ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
スマートフォンの画面を閉じてから、たぶんまだ一分も経っていなかった。
それなのに、夕方の街を駅へ向かって歩いていた私は、気づけばまたポケットからスマートフォンを取り出していた。親指で画面を点け、ほとんど迷うことなく開いたのは、ついさっきまで何度も眺めていたメッセージの画面だった。
『今日はありがとうございましたっす! 連絡先交換できて嬉しかったっす! またお店に行くっす!』
Café Arbreを出てから送った、私のメッセージ。その下には野山さんから届いた返信と、嬉しくなった私が思わず送り返してしまったスタンプが並んでいる。
『こちらこそ。またおいで』
それだけだった。
会話としてはもう終わっているし、こうして何度画面を開いたところで、新しいメッセージが増えているわけでもない。それくらい分かっているのに、表示された短いやり取りを見ていると、どうしても口元が緩んでしまう。
「......えへへ」
自分の声で我に返り、私は慌てて顔を上げた。
夕方の街を行き交う人たちは、それぞれ家路を急いでいるのか、誰もこちらを気にしている様子はない。それを確認して少しだけ安心してから、私は懲りもせず、もう一度スマートフォンへ視線を落とした。
——またおいで。
たったそれだけの言葉なのに、不思議だった。
野山さんなら、普段は「また来てください」と言いそうな気がする。実際、いつものお店で話している時だって、私には丁寧に話してくれることの方が多い。
だからだろうか。
ほんの少しだけ言葉の距離が近くなったように感じられて、それが妙に嬉しかった。
「また......行くっす」
本人が目の前にいるわけでもないのに、小さく呟く。それからスマートフォンを胸元へ寄せると、さっきまで眺めていた短い返信が、まだ頭の中に残っているような気がした。
これまでは、野山さんと話したければCafé Arbreへ行くしかなかった。
今日はいるだろうか。大学の日だろうか、それともアルバイトの日だろうか。そんなことを考えながらお店へ向かって、扉を開けた先、カウンターの向こうに野山さんの姿を見つける。そのたびに少しだけ嬉しくなっていたことを、今になって改めて思い出す。
けれど、これからは違う。
お店にいなくても話せるし、会えない日でも、何か伝えたいことがあれば送ることができる。わざわざCafé Arbreへ行って、野山さんがいるかどうか確かめなくても、私の言葉を届けられる。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのかは自分でもよく分からなかった。
ただ、これまで野山さんとの間にはなかったものが一つ増えた。いつものカウンターを挟んで話すだけだった関係が、ほんの少しだけ別の場所にも続いていくようになった。
そのことが嬉しい。
今の私に分かるのは、それくらいだった。
私はもう一度だけ野山さんからの返信を読み返してから、今度こそ画面を閉じ、スマートフォンをポケットへしまった。
「......よしっ」
小さく息を吐いて、駅へ向かって歩き出す。
嬉しいことは嬉しい。放っておけば家に着くまで何度でもスマートフォンを取り出してしまいそうなくらいには、まだ気持ちが浮ついている。
けれど、今はそればかり考えているわけにもいかなかった。
学校では、まだ片付いていないことがある。
米女さんと、若菜さんのことだ。
スクールアイドルがあれだけ好きなのに、どうしてもその気持ちを素直に表へ出せない米女さん。その背中を押そうとして、まず自分がLiella!の練習へ参加することを選んだ若菜さん。二人を見ていると、お互いのことを大切に思っているのは伝わってくるのに、肝心なところではどこか気持ちがすれ違っているように見えた。
結局、米女さんは自分もスクールアイドルをやるとは言わなかったし、若菜さんもLiella!へ入るつもりはないと言った。
