GUNDAM TRIANGLE   作:カンキ

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今回は、ペペ爺とシュウにまつわる過去が明らかになる物語です。

第5話「邂逅」で描かれた火災の夜。その裏側で何が起こり、二人の関係はどこから始まったのか。

忘れられていた名と、受け継がれた命の物語を、どうぞお楽しみください。


第14話 忘れられた名

 

 

 

あの夜。

 

燃える家の屋根が、音を立てて崩れた。

火の粉が夜空へ吹き上がる。

 

ペペは、腕の中のミリアへ覆いかぶさった。

 

小さな胸が、かすかに上下している。

頭に巻いた布には、もう血がにじんでいた。

 

その向こうに、いくつもの銃口。

 

「老師。武器を捨ててください」

 

「見て分からんか。今は両手が塞がっとる」

 

ペペは吐き捨てるように言った。

目だけが、左右へ動く。

 

正面に三人。

右手には家の壁。

左へ抜ければ、消火に走る村人たちがいる。

 

だが、この子を抱えたままでは――。

 

胸の奥が、きつく絞られた。

 

「……っ」

 

息を吸う。

煙に焼かれた喉が、ひゅう、と鳴った。

 

薬は、家の中だった。

あの炎の中に、もう一人。

 

「そこをどけ。わしは――」

 

兵士たちの背後で、足音が止まった。

 

「お久しぶりです、老師」

 

黒い服。

左眼を覆う、黒い眼帯。

 

ペペは、女の顔を見据えた。

 

「……やはり、お前さんの差し金か。ナナイ」

 

ナナイは、ミリアへ一度だけ目を落とした。

それから、ペペを見た。

 

「シュウ様は、すでに救出いたしました」

 

「何?」

 

「別働隊が運び出しました。拠点へ搬送し、手当てをするよう命じてあります」

 

ペペは燃える家を振り返った。

 

「生きとるんじゃな」

 

「はい」

 

短い返事だった。

 

ペペの腕から、わずかに力が抜ける。

しかし、ミリアを渡そうとはしなかった。

 

「……この子は、どうする」

 

「我々がお連れしたいのは、老師だけです。その子に手を出すつもりはありません」

 

「本当じゃな」

 

「もちろんです」

 

ナナイが兵士へ目を向けた。

 

「銃を下ろしなさい。手当てを」

 

兵士たちがためらいながら銃口を下げる。

救急箱を持った男が近づくと、ペペはその手元をじっと見た。

 

「頭を打っとる。揺らすでないぞ」

 

「承知しました」

 

敷かれた毛布へ、ミリアをそっと横たえる。

 

村人の一人が駆け寄ってきた。

顔なじみの男だった。

 

「ペペさん、俺もついてる」

 

「……頼む」

 

ミリアの額から離した指に、血がついていた。

 

ペペはそれを握り込んだ。

 

「では、老師。我々とご同行願えますか」

 

ナナイが、一歩近づく。

 

家を焼いた連中。

その連中を率いる女。

 

シュウは助けたという。

ミリアには手を出さぬという。

 

だが、それで何もかも信じられるほど、ペペは人のよい老人ではなかった。

 

「すまんがのう」

 

片足を、半歩引く。

 

「わしには、まだ仕事があるんじゃ」

 

「老師――」

 

「失敬する」

 

砂が跳ねた。

 

兵士の手が伸びるより早く、ペペはその脇をすり抜けた。

短く低い踏み込み。

身体をひねり、二人の間から闇へ飛び出す。

 

「待て!」

 

銃が上がる。

 

「撃ってはなりません!」

 

ナナイの声が、それを止めた。

 

「老師、お待ちを……!」

 

小柄な背中は振り返らない。

 

家々の影へ消えていくその姿を、ナナイはしばらく見つめていた。

 

やがて、唇がわずかに動いた。

 

「まったく、あなたという人は……いつも私の言うことを聞いてくださらないのですね」

 

火の粉が、一つ。

女の肩をかすめ、夜の中へ消えた。

 

