ムーン・ムーンを離れ、初めて地球へ降り立った朱麗。未知の自然や新しい暮らしの中で、少年カガチ、そしてルルと幼いロロに出会います。
朱麗にとって、二つの家族とも呼べる人々との日々を、どうぞお楽しみください。
夜明け前の空に、一筋の光が尾を引いた。
旧インド北西部――ラージャスターン東部。
その光は、チャンバル川の支流が刻んだ峡谷地帯へ、炎を上げて墜落した。
「なんだ、ありゃ……!」
夜番をしていた男が、火の手を見つけて仲間を呼んだ。
「星が落ちたぞ!」
「馬鹿を言え。星が落ちて燃えるか」
そう言いながらも、男たちは松明を手に、燃える光の方へ駆け出した。
先頭を走っていたのは、ゲドという名の男だった。
日に焼けた顔に、無精髭。チャンバルの峡谷に隠れた盗賊の町――ドラガの、古株の一人である。
「……こいつは」
焼け焦げた地面に突き刺さるようにして、見慣れない金属の塊が転がっていた。
丸みを帯びた、ポッドのような形。表面はまだ熱を持ち、白い煙を上げている。
「宇宙のもんか?」
「触るな、まだ熱い」
ゲドは水袋の水をかけ、焦げた覆いを蹴り開けた。
中から、小さな身体が転がり出てきた。
十二、三歳ほどの少年だった。煤にまみれ、意識を失っている。
「……生きてるな」
ゲドは少年の首筋に手を当てた。脈があった。
「連れて帰るぞ」
「宇宙人かもしれんぞ」
「生きてる人間だ。放っておけるか」
◇
「父ちゃん、そいつ何なんだよ」
町へ運ばれた少年を見て、ゲドの息子が顔をしかめた。
フォンセ・カガチ。まだ十歳になったばかりの少年である。
「知らねえよ。空から落ちてきた」
「気持ち悪い格好してるな」
少年――朱麗が着ていた服は、ムーン・ムーンで織られた素朴な作りで、この土地の者には奇妙に映った。
三日後、朱麗は目を覚ました。
見知らぬ天井。見知らぬ匂い。
「……ここ、どこ」
「起きたか」
覗き込んできたのは、カガチだった。
「お前、宇宙から落ちてきたんだろ」
「宇宙……?」
朱麗は、ゆっくりと身体を起こした。頭の奥が、まだ重い。
「ここは、地球なのか」
「当たり前だろ。他にどこがあるんだよ」
カガチは、少し得意げに鼻を鳴らした。
「コロニー育ちなんだって? ひょろっちいな」
「……お前こそ、汚い格好してるな」
「あ?」
「服も髪も、埃だらけだ」
カガチの眉が吊り上がった。
「地球じゃ、そんなの気にする奴の方が珍しいんだよ」
「変な星だ」
「うるせえ」
二人は、それきり睨み合った。
◇
だが、睨み合いは長く続かなかった。
朱麗には、地球のことが何も分からなかった。
食べられる草と、食べられない草の見分け方。
川の深いところと、浅いところ。
夜になると鳴き始める虫の名前。
何もかもが、初めて見るものだった。
「これ、食えるのか?」
「馬鹿、それ食ったら腹壊すぞ」
カガチが、呆れながらも教えてやる。
「なんでお前、そんなことも知らねえんだよ」
「ムーン・ムーンには、こんな草生えてなかった」
「ムーン・ムーンって、お前の故郷か」
「……昔、住んでた場所」
朱麗は、それ以上を言わなかった。
カガチも、それ以上は聞かなかった。
◇
その晩、朱麗は初めて、この町の食卓についた。
木の椀に、湯気を立てる汁物。
「熱いから、気をつけろ」
ゲドが言うより早く、朱麗は椀へ顔を近づけていた。
「待て。地球の飯は逃げたりしない」
「ムーン・ムーンの飯だって逃げないよ」
「じゃあ、なんでそんなに慌ててるんだ」
「初めて見るからだよ」
ゲドは、一瞬きょとんとしてから、豪快に笑った。
「変わった坊主だな」
そう言って、自分の分のパンを、朱麗の皿へ置いた。
朱麗は遠慮も知らず、素直にそれを頬張る。
「おい、それ父ちゃんの分だぞ!」
