ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
平日の夕方、四時半を少し回った頃。
昼時の賑わいがすっかり引いたCafé Arbreは、夕食前の静かな時間を迎えていた。
テーブル席には二組ほど客が残っているものの、どちらも長居をしているらしく、追加の注文が入る気配はない。俺はカウンターの内側で洗い終えたグラスを拭きながら、空いた棚へ一つずつ戻していた。
この時間帯はいつもこんなものだ。
大学の講義が終わってからシフトに入ることが多い俺にとっては見慣れた光景で、忙しい昼と夕方以降の間にぽっかりと生まれる、小さな空白みたいな時間だった。
店長は窓際のテーブル席で常連客らしい女性二人と話している。注文を取るというより、ほとんど世間話をしているように見える辺り、向こうも向こうで暇を持て余しているらしい。
今日もこのまましばらく静かだろう。
そんなことを考えながら、次のグラスへ手を伸ばしたところで、入口のベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的に顔を上げる。
「こんにちはっす、野山さん」
聞き慣れた声と一緒に、桜小路さんが店内へ入ってきた。
学校帰りらしく制服姿で、肩にはいつもの鞄を下げている。ただ、普段よりも少しだけ歩き方が重い。額の辺りには薄く汗が滲んでいて、頬も少し赤かった。
「今日は練習帰りですか?」
「はいっす。今日も頑張ったっす……」
「お疲れ様です。どうぞ。いつもの席、空いてますよ」
そう言って、俺は桜小路さんが一人で来た時によく座る席へ軽く手を向ける。
桜小路さんは一度そちらへ目をやると、もう店内を見回すこともなく、そのままカウンターへ向かってきた。
「ありがとうございますっす」
促した先の椅子を引き、慣れた様子で腰を下ろす。
一人で来る時、桜小路さんはほとんど決まってこの席を選ぶ。
カウンターのほぼ中央。俺が飲み物を作ったり、食器を片付けたりする場所から真正面に近い位置で、本人が特にそう決めたわけではないものの、何度も一人で来るうちに自然と定位置になったらしい。
今ではわざわざ案内するまでもないくらい、彼女にとってここが「いつもの席」になっていた。
「アイスミルクティーでいいですか?」
俺が尋ねると、鞄を隣の椅子へ置いていた桜小路さんの手が止まった。
「……まだ何も言ってないっす」
「違いました?」
「アイスミルクティーっす」
「じゃあ合ってるじゃないですか」
「むぅ」
ふっくら可愛らしい唇を尖らせながらも、どこか楽しそうだった。
俺は冷蔵庫から紅茶を取り出し、氷を入れたグラスへ注いでいく。そこへミルクを加え、軽く混ぜる。
作業をしている間も、向こうから視線を感じた。
桜小路さんはこの席に座ると、俺が飲み物を作っている様子をよく見ている。
最初は何か珍しいのかとも思ったが、考えてみればカウンター席というのは基本的にこちらを向いている。正面には俺と、棚に並んだカップやグラスくらいしかないのだから、自然と目に入るだけなのだろう。
「どうぞ」
「ありがとうっす」
桜小路さんはアイスミルクティーを受け取ると、すぐにストローへ口をつけた。
一口飲んで、ふっと肩の力が抜ける。
「ん〜……やっぱりこれっす……」
「そんなに疲れたんですか」
「今日はいつもよりいっぱい動いたっすから」
どうやらLiella!の練習は聞いていた話のとおり楽ではないらしい。
加入する前から何度か話を聞いていたが、経験の差がすぐに埋まるわけでもなく、今でもついていくので精いっぱいになることは多いという。
それでも、以前ここで話していた頃とは少し様子が違っていた。
その頃の桜小路さんは、できないことを一つ見つける度に、自分には向いていないんじゃないか、ここにいていいのだろうかと不安そうな顔をしていた。
今も大変なのは同じらしい。
けれど、今日のように「疲れた」と零すことはあっても、その声音まで沈んでいることは少なくなった。
「最近、前より楽しそうですね」
「え?」
ストローを咥えかけていた桜小路さんが、目を丸くする。
「練習の話です」
「ああ……」
しばらく考えるように視線を落としたあと、グラスの中で氷が小さく鳴った。
「……そうかもしれないっす」
それだけ言うと、桜小路さんは少し照れくさそうに笑った。
無理に理由を聞く必要もないだろう。
俺は手元へ視線を戻し、まだ片付け終わっていなかったグラスへ手を伸ばした。
その後も桜小路さんはカウンター越しに何気ない話を続けていた。
今日の授業で先生が妙な言い間違いをして教室が少しざわついたとか、帰り道で見かけた犬が北海道の実家で飼っていた犬に少し似ていたとか、東京に来た頃より電車の乗り換えに慣れてきたとか。
どれも別に大した話ではない。
俺もグラスを拭いたり、棚を整理したりしながら、時折相槌を返す。
途中で一度だけ別の客から追加の注文が入り、その対応のために会話が途切れたが、戻ってくると桜小路さんは何事もなかったように話の続きを始めた。
そんなやり取りが続いた頃だった。
「……野山さん」
「はい?」
振り返ると、桜小路さんは少し申し訳なさそうに眉を下げていた。
「仕事中なのに、ずっと話しかけちゃってごめんなさいっす」
「別に大丈夫ですよ」
「でも……」
そこで一度、桜小路さんは周囲を見回す。
「店長、怒ってないっすか?」