 

     *

 

 

家の灯りが見えなくなるまで、ペペは走った。

 

岩陰へ滑り込む。

膝をつく。

 

「……くそっ」

 

胸を押さえた手が、震えていた。

 

いつもなら、この程度の距離で息は上がらない。

だが、足の裏が地面についている感じさえ、薄くなっていた。

 

懐を探る。

 

ない。

 

分かっていても、もう一度探した。

指先に触れるのは、空の布地だけだった。

 

「薬……」

 

あの家に置いてきた。

何もかも、燃えてしまった。

 

視界の端で、遠くの炎が揺れる。

 

なぜ、ナナイが。

月ごとに薬を持ってきた、あの女が。

 

「……わしは、ここで……」

 

岩に掛けた指が滑った。

 

頬へ、冷たい砂が触れる。

 

赤い光が滲んだ。

 

遠くで、誰かが呼んでいる。

 

やがて、その声も途切れた。

 

 

     *

 

 

赤い警告灯が、狭い球形の室内を照らしていた。

 

機体がない。

 

手も。

脚も。

 

残されているのは、自分を包む小さな脱出ポッドだけだった。

 

外部映像の向こうで、白いモビルスーツがこちらを見下ろしている。

 

νガンダム。

 

その腕が、ポッドを捕らえていた。

 

「アムロ……!」

 

シャアは座席に身体を押しつけられた。

 

凄まじい衝撃。

全天周囲の映像が乱れる。

 

岩だ。

 

アクシズの岩肌が迫り、逃げ場もなく背後へ食い込んだ。

 

宇宙の向こうに、青い地球があった。

その地球へ、巨大な岩塊が落ちていく。

 

白い機体は、まだ押していた。

 

止めようとしている。

この質量を、たった一機で。

 

「人間の知恵は、そんなもんだって乗り越えられる!」

 

通信から、アムロの声が響いた。

 

シャアは歯を食いしばる。

 

「ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ!」

 

返事を待つ間もなく、ポッドが軋んだ。

 

白い機体の向こうへ、一機、また一機と光が近づく。

連邦の機体。

見慣れたネオ・ジオンの機体。

 

所属の違う腕が、同じ岩肌へ伸びていた。

 

「馬鹿な……」

 

警告が重なる。

 

計器の数字が跳ね上がる。

何を測っているのかさえ、もはや判然としなかった。

 

白い光。

 

それは機体の輪郭を溶かし、岩を包み、地球との境まで覆っていった。

 

 

     *

 

 

艦橋で、ナナイが立ち上がった。

 

主画面は光に満ちていた。

 

「大佐……」

 

返答はない。

 

通信士が回線を切り替える。

別の周波数。

また別の周波数。

 

ナナイには、その報告が聞こえなかった。

 

そこにいたはずの気配が、遠ざかる。

 

「私たちを……置いていかれるのですか」

 

伸ばした手は、何にも届かなかった。

 

 

     *

 

 

アクシズの表面が、波打つように砕けた。

 

νガンダムの腕が動く。

 

岩塊を押し返そうとした、その一瞬。

 

食い込んでいたポッドの周囲が崩れた。

 

「――っ!」

 

シャアの身体が、座席の拘束帯へ叩きつけられる。

 

画面が回転する。

 

岩。

光。

白い腕。

 

そして、地球。

 

ポッドは、νガンダムの手から離れていた。

 

姿勢制御が追いつかない。

シャアは操作盤へ手を伸ばした。

 

指が届く寸前、もう一度、激しい衝撃が走る。

 

額を何かに打ちつけた。

 

流れた血が、目に入った。

 

白い機体が小さくなる。

眩い光の中へ、見えなくなっていく。

 

脱出ポッドは、青い地球へ向かって落ちていった。

 

 

     *

 

 

砂利を踏む足音がした。

 

「反応は、この先です!」

 

投光器が、斜面を照らした。

 

焼け焦げた木々。

地面を長く抉った跡。

 

