ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
第一話 迷子の先で
──東京に来てから、まだそんなに日は経っていない。
北海道から一人で出てきて、春から結ヶ丘女子高等学校へ通うために始めた東京での一人暮らしにも当然まだ慣れていない。朝になれば窓の外から聞こえてくる車の音に目を覚まし、外へ出れば次から次へと人とすれ違い、駅へ行けばどこへ向かうのかも分からない電車が何本もやって来る、そんな北海道にいた頃とはまるで違う毎日を送っている。
別に東京が嫌いなわけではない、むしろ見るもののほとんどが新しくて、歩いているだけでも面白いと思うことの方が多かった。
ただ、人が多い。本当に多い。
北海道にいた頃なら、前から人が歩いてくればなんとなく顔を見る余裕もあったのに、東京ではそんなことをしていたら何人の顔を見ることになるのか分からない、信号が青になっただけでどこからこんなにいたんだと思うほど人が動き出すし、大きな通りへ出れば車が途切れることなく走っている。
東京へ行くと決めた時から都会なのは分かっていたつもりだったけれど、知っていることと実際にその中で暮らすことは全然違うらしい。
それでも、これからここで暮らしていくのだ。
いつまでも家の周りしか分かりませんでは困るし、もうすぐ入学する結ヶ丘への通学にも慣れなければいけない。
だから今日は天気もいいことだし、ちょっと東京を歩いてみようと思った。目的地なんてなくてもいい。
気になった道があったら曲がってみて、面白そうなお店があったら覗いてみて、疲れたら帰ればいい。最初は、本当にただそれだけのつもりだった。
「こっちにもお店あるっすね」
見たことのない道を歩くのは楽しかった。
細い路地を一本入るだけで大きな通りとは雰囲気が変わったり、古そうな建物の隣に急におしゃれなお店が現れたり、少し歩けばまた違う景色が見えてくる。
北海道とは何もかも違う。
だからつい、もう少しだけ、もう1つ向こうまで、と歩き続けてしまった。最初のうちは帰り道もなんとなく覚えていた。
この角を曲がった。あそこに変わった看板があった。ここはさっき通った。
そんな目印を頭の中へ残していた———つもりだった。
———けれど、いつからだろう。見覚えのあるものが1つもなくなったのは。
「……あれ?」
足を止める。
右を見る。
知らない道。
左を見る。
やっぱり知らない道。
振り返る。
当然のように知らない道。
「……」
しばらくその場に立ったまま考えた。確か、さっきの角を右に曲がった。いや、左だったかもしれない。
その前に大きな道路を渡ったような気もするけれど、渡っていないような気もする。
「まあ……なんとかなるっす」
スマートフォンがある。今の時代、多少道が分からなくなったところで地図を見ればいい。ポケットから取り出して地図を開き、現在地を確認する。
「……」
現在地は分かった。
「で、きな子はどっち向いてるんすか?」
画面の中の矢印を見つめる。スマートフォンを持ったまま身体を回してみる。矢印も回る。
「こっち……?」
歩いてみる。少しして地図を見る。
「……違うっすね」
戻る。別の道へ行く。
「こっちっす!」
数分後。
「……これも違うっす」
まだ、この辺りまでは笑っていられた。
ちょっと迷っただけ。東京へ来たばかりなんだから仕方ない。
むしろこういうのも、後から思い返せばいい思い出になるかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていたのだけれど、十分、二十分と時間が経つにつれて、少しずつ笑えなくなってきた。
見覚えのある場所へ近づいている気がしない。むしろさっきより分からなくなっている気さえする。
道を尋ねようにも、歩いている人たちはみんな忙しそうで声をかけづらい、何度か「すみません」と言いかけて、そのたびにタイミングを逃した。
「ここ、どこっすかー?」
ついに口から出た。今さらだけど、私は迷子らしい。
東京へ出てきて一人暮らしを始めると決めた時、家族には大丈夫だと何度も言った。
一人でもちゃんとやれる。心配しなくても平気。
そう言って出てきたのに、入学式を迎えるより先に東京の街で迷子になっている。
「これはー……言えないっすね」
絶対に言えない。連絡したら帰り方くらい一緒に考えてくれるだろうけれど、その前にものすごく心配される。
私はもう一度スマートフォンを見る。
「……とりあえず歩けば」
言いかけて、やめた。それを続けた結果が今だ。
「やめた方がよさそうっす」
さすがの私でも学習する。とはいえ、このまま道端に立っていても仕方がない。
どうしようかと辺りを見回していると、少し先に一軒のお店があることに気づいた。
大きなお店ではない。通りに馴染むように建っている小さなカフェで、入口の横には鉢植えが並び、その近くに木製の看板が置かれている。
そこに書かれた文字を目で追う。
「Café……
なんて読むんだろう。アルブレ?アーブル?