「店長?」
言われて、俺もテーブル席へ目を向けた。
「大丈夫ですよ。ほら見て」
「え?」
視線の先では、店長がさっきと同じ女性客二人を相手に、相変わらず楽しそうに話している。
身振り手振りまで交えて何かを説明していたかと思えば、そのうちの一人が笑い、つられて店長も笑った。
どう見ても機嫌が悪いようには見えない。
「あんな感じで楽しそうですし、問題ないですよ」
「そうっすかね……」
桜小路さんがまだ不安そうに店長を見ている。
すると、ちょうどこちらに気づいたらしい店長と目が合った。
一瞬だけ目を細めたかと思うと、何故か口元に妙な笑みを浮かべる。
さらに、客から見えない位置でこちらに向かって親指まで立ててきた。
「……」
「……」
桜小路さんと二人、じぃっと黙ってその様子を見る。
「……あれ、本当に大丈夫って意味っすか?」
「たぶん」
「なんか笑ってるっすけど」
「まぁ、変なこと考えてそうなんで気にしなくていいですよ」
少なくとも怒ってはいない。
店長はこちらの反応を見て満足したのか、再び何事もなかったように客との会話へ戻っていった。
俺も特に気にせず、棚へカップを戻していく。
「むしろありがたいですよ」
「え?」
「平日のこの時間帯って、手持ち無沙汰になることも多いので」
今だって、やることが全くないわけではないが、急がなければならない仕事はほとんどない。
「忙しかったら、そもそもこんなに話してないです」
「そうなんすか?」
「はい」
桜小路さんは少しだけ目を瞬かせる。
それから視線をアイスミルクティーへ落とし、ストローを指先で弄った。
「……じゃあ、もうちょっと話しててもいいっすか?」
「えぇ、勿論」
その瞬間、桜小路さんの顔がわずかに明るくなった。
俺には、それがそんなに嬉しいことなのかよく分からない。
けれど本人が話したいのなら、こちらとしても暇が潰れる。
再び作業へ戻ろうとしたところで、桜小路さんが「あの」と声を上げた。
「野山さんって、バイトじゃない時は何してるんすか?」
「……急ですね」
「さっき、もっと話していいって言ったっす」
「うーん……バイト以外、ですか」
まさかその直後に俺の生活について聞かれるとは思わなかった。
少し考える。
「大学行ってます」
「それは知ってるっす」
「まぁ、そうですよね」
どうやら、聞きたかったのはそういうことではないらしい。桜小路さんは少し考えるように視線を上へ向けた。そこまでして聞きたいことがあるのかと思って待っていると、やがて何か思いついたらしく、こちらへ顔を戻す。
「大学もバイトもない時っす」
「ああ、休みの日ですか」
むしろそれしかないだろう。
確かに、桜小路さんとはこれまでそれなりに話をしてきたけれど、俺自身が普段何をして過ごしているのかなんて、ほとんど話題になったことがない。大学へ通っていることと、この店で働いていること。それ以外で彼女が知っている俺のことといえば、少し前に平安名さんとの一件で知られた読書くらいだろう。
「勉強したり、本読んだりですね。あとは掃除とか洗濯とか、溜まってる家のことやったり」
「家のこと……あ、一人暮らしっすもんね」
納得したように頷く桜小路さんを見ながら、俺も自分の休日を頭の中で振り返ってみる。食事も自分で用意するし、冷蔵庫の中身がなくなれば買い物にも行く。大学やバイトがなければ時間に余裕はあるものの、だからといって毎回どこかへ出掛けるわけでもない。
改めて考えてみても、人に話して聞かせるほど面白い過ごし方ではなかった。
「まあ、大体そんな感じですよ」
それで答えとしては十分だろうと思い、手元へ視線を戻しかける。
「他には何するんすか?」
ところが、話は終わらなかった。
思わずもう一度顔を上げると、桜小路さんはアイスミルクティーのグラスを両手で包んだまま、まだ答えを待っている。単なる世間話にしては、随分と俺の休日に興味があるらしい。
「……まだあるんですか」
「だって、気になるっす」
あっさり返されて、今度はこちらが言葉に詰まった。
そんなに知りたがるようなことでもないと思うのだけれど、桜小路さんの表情を見る限り、適当に答えて話を終わらせることはできそうになかった。
それにしても、今日は随分と質問が多い。
俺は新しい布巾を取り出しながら、他に何かあっただろうかと休日の過ごし方を思い返す。わざわざ人に話すような趣味は読書くらいだし、予定がなければ家で過ごすことも多い。それでも何か一つくらいはあるだろうと記憶を辿っていると、ふと思い当たるものがあった。
「……あとは、散歩とか」
「散歩?」
予想していなかった答えだったのか、桜小路さんが不思議そうに目を瞬かせる。そんなに意外なことを言った覚えはなく、布巾を畳みながら振り向くと、今度は確かめるように俺の顔をじっと見てきた。
「野山さん、散歩するんすね」
「しますよ。天気が良ければですけど」
「へえ……」
何やら妙なところに食いつかれた。
買い物のついでに少し遠回りしたり、特に目的もなく近所を歩いたりする程度なので、趣味と言えるほど大したものでもない。それなのに桜小路さんは妙に納得したような顔をして、しばらく俺を眺めたあと、ふっと頬を緩めた。
「なんか、野山さんらしいっす」
「どういう意味ですか、それ」
思わず手を止めて聞き返す。読書ならまだ分かるけれど、散歩のどこから俺らしさを感じ取ったのかはさっぱり分からない。
