森の奥に眠る「月の証」。
その前で、師匠から弟子へ受け継がれるものとは――。
第23話「水の一雫」、どうぞお楽しみください。
朝の光が、窓の縁に差していた。
朱麗は、開いた手を見つめていた。
昨夜、格子越しに握った手の感触が、まだ残っている。
『じっちゃん、僕のこと、すぐ分かってくれましたね』
――ああ。
『また、会いに行けますよね』
――約束しただろう。
内側の声が、少し明るくなった。
ドモンは手を閉じた。
その手で、傍らの怒涛剣を持ち上げる。
何でもない動きだった。
だが、ギアナ高地での朱麗には、それができなかった。
自分が再び気を失ったら。
そのとき、この弟子は一人で立てるだろうか。
戸を叩く音がした。
「朱麗さん。起きている?」
セラの声だった。
*
滝は、森の奥にあった。
高い岩壁から流れ落ちる水が、浅い池を白く泡立たせている。
その岸に、大きな岩が据わっていた。
人の背丈より高い。
表面には、月を囲むように古い文字が刻まれていた。
脇の小さな祠には、神剣と呼ばれる一振りが納められている。
「この中に、月の証が眠っているの」
セラは、岩へ目を向けた。
「昔の指導者が残したものだと、聞いているわ。継承の儀を迎える前に、ここを訪れるのが慣わしなの」
「取り出すのか」
「ええ。祠の神剣を使うのが決まりなの。でも、できなかったからといって、後継者になれないわけではないの。お母様も、その前の方々も、取り出せなかったそうよ」
セラは、刻まれた月に指を添えた。
「石の内に眠る月を、再び光の下へ迎える。そのとき、人々を結ぶ者が現れる――そう言い伝えられているわ」
『僕も、聞いたことがあります』
内側で、朱麗が言った。
『子供の頃、ばあばが話してくれました。ここには近づくなって、じっちゃんには言われたけど』
ドモンは岩の前へ進んだ。
足元に、新しい石の欠片が落ちていた。
岩の表面にも、細い傷がいくつかある。
「誰か、先に来ていたようだな」
*
少し前。
同じ岩の前で、サルガは祠の神剣を振り下ろしていた。
甲高い音が、滝の響きに混じった。
刃が跳ね返る。
サルガは踏みとどまり、痺れた手で柄を握り直した。
「もう一度だ」
「肩を傷めるぞ」
リナートが言った。
試練の坂で打たれた肩には、まだ布が巻かれている。
サルガは、その布を気にも留めず、再び剣を上げた。
「私が月の証を取り出せば、母上も考え直すでしょう」
もう一撃。
岩は、動かなかった。
「兄上。少し、貸してください」
ラセルが神剣を受け取った。
細い傷を指で確かめ、岩の周りを一周する。
「ここへ、力を集めてみましょう」
サルガが頷いた。
ラセルが刻んだ箇所へ、サルガが打ち込む。
角度を変え、足場を変えた。
剣を支える手を交代しても、結果は同じだった。
リュネが、刃を確かめた。
「これ以上続けると、剣の方が傷みます」
「……分かっている」
サルガは、神剣を祠へ戻した。
そのとき、森の道から声が聞こえた。
セラと、あの余所者だった。
ラセルが、兄へ目を向ける。
「少し、見ていきましょう」
*
ドモンは怒涛剣を木の根元へ置き、祠の神剣を手に取った。
古いが、手入れはされている。
柄を握り、岩を見上げた。
「月の証は、どの辺りにある」
「真ん中だと聞いているわ。壊さずに取り出すこと、とも」
ドモンは一度、刃を振った。
硬い音が響いた。
腕に衝撃が返る。
岩の表面に、小さな欠けができただけだった。
『師匠でも、駄目なんですか』
――硬いな。
ドモンが剣を下ろしたとき、背後で笑い声がした。
「セラが頼みにしている男が、どれほどのものかと思えば」
サルガが、木々の間から出てきた。
ラセルと、二人の従者も続く。
「お兄様方……」
「お前も見ただろう。腕が立つというだけで、何でもできるわけではない」
サルガは腰の剣へ手を掛けた。
リナートが、一歩前へ出る。
「サルガ」
「父上。これは私がやります」
抜かれた刃が、朝の光を受けた。
「少し、確かめてやろう。セラのそばに立つだけの力があるのか」
「そんなこと、ここでする必要はないでしょう!」
セラが二人の間へ入ろうとした。
ドモンが、その前へ出る。
「下がっていろ」
ラセルが、リュネへ片手を上げた。
「君も、そこで待っていてください」
「ラセル様?」
「兄上。私も、お手伝いしましょう」
二人が、左右へ分かれた。
ドモンは、借りた剣を下げたまま立っていた。
*
最初の一撃は、サルガだった。
肩口を狙った刃を、ドモンは半歩で外した。
返す剣も、身を引いて避ける。
「逃げるだけか!」
横から、ラセルが踏み込んだ。
剣先が胸へ伸びる。
赤い衣が、わずかに揺れた。
刃は脇を抜け、岩を擦った。
『師匠、二人いますよ!』
――見えている。
サルガが追う。