その先に、球形の物体が半ば埋まっていた。

 

ナナイは、足を止めた。

 

外装は黒く焼け、識別用の塗装もほとんど残っていない。

 

だが、間違えようがなかった。

 

「……開けなさい」

 

技術兵が駆け寄る。

 

艦が回収したサザビーの残骸には、脱出ポッドがなかった。

残された記録と、地球へ落ちた微弱な発信を追って、ここまで来た。

 

機体を見つけたときには、まだ言えなかった言葉がある。

 

生きている。

 

今も、その言葉を口にするのが怖かった。

 

工具の音が響く。

 

歪んだハッチが、少しずつ持ち上がった。

 

「生体反応あり!」

 

ナナイは兵士の脇を抜けた。

 

ヘルメットの奥。

血に汚れた顔。

 

閉じられた瞼が、投光器の光にわずかに動く。

 

「大佐……!」

 

返事はなかった。

 

ナナイは男の手を取った。

 

冷たい。

だが、握った指の奥に、かすかなぬくもりがあった。

 

「医療班を! 早く!」

 

張り上げた声が震えた。

 

担架が用意される間も、ナナイはその手を離さなかった。

 

 

     *

 

 

目が覚めたとき、窓は塞がれていた。

 

白い天井。

消毒薬の匂い。

規則正しく鳴る機器の音。

 

「……ナナイ」

 

椅子が動いた。

 

「大佐」

 

女が、寝台へ近づいた。

 

「ここは」

 

「地上の施設です。今は、誰にも知られておりません」

 

「今は、か」

 

ナナイは答えなかった。

 

その沈黙で、十分だった。

 

シャアは顔を横へ向けた。

 

「艦隊は」

 

「生存者の確認を続けています。ただ、連邦の捜索が……以前とは比較になりません」

 

「だろうな」

 

声を出すだけで、胸の奥が痛んだ。

 

アクシズを落とそうとした男。

地球に暮らす人間を、その住処ごと追い出そうとした男。

 

交渉の席で何を約束し、何を取り繕っていたかなど、もう意味を持たない。

 

「私が生きていると知れれば、ここも長くはもたん」

 

「移送先は用意いたします」

 

「移した先も同じだ」

 

ナナイが口を閉じる。

 

しばらくして、シャアは女へ視線を戻した。

 

「お前たちの研究には、人間の記憶に手を加えるものがあったな」

 

「……ございます」

 

「別の経歴を与え、別の人間だと思わせる」

 

「大佐。何をお考えです」

 

「シャア・アズナブルを、消す」

 

ナナイの表情が強張った。

 

「殺せというのではない」

 

シャアは静かに続けた。

 

「顔を変える。記憶を封じる。私自身が知らなければ、私を調べても、シャアには辿り着けまい」

 

「ですが、あの処置は――」

 

「十年だ」

 

遮る声に、かつての指揮官の響きが戻った。

 

「十年ほども過ぎれば、連邦の追及も今とは変わる。その頃に、元へ戻してくれればよい」

 

ナナイは、寝台の柵を握った。

 

「記憶を消去せず、抑制する方法ならば……可能性はあります。ただし、その状態を保つには継続した投薬が必要です」

 

「では、戻すときには薬を変えればよいのか」

 

「復元のための処置も必要になります。投薬を急に断てば、身体にも精神にも強い負担がかかります。記憶が戻ったとしても、その過程までは保証できません」

 

シャアは、薄く息を吐いた。

 

「随分と、注文の多い隠れ家だな」

 

ナナイは笑わなかった。

 

「人格も、思いどおりになるとは限りません。大佐が望むような、平穏な別人になれる保証はないのです」

 

「お前が見ていればよい」

 

「……簡単におっしゃいます」

 

「ほかに任せられる者がいるか」

 

それ以上、ナナイは言えなかった。

 

寝台の上の男は、女の返事を待っていた。

 

やがて、ナナイがゆっくりと頷く。

 

「承知いたしました」

 

シャアは目を閉じかけた。

 

