はじめまして。『GUNDAM TRIANGLE』をお読みいただき、ありがとうございます。
物語の始まりは、宇宙世紀の地球、サハラ砂漠に築かれた一つの街です。
ごく普通の朝、ごく普通の人々、ごく普通の騒がしさ。
その日常が、一日のうちに大きく変わっていきます。
ここから、三人の運命が動き出します。
どうぞ最後までお付き合いください。
――宇宙世紀。
人類が宇宙へ進出し、スペースコロニーを第二の故郷としてから、長い年月が流れた。
一年戦争。グリプス戦役。二度にわたるネオ・ジオンとの戦い。そして、地球へ落ちていくアクシズを巡る戦い――。
それから、さらに長い月日が流れた。
地球の人々は、次第に宇宙への関心を失っていった。宇宙には宇宙の政治があり、地球には地球の暮らしがある。関わらなければ、争うこともない。
だが、人々が大きな戦争を忘れても――争いそのものが、この世界から消えたわけではなかった。
◇
アフリカ大陸北部、サハラ砂漠。
焼けつく砂の大地に、ぽつりと一つの街があった。
街全体を、巨大な半球のドームが覆っている。スペースコロニーの環境制御技術を、地上で使えるようにしたものだ。
外は灼熱の砂漠。
けれど一歩中へ入れば、子供たちの笑い声と、商人たちの呼び声が聞こえてくる。工場も学校もある。ここが砂漠の真ん中だと言われなければ、誰も気づかないほどの街だった。
その住宅地に、一軒の家があった。
◇
「ヒイ! いつまで寝てるの!」
「……起きてるよぉ」
少年は布団を頭までかぶった。
名前はヒイロ。どこにでもいる、ごく普通の男の子だ。
「起きてる人は、布団かぶって返事しません!」
「学校、今日は休みじゃん……」
「休みだからって、昼まで寝ていい理由にはならないでしょ」
布団を一気にはがされ、ヒイロはベッドから転げ落ちそうになった。
居間から、父のキッシュの笑い声が聞こえる。
「諦めろ、ヒイ。お前が母さんに口で勝つのは、百年たっても無理だ」
「父さんだって、いつも母さんに負けてるじゃん」
父の笑顔が固まり、母が吹き出した。
「言われてるわよ、あなた」
「……朝から父親の威厳を壊すな」
食卓には、サツマイモの炒め物と、サツマイモのサラダ。
「またこれ?」
「砂漠の街で、毎朝違うものが食べられると思わないで」
「ロロ姉ちゃんのとこ行けば、なんかくれるかも」
「修理屋さんは遊び場じゃありません」
ロロ姉ちゃん――隣の機械修理屋で、最近住み込みで働き始めた女の人だ。ヒイロはすっかりなついて、暇さえあれば遊びに行っていた。
「父さんも母さんも、いちいち僕のこと子供扱いするんだから」
「子供じゃないか」
「そういうところが嫌なんだよ!」
ヒイロはパンをくわえて立ち上がった。
「いっへきまふ!」
「ちょっと、ヒイ!」
バタン、と扉が閉まった。
◇
「おはよう、アルおじさん!」
隣の修理屋に駆け込むと、油と金属の匂いがした。
カウンターの奥で、白髪まじりの老人が顔を上げる。店主のアルフレッドだ。
「おう、ヒイちゃん。また来たのかい」
「ロロ姉ちゃんは?」
「やっぱり、わしじゃなくてロロちゃんがお目当てか」
アルフレッドが苦笑して、奥の作業場を指さした。
「あ、ヒイちゃん。今は――」
止める間もなく、ヒイロは扉を開けた。
「ロロ姉ちゃーん!」
「えっ、ヒイちゃん?」
振り返った瞬間――バチッ!
