第5話「邂逅」で描かれた火災の夜。その裏側で何が起こり、二人の関係はどこから始まったのか。
忘れられていた名と、受け継がれた命の物語を、どうぞお楽しみください。
あの夜。
燃える家の屋根が、音を立てて崩れた。
火の粉が夜空へ吹き上がる。
ペペは、腕の中のミリアへ覆いかぶさった。
小さな胸が、かすかに上下している。
頭に巻いた布には、もう血がにじんでいた。
その向こうに、いくつもの銃口。
「老師。武器を捨ててください」
「見て分からんか。今は両手が塞がっとる」
ペペは吐き捨てるように言った。
目だけが、左右へ動く。
正面に三人。
右手には家の壁。
左へ抜ければ、消火に走る村人たちがいる。
だが、この子を抱えたままでは――。
胸の奥が、きつく絞られた。
「……っ」
息を吸う。
煙に焼かれた喉が、ひゅう、と鳴った。
薬は、家の中だった。
あの炎の中に、もう一人。
「そこをどけ。わしは――」
兵士たちの背後で、足音が止まった。
「お久しぶりです、老師」
黒い服。
左眼を覆う、黒い眼帯。
ペペは、女の顔を見据えた。
「……やはり、お前さんの差し金か。ナナイ」
ナナイは、ミリアへ一度だけ目を落とした。
それから、ペペを見た。
「シュウ様は、すでに救出いたしました」
「何?」
「別働隊が運び出しました。拠点へ搬送し、手当てをするよう命じてあります」
ペペは燃える家を振り返った。
「生きとるんじゃな」
「はい」
短い返事だった。
ペペの腕から、わずかに力が抜ける。
しかし、ミリアを渡そうとはしなかった。
「……この子は、どうする」
「我々がお連れしたいのは、老師だけです。その子に手を出すつもりはありません」
「本当じゃな」
「もちろんです」
ナナイが兵士へ目を向けた。
「銃を下ろしなさい。手当てを」
兵士たちがためらいながら銃口を下げる。
救急箱を持った男が近づくと、ペペはその手元をじっと見た。
「頭を打っとる。揺らすでないぞ」
「承知しました」
敷かれた毛布へ、ミリアをそっと横たえる。
村人の一人が駆け寄ってきた。
顔なじみの男だった。
「ペペさん、俺もついてる」
「……頼む」
ミリアの額から離した指に、血がついていた。
ペペはそれを握り込んだ。
「では、老師。我々とご同行願えますか」
ナナイが、一歩近づく。
家を焼いた連中。
その連中を率いる女。
シュウは助けたという。
ミリアには手を出さぬという。
だが、それで何もかも信じられるほど、ペペは人のよい老人ではなかった。
「すまんがのう」
片足を、半歩引く。
「わしには、まだ仕事があるんじゃ」
「老師――」
「失敬する」
砂が跳ねた。
兵士の手が伸びるより早く、ペペはその脇をすり抜けた。
短く低い踏み込み。
身体をひねり、二人の間から闇へ飛び出す。
「待て!」
銃が上がる。
「撃ってはなりません!」
ナナイの声が、それを止めた。
「老師、お待ちを……!」
小柄な背中は振り返らない。
家々の影へ消えていくその姿を、ナナイはしばらく見つめていた。
やがて、唇がわずかに動いた。
「まったく、あなたという人は……いつも私の言うことを聞いてくださらないのですね」
火の粉が、一つ。
女の肩をかすめ、夜の中へ消えた。
*
家の灯りが見えなくなるまで、ペペは走った。
岩陰へ滑り込む。
膝をつく。
「……くそっ」
胸を押さえた手が、震えていた。
いつもなら、この程度の距離で息は上がらない。
だが、足の裏が地面についている感じさえ、薄くなっていた。
懐を探る。
ない。
分かっていても、もう一度探した。
指先に触れるのは、空の布地だけだった。
「薬……」
あの家に置いてきた。
何もかも、燃えてしまった。
視界の端で、遠くの炎が揺れる。
なぜ、ナナイが。
月ごとに薬を持ってきた、あの女が。
「……わしは、ここで……」
岩に掛けた指が滑った。
頬へ、冷たい砂が触れる。
赤い光が滲んだ。
遠くで、誰かが呼んでいる。
