月の証を持ち帰った朱麗たち。村は歓喜に沸きますが、その裏で、動き出す人たちがいます。今回は、村から遠く離れた「ある里」が舞台です。新しい顔も登場しますので、ぜひ最後まで見届けてください!
神殿の広間には、ざわめきが満ちていた。
セラは、両手で月の証を差し出した。
小さな証が、灯火を受けて鈍く光る。
「お母様。滝の岩から、取り出してきました」
「……誰が」
「朱麗さんが、神剣で岩を開いてくれました」
サラサは、椅子の肘掛けに手をついた。
神官が支えようとするのを片手で制し、ゆっくりと立ち上がる。
一歩。もう一歩。
震える指が、証へ伸びた。
触れる直前で、止まる。
長い間、誰も息をしなかった。
やがて、指は静かに下りた。
「……よく、持ち帰ってくれました」
サラサは、目を閉じた。
「皆に、伝えなさい」
*
その日のうちに、話は村じゅうへ広まった。
石の内に眠る月が、光の下へ戻った。
神官たちの触れ回る声が、広場から路地へ、路地から畑へ、波のように伝わっていく。
「月の証を取り出した方が、おられるそうだ」
「あの余所者が、岩を斬ったと聞いたぞ」
広場の真ん中で、朱麗は人々に囲まれていた。
子供が裾を引き、老人が手を合わせ、誰かが焼き菓子を押しつけてくる。
「おいおい、すっかり英雄だな」
モンドが、にやにやしながら肘で突いた。
「この間まで剣も持てなかったくせに、今度は岩を斬ったって?」
エルが、腕を組んで言った。
『それは師匠です……』
内側で、朱麗が小さく呟いた。
――聞こえている。
「あんた、顔が引きつってるよ」
「……慣れていない」
モンドが、ふと首を傾げた。
「そういや、イーノの奴、まだ着かねえのか」
ビーチャが、笑いを噛み殺して言った。
「あいつなら、そのうち来る。今は主役の相手をしてやれ」
その横で、セラが朱麗の袖をそっと引いた。
「これなら、ヘモス様のことも、前へ進められるかもしれないわ」
「ああ」
ドモンは、短く答えた。
『じっちゃんに、いい報告ができますね』
内側の声が、明るく弾んでいた。
*
広場の端で、衛兵の怒鳴り声が上がった。
「里の者は、村へは入れん!」
人垣の向こうに、泥だらけの若者が膝をついていた。
息が荒い。足は傷だらけで、草鞋が破れている。
「頼む……古水路の壁が、崩れかけているんだ」
歓声が、すっと引いた。
「古水路の里の者か」
「追放された連中だ。関わるなよ」
囁きが、広場を渡っていく。
「通しなさい」
ラセルが、人垣を割って進み出た。
「助けを求める者の声を聞くのも、サラサ様の治めるムーン・ムーンのはずです」
「しかし、あの里は――」
「用件を聞くだけです」
衛兵は、渋々道を空けた。
若者は、額を地面につけた。
「里の者だけでは、手が足りません。水が漏れて、人が流されかけて……どうか、手を貸してください」
誰も、答えなかった。
追放された者たちの里へ、助けに行こうと名乗り出る者は、いなかった。
ラセルが、広場を見渡した。
「ですが、月の証を取り出した方なら、あの者たちも救えるのではありませんか」
視線が、一斉に朱麗へ集まった。
ドモンは、若者を見下ろした。
泥にまみれた手のひらが、小刻みに震えている。
「場所は」
「古水路の里です。ここから、半日ほど……」
「分かった。俺が行く」
人々が、どよめいた。
「私も行くわ」
セラが言った。
「セラ。あなたには、儀の支度があります」
ラセルが、穏やかに首を振る。
「後継者が村を空けるのは、よくありません」
「でも――」
「すぐ戻る」
ドモンが言った。
「待っていろ」
セラは、唇を結んだ。
それから、小さくうなずいた。
ラセルが、朱麗の傍らで足を止めた。
「ヘモス殿の記録は、その間に私が調べておきます」
声は低く、セラにも聞こえるほどだった。
ドモンは、その横顔を見た。
片眼鏡の奥の目は、静かで、何も読ませない。
「……頼む」
それだけ答えた。
*
朱麗が門を出るとき、モンドが肩を並べた。
「俺も行くぜ。イーノの奴を探すついでだ」
エルとビーチャは、セラの傍らに残った。
門のところで、セラは朱麗の背を見送っていた。
その隣で、ラセルが穏やかに声をかける。
「さあ、セラ。儀の支度を進めましょう」
「……はい」
ラセルの目は、遠ざかる赤い衣の背中を、最後まで追っていた。
広場の隅で、サルガは一言も発しなかった。
