親を見た。
「これで結構です。ご協力ありがとうございました」
「もう帰っても?」
「はい」
母親は、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……」
別室で事情を聞かれていたアベルについても、同じ結論だった。二人とも、あの大剣の男とは無関係。今回の襲撃事件については――シロ。
「それでは奥さん、お子さんを連れて――」
そのときだった。
――ガチャ。
部屋の扉が開いた。
「失礼する」
数人の男が入ってきた。一人は憲兵。そして、その隣には見慣れない制服を身につけた男がいる。
先ほどまで母親の話を聞いていた憲兵が立ち上がった。
「どうしました?」
見慣れない制服の男が、母親へ目を向けた。
「こちらが、キッシュ氏の奥方ですね?」
「……はい」
突然夫の名前を出され、母親の表情が変わった。
「主人が……何か?」
「実は――」
男は静かに告げた。
「ご主人に宗教毀損罪の容疑がかかっておりまして、奥様にもいくつかお伺いしたいことがございます」
「主人が?」
「はい」
母親は戸惑った。
「どういうことですか?」
「詳しいことは、教会でご説明いたします」
「教会……?」
そこへ、事情聴取を終えたアベルが戻ってきた。
「何かあったんですか?」
「アベルさん……」
母親が不安そうに彼を見る。
「主人のことで、教会へ来てほしいと……」
「ご主人の?」
アベルの表情にも、わずかな疑問が浮かぶ。
「申し訳ありませんが、奥様には我々と一緒に来ていただきます」
母親は返事に迷った。その様子を見たアベルが、一歩前へ出る。
「でしたら、私も同行しましょう」
男がアベルを見る。
「あなたは?」
「アベルです。彼女とは先ほどから一緒におります」
「しかし、これはあなたとはまるで関係のない案件です」
「承知しています」
アベルは穏やかに答えた。
「だからこそです。何が起きているのか分からないままでは、彼女も不安でしょう」
男は少し考えた。
「……分かりました。ただし、場合によっては席を外していただくことになります」
「構いません」
そのとき――
「母さん!」
廊下から声がした。待合室にいたヒイロが駆けてくる。
「もう終わったんじゃないの?」
「ヒイロ……」
「どこ行くの?」
母親は答えに詰まった。
「ちょっと、教会まで行くことになったの」
「教会?」
「お父さんのことで、少しお話があるんですって」
「父さんの?」
ヒイロの表情が変わる。
「じゃあ僕も行く」
「でも――」
「行く!」
ヒイロは母親の手を握った。
「父さんのことなら、僕にも関係あるもん」
母親は困ったようにアベルを見る。アベルは少し考えたあと、ヒイロへ微笑んだ。
「では、一緒に行こうか」
「うん」
◇
ルル教会。
重い扉が開かれた。ヒイロは母親の手を握ったまま、アベルとともに教会内部へ足を踏み入れた。
いつも外から眺めている教会とは、まるで違って見えた。広い室内。高い天井。正面には、ストレッチォ司教が座っている。
そして――
「あなた!」
母親が声を上げた。その視線の先。
キッシュがいた。両手を拘束され、さらに足にも鎖の枷をつけられている。
「父さん!」
ヒイロが駆け出そうとした。
「待ちなさい」
憲兵が前へ出る。
「離せよ! 父さんが何したんだよ!」
「ヒイロ!」
キッシュが息子を制した。
「俺は大丈夫だ」
「でも……!」
母親も夫へ駆け寄ろうとする。
「あなた、これはどういうことなの?」
「俺にもよく分からん」
「静粛に」
ストレッチォ司教の声が響いた。
母親が振り返る。
「司教様。主人が宗教毀損罪に問われていると聞きました。いったい主人が何をしたというんです?」
ストレッチォは静かにキッシュを見る。
「この者には以前より、我らの教えを否定し、信徒の信仰を乱す言動が確認されている」
「そんな……」
「本人が何を信じるかは自由だ。だが、他者の信仰を妨げ、教えそのものを嘘であると公に言い広める行為は別だ」
ストレッチォの声は淡々としていた。
「この街において、それは宗教毀損罪にあたる」
「父さんは嘘なんか言わない!」
ヒイロが叫んだ。
「ヒイロ!」
母親が制する。だがヒイロは止まらない。
「父さんは悪いことなんかしてない!」
ストレッチォは少年を見た。
「善悪の話をしているのではない」
「じゃあ何だよ!」
そのときだった。
「ケッ……」
聞き覚えのある、甲高い声。ヒイロの身体が止まった。
ストレッチォの右隣。そこには、一人の憲兵が立っていた。
醜。
「お前……!」
ヒイロの顔色が変わる。
昼間、自分を投げ飛ばした男。そして母親に絡んだ張本人。
なぜ、こいつがここにいる。
醜はヒイロと目が合うと、にやりと笑った。そして――すっ、と手を上げ、中指だけを立てた。
「……!」
ヒイロの顔が真っ赤になる。
「ふざけんな!!」
「ヒイロ!」
母親が慌てて息子を押さえた。
「何なんですか、あの人は……!」
母親も醜を睨みつける。醜は面白そうに肩を揺らした。
「おー、怖え怖え。要はこいつはよ――」
醜は拘束されたキッシュを顎で示した。