やがて、その声も途切れた。
*
赤い警告灯が、狭い球形の室内を照らしていた。
機体がない。
手も。
脚も。
残されているのは、自分を包む小さな脱出ポッドだけだった。
外部映像の向こうで、白いモビルスーツがこちらを見下ろしている。
νガンダム。
その腕が、ポッドを捕らえていた。
「アムロ……!」
シャアは座席に身体を押しつけられた。
凄まじい衝撃。
全天周囲の映像が乱れる。
岩だ。
アクシズの岩肌が迫り、逃げ場もなく背後へ食い込んだ。
宇宙の向こうに、青い地球があった。
その地球へ、巨大な岩塊が落ちていく。
白い機体は、まだ押していた。
止めようとしている。
この質量を、たった一機で。
「人間の知恵は、そんなもんだって乗り越えられる!」
通信から、アムロの声が響いた。
シャアは歯を食いしばる。
「ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ!」
返事を待つ間もなく、ポッドが軋んだ。
白い機体の向こうへ、一機、また一機と光が近づく。
連邦の機体。
見慣れたネオ・ジオンの機体。
所属の違う腕が、同じ岩肌へ伸びていた。
「馬鹿な……」
警告が重なる。
計器の数字が跳ね上がる。
何を測っているのかさえ、もはや判然としなかった。
白い光。
それは機体の輪郭を溶かし、岩を包み、地球との境まで覆っていった。
*
艦橋で、ナナイが立ち上がった。
主画面は光に満ちていた。
「大佐……」
返答はない。
通信士が回線を切り替える。
別の周波数。
また別の周波数。
ナナイには、その報告が聞こえなかった。
そこにいたはずの気配が、遠ざかる。
「私たちを……置いていかれるのですか」
伸ばした手は、何にも届かなかった。
*
アクシズの表面が、波打つように砕けた。
νガンダムの腕が動く。
岩塊を押し返そうとした、その一瞬。
食い込んでいたポッドの周囲が崩れた。
「――っ!」
シャアの身体が、座席の拘束帯へ叩きつけられる。
画面が回転する。
岩。
光。
白い腕。
そして、地球。
ポッドは、νガンダムの手から離れていた。
姿勢制御が追いつかない。
シャアは操作盤へ手を伸ばした。
指が届く寸前、もう一度、激しい衝撃が走る。
額を何かに打ちつけた。
流れた血が、目に入った。
白い機体が小さくなる。
眩い光の中へ、見えなくなっていく。
脱出ポッドは、青い地球へ向かって落ちていった。
*
砂利を踏む足音がした。
「反応は、この先です!」
投光器が、斜面を照らした。
焼け焦げた木々。
地面を長く抉った跡。
その先に、球形の物体が半ば埋まっていた。
ナナイは、足を止めた。
外装は黒く焼け、識別用の塗装もほとんど残っていない。
だが、間違えようがなかった。
「……開けなさい」
技術兵が駆け寄る。
艦が回収したサザビーの残骸には、脱出ポッドがなかった。
残された記録と、地球へ落ちた微弱な発信を追って、ここまで来た。
機体を見つけたときには、まだ言えなかった言葉がある。
生きている。
今も、その言葉を口にするのが怖かった。
工具の音が響く。
歪んだハッチが、少しずつ持ち上がった。
「生体反応あり!」
ナナイは兵士の脇を抜けた。
ヘルメットの奥。
血に汚れた顔。
閉じられた瞼が、投光器の光にわずかに動く。
「大佐……!」
返事はなかった。
ナナイは男の手を取った。
冷たい。
だが、握った指の奥に、かすかなぬくもりがあった。
「医療班を! 早く!」
張り上げた声が震えた。
担架が用意される間も、ナナイはその手を離さなかった。
*
目が覚めたとき、窓は塞がれていた。
白い天井。
消毒薬の匂い。
規則正しく鳴る機器の音。
「……ナナイ」
椅子が動いた。
「大佐」
女が、寝台へ近づいた。
「ここは」
「地上の施設です。今は、誰にも知られておりません」
「今は、か」
ナナイは答えなかった。
その沈黙で、十分だった。
シャアは顔を横へ向けた。
