ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
図書館の自動ドアを抜けると、それまで静かな館内に慣れていた耳へ、街の音が一気に戻ってきた。
車が道路を走る音に、信号機から流れる電子音、行き交う人たちの話し声。昼を過ぎた歩道は午前中よりも人通りが増えていて、信号が変わるのを待つ人や、並んだ店の前で足を止める人たちが絶えず行き交っている。
さっきまで本棚に囲まれた静かな場所で一時間以上も話していたせいか、外の明るさも街の賑やかさも、入る前より少しだけ強く感じられた。
隣を見ると、平安名さんも眩しそうに目を細めてから、抱えていた本を鞄へしまっている。
「この辺、何かあります?」
「私に聞くの?」
「平安名さんの方が詳しそうなので」
「私も今日初めて来たんだけど」
「そうなんですか?」
「そうよ」
てっきり何度か利用したことのある図書館なのだと思っていたので、少し意外だった。
考えてみれば、俺は平安名さんについてまだほとんど何も知らない。本をよく読むこと、日本史が好きなこと、意外と負けず嫌いなこと。それから高校二年生であること。知っているのは、さっきまでの一時間ほどで分かったことだけだ。
この図書館によく来るのかなんて、聞いたこともなかった。
「じゃあ、本当に偶然だったんですね」
「何が?」
「いや、最初の本ですよ」
俺がそう言うと、平安名さんも意味が分かったらしく、一度図書館の建物を振り返った。
互いに今日初めて来た図書館で、たまたま同じ本棚の前に立ち、同じ一冊を見つけて、ほとんど同じタイミングで手を伸ばした。その結果、名前も知らないまま作品について話し始めて、気づけば一時間以上も一緒にいたことになる。
「結構な偶然ですよね」
「まあ、そうね」
平安名さんはそれほど気にしていないのか、あっさりと頷いただけだった。
俺も、それ以上何か意味を見つけようとは思わなかった。偶然は偶然だ。ただ、今日どちらかが少しでも違う時間に来ていたら、今こうして二人で昼飯を探して歩いていることもなかったのだと思うと、少しだけ妙な感じはした。
「それより、お昼どうするの?」
「ああ、そうでした」
そういえば、そもそも腹が減ったから図書館を出てきたのだった。
周囲を見回してみても、土地勘がないのでどの店がいいのかまるで分からない。平安名さんも初めて来たのなら、二人で適当に歩き回るより検索した方が早いだろう。
ポケットからスマートフォンを取り出して現在地の周辺を調べてみると、飲食店はいくつか見つかった。その中から距離と店内の写真をざっと確認していると、ここから少し歩いたところに一軒のカフェがある。
「ここは?」
画面を平安名さんの方へ向けると、彼女は少し身体を寄せるようにしてスマートフォンを覗き込んだ。掲載されている写真やメニューを何枚か眺めてから、特に不満はなかったのか小さく頷く。
「悪くなさそうね」
「じゃあここで」
「決めるの早くない?」
即座に返ってきた言葉に、今度は俺が平安名さんを見る。
「腹減ってるので」
「情緒がないわね」
「昼飯に情緒いります?」
「少しくらいはいるわよ」
どうやら店を選ぶ時にも、平安名さんなりの基準があるらしい。
腹が減っていて、近くて、食べたいものがあればそれでいいと思っている俺には、昼飯に求められるという「情緒」が具体的に何を指しているのかいまいち分からなかった。
「じゃあ、別の店探します?」
「別にそこが嫌とは言ってないでしょう」
「じゃあここでいいじゃないですか」
「そういうところよ」
「何がですか?」
「……もういいわ」
呆れたようにため息をつかれてしまった。
出会ってからまだ一時間と少ししか経っていないはずなのに、平安名さんから「変な人」「失礼」「情緒がない」と、随分いろいろな評価をもらっている気がする。
もっとも、本当に嫌がっているのなら、わざわざ図書館を出たあとまで一緒にいることもないだろう。
「じゃあ、行きますか」
「ええ」
スマートフォンに表示された地図を頼りに歩き出すと、平安名さんも当然のように隣へ並んだ。
目的地までは、歩いて十分もかからない。
その間も、さっきまで話していた本の続きをしたり、途中で見つけた店を平安名さんが「あっちの方がよかったんじゃない?」と言い出したり、それに俺が「もう決めたでしょう」と返したりしながら歩いていく。
ほんの少し前まで、互いの存在すら知らなかった。
それなのに今は、初めて来た街を二人で歩きながら、昼飯を食べる店へ向かっている。
改めて考えると妙な成り行きだったけれど、不思議とそれをおかしいとは感じなかった。少なくとも今の俺にとっては、このまま本の話を続けながら昼飯を食べに行くことが、ごく自然な流れのように思えていた。
◇
通りを一本入ったところに、目当てのカフェはあった。
大通りに面した店ほど人の出入りは多くなく、木目を基調にした外観もどこか落ち着いている。大きな窓の向こうにはいくつかの観葉植物が並び、入口の脇にはランチメニューらしい料理の名前が手書きされた小さな看板が置かれていた。