「ルル教団とイエロースーツがグルだって言ったんだよ」
「……え?」
ヒイロが父親を見る。母親も息を呑んだ。
ストレッチォが横目で醜を見る。
「余計な真似をするな」
「へいへい」
醜は肩をすくめた。まるで反省していない。
ストレッチォは再びキッシュへ視線を戻した。
「そして、もう一つ」
空気が変わった。
「本日、この街の憲兵数名が襲撃された」
母親の表情が強張る。
「それは……」
「あなたが現場にいたことも承知している」
「でも私は――」
「すでに事情は聞いている。あなたを疑っているわけではない」
ストレッチォは言葉を続けた。
「問題は、襲撃者がいまだ見つかっていないことだ」
笠をかぶり、巨大な剣を背負った男。守備隊は街を捜索した。だが――見つからない。
「そこで我々は、別の可能性も調べている」
キッシュが顔を上げる。
「別の可能性?」
「お前の言動だ」
「……俺の?」
「教会への反発。街の秩序に対する批判。そして今日、実際に憲兵への襲撃が起きた」
「待ってください!」
母親が声を上げた。
「主人とあの男は、何の関係もありません!」
「現時点で関係があると断定してはいない」
ストレッチォは冷静だった。
「だから調べている」
「そんなの無茶苦茶だ!」
ヒイロが叫ぶ。
「父さんはあんな大剣持ってないだろ!」
「ヒイロ……」
キッシュが思わず息子を見る。
醜が吹き出した。
「ぶはっ! そりゃそうだ!」
「お前は黙ってろ!」
「何だと、このガキ――」
「そこまでだ」
今度は別の声だった。全員が振り返る。
アベルだった。
「アベルさん……」
母親が彼を見る。アベルは一歩前へ出た。
「私は、あの襲撃者をこの目で見ています」
ストレッチォがアベルを見る。
「少なくとも、私が見た限り――」
アベルは拘束されたキッシュへ視線を向けた。
「この方と、あの大剣の男との間に関係があることを示すものは、何もありません」
「アベル……」
「それに」
アベルはヒイロと母親を見る。そして、安心させるように微笑んだ。
「このご家族だけで、このような疑いに立ち向かわせるわけにはいきません」
「アベルさん……」
ヒイロが彼を見上げる。
アベルは再びストレッチォへ向き直った。
「私も力になります」
ストレッチォとアベル。二人の視線が、静かに交わった。
◇
拘束されたキッシュを前に、ストレッチォ司教は静かに告げた。
「もう一つ、確認してもらいたい物がある」
傍らにいた教会司法官が、小さな箱を持ってくる。蓋が開かれた。
中に入っていたのは――三角形を象ったペンダントだった。
「……?」
ヒイロが首を傾げる。母親にも見覚えはない。
だが、その場にいた教会関係者たちの空気が、わずかに変わった。
「これは本日、憲兵を襲撃した大剣の男がいた現場から発見されたものだ」
母親が息を呑む。
「……あの人が?」
「そうだ」
司教はペンダントへ目を落とした。
「これは、かつてルル教団において特別な意味を持っていた品だ」
アベルがペンダントを見つめる。
「トライアングル……」
ヒイロが振り向いた。
「知ってるの?」
アベルはすぐには答えない。
ストレッチォが続けた。
「かつて教主ルル=スーンは、修行を終えた一部の弟子たちに、証としてこれを授けていた」
そして――。
「その中でも、これは特別なものだ」
司法官がペンダントを裏返す。
「ルル教主自身が身につけていたものと確認された」
「……!」
「教主が殺害された際、この品も失われている」
キッシュが眉をひそめる。
「待て。それと俺に何の関係がある?」
「まだある」
ストレッチォが合図する。今度は布に包まれた品が運び込まれた。
「これは、お前の家から発見された」
母親の顔色が変わった。
「うちから?」
大剣の男――あの旅人に関係すると思われる遺留品だった。
「そんなもの知りません!」
母親が即座に否定した。
「そんな物、家にはありませんでした!」
キッシュも声を荒らげる。
「ふざけるな! 誰がそんな物を置いた!」
醜が横でニヤニヤしている。
「さあなぁ。家から出てきたもんは、家から出てきたんだろ?」
「お前……!」
ヒイロも叫ぶ。
「嘘だ! 父さんはあの大剣のおじさんなんか知らない!」
ストレッチォは動じない。
「そしてキッシュ。お前は以前から、ルル教団とイエロースーツとの関係について、公然と疑いを唱えていた」
「疑問を口にしただけだ!」
「教団が民衆を欺いているとも発言した」
「だったら何だ! 疑問を持つことまで罪なのか!」
教会内がざわめく。キッシュは続ける。
「俺は誰かを襲えとも、殺せとも言っていない!」
「その通りです」
突然、アベルが口を挟んだ。ストレッチォの目が向く。
アベルは一歩前へ出た。
「私も、これはおかしいと思います」
「アベルさん……」
ヒイロが彼を見る。
「私は実際に、憲兵を襲った大剣の男を見ています。しかし、キッシュさんとその男が接触していたところなど見ていません」
「……」
「ペンダントが現場にあった。別の遺留品がキッシュさんの家から見つかった。それだけで二人を結びつけるのは、あまりにも性急ではありませんか?」