「艦隊は」
「生存者の確認を続けています。ただ、連邦の捜索が……以前とは比較になりません」
「だろうな」
声を出すだけで、胸の奥が痛んだ。
アクシズを落とそうとした男。
地球に暮らす人間を、その住処ごと追い出そうとした男。
交渉の席で何を約束し、何を取り繕っていたかなど、もう意味を持たない。
「私が生きていると知れれば、ここも長くはもたん」
「移送先は用意いたします」
「移した先も同じだ」
ナナイが口を閉じる。
しばらくして、シャアは女へ視線を戻した。
「お前たちの研究には、人間の記憶に手を加えるものがあったな」
「……ございます」
「別の経歴を与え、別の人間だと思わせる」
「大佐。何をお考えです」
「シャア・アズナブルを、消す」
ナナイの表情が強張った。
「殺せというのではない」
シャアは静かに続けた。
「顔を変える。記憶を封じる。私自身が知らなければ、私を調べても、シャアには辿り着けまい」
「ですが、あの処置は――」
「十年だ」
遮る声に、かつての指揮官の響きが戻った。
「十年ほども過ぎれば、連邦の追及も今とは変わる。その頃に、元へ戻してくれればよい」
ナナイは、寝台の柵を握った。
「記憶を消去せず、抑制する方法ならば……可能性はあります。ただし、その状態を保つには継続した投薬が必要です」
「では、戻すときには薬を変えればよいのか」
「復元のための処置も必要になります。投薬を急に断てば、身体にも精神にも強い負担がかかります。記憶が戻ったとしても、その過程までは保証できません」
シャアは、薄く息を吐いた。
「随分と、注文の多い隠れ家だな」
ナナイは笑わなかった。
「人格も、思いどおりになるとは限りません。大佐が望むような、平穏な別人になれる保証はないのです」
「お前が見ていればよい」
「……簡単におっしゃいます」
「ほかに任せられる者がいるか」
それ以上、ナナイは言えなかった。
寝台の上の男は、女の返事を待っていた。
やがて、ナナイがゆっくりと頷く。
「承知いたしました」
シャアは目を閉じかけた。
「大佐」
その呼びかけに、瞼が止まる。
ナナイは、まだ傍らに立っていた。
柵を握っていた手を離し、胸元へ引き寄せる。
「その前に、一つだけ」
「何だ」
「私のわがままを、聞いていただけませんか」
男は黙って待った。
軍の話ではない。
報告の声でもなかった。
「あなたのお子を……産ませてください」
機器の音が、二人の間を通り過ぎた。
「私の子を?」
「はい。あなたの精子を保存させていただきたいのです。私の卵子と受精させ、私の子として育てます」
言い終えても、ナナイは目を逸らさなかった。
「大佐に、何かをお求めするつもりはございません。ご迷惑は、おかけいたしません」
シャアはしばらく女を見ていた。
「……構わん」
ナナイの肩が、小さく動いた。
「よろしいのですか」
「ああ」
男は、包帯の巻かれた自分の手を見た。
「すまないな、ナナイ」
「大佐……?」
「本来ならば、こんな形ではなく……お前との間に、自然に子を授かれればよかったのだが」
ナナイは、何かを答えようとした。
けれど、声にならなかった。
ただ一度、深く頭を下げた。
*
その男が、シャアという名を忘れた後。
ナナイは、同じ施設の別の部屋にいた。
卓上の画面に、小さな像が映っている。
自分と、あの人の子供。
まだ顔もない。
指もない。
名前を呼んでも、振り返ることはない。
それでも、受精が確認されたという知らせを聞いた日、ナナイは何度もその画像を見返した。
今日も、そのつもりだった。
「受精そのものには、成功しています」
白衣の男が言った。
その声が、いつもより硬い。
「ですが、成長に異常が見つかりました」
ナナイは画面から目を離さなかった。
「異常、とは」
「正常に発育を続けることができません。このままでは、いずれ死滅します」
指先が冷えた。
「治療は」
男は、すぐには答えなかった。