普段働いているCafé Arbreとはまた違った雰囲気だけれど、少なくとも昼飯を食べながら話をするには悪くなさそうだ。
「ここですね」
「写真で見るよりいいじゃない」
「情緒あります?」
「……さっきよりは」
「よかったです」
何が合格したのかはいまいち分からないけれど、平安名さんが先に入口へ向かったので、店選びには一応納得してもらえたらしい。
扉を開けて中へ入ると、昼時を少し過ぎていることもあって、店内はそれほど混み合っていなかった。食事をしている客や、飲み物を片手に話している人が何組かいるものの、空いている席も目立つ。店員に二人だと伝えると、奥にある二人掛けのテーブル席へ案内された。
向かい合って腰を下ろし、渡されたメニューを開く。
昼食を食べに来たのだから当然なのだけれど、図書館で知り合ったばかりの相手とこうしてカフェで向かい合っている状況を改めて考えると、やっぱり妙な成り行きだった。
もっとも、平安名さんは特に気にした様子もなく、真剣な顔でメニューを眺めている。
俺も一通り目を通し、目に留まった料理のところで手を止めた。
「俺、これにします」
「もう決めたの?」
向かいから驚いたような声が飛んできたので顔を上げると、平安名さんはまだメニューの半分ほどしか見ていないらしい。
「食べたいもの決まったので」
「他のページ見なくていいの?」
「見ても多分変わらないですよ」
「野山さん、買い物とか早そうね」
「本屋なら長いですよ」
「それは買い物というより、居座ってるだけじゃない?」
「そうですかね」
休日に何となく本屋へ入って、気づけば一時間以上経っていたことなんて珍しくもない。目当ての一冊を買うだけのつもりだったのに、いつの間にか別の棚を見ていることもある。
それを話すと、平安名さんは呆れたように笑った。
「人のこと言えないけど」
「平安名さんも長いんじゃないですか」
「まあね。新刊だけ見るつもりが、気づいたら全然違う棚にいることはあるわ」
「わかります」
「でしょう?」
今日会ってから何度目か分からない共通点が、また一つ増えた。
とはいえ、注文まで同じように迷い続けるつもりはないらしく、平安名さんもしばらくしてメニューを閉じる。店員を呼んでそれぞれ注文を済ませると、テーブルの上からメニューがなくなり、向かい合った二人の間には水の入ったグラスだけが残った。
一瞬だけ会話が途切れる。
けれど、次に何を話そうかと考えるような時間はほとんどなかった。
「そういえば、さっき野山さんが言ってた本なんだけど」
「ああ、あれですか」
平安名さんが切り出したのをきっかけに、会話は何の打ち合わせもなく、また自然と本の話へ戻っていった。
図書館で互いに薦めた作品を忘れないうちにスマートフォンへメモしたり、そこから同じ作家の別作品へ話が広がったり、さっき意見が割れた小説について「やっぱり前半の方がいい」「いや、後半でしょう」と再び言い合ったりする。
図書館では、少し声が大きくなるたびに周囲を気にしていた。
けれど、ここでは近くの席からも普通に話し声が聞こえてくる。もちろん騒ぐつもりはないけれど、多少会話が弾んだところで誰かの読書を邪魔する心配もない。
そのせいなのか、平安名さんは図書館にいた時よりもよく喋った。
「それなら、こっちの作品は読んだ?」
「タイトルは知ってますけど、まだですね」
「だったら読みなさい。たぶん野山さん好きよ」
「なんで分かるんですか」
「ここまで話せば、なんとなく好みくらい分かるわよ」
「じゃあ読んでみます」
「感想聞かせて」
「そこまでセットなんですか?」
「薦めたんだから当然でしょう」
「厳しいな……」
そう言いながらも、俺はスマートフォンへ作品名を打ち込んでおく。
さっき図書館で会ったばかりなのに、平安名さんがどんな作品を好むのかは少しずつ分かってきたし、向こうも俺の好みをなんとなく掴み始めているらしい。
もっとも、よく喋っているのは平安名さんだけではなかった。
俺も思いついた作品があれば自分から話題に出しているし、彼女が知らない作家がいれば今度はこちらが薦めている。どちらか一方が話して、もう一方が聞いているというより、片方が一冊挙げれば、そこからもう一冊、さらに別の作家へと話が勝手に繋がっていく。
「そういえば、野山さんって大学何年?」
それまで本の話をしていた平安名さんが、ふと思い出したように尋ねてきた。そういえば、名前を知ってからも話題のほとんどは本のことばかりで、互いについては高校生か大学生かという程度しか知らない。
「二年です」
「じゃあ二十歳?」
「まだ十九です」
「あら、思ったより近いのね」
少し意外そうに言われ、水の入ったグラスへ伸ばしかけていた手を止める。高校二年だと言っていたから、年齢にすれば三つほどしか離れていない。それでも、わざわざ「思ったより」と付けるということは、もう少し上に見られていたらしい。