ヒイロの顔が明るくなる。
「そうだよ! アベルさんの言う通りだ!」
母親も夫のそばへ出ようとする。
「主人は何もしていません。もう一度きちんと調べてください!」
ストレッチォはしばらく黙っていた。
やがて――。
「十分に調べた結果だ」
「そんな……」
「被告キッシュ」
司教の声が変わった。
「教会秩序を著しく乱した宗教毀損の罪。そして本日の憲兵襲撃事件への関与の疑い――」
キッシュが顔を上げる。
「待て。『疑い』だろう!」
ストレッチォは構わず続ける。
「以上を総合し、教会法に基づき裁定を下す」
母親が青ざめる。
「ま、待ってください……!」
ヒイロも嫌な予感を覚えた。
「父さん……?」
短い沈黙。そして――。
「死罪とする」
「……え?」
ヒイロには、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。母親も固まっている。
「……何を」
キッシュが低く呟く。
「何を言っている……?」
「待ってください!」
アベルが声を上げた。
「こんな決め方があるものですか! 少なくとも襲撃事件については何一つ――」
「裁定は下された」
ストレッチォが遮る。
その瞬間。醜の口元が――にたりと歪んだ。
「じゃあ……」
ゆっくりと前へ出る。
「後は俺たちの仕事ってわけだ」
ヒイロが醜を見る。
「……何する気だよ」
醜は答えない。
教会司法官が告げる。
「死刑執行については、街の守備隊へ身柄を引き渡す」
「やめて!」
母親がキッシュへ駆け寄ろうとする。憲兵たちがそれを止めた。
「あなた! あなた!!」
「父さん!」
「ヒイロ!」
キッシュが初めて大声を上げた。
「母さんから離れるな!」
「嫌だよ! 父さんも一緒に帰るんだよ!」
醜がキッシュの鎖を掴む。
「さあて……行こうか」
「離せ!!」
ヒイロが飛びかかろうとする。その肩をアベルが掴んだ。
「ヒイロ君!」
「離してよ、アベルさん! 父さんが!」
「分かってる!」
アベルはヒイロと目を合わせる。
「私も、こんな裁定は納得できない」
「……!」
「まだ終わったわけじゃない」
アベルは強く言った。
「私も一緒に戦う。だから今は――無茶をするな」
ヒイロは涙を浮かべながら、アベルを見る。
そしてその向こうでは――鎖につながれた父親が、憲兵たちによって連れ出されようとしていた。
重い扉が閉じた。
――バタン。
「父さん!!」
ヒイロの声が、広い教会に響いた。だが、キッシュを連れていった憲兵たちの姿はもう見えない。
「父さんを返せよ!」
ヒイロは扉へ駆け寄った。
「ヒイロ!」
母親が追いかけ、その身体を抱き止める。
「離してよ母さん! 父さんが!」
「分かってる……分かってるから……!」
そう言う母親自身の声が震えていた。
「死罪なんておかしいよ!」
ヒイロは母親の腕の中でもがく。
「父さん、何もしてないじゃん!」
「……」
「知らない物が家から出てきたって、それだけじゃん! あの大剣のおじさんだって、知らないって言ってた!」
誰も答えない。
「なんでだよ……」
ヒイロの目に涙が浮かぶ。
「なんで誰も信じてくれないんだよ……!」
そのとき。
「ヒイロ君」
アベルだった。ヒイロが振り返る。
アベルはしゃがみ込み、少年と目線を合わせた。
「……アベルさん」
「君の言っていることは、間違っていないよ」
「……!」
ヒイロの目が見開かれる。
「私も、あれだけでお父さんと襲撃事件を結びつけるのは無理があると思う」
「だよね!?」
「ああ」
「だったら――!」
ヒイロはアベルの服を掴んだ。
「父さんを助けてよ!」
「ヒイロ!」
母親が止めようとする。だがアベルは、静かに手を上げた。
「構いません」
そしてヒイロを見る。
「できることは、やってみよう」
「本当!?」
「ああ」
アベルは立ち上がり、ストレッチォへ向き直った。
「司教」
「……」
「先ほどの裁定ですが、もう一度ご検討いただくことはできませんか」
「裁定はすでに下った」
「しかし、襲撃事件については状況証拠しかありません」
「それだけではない」
「承知しています。宗教毀損罪についてもですね」
アベルは穏やかな態度を崩さない。
「ですが、人の命に関わる裁定です」
ヒイロはじっとアベルを見ていた。
――やっぱり。この人は、父さんを助けようとしてくれている。
「せめて、もう一度調査する時間をいただけませんか」
ストレッチォは首を横に振った。
「認められん」
「司教!」
「くどいぞ、アベル」
アベルは黙った。そして、小さく息を吐く。
「……分かりました」
「アベルさん!?」
ヒイロの顔が強張った。
アベルは振り返る。
「まだだよ」
「え?」
「ここで認めてもらえなかった。それだけだ」
「……」
「方法は、ほかにもあるよ。任せてほしい」
ヒイロの顔に、わずかに希望が戻る。
「じゃあ……父さん、助かる?」
アベルは――ほんの一瞬だけ黙った。
そして微笑んだ。
「諦めるには、まだ早いよ」
ヒイロは大きく頷いた。
「うん!」
母親もアベルへ頭を下げる。
「アベルさん……ありがとうございます」
「いえ」
アベルは静かに答えた。
