ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
第九話 ここが、お気に入りだから
———あれから数日が経った
教授が大教室の黒板、その端に最後の文字を書き終えたのと、講義終了を告げるチャイムが鳴ったのは、ほとんど同時だった。
それまで教授の声と、百人近い学生たちがノートへペンを走らせる音、パソコンのキーを叩くくらいしか聞こえていなかった教室が、一瞬で別の場所のように騒がしくなる。段状に並んだ座席のあちこちで椅子が鳴り、ノートパソコンの蓋が次々と閉じられていく。前方の黒板へ向けられていた視線も、チャイムを境に隣の友人や手元のスマートフォンへ散り、早い者は教科書やプリントを鞄へ押し込みながら、次の講義が行われる棟へ向かう相談を始めていた。
俺もペンを置き、書きかけだったノートの最後の行へ適当に区切りをつける。教壇では教授がまだ何か補足しているようだったけれど、すでに席を立ち始めた学生たちの話し声に混ざり、こちらまで届いたのは半分くらいだった。
まあ、必要なら後で配布された資料を確認すればいい。
ノートを閉じ、筆箱と一緒に鞄へしまってからスマートフォンを取り出す。一瞬だけ時刻を確認し、案の定学食でのんびりお昼をとる時間がないことを把握して立ち上がる。
周囲では、このあと別の講義があるらしい学生たちが慌ただしく教室を出ていく一方、今日の予定をすべて終えたらしい何人かは、どこへ飯を食べに行くかなんて話をしながらのんびりと席を立っていた。
今日の講義はこれで終わりだ。
このまま正門を出て駅へ向かえば、Café Arbreのシフトには十分間に合う。
「野山」
「ん?」
鞄を肩へ掛けたところで、斜め前に座っていた友人から声を掛けられた。
「このあと暇?」
「バイト」
「また?」
「また」
即答すると、友人が呆れたように眉を上げた。もっとも、本気で驚いているわけではないらしい。俺が講義を終えてそのままバイトへ向かうのは、こいつにとってもすっかり見慣れた光景なのだろう。
「働くねえ、お前」
「生活費が勝手に湧いてくるなら俺も休むよ」
「夢がねえな」
「現実的と言ってくれ」
肩に掛けた鞄の位置を直しながら返すと、友人は呆れ半分、面白がっているような顔で鼻を鳴らした。こうして講義終わりに軽口を叩き合うのも珍しいことではない。そのやり取りが聞こえていたのか、近くで帰り支度をしていた別の知り合いもこちらへ顔を出した。
「これから飯行くけど、野山も来れば?」
「今日は無理。このあとすぐにシフト入ってる」
「お前いつ誘ってもバイトって言ってない?」
「そんなことないだろ」
「じゃあ最後に来たのいつだ?」
「……」
「ほら」
「たまたまだ」
「その返しする時点で怪しいんだよ」
笑いながら肩を軽く叩かれる。
別に、こういうやり取りが嫌いなわけじゃない。大学に友人がいないわけでもないし、人付き合いを避けているつもりもない。予定が合えば飯くらい行くし、休みの日に誘われて出かけることだってある。
ただ、今日はバイトだ。それだけ。
「じゃあまた今度な」
「その『また今度』がいつ来るかね」
「俺のシフト次第」
「じゃあ永遠に来なさそう」
「失礼な」
片手を上げて教室を出る。
廊下へ出ると、さっきまで教室の中にいた学生たちが一斉に流れ出したせいで、普段より少し混み合っていた。次の講義へ向かう者、友人と肩を並べて歩く者、イヤホンを耳へ差し込みながらスマートフォンを覗いている者。少し前まで同じ教室で同じ講義を受けていたはずなのに、チャイムが鳴った途端、それぞれが別の予定へ向かって散っていく。
俺もその流れに混ざり、階段へ向かう。踊り場まで下りたところで、向かいから上がってきた学生たちを避けるように少し端へ寄った。すれ違いざまに聞こえてくるのは、次の講義の話だったり、昼飯の相談だったり、昨日見た映画の話だったりする。どれも大学では珍しくもない、ごく普通の光景だった。