けれど、当の本人も上手く説明できるわけではなかったらしい。少し考えるように首を傾げた末、困ったように笑った。
「うーん、なんとなくっす」
「一番分からない答えですね」
「あはは……でも、そんな感じがするんすよ」
結局、理由らしい理由は聞けなかった。
それでも桜小路さんは自分の中では妙に納得しているらしく、楽しそうにアイスミルクティーのストローへ口をつける。俺としては散歩をするだけで何が「俺らしい」のか最後まで分からなかったけれど、これ以上聞いたところで、たぶん似たような答えしか返ってこないだろう。
俺がそう返すと、桜小路さんは楽しそうに笑った。どうやら本人の中では「散歩をする俺」というのが妙にしっくりきたらしく、さっきまで以上に興味を持った様子で身を乗り出してくる。
「ちなみに、どこ歩くんすか?」
「その時によりますよ。行き先を決めて出ることもあれば、特に決めないで適当に歩くこともありますし」
「へえ……一人で?」
また少し意外そうな顔をされて、今度は何が引っ掛かったのかと桜小路さんを見る。
「普通、散歩って一人でもするでしょう」
「彼女さんとか?わんちゃんとか?」
「いませんよ。ちゃんと1人ぼっちです」
なるほど、納得はしたらしい。いや納得されるのもやや複雑な気持ちであるが。そんな気持ちを知ってか知らずか、桜小路さんはアイスミルクティーのストローを指先で弄りながら、何かを想像するように俺の顔を眺めている。
俺自身、散歩に特別な意味を持たせているわけではない。家にいてもいまいち集中できない時や、窓の外を見て天気が良ければ何となく出掛けてみる。そのまま近所を歩いて帰ってくることもあれば、気づけば随分と遠くまで来ていることもあった。
「まあ、歩くだけじゃなくて、途中で店に寄ったりもしますけどね」
「お店っすか?」
「喫茶店とか、本屋とか。気になるところがあれば適当に」
そう付け加えた途端、それまで俺の話をじっと聞いていた桜小路さんの表情が変わった。何かを思い出したらしく、「あっ」と小さく声を上げ、そのまま少し前のめりになる。
「そういえば野山さん、この前すみれ先輩と会った時も、図書館行ったんすよね?」
「行きましたね。本当に偶然でしたけど」
「その時、いっぱい本の話したって言ってたっす」
どうやら数日前、六人でこの店へ来た時の話を思い出したらしい。平安名さんとは図書館で偶然会い、そのまま本の話で盛り上がった。昼食を挟んでまた図書館へ戻ったことまで話した覚えがある。
「まあ、平安名さんも結構読む人だったので。話が合っただけですよ。たまたまです、たまたま」
「……そうなんすよね」
返事とは裏腹に、桜小路さんの声はどこかすっきりしない。アイスミルクティーのグラスへ視線を落とすと、表面を伝ってきた水滴を人差し指でなぞりながら、何かを考えるように黙り込んだ。
「どうしました?」
「いや……」
一度こちらを見たものの、すぐに視線がグラスへ戻る。
「すみれ先輩、野山さんと一日会っただけなのに、きな子が知らないこといっぱい知ってたんだなって」
「大したことは話してないですよ。ほとんど本の話でしたし」
「……そうなんすか」
「少なくとも、平安名さんより桜小路さんの方が、俺のことは色々知ってると思いますけどね」
そう返すと、桜小路さんは少し照れくさそうにストローを指先でくるりと回した。
それで納得したのかと思ったのも束の間、眉をひそませ、じっとこちらを見つめてくる。
何を気にしているのか、いまいち分からない。平安名さんとはたまたま図書館で会ったから本の話になっただけで、桜小路さんとはこれまで別の話をすることが多かった。それ以上でもそれ以下でもないのだけれど、本人はそう簡単には納得できないらしい。
「桜小路さんとは、本以外の話を結構してるでしょう」
「……うん」
「それじゃあ、ダメですか?」
「ダメっす、よくないっす」
今度は間を置かずに返ってきた。
思っていたより強い否定に手を止めて顔を上げると、桜小路さん自身も少し言いすぎたと思ったのか、気まずそうに唇を結ぶ。それでも訂正するつもりはないらしく、やがて意を決したようにこちらを見た。
「だって、きな子の話ばっかりじゃないっすか」
「……俺は自分のこと話すの得意じゃないんですよ」
「もしかしたら、そうかもしれないっす。学校のこととか、スクールアイドルのこととか、きな子が悩んでたこととか……野山さん、いつも聞いてくれてたし」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
桜小路さんと話すようになったきっかけからして、東京へ来たばかりの彼女がこの店へ迷い込んできたことだった。その後も結ヶ丘のことやスクールアイドルのことを聞く機会が多く、俺自身について話す必要なんてほとんどなかったし、話そうとも思わなかった。
俺にとっては、それで特に困ることもない。けれど桜小路さんは違うらしく、グラスを両手で包んだまま少しだけ眉を寄せている。
「だから……だからこそ、なんかずるいっす」
「そんなにですか?」
「はい。野山さんはきな子のこと色々知ってるのに、きな子は野山さんのこと、あんまり知らない。それが嫌なんす」
思いがけないことを言われて、返す言葉がすぐには出てこなかった。
別に意図してそうなったわけではない。聞かれなかったから話さなかっただけだし、俺自身、自分のことを積極的に話す方でもない。それでも桜小路さんにしてみれば、その一方通行のような状態が少し気になるらしい。