「大佐」

 

その呼びかけに、瞼が止まる。

 

ナナイは、まだ傍らに立っていた。

柵を握っていた手を離し、胸元へ引き寄せる。

 

「その前に、一つだけ」

 

「何だ」

 

「私のわがままを、聞いていただけませんか」

 

男は黙って待った。

 

軍の話ではない。

報告の声でもなかった。

 

「あなたのお子を……産ませてください」

 

機器の音が、二人の間を通り過ぎた。

 

「私の子を?」

 

「はい。あなたの精子を保存させていただきたいのです。私の卵子と受精させ、私の子として育てます」

 

言い終えても、ナナイは目を逸らさなかった。

 

「大佐に、何かをお求めするつもりはございません。ご迷惑は、おかけいたしません」

 

シャアはしばらく女を見ていた。

 

「……構わん」

 

ナナイの肩が、小さく動いた。

 

「よろしいのですか」

 

「ああ」

 

男は、包帯の巻かれた自分の手を見た。

 

「すまないな、ナナイ」

 

「大佐……?」

 

「本来ならば、こんな形ではなく……お前との間に、自然に子を授かれればよかったのだが」

 

ナナイは、何かを答えようとした。

 

けれど、声にならなかった。

 

ただ一度、深く頭を下げた。

 

 

     *

 

 

その男が、シャアという名を忘れた後。

 

ナナイは、同じ施設の別の部屋にいた。

 

卓上の画面に、小さな像が映っている。

 

自分と、あの人の子供。

 

まだ顔もない。

指もない。

名前を呼んでも、振り返ることはない。

 

それでも、受精が確認されたという知らせを聞いた日、ナナイは何度もその画像を見返した。

 

今日も、そのつもりだった。

 

「受精そのものには、成功しています」

 

白衣の男が言った。

 

その声が、いつもより硬い。

 

「ですが、成長に異常が見つかりました」

 

ナナイは画面から目を離さなかった。

 

「異常、とは」

 

「正常に発育を続けることができません。このままでは、いずれ死滅します」

 

指先が冷えた。

 

「治療は」

 

男は、すぐには答えなかった。

 

「ないのですか」

 

「確立された方法は、ありません」

 

ナナイが、ようやく男を見る。

 

「確立された方法は……ということは、ほかにはあるのですね」

 

男が端末を操作した。

 

別の資料が映る。

その表題に、ナナイは見覚えがあった。

 

胚遺伝子修復処置。

 

ニュータイプ研究機関の中でも、まだ開発途中の技術だった。

 

「異常のある箇所へ直接介入し、発育を継続できる状態へ修復します。いわば、遺伝子レベルでの手術です」

 

「それで、この子は助かるのですか」

 

「助かる可能性があります」

 

ナナイは、言い直された言葉を聞いた。

 

可能性。

 

それだけなのだ。

 

「施術に成功しても、成長後の影響を予測しきれません。生まれたときには分からず、何年も経ってから現れる異常もあり得ます」

 

男は、説明を続けようとした。

 

ナナイが先に口を開いた。

 

「何もしなければ」

 

男が黙る。

 

「この子は、死ぬのですね」

 

「……はい」

 

ナナイは画面へ向き直った。

 

小さな像が、そこにあった。

 

あの人は、もう知らない。

自分の名も。

この願いを許したことも。

 

ナナイは膝の上で、両手を重ねた。

 

「お願いします」

 

「ナナイ様」

 

「その子を、生かしてください」

 

震えた声を、もう一度絞り出した。

 

「……どうか」

 

男は何も言わず、頭を下げた。

 

 

     *

 

 

廊下の時計が、ひどくゆっくり進んだ。

 

呼び出しを告げる端末が震えても、ナナイは取らなかった。

 

閉じられた扉を見る。

時計を見る。

 

また、扉へ目を戻す。

 

何度目だったか。

 

扉が開いた。

 

白衣の男が出てくる。

 

「処置は、終了しました」

 

ナナイは立ち上がった。

 