分からない。でもカフェなのは分かる。
それだけで十分だった。
歩き続けて喉も渇いたし、何よりお店の人なら道を聞けるかもしれない。
迷子なので助けてくださいと知らない人に言うのは少し恥ずかしいけれど、これ以上一人で歩き回る方がもっとまずい。
「———よし」
小さく気合を入れて、私は店へ向かった。扉の前まで来ると、中の様子がガラス越しに少し見える。落ち着いた色の家具が並び、何人かのお客さんが座っている。
知らない店へ一人で入るのは少し緊張する。北海道から東京へ一人で来たくせに、カフェへ一人で入るくらいで緊張するのも変な話だけど、緊張するものはする。
扉へ手をかける。一度息を吸ってから、ゆっくり開いた。
からんからん、と頭上で小さなベルが鳴る。外を歩き続けていた耳には、その澄んだ音が妙に心地よく聞こえた。店内へ一歩入ると、外より少し涼しい空気が頬へ触れ、それと一緒に珈琲の香りがふわりと鼻をくすぐる。静かな音楽が小さく流れていて、食器の触れ合う音や、他のお客さんの話し声が遠くに混じっている。
外の騒がしさが扉一枚で急に遠くなったような気がして、私はそれだけで少しだけ安心した。
「いらっしゃいませ」
「ひゃいっ!」
安心した直後だったから、完全に油断していた。突然声をかけられて、変な返事が出た。声のした方を見ると、男の人がこちらを見ていた。
私より年上。でも、大人というほど離れてはいないように見える。北海道では中々見かけなった端正な顔立ちをしていて、端的に言えばイケメンさん。大学生くらいだろうか。すらりとした体格で、店の制服らしい格好をしていて、驚いた私を見てほんの少しだけ目を丸くしていた。
「す、すみませんっす」
「いえ」
「お一人ですか?」
「はいっす」
「お好きな席へどうぞ」
笑われるかと思ったけれど、その人は何事もなかったように軽く頭を下げた。店内を見回して、窓際の空いている席を選ぶ。鞄を置いて椅子へ腰を下ろした瞬間、思わず息が漏れた。
「はぁ……」
足が重い。座った途端、一気に疲れが押し寄せてきた。さっきまで歩くことに必死で気づかなかったけれど、かなり長い時間歩いていたらしい。
窓の外では相変わらず人が行き交っている。その光景を安全な店内から眺めていると、さっきまで自分があの中で完全に迷っていたことが少しだけおかしく思えてきた。
メニューを渡され、冷たいアイスミルクティーを選ぶ。知らない名前のものもあったので、結局見慣れたものを注文した。
少しして、さっきの男の人が飲み物を運んでくる。
「お待たせしました」
「ありがとうございますっす」
目の前に置かれたグラスには細かい水滴が浮かんでいて、それを見るだけで喉が渇いていたことを思い出す。
口飲むと、ひんやりとしたミルクティーが口の中へ広がった。ほどよい甘さと紅茶の香りを感じながらゆっくり飲み込むと、冷たさが喉を通っていくのが心地よく、歩き回って乾いていた身体へ染み込んでいくような気がした。
気づけば、さっきまで少しだけ強張っていた肩からも力が抜けている。知らない街で道に迷って、ようやく辿り着いた店でこうして座っているせいか、ただ飲み物を一口飲んだだけなのに、ようやく一息つけたような気がした。
「ふぅ、生き返るっす」
「ずいぶんお疲れのようですね」
「えっ」
完全に独り言のつもりだったが、その独り言はしっかりと聞かれていた。顔を上げると、男の人がこちらを見ている。口元が少しだけ笑っているように見えた。
「そ、そう見えるっすか?」
「かなり」
「……」
誤魔化そうかと思った。でも、そもそもこの店へ入った目的の半分は道を聞くためだ。
私はグラスを両手で包みながら、少し視線を落とした。
「……実は」
「はい」
「迷ったっす」
「迷った?」
「道に……」
一瞬の沈黙。恥ずかしい。
顔を上げづらい。
「どこへ行こうとしてたんですか?」
「それが……特にどこかに行こうとしてたわけじゃないんす」
「うん?」
「東京に来たばっかりだから、ちょっと歩いてみようかなって思って、それで気になる道を適当に歩いてたら……」
「帰り道が分からなくなった?」
「……そうっす」
説明しているうちに、自分でも改めてひどい話だと思った。恐る恐る顔を上げる。男の人は口元を手で隠していた。