「ないのですか」
「確立された方法は、ありません」
ナナイが、ようやく男を見る。
「確立された方法は……ということは、ほかにはあるのですね」
男が端末を操作した。
別の資料が映る。
その表題に、ナナイは見覚えがあった。
胚遺伝子修復処置。
ニュータイプ研究機関の中でも、まだ開発途中の技術だった。
「異常のある箇所へ直接介入し、発育を継続できる状態へ修復します。いわば、遺伝子レベルでの手術です」
「それで、この子は助かるのですか」
「助かる可能性があります」
ナナイは、言い直された言葉を聞いた。
可能性。
それだけなのだ。
「施術に成功しても、成長後の影響を予測しきれません。生まれたときには分からず、何年も経ってから現れる異常もあり得ます」
男は、説明を続けようとした。
ナナイが先に口を開いた。
「何もしなければ」
男が黙る。
「この子は、死ぬのですね」
「……はい」
ナナイは画面へ向き直った。
小さな像が、そこにあった。
あの人は、もう知らない。
自分の名も。
この願いを許したことも。
ナナイは膝の上で、両手を重ねた。
「お願いします」
「ナナイ様」
「その子を、生かしてください」
震えた声を、もう一度絞り出した。
「……どうか」
男は何も言わず、頭を下げた。
*
廊下の時計が、ひどくゆっくり進んだ。
呼び出しを告げる端末が震えても、ナナイは取らなかった。
閉じられた扉を見る。
時計を見る。
また、扉へ目を戻す。
何度目だったか。
扉が開いた。
白衣の男が出てくる。
「処置は、終了しました」
ナナイは立ち上がった。
「細胞分裂の再開を確認しています」
「それでは……」
「今は、順調です」
今は。
その二文字を、ナナイは聞き落とさなかった。
それでも、椅子の背に手をつかなければ立っていられなかった。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
「ありがとうございます……」
二度目の声は、ほとんど息だった。
*
やがて、小さな泣き声が部屋を満たした。
産着に包まれた子を、ナナイは胸へ抱いた。
看護師に教えられたとおり、首の後ろへ手を添える。
恐る恐る抱き直すと、子供は顔をしかめ、さらに大きな声で泣いた。
「……そんなに怒らなくても」
思わず、笑みがこぼれた。
開いた瞼の下に、二つの瞳があった。
片方だけが、赤かった。
ナナイの指が止まる。
そばに立つ医師が、何かを記録した。
だが、その場で言葉を差し挟むことはしなかった。
小さな手が動いた。
ナナイの指に触れ、ぎゅっと握る。
頼りないほど柔らかいのに、簡単には離れなかった。
「シュウ」
初めて、名を呼んだ。
泣き声が、少しだけ弱まる。
ナナイは子供を抱き寄せた。
「……よく、生まれてきてくれましたね」
*
それからの日々は、泣き声と、呼び出しの音で過ぎていった。
哺乳瓶を持ったまま、報告を聞く。
着替えさせたばかりの服を汚され、もう一度袖を通す。
ようやく寝ついたと思ったところで、出発の時刻が来る。
家政婦へ子供を渡すと、今度は指を離してくれない。
「すぐ戻ります」
それが、何度も口にする言葉になった。
寝返りを打った日には居合わせた。
初めて一人で立った日は、後から聞いた。
帰ってきたナナイを見つけて、子供が両手を伸ばす。
それだけで、どれほど疲れていても抱き上げることができた。
だが、検査の回数は減らなかった。
成長とともに、あの処置が残したものが少しずつ見え始めていた。
*
机の上の小さな積み木が、一つ、動いた。
転がったのではない。
机の縁へ近づき、そのまま宙で止まっている。
椅子に座ったシュウが、手を伸ばしていた。
「……シュウ様」
ナナイが呼ぶと、子供は振り返った。
積み木が落ちた。
乾いた音に、シュウが肩をすくめる。
「ごめんなさい」
ナナイは返事をする前に、扉を閉めた。
*