修理中の機械から、細い煙が上がった。
「……あ」
「今、すごく大事なところだったんだけど……」
「ご、ごめん」
ロロは煙の出たところをしばらくにらんでから、ぱっと胸を張った。
「大丈夫! ロロ姉さまに不可能はない! ここからまた直してみせるよ!」
「さすがロロ姉!」
プスン……。
機械から、また煙が上がった。
二人の「あ」が、見事にそろった。
作業場の入口から、アルフレッドが顔を出す。
「……ロロちゃん。それ、今日中にお客さんへ返すやつなんだがねえ」
「だ、大丈夫だよ、アルフさん! ちゃんと直すから!」
「その台詞、昨日も聞いた気がするんだがねえ」
ヒイロが、そーっと後ずさる。
「じゃ、じゃあ僕はこれで……」
「ヒイちゃん! 一人だけ逃げない!」
「二人とも」
アルフレッドの声が、少し低くなった。
ロロとヒイロは、並んで小さくなった。
◇
その頃、街の入口。
フードをかぶった一人の青年が、砂まみれで検問所の前に立っていた。
名前はアベル。二十代後半の、穏やかな顔つきの男だった。
《認識カードを提示してください》
「いや……それが、ないんだ」
《認識カードを提示してください》
「だから、ないんだって。……君、なかなか頑固だね」
「おい。機械相手に何を話してるんだ?」
警備員が、あきれた顔で近づいてきた。
「すみません。ここへ来る途中、砂漠で襲われまして。カードも、水も、ホバーカーも取られました」
「誰に?」
「……黄色いパイロットスーツを着た連中です」
「イエロースーツか!」
警備員の顔から笑みが消えた。
顔と指紋の照合を済ませると、重い扉がゆっくりと開いた。
「中で水でも飲んで休め。運が悪かったな」
「命だけは取られませんでしたから。逆に、運がいいのかもしれませんね」
街へ入ると、涼しい空気が体を包んだ。
行き交う人々。元気に走り回る子供たち。
「……いい街だ」
アベルは、誰に聞かせるでもなくつぶやいた。
◇
アルフレッドにたっぷり叱られたヒイロは、ぶつぶつ言いながら通りを歩いていた。
「今日は朝から怒られてばっかりだ……」
その先に、人だかりができていた。
「払えねえってんなら、こいつはもらってくぜ」
甲高い声。
露店の前で、憲兵の制服を着た男が、店の果物を勝手にかじっていた。
小柄で、人相が悪い。
男の名は――醜。まさしく名前どおりの男であった。
「お、お代を……」
「俺たちはこの街を守ってやってんだぜ? 警備代ってことでいいじゃねえか」
周りの店主たちは、目をそらすばかりだった。
ヒイロの眉がつり上がった。
「おじさん。それって、泥棒じゃん!」
通りが、しんと静まり返った。
「……今、なんつった?」
「お金払わないで持っていったら、泥棒だろ? 憲兵なら泥棒していいの?」
醜は果物を放り捨て、ヒイロの胸ぐらをつかんだ。
「親から口のきき方を教わらなかったのか?」
「父さんは、悪いことしてる人を見て黙ってるほうが恥ずかしいって言ってた!」
「そうかい。じゃあ、その立派な父ちゃんに、教育をやり直してもらわねえとなぁ」
醜はヒイロを軽々と持ち上げ、人垣へ投げ飛ばした。
◇
「それって、泥棒じゃん!」
店の外から聞こえた声に、ロロの手が止まった。
「この声……ヒイちゃん?」
ゴーグルをかけ、口元に作業用のマスクを着けたばかりだった。
嫌な予感がした。ロロは分厚いスパナを握って、そのまま通りへ飛び出した。
「おい、ロロ! そんな格好でどこへ――」
アルフレッドの声は、最後まで聞こえなかった。
人垣をかき分けると、ちょうどヒイロが投げ飛ばされるところだった。
「あんた、何してんのよ!」
醜が振り向き――面食らった。
「……おめえこそ、なんちゅう格好してんだ?」
「え?」
言われて、ロロは初めて自分の姿を思い出した。
作業着。大きなゴーグル。口元のマスク。
そして周りは、野次馬だらけの大通り。
――わ、僕……この格好で飛び出してきたの!?
