ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
電子レンジが、温め終わりを知らせる短い電子音を鳴らした。
冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいた俺は、その音を聞いて立ち上がる。開け放したままの扉の中をもう一度だけ見回してみたものの、今夜の夕飯に追加できそうなものはやっぱり見つからなかった。
「……何もないな」
あるのは卵が二つと納豆、それから飲みかけのペットボトルが何本か。野菜室にはいつ買ったのか覚えていない玉ねぎが一つ転がっているけれど、今からこれを使って何か作ろうという気にはならない。
時刻は午後十一時を少し回ったところだった。
Café Arbreのシフトを終えて、そのまま真っ直ぐ帰ってきた。途中でコンビニにでも寄ればよかったのだけれど、店を出た時にはそんなことはすっかり頭から抜け落ちていて、部屋へ戻って冷蔵庫を開けてからようやく食べるものがほとんど残っていないことに気づいた。
とはいえ、今さらもう一度外へ出るのも面倒だ。
冷蔵庫の扉を閉め、電子レンジから温め終えたパックのご飯を取り出す。棚からインスタントの味噌汁も一袋取り出して椀へ入れ、電気ケトルで沸かしておいた湯を注ぐ。最後に冷蔵庫から納豆を一パック取り出せば、今夜の夕飯はそれで完成した。
ご飯に納豆、それからインスタントの味噌汁。
テーブルへ並べてみると、我ながら随分と簡素な夕飯だった。数時間前まで働いていたCafé Arbreで出している料理と比べれば、同じ一食とは思えないくらい見た目に差がある。
「まあ、いいか」
一人で食べるだけなのだから、腹に入ればそれでいい。
椅子へ腰を下ろし、納豆の蓋を開ける。付属のたれを入れて箸で混ぜ始めたところで、テーブルの端へ置いていたスマートフォンが震えた。
メッセージかと思って何気なく画面へ目を向けると、表示されていたのは母さんの名前だった。
「……珍しいな」
連絡を取ること自体は珍しくない。ただ、母さんからこの時間に電話が掛かってくることはあまりなかった。
何かあったのかと思いながら箸を置き、スマートフォンを手に取って通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、幸之助?』
「うん。どうしたの」
『別に何かあったわけじゃないわよ。ちょっと声を聞こうと思っただけ。今、大丈夫?』
「大丈夫。ちょうど飯食べるところ」
『今から?そっちの時間二十三時くらいでしょ?遅くない?』
母さんは現在、オーストリアのウィーンにある有名な音楽学校で教鞭を執っている。もともとは日本で演奏活動を続けていたヴァイオリニストで、その実力を買われたことをきっかけにウィーンへ渡った。今では現役のヴァイオリニストとして舞台に立ちながら、後進の指導にもあたっている。
俺が高校生になる頃からは顔を合わせる機会もめっきり減り、今ではこうして時折、電話で互いの近況を話すくらいになっていた。
「バイトだったから」
『今日もあのカフェ?』
「うん。さっき帰ってきたところ」
『そう。相変わらず頑張ってるのね』
通話をAirPodsへ切り替えて両手を空けると、止まっていた手を再び動かし、納豆を混ぜ始める。
母さんから電話が掛かってくる時は、大体いつもこんな感じだ。特別な用事があるわけでもなく、大学はどうだとか、ちゃんと生活しているのかとか、離れて暮らすようになってからは思い出した頃にこうして連絡を寄越してくる。
『それで、今日の夕飯は?』
「ご飯と納豆。あと味噌汁」
『…………それだけ?』
「それだけだけど」
AirPodsの向こうから、呆れたような溜息が聞こえてくる。何を言われるのかは大体分かっていたので、俺は気にせず納豆を混ぜ続けた。
『幸之助、ちゃんとしたもの食べなさいよ』
「ちゃんとしてるだろ。米もあるし、納豆もあるし、味噌汁だってある」
『そういうことを言ってるんじゃないの。野菜は? ちゃんと食べてる?』
「野菜なら昼に食べた」
『何を?』
箸を動かしながら昼に食べたものを思い返す。大学で買ったサンドイッチが真っ先に浮かび、その中身まで記憶を辿ってから答えた。
「サンドイッチ。レタス入ってた」
『それを野菜を食べたとは言わないわよ』
「レタスは野菜だろ」
間違ったことは言っていないはずなのに、電話の向こうから今度はさっきよりも深い溜息が返ってきた。
『屁理屈ばっかり言って……。せめて何か一品くらい足しなさいよ』