「通常のニュータイプ反応だけでは、説明できません」
医師は記録を止めた。
画面の中で、積み木が浮いている。
ナナイは、膝に置いた手を握りしめた。
「あの処置の影響ですか」
「その可能性が高いと考えています。ですが、問題は能力の方だけではありません」
画面が切り替わった。
いくつもの検査結果。
比較された数値。
「成長に伴って、身体の維持に異常が出ています。外見が若く健康に見えても、内部では同じようにはいかない」
「治せるのですか」
医師は、目を伏せた。
ナナイはその動きを見ていた。
かつて、この子が生まれる前にも、見たことのある沈黙だった。
「……普通に、生きられないのですか」
「通常の寿命を全うすることは、難しいかもしれません」
ナナイは、何も言わなかった。
壁一枚の向こうで、子供の声がする。
検査が終わったから、もう帰ってよいのかと、付き添いの家政婦に尋ねていた。
医師が何かを説明している。
経過を見なければ分からない。
治療法の研究は続ける。
今すぐ命に危険があるわけではない。
どの言葉も、ひどく遠かった。
「今日は……」
ナナイは、ようやく口を開いた。
「今日は、連れて帰ってもよろしいですね」
医師が頷く。
ナナイは立ち上がった。
扉を開けると、シュウが椅子から降りてきた。
「ナナイ、もう終わり?」
「ええ」
しゃがみ、襟の曲がりを直す。
「帰りましょう」
子供が手を差し出す。
ナナイはその小さな手を、両手で包んだ。
*
六歳ほどになったシュウを、ナナイは辺境の家へ連れていった。
薬草の吊るされた軒先。
気難しそうな、小柄な老人。
処置を受けた男は、穏やかな隠居にはならなかった。
薬師として人を助ける一方で、金を受け取って人を殺す。
昔の名を忘れても、相手の隙を読む目と、命を奪う手だけは残っていた。
ペペロジン。
今は、そう呼ばれている男だった。
ナナイは薬を届けるたびに、その暮らしを確かめてきた。
シュウに必要なのは、検査室で過ごす時間だけではない。
ナナイ自身は、地上と宇宙の間を行き来しなければならなかった。
いつもそばで手を引いてやることはできない。
この子が一人でも歩いていけるように。
自分の力を持て余さず、人を見て、生き抜けるように。
預ける相手は、この男しかいなかった。
帰り道、ナナイは一度だけ振り返った。
シュウは、まだ家の前に立っていた。
老人が何かを言う。
少年が袖で顔を拭く。
やがて、小さな背中が老人の後を追って、家へ入った。
ナナイはそれを見届けてから、歩き出した。
*
十年という約束が、近づいていた。
薬の包みを持って家を訪れた日。
ナナイは、戸口で足を止めた。
「師匠、まだ熱いよ」
「分かっとる」
「いつもそう言って、舌をやけどするじゃないか」
「うるさいのう。お前は食うのが遅いんじゃ」
短い沈黙。
次に、二人分の笑い声がした。
ナナイは、戸を叩こうとしていた手を下ろした。
包みの中には、いつもの薬がある。
もう必要ありません。
その一言を告げるための準備は、できるはずだった。
だが。
戸の向こうから、少年が呼んだ。
「ナナイ?」
足音が近づく。
戸が開き、シュウが顔を出した。
「やっぱり。師匠、ナナイが来たよ」
「おう。ちょうどええ。お前さんも食うていけ」
ナナイは少年を見た。
その後ろにいる、老人を見た。
「……では、少しだけ」
薬の包みを、いつもの場所へ置いた。
その月も。
次の月も。
包みの中身を変えることは、できなかった。
*
水の落ちる音がした。
一滴。
また一滴。
男が、目を開いた。
白い天井がある。
顔を横へ向けると、椅子に女が座っていた。
黒い服。
黒い眼帯。
あのときより、深くなった目元の皺。
「……ナナイ」
女が立ち上がった。
「老師。お気づきに――」
「今は、何年だ」
ナナイの動きが止まった。
男は、もう一度尋ねた。
「宇宙世紀、何年になる」
告げられた年号を、男は黙って聞いた。