「できることをしているだけです」
そのとき。教会の外から鐘の音が響いた。
――ゴォン。
「……?」
ヒイロが振り返る。
――ゴォン。
二度目。教会の中にいた者たちが、ざわめき始めた。
ヒイロには、その鐘が何を意味するのか分からなかった。
「何……?」
母親も不安そうに扉を見る。
アベルだけが――静かに、その音を聞いていた。
「アベルさん?」
ヒイロに呼ばれ、アベルはいつもの表情に戻る。
「行こう、ヒイロ君」
「どこへ?」
アベルは教会の扉へ目を向けた。
「お父さんのところへ」
「!」
ヒイロは母親の手を握った。そして三人は、教会の外へ向かった。
ヒイロは信じていた。アベルが一緒なら――まだ、父さんを助けられる。
そう、信じていた。
◇
――ゴォン。
教会の鐘が鳴り響く。
「急ごう、母さん!」
ヒイロは母親の手を引き、教会を飛び出した。
そして――足が止まった。
「……え?」
広場には、すでに人垣ができていた。その中央。木組みの処刑台に、巨大な刃が吊り下げられている。
ギロチン。
「……父さん?」
憲兵たちに引き立てられたキッシュが、その前にいた。
「父さん!!」
ヒイロが駆け出す。
「ヒイロ!」
母親も続く。だが、憲兵たちが二人を遮った。
「離せ! 父さんを返せよ!」
「あなた!」
キッシュは抵抗する間もなく、処刑台へ上げられていく。
「待ってください!」
アベルが声を上げた。
「まだ疑わしい点が残っています。せめて執行の延期を――」
「裁定は下った」
教会司法官は冷然と言い放った。
「判決の後、法を犯した者がどうなるのかを民衆に示す。それがこの街の慣例だ」
「そんな……!」
ヒイロが顔を上げる。そして、処刑台の脇に立つ男を見て目を見開いた。
醜。
「お前……!」
醜は処刑台の仕掛けに手をかけながら、にやりと笑った。
「また会ったな、坊主」
「やめろ!!」
憲兵がキッシュの身体を押さえつけ、首を処刑台の窪みへ固定する。
キッシュは、最後まで息子を見ていた。
それが――父と子が顔を合わせた、最後だった。
背後から黒い頭巾が被せられる。父親の顔が、ヒイロの前から消えた。
「……父さん」
醜が処刑装置へ手をかける。
――チリーン。
処刑を告げる鈴が鳴った。
そして醜は、黒い頭巾に覆われたキッシュへ囁いた。
「寂しくねえように、おめえの女房も俺のものにしてやるからな。安心しな」
「――やめろおおおおっ!!」
――ガコン。
巨大な刃が、一気に落下した。
次の瞬間――黒い頭巾に包まれたものが、処刑台から転がり落ちた。
「……」
ヒイロは動かなかった。声も出なかった。ただ、それを見ていた。
「……あなた……」
母親の身体がぐらりと揺れた。
「母さん!」
そのまま崩れ落ちる。憲兵の一人が慌てて支えた。
だが――ヒイロは母親のところへすら動けなかった。
父さんが。死んだ。
ついさっきまで喋っていた。自分の名前を呼んでいた。
それなのに。
「……父さん?」
返事はない。
◇
そのときだった。
――コツ。
誰かがヒイロの横を通り過ぎた。
「……?」
アベルだった。ゆっくりと処刑台へ向かっていく。
「アベル……さん……?」
ヒイロは、ぼんやりとその背中を見つめた。アベルは答えない。
――コツ。
そして。黒い頭巾に包まれたものの前で足を止めた。
片足を上げる。
――グッ。
踏みつけた。
「……え?」
ヒイロの目が見開かれた。
「アベル……さん?」
アベルは振り返らない。
「いつまで待っているつもりだったんだい、ヒイロ君」
「……何……言ってるの?」
「私はずっと見ていたよ」
いつもの穏やかな声だった。だからこそ――異様だった。
「君は私に言った」
アベルがゆっくり振り返る。
「『父さんを助けて』って」
「……」
「だから私は言った。できることはやってみよう、と」
「そうだよ……!」
ヒイロの声が震えた。
「アベルさんが、まだ諦めるなって……!」
「ああ。言ったね」
「だから僕……!」
ヒイロは拳を握った。
「アベルさんを信じて待ってたんだよ!」
アベルは――笑った。
「だから、こうなった」
「……え?」
ヒイロの顔から表情が消える。
「当たり前じゃないか」
アベルは笑っていた。
「君は何もしていない」
「……!」
「泣いて、叫んで――最後には私を頼った」
「ち、違う……」
「何が違うんだい?」
アベルは足元の黒い頭巾へ、ちらりと目を落とした。
「君のお父さんが連れていかれたとき、君は私に何と言った?」
「……」
「助けて、だ」
ヒイロの唇が震える。
「だって……アベルさんが……」
「うん?」
「できることはやるって……!」
「言ったよ」
アベルはあっさり認めた。
「だから私は、できることをした」
「じゃあなんで父さんは死んだんだよ!!」
「それを私に聞くのかい?」
「……!」
アベルの笑みが、わずかに深くなった。
「君のお父さんだろう?」
ヒイロは言葉を失った。
「だったら――」
アベルは自分の胸を指した。
「どうして私が、君以上に必死にならなくちゃいけないんだ?」
「……」
「君は私を信じた。待っていた。そして結果がこれだ」