「十分だって。腹は膨れるし」
『栄養の話をしてるのよ』
一人暮らしを始めてから、何度繰り返したか分からないやり取りだった。こちらとしては三食何かしら口にしているだけ十分だと思っているけれど、母さんからすればそういう話ではないらしい。
それからしばらく、取り留めのない会話を続けた。
大学にはちゃんと通っているのかと聞かれ、特に問題ないと答える。俺からも向こうで変わったことはないかと尋ねてみたけれど、返ってきたのは最近あった出来事や知り合いの話といった、取り立てて変わったところのない話ばかりだった。
離れて暮らすようになってから時々交わすようになった、いつもとほとんど変わらない会話だ。
俺は母さんの声をAirPods越しに聞きながら、混ぜ終えた納豆をご飯の上へ移す。味噌汁からはまだ湯気が上がっているけれど、この調子では食べ始める頃には少しぬるくなっていそうだった。
そんな何でもない話がひと段落したところで、電話の向こうから何かを思い出したような声が聞こえてきた。
『あ、そういえばね』
「ん?」
『私のある教え子に妹がいるんだけどね。なんでも日本に行ったそうなのよ』
「へえ。留学?」
『ううん。そういうわけじゃないみたい』
「じゃあ旅行?」
『それがね、日本でアイドルをやるらしいの』
「アイドル?」
思わず聞き返した。今日に限ってその言葉を聞けば、つい数時間前までCafé Arbreにいた六人の姿が一瞬だけ頭をよぎった。桜小路さんたちもスクールアイドルというものをやっているけれど、だからといって母さんの話と何か関係があるとも思えない。
「へえ。すごいな」
『でしょう? 私も聞いた時はびっくりしたわ』
「母さん、その人に会ったことあるの?」
『妹さんの方? あるわよ。何度かね』
「ふうん」
母さんの教え子についてなら、これまでにも何度か話を聞いたことがある。ただ、その妹についてまで話を聞いた覚えはなかった。そもそも今話している教え子が誰なのかさえ、俺には見当がついていなかった。
何となく気になって、納豆を載せたご飯へ伸ばしかけていた箸を止める。
「その妹って、名前なんて言うの?」
『————』
「ふーん……?」
名前を聞いたところで、その名前に聞き覚えがあるわけでもなければ、顔が浮かんでくるわけでもない。母さんの教え子の、そのまた妹ともなれば、今の俺にとってはほとんど接点のない相手でしかなかった。
母さんも単に近況話の一つとして思い出しただけだったらしく、その子についてそれ以上詳しく話すこともなく、ほどなく別の話題へ移っていった。
その後も何でもない話をいくつか交わし、最後にもう一度だけ「ちゃんとしたものを食べなさい」と念を押されてから、電話は切れた。
さっきまで母さんの声が聞こえていた部屋が、急に静かになる。
スマートフォンをテーブルの端へ戻し、そこでようやく、すっかり放置していた夕飯へ目を向けた。
「……味噌汁、冷めたな」
椀から立ち上っていた湯気は、電話に出る前と比べて随分と弱くなっている。一口啜ってみればまだ温かさは残っていたので、作り直すほどでもないだろうと、そのまま箸を持ち直した。
さっき母さんから聞いた教え子の妹についても、それ以上深く考えることはなかった。
名前を聞いたとはいえ、顔も知らない相手だ。日本でアイドルをやるらしいという話も、俺にとっては母さんとの電話で聞いた近況話の一つでしかない。
納豆を載せたご飯を口へ運びながら、俺は冷めかけた味噌汁へもう一度手を伸ばした。
部屋の中には食器が触れ合う小さな音と、つけっぱなしにしていたエアコンの風の音だけが残る。
数時間前までのCafé Arbreの賑やかさが嘘だったように、いつもと変わらない夜だった。
◇
それから数日が経った。
午後四時を少し過ぎた頃のCafé Arbreは、昼時の慌ただしさがようやく抜け始めたところだった。
ランチを目当てに来ていた客の姿も少なくなり、窓際の席にはノートパソコンを広げている男性が一人、その少し離れたところでは二人組の女性がコーヒーを飲みながら静かに話をしている。店内に流れている音楽も、食器の触れ合う音に邪魔されることなく聞こえるようになっていた。
俺は空いたテーブルから下げてきたグラスをトレーに載せ、カウンターの奥へ戻る。
「野山くん、五番片付いた?」
「今終わりました」
「ありがとう。じゃあ次、これお願い」
店長に声を掛けられ、仕事用のスマートフォンへ目を落とす。画面にはケーキと紅茶が一つずつ表示されていて、それを確認して厨房へ声を掛けようとしたところで、入口の扉についたベルが軽やかな音を鳴らした。