「……それで今日は、さっきから質問ばっかりなんですか?」
「あ……」
ようやく腑に落ちて尋ねると、桜小路さんはそこで初めて自分が随分と質問を重ねていたことに気づいたらしい。僅かに目を見開いたあと、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「そ、そういうつもりだったわけじゃ……」
「違うんですか?」
「違わないっすけど……」
どちらなのだろう。
思わず苦笑すると、それが少し不満だったのか、桜小路さんが頬を膨らませる。けれど、その表情も長くは続かなかった。迷うように視線を泳がせてから、やがて小さく息を吐く。
「……もっと野山さんのこと、知りたいんす」
「え」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、一瞬、返事を忘れた。
桜小路さん自身も、口にしてからその言葉が思っていた以上に真っ直ぐだったことに気づいたらしい。目を僅かに見開き、見る間に頬へ薄く赤みが差していく。
「……本のこととか、休みの日のこととか! そういうのっす!」
慌てて付け足された言葉に、俺は一度瞬きをする。
「俺のことって言われても、そんなに面白い話ないですよ」
「それはきな子が決めるっす」
「そういうものですか?」
「そういうものっす」
今度は妙にきっぱりと言い切られた。
さっきまで恥ずかしそうにしていたくせに、こういうところだけは頑固らしい。桜小路さんはまだ少し赤みの残った顔でアイスミルクティーを一口飲むと、誤魔化すようにストローから口を離した。
「だから……何でもいいから、もっと野山さんのこと教えてほしいっす」
結局、質問攻めはまだ終わらないらしい。
どうしてそこまで俺のことを知りたいのかはよく分からなかったけれど、真正面からそんなことを言われてしまえば、適当に話を切り上げるのも少し違う気がした。
「分かりました」
そこまで言われてしまえば、これ以上渋る理由もない。
何から話したものかと少し考えた末、まずはさっきから話題に出ていた本のことから話すことにした。普段読むのは小説が多いけれど、特定のジャンルばかりを選んでいるわけではない。ミステリーも歴史ものも読むし、気になれば旅行記やエッセイを手に取ることもある。大学の勉強に必要な本を探しに行ったはずが、まったく関係のない棚で気になる一冊を見つけ、結局そちらまで買って帰ることも珍しくなかった。
「野山さん、思ってたより何でも読むんすね」
「面白そうなら、あんまり気にしないですね。読んでみないと分からないですし」
「じゃあ……」
桜小路さんはそこで一度言葉を止めると、何かを思いついたように表情を明るくした。
「きな子でも読めそうな、おすすめってあるっすか?」
「おすすめですか」
以前にも似た約束をしたことを思い出す。あの時は今度教えるという話で終わったけれど、どうやら桜小路さんの中ではしっかり覚えていたらしい。
「桜小路さんが何を読みたいかによりますね。好きなジャンルとかないんですか?」
「きな子っすか?」
自分を指差したあと、桜小路さんは眉間へ僅かに皺を寄せ、本気で考え始める。しかし、しばらく待ってみてもこれといった答えは浮かばなかったらしく、やがて困ったように首を傾げた。
「……何がいいんすかね」
「そこから俺が決めるんですか?」
「あ、でも読みやすいやつがいいっす。あんまり難しいのだと、途中で寝ちゃいそうで……」
「なるほど」
思わず苦笑しながらも、頭の中では自然とこれまで読んできた本を思い返していた。
読みやすいもの、といっても候補はいくらでもある。ただ文章が平易ならいいというわけでもないだろうし、せっかく薦めるのなら最後まで楽しんで読めそうなものがいい。普段あまり本を読まない桜小路さんなら、最初から分厚い長編を渡すより、話の展開が早くて先を読みたくなるものの方が入りやすそうだった。
それに、彼女の性格を考えれば、あまり重苦しい話よりも読後感の明るいものの方が合うかもしれない。
「……あれと、あれもありかな」
思いついたタイトルを頭の中で一冊ずつ並べ、これは少し長い、こっちは予備知識がないと分かりにくいと候補から外していく。
気づけば、ただ一冊おすすめを聞かれただけにしては随分と真剣に考え込んでいた。
「…………」
ふと視線を感じて顔を上げる。
桜小路さんは急かすこともなく、アイスミルクティーのグラスに手を添えたまま、どこか不思議そうに俺の顔をじっと見ていた。
「何ですか」
「野山さん、こういう話すると結構喋るんすね」
思ってもいなかったことを言われ、何のことだろうと桜小路さんを見る。
「そうですか?」
「はいっす。さっきから、いつもよりいっぱい喋ってるっす」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
普段から自分のことを積極的に話す方ではないし、桜小路さんと話す時も、どちらかといえば彼女の話を聞いていることの方が多かった。ただ、別に黙っていたいわけでもない。好きなものについてあれこれ聞かれれば、自然と口数も増えるらしい。
「じゃあ、今度何冊か選んでおきますよ。桜小路さんでも読みやすそうなやつ」
「本当っすか?」
ぱっと表情が明るくなる。その反応を見れば、わざわざ真剣に考えた甲斐もあったというものだ。