そんな周囲を何気なく眺めながら、階段を一段ずつ下りていく。
大学生活に特別な不満があるわけじゃない。講義はそれなりに面白いし、単位も今のところ困るほど落としていない。さっきみたいに気軽に話せる友人もいる。
それなりに大学生らしい生活は送っていると思う。
ただ、何かに夢中になっているかと聞かれれば、たぶん違う。
サークルには入っていないし、大学に入ったら絶対にこれをやりたいと思っていたものもない。周りには部活や資格の勉強、新しく始めた何かについて楽しそうに話す友人もいるけれど、俺には今のところそういうものはなかった。
講義を受けて、課題をこなして、友人と話して、時間になればバイトへ向かう。シフトが終われば家へ帰り、本を読んだり適当に時間を潰したりして眠る。
同じことの繰り返しと言ってしまえばそうなのかもしれない。それでも退屈だと思ったことはない。自分で選んだ生活を、自分なりのペースで過ごしている。それで十分だと思っていた。
少なくとも、今までは。
そんなことを考えているうちに階段を下りきり、そのまま人の流れに乗って校舎を抜ける。
キャンパスを出た瞬間、冷房の効いた建物の中とはまるで違う、むっとした熱気が身体へまとわりついた。
「暑……」
思わず声が漏れた。冷房の効いた建物に長くいたせいで、外へ出た途端にまとわりついてくる空気が余計に重く感じる。夏の日差しは容赦なく舗装された地面へ照りつけ、足元からはその熱が照り返してくる。駅まで大した距離ではないとはいえ、わざわざ日向を歩く気にはなれず、俺は少しでも日差しを避けるように建物の影へ入りながら歩き始めた。
キャンパスの端まで来たところで、少し離れた場所から威勢のいい掛け声が聞こえてくる。何気なくそちらへ目を向けると、何かのサークルらしい学生たちが十人ほど集まっていた。揃いのウェアを着ているわけでもないから何をしている団体なのかまでは分からない。それでも、誰かが大きな声を上げれば周りから笑いが起こり、また別の誰かが何かを言い返す。暑さなんて気にならないのかと思うくらい、随分と楽しそうだった。
その横を、足を止めることなく通り過ぎる。
別に羨ましいわけじゃない。俺だって誘われれば友人と遊びに行くし、一人で過ごす時間も嫌いではない。サークルに入らなかったことを後悔したことも、今の大学生活に物足りなさを感じたこともなかった。
ただ、ああいうふうに何か一つへ夢中になっている人間を見ると、時々少しだけ眩しく見えることはある。自分がそこへ混ざりたいというより、あれだけ当たり前のように一つのものへ時間を使えることが、俺にはどこか遠いものに感じられる。
視線を前へ戻し、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面に表示された時刻を確認すると、シフトまではまだ余裕がある。電車が多少遅れたところで慌てるほどではないだろう。
そのまま画面を閉じようとして、ふと、数日前に聞いた声が頭の中へ蘇った。
『今度、Liella!のみんなも連れてくるっす!』
桜小路さんだ。
Liella!に加入することを決めたと報告しに来た日の帰り際、あの子はいつもの調子でそんなことを言っていた。あの時はずいぶん嬉しそうだったから、俺も「そうですか」と返したような気がする。もっとも、具体的にいつ来るのかまでは聞かなかったし、本当に全員を連れてくるつもりなのかも分からない。
———Liella!。
桜小路さんが入ることを決めた、スクールアイドルグループ。
何度かその名前を聞いているわりに、考えてみれば俺が知っていることは驚くほど少ない。桜小路さんが体験入部へ行ったことや、練習についていくのに苦労していたこと、そのうえで最終的には自分から加入を決めたこと。そのあたりは本人から聞いているけれど、肝心のLiella!がどんなグループなのかについては、ほとんど知らなかった。