「いらっしゃいませ」
反射的にそちらへ顔を向ける。
開いた扉から入ってきた二人を見て、ほんの少しだけ目を止めた。
「あ」
先にこちらへ気づいた澁谷さんも、同じように足を止める。その隣から店内へ入ってきた嵐さんが、澁谷さんの肩越しに俺の姿を見つけて笑った。
「野山さん、こんにちは」
「こんにちは」
この前は六人だった。
桜小路さんを先頭にして、随分と賑やかに入ってきたのを覚えている。その印象がまだ残っていたせいか、二人だけで並んでいる姿を見ると、同じ制服を着ているにもかかわらず少し違って見えた。
「今日は二人なんですね」
「はい。この前ここに来た時、すごく良かったから」
澁谷さんが店内を見回す。前回来た時よりも空席が目立つことを確認すると、隣の嵐さんと一度顔を見合わせた。
「また行こうかって話してたんです」
「きな子ちゃん、いいところ知ってたねって」
「なるほど」
桜小路さんが得意そうにこの店を紹介していた姿が浮かんで、少しだけ納得する。あの時は六人分の声で店の一角が随分と賑やかになっていたけれど、今日は二人だ。さすがに前回ほど騒がしくはならないだろう。
「お好きな席どうぞ。今なら空いてますから」
「じゃあ、あそこにしようか」
「うん」
二人が選んだのは、前回六人で座っていた席ではなく、その少し手前にある四人掛けのテーブルだった。向かい合うように腰を下ろした二人へメニューを渡し、俺は一度カウンターへ戻る。
さっきの注文を厨房へ通していると、横から店長が小さく笑った。
「この前の子たちだね」
「そうですね」
「気に入ってくれたのかな」
「そう言ってましたよ」
「それならよかった」
店長はそれだけ言うと、洗い終わったカップを一つずつ棚へ戻し始めた。
俺も手元の仕事へ戻る。
しばらくして二人から注文を受け、出来上がった飲み物を運ぶ。澁谷さんは温かいカフェラテ、嵐さんはアイスティーだった。
「ありがとうございます」
「ごゆっくり」
テーブルへ置いたカップから細い湯気が上がっている。
澁谷さんは両手でそれを包むようにしながら、早速嵐さんと何かを話し始めた。こちらまで聞き取れるほど大きな声ではないけれど、時折二人の笑い声が届いてくる。
その様子を横目に、俺は店内を回った。
空いた皿を下げ、新しく入ってきた客を席へ案内し、出来上がった料理を運ぶ。忙しいというほどではないが、手を止めるほど暇でもない。そうして一時間ほど経った頃には、夕方の客が増え始める前の短い谷間に入っていた。
「野山くん。今のうち休憩入っちゃっていいよ」
「そうですか、分かりました」
「夕方また増えると思うから、その前にね」
言われてみれば、出勤してからまともに座っていなかった。
エプロンを外して畳み、スタッフ用のスペースへ置く。冷蔵庫から水の入ったボトルを取り出したところで、ふと客席へ視線を向ける。
澁谷さんと嵐さんは、まだ同じ席にいた。
テーブルの上の飲み物は半分ほど減っている。さっきまで笑っていたと思ったけれど、今は嵐さんが何かを話し、澁谷さんが頷きながら聞いているところだった。
休憩はいつも店の奥で取ることが多い。
今日もそうしようと思っていたのだが、こちらに気づいた嵐さんと目が合った。
「あれ、野山さん休憩?」
「はい。今からです」
俺が答えると、嵐さんが隣の空いている椅子へ目を向けた。
「よかったら、一緒にどうですか?」
「俺がですか?」
「うん。せっかくですし」
断る理由も特にない。店長の方を見ると、こちらのやり取りに気づいていたらしく、「どうぞどうぞ」と手を振られた。
「じゃあ、少しだけ」
水のボトルを持ったまま二人の席へ向かい、空いている椅子を引く。俺が腰を下ろすと、澁谷さんが少し姿勢を正した。
「お仕事中なのにすみません」
「休憩なんで大丈夫ですよ」
「ずっと立ってましたもんね」
「まあ仕事なので」
ボトルの蓋を開け、水を一口飲む。
こうして仕事をしている時に客席へ座るのは妙な感じがする。ほんの数分前まで自分が飲み物を運んでいたテーブルに、今度は客と同じ目線で座っているからだろう。
その感覚は二人も同じだったらしく、嵐さんが面白そうに笑う。
「なんか不思議ですね」
「何がですか?」
「野山さん、さっきまで店員さんだったのに、今はこうして私たちと同じ席に座って普通に話してるから。急に距離が近くなった感じがして」
「休憩終わったらまた店員ですよ」
「あはは、そっか」
そこからは、特に何か目的があるわけでもない話が続いた。