「……笑ってるっすか?」
「いえ」
「絶対笑ってるっす!」
「すみません、ちょっとだけ」
「むぅ……」
頬を膨らませる。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
馬鹿にされているというより、単純に面白がられているだけなのが分かったからなのかもしれない。
「知らない街で適当に歩いたら、そりゃ迷いますよ」
「きな子も今それを反省してるっす……」
そこで、男の人が少し首を傾げた。
「きな子?」
「え?」
「今、きな子って」
「あっ」
やってしまった。私は普段から自分のことを名前で呼ぶ癖がある。北海道では周りも知っているから何も問題なかったけれど、初対面の人にいきなり「きな子」と言っても分かるはずがない。
「き、きな子は、きな子っす!」
「……?」
「違うっす! 今のなしっす!」
余計に意味が分からなくなった。男の人の眉がほんの少し上がる。私は慌てて姿勢を正した。
「桜小路きな子っていうっす。きな子の名前っす」
「ああ」
「桜小路きな子さん」
「はいっす」
自分から名乗ったのに、名前を呼ばれると妙にくすぐったかった。東京へ来てから、自分の名前を呼んでくれる人はまだいない。
お店の人に呼ばれただけなのに、知らない街の中にほんの少しだけ自分の居場所ができたような、変な感覚がした。
「俺は
「……え?」
聞こえた名前を、すぐには頭の中で処理できなかった。
——野山幸之助
別に珍しい名前だから驚いたわけじゃない。ただ、その2つが続けて耳へ入ってきた瞬間、胸の奥に小さな何かが引っかかった。
知っている。
そんな気がした。
でも、なんで?
「……」
私は飲み物へ伸ばしかけていた手を止めたまま、目の前に立つ男の人の顔を見上げた。さっきまでと何も変わっていない。
落ち着いた雰囲気で、カフェの制服を着て、私が迷子になった話を聞いて少し笑っていた人。
野山幸之助さん。
もう一度、頭の中で名前を繰り返す。
どこかで聞いた。
絶対に聞いたことがある。
東京へ来てからじゃない。
学校関係でもない。
もっと前。
ずっと前———。
「桜小路さん?」
「……」
「桜小路さん?」
「ひゃいっ!?」
「どうかしました?」
「えっ!? い、いや、なんでもないっす!」
「そうですか?」
「はいっす!」
反射的に答えたものの、なんでもないわけがない。私は誤魔化すようにグラスへ手を伸ばし、ストローへ口をつけた。その様子を見ていた男の人——野山幸之助は軽く会釈をして自分の持ち場に戻っていった。
冷たい飲み物が喉を通る。でも、さっきまで美味しいと思っていたはずなのに、今は味がよく分からない。頭の中では、さっき聞いた名前だけがぐるぐると回っていた。
野山幸之助。
野山幸之助。
のやま、こうのすけ。
「……」
やっぱり知っている気がする。私はストローから口を離すと、視線だけをそっと上へ動かした。幸之助さんはもう私から目を離していて、別のテーブルを片付けている。空になったカップをトレーへ乗せ、布巾でテーブルを拭き、椅子の位置を整える。
その動きを、私はなんとなく目で追ってしまった。どこにでもいる大学生くらいのお兄さんにしか見えない。いや、そもそも大学生なのかも聞いていないけど。少なくとも、私の記憶の中にいる人とは結びつかなかった。
私が覚えているのは———。
「……あ」
そこまで考えた瞬間。頭の中で、音が鳴った気がした。
ピアノ。
「……!」
それだ。
ピアノ。
その言葉が浮かんだ途端、それまで霧がかかっていたように曖昧だった記憶が、一気に輪郭を取り戻していく。
北海道にいた頃。まだ今よりずっと小さかった私。お父さんお母さんに連れられ、私は1度だけ東京に来たことがある。その時立ち寄ったコンサート会場で私は見ていた。
大きなピアノと、その前に座っていた私とそう変わらないくらいの年齢の男の子。小さな身体なのに、鍵盤の上を動く指だけは信じられないくらい滑らかで、照明の光を一身に受けるその映るその姿に夢中になっていた。
何の曲だったのかまでは、もう覚えていない。音楽に詳しかったわけでもない。演奏の何がすごいのかを説明できたわけでもない。