「別に難しいことじゃないですし。何冊か候補出すくらいなら」
「楽しみにしてるっす!」
嬉しそうに答えた桜小路さんは、そのままアイスミルクティーのストローへ口をつける。さっきまで練習で疲れたと言っていた割には、店へ来た時より随分と元気そうに見えた。
そんな彼女を眺めているうち、ふと壁の時計が目に入った。
時刻はもう五時を少し回っている。ここまで来るにも多少は歩くだろうし、明日も普通に学校があるはずだ。そう考えると、今さらながら一つ疑問が浮かんだ。
「そういえば、練習で疲れてたなら、今日はそのまま帰ってもよかったんじゃないですか」
「え?」
「ここまで来るのも少し歩くでしょう。明日も学校でしょうし」
別に来てほしくなかったという意味ではない。ただ、わざわざ疲れている日に寄り道をするくらいなら、早く帰って休んだ方がいいように思えただけだった。
ところが、桜小路さんはすぐには答えなかった。
「まあ……そうなんすけど、ね」
それまで楽しそうに話していた声が、急に歯切れの悪いものへ変わる。アイスミルクティーのグラスへ視線を落とすと、ストローを指先でゆっくり回し始めた。中で氷同士が触れ合い、からん、と小さな音を立てる。
何か買いたいものでもあって、この辺りまで来る用事があったのだろうか。
「どこか寄る予定でもあったんですか?」
「全然、そういうんじゃないっす」
「じゃあ、何か用事が?」
「用事っていうほどでも……」
そこまで言って、また黙り込む。
妙に言いづらそうにする理由が分からず待っていると、桜小路さんはグラスの中を眺めたあと、意を決したように小さく息を吸った。
「……野山さん、今日いるかなって思ったっすから」
一瞬、返す言葉に迷った。
俺が今日いるかもしれないと思って、疲れているのにわざわざここまで来た。そこまで言われれば、さすがにどういう意味なのかまったく分からないほど鈍くはない。
「俺ですか?」
「……はいっす」
桜小路さんは小さく頷いたきり、こちらを見ようとしない。アイスミルクティーのグラスへ視線を落としたまま、指先でストローを弄っている。よく見れば頬にも僅かに赤みが差していた。
どうやら、口にしてから恥ずかしくなったらしい。
俺に会うことが目的だったのかと、そのまま聞いてしまうのは簡単だった。けれど、この様子でわざわざ言葉にさせるのも意地が悪い気がする。
「……そうですか」
それだけ返すと、桜小路さんが恐る恐るこちらを見上げた。
「今日、俺いてよかったですね」
「……そうっすね」
少しだけとぼけて言ってみると、桜小路さんは何か言いたそうに唇を動かした。それでも結局何も言わず、誤魔化すようにストローへ口をつける。
その耳がさっきより少し赤く見えたのは、たぶん気のせいではない。
俺もそれ以上は触れないことにした。
——と、そこでタイミングがいいのか悪いのか、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的に声を掛け、新しく入ってきた客へ意識を切り替える。ちょうど会話を切り上げるにはいい頃合いだったのかもしれない。桜小路さんがどういうつもりで俺がいるか気にしていたのか、なんとなく察しはついている。それでも、あれだけ恥ずかしそうにしていた本人を相手に、わざわざ確かめる必要もないだろう。
注文を受けてカウンターへ戻り、コーヒーを用意してテーブルまで運ぶ。そうして接客をしているうちに、頭に残っていたさっきのやり取りも次第に意識の端へ追いやられていった。
数分してカウンターへ戻ると、桜小路さんもすっかりいつもの様子に戻っていた。さっきまで所在なさそうに弄っていたストローからは手を離し、何事もなかったような顔でアイスミルクティーを飲んでいる。
ただ、俺が戻ってきたことに気づいた瞬間だけはこちらへちらりと目を向け、視線が重なると、どこか誤魔化すように小さく笑った。
俺も特に何も言わず、使った器具を流しへ運んで洗い始める。布巾で一つずつ水気を拭き取りながら元の場所へ戻していると、ほどなくしてカウンター越しに妙な視線を感じた。
またこちらを見ているのかと思って視線を彼女へ。
けれど、桜小路さんが見ていたのは俺ではなかった。
グラスへ手を添えたまま、カウンターから少し離れた店内の一角へじっと視線を向けている。
その先に何があるのか気になり、俺もつられるように彼女の視線を追った。
桜小路さんの視線を辿った先、店の片隅には、いつものようにピアノが置かれていた。
普段ならもう見慣れてしまって、仕事中にわざわざ意識することも少ない。けれど桜小路さんは何かを思い出したようにそれを眺めたまま、やがてぽつりと口を開いた。
「そういえば、この前……恋先輩、あのピアノ気にしてたっすよね」
「ああ、そうでしたね。弾いてみたいなら店長に聞きますよって話した時ですか」
「そうっす。あの時は弾かなかったっすけど、恋先輩、ピアノ弾けるんすよ」
六人が初めて揃ってこの店へ来た日のことを思い出す。葉月さんが店内のピアノへ興味を示して、今でも時々弾いているという話をしていた。あの時はそこまで気に留めなかったけれど、どうやら昔から続けているらしい。
「小さい頃からやってるって言ってたっす。今でもたまに弾くみたいで」
「ずっと続けてるんですね。それはすごいな」
素直にそう返しながら、洗い終えたスプーンを布巾で拭いていく。