この前食べたケーキがおいしかったことや、桜小路さんがやたらとこの店を推していたこと。俺が大学へ通いながら週に何度くらいここへ入っているのかという話から、今度は二人の学校生活の話へ移る。
聞いている限り、高校生も大学生も、授業を受けて課題をこなすという点では大して変わらないらしい。
ただ、授業が終わればそのままスクールアイドルの練習があるという話になると、そこだけは俺の日常とは随分違っていた。
「毎日練習してるんですか?」
「毎日ってわけじゃないですけど、結構しますね」
「イベントとか近い時は増えるよね」
嵐さんがストローでグラスの中の氷を軽く回す。溶け始めた氷同士が触れ合い、からん、と小さな音がした。
「桜小路さんも?」
「もちろん」
澁谷さんは即答した。その声に迷いはない。
「きな子ちゃん、すごく頑張ってるんですよ」
「へえ」
「まだ始めたばっかりだから、練習についてくるだけでも大変だと思うんですけど。それでも最後までちゃんとやるんです」
「分からないところがあったら聞いてくれるようにもなったよね」
「うん。本人は迷惑かけてないかって、まだ気にしてるみたいだけど」
二人が顔を見合わせて笑う。話している時の表情を見る限り、桜小路さんが加入したことを本当に喜んでいるのだろう。
数日前、この店へ六人で来た時にも同じようなことを感じた。
桜小路さんだけが五人の後ろを歩いているような雰囲気はなかった。話に入る時も、笑う時も、誰かに声を掛ける時も自然だった。
六人のうちの一人として、そこにいた。
「そういえば」
嵐さんがストローから手を離した。
「きな子ちゃん、このお店には結構前から来てたんですよね?」
「そうですね」
「どれくらいですか?」
正確な回数を数えたことはない。
「こっちに来てそんなに経ってない頃からですよ。最初は道に迷ってたまたま入ってきただけですけど」
「あ、それ聞いたことある」
澁谷さんが小さく笑った。
「東京で迷子になって、たまたま見つけたカフェだったって」
「本人がそう言ってるなら多分そうですね」
「野山さんもその時いたんですか?」
「いましたよ」
あの日の桜小路さんを思い出す。
店に入ってきた時から落ち着かない様子で、席に座ってからもしばらく店内をきょろきょろと見回していた。東京へ出てきたばかりで、知らない道を歩き回った末に辿り着いたのだと聞いたのは、その少し後だった。今では店へ入ってくるなり迷いなくいつもの席へ向かい、注文まで大体決まっているのだから、随分と慣れたものだと思う。
「じゃあ……」
澁谷さんがカップの縁へ指を添えた。一度そこまで口にしてから、少しだけ言葉を探すように視線を落とす。
「きな子ちゃんがスクールアイドル始める前のことも、結構知ってるんですね」
「……まあ、それなりには?」
その頃はまだ、俺自身スクールアイドルというものをほとんど知らなかった。
桜小路さんが結ヶ丘へ入学して、そこでスクールアイドル部というものを知り、興味を持った。体験へ行ってみたものの、思っていた以上に大変だったらしい。
その度に、この店で顔を合わせれば話を聞いた。
俺から何か積極的に聞き出したわけではない。桜小路さんが話し始めたから聞いていただけだ。
「きな子ちゃんから聞いたんです」
澁谷さんが続ける。
「入る前、ここで野山さんに話聞いてもらってたって」
「そんな大げさなものじゃないですよ」
「でも、本人は結構助かったって言ってましたよ」
初耳だった。
俺がしていたことといえば、桜小路さんが話すことに相槌を打って、たまに思ったことを返すくらいだった気がする。
それで助かったと言われても、いまいち実感はない。
そんな俺の反応がおかしかったのか、嵐さんが笑った。
「野山さん、そういうこと本人には言われてないんですね?」
「ないですね」
「きな子ちゃんらしいかも」
「そうですか?」
「うん。そういうところ、ちょっと恥ずかしがりそうだし」
そう言われれば、分からなくもない。
澁谷さんがカフェラテを一口飲み、カップを置く。それでもすぐには次の言葉を口にせず、ほんの少しだけ間が空いた。
それまでの雑談とは違う沈黙だった。
「……あの頃のきな子ちゃんって、どんな感じでした?」
声の調子自体は変わらない。
ただ、さっきまでよりほんの少し慎重に言葉を選んでいるように聞こえた。
俺は手元のボトルへ視線を落とす。
「どんな感じ、ですか?」
「はい」
「具体的に何を話したか、っていうのは言いませんよ」
「それは、大丈夫です」
澁谷さんはすぐに首を横へ振った。
「そこを聞きたいわけじゃないので」