ラセルが、退く先へ回る。
ドモンは、その間を歩くように避けた。
「私たちを、侮っているのか!」
サルガの声が荒くなった。
次の刃は、肩ではなく首へ向かった。
「お兄様、やめて!」
セラの声が飛んだ。
切っ先が、喉の前を通り過ぎる。
『師匠! もっと離れてください!』
ドモンは、遠くへ退かなかった。
サルガの剣が、頭上へ上がる。
「いつまで避けられる!」
振り下ろされた刃が、額をかすめた。
切れた髪が、目の前を落ちていく。
朱麗は、息をのんだ。
今のは。
少しでも遅れていたら。
――死ぬかもしれんな。
『師匠……?』
ドモンの声は、静かだった。
『何を言ってるんですか。師匠なら、こんな人たち――』
――この間のように俺が気絶したら、お前はどうするつもりだ。
答えが、出なかった。
ギアナ高地の草むら。
動かせなかった怒涛剣。
自分を逃がし、敵に囲まれていった三人。
あのときの手の震えが、戻ってくる。
――今、俺が気を失えば、お前はすぐに斬られるな。
ラセルの突きが迫った。
体が傾き、刃が脇を抜けていく。
『そんな……』
――次に倒れたとき、また助けてやれるとは限らんぞ。
朱麗は、何か言おうとした。
けれど、言葉にならなかった。
――いずれ斬られるのなら、ここで死んでしまっても同じかもしれんな。
剣を握る腕が、下がった。
『……師匠?』
構えない。
逃げようともしない。
冗談ですよね。
そう尋ねたかった。
だが、ドモンからは笑いも、否定も返ってこなかった。
サルガが、正面へ踏み込む。
ラセルが、横へ回る。
背後には、切り立った岩。
逃げ道が、消えた。
「そこまでだ!」
リナートが駆け出した。
リュネも、ラセルへ手を伸ばす。
間に合わない。
二本の剣が、上がった。
――朱麗。
ドモンの声が、すぐそばで聞こえた。
――俺たちは、心穏やかに死のう。
『師匠……死んじゃうよ!』
刃が、振り下ろされる。
え。
僕が、死ぬ?
*
僕は、死ぬんだ。
じっちゃんの顔が、浮かんだ。
格子の向こうから伸びた、痩せた手。
自分の手をなぞった、硬い親指。
また来ると、言ったばかりなのに。
ばあばが、僕を呼んでいる。
幼い頃、何度も駆けていった道。
家の明かり。
食べ物を前に、三人で座った時間。
その一つ一つが、目の前を過ぎていった。
あんなに、帰りたかった。
体を返してほしいと、師匠に怒った。
僕の人生だと、何度も叫んだ。
その声も、今は遠い。
もう、怒っていても仕方がない。
誰を恨んでも、この刃は止まらない。
目の前に、死がある。
そう思った途端、胸を締めつけていたものが、少しずつほどけていった。
じっちゃん。
ばあば。
師匠。
そして――。
『ロロ……』
彼女が、振り向いた。
朱麗の記憶の中で。
ずっと会いたかった、その顔で。
何かを言おうとして、言葉が出なかった。
ただ、見ていたかった。
もう少しだけ。
*
滝の音が、遠のいた。
剣が風を切る音も。
兄弟の叫びも。
岩の端に、水が溜まっていた。
一雫。
膨らんだ水滴が、細く伸びる。
『……見える』
落ちていく。
光を映した、小さな一雫が。
ぽちゃん。
*
黄金の光が、朱麗の体からあふれた。
「――何だ?」
サルガの声が、詰まった。
剣は、まだ振り下ろされている。
その下にいたはずの男が、いない。
朱麗は、二人の刃の間に立っていた。
わずかに足を運んだだけだった。
どちらの剣も、その身に届いていない。
「今、何を……」
ラセルが、剣を引いた。
黄金に染まった腕。
頬。髪。
赤い衣までもが、光を帯びていた。
セラは、声を失った。
リナートの足が止まる。
リュネが、その肩越しに朱麗を見つめた。
『師匠……』
内側の朱麗が、呟いた。
『何なんですか、この感覚』
怖くない。
刃は、まだ目の前にある。
それなのに、はっきり見える。
二人が、どこへ踏み込もうとしているのか。
剣が、どこを通るのか。
そして、岩から落ちる、次の一雫も。
ドモンは、ゆっくりと息を吐いた。
――朱麗。
剣を握る手から、余計な力が抜けた。
――これが、明鏡止水だ。
「小細工を!」
サルガが、再び剣を振った。
朱麗の手が、その手首へ添えられた。
わずかに押されただけで、サルガの体が横へ流れる。
剣が、地面に落ちた。
ラセルが踏み込む。
朱麗は向き直り、剣の鍔で、その刃を受けた。
乾いた音がした。
ラセルの剣も、手を離れた。
兄弟は、動けなかった。
朱麗は、もう二人を見ていなかった。
岩へ向き直る。
剣が、上がった。
『師匠……』
――感じていろ。
力を込めたようには、見えなかった。
持ち上げた刃を、静かに下ろす。
岩へ触れる。
一筋の線が、上から下へ走った。
次の瞬間。
大岩が、左右へ開いた。
重い音が、足元から響いた。
