ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
六人を店の奥にある広めのテーブル席へ案内し、人数分のメニューと水を順番に置いていく。普段なら二、三人で使われることの多い席も、結ヶ丘の制服姿が六人揃って腰を下ろすと、それだけでいつもより随分と狭く見えた。
「ご注文が決まったら呼んでください」
「ありがとうございます」
「はーい!」
澁谷さんの返事に続いて、何人かの声が重なる。桜小路さんまで元気よく手を挙げているのを横目に、俺は軽く頭を下げ、そのまま仕事へ戻るためカウンターへ向かった。
別の客の会計を済ませ、空いたテーブルから下げられたグラスを洗い場へ運んでいる間にも、店の奥から六人の話し声が途切れることなく聞こえてくる。まだメニューを眺めて注文を決めているだけのはずなのに、随分と賑やかなものだ。中でもよく通る唐さんの声はカウンターまで届いてきて、そのたびに平安名さんが何かを返し、少し遅れて他の何人かの笑い声が重なる。わざわざ様子を見なくても、あのテーブルでどんなやり取りが繰り広げられているのか、何となく想像できてしまった。
しばらくして声をかけられ、スマートフォンを手に六人の席へ戻る。
「お待たせしました。ご注文どうぞ」
澁谷さんから始まり、嵐さん、葉月さんと順番に注文を聞きながらスマートフォンへ登録していく。その間も他の面々は完全に黙って待っているわけではなく、誰かの注文に反応したり、メニューを覗き込んだりと落ち着かない。そんな中、唐さんだけはまだ決めきれていなかったらしく、二つの候補を見比べながら真剣な顔で眉を寄せていた。
「可可、まだ決めてなかったの?」
「今決めようとしてマス!」
「野山さん待ってるよ」
「す、すみマセン!」
澁谷さんに窘められ、唐さんが慌てた様子でメニューの一つを指差す。その横では平安名さんが「まったく」とでも言いたげに小さく息を吐いていたけれど、ここで何か言えばまた二人のやり取りが始まりそうな気がして、俺はあえて口を挟まず、告げられた注文をスマートフォンへ追加した。
桜小路さんからLiella!についての話は、これまで何度も聞いてきた。練習についていくのが大変だったこと、それでも楽しかったこと。そして最後には、自分もこの人たちと一緒にスクールアイドルをやりたいと決めたこと。
ただ、こうして六人が揃っているところを実際に見るのは今日が初めてだった。
スクールアイドルという言葉から、俺はもっと特別な雰囲気を勝手に想像していたのかもしれない。ステージの上で歌い、踊り、大勢の観客の前に立つ。しかも桜小路さんが加入するかどうかをあれだけ悩んでいたこともあって、俺とは縁のない、どこか遠い世界にいる人たちのように考えていたところがあった。
けれど、いざ目の前にいる六人を見てみれば、そんな印象は少しずつ薄れていく。
メニュー一つで真剣に悩んだり、それを隣から急かしたり、何でもないことで笑ったりする。少なくとも、俺が勝手に想像していたような近寄りがたい雰囲気はどこにもなかった。
「では、桜小路さんは———」
一通り注文を聞き終え、最後に残った桜小路さんへ目を向ける。
「桜小路さんはアイスミルクティーですよね」
「はいっす!」
ほとんど間を置かずに返事が飛んでくる。これまで何度も同じ注文を聞いているので、もはや尋ねるというより確認に近かった。
そのままスマートフォンへ注文を登録し、全員分を確認しようとしたところで、ふと妙な視線を感じた。
「…………」
顔を上げると、なぜか桜小路さん以外の五人が揃ってこちらを見ている。何か注文を聞き漏らしただろうかとスマートフォンの画面へ目を落としてみても、特におかしなところは見当たらない。
「……何か?」
尋ねると、澁谷さんが少しおかしそうに目元を緩めた。