「きな子ちゃんも、野山さんに聞いてもらったことがあるって話してくれただけだしね」
嵐さんもそう続ける。二人の様子を見る限り、桜小路さんから聞いた話の中身を探ろうとしているわけではなく、あくまで当時の彼女が俺の目にどう映っていたのか、それを知りたいだけらしい。
「私たちも、勝手に内容まで聞こうとは思ってないですよ」
「……ならいいですけど」
二人とも桜小路さん本人から、俺に話を聞いてもらったことがあると聞いている。それなら、本人が話した内容には触れず、俺があの頃の彼女を見ていて感じたことを話すくらいなら問題はないだろう。
そう考えながら当時のことを思い返してみると、真っ先に浮かんできたのは、やはり桜小路さんの自信のなさだった。
「かなり悩んではいましたね」
「やっぱり……」
「体験に行った後なんかは特に」
それまで聞く側に回っていた嵐さんが、静かにこちらを見る。
俺は当時の桜小路さんを思い返しながら言葉を続けた。
「自分だけできないとか、皆さんについていけないとか。そういうことは気にしてたと思います」
実際、桜小路さんが落ち込んでいる時の理由は大体そこにあった。体力が続かないことも、振りを覚えられないことも、結局は周りができていることを自分だけできないという焦りに繋がっていたのだと思う。
俺にしてみれば、経験の差があるのだから当然にも思えたけれど、本人にとってはそう簡単に割り切れるものではなかったのだろう。
「それで、自分が入っていいのかって」
「入っていいのか……」
澁谷さんが確かめるように小さく繰り返す。
「そんな感じでしたよ」
「そうでしたか……」
返ってきた声は、さっきまでより少しだけ静かだった。澁谷さんは手元のカップへ視線を落とし、その隣では嵐さんも何かを考えるように口を閉ざしている。
そんな二人の様子を見ながら、俺も当時の桜小路さんの姿をもう一度思い返してみる。
悩んでいるところも、落ち込んでいるところも何度か見てきた。周りについていけないことを気にして、自分には無理なんじゃないかと自信をなくしていたことだって、一度や二度ではない。
けれど、今になって振り返ってみると、そんな中でも一つだけ、桜小路さんの口から聞いた覚えのない言葉があった。
「ただ」
二人の視線が、同時にこちらへ向く。
「行きたくないとは、一度も言ってなかったと思います」
その言葉が意外だったのか、澁谷さんが僅かに目を見開いた。
「行きたくない……?」
「練習が大変だとか、自分にはできないとか、そういうことは言ってましたけど」
俺自身、当時はそこまで意識していなかった。
けれど今になって思い返してみれば、桜小路さんは一度もスクールアイドルそのものから離れたいとは言わなかった気がする。
「もうやりたくないとか、皆さんと一緒にいたくないとか。そういう感じじゃなかったですよ」
「……うん」
澁谷さんは俺の言葉を確かめるように、ゆっくりと頷いた。
「私たちが嫌だったわけじゃない、ってことですよね」
「多分」
そう答えてから、すぐに続きを口にすることはせず、一度頭の中で言葉を選ぶ。あくまでこれは、あの頃の桜小路さんを俺が見ていて感じたことに過ぎない。本人が本当は何を考えていたのか、その全部を分かっているつもりはなかった。
「むしろ逆だったんじゃないですか」
「逆?」
「皆さんがちゃんとやってるって分かったから、自分がそこに入っていいのか気にしてたように見えました」
言い終えると、それまで続いていた会話がふっと途切れた。二人ともすぐには何も言わず、テーブルの上にはしばらく静かな時間が流れる。
そのせいか、普段なら気にも留めない店内の音が妙にはっきりと耳へ入ってきた。どこかの席から下げられた食器が触れ合う音に、厨房の方から聞こえてくる店長と他のスタッフの話し声。店そのものはいつもと変わらず動き続けているのに、このテーブルの周りだけが一瞬取り残されたように感じられた。
「……やっぱり、そうだったんだ」
やがて、澁谷さんが何かを確かめるようにぽつりと呟いた。
「やっぱり?」
聞き返した途端、澁谷さんは「あ」と小さく声を漏らす。どうやら今の言葉は俺に聞かせるつもりではなかったらしく、わずかに気まずそうな表情を浮かべて嵐さんと目を合わせると、それから少し困ったように笑った。
「最近、きな子ちゃんとも色々話すんです」
「練習のこととか?」
「それもあります。でも、それだけじゃなくて」
澁谷さんはカップの取っ手へ指を掛けたものの、持ち上げずにそのまま指先で軽く撫でる。
「学校のこととか、北海道にいた時のこととか。前よりずっといろんな話してくれるようになって」