カガチが文句を言った。
「子供が腹を空かせてるのに、自分だけ食えるか」
ゲドは、それだけ答えて、自分は水を飲んだ。
朱麗は、その言葉の意味を、しばらく考えていた。
――誰かが、自分のために我慢する。
そんなことは、ムーン・ムーンでも当たり前にあったはずだった。
けれど今は、それが、ひどく温かいことのように感じられた。
◇
それから幾日かした夕暮れ。
朱麗とカガチが町へ戻ると、入口にはゲドが立っていた。
二人の服は泥だらけで、朱麗の膝からは血がにじんでいる。
「どこまで行ってた」
低い声だった。
「川の向こうまで……」
「日が沈む前に戻れと言ったはずだ」
朱麗が口を開こうとすると、カガチが前へ出た。
「僕が連れていったんだ。朱麗は悪くない」
ゲドは二人をしばらく睨み、それから深いため息をついた。
「怒ってるんじゃねえ。帰ってこなかったら困るんだ」
ゲドは朱麗を座らせると、その場で傷口の泥を洗い流した。
手つきは乱暴だったが、痛まないよう気をつけていることは分かった。
「次からは、必ず二人で帰ってこい」
「……うん」
朱麗は、自分の膝を押さえる大きな手を、黙って見つめていた。
◇
季節が幾度か巡った。
朱麗とカガチは、泥だらけになって町へ帰ってくることが増えた。
「お前が兄貴なんだから、朱麗を危ない場所へ連れていくな」
ゲドに叱られ、カガチが口を尖らせる。
「なんで僕が兄貴なんだよ!」
「この町じゃ、お前の方が先輩だろ」
その翌日から、カガチは朱麗へ、地球での暮らし方を教えるようになった。
毒のある実。獣の足跡。崩れやすい崖。
朱麗は機械のことなら誰よりも詳しいのに、地球の常識をまるで知らない。
そこでは、カガチが兄貴分だった。
「よし、これで一人前だな」
「一人前って、何の」
「地球でちゃんと生きていける、ってことだよ」
朱麗は、素直に嬉しかった。
◇
町の頭領は、ダガンという男だった。
大柄な身体に、日焼けした赤ら顔。声は大きく、笑い方も豪快だった。
「ダガンさん」
ある日、朱麗はダガンの前で、壊れた発電機を直してみせた。
長らく使い物にならなかった機械が、朱麗の手が入ると、あっさり息を吹き返した。
「おお……!」
ダガンは、目を丸くして機械を見つめた。
「使える腕だ。お前、ここを自分の家だと思え」
「……いいの?」
「当たり前だ。俺たちは、身内は大事にする」
ダガンは、朱麗の頭を乱暴に撫でた。
その言葉が、朱麗にはとても嬉しかった。
もっとも、この町の「身内には優しい」という言葉の裏に、もう一つの顔があることを、朱麗はまだ知らなかった。
ある日、朱麗は見慣れない服を渡された。
「これ、どこから持ってきたの」
「細かいことは気にするな」
ゲドは笑って答えた。
「今は、お前の服だ」
朱麗は、それ以上は聞かなかった。
◇
そんなある日、朱麗とカガチは、いつもより遠くまで足を延ばした。
「こっちの方、行ったことないな」
「行ってみるか」
岩がちの斜面を登り、藪を抜けた先に、思いがけない光景が広がっていた。
切り立った山肌に、ぽっかりと口を開けた洞窟。
そこから、小さな灯りが漏れていた。
「……誰かいる」
二人が近づくと、洞窟の奥から、澄んだ声がした。
「そこにいるのは、誰ですか」
姿を現したのは、若い女性だった。
長い黒髪。柔らかな微笑み。まとう空気が、この土地の誰とも違っていた。
「私はルル。ここで、子供たちと暮らしています」
その背後から、小さな女の子が顔を覗かせた。
朱麗より、幾つか年下だろうか。
「……ロロです」
ロロは、姿勢を正し、澄ました声で名乗った。
まるで、大人の真似をしているかのような口調だった。
朱麗は、そのとき初めて、ロロという少女を見た。
◇