ただ———綺麗だった。
小さな私にも、それだけは分かった。ピアノの音が綺麗で、同じくらいの年頃の子がこんなことをできるのが信じられなくて、気づけば講演会は終演を迎えていた。
『この子、まだ小学生なんだって。すごいわよねぇ?』
そんなことを言われた記憶が、ぼんやりと残っている。同じくらい?この子が?小さかった私は本気でそう思った。
だって、全然違って見えたから。私と同じ小学生なのにたくさんの人が見ている場所で、一人でピアノの前へ座って、堂々と弾いている。
私には絶対できない。
だから、すごい。
単純だった。
でも子供だった私にとって、その「すごい」はかなり大きかった。もう1回見たくて、北海道に帰ってからもYouTubeで男の子が演奏している動画を何度何度も見ていた。
そして、その男の子の名前を覚えた。
———野山幸之助。
「……」
私はゆっくりと顔を上げた。幸之助さんは少し離れたところで、トレーを片手に別のお客さんと話している。笑っている。
普通に。
本当に、普通に。
「……え?」
思わず小さな声が漏れた。
待ってほしい。
じゃあ。
あの人が?
あの時、あの大きなピアノを弾いていた男の子が?
今、そこで?
カフェで?
働いてる?
「…………えぇ?」
意味が分からない。いや、ピアノを弾いていた人がカフェで働いてはいけないなんてことはない。そんな法律はない。
でも、私の中ではどうしても2つの姿が結びつかなかった。記憶の中の野山幸之助は、向こう側の世界にいる人だった。
たくさんの人に見られながらピアノを弾いて、演奏が終われば拍手を浴びる人。私が観客席から眺めていた人。それが今は、ほんの数メートル先にいる。さっき私の迷子話を笑った。
帰り道まで心配された。普通に自己紹介された。しかも私はその人に向かって、
『ダメっす!』
とか、
『もう笑ってるじゃないっすか!』
とか言った。
「…………」
急に恥ずかしくなってきた。もし本人だったら。昔ちょっと憧れていた人に、再会———再会と言っていいのかは分からないけど、とにかく初めて実際に会った相手に、私は迷子になった話をして笑われていたことになる。
「うぅ……」
私は両手でグラスを包み、その陰へ少しだけ顔を隠した。
いや。いやいや……。
まだ本人だと決まったわけじゃない。同姓同名かもしれない。野山という名字はそこまで多くない気もするけれど、絶対に一人しかいないわけではないし、幸之助という名前だって同じだ。
偶然。きっと偶然。そう思って、もう一度見る。
「……」
野山さんがこちらへ向かって歩いてくるのが見えて、私は反射的に視線を逸らした。別に見ていたことを知られて困るようなことは何もないはずなのに、近づいてくる姿を意識した途端、心臓がいつもより少しだけ速く打ち始める。
やがて床を踏む足音が少しずつ近づいてきて、そのまま私のすぐ横を通り過ぎていった。声をかけられることもなく、足音が背後へ遠ざかり始めたところで、私はようやく逸らしていた視線を戻し、気づかれないようそっとその後ろ姿を目で追った。
そうして改めて見つめているうちに、頭の中にはいつの間にか、あの日ステージの上でピアノを弾いていた男の子の姿が浮かんでいた。
もちろん、あの頃のままなはずがない。記憶の中にいる男の子と比べればずっと大人になっているし、髪型だって違えば、背も驚くほど伸びている。それだけ時間が経っているのだから、見た目が変わっているのは当たり前だった。
それでも。
どうしても、まったくの別人だとは思えなかった。
「……似てる、気がするっす」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。そう思ってから改めて幸之助さんの姿を見ていると、記憶の中に残っている男の子と重なるところが次々に見つかってしまう。目元や横顔だけではなく、誰かと話している時にふっと浮かべる笑い方まで、どこかあの頃の面影が残っているように思えた。
一度気になり始めてしまうと、もう何を見てもそうとしか思えなくなってくる。最初はただ名前が同じだから気になっただけだったはずなのに、こうして見比べるほど、もしかしたら本当に本人なのではないかという可能性が、さっきまでよりずっと現実味を帯びてきた。