そう話す澁谷さんの表情は柔らかく、声にも深刻さは感じられない。だからこそ、これから続くのも何か大きな問題についてではなく、普段一緒にいるからこそ気づいた、ちょっとしたことなのだろうと思った。
「でも、きな子ちゃんって、ちょっと頑張りすぎちゃうところがあるから」
そこで嵐さんが言葉を引き継ぐ。
「何かあっても、最初に『大丈夫っす』って言うんだよね」
「ああ」
それは何となく想像がついた。桜小路さんらしい、とまで言ってしまっていいのかは分からないけれど、これまで何度か話してきた彼女の姿を思い返してみても、少なくとも意外には感じない。
「もちろん、本当に大丈夫な時もあると思うんだけど」
「私たちに心配かけたくないのかなって思う時があって」
澁谷さんはそう言って、少しだけ眉尻を下げる。その表情に深刻そうな色はなく、何か問題が起きているというよりも、近くで見ているからこそ時々気になってしまう。その程度の小さな引っ掛かりなのだろう。
「もっと頼ってくれていいのになーって思うんだけどね」
嵐さんは困ったような、それでいてどこか仕方なさそうな笑みを浮かべながら、頬杖をついた。
「先輩だから遠慮されちゃってるのかな」
「……どうなんでしょうね」
俺には分からない。
桜小路さんと五人の関係を外から見た時間なんて、この前の数時間くらいしかない。
「でも、この前見てた限りじゃ、普通に仲良さそうでしたけど」
「うん」
嵐さんはすぐに頷いた。
「仲はいいと思うよ」
「私たちも、きな子ちゃんと一緒にいるの楽しいですし」
澁谷さんも笑う。
その返事を聞いて、少し安心した。
少なくとも二人が抱えているのは、「桜小路さんとうまくいっていない」という話ではないらしい。
「ただ……」
嵐さんが少し考えるように視線を上げた。
「仲良くなるのと、遠慮がなくなるのって、ちょっと違うのかもね」
「そうかも」
澁谷さんがその言葉を受け取るように頷いた。
俺から見れば、この前の六人にはほとんど距離なんて感じなかった。
桜小路さんは五人の会話の中へ普通に入っていたし、五人もそれを特別なこととして扱っていなかった。
だから、もう十分に馴染んでいるのだと思っていた。
それ自体は、きっと間違っていない。
ただ、毎日のように一緒に練習している二人には、俺には見えないものが見えているのだろう。
人との距離なんて、少し離れた場所から眺めているほど単純ではないのかもしれない。
もっとも、だからといって俺にできることがあるわけでもない。
「そのうち慣れるんじゃないですか」
何となくそう言うと、澁谷さんが少し笑った。
「そうだといいんですけど」
「きな子ちゃんのペースもあるしね」
嵐さんがグラスを持ち上げると、中で溶けかけた氷が小さく触れ合い、その間をストローがゆっくりと揺れた。それを境に会話が一度途切れ、ふと窓の外へ目を向ける。
入店した時よりも陽は随分と傾いていた。まだ夏の名残が強く、日中は暑さを感じる時期とはいえ、この時間になると建物から伸びる影も長くなり、店内へ差し込む光にもどこか夕方らしい色が混じり始めている。
俺はしばらく外の景色を眺めてから、ボトルに残っていた水をもう一口飲んだ。
スクールアイドルなんて、少し前までの俺なら日常の中でほとんど耳にすることのない言葉だった。それが最近では、練習が大変だったとか、今日はこんなことがあったとか、妙に身近なところで聞くようになっている。
どうしてそうなったのかと考えてみても、思い当たる原因は一人しかいなかった。
「そういえば」
ふと気になったことを口にする。
「桜小路さん以外の一年生って、入らなかったんですか?」
二人の動きがほとんど同時に止まった。
「……あー」
嵐さんが何とも言えない声を出す。
澁谷さんも苦笑した。
「それが、まだなんです」
「そうなんですか」
「きな子ちゃんが入ってくれたから、他の一年生も来てくれるかなってちょっと期待してたんですけど」
どうやら思ったようにはいっていないらしい。
「全然いないんですか?」
「全然っていうわけじゃないけど」
澁谷さんが言葉を選ぶ。
「興味持ってくれてる子はいると思うんです。でも、見学とか入部ってところまでは、なかなか」
「……ふーん?」
学校の部活動なんて、興味があれば見学へ行って、気に入れば入るものだと思っていた。
俺自身、高校時代にそれほど部活動へ熱心だったわけではないから、その辺りの感覚はかなり適当だけれど。
「一年生いっぱいいるのにねー」
嵐さんが少し肩を落とす。
「私たち、そんなに怖く見えるのかな」