ルルは、洞窟で幾人もの孤児を育てていた。
「お腹は空いていませんか」
朱麗とカガチが持ってきた干し肉を、ルルは丁寧に礼を言って受け取った。
「こんなに、いただいてしまって」
「別にいいよ。町にはいっぱいあるから」
朱麗が、少し得意げに言う。
ルルは、静かに首を振った。
「持ってきていただかなくても、二人が来てくれるだけで嬉しいのですよ」
その言葉に、朱麗もカガチも、なぜか胸の奥が温かくなった。
母親と呼べる存在を知らない二人にとって、ルルの声は、初めて触れる何かだった。
◇
別の日、朱麗は腕に擦り傷を作って洞窟へやってきた。
「これくらい、平気だよ」
そう言って隠そうとしたが、ルルは何も言わず、朱麗の手を取った。
清らかな水で傷を洗い、薬草を当て、白い布を巻いていく。
「強い子でも、痛いときは痛いと言ってよいのですよ」
「でも、本当に痛くないし」
「では、私が心配することを許してください」
朱麗は返す言葉を失った。
傍らでは、ロロが心配そうに朱麗の腕を見つめている。
「大した傷ではありません。ですから、あなたも落ち着きなさい」
ルルに言われ、ロロは慌てて背筋を伸ばした。
「わ、私は、最初から心配などしていません」
「そうか」
朱麗が笑うと、ロロは頬を膨らませた。
ルルの手の温かさと、ロロのその顔を、朱麗はいつまでも覚えていた。
一方、ロロは、二人が持ってくる品物より、町の話を聞きたがった。
「今日は、どんな話を持ってきてくれるの?」
朱麗たちの足音が聞こえただけで、ロロは洞窟の入口まで駆けてきていた。
だが、朱麗たちの姿が見えると、急に澄ました顔に戻る。
「お待ちしていました。今日も、無事で何よりです」
「今、走ってきてただろ」
カガチが笑って言う。
「風の様子を、見ていただけです」
「洞窟の中からか?」
「……今日は、風がよく入るのです」
朱麗は、そのやり取りを見て、くすりと笑った。
◇
ロロは、不思議な少女だった。
ルルのそばにいるときは、背筋を伸ばし、大人びた言葉遣いをする。
「物珍しさだけで、物に心を奪われてはいけません」
朱麗が見つけた、小さな機械仕掛けの玩具を見せたときも、ロロは澄まし顔でそう言った。
「じゃあ、いらないのか?」
朱麗が引っ込めようとすると、ロロの目が、慌ててそれを追った。
「いらないとは、言っていません」
「でも、物に心を奪われるなって」
「どのような仕組みなのか、確かめることは、修行の一つです」
「じゃあ、動かすぞ」
朱麗がスイッチを押すと、玩具が小さな羽を動かした。
その瞬間、ロロが身を乗り出した。
「わあ……! どうして動くの? 中に何が入ってるの?」
言ってから、少し離れた場所でルルが見ていることに気づく。
ロロは慌てて姿勢を正した。
「……おそらく、簡単な仕組みだと思います」
その様子を、ルルは何も言わず、ただ静かに笑って見ていた。
朱麗は、その一部始終を見て、胸の奥が、くすぐったいような感覚に包まれるのを感じた。
――澄ました顔も、無邪気な顔も、両方とも、ロロなんだ。
そのどちらもが、朱麗の心を、少しずつ捉えていった。
◇
町での暮らしにも、洞窟での時間にも、朱麗は満たされていた。
だが、それは、いつまでも同じ形のままではいられなかった。
「なあ、朱麗」
ある晩、カガチが言った。
「ルルさんたちさ、あんな洞窟でずっと暮らすの、大変じゃないか」
「そうだな……」
「町に来た方が、絶対いいと思うんだよな。飯だって、もっと美味いもの食えるし」
朱麗も、頷いた。
「僕もそう思う。ロロだって、もっと色んなもの見られるし」
「よし、親父たちに言ってみようぜ」
二人に、悪意は欠片もなかった。
ただ、大切な人たちに、少しでも良い暮らしをしてほしい。それだけだった。