確かめたい。その気持ちは、もう誤魔化せないくらい大きくなっている。
『昔、ピアノ弾いてた野山幸之助さんっすか?』
聞くこと自体は難しくない。たったそれだけ尋ねれば、今こうして一人で考えていることにもすぐ答えが出る。本人なら本人で、違うのなら違う。それが分かれば、この妙に落ち着かない気持ちだって終わるはずだった。
——なのに、その一言がどうしても口から出てこなかった。
「……」
それでも、いざ本人を前にして聞こうとすると、どうしても口が動かなかった。
もし人違いだったら、突然そんなことを聞いた自分が恥ずかしい。それももちろんあるけれど、ためらっている理由はそれだけではない。
もし、本当にあの時の男の子だったら。
そう考えた途端、今度は別の疑問が次々と頭の中に浮かんできた。
私が知っている野山さんは、まだ子供だった頃、ステージの上でピアノを弾いていた姿だけだ。それから何年も経った今まで、どんなふうに過ごしてきたのかは何も知らない。今でもピアノを弾いているのか、それとももう弾いていないのか。あれだけ上手だった人が、どうして今はこのカフェで働いているのか。それだって、私には何一つ分からなかった。
それに、たとえ本人だったとしても、昔のことを覚えている見ず知らずの女の子から突然その話を持ち出されて、幸之助さんがどう思うのかも分からない。懐かしいと思ってくれるかもしれないけれど、もしかしたら今は触れてほしくないことなのかもしれない。
私はただ、子供の頃に見たあの男の子と同じ人なのか知りたいだけだった。でも、相手のことを何も知らないまま、自分の興味だけで昔のことを尋ねるのは、なんとなく違うような気がした。
そう考えてしまうと、さっきまであれほど聞きたかったはずの一言を、簡単には口にできなくなっていた。
「……」
私はグラスの中で揺れる氷を見つめた。
からん、と小さな音が鳴る。
聞かない。
今日は。
そう決めた。
別に、今聞かなければ二度と会えないわけじゃ——
「……」
そこまで考えてから、自分で引っかかった。
二度と会えないわけじゃない?
どうしてそう思ったんだろう。
またここへ来るつもりなんだろうか。
「……まあ」
私はストローを指先で弄りながら、小さく息を吐いた。
「それは、その時考えればいいっす」
結局その時の私は、目の前にいる野山幸之助さんが、昔憧れていたあのピアニスト本人なのかを聞くことができなかった。
ただ、それまで「道を教えてくれそうなカフェのお兄さん」でしかなかったその人が、急に気になる存在になってしまったことだけは、どうやら間違いなかった。
「そういえば桜小路さん」
「ひゃいっ!」
また変な声が出た。いつの間にか近くへ戻ってきていた幸之助さんが、少し不思議そうに私を見る。
「……本当に大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫っす!」
「さっきからぼーっとしてますけど」
「東京を歩きすぎて疲れただけっす!」
「ならいいですけど」
よくない。全然よくない。主に私の心臓が。
「東京には旅行で来たんですか?」
「違うっす。春からこっちで高校に通うんす」
「高校?」
「はいっす!」
この話題なら普通に話せる。私は少し姿勢を正した。
「結ヶ丘女子高等学校に入学するっす!」
「結ヶ丘?」
幸之助さんの反応がほんの少し変わった。大きく驚いたわけではない。ただ、知っている名前を聞いた時のように眉がわずかに動いた。
「知ってるんすか?」
「名前くらいなら。スクールアイドルの子たちがいる学校ですよね」
「スクール……アイドル?」
知らない言葉が出てきた。私は首を傾げる。
「なんすか、それ?」
「えっ」
「知らないんですか?」
「知らないっす」
「うーん、Liella!って聞いたことないです?」
「りえら……?」
口にしてみる。やっぱり覚えがない。
「人の名前っすか?」
「いや、グループ名です」
「ぐるーぷ」
「本当に知らないんですね」
「はいぃ……」
なんだか私が世間知らずみたいになっている。
いや、実際知らないんだけど。幸之助さんは少し考えた後、肩をすくめるように笑った。