足元を軽く踏みつける。
「それだけのことじゃないか」
「……お前……」
ヒイロの目から、さっきまでとは違う涙がこぼれた。
悲しみではない。怒りだった。
「お前……父さんを助ける気なんて……!」
「さあ?」
アベルは笑った。
「それを確かめもしなかったのは、誰だったかな?」
そして、ふと目を伏せる。
「私も昔ね――待っていたことがあるんだ」
「……?」
「大丈夫だ、助けは来る。ここで待っていろ、と言われてね」
アベルの笑みが、一瞬だけ消えた。
「馬鹿みたいに信じて待ったよ」
「……」
「結局――誰も来なかった」
再び、いつもの微笑みが戻る。
「だから覚えたんだ」
「……何を?」
「自分の運命を、他人に預けちゃいけないってことをさ」
ヒイロには分からなかった。目の前にいる男が、本当に、あのアベルなのか。
「……嘘つき」
アベルの眉が、わずかに動いた。
「ん?」
「嘘つき!!」
ヒイロが駆け出した。小さな拳を握り締め――アベルへ殴りかかる。
「うわああああっ!!」
――パシッ。
拳は届かなかった。アベルが片手で受け止めていた。
「……そう」
「離せ!!」
「それでいい」
「何がだよ!!」
アベルはヒイロの拳を掴んだまま、静かに笑った。
「今、君は初めて――」
ヒイロを見る。
「私に頼らず、自分で動いた」
「……!」
「遅かったね、ヒイロ君」
「……」
「もう少し早く踏み出していれば、何か変わったかもしれないのにね」
「――っ!!」
「なーんも変わんねえよ」
突然、醜が割って入った。
「……?」
アベルがきょとんとする。
「何したって変わんねえ。なあ、坊主」
ヒイロが睨みつける。
醜は処刑台を見上げた。
「覚えときな」
いつものふざけた調子が、わずかに消えていた。
「この街じゃ、正しいかどうかなんざ関係ねえんだ」
「……」
「捕まっちまえば――有罪なんだよ」
ヒイロの拳が震える。
「そして――」
醜はアベルを横目で見る。
「力がありゃ、それが正義になる」
アベルは何も答えなかった。
醜は頭を掻いた。
「ったく……」
そして、面倒くさそうに言った。
「教主さんも、もうよしましょうや」
一拍。
「――アベル教主さま」
「……え?」
ヒイロが顔を上げた。
今――何と言った?
「……教主さま?」
ヒイロはアベルを見る。
「アベルさん……?」
アベルは答えない。その沈黙だけで――十分だった。
ヒイロの顔から、最後に残っていた何かが消えた。
「嘘……」
「アベルさん……教会の、人だったの?」
やがてアベルは、小さく息を吐いた。
「醜」
「あ?」
「君は本当に――余計なことを喋るね」
「へっ」
醜は鼻で笑った。
「さすがは天下の教主様。ありがたい教えをいただいて、よかったじゃねえか」
「……」
「困ったら誰かが来てくれる」
醜が指を一本立てる。
「悪い奴が出てきたら――正義の味方がどっかから現れて、ぶっ飛ばしてくれる」
ヒイロは俯いた。もう聞きたくなかった。ここにある現実から、今すぐ逃げ出したかった。
「そんな都合のいい話――」
醜はニヤリと笑った。
「ねえんだよ」
「……」
「分かったか? 坊や」
アベルの表情が曇る。
「醜……」
醜は横目だけを向けた。
「ヒーローなんていやしない」
「……?」
「あるのは――」
醜悪な口元が吊り上がった。
「『悪』のみ」
そして、アベルを見る。
「なあ? 教主様ぁ」
「……何を言って――っ? な!」
アベルが踏んでいた黒い頭巾に包まれたものが、まるで空気が抜けるように、ぺしゃんこに潰れた。
「おい! 醜! おま……!?」
醜はもうアベルを見ていなかった。胸元から小型通信機を取り出す。
「ナナイ」
短く告げる。
「部隊へ攻撃命令」
そして――
「破壊しろ」
直後。
――ドォォォォン!!
遠く離れた砂漠から、爆発音が響いた。
「!?」
大地が揺れる。
――ドン!
――ドォォン!!
さらに爆発。街の外から黒煙が立ち昇る。
「な、なんだ!?」
「爆発だ!」
広場の群衆が騒然となった。
アベルの顔色が変わる。
醜はそんな騒ぎなど気にも留めず、ヒイロの横へしゃがみ込んだ。
そして――耳元で。
「今後も、こんなことは絶対ありえねえ」
「……」
「期待するな」
低い声だった。
「今日のことは――全部忘れろ」
一拍。
「いいな?」
醜が立ち上がる。
「何なんだこれは!?」
アベルが通信端末を取り出し、怒鳴りたてた。
「応答しろ! 何が――」
「無駄ですぜ、教主様」
「……?」
「通信する必要なんざありません」
醜が笑う。
「通信先は――全部ぶっ壊してますんで」
「……!」
アベルの目が見開かれた。
「醜……!」
初めて、その顔に明確な怒りが浮かんだ。
「貴様――裏切ったのか!」
「滅相もない」
醜は大袈裟に頭を下げる。
「最初から――」
顔を上げた。
「裏切ってなど、ございません」
「……!」
その意味を悟ったアベルの顔が強張った。
「ストレッチォ!」
「は、はい!」
「脱出するぞ!」
二人が教会のヘリポートへ駆け込む。
醜は追わない。
「それは――」
懐へ手を入れる。
「無理かと」
◇
そのときだった。
――ダンッ!