「きな子ちゃん、本当によく来てるんだなって」
「注文を聞く前から分かってマシタ!」
「毎回同じものを頼んでますから」
「ここのミルクティー、美味しいっすから!」
桜小路さんが嬉しそうに胸を張る。その得意げな表情は、まるで自分が作ったものを褒めているようで、思わず少しだけ口元が緩んだ。
「きな子ちゃんが作ってるわけじゃないけどね」
「わ、分かってるっすよ、
嵐さんに笑いながら指摘されると、桜小路さんは恥ずかしそうに頬を膨らませる。その反応がまたおかしかったらしく、テーブルには自然と笑い声が広がった。
注文を取っているだけなのに、よくこれだけ賑やかになれるものだ。
もっとも、嫌な騒がしさではない。誰かが話せば別の誰かが拾い、それにまた別の誰かが加わっていく。六人でいることに慣れているのだろう。そんなやり取りを見ていると、桜小路さんがこの中へ入ることを選んだ理由も、ほんの少しだけ分かるような気がした。
「では、少々お待ちください」
「お願いするっす!」
スマートフォンを手にテーブルを離れる。背中を向けてまだ数歩しか歩いていないというのに、後ろではもう別の話題が始まっていて、六人の声が再び重なり合っていた。
———Liella!、か。
桜小路さんの話の中では、これまで何度も聞いてきた名前だ。
けれど、実際に会って、こうして同じテーブルを囲んでいるところを見てみると、俺が頭の中だけで作っていた印象とは随分違っていた。
ステージに立っているところを見れば、また違って見えるのかもしれない。けれど少なくとも今、俺の目に映っている彼女たちは、思っていたよりずっと普通の、賑やかな高校生たちだった。
◇
最後のドリンクをそれぞれの前へ置き終え、空になったトレーを持ち直す。注文したものが間違っていないことを一通り確認してから、俺は六人へ軽く頭を下げた。
「以上でお揃いですね。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
澁谷さんの返事を聞き、そのままカウンターへ戻ろうと身体の向きを変えかけたところで、不意に後ろから呼び止められた。
「あ、野山さん」
「はい?」
振り返ると、澁谷さんがこちらを見上げている。何か注文を追加するのかと思ったけれど、メニューへ手を伸ばす様子はなく、少し気になったことを尋ねるような顔をしていた。
「野山さんって、ずっとここで働いてるんですか?」
「ずっと、というほどではないですよ。働き始めたのは去年からなので」
「じゃあ一年くらい?」
「それくらいです」
答えると、澁谷さんは納得したように小さく頷きながら、改めて店内を見回した。木目のテーブルやカウンター、その奥に並んだカップやグラスへ順番に視線を移し、最後にもう一度こちらを見る。
「すごく慣れてる感じだったから、もっと長いのかと思いました」
「同じことを繰り返してれば、嫌でも慣れますよ」
「野山さん、謙遜してマス!」
それまで自分のドリンクへ手を伸ばしていた唐さんが、突然こちらへ顔を向けて会話に入ってくる。思いもよらないところから飛んできた言葉に、俺は思わず聞き返した。
「謙遜?」
「そうデス! さっきから動きに迷いがありませんデシタ! 注文もすぐ覚えてマス!」
「仕事なので」
「ほら、こういうところよ」
唐さんの隣から平安名さんが呆れたような声を挟んできたので、今度はそちらへ顔を向ける。
「何がです?」
「いちいち反応が淡白なの」
「普通に答えただけですけど」
「そういうところ」
前にも似たようなことを言われた気がするけれど、やっぱり何を指摘されているのかよく分からない。少なくとも自分では普通に答えているつもりだし、わざと素っ気なくしているわけでもない。