「細胞分裂の再開を確認しています」

 

「それでは……」

 

「今は、順調です」

 

今は。

 

その二文字を、ナナイは聞き落とさなかった。

 

それでも、椅子の背に手をつかなければ立っていられなかった。

 

「ありがとうございます」

 

頭を下げる。

 

「ありがとうございます……」

 

二度目の声は、ほとんど息だった。

 

 

     *

 

 

やがて、小さな泣き声が部屋を満たした。

 

産着に包まれた子を、ナナイは胸へ抱いた。

 

看護師に教えられたとおり、首の後ろへ手を添える。

恐る恐る抱き直すと、子供は顔をしかめ、さらに大きな声で泣いた。

 

「……そんなに怒らなくても」

 

思わず、笑みがこぼれた。

 

開いた瞼の下に、二つの瞳があった。

 

片方だけが、赤かった。

 

ナナイの指が止まる。

 

そばに立つ医師が、何かを記録した。

だが、その場で言葉を差し挟むことはしなかった。

 

小さな手が動いた。

 

ナナイの指に触れ、ぎゅっと握る。

 

頼りないほど柔らかいのに、簡単には離れなかった。

 

「シュウ」

 

初めて、名を呼んだ。

 

泣き声が、少しだけ弱まる。

 

ナナイは子供を抱き寄せた。

 

「……よく、生まれてきてくれましたね」

 

 

     *

 

 

それからの日々は、泣き声と、呼び出しの音で過ぎていった。

 

哺乳瓶を持ったまま、報告を聞く。

着替えさせたばかりの服を汚され、もう一度袖を通す。

ようやく寝ついたと思ったところで、出発の時刻が来る。

 

家政婦へ子供を渡すと、今度は指を離してくれない。

 

「すぐ戻ります」

 

それが、何度も口にする言葉になった。

 

寝返りを打った日には居合わせた。

初めて一人で立った日は、後から聞いた。

 

帰ってきたナナイを見つけて、子供が両手を伸ばす。

 

それだけで、どれほど疲れていても抱き上げることができた。

 

だが、検査の回数は減らなかった。

 

成長とともに、あの処置が残したものが少しずつ見え始めていた。

 

 

     *

 

 

机の上の小さな積み木が、一つ、動いた。

 

転がったのではない。

 

机の縁へ近づき、そのまま宙で止まっている。

 

椅子に座ったシュウが、手を伸ばしていた。

 

「……シュウ様」

 

ナナイが呼ぶと、子供は振り返った。

 

積み木が落ちた。

 

乾いた音に、シュウが肩をすくめる。

 

「ごめんなさい」

 

ナナイは返事をする前に、扉を閉めた。

 

 

     *

 

 

「通常のニュータイプ反応だけでは、説明できません」

 

医師は記録を止めた。

 

画面の中で、積み木が浮いている。

 

ナナイは、膝に置いた手を握りしめた。

 

「あの処置の影響ですか」

 

「その可能性が高いと考えています。ですが、問題は能力の方だけではありません」

 

画面が切り替わった。

 

いくつもの検査結果。

比較された数値。

 

「成長に伴って、身体の維持に異常が出ています。外見が若く健康に見えても、内部では同じようにはいかない」

 

「治せるのですか」

 

医師は、目を伏せた。

 

ナナイはその動きを見ていた。

 

かつて、この子が生まれる前にも、見たことのある沈黙だった。

 

「……普通に、生きられないのですか」

 

「通常の寿命を全うすることは、難しいかもしれません」

 

ナナイは、何も言わなかった。

 

壁一枚の向こうで、子供の声がする。

 

検査が終わったから、もう帰ってよいのかと、付き添いの家政婦に尋ねていた。

 

医師が何かを説明している。

 

経過を見なければ分からない。

治療法の研究は続ける。

今すぐ命に危険があるわけではない。

 

どの言葉も、ひどく遠かった。

 

「今日は……」

 

ナナイは、ようやく口を開いた。

 