マスクの下で、頬が一気に熱くなった。
「そ、そんなことどうでもいいでしょ! 子供相手に何やってんのよ!」
勢いだけで言い切ると、ロロはくるりと背を向け、逃げるようにヒイロへ駆け寄った。
「ヒイちゃん! どこ打ったの? ……ああ、もう、邪魔!」
ゴーグルを額へ押し上げ、マスクを外す。
「なんだ……ロロ姉だったんだ。顔、赤いよ?」
「うるさい」
「――何をやっておる、醜!」
通りに鋭い声が響いた。
ルル教会のストレッチォ司教と、守備隊長だった。
醜の顔が、たちまち引きつった。
◇
その騒ぎを、人垣の後ろから見ている男がいた。
深くかぶった笠。背中には、その長身にさえ不釣り合いなほど巨大な大剣。
この街には似合わない、異国の旅人だった。
男は、ゴーグルとマスクの女を、どこか自分に似たはみ出し者のように眺めていた。
その女が、ゴーグルを上げた。マスクを外した。
「ヒイちゃん、痛いところは?」
その横顔が、男の目に入った。
「……!」
一瞬、周りの騒ぎが遠のいた。
見間違いか。いや――。
足が、半歩前へ出た。
今すぐ人垣をかき分けて、あの女のもとへ――。
「ちっ、分かったよ! 今日は司教様に免じて、勘弁してやらぁ!」
醜の声が響き、憲兵たちが一斉に動き出した。
人の流れが、男の行く手をふさぐ。
男は足を止め、笠をわずかに伏せた。
そして、女に背を向けると、醜たちが去っていった方角へ歩き出した。
◇
人気のない路地裏。
「ったく、あのクソガキ……人を泥棒呼ばわりしやがって」
醜がつばを吐いたとき、向こうから包みを抱えた女性が歩いてきた。
「醜さん。あの女、さっきのガキの母親っすよ」
醜の口元が、にたりとゆがんだ。
「へぇ……あんたんとこの坊主に、えらい恥かかされちまってよ」
「ヒイロが、何をしたんです?」
「人を泥棒呼ばわりしやがった」
ヒイロの母は、まっすぐ醜を見返した。
「それで? あなたは、お金を払ったんですか?」
「……」
「払わずに持っていこうとしたのなら、あの子の言ったことは間違っていないと思いますけど」
醜の頬が、ぴくりと引きつった。
そして、下卑た笑みが浮かんだ。
「だったらよぉ。息子の代わりに、母ちゃんが詫び入れてくれてもいいんだぜ?」
母が一歩下がる。
醜は、その分だけ距離を詰めた。
「醜! くだらん真似はするな」
守備隊長が一喝したが、醜は手をひらひら振るだけだった。
「へいへい」
「……俺は先に教会へ戻る。お前もさっさと来い」
守備隊長たちが去り、路地に残ったのは、醜と取り巻き数人、そして母だけになった。
「さて。邪魔者もいなくなったことだし――」
――コツ。
路地の入口に、笠の男が立っていた。
「俺の勘が告げている。お前が、諸悪の根源だと」
男は、背中の大剣を抜いた。
まるで重さがないかのように、すっと。
「お前を斬る」
「……はっ。頭がおかしいんじゃねえのか、てめえ」
醜があごをしゃくると、憲兵たちが一斉に銃を抜いた。
それでも、男の足は止まらない。
「――不殺」
その一言に、醜の体が勝手に後ずさった。
「お、お前ら! 撃て! 撃っちまえ!」
醜は部下の後ろへ逃げ込んだ。
かつての時代、料理の達人は、生きた魚を、魚自身が気づかぬほど速く捌いたという。
その域に達した剣が、今ここにあった。
一閃。
ただ、それだけだった。
――カチン。
男が大剣を鞘に納める音だけが、路地に響いた。
銃声は、一発も上がらなかった。