「何歳だと思ってたんですか」
「二十一とか二十二くらい」
「そんなに老けて見えます?」
思わず自分の頬へ触れそうになった。大学へ入ってから年齢より上に見られたことがないわけではないけれど、初対面の高校生から二、三歳も上に見られると、さすがに少し気になる。
「違うわよ。落ち着いて見えたってこと」
平安名さんは呆れたように否定してから、水の入ったグラスへ手を伸ばした。その言い方を聞く限り、少なくとも老けているという意味ではなかったらしい。
「それならよかったです」
「何をそんなに気にしてるのよ」
「十九で二十二に見られたら気にするでしょう」
「だから、見た目だけの話じゃないって言ってるじゃない。話し方とか雰囲気とか、そういうのよ」
「なるほど」
そこまで言われて、改めて向かいに座る平安名さんを見る。
落ち着いていると言われても、自分ではいまいち分からない。むしろ今日に限って言えば、初対面の相手と図書館で本の解釈について言い合い、そのまま昼飯まで一緒に食べに来ているのだから、普段よりよほど喋っている方だと思う。
「平安名さんがよく喋るだけじゃないですか」
「誰がよ!」
すぐさま返ってきた声が、店内へ思った以上に大きく響いた。
「…………」
「…………」
ちょうどその時、注文していた料理を運んできた店員がテーブルの横へ立つ。ほんの一瞬だけこちらへ向けられた視線に二人揃って気づき、平安名さんは何事もなかったように姿勢を正し、俺も黙って料理が置かれていくのを眺めた。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、平安名さんの声は妙に大人しい。店員が料理を並べ終え、そのまま離れていく。完全にこちらから距離が開くまで、なぜか二人とも会話を再開しなかった。
数秒前まであれだけ途切れることなく喋っていたのに、こういう時だけ妙なところで息が合う。
「平安名さん」
「何よ」
声をかけると、平安名さんが少し警戒するようにこちらを見る。
「やっぱりよく喋りますね」
「うるさい!」
さっきとほとんど同じ返事だった。
ただし、今度は周囲へ響かない程度まできちんと声を抑えている。その変化があまりにも分かりやすくて、堪えようとしたものの、結局小さく笑いが漏れた。
「……ふっ」
「ちょっと、笑わないでよ」
「すみません」
「全然悪いと思ってないでしょう」
平安名さんがじろりと睨んでくる。
図星だった。
ここで下手に否定すれば、また何か言い返される気がする。かといって正直に認めるのも面倒なことになりそうで、俺は返事をする代わりに目の前へ運ばれてきた料理へ視線を落とした。
「いただきます」
「あ、逃げた」
「何のことですか」
「そういうところよ、野山さん」
「飯冷めますよ」
「もう……」
呆れたような声が聞こえたものの、それ以上追及してくることはなかった。俺が食べ始めると、平安名さんも諦めたように自分の料理へ手を伸ばす。
今日会ったばかりの相手なのに、いつの間にかこうして軽口を叩くことにも慣れてしまっている。図書館で最初に顔を合わせた時には、少し気の強そうな人だと思っただけだったのに、話してみれば表情は思った以上に分かりやすいし、負けず嫌いなところもある。
もっとも。
「……何よ」
「いや、別に」
「今、絶対何か考えてたでしょう」
「気のせいですよ」
「怪しいわね」
どうやら、向こうもこちらのことを少しずつ分かり始めているらしい。
それが悪い気はしなかった。
食事を進めているうちに、それまでほとんど本のことばかりだった会話にも、少しずつ互いの日常の話が混ざるようになっていた。
きっかけがあったわけではない。読んでいる本の話から学校の話へ移り、そこから普段何をしているのかという話へ、会話の流れが自然と変わっていっただけだった。
「平安名さん、部活とかやってるんですか?」
「部活?」
「はい」
高校生なら何かやっているのだろうかと、何気なく聞いただけだった。けれど、平安名さんの手がほんの一瞬だけ止まった。
フォークを持ったまま、わずかに視線がこちらから外れる。それも本当に一瞬のことで、気のせいかと思うくらいだった。すぐに何事もなかったように食事を再開したので、俺も特に気にせず返事を待つ。
「まあ、やってるわ」
「へえ。何部です?」
「内緒」
「なんでですか」
思ってもいなかった答えに、今度はこちらの手が止まった。部活くらい、別に隠すようなものでもないと思うのだけれど、平安名さんは何でもないことのように料理を口へ運んでいる。
「いいでしょう、別に」
「まあ、いいですけど」
少し気にはなった。
けれど、言いたくないという相手から無理に聞き出すほど知りたいわけでもない。話したくないことの一つや二つあって当然だろう。
それ以上は聞かず、俺も食事へ戻る。
「野山さんは?」
「俺?」
今度はこちらへ話が返ってきて、顔を上げる。