誰がいるのか。どんな人たちなのか。普段どんなふうに活動しているのか。
桜小路さんの話の中には「先輩」という言葉が何度も出てきたけれど、個人の名前まで聞いた覚えはない。俺から詳しく尋ねたこともなかった。桜小路さんが加わって六人になった、ということだけは何となく覚えている。
それでも、さっき見かけた学生たちの姿が頭に残っていたせいか、少しだけ考える。
桜小路さんも今頃、あんなふうに誰かと一緒に練習しているんだろうか。
少し前までは「きな子には無理っす」と何度も口にしていたのに、今では自分からそこへ飛び込んでいる。そう考えると、俺の知らないところで随分と変わったものだと思う。
まあ、実際に見たことがない以上、想像したところで仕方がない。
「……そのうち来るか」
誰に聞かせるでもなく呟き、スマートフォンをポケットへ戻す。
今日来るとは聞いていない。本当に六人全員をまとめて連れてくるのかどうかも知らないし、俺自身、それを特別待ち構えているわけでもなかった。
そのうち店へ来れば、その時に顔くらいは分かるだろう。
この時の俺にとっては、まだそれくらいの認識だった。
◇
「野山くん、お疲れ〜」
「お疲れさまです」
Café Arbreのバックヤードへ入ると、店長が棚の中を確認しているところだった。
いつものように髪を後ろでまとめ、片手にはチェック用のメモを持っている。三十代半ばくらいで、仕事中でも必要以上に堅苦しいところがない人だ。
「今日もよろしくね」
「はい」
「夕方ちょっと予約入ってるから、その前後だけ忙しくなるかも」
「分かりました」
「お願いしまーす」
軽い調子でそう言うと、店長はまた棚へ向き直った。
バックヤードの外からは、店内で働いているスタッフたちの声が途切れ途切れに聞こえてくる。注文を復唱する声に、食器同士が触れ合う乾いた音。開いた扉の向こうを覗けば、ホールでは先にシフトへ入っていたアルバイトが空いたテーブルから食器を下げ、その横を別のスタッフがコーヒーを載せたトレーを手に通り過ぎていった。
昼の混雑は少し落ち着き始めているようだったけれど、店内にはまだ何組もの客が残っている。カウンターの中でもスタッフが次の注文に備えてグラスを補充していて、俺が来る前から店はいつも通り動き続けていた。
俺もロッカーへ鞄を入れ、エプロンを取り出して身につける。紐を背中で結んでから鏡の前に立ち、大学から歩いてくる間に少し乱れた前髪を手櫛で軽く整えた。
ついさっきまで講義を受けていた大学生から、Café Arbreのアルバイトへ。そんな大げさな切り替えを意識しているわけではない。それでもエプロンを身につけ、店内から聞こえてくる注文の声や食器の音に耳を傾けていると、自然と頭の中から大学のことが薄れていく。
「じゃあ、入ります」
店長へ一声掛けてバックヤードを出ると、ちょうどホールを歩いていた女性スタッフとすれ違った。
「野山くん、お疲れ」
「お疲れさまです」
「二番、そろそろ注文決まりそうだからお願いしていい?」
「分かりました」
短く言葉を交わし、そのままカウンターへ向かう。
こうして今日も、いつものシフトが始まった。
昼過ぎのCafé Arbreには、まだ何組か客が残っていた。窓際の席では二人組の女性が談笑している。奥では男性客がノートパソコンを開き、時折コーヒーへ手を伸ばしている。カウンターの中では別のスタッフがグラスを拭いていた。
注文を取る。厨房へ通す。出来上がった料理を運ぶ。空いた皿を下げる。減っていた水を足す。
何度も繰り返してきた仕事だ。
客が入口へ入ってくれば反射的に顔を上げるし、空いたテーブルが目へ入れば考えるより先に片付けへ向かう。身体が仕事を覚えている。
午後のピークを越え、少しずつ客足が落ち着いてきた頃。
俺は窓際のテーブルから空になったカップを下げ、トレーへ載せた。そのままカウンターへ戻ろうとして、視界の端に店の奥が入る。
——ピアノ。
視界の端に見慣れた黒い輪郭を捉えた瞬間、ほんのわずかに足が緩んだ。