「今日は、連れて帰ってもよろしいですね」

 

医師が頷く。

 

ナナイは立ち上がった。

 

扉を開けると、シュウが椅子から降りてきた。

 

「ナナイ、もう終わり?」

 

「ええ」

 

しゃがみ、襟の曲がりを直す。

 

「帰りましょう」

 

子供が手を差し出す。

 

ナナイはその小さな手を、両手で包んだ。

 

 

     *

 

 

六歳ほどになったシュウを、ナナイは辺境の家へ連れていった。

 

薬草の吊るされた軒先。

気難しそうな、小柄な老人。

 

処置を受けた男は、穏やかな隠居にはならなかった。

 

薬師として人を助ける一方で、金を受け取って人を殺す。

昔の名を忘れても、相手の隙を読む目と、命を奪う手だけは残っていた。

 

ペペロジン。

 

今は、そう呼ばれている男だった。

 

ナナイは薬を届けるたびに、その暮らしを確かめてきた。

 

シュウに必要なのは、検査室で過ごす時間だけではない。

 

ナナイ自身は、地上と宇宙の間を行き来しなければならなかった。

いつもそばで手を引いてやることはできない。

 

この子が一人でも歩いていけるように。

自分の力を持て余さず、人を見て、生き抜けるように。

 

預ける相手は、この男しかいなかった。

 

帰り道、ナナイは一度だけ振り返った。

 

シュウは、まだ家の前に立っていた。

 

老人が何かを言う。

少年が袖で顔を拭く。

 

やがて、小さな背中が老人の後を追って、家へ入った。

 

ナナイはそれを見届けてから、歩き出した。

 

 

     *

 

 

十年という約束が、近づいていた。

 

薬の包みを持って家を訪れた日。

 

ナナイは、戸口で足を止めた。

 

「師匠、まだ熱いよ」

 

「分かっとる」

 

「いつもそう言って、舌をやけどするじゃないか」

 

「うるさいのう。お前は食うのが遅いんじゃ」

 

短い沈黙。

 

次に、二人分の笑い声がした。

 

ナナイは、戸を叩こうとしていた手を下ろした。

 

包みの中には、いつもの薬がある。

 

もう必要ありません。

その一言を告げるための準備は、できるはずだった。

 

だが。

 

戸の向こうから、少年が呼んだ。

 

「ナナイ?」

 

足音が近づく。

 

戸が開き、シュウが顔を出した。

 

「やっぱり。師匠、ナナイが来たよ」

 

「おう。ちょうどええ。お前さんも食うていけ」

 

ナナイは少年を見た。

その後ろにいる、老人を見た。

 

「……では、少しだけ」

 

薬の包みを、いつもの場所へ置いた。

 

その月も。

次の月も。

 

包みの中身を変えることは、できなかった。

 

 

     *

 

 

水の落ちる音がした。

 

一滴。

また一滴。

 

男が、目を開いた。

 

白い天井がある。

 

顔を横へ向けると、椅子に女が座っていた。

黒い服。

黒い眼帯。

 

あのときより、深くなった目元の皺。

 

「……ナナイ」

 

女が立ち上がった。

 

「老師。お気づきに――」

 

「今は、何年だ」

 

ナナイの動きが止まった。

 

男は、もう一度尋ねた。

 

「宇宙世紀、何年になる」

 

告げられた年号を、男は黙って聞いた。

 

それから、寝台の上の手を持ち上げる。

 

節くれだった指。

浮いた血管。

細かく刻まれた皺。

 

見慣れた手だった。

 

薬草を刻んだ。

刃を握った。

小さな子供の襟首をつかんだ。

 

それなのに今は、どうにも奇妙なものに見えた。

 

「……随分と、長い十年だったな」

 

ナナイは、深く頭を下げた。

 

「申し訳ございません」

 

「何があった」

 

「連邦の動向もございました。復元処置を行う時期についても、慎重にならざるを得ず……」

 

男は女を見ていた。

 

ナナイの言葉が、少しずつ遅くなる。

 