◇
「洞窟に、女が住んでいるだと?」
ゲドから話を聞いたダガンは、片眉を上げた。
「それも、えらい別嬪だっていうじゃねえか」
「見た目のことは知らんが……子供たちがえらく懐いてる」
「ほう」
ダガンは、興味を隠さなかった。
数日後、ダガンは自ら、幾人かの手下を連れて霊山へ向かった。
洞窟の前に立つルルを見て、ダガンは、しばらく言葉を失った。
「……こいつは」
その美しさに、目を奪われていた。
「町の頭を務めている、ダガンという者だ」
「これは、ご丁寧に」
ルルは、静かに一礼した。
「こんな洞窟で、子供らと暮らすこたぁねえだろう。俺の町に来ねえか」
「お心遣いは、ありがたく存じます」
ルルは、穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「ですが、この地を離れるわけには参りません」
「なんでだ」
「この子には、まだ、ここで積むべき修行があります」
視線の先には、ロロがいた。
「修行だぁ?」
「……あなたには、お分かりいただけないかもしれません」
ダガンは、しばらくルルを見つめていたが、やがて、笑みを作った。
「そうかい。そりゃ残念だ」
その日は、それ以上何も言わず、ダガンは町へ引き返した。
だが、その足取りは、来たときより、明らかに重かった。
◇
その夜。
ダガンは、町の広場に、腹心の男たちを集めていた。
「断られちまってな」
低い声で言う。
「だが、俺は諦めが悪い性分でな」
男たちが、互いに顔を見合わせた。
「迎えに行くぞ」
ダガンは、松明の炎を見つめながら、続けた。
「今度は――断れねえようにな」
◇
夜の町に、男たちが集まり始めていた。
武器を確かめる者。松明へ油を染み込ませる者。荷車へ縄を積む者。
その中に、ゲドの姿もあった。
ゲドは武器の革帯を締めながら、周囲の男たちへ低く言った。
「女も子供も傷つけるな。町へ連れてくるだけだ」
それは仲間へ向けた言葉であると同時に、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
朱麗には、それが何の準備なのか分からなかった。
だが、カガチには分かった。
何度も見てきた。
山賊たちが、夜のうちに獲物を襲うときの支度だった。
「朱麗……どうしよう」
「何が?」
カガチは、父親たちに聞こえないよう声を落とした。
「たぶん、父ちゃんたち……今夜、ルルさんたちの洞窟を襲う」
「……え?」
「連れてくるつもりなんだ。ルルさんも、ロロも」
「そんなの、嘘だ」
「でも、この支度は――」
カガチが言い終えるより早く、朱麗は走り出していた。
「朱麗!」
「俺が知らせてくる! みんなを逃がす!」
カガチは追いかけようとした。
だが、一歩を踏み出したところで、父親の姿が目に入った。
足が、止まった。
朱麗の背中だけが、夜の暗がりへ小さくなっていく。
「……ごめん」
その言葉は、朱麗には届かなかった。
町の中央で、ダガンが松明を掲げた。
「出るぞ!」
男たちの声が、夜の町を揺らした。
朱麗は一人、霊山へ走っていた。
(後編へつづく)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、地球へ降り立った朱麗と、少年時代のカガチ、ルル、幼いロロとの出会いを描きました。
山賊の町で父親のような温かさを知り、霊山では母親のようなルルの慈愛と、不思議な魅力を持つロロに惹かれていく朱麗。
大切な人たちに幸せになってほしい。
そんな朱麗とカガチの純粋な善意が、思いもよらない形で二つの家族を引き裂こうとしています。
一人で霊山へ走る朱麗は、ルルとロロたちを救えるのか。
次回、朱麗編・後編へ続きます。