この店で働き始めてから何度となく目にしてきたものだ。普段ならそこにあることすら意識せず通り過ぎるのに、今日はなぜか目が留まる。数日前、桜小路さんが帰ったあとにも、同じようにあれをいつもより長く眺めていたことを思い出した。
それだけのことなのに、胸の奥へ小さな違和感が残る。
俺はそれ以上考える前にピアノから目を逸らし、手にしていたトレーへ視線を戻した。店内では相変わらず控えめな話し声が重なり、カウンターの向こうからはグラスを棚へ戻す音が聞こえている。別のスタッフが空いた席を片付け、その横を注文を取り終えた店長が伝票を片手に通り過ぎていった。
何かが変わったわけじゃない。
今日も朝から大学へ行って講義を受け、時間になったからこの店へ来た。エプロンを着けて、注文を取り、料理を運び、空いた食器を下げている。昨日までと同じように今日が過ぎて、たぶん明日になれば、またいつも通りの一日が始まる。
それでいいし、それが俺の日常だった。
洗い場まで戻り、トレーの上に載せていたカップを一つずつ下ろしていく。最後の一つを置いたところで、手にしていたトレーも所定の場所へ戻した。
その直後だった。
カラン——。
入口のベルが、午後の店内へ軽やかに響く。
「いらっしゃいませ」
ほとんど反射的に声を出しながら顔を上げる。新しい客を迎えるために入口へ目を向けた時には、さっきまでピアノへ向いていた意識もすっかり仕事へ戻っていた。
「野山さーん!」
店の入口から聞こえてきたのは、もうすっかり聞き慣れた声だった。カウンターの中で手を動かしながらそちらへ目を向けると、ちょうどドアベルを鳴らして桜小路さんが入ってくるところだった。
「こんにちは、桜小路さん」
「こんにちはっす!」
俺と目が合うなり、桜小路さんはいつものように大きく手を振る。初めてこの店へ来た頃の遠慮がちな様子はどこへやら、今では随分と慣れたもので、こうして元気よく店へ入ってくる姿も別に珍しくなくなっていた。
———そこまでは、いつも通りだった。
「みんな、こっちっす!」
「——みんな?」
聞き慣れない一言に手を止めると、桜小路さんが店の外へ向かって振り返った。その視線を追うように入口へ目を向けた直後、俺は彼女が一人で来たわけではないことにようやく気づく。
桜小路さんの後ろから、結ヶ丘の制服を着た女子高生が一人、また一人と店内へ入ってくる。一人目が後ろへ道を譲れば、その後ろから二人目が現れ、さらにその向こうから三人目が顔を出す。そこで終わるのかと思えばまだ続き、結局、桜小路さんを含めて六人が入口付近へ集まることになった。
さっきまで比較的静かだった店内が、それだけで一気に賑やかになったように感じる。もちろん騒いでいるわけではない。ただ、同じ制服を着た女子高生がこれだけまとまって入ってくれば、嫌でも目につく。
多いな。
色々と考えるより先に浮かんできたのは、そんな身も蓋もない感想だった。
「野山さん!」
「はい」
「Liella!のみんなを連れてきたっす!」
「……本当に全員連れてきたんですね」
「言ったっす!」
「言ってましたね」
「約束したっすから!」
「約束した覚えはないですけど」
「えっ」
勢いよく胸を張っていた桜小路さんの表情が、一瞬で固まった。どうやら本人の中では、いつの間にか俺との約束ということになっていたらしい。
「桜小路さんが『連れてくるっす』って言って、そのまま帰っただけですよ」
「そうだったっすか?」
「そうでした」
記憶を確かめるように首を傾げる桜小路さんを見ながら、数日前のやり取りを思い返す。確かに「今度はLiella!のみんなも連れてくる」とは言っていたけれど、俺はそれに対して了承した覚えもなければ、いつ来るのか聞いた覚えもない。
まさか本当に、それも全員まとめて連れてくるとは思っていなかった。