「そのほかにも、事情が重なりまして」

 

「お前らしくない説明だ」

 

叱る声ではなかった。

 

それだけに、ナナイは続きを言えなかった。

 

男が、長く息を吐いた。

 

「まあいい。今さら十年前へ戻れるわけでもない」

 

「大佐……」

 

呼んでから、ナナイは唇を押さえた。

 

男は否定しなかった。

 

寝台の脇に置かれた水へ、手を伸ばす。

ナナイが先に取り、渡した。

 

一口、飲む。

 

喉の痛みが、あの火を思い出させた。

 

「シュウは」

 

「命に別状はございません。別室で休ませています」

 

「あの家へ兵を入れたのも、お前の命令か」

 

「老師をお連れするよう命じたのは、私です。ですが、あの火災は――」

 

「焼けとは言っていない、か」

 

ナナイは顔を上げた。

 

男の目が、静かに見返している。

 

「部下のしたことです。私の責任です」

 

「そうだな」

 

男は水を置いた。

 

それ以上の弁明を、ナナイはしなかった。

 

しばらくして、男が口を開く。

 

「そういえば」

 

ふと、思い出したような声だった。

 

「お前の望んだ子供は、どうなった」

 

ナナイは動かなかった。

 

「……生まれました」

 

「そうか」

 

「あなたも、よくご存じの子です」

 

男の指が、コップの縁で止まる。

 

「シュウ様です」

 

部屋が静まった。

 

「シュウ様は、あなたと私の子です」

 

男は、窓の方へ顔を向けた。

 

目に入っているのは、閉じた薄いカーテンだけだった。

 

それでも、しばらくそうしていた。

 

「……あの小僧か」

 

「はい」

 

「そうだったのか」

 

驚きは、声より遅れて顔へ現れた。

 

鼻をすすりながら戸口に立っていた子供。

桶の水をこぼして泣いた顔。

自分の皿から、平然とおかずを奪う手。

 

男は自分の手を、もう一度見た。

 

「世話はかけんと言っていたような気がするが」

 

ナナイは俯いた。

 

「申し訳ございません」

 

男の口元が、わずかに動いた。

 

「……ずいぶん、世話を焼いたぞ」

 

ナナイは、顔を上げられなかった。

 

男はそれ以上、何も言わなかった。

 

 

     *

 

 

記憶が戻っても、身体が若返るわけではなかった。

 

寝台を離れ、窓まで歩くだけで、脚に重さを感じた。

 

療養室の鏡に、老いた男が映っている。

 

額。

頬。

口元。

 

手術で変えた顔に、さらに長い年月が重なっていた。

 

「……これは、私か」

 

声にしてみる。

 

鏡の男も、同じように唇を動かした。

 

昔ならば、次に何をするか考えたはずだった。

 

散った兵を集める。

失った戦力を取り戻す。

もう一度、宇宙へ上がる。

 

その手順を思い浮かべることはできた。

 

だが、それを今日から始めようという気には、どうしてもならなかった。

 

背後で、扉が開く。

 

「お身体に障ります。まだ、あまり歩かれませんよう」

 

「座っているのにも飽きた」

 

「それでも、少しずつです」

 

男は鏡から目を離した。

 

「私が戻ったことは、誰に話した」

 

「誰にも」

 

「では、そのままにしておいてくれ」

 

ナナイが頷く。

 

「シュウ様にも、ですか」

 

「あの子には、あの子の事情があるだろう。今は、それでいい」

 

男は椅子へ腰を下ろした。

 

窓の外で、車両のエンジンがかかった。

 

誰かが指示を出す。

兵士たちが返事をする。

 

男はその声を聞きながら、背もたれへ身体を預けた。

 

「もう少し、休ませてもらおう」

 

 

     *

 

 

そして、時は流れた。

 

シュウが自ら人を集め、イエロースーツの拠点を一つずつ崩していく頃。

 

ナナイは、一人の男を連れて執務室へ入った。

 