「大学で何かやってないの?」
「サークルとかですか? 特には」
「そうなのね」
「大学行って、授業受けて、バイトして、本読んで。それで十分です」
口にしてみると、我ながら随分と代わり映えのしない生活に聞こえる。けれど、実際そんなものだった。
講義のある日は大学へ行き、終わればバイトへ向かう。何もなければ家へ帰って本を読むし、休日には今日みたいに図書館や本屋へ出かけることもある。特別忙しいわけでもなければ、退屈しているわけでもない。俺にとっては、それくらいがちょうどよかった。
「バイトしてるの?」
「カフェで」
「あら、意外ね」
「またですか」
今日だけで何度「意外」と言われたか分からない。
「接客してるところが想像できないのよ」
「普通にやってますよ」
「本当に?」
「本当です。注文取ったり、飲み物運んだり」
「野山さんが?」
「俺が」
そこまで念を押されると、さすがに納得がいかない。
「平安名さん、俺のこと何だと思ってるんですか」
「本ばかり読んでる大学生」
「今日知った部分だけじゃないですか、それ」
「今日しか知らないもの」
「…………」
あっさり返されて、何も言えなくなった。
「それは、まあ……そうですね」
「でしょう?」
平安名さんは当然とでも言いたげな顔で食事を続けている。言われてみれば、その通りだった。
俺が平安名すみれという人について知っていることだって、それほど多くない。
高校二年生で、本をよく読む。小説だけではなく歴史関係の本も読むし、特に日本史が好きらしい。作品について話し始めると自分の意見をはっきり言うし、意見が違えば簡単には引かない。どちらが相手の知らない本を挙げられるかという、よく分からない勝負に本気になるくらいには負けず嫌いだ。
それくらいだ。向こうが知っている俺も似たようなものだろう。
大学二年生で、十九歳。本を読むのが好きで、文学とは関係のない学部に通っている。サークルには入っておらず、カフェでアルバイトをしている。
それだけ。
どこに住んでいるのかも知らない。普段誰と一緒にいるのかも、学校でどんなふうに過ごしているのかも知らない。平安名さんが何の部活に入っているのかさえ、結局教えてもらえなかった。
俺だって、自分のことを全部話したわけではない。
——たとえば、昔のこと。
今の生活だけを話していれば、わざわざ口にする必要もないことがある。たぶん、平安名さんにもそういうものがあるのだろう。
「……なんですか?」
「別に?」
気づけば少し長く見ていたらしく、平安名さんが怪訝そうにこちらを見返していた。
「平安名さんも、俺の知らないこといっぱいあるんだろうなと思って」
「当たり前でしょう。今日会ったばかりなのよ?」
「ですよね」
「野山さんだってそうじゃない」
「まあ、そうですね」
何でもないことのように答えて、料理へ視線を戻す。今日会ったばかりなのだから、知らないことが多いのは当たり前だ。
それでも、こうして向かい合って食事をしながら話していることを不思議だとは思わなかった。
どこに住んでいるのかを知らなくてもいい。普段誰と過ごしているのかも、何の部活をしているのかも、今は知らなくていい。
あの作品の前半と後半、どちらが好きなのか。どんな作家を読むのか。薦められた本を面白そうだと思えるのか。
今の俺たちには、それだけで話題が尽きなかった。
むしろ、余計なことを何も知らないからこそ、肩書きも過去も関係なく、ただ好きなものについて好きなように話していられるのかもしれない。
そんな時間が、今の俺には気楽で居心地よく感じられた。
◇
昼食を終えて店を出たあと、俺たちはどちらから言い出すでもなく、自然な流れで再び図書館へ戻っていた。
食事を済ませたのだから、そのまま別れても何もおかしくはなかった。最初から一緒に過ごす約束をしていたわけでもない。
けれど、昼食を食べている間にも本の話はほとんど途切れなかったし、まだ互いに薦めたい作品もいくつか残っていた。だったら実物を見ながら話した方が早い。そんな程度の理由で、気づけば二人揃ってさっき出てきたばかりの建物へ戻っていた。
静かな館内へ足を踏み入れると、昼食前まで過ごしていた空気が戻ってくる。けれど、同じ場所のはずなのに、最初に一人で入ってきた時とは少しだけ感覚が違っていた。
「こっちよ」
今度は平安名さんが先に歩き出した。迷いのない足取りで書架の間を進んでいく背中を追いながら、俺は持っていた本を抱え直す。
「どこ行くんです?」
「歴史の棚。おすすめがあるの」
「まだ増やすんですか」
「嫌ならいいけど?」
平安名さんが足を止め、少しだけ振り返る。言葉だけ聞けば突き放しているようなのに、表情は明らかにこちらの返事を待っていた。
「嫌とは言ってないですよ」
「じゃあ来なさい」
「はいはい」
「返事が軽い!」
思わず大きくなりかけた声を、平安名さんが途中で慌てて抑える。
俺もここが図書館だったことを思い出し、周囲へ視線を向けた。幸い近くに人はいなかったらしく、二人で顔を見合わせてから、今度は少しだけ静かに歩き出す。