本気で記憶を辿っているのか、桜小路さんはしばらく首を傾げていたけれど、やがて「あっ」と小さく声を漏らした。どうやらようやく思い出したらしく、さっきまで自信満々だった表情がみるみるうちに気まずそうなものへ変わっていく。
「……あちゃ~。そうだったっすね」
眉尻を下げながら、照れ臭そうに頬を掻く。その顔には完全に「やってしまった」と書いてあって、後ろに立っていた誰かから堪えきれなかったような小さな笑い声が聞こえてきた。
「むぅ……」
桜小路さんは少しだけ頬を膨らませて後ろを振り返ったものの、誰が笑ったのかまでは分からなかったらしい。五人の顔を順番に見回したあと、誤魔化すように勢いよくこちらへ向き直った。
「と、とにかく! 紹介するっす!」
強引に話を切り替えたな、とは思ったけれど、わざわざ指摘するほど意地悪でもない。それに、俺としても少し興味はあった。
桜小路さんがこのところ何度も話していた、スクールアイドルというもの。体験入部へ行った時のことも、加入を決めた時のことも聞いている。その桜小路さんが今では一緒に活動しているのだから、後ろに並んでいる五人がLiella!の先輩たちなのだろう。
最初に一歩前へ出てきたのは、肩にかかるくらいの明るい髪をした女の子だった。髪の一部を編み込んだ特徴的な髪型をしているけれど、そこから受ける華やかな印象とは対照的に、表情は柔らかい。俺と目が合うと少しだけ目元を和らげ、そのまま人懐っこさを感じさせる笑顔を向けてきた。
「初めまして。
「野山幸之助です。初めまして」
互いに軽く頭を下げる。
———澁谷かのん。
初めて聞く名前を頭の中で繰り返す。桜小路さんからLiella!についての話は何度も聞いてきたけれど、考えてみればメンバー一人ひとりの名前まで詳しく聞いたことはなかった。
これまで俺の中にあったのは、桜小路さんが何度も口にしていた「Liella!の先輩たち」という漠然とした存在だけだった。そのうちの一人に、今初めて顔と名前がついた。
「
「いや、俺はそんな大したことしてませんけど」
「いっぱい相談に乗ってもらったっす!」
「雑談してただけでしょう」
「きな子にとっては相談だったっす!」
すかさず横から訂正が入り、思わず桜小路さんを見る。本人は至って真面目な顔をしていて、どうやら冗談で言っているわけではないらしい。
「そうなんですか?」
「そうっす!」
妙に力強く頷かれてしまった。
俺としては、店に来た桜小路さんの話を聞いて、思ったことを少し返していただけのつもりだった。けれど、本人が相談だったと言うのなら、こちらから否定することでもないのかもしれない。
そう考えていると、澁谷さんが俺と桜小路さんを交互に見て、どこか納得したように小さく笑った。
「じゃあ、やっぱりお世話になってますね」
「……そういうことになるんですかね」
どうにも押し切られた気がする。
その後ろにいた三人も順番に名前を名乗ってくれたので、俺もそのたびに簡単な挨拶を返していった。
桜小路さんから何度も話を聞いていたLiella!という存在に、一人ずつ顔と名前が結びついていく。これだけ一度に覚えられるだろうかと思いながら、頭の中で聞いたばかりの名前を繰り返していると、最後に残っていた一人へ自然と視線が向いた。
「…………」
最後に残った一人へ視線を向けたところで、俺は次の挨拶を返すことも忘れて、その場で固まった。
最初に目に入ったのは、肩から流れる長い金色の髪だった。どこかで見たことがある、なんて曖昧なものではない。少し吊り上がった目元も、整った顔立ちも、その中に浮かんでいるどこか気の強そうな表情も、つい数日前まで何時間も向かい合って話していた相手のものだった。
——見間違えるはずがない。
それに、驚いているのは俺だけではないらしい。向こうもこちらを見たまま動きを止め、さっきまで他のメンバーと話していた時の表情が消えている。わずかに見開かれた目を見れば、俺とまったく同じことを考えているのだと嫌でも分かった。
ほんの数日前のことが、一気に頭の中へ蘇ってくる。