「千砂都ちゃんは怖くないと思うけど」
「かのんちゃんも怖くないよ?」
「じゃあ何でだろう」
二人が顔を見合わせる。
冗談めかしたやり取りではあるものの、まったく気にしていないわけではなさそうだった。
俺は二人の会話を聞きながら、さっきまで話していた加入前の桜小路さんのことを思い返していた。
あの頃の彼女も、スクールアイドルをやりたくなかったわけでも、興味がなかったわけでもない。むしろ気になって仕方がなくて、やってみたいという気持ちがあったからこそ、簡単には答えを出せずに悩んでいたように思う。
「桜小路さんも、最初は似たような感じだったんじゃないですか」
俺がそう口にすると、二人の視線がこちらへ向いた。
「似たような?」
「興味がないから入らなかったわけじゃないでしょう」
少なくとも、俺の目にはそう見えていた。スクールアイドルの話をする時の桜小路さんは、いつもどこか気になって仕方がない様子だった。それでもすぐに「入る」と決められなかったのは、気持ちがなかったからではない。
「やりたいかどうかより、自分にできるかどうかを気にしてたんだと思いますよ」
「……自分にできるか」
「はい」
俺の言葉を確かめるように繰り返した澁谷さんの顔から、さっきまで浮かんでいた笑みが少しだけ薄れる。何か深刻なことを聞いたというよりも、今の言葉を自分の中でもう一度考え直しているような表情だった。
「皆さんは普通にやってるつもりでも、桜小路さんからしたら全部すごく見えてたみたいですし」
「全部……」
「ダンスも歌も、体力も」
俺自身、桜小路さんから似たような話を何度聞いたか分からない。練習へ行くたびに誰かのできることを見つけては、自分にはまだできないと落ち込む。そんな話を繰り返し聞いていたからこそ、俺にとってはそれほど特別なことでもなく、今さら深く考えるような話でもなかった。
「皆さんが嫌だったから悩んでたんじゃなくて」
そこで一度言葉を切り、どう言えば伝わるか少し考えてから続きを口にする。
「皆さんがちゃんとやってるのが分かったから、そこに自分が入っていいのか気にしてたんじゃないですかね」
言い終えても、二人からすぐに返事はなかった。澁谷さんは何かを考えるようにテーブルへ視線を落とし、嵐さんもそれまでこちらへ向けていた顔を窓の外へ向けている。
さっきまでのように次の言葉を探しているだけではなく、二人とも今の話を自分たちなりに受け止めようとしているように見えた。
けれど、俺としてはそこまで重要なことを言ったつもりはない。ただ、これまで桜小路さんから何度も話を聞いてきた中で、俺の目にはそう見えていたというだけだった。
「あの」
「はい?」
しばらく黙ったままだった澁谷さんが、俺の声に気づいて顔を上げる。
「何か変なこと言いました?」
「え?」
「急に二人とも黙ったので」
「あ、違います違います」
澁谷さんは慌てたように手を振って否定する。その横では、そんな彼女の反応がおかしかったのか、嵐さんが小さく笑っていた。
「ちょっと考えてただけ」
「何を?」
反射的に聞き返してから、別に俺がそこまで聞く必要もないかと思った。二人が考えていたことまでわざわざ話してもらう理由はない。けれど、当の二人は特に気にした様子もなく、少し間を置いてから澁谷さんがゆっくりと口を開いた。
「もしかしたら、私たちが思ってるより、入りづらく見えてるのかなって」
「Liella!が?」
「はい」
答える声に、まだ確信があるようには聞こえなかった。何か結論を出したというより、さっきまでの話を聞いているうちに、これまで考えたことのなかった一つの可能性に気づいた。そんな様子だった。
「きな子ちゃんも、私たちが嫌だったわけじゃないのに、すごく迷ってたんですよね」
「みたいですね」
「だったら、他にもそういう子がいるのかも」
その言葉を受けて、今度は嵐さんが静かに続きを口にする。
「興味はあるけど、自分には無理って最初から思っちゃってる子」
「……かもしれないね」
澁谷さんは小さく頷きながら、今度はすぐに次の言葉を続けなかった。さっきまで桜小路さん一人について話していたはずなのに、いつの間にか二人の意識は、その向こうにいるまだ見ぬ誰かへと向き始めているようだった。
二人の間で言葉が行き来するのを聞きながら、ここから先は俺が口を挟むような話でもないだろうと思った。
実際のところ、新入生がなぜ入ってこないのかなんて俺には分からない。結ヶ丘の中が普段どんな雰囲気なのかも知らなければ、スクールアイドル部が他の生徒からどう見られているのかも知らない。桜小路さんがそうだったからといって、他の一年生まで同じ理由で迷っているとは限らなかった。