憲兵たちは、自分たちがもう戦えない体になっていることに、ようやく気づいた。痛みすら、まだ追いついていない。
ただ一人、醜だけが無傷で後ずさっていた。
「……おかしいな。君も、討ち取ったと思ったんだがな」
「ひっ……! この化け物め! 俺は勝てる戦いしかしねえんだよ!」
情けない叫び声を残して、醜は逃げていった。
男は追わなかった。
「あの小心者ならば、これに懲りて、しばらくは悪行もできまい」
笠を深くかぶり直し、男は路地の向こうへ消えた。
へたり込んだ母の前に、別の足音が近づいてきた。
「大丈夫ですか」
アベルだった。
騒ぎを聞いて、駆けつけてきたらしい。
「立てますか。ひどい目に遭いましたね。家まで、お送りしましょう」
震える母の手を取り、アベルは優しく微笑んだ。
◇
川沿いの土手。
診療所で額に絆創膏を貼ってもらったヒイロは、一人で川に小石を投げていた。
「なんか疲れた。明日、学校行きたくないなぁ……」
「それは先生としては、聞き捨てならないな」
振り返ると、若い男が笑っていた。
二十歳にも届いていないように見える。ヒイロの学校へ研修に来ている、白川先生だ。
「先生!」
「その頭、どうしたんだい?」
「ちょっと転んだ。……今日は僕、悪くないもん!」
「今日は?」
「あっ」
白川はくすりと笑った。
年が近いせいか、ヒイロにとって白川先生は、兄のような存在だった。
「先生、もう研修終わりなんでしょ?」
「ああ。この学校での研修はね」
「……寂しいな。ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
白川は、川へ目を向けた。
「ヒイロ。今日は寄り道しないで帰ったほうがいい。この辺りで、憲兵が何人か襲われたそうだ」
「えっ!?」
「君は今日、もう十分けがをしてるだろ? まっすぐ帰ること」
「はーい」
白川が背を向ける。
「先生! また学校来る?」
ほんの一瞬、白川は黙った。
それから、いつもの柔らかな笑顔で振り返った。
「今度は、本当の先生になれたらね」
◇
「ただいまー」
居間に、見知らぬ男が座っていた。
「こちらはアベルさん。今日、母さんが困っていたところを、家まで送ってくださったのよ」
「母さんを? ……ありがとう、アベルさん!」
あまりにまっすぐな礼に、アベルは一瞬目を丸くして、それから笑った。
「どういたしまして」
母は、ヒイロの額に気づいた。
「その額……あなた、憲兵に喧嘩を売ったんですって?」
「喧嘩じゃないよ! あいつが泥棒してたから――」
ドンドンドン!
玄関を、憲兵が叩いていた。
「先ほど、この近くで我々の同僚が襲われました。その場に奥様がいらしたと聞いています。事情を伺えますか」
「でしたら」
アベルが立ち上がった。
「私もご一緒しましょう。襲った男の姿は、私も見ています」
「僕も行く! 母さんとアベルさんだけじゃ心配だもん!」
◇
守備隊の詰所。
母とアベルは、別々の部屋で話を聞かれた。
大剣の男とは、二人とも面識がない。言うことに食い違いもない。
調べはすぐに終わった。
「ご協力、ありがとうございました」
母がほっと胸をなで下ろしたとき、扉が開いた。
入ってきたのは、教会の制服を着た男だった。
「キッシュ氏の奥方ですね。ご主人に、宗教毀損罪の疑いがかかっております。教会までお越しください」
「主人が……?」
待合室から、ヒイロが駆けてきた。
「父さんのこと? じゃあ僕も行く!」
アベルは、静かにうなずいた。