銀の混じった髪を、後ろへ整えている。

無駄のない上着。

暗い色のサングラス。

 

背筋はまっすぐだった。

 

髭も、薬草の匂いもない。

 

「シュウ様。協力者を一人、お連れいたしました」

 

地図を見ていたシュウが、顔を上げる。

 

男は、机の手前で足を止めた。

 

「クワトロだ。しばらく世話になる」

 

シュウはナナイへ目を向けた。

 

「君の知り合いか」

 

「ええ。長い付き合いになります」

 

「……そう」

 

視線が、男へ戻る。

 

「何ができる」

 

「頼まれることにもよるな」

 

シュウの指が、机を軽く叩いた。

 

「できないことを、できると言われるよりはいい」

 

ナナイが、わずかに息をつく。

 

「差し当たり、私の仕事を手伝っていただこうかと」

 

「構わないよ。君が必要だというならね」

 

シュウは地図へ視線を戻した。

 

それで、話は終わった。

 

部屋を出るとき、クワトロは一度だけ振り返った。

 

机の向こうにいる青年は、すでに別のことを考えていた。

 

地図の一点を指で押さえ、脇の書類と見比べている。

 

クワトロは何も言わず、扉を閉めた。

 

 

     *

 

 

廊下を歩きながら、ナナイが尋ねた。

 

「よろしかったのですか」

 

「何がだ」

 

「……あれだけで」

 

「お前が連れてきた協力者なのだろう」

 

「はい」

 

「ならば、あれで十分だ」

 

クワトロは、サングラスの位置を直した。

 

ナナイが歩調を緩める。

男も、それに合わせた。

 

「今さら、私が前へ出ることもあるまい」

 

窓から差した光が、二人の足元を照らしていた。

 

「しばらくは、あの子のやることを見ていよう」

 

ナナイは、小さく頷いた。

 

 

     *

 

 

執務室に、一人残ったシュウは、椅子へ深く腰を掛けた。

 

左目に指を添える。

 

乾いた違和感があった。

薄いレンズを外すと、窓の光が赤い瞳へ差し込んだ。

 

机の端に置いた小さな鏡。

そこに映った自分を、シュウは一瞥する。

 

異なる色の、二つの瞳。

 

それは、生まれたときから変わらないものだった。

 

 

かつて、ナナイの腕の中で、赤子が小さく身じろぎした。

 

閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。

 

右の瞳とは異なる、血のように赤い左目。

 

その色が何を意味するのか、この時はまだ誰にも分からなかった。

 

死滅するはずだった受精卵。

 

それを救うために施された、世界で初めての胚遺伝子修復処置。

 

手術は成功した。

 

だが、その代償として少年は、常人とは異なる力と、限られた命を与えられた。

 

やがて彼は、その力ゆえに人から恐れられ、自らを悪と名乗ることになる。

 

けれど、シュウ自身はまだ知らなかった。

 

自分を生かすために用いられた技術が、長い年月をかけて受け継がれ、改良されていくことを。

 

病を治すための技術から、人間そのものを変える技術へ。

 

そして遥か後の時代――。

 

人類が、遺伝子を調整して生まれる者たちを、コーディネイターと呼ぶようになることを。

 

その歴史の礎に、自分の命があったことを。

 

もしもシュウという少年が、この世に生まれていなければ。

 

その未来は、訪れなかったのかもしれない。

 

 

                    (つづく)

 

 




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今回は、ペペ爺がシャア・アズナブルとしての記憶を取り戻し、シュウ誕生の真実へとつながるお話でした。

シュウは、強い人間を作るために生み出された存在ではありません。本来なら失われるはずだった命を、ナナイが母親として救おうとした結果、特別な力と短い寿命を背負うことになりました。

そして、その命を救った技術が、遥か未来のコーディネイター技術へつながっていく――。一人の母親の願いが、後の人類史を変える礎になったという締めくくりです。

再び「クワトロ」を名乗ったシャアが、これからシュウのそばで何を見届けるのか。

次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
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