ギアナ高地へ向かった朱麗が見たもの。そして、これまで謎に包まれていた朱麗の出生と、ムーン・ムーンで過ごした幼少期が明らかになります。
過去と現在がつながる物語を、どうぞお楽しみください。
ここは、ギアナ高地。
かつてエンジェルフォールと呼ばれた大瀑布。その麓に広がる大森林の中に、朱麗は立っていた。
しかし、滝の音が聞こえない。
朱麗は濡れた岩の上で足を止めた。
木々の切れ間から見える地形は、記憶にあるものとよく似ている。川の曲がり方も、遠くにそびえる岩壁も、かつて師匠と修行した場所そのものだった。
だが、そこにあるはずの滝も、カナイマの町もなかった。
修行の合間に食料を買いに下りた町。
滝を目当てに集まる人々の声。
夕方になると灯りのともった通り。
今は、川と森があるだけだった。
「……ここも、違うのか」
朱麗は背負っていた荷を下ろした。
底に残っていた保存食は、昨夜すべて食べ尽くしている。
川の水は飲めた。だが、雨で火を起こせない日が続き、身体は思うように動かなくなっていた。獲物の気配を追って森へ入っても、追いつく前に足が止まる。引き返す距離だけが、日に日に長くなっていった。
朱麗は目の前の景色を、もう一度見渡した。
似ている。
だからこそ、違いが分かった。
「やはり……俺の知っている地球ではないのか」
荷を持ち上げようとした手が滑った。
膝が岩に当たる。
立とうとしても、足に力が入らない。
「すまない……。こんなことになるとは……」
川の音が遠ざかっていく。
閉じかけた目に、見知らぬはずの古い通路が浮かんだ。
『師匠?』
頭の中で、誰かの声が響いた。
『師匠……しっかりして!』
その声に引かれるように、朱麗の意識は遠い記憶の中へ沈んでいった。
◇
かつて、一年戦争の最中。
地球連邦軍の少尉と、ジオン軍技術士官の妹だった女性は、戦場で運命的な出会いを果たした。
本来ならば敵同士だった二人は、互いを知り、愛し合い、ついには双方の軍から離れる道を選んだ。
地上での平穏な暮らしが、このまま続くと思われた。
だが、やがて二人の素性は知られ、再び追われる身となった。
地球に安住の地を失った二人は宇宙へ渡り、長い逃避行の末、一つの閉鎖されたコロニーへと流れ着いた。
その名は、ムーン・ムーン。
二人をかくまい、集落へ連れてきたのはカレルという男だった。
集まった人々を前に、カレルは静かに口を開いた。
「この二人は、戦いを持ち込みに来たのではありません。戦いから逃れてきたのです」
奥に座るエルド=ムーンは、二人を険しい目で見据えた。
「外で生まれた汚れた技術で、この地まで汚すつもりではあるまいな」
男が答えるより先に、隣の女性が口を開いた。
「私たちは、ここで静かに暮らしたいだけです」
「エルド殿。この二人は、もともと敵同士でした」
カレルの言葉に、人々の間からざわめきが起こった。
「それでも、二人は共に生きることを選んだ。二人が求めているのは戦いでも、外の技術でもありません。ただ、帰る場所なのです」
エルドはしばらく黙っていた。
やがて、男へ尋ねた。
「武器を置けるか」
「ああ」
男は短く答えた。
「ここで暮らすことを許されるなら、ここの決まりに従う」
エルドが頷くと、カレルはもう一つ願い出た。
「それから、どこで二人の名が漏れるか分かりません。ここでは別の名で呼ぶことをお許しください」
男は、解慕漱(ヘモス)。
女は、柳花(ユファ)。
二人はそう名乗り、ムーン・ムーンで新しい暮らしを始めた。
◇
年月が過ぎた。
ヘモスとユファには、瑠璃(ユリ)という息子が生まれた。