ただ、テーブルを囲む六人の表情を見る限り、本気で責められているわけではなさそうだった。唐さんは妙に納得したように頷いているし、澁谷さんと嵐さんは小さく笑っている。葉月さんも口元をわずかに緩めていて、平安名さん自身も本気で呆れているというより、いつもの調子で俺に突っ込んでいるだけらしい。
「きな子ちゃん、野山さんっていつもこんな感じなの?」
嵐さんが笑いを残したまま桜小路さんへ尋ねると、本人は考える素振りすら見せず、アイスミルクティーのグラスを両手で包んだまま勢いよく頷いた。
「こんな感じっす!」
「即答ですね」
「だって本当っすから!」
何が「こんな感じ」なのか、本人たちだけで話を進めないでほしい。そう思いながら桜小路さんを見るけれど、俺の不満など気にも留めていないらしく、楽しそうに笑いながらミルクティーへ口をつけている。
その様子につられるように澁谷さんも笑い、嵐さんが何かを付け加えれば、今度は唐さんがすぐに反応する。平安名さんがその言葉へ間髪入れずに突っ込み、葉月さんはそんなやり取りを穏やかな表情で眺めながら、時折自分も会話へ加わっていた。
そんなやり取りをすぐそばで眺めているうちに、俺の目は自然と桜小路さんへ向いていた。
くだらないことで笑って、誰かが何かを言えばすぐに別の誰かが反応する。唐さんと平安名さんは何かにつけて言い合いになるし、それを澁谷さんや嵐さんが笑って見ている。葉月さんも二人を窘めるだけではなく、時折会話へ混ざっては楽しそうに表情を緩めていた。
そして、そんな五人の中には桜小路さんも当たり前のように混ざっている。
初めてこの店へ来た時、慣れない東京で迷子になり、どこか落ち着かない様子で周囲を窺っていた姿を知っているだけに、今こうして五人と肩を並べて笑っている姿は少しだけ新鮮だった。
嵐さんから話しかけられればすぐにそちらへ顔を向け、澁谷さんの言葉には自然に頷く。葉月さんが話し始めれば耳を傾け、平安名さんや唐さんのやり取りにも笑いながら口を挟んでいる。それだけではなく、桜小路さんの方から話題を振ることもあれば、誰かの言葉へ真っ先に反応することもあった。
そこに、以前のような遠慮がちな様子はほとんどない。
五人の会話を少し離れたところから眺めているわけでも、誰か一人の後ろについているわけでもなかった。周りに気を遣われて無理に輪の中へ入れてもらっているようにも見えず、五人に囲まれているというより、最初からそこにいたように六人のうちの一人として笑っている。
ちゃんと、あの中に桜小路さん自身の居場所ができているのだと思う。
『きな子なんかにできるんすかね……』
楽しそうに笑っているその姿を眺めているうちに、少し前、この店で聞いた声がふと頭をよぎった。
体験入部へ行き始めた頃の桜小路さんは、今とはまるで違っていた。練習についていけないことを気にして、周りの五人が自分よりずっとできることに圧倒され、自分なんかがそこへ入っていいのか分からないと何度も悩んでいた。
それでも、一度体験しただけで諦めることはなかった。
練習へ行けば、できなかったことをこの店で山ほど話す。走ればすぐに息が上がったとか、振り付けを覚えるだけでも精一杯だったとか、自分にはやっぱり無理かもしれないとか。口から出てくるのは大変だったことばかりなのに、不思議とその時の桜小路さんは、本当に嫌そうな顔をしてはいなかった。
大変だったと言いながら、どこか楽しそうだった。
そうやって何度も迷いながら練習へ通い続け、最後には誰かに答えを決めてもらうのではなく、自分でスクールアイドルになることを選んだ。
加入したと報告された時は、俺も素直に良かったと思った。あれだけ悩んだ末に自分で決めたことなのだから、頑張ってほしいとも思ったけれど、その時の俺にとっては、まだそれ以上の実感を持てる話ではなかった。