「まあ、学校に行けば分かるんじゃないですか」
「そんなもんっすか?」
「たぶん」
「適当っすね」
「俺もそんなに詳しくないので」
スクールアイドル。
Liella!。
また知らないものが増えた。東京へ来てからこんなことばかりだ。知らない駅、知らない道、知らないお店。
そして、これから通う学校にも私の知らない何かがあるらしい。少しだけ興味は湧いたけれど、その時の私にとっては「学校へ行ったら分かるらしいもの」でしかなかった。
まさかそれが、自分の高校生活を大きく変えることになるなんて、想像できるはずもない。
「それより、桜小路さん」
「はいっす?」
「帰れます?」
「た、多分……住所はわかるっす!」
「そこは安心しました」
「きな子をなんだと思ってるんすか!」
幸之助さんがまた笑う。最初は少し緊張していたはずなのに、気づけば私は普通に話していた。昔憧れていた人かもしれないと思うとまだ変に意識してしまうけれど、それでも幸之助さん自身は話しやすい人だった。
スマートフォンを取り出して、最寄り駅を見せる。幸之助さんは画面を覗き込み、現在地と見比べる。
「ここなら、そんなに難しくないですよ」
「本当っすか?」
「はい。店を出たらまず右です」
「右」
「2つ目の角を左」
「2つ目を左」
「そのまま真っ直ぐ行けば大きい通りに出ます」
「真っ直ぐ」
「そこまで行けば駅の案内もあります」
「なるほどっす」
1つずつ頭へ入れる。
右。
2つ目を左。
真っ直ぐ。
「分かりました?」
「完璧っす!」
「じゃあ言ってみてください」
「店を出て左!」
「右です」
「……」
「……」
「右っす」
「大丈夫かな」
幸之助さんの顔に明らかな不安が浮かんだ。
「い、今のはちょっと間違えただけっす!」
「最初から間違えてますよ」
「次は大丈夫っす!」
「本当に?」
「きな子を信じてほしいっす!」
「今日迷ってここに来た人を?」
「うぐっ……」
何も言い返せない。
結局、幸之助さんは私のスマートフォンの地図を使って、曲がる場所まで一緒に確認してくれた。画面を指でなぞりながら説明する横顔を、私は時々こっそり見る。やっぱり似ている気がする。
でも、今日は聞かないと決めた。それに今は、無事に家へ帰る方が大事だ。
「これなら大丈夫だと思います」
「ありがとうございますっす!」
「途中で分からなくなったら、適当に歩かないで地図見てくださいね」
「——分かったっす」
「返事に間がありましたけど」
「ちゃんと見るっす!」
飲み物もすっかり空になっていた。私は鞄を持って席を立つ。会計を済ませ、扉の前まで歩いたところで振り返った。
「ごちそうさまでしたっす!」
「ありがとうございました」
ここへ入った時には、知らない店だった。声をかけてきた野山さんだって、知らない人だった。それなのに帰る頃には、不思議と最初ほど緊張しなくなっていた。
「桜小路さん」
「?」
扉へ手をかけたところで呼び止められる。振り返る。
「今度は迷わないように」
野山さんが少し笑っていた。私は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに頬を膨らませる。
「だ、大丈夫っす!」
「本当に?」
「今度はちゃんと来るっす!」
勢いのまま言い切ったところで、自分が何を口にしたのかに気づき、私はぴたりと動きを止めた。
——今度はちゃんと来る。
頭の中でもう一度自分の言葉を繰り返してみると、途端にその意味が気になり始める。今度というのはいつのことで、ちゃんと来るというのは、いったいどこへ来るという意味なのか。
ここへ。また、このカフェへ。
私は別に、もう一度ここへ来るつもりだなんて一言も言っていなかったはずなのに——いや、たった今、自分ではっきり言ってしまった。
「............」
誰かに誘われたわけでもないのに、自分からまた来ると宣言してしまったことが急に恥ずかしくなり、じわじわと頬が熱くなっていく。今さら取り消すのも余計に変な気がして何も言えずにいると、野山さんも私の言葉の意味に気づいたのか、ほんの少しだけ意外そうに目を丸くした。