「一緒に行こう、ヒイロ君」
◇
ルル教会。
高い天井の下、正面にストレッチォ司教が座っていた。
その前に、両手と両足を鎖でつながれた父が立っていた。
「父さん!」
「ヒイロ。俺は大丈夫だ」
司教の右隣に、見覚えのある憲兵がいた。
醜だった。
醜はヒイロと目が合うと、にやりと笑い、中指を立てた。
「ふざけんな!」
「ヒイロ!」
母が慌てて押さえる。
「静粛に」
司教の声が響いた。
「キッシュ。お前は以前から、ルル教団がイエロースーツと手を結んでいると、人々に言い広めていた」
「疑問を口にしただけだ! 疑うことまで罪なのか!」
「教えを嘘だと言い広め、信徒の信仰を乱すことは、この街では宗教毀損の罪にあたる」
司教は、小さな箱を開けさせた。
中には、三角形のペンダントが入っていた。
「これは今日、憲兵を襲った大剣の男がいた場所から見つかった。かつての教主、ルル=スーン様ご自身が身につけておられた品だ。教主様が殺されたとき、失われたものだ」
アベルが、そのペンダントをじっと見つめた。
「……トライアングル」
続いて、布に包まれた品が運び込まれた。
「そして、大剣の男とつながる品が、お前の家から見つかった」
「そんな物、家にはありませんでした!」
母が叫ぶ。
醜が横で、にやにやと笑っていた。
「さあなぁ。家から出てきたもんは、家から出てきたんだろ?」
アベルが、一歩前へ出た。
「司教。私はあの大剣の男を見ています。キッシュさんとあの男がつながっている証拠は、何一つありません。これだけで結びつけるのは、あまりにも乱暴です」
ストレッチォは、しばらく黙っていた。
そして、告げた。
「被告キッシュ。宗教毀損の罪、および憲兵襲撃に関わった疑いにより――死罪とする」
ヒイロには、その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
「死刑の執行は、守備隊へ引き渡す」
「やめて! あなた!」
「父さん!」
「ヒイロ! 母さんから離れるな!」
醜が、父の鎖をつかんで引いていく。
飛びかかろうとしたヒイロの肩を、アベルがつかんだ。
「ヒイロ君。私も、こんな裁きは納得できない。まだ終わったわけじゃない」
「じゃあ、父さんを助けてよ!」
「……できることは、やってみよう」
アベルは、もう一度司教へ向き直った。
だが司教は、首を横に振るだけだった。
「くどいぞ、アベル」
アベルは振り返り、ヒイロの目の高さまでしゃがんだ。
「まだだよ。方法は、ほかにもある。任せてほしい」
「父さん、助かる?」
アベルは、ほんの一瞬だけ黙った。
そして、微笑んだ。
「諦めるには、まだ早いよ」
――ゴォン。
教会の外で、鐘が鳴った。
「行こう、ヒイロ君。お父さんのところへ」
ヒイロは、母の手を握った。
アベルが一緒なら、まだ父さんを助けられる。
そう、信じていた。
◇
広場には、もう人垣ができていた。
その真ん中に、木で組んだ処刑台。巨大な刃が吊り下がっている。
ギロチンだった。
「父さん!」
駆け出したヒイロと母を、憲兵たちがさえぎった。
「待ってください! せめて、執行を延ばして――」
アベルの声も、教会の役人に冷たくはねつけられた。
処刑台の脇には、醜が立っていた。
「また会ったな、坊主」
父は最後まで、息子の顔を見ていた。
その頭に、黒い頭巾がかぶせられた。父の顔が、ヒイロの前から消えた。
――チリーン。
死刑執行の鈴が鳴った。