そして昨日、私たちは若菜さんに連れられて、米女さんが暮らしているマンションまで行った。
そこで目にしたものや聞いた話から、初めて知ったことも多かった。米女さんがどれほどスクールアイドルを好きなのかということも、その気持ちが私たちの想像よりずっと大きなものだったことも。そして、若菜さんと米女さんが中学生の頃に出会ってから、ずっと一緒に過ごしてきたことも。
それを知ったからこそ、私には余計に分からなくなった。
あれだけ好きなのに、どうして米女さんは一歩を踏み出せないのだろう。
少し前までの自分にも、どこか似ているような気がする。私だってスクールアイドルに憧れながら、自分なんかにできるはずがないと思って、何度も逃げようとした。
けれど、きっと同じではない。
私が怖がっていたものと、米女さんが抱えているものは、似ているように見えてもどこか違う。だから、自分がこうだったから米女さんも同じだと、簡単に決めつけることはできなかった。
それでも、何かできることがあるのなら。
「......明日は、もう少しお話できるといいっすね」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、私は夕方の人波に混じりながら、駅へ向かって歩いていった。
◇
翌朝。
「おはようございますっす!」
校舎へ入って間もなく、廊下の先に見慣れた二人を見つけて、私は少しだけ足を速めた。そのまま小走りで追いつくと、声に気づいた米女さんが振り返って片手を軽く上げ、その隣では若菜さんもいつもの静かな顔でこちらを見る。
「おう。おはよう」
「おはよう、桜小路さん」
返ってきた挨拶も、そのまま三人で歩き始めた時の二人の距離も、昨日までと何も変わらない。
若菜さんが持っていた何かを米女さんが覗き込み、「また変なもん作ってんのかよ」と眉をひそめれば、若菜さんは「変じゃない。実験に必要」と淡々と返す。
「前もそう言って、変な煙出してただろ」
「煙は想定内」
「想定してたなら余計ダメだろ!」
米女さんが間髪を入れずに突っ込む。それでも若菜さんはまるで気にする様子もなく、手元の器具らしきものを鞄へしまった。その横では米女さんがまだ何か言いたそうな顔をしていて、そんな二人のやり取りを眺めているうちに、私は昨日聞いた話をふと思い出す。
——中学生の頃から、ずっと一緒だった二人。
一人で過ごすことの多かった若菜さんのところへ米女さんがやってきて、それから二人でいることが増えていった。昨日、若菜さんからその話を聞いた時にも長い付き合いなのだとは分かっていたけれど、こうしていつもどおり並んで歩いている二人を目の前にすると、言葉だけで聞いた時よりも、その時間の長さが少しだけ見えるような気がした。
きっと昔から、こんなふうだったのだろう。
米女さんが若菜さんのすることに文句を言って、若菜さんはそれを気にすることもなく淡々と返す。一見すれば言い合っているようなのに、そこに険悪な空気なんて少しもなくて、気づけばまた当たり前のように隣を歩いている。
昨日までの私なら、ただ仲のいい二人なんだなと思っていただけかもしれない。
けれど、二人が出会った頃のことを知った今では、目の前の何気ないやり取りまで、ずっと一緒に過ごしてきた二人だからこそできるもののように見えた。
「......なんだよ?」
どうやら、少しじっと見すぎていたらしい。
米女さんに怪訝そうな顔を向けられて、私は自分でも気づかないうちに二人を見つめていたことに気づき、慌てて首を横に振った。
「な、なんでもないっす!」
「朝から変なやつだな」
「メイに言われたくないと思う」
「どういう意味だよ、四季」
「そのままの意味」
「お前なぁ......」
米女さんが不満そうに若菜さんを睨む。けれど、本気で怒っているわけではないことくらい、私にもすぐ分かったし、睨まれている若菜さんの方もまったく気にした様子はない。
たぶん、これも二人にとってはいつものことなのだろう。