けれど、野山さんはそれをからかうことも、どうしてまた来るのかと尋ねることもしなかった。
「はい」
ただ、それだけ答えてから、いつもの落ち着いた表情を少しだけ柔らかくする。
「お待ちしてます」
「............っ」
その言葉を聞いた途端、さっきまでじんわり熱くなっていた頬が、今度こそはっきり熱を持った気がした。別におかしなことを言われたわけでもない。ただ店員として、また来ると言った客にそう返しただけなのだと思う。
それなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのか、自分でもよく分からなかった。
——昔、憧れていた人かもしれないから。
きっと、それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、私はこれ以上野山さんの顔を見ていられなくなって、逃げるように店の扉へ手を伸ばした。
「そ、それじゃ、またっす!」
からん、とベルが鳴る。外へ出ると、春の風が頬を撫でた。店の中にいたからか、さっきまでより少しだけ風が暖かく感じる。
通りには変わらず人が歩いていて、車の音も聞こえている。何も変わっていないはずなのに、店へ入る前より少しだけ景色が違って見えた。私はすぐにスマートフォンを取り出す。
「店を出たら……右っす」
確認。
右。
大丈夫。
歩き出す。
2つ目の角を左。
今度は間違えない。
大きな通りへ出る。
駅の案内が見えた。
「……あったっす!」
思わず嬉しくなった。これなら帰れる。ほっと息を吐き、少しだけ足取りが軽くなる。そこでふと、私は立ち止まった。振り返る。もう店そのものは建物の陰になって見えない。でも、さっきまでいた場所はあちらだ。
Café Arbre。
そして———。
「野山幸之助さん……」
歩きながら、確かめるようにその名前を小さく声に出してみる。やっぱり聞き覚えがあるどころか、忘れたことのない名前だった。
まだ私が小さかった頃、画面の向こうでピアノを弾いていた男の子。私とそれほど歳が変わらないはずなのに、自分には到底できそうもないことを当たり前のようにやっていて、その指が鍵盤の上を動くたびに綺麗な音が次々と生まれていくのを、何度も夢中になって見ていた。
すごい人だと思った。自分と同じくらいの子供なのに、こんなことができる人がいるのだと驚いて、それから何度も演奏を見るようになった。
そしていつの間にか、ほんの少しだけ憧れていた。
そんな人とまったく同じ名前を持つ人が、今日、偶然入ったカフェで働いていた。顔にもどこか昔の面影が残っているように見えたし、見れば見るほど記憶の中の男の子と重なるところもあった。
それでも、本当に同じ人なのかはまだ分からない。
結局、最後まで聞くことができなかったからだ。
「聞けばよかったかな」
店から離れてしまった今になって、ほんの少しだけ後悔が湧いてくる。たった一言尋ねるだけだったのだから、あの時もう少し勇気を出していれば、今頃は答えが分かっていたはずだった。
けれど、あの場ではどうしても聞けなかった。
もし幸之助さんが本当にあの時の男の子だったなら、きっと私は本人かどうかを確かめるだけでは終われなかったと思う。今もピアノを弾いているのか。昔と同じように続けているのか。そして、どうして今はあのカフェで働いているのか。
一つ答えを知れば、その先のことまで聞きたくなってしまう。
けれど、それは今日初めて会ったばかりの私が、ただ昔から知っているというだけで踏み込んでいいことではないように思えた。
「…………」
だから、今日はこれでよかった。
そう思うことにしたはずなのに、一度気になってしまった「野山幸之助」という名前は、店を離れてからもなかなか頭の中から消えてくれなかった。
「まあ……」
私は前を向く。
「今度会った時に聞けばいいっす」
また自然に出た。
今度。
やっぱり私は、もう一度あの店へ行くつもりらしい。
「……ふふっ」
そこまで考えているうちに、今日一日の出来事がなんだか少しおかしく思えてきて、私は一人で小さく笑った。
東京へ来てからというもの、目に入るものも、耳にするものも、知らないことばかりだった。見慣れない街並みに、複雑な道、すれ違うたくさんの人たち。これから毎日通うことになる結ヶ丘のことだって、まだほとんど何も知らない。