「……平安名さん、さっきも同じことやってましたよね」
「野山さんが余計なこと言うからでしょう」
「俺のせいですか」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「知らない」
「そこ認めないんですね」
小声でそんなことを言い合いながら、歴史関係の書架へ入る。
棚の前まで来ると、それまで俺と話していた平安名さんの視線がすぐに背表紙の列へ移った。端から順番に探していくというより、置かれている場所にある程度見当がついているらしい。何段か視線を動かしたあと、すぐに目当ての一冊を見つけて手を伸ばした。
「あった。これ」
差し出された本を受け取る。ずしりとした重さが手のひらへ伝わり、表紙を見るより先に本の厚みへ目が向いた。
「……厚いですね」
「最初の感想がそれ?」
呆れた声を聞きながらページ数を確認してみると、五百ページを軽く超えていた。
「俺の休日を何日使うつもりです?」
「知らないわよ。読めるでしょう?」
「読めますけど」
「なら問題ないじゃない」
「人の時間をなんだと思って……」
「野山さんならそのくらい読むでしょ」
「…………」
当然のように言われて、少しだけ言葉に詰まる。
今日会ったばかりなのに、すでに俺がこれくらいの厚さなら普通に読む人間だと判断されているらしい。
「まあ、読みますけど」
「ほら」
「なんで嬉しそうなんですか」
「別に?」
そう言いながら、平安名さんの口元は僅かに緩んでいた。
改めて表紙を見る。歴史小説で、タイトルと作者の名前くらいは知っているものの、実際に読んだことはない作品だった。
「どういう話なんです?」
そう尋ねると、平安名さんの表情が少し変わった。
「歴史の中心にいた有名人じゃなくて、そのすぐ近くにいた人から時代を見る話よ。大きな出来事そのものより、その時代を生きていた人が何を考えて、どう選んだのかを丁寧に描いてるの」
そこまで話してから、平安名さんは俺が持っている本へ視線を落とす。
「派手な話ではないけど、その分、人がどう生きたかがちゃんと見えるの。私は好き」
「へえ……」
もう一度、手元の本を見る。最初に感じたのは五百ページという厚さだったけれど、今の説明を聞くと少し印象が変わった。歴史の中心人物ではなく、その近くにいた人間から時代を見るというのも面白そうだ。
それに。
今日ここまで本について話してきて、平安名さんがどういう作品を好むのかも少しは分かってきた。
その人が、わざわざ俺に読ませようと選んだ一冊だ。
「じゃあ借ります」
「早いわね」
今度は平安名さんの方が少し驚いたらしい。
「おすすめなんでしょう?」
「そうだけど。もう少し悩むかと思ったわ」
「平安名さんがそこまで言うなら、読んでみようかなって」
「……そう」
ほんの一瞬だけ、平安名さんの表情が柔らかくなった気がした。けれど、すぐにいつもの顔へ戻ってしまったので、俺も特に何も言わず、持っていた本の上へ新しい一冊を重ねる。
「じゃあ、今度は俺から」
そのまま棚へ視線を向け、記憶にあった場所を探す。幸い目当ての本はすぐ近くにあり、一本隣の列から一冊を抜き取った。
「平安名さんはこれ」
「お返しのつもり?」
「五百ページのお返しです」
「ページ数で恨まないでよ」
「こっちも結構ありますよ」
「張り合うところがおかしいでしょう」
呆れながらも、平安名さんは差し出した本を素直に受け取った。そのまま表紙を眺め、裏返してあらすじへ目を落とす。
「…………」
さっきまで俺へ好き勝手言っていた時とは違い、文字を追う横顔は真剣だった。
僅かに俯き、金色の髪が頬の横へ落ちている。ほんの数行のあらすじを読んでいるだけなのに、視線は完全に本へ向けられていて、その間だけ周囲の書架も、館内を歩く人の気配も意識から消えているように見えた。
話している時はよく笑うし、すぐに言い返してくる。負けず嫌いで、思っていた以上によく喋る。けれど、本を前にした時だけは驚くほど静かになる。
たぶん俺も、読んでいる時は似たような顔をしているんだろう。
「……面白そうね」
しばらくして、平安名さんが顔を上げた。
「でしょう?」
「まだ読んでないけど」
「そこは素直に認めてくださいよ」
「面白そうとは認めたじゃない」
「俺のおすすめが良さそうだったってところも」
「それは読んでから決めるわ」
「厳しいな」
平安名さんは小さく笑うと、その本を自分が持っていた本の上へ重ねた。
「借りるんですか?」
「ここまで薦められたら気になるじゃない」
「じゃあ、読んだら感想聞かせてください」
「あら。野山さんも同じこと言うのね」
「薦めたんだから当然でしょう」
「私の真似?」
「さっき平安名さんが言ってたので」
「やっぱり真似じゃない」
「いい言葉だったんで借りました」
「本だけにしなさいよ、借りるのは」
小声で言い返され、思わず笑う。今日会ったばかりの相手に、自分が好きな本を薦める。