巨大な影が、人垣を飛び越えた。
「!?」
醜が振り向く。
大剣の男。先ほど路地裏で醜を襲った、あの異国の旅人だった。
男は醜など見向きもしない。そのまま教会へ躍り込む。
「……あいつ!」
教会内部。騒ぎに逃げ惑う信徒たちの間を、大剣の男が駆け抜ける。
その視線の先――祭壇。
そこに飾られていた。三角形を象った、小さな碑石。トライアングルのペンダント。
「……!」
男の目が変わる。
「ようやく見つけた」
手を伸ばす。ペンダントを掴み取った。
その瞬間――
外にいた醜が、小型のスイッチを取り出した。親指をボタンへ乗せる。
醜悪な顔が笑う。
そして。
「カ・ゲ・ロ・ウ」
《ピピピピ……音声認証、完了。パスワード『カゲロウ』、承認。実行します》
――カチッ。
ボタンを押した。
◇
先ほど爆発のあった地点から、さらに数キロ離れた砂漠。
風が吹く。砂丘の一角で――
ザザザザ……。
突然、砂が崩れ始めた。
その下から現れたものは、巨大な鋼鉄の腕。続いて、肩。頭部。
砂漠と見分けがつかないほど赤茶け、全身を砂と錆に覆われた――一体のモビルスーツ。
長い年月、そこに埋もれていたかのようだった。
機体表面から砂が流れ落ちる。
――ザァァァ……。
装甲の一部に、かすれた文字が現れた。
《S Z B 》
いや――《SAZABI》
そう読めなくもない。だが、風化が激しく判然としない。
――ブゥン。
頭部。暗闇の中に――モノアイが灯った。
機体は立ち上がらない。砂に埋もれた姿勢のまま、ゆっくりと上体だけを動かす。
その視線の遥か先――砂漠の街。さらに――その中心。巨大な宮殿教会。
――ピピッ。
照準が重なる。
そして。腹部。装甲の奥から、低い唸りが響き始めた。
――ミ……
――ミ・ミ……
――ミ・ミ・ミ・ミ・ミ……
砂が震える。空気が歪む。機体の腹部に、凄まじいエネルギーが収束していく。
モノアイが――教会を捉えた。
――ピ――――――。
照準固定。
次の瞬間。腹部から――灼熱の閃光が放たれた。
――――ズォォォォォォォォン!!
光線が砂漠を切り裂いた。砂が一瞬で焼ける。
一直線に。街へ。
一瞬――世界から音が消えた。
次の瞬間。紅。そして――白。
◇
「――!」
光線が教会を貫く、その刹那。
大剣の男の身体が沈んだ。
――ダンッ!!
石床が砕ける。人間とは思えない跳躍。
男はトライアングルのペンダントを握ったまま、天井近くまで跳び上がった。
その直下を――光が通過する。
一方。
「急げ!!」
教会裏手。ストレッチォが脱出用のヘリへ駆け込んでいた。
「離陸しろ! 早くしろ!!」
「教主様!」
機体へ乗り込む。ローターが回転を始める。
アベルも後を追った。
「待て! 私も――」
片足を乗せようとした――その瞬間。
「……!」
ストレッチォの目に、白い光が映った。
――――ドォォォォォォン!!
ヘリもろとも――光に呑まれた。
「ストレッチォ!!」
アベルは一歩、間に合わなかった。その一歩が――生死を分けた。
――ゴォォォォッ!!
「ぐああああああっ!!」
爆風がアベルを吹き飛ばす。背中が灼熱に焼かれる。地面を何度も転がり――壁へ叩きつけられた。
そして。宮殿教会を貫通した光線が、そのまま遥か彼方へ消えていく。
一拍。静寂。
そして――教会全体に無数の亀裂が走った。
――ミシ。
――ミシミシミシ……。
「……!」
大剣の男が空中から振り返る。
――バキン!!
巨大な宮殿教会が、内側から崩壊した。
――――ドォォォォォォン!!
砂煙が街を呑み込んだ。
◇
教会を貫いた閃光。一拍遅れて――爆風が広場へ襲いかかった。
「……!」
醜が振り返る。
砂。炎。すべてを巻き込みながら、壁のような爆風が迫ってくる。
そのすぐ隣には――ヒイロ。
「ちっ!」
考えるより先に、身体が動いてしまった。
醜はヒイロの身体を抱き上げる。
「うわっ!」
自分の胸元へ押し込むと、その小さな身体を覆うように背を向けた。
次の瞬間――
――ドォン!!
爆風が二人を呑み込んだ。
「ぐっ……!」
醜の身体が吹き飛ばされる。だが、ヒイロだけは離さない。
――ズザザザッ!