今日だって、最初は少し散歩をするつもりで外へ出ただけだった。それなのに気づけば自分がどこにいるのか分からなくなって、スマートフォンの地図と知らない景色を何度も見比べながら歩き回ることになった。
あの時は、正直かなり心細かった。
北海道を離れて、知っている人がほとんどいない東京まで本当に来てしまったのだと、今さらになって実感した瞬間でもあった。これからちゃんとやっていけるのだろうかと、ほんの少しだけ不安になったことも覚えている。
でも、道に迷わなければ、きっとあのカフェを見つけることもなかった。
あの場所へ辿り着かなければ、店の中へ入ることもなく、幸之助さんと出会うことだってなかったはずだ。
そう考えてみると、今日道を間違えてしまったことも、全部が全部悪かったわけではないような気がしてくる。少なくとも今は、迷子になって大変だったという気持ちよりも、偶然見つけたあの店のことの方が強く心に残っていた。
「……スクールアイドル、か」
何気なく呟いたところで、今日知ったもう一つの言葉が頭に浮かんだ。
Liella!。
私がこれから通う結ヶ丘で活動しているという、スクールアイドル。名前どころか、そもそもスクールアイドルが何なのかさえよく分かっていなかったけれど、幸之助さんは学校へ行けばきっと分かると言っていた。
いったい、どんな人たちなんだろう。
そう思っただけで、まだ見たこともない学校の景色が少しだけ楽しみになってくる。
入学すれば、きっと今日よりもたくさんの知らないものに出会うのだと思う。新しい学校で、新しいクラスに入って、そこで今まで会ったことのない人たちと知り合っていく。考えれば考えるほど緊張するし、北海道にいた頃とは何もかも違う生活が始まることへの不安が、完全になくなったわけでもない。
それでも今は、その不安と同じくらい、これから何が待っているのだろうという楽しみもあった。
「東京も、悪くないかもしれないっすね」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、私は再び駅へ向かって歩き始めた。今度こそ同じ失敗はしないよう、スマートフォンの地図をしっかり確認してから足を進める。
今日は道に迷った。
けれど、そのおかげで一つ、東京で覚えた場所ができた。
次にあの店へ行く時は、もう今日みたいに偶然辿り着くんじゃない。今度は自分から、ちゃんとあの場所へ行く。
「絶対、迷わないっす」
誰も聞いていないのに小さく宣言して、私はまだ見慣れない春の東京を歩いていった。
〇桜小路きな子
北海道出身。結ヶ丘女子高等学校1年生。
穏やかで素直な性格だが、少し臆病で自分に自信がないところもある。語尾の「~っす」が特徴。
上京後にLiella!と出会い、スクールアイドルの世界に惹かれていく。運動やダンスは不得意ながらも、一度決めたことには頑張って食らいつく芯の強さを持つ。
本作では、幼少期に少しだけピアノを習っていたというオリジナル設定を追加。小学1年生の頃、当時小学5年生だった野山幸之助の演奏を見たことが、ピアノを始めるきっかけとなった。しかし長続きせず、現在は弾いていない。
高校進学を機に上京し、偶然立ち寄ったCafé Arbreで幸之助と出会う。本人だとはまだ確信できないまま、少しずつ彼との距離を縮めていく。
〇野山幸之助
都内の大学に通う2年生。身長約180cm。Café Arbreでアルバイトをしている青年。
穏やかで落ち着いた性格の読書家。人の話をよく聞き、相手に答えを押しつけるのではなく、自分で考えさせることを大切にしている。
幼少期からピアノの才能に恵まれ、数々の舞台やコンクールで活躍していたが、中学卒業を機にピアニストとして表舞台に立つことをやめている。現在もピアノそのものから離れたわけではなく、ふとした時に弾いていることがある。
Café Arbreで、上京したばかりの桜小路きな子と偶然出会う。
かつてピアノを弾いていた青年と、彼の音にどこか覚えのある少女――二人の出会いが、止まっていた時間を少しずつ動かしていく。