醜が、頭巾の耳元へささやいた。
「寂しくねえように、おめえの女房も俺のものにしてやるからな。安心しな」
「――やめろおおおおっ!」
――ガコン。
刃が落ちた。
黒い頭巾に包まれたものが、処刑台から転がり落ちた。
母が、その場に崩れ落ちた。
ヒイロは、動けなかった。声も出なかった。
ついさっきまで、自分の名前を呼んでいたのに。
◇
――コツ。
ヒイロの横を、アベルが通り過ぎた。
処刑台の前で、黒い頭巾に包まれたものを見下ろす。
そして、踏みつけた。
「……アベル、さん?」
「いつまで待っているつもりだったんだい、ヒイロ君」
いつもの穏やかな声だった。だからこそ、恐ろしかった。
「君は私に『助けて』と言った。だから私は『できることはやってみよう』と言った。そして君は、私を信じて待っていた」
「そうだよ……!」
「だから、こうなった」
「……え?」
「君は何もしていない。泣いて、叫んで、最後には私を頼っただけだ。君のお父さんだろう? どうして私が、君以上に必死にならなくちゃいけないんだ?」
ヒイロの目から、涙がこぼれた。
悲しみではなかった。怒りだった。
「私も昔、待っていたことがあるんだ。『大丈夫だ、助けは来る。ここで待っていろ』と言われてね」
アベルの笑みが、一瞬だけ消えた。
「結局、誰も来なかった。だから覚えたんだ。自分の運命を、他人に預けちゃいけないってことをね」
「……嘘つき!」
ヒイロが拳を振り上げて飛びかかった。
その小さな拳を、アベルは片手で受け止めた。
「それでいい。今、君は初めて、私に頼らず自分で動いた。……遅かったね、ヒイロ君」
「なーんも変わんねえよ」
割って入ったのは、醜だった。
「この街じゃ、正しいかどうかなんざ関係ねえ。捕まっちまえば有罪。力がありゃ、それが正義だ。……なあ、そうでしょう?」
醜は、アベルへ向かってわざとらしく頭を下げた。
「――アベル教主さま」
「……教主?」
ヒイロはアベルを見た。
アベルは答えなかった。その沈黙だけで、十分だった。
「醜。君は本当に、余計なことを喋るね」
「へっ。お忍びで街へ来た教主様の、ありがたい教えだ。よかったじゃねえか、坊主」
醜は、ヒイロへ指を一本立ててみせた。
「困ったら誰かが来てくれる。悪い奴が出てきたら、正義の味方がどっかから現れて、ぶっ飛ばしてくれる。……そんな都合のいい話は、ねえんだよ。ヒーローなんていやしない。あるのは――『悪』のみ」
そして、アベルを見た。
「なあ? 教主様ぁ」
そのとき。
アベルの足の下で、黒い頭巾に包まれたものが、空気が抜けるように、ぺしゃんこにつぶれた。
「……な! 醜、貴様……!」
醜は、もうアベルを見ていなかった。
胸元から、小さな通信機を取り出す。
「ナナイ。部隊へ攻撃命令。……破壊しろ」
――ドォォォン!
街の外の砂漠で、爆発が起きた。
続けて二つ、三つ。黒煙が上がる。広場が騒然となった。
醜はヒイロの横にしゃがみ込み、耳元で低く言った。
「期待するな。今日のことは、全部忘れろ。……いいな?」
「応答しろ! 何が起きている!」
アベルが通信機に怒鳴っていた。
「無駄ですぜ、教主様。通信先は、全部ぶっ壊してますんで」
「醜……! 裏切ったのか!」
「滅相もない。最初から――裏切ってなど、ございません」
アベルの顔がこわばった。
「ストレッチォ! 脱出するぞ!」
二人は、教会の裏手へ駆け出した。
醜は、追わなかった。
「それは――無理かと」
◇
――ダンッ!