それだけなら、別に珍しいことではない。
けれど、その相手が実際に本を手に取って、あらすじを読んで、「面白そう」と言って、そのまま借りる本の中へ加えてくれる。
それが思嬉しかった。
たぶん平安名さんも、さっき俺が五百ページの本を迷わず借りると決めた時、少しくらいは同じ気持ちだったのかもしれない。
自分が好きなものを相手へ渡して、相手がそれを受け取る。
まだ互いのことなんてほとんど知らない俺たちにとって、それは名前や年齢を知ることとはまた少し違う形で、相手のことを知っていく方法なのかもしれなかった。
それからも、俺たちはすぐに貸出カウンターへ向かうことはなく、そのままいくつかの棚を回っていった。
歴史、小説、ミステリー、エッセイ。
最初は互いに一冊ずつおすすめを紹介するだけのつもりだった。それなのに、一冊見つければ「これも読んだことある?」と別の本が出てきて、その作者の話から今度は別の作品へ移り、気づけば最初に何を探していたのか分からなくなるくらい書架の間を行ったり来たりしていた。
「これ、平安名さん好きそうですね」
「どれ?」
「これです」
「ああ、それなら読んだわ」
「読んでるのか……」
「何よ、その残念そうな顔」
「また一冊増やせると思ったのに」
「そういう勝負じゃないでしょう」
そう言いながらも、平安名さんも少し先の棚で足を止めては、思い出したように俺を呼ぶ。
「野山さん、これは?」
「……知らないですね」
「じゃあ追加」
「また増えた」
「別に今日全部読みなさいとは言ってないわよ」
「分かってますけど」
こんなやり取りを何度繰り返したか分からない。
当然、見つけた本をすべて今日借りられるはずもなく、途中からは実際に借りる本と、あとで読むために覚えておく本を分けることになった。それでも気になるタイトルは増える一方で、気づけば互いにスマートフォンを片手に書架を歩き、タイトルや作者名を見つけるたびにメモへ追加するようになっていた。
何冊目かも分からなくなった頃、俺は一度立ち止まり、今日追加したメモを上から数えてみる。
「……十三冊」
「何が?」
少し先にいた平安名さんが振り返る。
「今日読むことになった本」
「そんなに?」
驚いたようにこちらへ戻ってきた平安名さんへ画面を見せる。昼食の時に教えてもらったものも含めれば、確かに十三冊あった。
「半分くらい平安名さんのせいですよ」
「人聞き悪いわね」
「いい意味です」
「それなら最初からそう言いなさいよ」
そう言いながら、平安名さんも自分のスマートフォンを取り出す。何度か画面を滑らせてから、こちらと同じように追加したタイトルを数え始めた。
「私は……九冊」
「結構ありますね」
「野山さんのせいよ」
「人聞き悪いですね」
「いい意味よ」
「それなら最初からそう言ってください」
「さっきの仕返し?」
「同じこと言っただけですよ」
平安名さんが呆れたようにこちらを見る。けれど、すぐにどちらからともなく小さく笑った。
「じゃあ、お互い様ですね」
「そうね。それなら文句なし」
十三冊と九冊。
今日初めて会った相手から、これだけ読む本を増やされることになるとは、図書館へ来た時には想像もしていなかった。
そもそも俺は、たった一冊の本を探しにここまで来たはずだった。その一冊は結局平安名さんへ譲ってしまったのに、代わりに読みたい本が十三冊も増えているのだから、得をしたのか損をしたのかよく分からない。
ただ、不思議と悪い気はしなかった。
「…………」
ふと書架の向こうにある窓へ目を向ける。
図書館へ来た時には高い位置から差し込んでいたはずの日差しが、いつの間にか随分と傾いていた。窓から伸びる光が床を斜めに照らし、書架の影も昼間より長く伸びている。
「今何時です?」
「え?」
平安名さんがスマートフォンの画面を確認する。
「もうすぐ四時」
「そんなに経ったんですか」
思わず自分の時計でも確認したけれど、当然表示されている時間は同じだった。
昼食を食べ終えて図書館へ戻ってきてからも、それなりに時間が経っている。けれど、棚から棚へ移動しながら本の話をしていたせいか、まったくそんな感覚がなかった。
「結構いましたね」
「そうね。昼前からだから……」
「ほぼ一日じゃないですか」
「野山さんがいちいち話を広げるからでしょう」
「また俺のせいですか?」
「私だけのせいじゃないでしょう?」
「じゃあ半々で」
「それでいいわ」
今日何度目か分からない「半々」で話がまとまる。
さすがにこのまま閉館まで棚を巡るわけにもいかない。俺はスマートフォンをポケットへ戻し、それまで抱えていた本へ目を落とした。
「そろそろ借りる本、決めます?」
「そうね。さすがに全部は無理だし」
気になる本を一度に全部持って帰ったところで、読める量には限界がある。俺たちはそれぞれ抱えていた本を確認し、今日借りるものと、次に回すものを選んでいった。
「これは次でいいかな……」