——長く続けることがどれだけ大変なのかは、俺にも分かる。
だからこそ、その言葉だけは何の含みもなく口から出た。
「…………」
返事がないことに気づいて顔を向けると、桜小路さんはまだピアノを見ていた。
さっきまで本や休日の話をしていた時とは少し違う。懐かしむようにも、何かを確かめようとしているようにも見える横顔で、店の片隅に置かれた黒いピアノをじっと見つめている。
やがて、その視線を残したまま桜小路さんが口を開いた。
「野山さんは……」
名前を呼んだところで、不自然に言葉が途切れる。
手元のスプーンを置いて待っていると、ようやく桜小路さんがこちらを向いた。
「俺がどうかしました?」
「……この前、野山さんは弾けないって言ってたっすよね」
「ああ……言いましたね」
「きな子、覚えてるっす」
「よく覚えてますね」
軽く返しながら、俺は次のスプーンへ手を伸ばす。
もちろん、自分が何と答えたのかは覚えている。
あの時は葉月さんから何気なく尋ねられて、俺も何気ない顔で「弾けません」と答えた。わざわざ昔のことを話す必要もないと思ったし、今さら自分から掘り返したい話でもなかった。それだけのつもりだった。
けれど、桜小路さんが改めてその話を持ち出してくると、さすがに少し身構える。
——もしかして、また聞かれるのだろうか。
本当は弾けるのか、と。
そう思っていたのに、桜小路さんはすぐには続きを口にしなかった。
ピアノへ一度視線を戻し、それから俺の方を見る。その間にも何かを迷っているのが分かる。聞きたいことはあるのに、どこまで踏み込んでいいのか決めかねている——そんなふうにも見えた。
やがて桜小路さんは、ほんの少しだけ躊躇ってから口を開いた。
「……野山さんって、音楽は好きっすか?」
予想していた質問とは違った。
本当にピアノが弾けないのかでも、昔やっていたことがあるのかでもない。
もっと曖昧で、それでいて、答え方によってはずっと深いところまで踏み込んでくるような問いだった。
「音楽、ですか?」
「はいっす。聴く方でも、何でも」
予想していなかった聞き方に、手にしていたスプーンを拭く動きが自然と止まった。
音楽が好きか。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。いっそピアノが弾けるのかと真っ直ぐ聞かれた方が、まだ答えは簡単だったかもしれない。弾けるか、弾けないか。それなら事実だけを答えれば済む。
けれど、「好きか」と聞かれると、どうしてかすぐには頷けなかった。
「……どうでしょうね」
「え?」
曖昧な返事が意外だったのか、桜小路さんが僅かに首を傾げる。
自分でも変な答えだとは思う。それでも少し考えてから出てきた言葉は、やはり素直に「好きです」とはならなかった。
「昔は……好きだったと思いますよ」
「昔は……?」
桜小路さんが、その部分だけを確かめるように小さく繰り返す。
俺は答えず、止まっていた手元へ視線を落とした。
——好きだった。
少なくとも、そう呼んで間違いのない時期は確かにあった。
学校から帰れば当たり前のようにピアノの前へ座り、休日なら気づけば何時間も鍵盤に触れていた。昨日まで上手く弾けなかった曲が少しずつ形になっていくのが楽しくて、頭の中で思い描いた通りの音が出れば、それだけで嬉しかった。逆に納得できない音が返ってくれば、同じところを何度でも繰り返した。それを苦痛だと思ったことさえ、最初の頃はほとんどなかった気がする。
あの時間を好きと呼ばないのなら、何を好きと呼べばいいのか分からない。
ただ、いつからだっただろう。
弾きたいから弾いていたはずのピアノに、結果を求められるようになったのは。好きだったはずのものに、期待や評価や、次も応えなければならないという気持ちが少しずつ重なっていったのは。
そこまで考えたところで、俺はそれ以上記憶を辿るのをやめた。
今ここで話すようなことでもない。
「…………」
顔を上げると、桜小路さんは黙ってこちらを見ていた。
いつものようにすぐ質問を重ねてくることはない。俺が途中で話を切ったことには気づいているはずなのに、理由を尋ねるでもなく、ただ静かに待っている。
その視線が妙に落ち着かなくて、俺は再び手元へ目を落とし、止まっていたスプーンを拭き始めた。
「まあ、今でも音楽自体は聴きますよ」
これ以上重くならないように、少しだけ声の調子を戻す。
「家でも聴くんすか?」
「聴きますね。本読んでる時とか、家のことやってる時とか。何も流してない日の方が多いですけど」
「……そっすか」
桜小路さんは小さく頷いた。
それだけだった。
さっきまでなら「どんな曲聴くんすか?」と続けてきそうなものなのに、今度は聞いてこない。グラスへ視線を落とし、氷の溶けかけたアイスミルクティーを一口飲む。
たぶん、何かを聞きたいとは思っている。
それでも俺が話さなかった部分にまで踏み込むつもりはないらしい。
俺もそれに甘えて、続きを口にすることはなかった。
その後は、北海道では冬になると当たり前のように雪が積もるとか、東京の冬は雪よりも風の冷たさが厳しいと聞いたとか、そんな他愛のない話へ移っていった。
ほんの数分前までの空気が戻ってきたようで、桜小路さんもいつもの調子で話している。俺もそれに合わせて相槌を打ちながら、さっきの音楽の話はこれで終わったものだと思っていた。
けれど、ふと会話が途切れた時だった。