やがてユリも一人の子を授かり、その子は朱麗と名づけられた。
当初、よそ者である二人を警戒していた人々も、長い歳月の中で少しずつ心を許していった。
そんなある日のことだった。
「じっちゃん。これ、まだ動くと思う?」
幼い朱麗が差し出したのは、泥を落としたばかりの小さな部品だった。
ヘモスは顔をしかめた。
「どこで拾った」
「水路の向こう」
「そこには近づくなと言っただろう」
「近づいてないよ。棒で引っかけたんだ」
言い返す朱麗の背後で、ユファが小さく笑った。
朱麗は部品を掌で転がし、表面に残る細い傷を見つめている。何に使われていた物なのか、知りたくてたまらない顔だった。
ヘモスは、その手から部品を取り上げた。
「捨ててきなさい」
「でも、じっちゃんなら分かるんでしょ?」
答えられずにいると、朱麗はユファを振り向いた。
「ばあばなら?」
「私にも見せて」
ユファは部品を受け取り、傷のある面を指先でなぞった。
「……ずいぶん古い物ね」
「動く?」
「今日は、ここまで」
ユファは部品を朱麗へ返した。
朱麗は不満そうに唇を結んだが、それ以上は聞かなかった。
その横顔を見つめ、ヘモスは小さく息をついた。
「ああいうところは、ユリにそっくりだな」
ユファの指が止まった。
朱麗が顔を上げる。
「父さんも、こういう物が好きだったの?」
「……ああ」
ヘモスは、それだけ答えた。
朱麗には、父親はすでに死んだと伝えてある。
物心もつかない頃に姿を消した父のことを、二人は長く語らずにいた。
◇
朱麗が十二歳になった頃。
古い水路のそばで、子供が一人、崩れ落ちた板材の下敷きになった。
雨を含んだ土は崩れやすく、助けに来た大人たちも迂闊に近づけない。板材を持ち上げようとするたび、その上に積もった石が音を立てて動いた。
「誰か、支えられる物を持ってこい!」
「間に合わない! また崩れるぞ!」
板材の下から、子供の泣き声が聞こえた。
朱麗は走った。
水路の脇に放置されていた、動かないはずの作業機械へ。
「朱麗、待て!」
ヘモスの声が背中に飛ぶ。
朱麗は開いた覆いの中へ潜り込み、記憶を頼りに配線を手探りでつないだ。以前見つけた、途中で切れている線だった。
「ここを、こっちへつなげれば……!」
一度、鈍い音がした。
そして、止まっていた計器に光がともった。
作業機械が低く唸り、錆びた腕を持ち上げる。
人々が一斉に振り返った。
「朱麗、腕をそのまま固定しろ!」
「うん!」
作業機械の腕が、崩れかけた板材を押さえ込む。
その隙にヘモスが駆け込み、下敷きになっていた子供を引き出した。ユファが泥の上へ膝をつき、その身体を抱き寄せる。
一瞬の静寂。
やがて、子供が大きな声で泣き出した。
「よかった……」
朱麗は作業機械から飛び降りた。
周囲から、安堵の声が上がる。
だが、その声は、駆けつけた衛兵の姿を見て次第に消えていった。
動くはずのなかった機械。
それを動かした子供。
やがて朱麗だけでなく、止めなかったヘモスとユファも、その場で連行された。
◇
扉が閉まる音が、狭い牢の中に響いた。
「入れ」
見張りの男は三人を押し込むと、外から鍵を掛けた。
朱麗はユファの手を握り、男が通路の向こうへ消えていくのを見つめた。
「僕たち、牢屋に入れられるようなことしてないじゃないか」
「朱麗。あの子を助けるためだったとしても、私たちはここの掟を破ったの」
「でも……」
「事情が分かれば、きっと出してもらえるわ。だから、今は我慢して」
「ほんと?」
「ええ」
ユファは笑ってみせた。
朱麗は頷いたが、その手はユファの服を握ったままだった。