「それ外すの?」
「十三冊全部は無理ですよ」
「それはそうだけど」
「平安名さんこそ四冊持ってるじゃないですか」
「私は読めるもの」
「俺も読めますよ」
「じゃあ借りれば?」
「煽らないでください」
危うく本当に増やしそうになりながら、どうにか選び終える。結局、俺が借りることにしたのは三冊。平安名さんは四冊だった。
そして、それぞれの手元に残った本を見て、少しだけ目が止まる。
俺の三冊の中には、さっき平安名さんが歴史の棚から選んでくれた五百ページを超える一冊がある。
向こうが抱えている四冊の中にも、俺が薦めた本がきちんと残っていた。
「それ、借りるんですね」
「何よ。薦めたの野山さんでしょう?」
「いや、そうですけど」
「野山さんだって私が薦めたの残してるじゃない」
「まあ、気になったので」
「私も同じよ」
そう言って、平安名さんは俺が薦めた本を抱え直した。ただそれだけのことなのに、少し嬉しかった。
今日一日で何冊もの本について話した。その中から、自分が好きで薦めた一冊を相手が選んで持ち帰る。
そして俺の手元にも、平安名さんが好きだと言った一冊が残っている。
次にその本を開いた時、たぶん今日のことを少しくらいは思い出すのだろう。
図書館の棚の前で偶然同じ本へ手を伸ばして、名前も知らないまま作品について言い合って、気づけば昼食まで一緒に食べていた、妙な休日のことを。
◇
貸出手続きを終えて図書館を出ると、午後の日差しは来た時よりもずっと柔らかくなっていた。
昼前には頭上から降り注いでいた光も今は少し傾き、建物や街路樹の影を歩道へ長く伸ばしている。昼食を食べに一度外へ出た時より人通りも増えていて、駅へ向かう人や買い物袋を提げた人たちが、俺たちの横を途切れることなく通り過ぎていった。
館内の静けさに慣れていたせいか、外へ出た瞬間は車の走る音や人の話し声が妙にはっきりと耳へ入ってくる。
その中を春の風が吹き抜け、隣を歩く平安名さんの長い金色の髪をふわりと持ち上げた。
「……もう」
平安名さんは慣れた様子で片手を髪へ添えると、風に乱された髪を肩の後ろへ払う。そのまま何事もなかったように歩き出した横顔を見ながら、俺は手に提げた図書館の袋へ視線を落とした。
三冊。
朝ここへ来た時には、一冊だけ借りて帰るつもりだった。その一冊が今どこにあるのかを思い出して、隣へ目を向ける。
「結局、目的の本借りられなかったですね」
俺がそう言った途端、平安名さんの動きが一瞬だけ止まった。
「あ」
「忘れてたんですか?」
「忘れてないわよ」
「今思い出した顔でしたけど」
「うるさいわね」
分かりやすく視線を逸らされる。どうやら本当に忘れていたらしい。
平安名さんの鞄には、朝俺がわざわざ電車に乗って探しに来た本が入っている。考えてみれば、目的だけを見れば今日は完全に失敗だった。けれど、不思議と今さら惜しいとは思わなかった。
「……やっぱり返す?」
少しだけ申し訳なさそうに平安名さんが尋ねてくる。
「いや、いいですよ」
「でも———」
「今日だけで三冊増えましたし、当分読むものには困らないので。それに予約しておけば、そのうち借りられます」
手元の袋を軽く持ち上げて見せる。その中には、朝には存在すら知らなかった本が入っている。そのうち一冊は、平安名さんがわざわざ棚から選んで薦めてくれたものだ。
そう考えれば、目当ての一冊を今日借りられなかったことくらい、大した問題ではない気がした。
「そう。じゃあ、ありがたく先に読ませてもらうわ」
「どうぞ」
「ちゃんと返すから」
「図書館の本なんだから当たり前でしょう」
「野山さんにじゃなくて、図書館にね」
「分かってますよ」
またどうでもいいことで言葉を交わしながら歩き、通りへ出たところで足を止める。ここから先は駅へ向かう道が二つに分かれていた。スマートフォンを取り出して自分が乗る路線の方向を確認し、片方の道へ目を向ける。
「俺、こっちなので」
「あら。私は反対」
「じゃあ、ここですね」
「そうね」
それまで並んで歩いていた二人の足が、ほとんど同時に止まった。
「…………」
「…………」
ほんの少しだけ、間が空く。別に不自然なことではない。
用事が済めば別れる。それだけのことだ。
それなのに、いざここで別れるとなると、何を言って終わればいいのか一瞬だけ分からなくなった。
朝には、名前すら知らなかった相手だった。
同じ一冊へほとんど同時に手を伸ばして、譲るだの譲らないだのと話した。それだけで終わるはずだったのに、別の棚でもう一度偶然会って、今度は本の話を始めた。
作品の前半と後半のどちらがいいかで意見が割れて。名前も知らないことに途中で気づいて。
休憩スペースへ場所を移しても話は終わらず、腹が減ったからと一緒に昼食まで食べに行った。
そのあとにはまた図書館へ戻り、互いに本を薦め合いながら、気づけば夕方近くまで書架の間を歩いていた。
最初から何一つ予定していなかった。
随分と妙な一日だった。