「まあ、ただの想像ですけど」
俺が念のためそう付け加えると、澁谷さんは気にする必要はないと言うように首を横へ振った。
「ううん。でも、考えてみてもいいと思います」
「うん。きな子ちゃんの時のこと、もうちょっと思い出してみよっか」
「そうだね」
そう言葉を交わす二人の声は、先ほどまでより少しだけ明るくなっていた。何か答えが見つかったわけでも、新入生が入ってこない理由が分かったわけでもない。むしろ、これまで考えていなかった可能性が一つ増えただけだ。
それでも、二人の表情を見る限り、それで十分だったらしい。すぐに答えを出すのではなく、一度自分たちでも考えてみる。そのきっかけくらいにはなったのだろう。
そんな二人を眺めていたところで、不意にカウンターの方から店長の声が飛んできた。
「野山くーん」
呼ばれて振り返ると、店長がこちらを見ながら軽く手を挙げていた。
「そろそろお願いしていい?」
言われて壁の時計へ目を向ける。話しているうちに、休憩へ入ってから思っていた以上に時間が経っていたらしい。
「はい。今行きます」
返事をして椅子から立ち上がり、空になったボトルを手に取る。すると、同じように時計を確認した澁谷さんが、申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、すみません。休憩なのに、ずっと話しちゃって」
「別にいいですよ」
「でも」
「俺も普通に話してましたし」
それに、休憩時間そのものはきちんと取れている。座って水を飲みながら話していただけなのだから、俺としては特に気にするようなことでもなかった。
椅子を元の位置へ戻し、このまま仕事へ戻ろうとしたところで、もう一度澁谷さんから声を掛けられる。
「野山さん」
「はい?」
「ありがとうございました」
予想していなかった言葉に、椅子へ添えていた手が止まった。
「何がですか?」
「色々聞けたので」
「俺、別に何もしてないですよ」
本当に、聞かれたことに対して自分が思っていたことを話しただけだ。それ以上のことをした覚えはなく、礼を言われるほどのことなのかもよく分からない。
けれど、澁谷さんが一瞬だけ隣へ視線を向けると、嵐さんも分かっていると言いたげに小さく笑って頷いた。
「うん。それでいいんです」
「……そうですか」
やっぱり意味はよく分からなかったものの、二人がそれで納得しているのなら、わざわざ理由まで聞く必要もないだろう。
「じゃあ、ごゆっくり」
「はい」
「お仕事頑張ってね」
「どうも」
二人に軽く頭を下げて席を離れ、そのままスタッフ用のスペースへ戻る。置いていたエプロンを取り上げ、腰へ回した紐を後ろで結び直してから再び客席へ出ると、ほんの少し前まで同じテーブルに座って話していたせいか、見慣れているはずの店内が一瞬だけ違って見えた。
けれど、カウンターへ戻って仕事用のスマートフォンを手に取れば、意識もすぐに切り替わる。画面には次に運ぶ料理とテーブル番号が表示されていて、俺はそれを確認しながら厨房へ目を向けた。
「休めた?」
「一応」
「話し込んでたね」
「雑談してただけですよ」
「そう?」
店長はそれ以上追及することもなく厨房へ顔を向け、俺も手元のスマートフォンへ視線を戻す。画面に表示されているのは、三番テーブルへ運ぶ料理が一つ。ちょうど出来上がった皿をトレーへ載せ、そのまま客席へ向かった。
途中、さっきまで自分も座っていた席が何となく視界に入る。澁谷さんと嵐さんはまだ帰っておらず、二人ともテーブルへ少し身を乗り出しながら何かを話していた。
ここからでは声までは聞こえない。さっきまでの続きを話しているのか、それともとっくに別の話題へ移っているのかも分からなかったけれど、どちらにせよ俺がそこへ混ざるような話ではないだろう。あとは二人が自分たちで考えることだ。
料理を運び終え、近くの席から空いた皿を一つ下げてカウンターへ戻る。それから少し経った頃、今度は二人の席の方から小さな笑い声が聞こえてきた。
何となくそちらへ目を向ければ、さっきまで考え込んでいたのが嘘のように、澁谷さんと嵐さんはいつもの調子で楽しそうに笑っている。その様子を見て、別に心配するようなことでもなかったかと思ったところで、店長からまた声が掛かった。
「野山くん、これ四番お願い」
「はい」
差し出された皿を受け取る。もう一度だけ二人の席を横目に見てから、俺はトレーを持ち直し、そのまま次のテーブルへ料理を運んだ。