地面を滑る。背中に瓦礫が叩きつけられる。
醜の服の下。爆発や銃撃を想定して仕込まれていた特殊な防護服が、衝撃を吸収する。
「……っつぅ」
やがて――爆風が通り過ぎた。
辺りは一変していた。煙。砂埃。瓦礫。数歩先すら、まともに見えない。
醜は身体を起こした。
「おい」
腕の中を見る。
「坊主」
返事がない。
ヒイロの頬を軽く叩く。
ぺち。
「おい」
ぺち、ぺち。
「ヒイロ」
「……」
息はある。目立った出血もない。
「気ぃ失ってるだけか……」
醜は小さく息を吐いた。
そのとき。遠くから――
「ヒイちゃーん!!」
「……!」
女の声。
「ヒイロ!」
続いて男の声。煙の向こうから聞こえてくる。
「どこなの!?」
「返事をしろ、ヒイロ!」
醜は眉をひそめた。
「……あ?」
聞き覚えがある。昼間、作業用ゴーグルとマスク姿で飛び出してきた――あの女。
「……あの変な姉ちゃんか」
腕の中のヒイロを見る。
「こっちだ」
そう叫ぼうとした醜だったが、口をつぐんだ。
さすがにまずい。
このカッコで、『坊主を助けたから受け取れ』と言ったところで――信用するわけがない。
「しゃあねえな……」
醜は片手を顔へ伸ばした。慣れた手つきで、顔の変装を外していく。
醜悪な輪郭が剥がれ落ちる。
その下から現れたのは――白い肌。男とも女とも見紛うほど整った、美しい顔。
少年なのか、青年なのか。年齢すら判然としないその姿は、変装前とはあまりにも違っていた。
声も戻す。
そのとき、ヒイロの意識がかすかに戻りかけた。
「……せ・ん……せい……?」
だが、瞼は再び重くなり、ヒイロは目を閉じてしまった。
「ヒイロ!」
「ヒイちゃーん!」
近づいてくる。
白川はヒイロを抱き上げ直した。
「こっちだ!」
煙の向こうへ叫ぶ。
「ヒイロ君はここにいる!」
足音が近づく。
「ヒイちゃん!」
ロロと、その後ろにはアルフレッドだった。
「ヒイロ!」
ロロが駆け寄る。
「ヒイちゃん!?」
「大丈夫。気を失ってるだけだと思う」
「……!」
白川はヒイロを差し出した。
「すまないが、まだ救護しないといけない者がいるんだ。頼めるかい?」
ロロが受け取る。
白川は、爆風渦巻く煙の中へ再び飛び込んでいった。
◇
――バシャァッ!
水面から腕が伸びた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
アベルだった。
川岸の石へ指をかける。背中からは、まだ白い湯気が立っている。
焼けただれた身体を引きずるようにして、岸へ這い上がる。
「ぐっ……!」
肘をつく。膝を上げる。ようやく身体の半分が岸へ上がった。
「はぁ……はぁ……」
生きている。アベルは荒い息を吐いた。
教会は――もうない。
立ち昇る黒煙。崩れた建物。遠くから聞こえる悲鳴。
「ストレッチォ……」
返事などあるはずもない。
「……醜……!」
アベルの拳が震えた。
「貴様……!」
怒りに任せて身体を起こそうとする。
そのときだった。
――カチャ。
アベルの動きが止まった。
冷たいものが――額に触れている。
「……!」
ゆっくり。顔を上げる。
煙の中に――一人の人影が立っていた。
細身の身体。白い肌。少年とも青年ともつかない、美しい顔。
右手には拳銃。その銃口が――まっすぐアベルの眉間へ向けられている。
「……誰だ?」
男は答えなかった。
アベルが睨みつける。
「……何者だ、貴様」
男の口元が、ほんの少しだけ笑った。
そして。聞き覚えのある声で言った。
「ずいぶん――」
アベルの目が見開かれる。
「派手に焼けましたね」
「……!」
その声。
「まさか……」
男が笑う。アベルの顔から血の気が引いた。
「……醜……?」
「ご名答」
――カチッ。
拳銃の撃鉄が起こされた。アベルの額へ、銃口が押しつけられる。
男――シュウ=シラカワは、静かにアベルを見下ろした。
「俺たちはルル教団に興味もなければ、憎んでもいない」
「なら、なぜこんなことを!!」
アベルの怒声が河原に響いた。
シュウは答えない。ただ――
「でもね」
わずかに首を傾けた。
「イエロースーツはいけない……」
「……!」
アベルの表情が固まる。
「私はルル教の教主だ! イエロースーツなど――」
「俺たちの情報網を甘く見ちゃいけない」
言葉を遮った。
シュウの目から笑みが消える。
「資金の流れ。物資の横流し。砂漠に隠していたモビルスーツ――」
アベルの顔色が変わっていく。
「随分と仲良くしてたみたいじゃないですか、教主様」
言い返せない。
シュウはそんなアベルを、冷めた目で見下ろした。
「まあ――」
わずかに笑う。
「教主様の教えは、大変勉強になりましたよ」
「……!」
アベルは銃口を見た。先ほどまでの怒りが消えていく。
「ま、待て……」
「……」
「なあ……」
アベルの声が震える。
「もうこんなことはしない」
シュウは黙っている。
「イエロースーツとも手を切る! だから……今回だけでいい!」
アベルは必死にシュウを見上げた。
「勘弁してくれ……!」
「……」
その瞬間。シュウの左目が――紅く染まった。
「じゃあ――」
銃口をアベルの額へ押し当てる。
「俺からも一つ、教えておきましょう」
「……!」
静かな声だった。
「目には目を」