土が揺れ、池の水面に波が広がる。
割れた岩の内側に、小さな空洞があった。
その中で、月を刻んだ証が光を受けていた。
「……月の証」
セラの唇が、かすかに動いた。
ドモンは、剣を下ろした。
黄金の光が、ゆっくりと薄れていく。
滝の音が、戻ってきた。
*
「怪我はない?」
セラが駆け寄った。
「ああ」
「髪が……」
「少し切れただけだ」
セラは額を見て、それから朱麗の顔を見た。
「さっきの光は、何だったの?」
ドモンは、岩の中へ手を伸ばした。
取り出した月の証を、彼女へ差し出す。
「ほら。これを取りに来たんだろう」
セラは、両手で受け取った。
小さかった。
何百年もの間、誰も取り出せなかったものが、今は自分の手のひらに収まっている。
「本当に……あったのね」
月の紋章を、指先でなぞった。
ドモンは神剣を祠へ戻し、木の根元から怒涛剣を担いだ。
「帰ろう。サラサに見せてやれ」
セラは兄たちを振り返った。
二人とも、何も言わなかった。
リュネが、ラセルの落とした剣を拾っている。
リナートは、割れた岩を見つめていた。
セラは小さく頭を下げ、朱麗の後を追った。
*
『師匠』
森の道へ入ると、朱麗が呼びかけた。
『さっき……本当に死ぬつもりだったんですか』
――お前まで死なせてどうする。
『でも、さっきは!』
――ああでも言わなければ、お前は俺が守ると思っていただろう。
朱麗は、言い返そうとして、黙った。
確かに、そう思っていた。
師匠がいる限り、自分は斬られないと。
『……本当に、怖かったんですよ』
――ああ。
短い返事に、ようやく息がつけた。
『あれは……僕にもできるんですか』
――お前は、俺のいた世界の「気」というものを知らないんだな。
『気? 何なんですか、それ』
――今、お前が感じたものだ。
ドモンは、肩の怒涛剣を持ち直した。
――俺の世界では、気を使うことは当たり前にあった。体を動かすにも、技を繰り出すにもな。
『あの光も、気なんですか』
――ああ。明鏡止水は、気を高める境地の一つだ。
朱麗は、先ほどの静けさを思い返した。
死ぬと思った瞬間。
すべてが遠のき、水滴だけが見えた。
――この世界でも、気を発することはできるらしい。だから、明鏡止水も使える。
『じゃあ、あのとき剣を持てなかったのも……』
――気の使い方を知らなかったからだ。腕に力を込めるだけでは、こいつは扱えん。
怒涛剣が、歩みに合わせて揺れた。
『僕、師匠と同じ体なら、できると思っていました』
――そう簡単にできては、俺の修行が無駄になる。
朱麗が、黙った。
ドモンは、少しだけ口元を緩めた。
――徐々に覚えていけばいい。
『……はい』
隣で、セラが顔を上げた。
「朱麗さん?」
「何だ」
「今、笑ったでしょう」
ドモンは、前を向いた。
「気のせいだ」
セラは月の証を胸元へ寄せ、彼の隣を歩いた。
*
滝の前に、四人が残っていた。
サルガは、拾い上げた剣を握っていた。
握っているのに、構える気にはなれなかった。
「掟を破って逃げた男にすぎんと思っていた」
森の道を見つめたまま、言った。
「……だが、違った」
「その通りだ、サルガ」
リナートが、静かに答えた。
割れた岩の断面へ手を置く。
指が、滑らかな面を撫でた。
「人の身で、成せることではない」
サルガは、父を見た。
「あの男を、このムーン・ムーンに留めてはならん」
木々の間に、赤い衣が見えた。
もう光ってはいない。
大剣を担ぎ、セラと並んで歩いている。
それが、かえって恐ろしかった。
サルガの声が、低くなった。
「あいつがここにいては、ムーン・ムーンが終わるかもしれん」
ラセルが、片眼鏡へ指を添えた。
「あれを人の力と呼んでよいのか、私にも分かりません」
兄へ向き直る。
「ですが、私が気にするのは、その先です」
「その先?」
「何百年もの間、誰にも取り出せなかった月の証が、今、セラの手にあります」
ラセルは、森の道へ目を戻した。
「この話が広まれば、人々は伝説が成就したと信じるでしょう」
サルガは、口を閉じた。
「セラと、あの余所者の言葉が、ムーン・ムーンの隅々にまで届くようになる」
ラセルの指が、片眼鏡から離れた。
「そのとき――私たちの言葉を聞く者が、どれだけ残るでしょうか」
4人はセラと朱麗の影をただ目で追いかけるだけだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
かつてシュバルツから教えを受けたドモンが、今度は朱麗へ伝える側になる。今回は、そんな師弟のつながりを描きたかった回です。Gガンダムをご存じの方には、あの場面を思い浮かべていただけたら嬉しいです。
取り出された月の証は、ムーン・ムーンに何をもたらすのか。
朱麗とセラの物語は、ここからまた動き始めます。