俺はスクールアイドルについて詳しくない。Liella!が普段どんな練習をしているのかも知らなければ、ステージでどんな姿を見せるのかも知らない。桜小路さんが「Liella!に入ることにした」と嬉しそうに報告してきたから、それを聞いて「頑張ってください」と返した。それだけだった。
けれど、こうして実際に六人で同じテーブルを囲み、当たり前のように言葉を交わし、笑い合っている姿を目の前にすると、あの時聞いた「Liella!に入る」という言葉が、ようやく少しだけ具体的なものになった気がする。
あれだけ自分には無理だと言っていた桜小路さんが、自分で決めて、その場所へ踏み込んだ。
そして今は、そこでこんなふうに笑っている。
「そういえば、野山さん。すみれちゃんとは図書館で会ったんですよね?」
「ええ、そうですよ」
澁谷さんに尋ねられて答えると、平安名さんが手にしていたカップを静かにテーブルへ戻した。第9話で再会した時にも簡単な経緯は話しているし、俺としては特に隠すようなことでもない。
「前にも言ったでしょう。同じ本を取ろうとして、たまたま話しただけよ」
「それだけで、そんなに仲良くなったのデスか?」
唐さんが不思議そうに首を傾げると、平安名さんの眉がわずかに動いた。
「別に、仲良くなったとかじゃないわよ。本の話をしてただけ」
「まあ、結構長く話してましたけどね」
「ちょっと、野山さん」
横から咎めるような声が飛んできたけれど、別に間違ったことは言っていない。最初は一冊の小説について話していただけだったのが、作者の別作品へ移り、そこからまた別の作家へと話題が広がって、気づけば午前中の大半を話して過ごしていた。
あの日は俺にとっても、久しぶりに本について遠慮なく話せる相手に会えた時間だった。意見が合えばそのまま話が弾んだし、逆に解釈が食い違えば、どちらも簡単には引かなかった。平安名さんとはそういうやり取りが妙に噛み合って、結局、昼になっても話は終わらなかった。
「そのあと一緒に昼を食べて、また図書館に戻ったんですよ」
「野山さん!?」
今度こそ平安名さんが声を上げる。その反応だけで何かを察したらしく、残る五人の視線が一斉に彼女へ集まった。
「すみれ……全然『たまたま話しただけ』じゃないデス」
「だから、本の話をしてただけだって言ってるでしょう!」
唐さんへ言い返す平安名さんの頬が、わずかに赤くなっている。これ以上細かく説明すると余計に面倒なことになりそうなので、俺はそれ以上口を挟まず、二人のやり取りを眺めることにした。
もっとも、俺からすれば本当にそれ以上の意味はない。
好きな本が似ていて、話してみれば意見の合うところもあれば、まったく合わないところもあった。だからこそ話題が尽きず、気づけば半日近く一緒にいただけだ。
ただ、改めて考えてみれば、偶然図書館で会った相手とその日の夕方近くまで過ごしていたのだから、「たまたま話しただけ」という平安名さんの説明には、さすがに少し無理があるのかもしれない。
「野山さん、本好きだったんすね」
ふいに桜小路さんが言った。
「好きですよ」
「……知らなかったっす」
「そうでしたっけ?」
「聞いてないっすよー! 野山さんから本の話なんて一回も聞いたことないっす!」
思っていた以上に強く否定され、思わず桜小路さんを見る。目を丸くしているところを見ると、本当に知らなかったらしい。
「そんなに意外ですか?」
「だって、初めて聞いたっす!」
そこまで言われて、これまで桜小路さんと交わしてきた会話を思い返してみる。確かに、学校のことやスクールアイドルのことについて話すことは何度もあったけれど、俺自身のことが話題になった覚えはほとんどなかった。
「そういえば、そういう話したことなかったですね」
「むぅ……」
何か言い返そうとしたらしいけれど、うまい反論が見つからなかったのか、桜小路さんは不満そうに頬を膨らませる。その分かりやすい反応がおかしくて、少しだけ口元が緩んだ。