けれど、つまらなかったかと聞かれれば、答えだけはすぐに出る。
「平安名さん」
「何?」
俺が声をかけると、平安名さんがこちらを見る。
「さっき勧めてもらったやつ、ちゃんと読みます」
「当たり前よ」
「五百ページあるやつ」
「そこまだ気にしてるの?」
「結構ありますからね」
「野山さんなら読めるって言ったでしょう」
「読みますよ。だから——」
そこで一度、平安名さんが抱えている本へ視線を落とす。
「平安名さんも、俺が勧めたやつ読んでくださいね。感想聞きたいので」
「分かってるわ」
平安名さんは当然のように答えた。
「じゃあ、次に会ったら聞かせてあげる」
「次?」
「…………」
俺が聞き返した瞬間、平安名さんの表情が止まった。どうやら口にしてから、自分でも気づいたらしい。
次。
そう言われても、俺たちは連絡先を交換していない。
住んでいる場所も知らないし、普段どこへ行くのかも知らない。この図書館だって、俺は今日初めて来たし、平安名さんも同じだと言っていた。
今日出会ったこと自体が偶然だった。
一度別れたあと、もう一度同じ棚の前で顔を合わせたことだって偶然だ。
なら、次に会える保証なんてどこにもない。
「……また偶然会ったら、ってことよ」
平安名さんは一度だけ視線を横へ逃がすと、誤魔化すように風で乱れてもいない髪へ手を添えた。
「ああ。そういうことですか」
「何よ、その言い方」
「いや、別に」
「絶対何か思ってるでしょう」
「思ってないですよ」
少し間を置いてから、俺は続ける。
「でも、また会えるといいですね」
「…………」
今度は、平安名さんからすぐに返事が返ってこなかった。
何か変なことを言っただろうかと思ったけれど、少しして彼女の口元がほんの僅かに緩む。
「……そうね」
それだけだった。次にいつ会うのか約束するわけでもない。
連絡先を聞くこともしない。ただ、またどこかで会えればいい。
今は、それくらいで十分だった。
「じゃあ」
「ええ。また」
軽く手を上げ、互いに背を向ける。俺は駅へ向かって歩き出した。
一歩、二歩と進むたびに、さっきまで隣から聞こえていた声がなくなって、周囲を行き交う人たちの話し声が代わりに耳へ入ってくる。
「…………」
数歩進んだところで、何となく一度だけ振り返った。平安名さんも反対方向へ歩いている。
長い金色の髪は人混みの中でもよく目立っていて、春の風が吹くたびにその毛先が小さく揺れていた。
向こうが振り返ることはない。俺もしばらくその後ろ姿を眺めてから、再び駅の方へ身体を向けた。
平安名すみれ。
高校二年生。
本をよく読む。小説だけではなく歴史ものも好きで、特に日本史には詳しい。結構な負けず嫌いで、作品について意見が割れれば簡単には引かない。そして、自分の好きな本を薦める時には少しだけ得意そうな顔をする。
俺が今日知ったのは、それくらいだ。何の部活をしているのかは、結局教えてもらえなかった。
どんな学校生活を送っているのかも、普段誰と一緒にいるのかも知らない。
向こうだって同じだろう。
俺が大学二年生で、本を読むのが好きで、カフェでアルバイトをしている。知っているのは、せいぜいその程度だ。
それより前の俺のことを、平安名さんは何も知らない。
——それでいいと思った。
何も知らないまま、同じ本へ手を伸ばした。
名前も知らないまま、好きな作品について言い合った。少しずつ相手のことを知って、それでもまだ知らないことの方がずっと多い。
今日のところは、それで十分だった。手に提げた袋の中で、借りた本が歩くたびに小さく揺れる。
そのうちの一冊を開けば、きっと今日会った変わった高校生のことを思い出す。
そして、もし本当に次があるのなら。その時にまた、今日知らなかったことを一つくらい知ればいい。
そんなことを考えながら、俺は夕方の駅へ向かって歩いていった。
◇
帰りの電車では運よく座ることができた。席へ腰を下ろして一息つくと、俺は鞄から一冊の本を取り出す。
平安名さんに勧められた、五百ページを超える歴史小説だった。
「やっぱり重いな」
物理的にも。図書館で渡された時にも思ったけれど、改めて手にするとかなりの厚みがある。それでも、あれだけ勧められれば内容が気にならないわけもなく、少し笑いながら表紙を開いて最初の一行へ目を落とした。
電車がゆっくりと動き出し、窓の外の景色が流れ始める。
今日の予定は、本を一冊借りて帰るだけだった。
その一冊は結局借りられなかったのに、代わりに予定になかった本が三冊増えた。予定になかった店で昼を食べて、朝には名前すら知らなかった相手と何時間も本の話をした。
朝に思い描いていた休日とは、随分違う一日になった。
「…………」
ページを一枚めくる。けれど、悪くない。
むしろ、予定通りに本を借りて帰っていたら、今こうしてこの本を開くこともなかったのだと思うと、少しだけ不思議な気分になる。
次のページへ指をかけながら、自然と口元が緩んだ。
——たまには、こういう休日も悪くない。