彼は、人々の歓声に背を向け、村の裏の道へ歩き出した。
その背を、リナートが黙って見送った。
そして、杖代わりの槍を握り直し、同じ道を追った。
*
古水路の里は、谷の底にあった。
石を積んだ家々は、何度も継ぎ足された跡がある。
屋根の板も、壁の漆喰も、不揃いな材で直されていた。
その脇を、古い水路が流れている。
石壁に、斜めに亀裂が走っていた。
水が細く染み出し、足元を濡らしている。
壁の両側には、粗末な滑車と綱で組み上げられた、大きな吊り腕が三台並んでいた。
二台は壁を支え、残る一台は補修の石を運んでいる。
「あれは、まずいな」
ドモンが呟いたとき、水路の脇から声がした。
「そこ、もう少し右だ! 綱を緩めて!」
石を運ぶ吊り腕の下で、眼鏡の男が、袖をまくって指示を出している。
モンドの顔色が変わった。
「イーノ!」
叫んで、駆け出した。
「こんなところにいたのか!」
「モンド……」
男は、振り返った。
癖のある髪。眼鏡の奥の目が、驚きから呆れに変わる。
「迎えに来てくれるって言ったじゃないか」
「お前が来ねえからだろ!」
二人が、互いの肩を叩いた。
「道に迷ってさ。ここの人たちに助けてもらったんだ。お礼に、この人たちが作った機械を借りて、水路を直してるところだよ」
「壊れてるのか?」
「壁にひびが入って、水が漏れてる。二台で壁を支えて、もう一台で石を運んでるんだ。上流で雨が降ったらしくて、水かさも増してきた。放っておけないからね」
イーノは、朱麗へ目を向けた。
「モンド、こちらは?」
「朱麗だ。こっちで世話になってる」
「そうか。イーノだ。よろしく」
「ああ」
「この人たちは、悪い人じゃない。道に迷った僕を、泊めてくれたんだ」
周りで作業をしていた住民たちが、手を止めて朱麗たちを見ていた。
村から来た者への、警戒の眼差しだった。
「……村の人間か」
年老いた男が、杖を突いて進み出た。
「また、追い立てに来たのか」
「違う」
ドモンは、静かに言った。
「助けを求められて、来た」
老人の目が、わずかに揺れた。
*
谷の上から、足音が降りてきた。
サルガだった。
彼は、住民たちの手にある工具と、三台の機械を、順に見渡した。
顔から、血の気が引いていく。
「機械を使っているな」
低い声だった。
「掟に背いて、村を追われた者どもが。まだ懲りぬと見える」
「ちょっと待ってくれ!」
イーノが、操作盤から叫んだ。
「水が増えてるんだ! 話は後にして、そこから離れて!」
「黙っていろ」
サルガは、見向きもしなかった。
「全員、その場を動くな。事情を聞く」
「追い出しておいて、今さら何を裁く!」
若い男が、鉄の槌を構えて前へ出た。
「抵抗するのか」
サルガが、剣を抜いた。
刃が、陽を弾いた。
住民たちが、悲鳴を上げて後ずさる。
槌を持った若者が、歯を食いしばった。
サルガの剣が、振り下ろされた。
その腕を、朱麗の手が掴んだ。
鈍い音が、谷に響く。
刃は、若者の肩の手前で止まっていた。
「……どけ。お前には関係ない」
「俺を追ってきたんだろう」
ドモンは、手首を離さなかった。
「なら、俺に話せ」
背後で、水の音が少しずつ大きくなっていた。
「待て」
谷の上から、声が飛んだ。
リナートが、息を切らして駆け下りてきた。
「サルガ。剣を収めろ」
「父上! この者たちは――」
「追放の沙汰は、消えておらん」
リナートは、息子の前に立った。
「だが、この者たちは、定められた場所で暮らしている。今、何を理由に捕らえるのだ」
「機械を使っています!」
「今は掟が変わっている。機械を使ったというだけで、この者たちを捕らえることはできん」
サルガは、言葉に詰まった。
「掟を守るというお前が、今の掟に背いてどうする」
静かな声だった。
サルガの腕から、力が抜けた。
朱麗が、手を離す。
剣先が、ゆっくりと地面へ下りた。
杖を突いた老人が、その様子を見つめていた。
「今は、機械を使ってもいいと聞いた」
掠れた声だった。
「なら、俺たちは、いつまで罪人なんだ」
誰も、答えられなかった。
その沈黙の中で、機械の上の若い住民が、操作盤を握りしめた。
「……まだ、俺たちを捕まえるつもりか」
震える手が、レバーを引いた。
壁を支えていた吊り腕が、サルガとリナートの前へ振り出された。
もう一台も、向きを変える。