あの日は、ただ本を借りるために立ち寄った図書館だった。同じ一冊へほとんど同時に手を伸ばしたことがきっかけで言葉を交わし、最初はどちらがその本を借りるかというだけの話だったはずなのに、いつの間にか作品の解釈について意見をぶつけ合っていた。
そのまま別れるかと思えば、場所を移してさらに本の話を続け、互いの名前を知った。昼になれば一緒にカフェへ入り、食事を終えてからはまた図書館へ戻って、午後まで書架の間を歩きながらおすすめの本を紹介し合った。
結局、半日近く一緒にいたことになる。それでも、互いについて知ったことは驚くほど少ない。
俺が知っているのは、高校生で、本をよく読んで、日本史が好きだということ。それから、作品の話になると簡単には引かないくらい負けず嫌いで、自分の好きな本を薦める時には少し得意そうな顔をすること。
何か部活をしているとは聞いたけれど、何をしているのかまでは教えてもらえなかった。
——だから、まさか。
桜小路さんが連れてきた五人の中に、その本人がいるなんて想像できるはずもなかった。別れ際には連絡先すら交換せず、次にいつ会うのかも分からないまま、「また偶然会ったら」と言って別れた相手。
———平安名すみれ。
あれから、まだ数日しか経っていない。また会えればいいとは思っていた。
けれど、いくらなんでも。
こんなに早く、こんな場所で再会するとは思わなかった。
「——野山さん?」
平安名さんが、驚いたようにぽつりと俺の名前を呟いた。わずかに目を見開いたままこちらを見ているあたり、向こうもこの再会はまったく予想していなかったらしい。
「——平安名さん?」
俺も名前を呼び返し、そのまま数秒、互いに顔を見合わせる。
———また偶然会ったら。
確かにそう言って別れた。でも、いくらなんでも早すぎるだろう。
「え?」
最初に声を上げたのは桜小路さんだった。
俺と平安名さんが互いの名前を呼んだことがよほど予想外だったのか、目を丸くしたまま俺を見る。それから平安名さんへ視線を移し、何かを確かめるようにもう一度俺へ戻す。そうして何度か二人の顔を見比べたあと、ますます分からなくなったらしく、不思議そうに首を傾げた。
「二人とも、知り合いっすか?」
「まあ……」
どう答えたものかと迷っていると、ほとんど同じタイミングで平安名さんが口を開いた。
「知り合いっていうほどでもないけど」
俺の声と平安名さんの声が重なり、今度は俺たちが互いに顔を見合わせる。
確かに知ってはいる。でも、知り合いと言い切るには、まだ少し違う気もする。
何しろ、会ったのはほんの数日前の一度きりなのだから。
互いに顔を見る。
「この前会ったばかりですよね」
「そうね」
「図書館で」
「そう」
確認するように言葉を交わす。間違いなく、数日前に図書館で半日近く一緒に過ごした平安名さん本人だ。それでも、こうして結ヶ丘の制服を着た五人の中に立っている姿を見ると、あの日とはどこか違って見える。
「……まさか、Liella!だったんですか」
「悪い?」
「いや、悪いとは言ってないですけど」
平安名さんが少しむっとしたように眉を寄せる。別に責めたつもりはなかった。ただ、あまりにも予想していなかったところから答えが出てきたせいで、驚きがそのまま言葉に出てしまっただけだ。
平安名さんが高校生だということは、あの日の会話で聞いていた。本を読むのが好きなことも、日本史に興味があることも知っている。何か部活をしているらしいことも話題にはなったけれど、何をしているのか尋ねた時には「内緒」としか教えてくれなかったし、俺も本人が言いたくないならと、それ以上追及しなかった。
だから俺の中にいた平安名すみれという人は、ついさっきまで、図書館で偶然出会った妙に本の趣味が合う高校生でしかなかった。
その平安名さんが今、桜小路さんが何度も話していたLiella!のメンバーとして目の前に立っている。
まさか、あの時教えてもらえなかった「部活」の答えが、こんなところで桜小路さんと繋がるとは思ってもみなかった。