大きな影が、人垣を飛び越えた。
大剣の男だった。
男は醜には目もくれず、教会へ飛び込んだ。
逃げまどう信徒の間を駆け抜け、祭壇に置かれていた三角形のペンダントをつかむ。
「ようやく、見つけた」
広場では、醜が小さなスイッチを取り出していた。
「カ・ゲ・ロ・ウ」
《音声認証、完了。パスワード『カゲロウ』、承認。実行します》
――カチッ。
◇
街から数キロ離れた砂漠。
砂丘の一角が、ザザザ……と崩れ始めた。
砂の下から、鋼鉄の腕が現れた。肩。頭。
赤茶けた砂とさびに覆われた、一機のモビルスーツだった。
装甲に、かすれた文字が見える。
《S Z B》
いや――《SAZABI》と、読めなくもない。
――ブゥン。
モノアイに、光がともった。
機体は立ち上がらない。砂に埋もれたまま上体だけを起こし、遠くの街の真ん中――宮殿のような教会へ、照準を合わせた。
腹部の奥で、低いうなりが大きくなっていく。
次の瞬間。
灼熱のビームが、砂漠を一直線に切り裂いた。
◇
ビームが教会を貫く、その寸前。
大剣の男は、ペンダントを握ったまま、石の床を砕いて天井近くまで跳び上がった。
その真下を、ビームが通り過ぎた。
教会の裏手では、ストレッチォが脱出用のヘリに飛び乗ったところだった。
アベルが、あと一歩で足をかける――。
その一歩が、間に合わなかった。
ヘリは、ビームにのみ込まれた。
爆風がアベルを吹き飛ばし、背中を焼き、壁へたたきつけた。
宮殿のような教会に、無数のひびが走った。
そして、内側から崩れ落ちた。
砂煙が、街をのみ込んだ。
◇
一拍遅れて、爆風が広場を襲った。
醜のすぐ横に、ヒイロがいた。
「ちっ!」
考えるより先に、体が動いていた。
醜はヒイロを抱え込み、自分の背中で爆風を受けた。
地面を転がり、背中に瓦礫が当たる。服の下に仕込んだ防護服が、衝撃を吸い込んだ。
風が通り過ぎた。
あたりは煙と砂ぼこりで、数歩先も見えない。
「おい。……ヒイロ」
頬を軽くたたく。
息はある。けがもない。気を失っているだけだった。
「ヒイちゃーん!」
「返事をしろ、ヒイロ!」
煙の向こうから、女と老人の声がした。
昼間の、あのゴーグルの姉ちゃんだ。
醜は、自分の格好を見た。
この顔で「坊主を助けたから受け取れ」と言っても、信じてもらえるわけがない。
「……しゃあねえな」
醜は、自分の顔へ手を伸ばした。
慣れた手つきで、変装をはがしていく。
その下から現れたのは、白い肌と、男とも女ともつかないほど整った顔だった。
「……せ……ん……せい……?」
ヒイロの目が、一瞬だけ開いて、また閉じた。
「こっちだ! ヒイロ君はここにいる!」
駆けつけたロロに、白川はヒイロを渡した。
「気を失っているだけだ。まだ助けなきゃいけない人がいる。この子を頼めるかい?」
そう言うと、白川は再び煙の中へ飛び込んでいった。
◇
――バシャァッ!
川から、焼けただれた腕が伸びた。
アベルだった。爆風で吹き飛ばされ、川へ落ちて、命だけはつないでいた。
「ストレッチォ……。醜……! 貴様……!」
岸へはい上がった、そのとき。
冷たい銃口が、額に当てられた。
「……誰だ」
煙の中に、白い肌の青年が立っていた。
「ずいぶん、派手に焼けましたね」
「……その声……醜、か?」
「ご名答」
青年――シュウ=シラカワは、静かにアベルを見下ろした。
「俺たちは、ルル教団に興味もなければ、憎んでもいない。でも――イエロースーツは、いけない」
「私は教主だ! イエロースーツなど――」
「資金の流れ。物資の横流し。砂漠に隠していたモビルスーツ。随分と仲良くしていたじゃないですか、教主様」
アベルの顔から、血の気が引いた。
「ま、待て……もうしない。イエロースーツとも手を切る! 今回だけでいい、勘弁してくれ……!」
シュウの左目が、紅く染まった。