考えてみれば、桜小路さんとは何度も顔を合わせ、そのたびにいろいろな話をしてきた。それでも、話題の中心にいたのはいつも桜小路さんの方だった。
俺が普段何をしているのか。何が好きで、休日をどう過ごしているのか。
そういう俺自身のことを、桜小路さんは案外知らない。
「じゃあ今度、おすすめ教えてくださいっす」
「別にいいですけど」
「約束っすよ!」
「……今度はちゃんと約束なんですね」
何気なく返した瞬間、桜小路さんが「あっ」と小さく声を漏らし、そのまま口を開けたまま固まった。
どうやら、さっき俺に「みんなを連れてくると約束した」と言い張った時のことを思い出したらしい。あの時は結局、俺が約束した覚えはないと指摘して終わったけれど、今度は俺もはっきり了承している。そこまで考えが追いついたのか、桜小路さんは気まずそうに視線を泳がせた。
「あ、あれは、きな子の中では約束だったっす」
「俺の知らないところで成立してましたけどね」
「うぅ……」
桜小路さんが恥ずかしそうに肩を縮めると、やり取りを聞いていた五人も事情を察したらしく、数秒遅れてテーブルに笑い声が広がった。本人だけは納得がいかないのか、頬を少し膨らませながら俺を見ている。
「今回は約束でいいですよ」
「ほ、本当っすか?」
「おすすめを教えるくらいなら」
「やったっす!」
さっきまでの不満そうな顔はどこへやら、桜小路さんは一瞬で表情を明るくした。目を輝かせながら嬉しそうに笑う姿を見ていると、本を一冊薦めるだけでそこまで喜ばなくても、と思わなくもない。
すると、その向こうから平安名さんの声が飛んできた。
「ちゃんと初心者向けにしなさいよ」
「分かってますよ。平安名さんに薦めるわけじゃないんですから」
「ちょっとどういう意味よ!」
すぐさま平安名さんの声が返ってきて、それをきっかけにテーブルが再び笑いに包まれる。何がおかしいのか桜小路さんまで一緒になって笑っていて、俺は軽く息を吐きながらも、つられるように口元を緩めた。
◇
それからも六人の会話は途切れることなく続いていた。
話題が一つ終われば、誰かが別の話を始める。唐さんと平安名さんが言い合いになれば、ほかの四人が笑う。桜小路さんも時々巻き込まれ、そのたびに慌てたり、笑ったりしていた。
俺も時折声を掛けられながら、合間を見てほかの客の注文を取り、料理を運び、空いた食器を下げていく。
最初は六人の席だけが妙に賑やかに感じられたけれど、しばらくすると、その声も店内の音の一つとして馴染み始めていた。
そんな中、空になったグラスを一つ回収しようとした時だった。
「——あちらのピアノ、とても素敵ですね」
葉月さんの声に、伸ばしかけていた手がわずかに止まる。視線の先には、店の奥に置かれた一台のピアノがあった。
「ああ、あれですか」
見慣れたものだった。この店で働き始めてから、何度視界に入れたか分からない。普段は誰かが触ることもなく、テーブルや椅子と同じように店内の風景へ溶け込んでいる。
それでも、初めて店を訪れた客にはやはり目を引くらしく、葉月さんと同じようなことを言われたのも一度や二度ではなかった。店の雰囲気に合っているとか、置いてあるだけで素敵だとか、実際に弾くことはできるのかと尋ねられたこともある。
俺にとってはすっかり見慣れた光景でも、初めて見る人にとっては、この店を印象づけるものの一つらしい。
「葉月さんは弾くんですか?」
「はい。幼い頃から習っていました」
「今も?」
「昔ほど頻繁ではありませんが、今でも弾くことはあります」
それなら、さっきからピアノへ目を向けていたのも納得できる。単に店内に置かれているのが珍しかったからではなく、自分でも弾くからこそ気になったのだろう。
「恋ちゃん、ピアノ上手なんだよ」