「平安名さんが言ってた部活って——」
「……これよ」
少し気まずそうに平安名さんが答える。
「なるほど」
「何よ」
「いや。内緒にするから何かと思ってたんですけど」
「別にいいでしょう!」
数日前と変わらない調子で言い返されて、ようやく目の前にいるのが本当にあの時の平安名さんなのだと実感する。
また会えればいいとは思っていた。けれど、まさか数日後、それも桜小路さんが連れてきたLiella!の一人として再会することになるとは、さすがに想像していなかった。
だから、また会えればいいとは思っていた。
けれど、まさか数日後、それも桜小路さんが連れてきたLiella!の一人として再会することになるとは、さすがに想像していなかった。
「でも、今日はどうしてここに?」
「それはですね」
俺の疑問に答えたのは澁谷さんだった。隣にいる桜小路さんへちらりと視線を向けてから、少し楽しそうに口元を緩める。
「今日、学校でみんなとカフェの話をしてたんです」
「カフェ?」
「はい。みんなでどこか行きたいねって話してて。いいお店ないかなってなった時に———」
そこで澁谷さんが言葉を区切り、隣へ顔を向けた。
その視線の先にいた桜小路さんも、話の続きを察したのか、どこか得意そうに胸を張る。
「きな子ちゃんが、『おすすめのカフェがあるっす!』って」
「ああ……」
それでここへ来たのか。
俺もつられるように桜小路さんへ視線を向ける。本人は何でもないことのような顔をしているけれど、五人全員を連れてきたところを見ると、学校でそれなりに強く勧めてくれたのだろう。
「桜小路さん」
「なんすか?」
「随分宣伝してくれたんですね」
「宣伝っていうか……」
桜小路さんは少しだけ首を傾げ、どう説明したものかと考えるように視線を宙へ向けた。
けれど、それもほんの数秒だった。
何か答えを見つけたらしく、ぱっと表情を明るくすると、俺だけでなく後ろにいる五人にも聞こえる声で、何の迷いもなく言った。
「ここ、きな子のお気に入りっすから!」
一瞬、返事が遅れた。
———お気に入り。
そんなふうに思っていたのか。
初めて桜小路さんがこの店へ来た日のことを思い出す。東京へ来たばかりで道に迷い、歩き疲れて、たまたま目に入ったこの店へ入ってきただけだった。あの頃はカウンター席に座っていてもどこか落ち着かない様子で、注文一つするのにも少し緊張していたように思う。
それが何度か顔を合わせるうちに、いつの間にか一人でも当たり前のように店へ来るようになった。大学のことを聞かれたり、学校であったことを話されたり、時にはスクールアイドルについて悩んでいる話を聞いたりもした。
そして今日は、そのスクールアイドルとして一緒に活動することになった仲間たちを、自分からこの場所へ連れてきた。
偶然入っただけだった店が、いつの間にか誰かへ勧めたいと思える場所になっていたらしい。
そう考えると、なんとなく悪い気はしなかった。
「……そうですか。ありがとうございます」
「なんすか、その間は!」
「別に何も」
「絶対何か考えてたっす!」
「考えてませんよ」
「怪しいっす!」
その様子を見ていた澁谷さんたちからも笑い声が漏れ、少し前まで静かだった午後の店内に、六人分の明るい声が重なった。
これまで桜小路さんの話の中でしか知らなかったLiella!と、数日前に偶然知り合った平安名さん。そして、いつの間にかこの店を「お気に入り」だと言うようになっていた桜小路さん。
別々だったものが、どういうわけか今日、この場所で一つに繋がった。
もっとも、この時の俺はまだ、それを特別なことだとは思っていなかった。
ただ———どうやら今日のCafé Arbreは、いつもより少し賑やかな午後になりそうだった。
ここまで読み進めてくださりありがとうございます。
書き溜めがここまでとなります。
以降若干ペースが落ちるかと思いますが何卒ご理解頂けると幸いです。