桜小路さんの視線が、もう一度店の片隅へ向かう。
その先にあるものを確かめるまでもなかった。
「……野山さん」
「はい?」
名前を呼ばれて顔を向けると、桜小路さんはピアノを見たままだった。
「野山さんは……ピアノとか、やらないんすか?」
——やはり、そこへ戻ってきたか。
さっき「音楽は好きか」と聞かれた時点で、なんとなくそんな気はしていた。俺はカウンターへ片手をついたまま僅かに考え、結局、浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「……やらないですね」
「やらない……」
桜小路さんが小さく繰り返した。
その声を聞いてから、自分の言い方が少しまずかったことに気づく。
「はい」
今さら言い直すのも不自然で、そのまま答える。
桜小路さんはすぐには何も言わなかった。ピアノから俺へゆっくり視線を移すと、何かを確かめるようにじっと顔を見つめてくる。
そして、しばらくしてから静かに口を開いた。
「……この前は、弾けないって言ってたっすよね」
やっぱり、聞き逃してはいなかったらしい。
「ああ……そうでしたね」
「今日は『やらない』なんすね」
今度は、俺が黙る番だった。
ただの言葉の違いだと言ってしまえば、それで済む。けれど、桜小路さんが引っ掛かっているのはそこではないのだろう。
弾けないから、やらない。
それなら何もおかしくはない。
けれど俺が口にした「やらない」は、自分でも分かるくらい、そういう響きではなかった。
「……細かいところまでよく覚えてますね」
結局、否定する代わりにそう返した。
「覚えてるっす」
間髪を入れずに返ってくる。
その迷いのなさに、思わず小さく息を吐いた。今日に限って桜小路さんは、俺が何気なく口にした言葉を一つ一つ拾ってくる。
「そうですか」
それ以上は何も言わなかった。
誤魔化そうと思えば、いくらでも誤魔化せる。けれど、わざわざ「弾けないからやらないだけです」と重ねる気にもなれなかった。
桜小路さんも、それ以上は問い詰めてこない。
ただ俺の顔を見つめたあと、何かを飲み込むように僅かに唇を結び、少しだけ眉を下げた。
「……ごめんなさいっす。変なこと聞いたっす」
俺の顔を見ていた桜小路さんが、申し訳なさそうに視線を落とした。
「別に、変なことじゃないですよ」
「でも、なんか聞いちゃいけないことだったみたいで……」
「そこまで気にしなくていいです。俺が勝手に答えなかっただけですから」
そう返すと、桜小路さんは何か言いかけて、結局そのまま口を閉じた。
カウンターの間に短い沈黙が落ちる。さっきまでなら気になったことを次々と尋ねてきた彼女が、今度はアイスミルクティーのグラスへ視線を落としたまま何も言わない。表面を伝う水滴へ指先を添え、考えるようにその跡を目で追っていた。
「じゃあ……」
やがて聞こえてきた声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
俺が顔を上げると、桜小路さんもゆっくりとこちらを見る。
「いつか野山さんが話したくなったら、その時に聞かせてほしいっす」
思わず目を瞬かせた。
てっきり、もう少し聞かれるものだと思っていた。
どうしてピアノをやらないのか。本当は昔弾いていたのか。それなら、どうしてこの前は弾けないと言ったのか。今日の俺の答え方を不自然に思ったのなら、聞こうと思えばいくらでも聞けるはずだ。
まして、ついさっきまで桜小路さんは「もっと俺のことを知りたい」と言っていた。
それなのに、彼女は自分からそこで足を止めた。
知りたいからといって、俺が話したくないことまで無理に聞こうとはしない。その線だけは越えないと決めたように、桜小路さんはそれ以上何も尋ねず、ただ静かに俺の返事を待っている。
「……その時が来たら」
約束するでも、拒むでもなく、結局そんな曖昧な答えしか返せなかった。けれど桜小路さんは、それで十分だったらしい。
「はいっす。きな子は、それで充分っす」
小さく頷くと、安心したようにふっと笑った。
そのまま空気を切り替えるようにアイスミルクティーへ口をつける。ストローを通ってグラスの中身が僅かに減り、氷がからん、と小さな音を立てた。
俺は何も言わず、その横顔をほんの少しだけ眺めてから、手元の仕事へ視線を戻した。
「あっ」
唐突に声が上がり、手元へ落としていた視線を再び桜小路さんへ向ける。
「さっきの本っす。おすすめ選んでくれるって言ってたやつ」
「ああ、それですか。忘れてませんよ」
「本当っすか?」
「そんな数分で忘れません」
疑われるほど信用がないのだろうか。
思わず苦笑すると、桜小路さんも少し恥ずかしそうに笑った。さっきまで二人の間に残っていた静かな空気も、それを境に少しずつ薄れていく。
俺も手元の作業を続けながら、改めて何を薦めるか考えてみる。
候補ならすでに何冊か浮かんでいる。普段あまり本を読まないという桜小路さんでも入りやすそうなものを選ぶなら、そこまで迷うこともないだろう。ただ、今ここでタイトルだけ伝えたところで覚えられるとも限らないし、作者名まで含めていくつも口頭で並べるのも面倒だった。
「じゃあ、次に来た時に教えてくださいっす」
「いや、そこまで待たなくてもいいでしょう」
「え?」
「帰ってから何冊か選んで、後でタイトル送りますよ」
そこまで口にしたところで、ふと気づいた。