アベルの瞳が震える。
「悪には悪を」
シュウの指が引き金へかかる。
「犯罪には――犯罪を」
「ま、待――」
シュウが微笑んだ。
「さようなら」
――パンッ。
乾いた銃声。
アベルの身体から力が抜けた。そのまま――
――バシャッ。
川へ落ちる。流れに呑まれた身体は、ゆっくりと遠ざかっていった。
シュウは追わない。ただ銃を下ろし、その姿が見えなくなるまで眺めていた。
背後。煙の中から足音が近づいてきた。一人の女が姿を現す。
「シュウ様」
シュウが振り返る。
「ナナイ」
「資金・物資ともに調達完了しております」
ナナイは周囲を確認する。
「地元警備隊、憲兵ともに続々と集結中です。幸い、まだ爆煙が晴れていません」
一拍。
「脱出するなら、今かと」
「分かった」
シュウは拳銃をしまった。
「ナナイ」
「はい」
「ありがとう」
「……」
ナナイがわずかに目を見開く。
シュウはすでに歩き始めていた。
「脱出する」
「はい」
二人は並んで、再び爆煙の中へ入っていく。
やがて、その姿も完全に見えなくなった。
残されたのは――燃え上がる街。崩壊した教会。
そして。何事もなかったかのように流れ続ける川だけだった。
◇
煙は晴れてきていた。
瓦礫の上。大剣の男――朱麗は、ゆっくりと手を開いた。
そこには――先ほど教会から取り戻した、トライアングルのペンダント。
無事だった。
男はそれを確かめると、静かに握りしめた。
そのとき、朱麗の耳に声が入ってきた。
「ヒイちゃん……!」
聞き覚えのある声。
「……!」
男が振り向く。
破壊された教会の向こう。人影が見えた。地面に膝をつき、気を失った少年を抱いている。
あの女性は。昼間――人混みの中で見た、あの修理屋の娘だ。
その姿を見つめる。
男の足が――一歩、前へ出た。
今なら。今度こそ――声をかけられる。
そのときだった。
「シュウ様!」
「……!」
男の足が止まる。
「こちらです! 急いで!」
煙の向こうから女の声。視線を向けると、二つの人影が走ってくる。その後ろからも、警備兵らしき足音が迫ってきていた。
朱麗は動きを止めた。ここで姿を晒すわけにはいかない。
瓦礫の陰へ身を引く。
◇
一方――
「シュウ様、こちらです!」
ロロは、その声が気になった。
「……?」
ヒイロの無事を確認したロロは、後をアルフレッド親方に任せ、声の主を探した。
「誰……?」
知らない女の後ろから、一人の青年が走ってくる。
ロロの目が止まった。
白い肌。中性的なほど整った顔立ち。
そして何よりもロロの目を引いたのは、夕焼けを思わせる赤色の眼であった。
「…………綺麗……」
――あっ。ヒイロを助けてくれた人……。
ロロは、走り去っていく二人の背中をじっと眺めていた。
シュウも、走りながらロロを見た。
ほんの一瞬。だが。いつものシュウの冷徹な表情が変わった。
(……ミリア? いや……ミリアが生きているわけがない)
「シュウ様!」
ナナイの声。
「……! すまん、急ごう」
シュウは前へ向き直った。そのままロロたちの前を駆け抜けていった。
ロロの呟きに気づき、アルフレッドが振り返る。
「ん?」
「……」
ロロは自分でも分からないまま呟いた。
「さっきそこを通ってきた、あの人の……目」
「目?」
「うん……」
胸元へ手を当てる。
「夕日みたい――」
シュウの姿は、再び煙へ消えていく。
「すごく……綺麗だった」
「……? そうかね」
アルフレッドには何のことか分からない。
ロロ自身にも――分からなかった。
なぜ。ほんの一瞬見ただけの男が、こんなにも気になるのか。
◇
徐々に憲兵も集まってきた。
瓦礫の陰に身を潜めていた男は、彼女の周囲に人だかりが増え、危険がないことを確かめると、いつのまにか人混みに紛れて消えていた。
ここは、サハラ砂漠のとある街。
この日、この場所で起きた出来事など――長い歴史から見れば、ほんの些細な出来事に過ぎない。やがて人々の記憶からも消えていくだろう。
だが――この日。
一人の修理屋の少女と。一人の異質な旅人と。そして――愛という言葉すら知らぬ、影のような男。
三人の運命が――初めて交差した。
彼らがやがて、巨大な時代の渦へと呑み込まれていくことを――このときは、まだ誰も知らない。
……いや。
もしかしたら――一人くらいは。知っていたのかもしれない。
◇
夕焼け。
ヒイロが一人、丘の上に立っている。額には小さな絆創膏。
眼下には、煙の残る街。
そして――空を見上げる。
「白川先生……」
ヒイロは拳を握った。
「先生が救ってくれたこの命。僕、絶対――」
少しだけ笑う。
「有名になってみせるから!」
空へ向かって叫ぶ。
「見ててねーっ!!」
声が砂漠の空へ吸い込まれていく。
風が吹いた。
そして――
――END
第1話「砂漠の街」、最後までお読みいただきありがとうございました。
ここから、ロロ、シュウ、朱麗――三人の物語が始まります。
まだ三人は、お互いが何者なのかを知りません。
そして、この砂漠の街で起きた出来事が、これからどこへ繋がっていくのか。
尚、ヒイロ=ユイはガンダムWの主人公のコードネームであり、紛らわしくなって申し訳ありませんがこの話のヒイロとは関係ありません。ご了承ください。
次回もよろしくお願いいたします。