夜になり、昼間と同じ見張りの男が戻ってきた。
足音は一人分しかない。
男は通路の左右を確かめると、無言で牢の鍵を開けた。
「行ってください」
ヘモスは動かなかった。
「どういうつもりだ」
男は扉を押さえたまま答えた。
「あなたたちが助けてくれたのは、俺の子です」
ユファが朱麗の手を強く握った。
「時間がありません。次の見張りが来ます」
男の案内で三人は牢を抜け出し、暗い通路を走った。
外へ出ると、ヘモスが先に立ち、ユファは朱麗の手を引いて古い設備の残る区画へ向かった。
間もなく、背後で警報が鳴った。
「ヘモスたちが逃げたぞ!」
追手の声が近づいてくる。
ヘモスは足を止め、振り返った。
「俺が衛兵を引きつける。二人は先に行け」
「あなたはどうするの?」
「捕まっても、すぐに殺されることはない。ほとぼりが冷めるまで待つんだ。必ず後から行く」
「でも……」
「朱麗を頼む」
ヘモスはユファの返事を待たず、二人とは反対の方向へ駆け出した。
「俺はここだ! 捕まえてみろ!」
その声に気づいた衛兵たちが、一斉にヘモスを追っていく。
ユファは唇を噛み、朱麗の手を引いて走った。
◇
二人がたどり着いたのは、古い設備の残る草むらだった。
ユファは地面に半ば埋もれた錆びついた覆いを見つけ、両手で引き上げた。
その下には、一機の古い脱出ポッドが隠されていた。
「これ、動くの?」
「動かすわ」
ユファは操縦席へ身体を滑り込ませ、操作盤の蓋を外した。奥にある端子をつなぐ。
反応はない。
もう一度、別の端子へつなぎ直す。
短い電子音とともに、計器へ光がともった。
「……まだ生きてる」
安堵したのも束の間だった。
ユファの視線が、酸素残量の表示で止まる。
残っているのは、規定量の半分。
一人なら地球まで届く。
だが、二人ではもたない。
ユファは何も言わず、朱麗の肩を押した。
「先にお行き」
「ばあばは?」
ユファは朱麗を座席へ座らせ、震える指でベルトを締めた。
「私たちは、別のポッドで後から行くわ」
「じっちゃんも?」
「ええ。じっちゃんと一緒に、すぐ追いかける」
朱麗は開いたハッチの向こうを見た。
そこにヘモスの姿はない。
「地球に着いたら、迎えに行くわ。それまで待っていて」
「約束だよ」
ユファは朱麗の頬に触れた。
「……約束よ」
ハッチが閉まる。
朱麗は小さな窓へ掌を当てた。
外側で、ユファも同じ場所に手を重ねる。
発進を知らせる警告灯が回り始めた。
ポッドが射出位置まで引き込まれ、発射口の隔壁が閉じていく。
最後まで、朱麗は窓の向こうのユファを見つめていた。
隔壁が閉じた。
次の瞬間、激しい衝撃が朱麗の身体を座席へ押しつけた。
古い脱出ポッドが、ムーン・ムーンを離れていく。
小窓の向こうで、朱麗の故郷が少しずつ遠ざかっていった。
朱麗はまだ知らなかった。
自分を追ってくるはずの、もう一機の脱出ポッドなど存在しないことを。
「待ってるからね……じっちゃん、ばあば」
その声を乗せて、ポッドは青い地球へと落ちていった。
(中編へつづく)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は朱麗の過去を描く前編として、祖父母との暮らしから、ムーン・ムーンを離れるまでを描きました。
人を助けるために使った機械が、朱麗たち家族の運命を大きく変えてしまう。そして幼い朱麗は、祖父母との「また会える」という約束を信じたまま、一人で地球へ向かうことになります。
後編では、地球へ降りた朱麗がどなるのか?
次回もよろしくお願いします。