送る。
誰が、誰に。
当然のように言ってしまったけれど、そのために必要なものを俺は持っていない。
「…………」
「…………」
桜小路さんもほとんど同じタイミングで気づいたらしい。
さっきまで普通に続いていた会話がぴたりと止まり、数秒ほど無言で顔を見合わせる。
「……そういえば」
「……はいっす」
「俺たち、連絡先知らないですね」
「……そうっすね」
改めて口にしてみると、少し妙な感じがした。
桜小路さんとはもう何度もこの店で顔を合わせている。学校のことも、スクールアイドルのことも聞いたし、今日に至っては休日の過ごし方や本の好みまで話している。それなりに互いのことを知るようになったつもりでいたのに、店の外で連絡を取る手段は一つも持っていなかった。
考えてみれば、それも当然なのだろう。
俺たちが会うのはほとんどこの店で、待ち合わせをするわけでもなければ、次に会う日を決めることもない。桜小路さんがここへ来て、俺がシフトに入っていれば話す。それだけでこれまでは何も困らなかった。
けれど、今は事情が違う。
わざわざ次に来るまで待つより、その場で連絡先を交換してしまった方が早い。
「じゃあ、この機会に交換します?」
「えっ」
思っていたよりも大きな声が返ってきた。
目を丸くしたまま固まっている桜小路さんに、今度はこちらが戸惑う。そんなに驚かれるようなことを言ったつもりはない。
「……嫌なら、別に次に来た時でも———」
「嫌じゃないっす!」
今度はさらに大きかった。
店内に響いた声に、近くのテーブル席にいた客が何事かとこちらを振り返る。
桜小路さんもすぐに気づいたらしい。はっと口元を押さえると、見る間に頬が赤くなっていった。
「……声、大きいですよ」
「だ、だって野山さんが変なこと言うからっす……!」
「連絡先交換しようって言っただけでしょう」
「そ、そうっすけど」
声を抑えようとはしているものの、今度は妙に必死な小声になっている。
何がそこまで彼女を慌てさせたのかは分からない。ただ、嫌ではないということだけは十分すぎるほど伝わってきた。
「じゃあ、交換するってことでいいですか?」
「……はいっす」
今度は周りを気にしたのか、さっきとは正反対の小さな声だった。
それでも桜小路さんはすぐに鞄へ手を伸ばし、スマートフォンを取り出す。その動きだけは、返事の声とは裏腹に随分と素早い。
画面を点けてロックを解除するところまでは驚くほど早かったものの、その勢いのまま操作を続けたせいか、途中で違うところを押してしまったらしい。「あっ」と小さな声を漏らして、慌てて画面を戻している。
「別に急がなくても大丈夫ですよ」
「急いでないっす」
画面から顔を上げることなく、即座に否定された。
「……そうですか」
「そうっす」
本人はそう言い張っているけれど、少なくとも普段より指の動きが忙しいことだけは間違いない。
そこを指摘してもまた否定されそうなので、俺も自分のスマートフォンを取り出した。連絡先を追加する画面を開き、互いに操作を進めていく。それほど時間もかからず登録は終わり、確認のために画面へ目を落とす。
そこには、新しく追加された名前が一つ。
——桜小路きな子。
これまで何度も呼んできた名前なのに、こうして自分のスマートフォンの中に表示されていると、何となく妙な感じがした。
考えてみれば、これでこの店にいない時でも桜小路さんと話せるようになったわけだ。もちろん、ただ連絡先を一つ交換しただけなのだけれど、今までずっとこのカウンターを挟んで話してきた相手だからか、ほんの少しだけ関係の形が変わったようにも感じる。
「これで本のタイトル送れますね」
「はいっす」
向かいでは、桜小路さんも登録された画面を確認していた。
そこには当然、俺の名前が表示されているのだろう。もう操作する必要はないはずなのに、なぜかすぐには画面を閉じようとせず、しばらくじっと眺めている。
やがて何かを迷うように指先を止めると、恐る恐るこちらを見上げた。
「あの……」
「はい?」
「……本のことじゃなくても、送っていいっすか?」
そんなことをわざわざ確認されるとは思っていなかった。
「もちろん。別に本専用の連絡先じゃないですから」
「……いいんすか?」
「いいですよ。話したいことでもあれば、普通に送ってくれて」
そう答えると、桜小路さんは一度だけ目を瞬かせた。
それから、堪えきれなかったように頬を緩める。
「じゃあ……送るっす」
「どうぞ」
何を送るつもりなのかは分からないけれど、そこまで嬉しそうにされると、こちらも悪い気はしない。
桜小路さんはもう一度スマートフォンへ目を落とす。画面に表示された俺の名前を確認しているのか、それともさっそく何か送ろうとしているのか。
けれど、しばらく画面を眺めているうちに、その口元が少しずつ緩んでいくのを見れば、どうやらどちらでもないらしい。
ただ連絡先を一つ交換しただけだというのに、随分と嬉しそうな顔をする。
本人は気づいているのかいないのか、頬までほんのり赤くしたまま、画面に映る俺の名前を飽きもせず眺めている。そのあまりに分かりやすい様子をカウンター越しに見ていると、なんだかこちらまで妙な気恥ずかしさを覚えてしまった。
俺はそれ以上何も言わず、小さく息を吐いて手元へ視線を戻す。
——まあ、本人がそれで嬉しいならいいか。
何がそこまで嬉しいのかは、俺にはいまいち分からなかったけれど。