壁との間で、ぎしり、と綱が鳴った。
支えを失った石壁が、ずるりと傾いた。
「待って! その腕は動かさないで! 壁が持たない!」
イーノの叫びは、遅かった。
亀裂から、水が噴き出した。
*
轟音とともに、水路が口を開けた。
濁った水が、堰を切ったようになだれ込んだ。
「逃げろ! 高いところへ!」
住民たちが、悲鳴を上げて駆け出す。
足の悪い老婆が、よろめいて倒れた。
その手を、小さな子供が必死に引いている。
「ばあちゃん、立って!」
濁流が、迫る。
リナートが、真っ先に走った。
倒れた老婆を抱え上げ、子供の手を掴む。
「こちらへ!」
水が、その足元を襲った。
「父上!」
サルガの叫びも、水音に呑まれた。
リナートは、二人を高台へ突き飛ばした。
その直後、濁流が膝を呑み、体ごと押し流す。
数人の住民とともに、白髪が水に消えた。
ドモンは、走り出していた。
濁流へ飛び込み、近くで流される住民の腕を掴む。
一人。二人。
怒涛剣が背で重く沈む。
流れの勢いに、足を取られそうになる。
『師匠!』
――まだだ。
子供の襟を掴み、岸へ押し上げる。
岸辺に立ったサルガが、縄を握っていた。
流される者へ向けて、必死に腕を伸ばす。
届かない。
濁流は、あまりに速かった。
「イーノ! あれを動かせ!」
モンドが叫んだ。
「吊り腕で、下流の者を拾うんだ!」
「分かってる!」
イーノは、操作盤へ飛びついた。
古い歯車が軋み、巨大な腕が、ゆっくりと持ち上がる。
下流の流れの中に、梁にしがみついた白髪が見えた。
「あの人だ! 誰か、もう一台を!」
腕の先に、綱の輪が下がる。
その声に、機械の上の若い住民が、震える手で操作盤を握り直した。
先ほど腕を振り出した男だった。
「俺の……俺のせいで……」
「いいから、右へ回して! 梁を押さえて!」
男の機械の腕が、流れてくる梁を、横から押さえた。
梁が、くるりと止まる。
その上へ、イーノの輪がするりと下りた。
「つかまって! 輪に腕を通して!」
リナートが、最後の力で輪へ腕を差し入れた。
「引くぞ!」
歯車が悲鳴を上げた。
綱が張り、腕が震える。
サルガが、縄を握っていた。
ほかの住民たちと並んで、全身で引いた。
輪が、水面から持ち上がる。
リナートの体が、ゆっくりと岸へ運ばれていった。
続いて、流された住民たちが、一人、また一人と引き上げられた。
サルガは、膝をついて父の体を受け止めた。
「父上……父上!」
リナートは、水を吐いた。
咳き込み、うっすらと目を開ける。
「……サルガか」
「はい」
「無事か」
「私は、何ともありません」
声が、震えていた。
*
水が引いた谷に、静けさが戻った。
濁った水の跡が、里を斜めに横切っている。
それでも、流された者は、一人も欠けていなかった。
イーノは、操作盤にもたれて座り込んでいた。
煙を吐く吊り腕を、ぼんやり眺めている。
「……動いたよ」
「ああ。よくやった」
モンドが、その肩を叩いた。
若い住民は、機械の上で、顔を覆っていた。
老人が、黙ってその肩に手を置いた。
サルガは、父の傍らに膝をついたまま、動かなかった。
縄を握っていた掌が、赤く擦り切れていた。
その視線の先で、朱麗が濡れた髪をかき上げている。
サルガは、ゆっくりと顔を上げた。
「……父を助けたことには、礼を言う」
低く、絞り出すような声だった。
「無事で何よりだ」
ドモンは、それだけ返した。
サルガは、何も言わなかった。
煙を上げる機械を、父の傍らから、ずっと見つめていた。
第24話、お疲れさまでした〜!
今回の登場人物の一人、イーノが、ついに登場しました モンドたちと久しぶりに再会する場面は、書いていて楽しかったです。ただ、ゆっくり再会を喜んでいる暇はなくて……。
もう一つ、今回描きたかったのは、サルガの変化です。掟を守るサルガにとって、機械は「咎めるもの」でした。その機械に、大切な人が救われる。彼が何を感じたのかは、あえて書かずに、読者の皆さんの想像に預けました
「掟が変わったのに、昔の罪は消えていない」――そんな人たちが、ムーン・ムーンにはまだ取り残されています。この問題は、これからも物語の中で触れていくことになります。
次回は、ラセルが調べている「ある記録」が、少しずつ動き出す予定です。次回もお付き合いいただけたら嬉しいです〜