澁谷さんが横からそう教えてくれると、葉月さんは少し困ったように微笑んだ。
「かのんさん。あまり持ち上げないでください」
「でも、本当でしょ?」
「それは……どうでしょうね」
葉月さんは控えめに答えながらも、もう一度店の奥に置かれたピアノへ視線を向ける。その表情には、やはりどこか親しみのあるものへ向けるような柔らかさがあった。
幼い頃から弾いていたのなら、あれだけ自然に目が留まるのも分かる気がする。
「では、野山さんは?」
葉月さんの問いが、今度はこちらへ返ってきた。
「俺ですか?」
「こちらで働いていらっしゃるのでしたら、弾かれることもあるのかと思いまして」
「いや。俺は弾けませんよ。店長とか、他のスタッフなら……」
特に考えることもなく答える。
「そうなのですか?」
「はい」
空になったグラスをトレーへ載せ、それ以上続けるような話でもないと思った。
——その時、ふと横から視線を感じた。
何となくそちらへ顔を向けると、桜小路さんがアイスミルクティーのグラスを両手で包んだまま、じっとこちらを見ていた。いつものように何か言いたそうにしているわけでもなく、どこか俺の表情から何かを確かめようとしているような、不思議な視線だった。
「どうしました?」
「え?」
声を掛けた途端、桜小路さんの肩がわずかに跳ねる。まさか見ていたことに気づかれるとは思っていなかったのか、一度俺と目を合わせたあと、誤魔化すように店の奥のピアノへ視線を移した。それでもすぐにまたこちらへ目が戻ってきて、何かを言いかけるように唇がわずかに動く。
「桜小路さん?」
「な、なんでもないっす!」
結局、言葉にはせず、桜小路さんは慌てたようにぶんぶんと首を横へ振った。あまりにも分かりやすい反応に、本当に何でもないのかとは思ったものの、本人が話すつもりのないことをわざわざ聞き出す必要もない。
「そうですか?」
「はいっす!」
やけに勢いのいい返事が返ってくる。少し気にはなったけれど、それ以上は追及せず、俺は葉月さんへ向き直った。
「弾いてみたいなら、店長に聞いてみましょうか?」
そう尋ねると、葉月さんはもう一度店の奥へ目を向けた。ピアノを眺めるその表情には少しだけ名残惜しそうな色が浮かんでいたものの、やがてこちらへ視線を戻すと、柔らかく微笑みながら首を横へ振る。
「いえ、今日は大丈夫です。ただ、とても素敵なピアノでしたので、少し気になっただけです。また機会があれば是非」
「店長なら、たぶん喜びますよ」
あの人なら、事情を話せば二つ返事で了承するだろう。むしろ、自分から椅子を引いて「ぜひ弾いて」と勧める姿まで簡単に想像できる。葉月さんもそんな俺の言葉に小さく笑うと、最後にもう一度だけ名残惜しそうにピアノへ目を向け、それからようやく視線をテーブルへ戻した。
そろそろ仕事へ戻ろうとテーブルを離れかけたところで、何となく桜小路さんへ目を向ける。さっきまで俺のことをじっと見ていた彼女は、もうこちらを見てはいなかった。
ただ、いつの間にか会話にも加わらなくなっていた。両手で包んだアイスミルクティーのグラスにも口をつけず、わずかに俯いたまま何かを考え込んでいる。少し前まで五人と楽しそうに笑っていたのが嘘のように静かで、時折、グラスの中で溶けかけた氷が小さな音を立てていた。
もう一度、どうしたのかと聞こうか迷った。
けれど、さっき本人が「なんでもない」と言ったばかりだ。無理に聞き出すようなことでもないだろうと、俺は結局何も言わず、六人へ軽く会釈をしてテーブルを離れた。
カウンターへ戻ってからも、なぜか少しだけ気になった。
手を動かしながら、もう一度だけ店の奥へ目を向ける。
桜小路さんはまだ、同じ顔をしていた。
楽しそうに笑う五人の声に囲まれながら、一人だけ何かを考えるように俯いている。
あの時、桜小路さんが何を考えていたのか。
俺には、まだ分からなかった。