「じゃあ、俺からも一つ教えておきましょう。目には目を。悪には悪を。犯罪には――犯罪を」
「ま、待――」
「さようなら」
――パンッ。
アベルの体は川へ落ち、流れにのまれて遠ざかっていった。
煙の中から、一人の女が現れた。
「シュウ様。資金、物資ともに調達完了しております」
「ナナイ。あの男は」
「キッシュ氏は、頭巾をかぶせる前にすり替えました。街外れの給水塔の下で、眠っています。夜には見つかるでしょう」
「そうか」
シュウは、拳銃をしまった。
「ありがとう、ナナイ」
ナナイが、わずかに目を見開いた。
シュウはもう、歩き出していた。
「脱出する」
「はい」
◇
煙が、少しずつ晴れてきた。
瓦礫の上で、大剣の男――朱麗は、手の中のペンダントを確かめた。
無事だった。
「ヒイちゃん……!」
聞き覚えのある声に、朱麗は振り向いた。
崩れた教会の向こうで、昼間の修理屋の娘が、気を失った少年を抱いている。
足が、一歩前へ出た。
今なら。今度こそ、声をかけられる。
「シュウ様、こちらです!」
煙の向こうから、女の声と足音が近づいてきた。その後ろからは、警備兵の足音も迫っている。
朱麗は、瓦礫の陰へ身を引いた。
◇
「シュウ様、こちらです!」
ロロは、その声のほうを見た。
知らない女の後ろから、一人の青年が走ってくる。
白い肌。整った顔立ち。
そして何より目を引いたのは、夕焼けのような赤い瞳だった。
「……綺麗……」
――あっ。ヒイちゃんを助けてくれた人だ。
走りながら、シュウもロロを見た。
ほんの一瞬。いつもの冷たい表情が、崩れた。
(……ミリア? いや……ミリアが生きているわけがない)
「シュウ様!」
「……すまん。急ごう」
シュウはロロたちの前を駆け抜け、煙の中へ消えていった。
「ロロちゃん、どうした?」
「さっきの人の、目……夕日みたいで。すごく、綺麗だった」
「……そうかね」
アルフレッドには、何のことか分からなかった。
ロロ自身にも、分からなかった。
ほんの一瞬見ただけの男が、なぜこんなにも気になるのか。
瓦礫の陰の男は、娘の周りに人が集まり、危険がないことを確かめると、いつのまにか人混みに消えていた。
◇
ここは、サハラ砂漠のとある街。
この日に起きた出来事は、長い歴史から見れば、ほんの小さな出来事にすぎない。やがて、人々の記憶からも消えていくだろう。
だが、この日。
一人の修理屋の少女と。一人の異国の旅人と。そして、愛という言葉すら知らない、影のような男。
三人の運命が――初めて交差した。
彼らがやがて、大きな時代のうねりにのみ込まれていくことを、このときはまだ、誰も知らない。
……いや。
もしかしたら、一人くらいは。知っていたのかもしれない。
◇
その夜。
街外れの給水塔の下で、縛られたまま眠っていたキッシュが見つかった。
母は泣きながら夫にすがりつき、ヒイロは、生きている父の手を、何度も何度も握った。
なぜ助かったのか、父自身にも分からなかった。
次の日の夕方。丘の上。
額に絆創膏を貼ったヒイロが、一人で空を見上げていた。
眼下には、まだ煙の残る街。
気を失う前、煙の中で見た顔を、ヒイロは覚えていた。
「白川先生……」
ヒイロは、ぎゅっと拳を握った。
「先生が救ってくれたこの命。僕、絶対――有名になってみせるから!」
空へ向かって、思い切り叫ぶ。
「見ててねーっ!」
その声は、砂漠の空へ吸い込まれていった。
(つづく)
第1話「砂漠の街」、最後までお読みいただきありがとうございました。
ここから、ロロ、シュウ、朱麗――三人の物語が始まります。
まだ三人は、お互いが何者なのかを知りません。
そして、この砂漠の街で起きた出来事が、これからどこへ繋がっていくのか。
尚、ヒイロ=ユイはガンダムWの主人公のコードネームであり、紛らわしくなって申し訳ありませんがこの話のヒイロとは関係ありません。ご了承ください。
次回もよろしくお願いいたします。