それから、寝台の上の手を持ち上げる。
節くれだった指。
浮いた血管。
細かく刻まれた皺。
見慣れた手だった。
薬草を刻んだ。
刃を握った。
小さな子供の襟首をつかんだ。
それなのに今は、どうにも奇妙なものに見えた。
「……随分と、長い十年だったな」
ナナイは、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
「何があった」
「連邦の動向もございました。復元処置を行う時期についても、慎重にならざるを得ず……」
男は女を見ていた。
ナナイの言葉が、少しずつ遅くなる。
「そのほかにも、事情が重なりまして」
「お前らしくない説明だ」
叱る声ではなかった。
それだけに、ナナイは続きを言えなかった。
男が、長く息を吐いた。
「まあいい。今さら十年前へ戻れるわけでもない」
「大佐……」
呼んでから、ナナイは唇を押さえた。
男は否定しなかった。
寝台の脇に置かれた水へ、手を伸ばす。
ナナイが先に取り、渡した。
一口、飲む。
喉の痛みが、あの火を思い出させた。
「シュウは」
「命に別状はございません。別室で休ませています」
「あの家へ兵を入れたのも、お前の命令か」
「老師をお連れするよう命じたのは、私です。ですが、あの火災は――」
「焼けとは言っていない、か」
ナナイは顔を上げた。
男の目が、静かに見返している。
「部下のしたことです。私の責任です」
「そうだな」
男は水を置いた。
それ以上の弁明を、ナナイはしなかった。
しばらくして、男が口を開く。
「そういえば」
ふと、思い出したような声だった。
「お前の望んだ子供は、どうなった」
ナナイは動かなかった。
「……生まれました」
「そうか」
「あなたも、よくご存じの子です」
男の指が、コップの縁で止まる。
「シュウ様です」
部屋が静まった。
「シュウ様は、あなたと私の子です」
男は、窓の方へ顔を向けた。
目に入っているのは、閉じた薄いカーテンだけだった。
それでも、しばらくそうしていた。
「……あの小僧か」
「はい」
「そうだったのか」
驚きは、声より遅れて顔へ現れた。
鼻をすすりながら戸口に立っていた子供。
桶の水をこぼして泣いた顔。
自分の皿から、平然とおかずを奪う手。
男は自分の手を、もう一度見た。
「世話はかけんと言っていたような気がするが」
ナナイは俯いた。
「申し訳ございません」
男の口元が、わずかに動いた。
「……ずいぶん、世話を焼いたぞ」
ナナイは、顔を上げられなかった。
男はそれ以上、何も言わなかった。
*
記憶が戻っても、身体が若返るわけではなかった。
寝台を離れ、窓まで歩くだけで、脚に重さを感じた。
療養室の鏡に、老いた男が映っている。
額。
頬。
口元。
手術で変えた顔に、さらに長い年月が重なっていた。
「……これは、私か」
声にしてみる。
鏡の男も、同じように唇を動かした。
昔ならば、次に何をするか考えたはずだった。
散った兵を集める。
失った戦力を取り戻す。
もう一度、宇宙へ上がる。
その手順を思い浮かべることはできた。
だが、それを今日から始めようという気には、どうしてもならなかった。
背後で、扉が開く。
「お身体に障ります。まだ、あまり歩かれませんよう」
「座っているのにも飽きた」
「それでも、少しずつです」
男は鏡から目を離した。
「私が戻ったことは、誰に話した」
「誰にも」
「では、そのままにしておいてくれ」
ナナイが頷く。
「シュウ様にも、ですか」
「あの子には、あの子の事情があるだろう。今は、それでいい」
男は椅子へ腰を下ろした。
窓の外で、車両のエンジンがかかった。
誰かが指示を出す。
兵士たちが返事をする。
男はその声を聞きながら、背もたれへ身体を預けた。
「もう少し、休ませてもらおう」
*
そして、時は流れた。
シュウが自ら人を集め、イエロースーツの拠点を一つずつ崩していく頃。
ナナイは、一人の男を連れて執務室へ入った。
銀の混じった髪を、後ろへ整えている。
無駄のない上着。
暗い色のサングラス。
背筋はまっすぐだった。
髭も、薬草の匂いもない。
「シュウ様。協力者を一人、お連れいたしました」
地図を見ていたシュウが、顔を上げる。
男は、机の手前で足を止めた。
「クワトロだ。しばらく世話になる」
シュウはナナイへ目を向けた。
「君の知り合いか」
「ええ。長い付き合いになります」
「……そう」
視線が、男へ戻る。
「何ができる」
「頼まれることにもよるな」
シュウの指が、机を軽く叩いた。
「できないことを、できると言われるよりはいい」
ナナイが、わずかに息をつく。
「差し当たり、私の仕事を手伝っていただこうかと」
「構わないよ。君が必要だというならね」
シュウは地図へ視線を戻した。
それで、話は終わった。
部屋を出るとき、クワトロは一度だけ振り返った。
机の向こうにいる青年は、すでに別のことを考えていた。
地図の一点を指で押さえ、脇の書類と見比べている。
クワトロは何も言わず、扉を閉めた。
*
廊下を歩きながら、ナナイが尋ねた。
「よろしかったのですか」
「何がだ」
「……あれだけで」
「お前が連れてきた協力者なのだろう」
「はい」
「ならば、あれで十分だ」
クワトロは、サングラスの位置を直した。
ナナイが歩調を緩める。
男も、それに合わせた。
「今さら、私が前へ出ることもあるまい」
窓から差した光が、二人の足元を照らしていた。
「しばらくは、あの子のやることを見ていよう」
ナナイは、小さく頷いた。
*
執務室に、一人残ったシュウは、椅子へ深く腰を掛けた。
左目に指を添える。
乾いた違和感があった。
薄いレンズを外すと、窓の光が赤い瞳へ差し込んだ。
机の端に置いた小さな鏡。
そこに映った自分を、シュウは一瞥する。
異なる色の、二つの瞳。
それは、生まれたときから変わらないものだった。
かつて、ナナイの腕の中で、赤子が小さく身じろぎした。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。
右の瞳とは異なる、血のように赤い左目。
その色が何を意味するのか、この時はまだ誰にも分からなかった。
死滅するはずだった受精卵。
それを救うために施された、世界で初めての胚遺伝子修復処置。
手術は成功した。
だが、その代償として少年は、常人とは異なる力と、限られた命を与えられた。
やがて彼は、その力ゆえに人から恐れられ、自らを悪と名乗ることになる。
けれど、シュウ自身はまだ知らなかった。
自分を生かすために用いられた技術が、長い年月をかけて受け継がれ、改良されていくことを。
病を治すための技術から、人間そのものを変える技術へ。
そして遥か後の時代――。
人類が、遺伝子を調整して生まれる者たちを、コーディネイターと呼ぶようになることを。
その歴史の礎に、自分の命があったことを。
もしもシュウという少年が、この世に生まれていなければ。
その未来は、訪れなかったのかもしれない。
(つづく)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ペペ爺がシャア・アズナブルとしての記憶を取り戻し、シュウ誕生の真実へとつながるお話でした。
シュウは、強い人間を作るために生み出された存在ではありません。本来なら失われるはずだった命を、ナナイが母親として救おうとした結果、特別な力と短い寿命を背負うことになりました。
そして、その命を救った技術が、遥か未来のコーディネイター技術へつながっていく――。一人の母親の願いが、後の人類史を変える礎になったという締めくくりです。
再び「クワトロ」を名乗ったシャアが、これからシュウのそばで何を見届けるのか。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。