そう思うとなんだかおかしくなって、私もつられるように笑ってしまった。昨日まで少しややこしくなっていた二人だけれど、こうしていつもと変わらないやり取りをしている姿を見ていると、この二人ならきっと大丈夫なのかもしれないと、そんなふうに思えた。
それから午前の授業が終わるまでの間も、二人の様子に特別変わったところはなかった。
休み時間になれば、若菜さんはいつものように米女さんのところへ行くし、米女さんもそれを拒む様子はない。何か特別な話をしているわけでもなく、次の授業のことだったり、さっきの授業中にあったことだったり、そんな何気ない話をしているように見える。
昼休みになれば、今度は二人で同じ机を囲んでいた。
私は少し離れた席から何となくその様子を眺めていたけれど、米女さんが若菜さんのお弁当を覗き込んで何かを言うと、若菜さんは特に何か尋ねるでもなく、自分のおかずを一つ米女さんの方へ寄せた。米女さんも最初こそ何か言っていたものの、結局はそれを当たり前のように受け取って口へ運んでいる。
その一連のやり取りがあまりにも自然で、どちらが先にそうするようになったのかも分からない。
きっと二人にとっては、わざわざ考えるまでもないことなのだろう。米女さんが何を好きで、何を嫌がるのか。若菜さんが何も言わない時に、何を考えているのか。長い間ずっと一緒にいるうちに、いちいち言葉にしなくても分かることが、二人の間にはたくさん増えていったのかもしれない。
そんな姿を見ていると、昨日マンションの前で若菜さんから聞いた話が、昨日よりもずっと現実味を持って感じられた。
若菜さんは、きっと私たちよりずっと米女さんのことを知っている。そして米女さんもまた、私たちの知らない若菜さんをたくさん知っているのだろう。
だからこそ、昨日、若菜さんがあそこまでしたことにも納得できるような気がした。
スクールアイドルが好きなのに、素直にその気持ちを表に出せない米女さん。本当はどうしたいのか、何を怖がっているのか。ずっとそばにいた若菜さんだからこそ、それが分かっていたのかもしれない。
自分が米女さんのことを一番よく分かっているから、どうにかしてその背中を押してあげたかった。
——その時の私は、それくらいにしか考えていなかった。
◇
その空気が変わったのは、昼を過ぎてからだった。
何か大きな出来事があったわけではない。きっかけは、拍子抜けするほど何気ない一言だった。
午後の授業へ向かうため、私たちは三人で廊下を歩いていた。いつものように米女さんと若菜さんが並び、私はその少し横を歩いている。周りには同じように教室を移動する生徒たちの話し声や足音が響いていて、少し前までの私たちも、それに混じって他愛のない話をしていた。
そんな中、米女さんがふと思い出したように隣へ顔を向ける。
「そういや四季。昨日、あのあと何してたんだ?」
その一言を聞いた瞬間、私の足取りがほんのわずかに鈍った。
——昨日。
それだけで、若菜さんと一緒に米女さんのマンションを訪れ、そのあと先輩たちと話した時のことが頭に浮かぶ。
けれど、尋ねられた若菜さんは何も変わらなかった。歩く速さを緩めることもなく、前を向いたままいつもの調子で答える。
「澁谷先輩たちと一緒にいた」
「......あいつらと?」
米女さんの眉が僅かに寄った。
昨日の一件があったのだから、若菜さんがLiella!のみんなと一緒にいたこと自体は、それほど不思議ではないはずだった。それでも何か気になったのか、米女さんは歩きながら隣の若菜さんの横顔を窺うように見た。
「で、何してたんだよ」
「話してた」
「ふーん......」
興味があるのかないのか分からない声を漏らして、米女さんが前へ向き直る。
それで終わるのだと思った。
私も密かに胸の内で息を吐き、このまま別の話へ移るのだろうと思っていた。
けれど、若菜さんにとっては隠すようなことでもなかったらしい。ほんの少しの間を置いただけで、何でもないことのように続きを口にした。
「メイのことを話した」
「......私?」
米女さんの足がぴたりと止まった。
思わず私も立ち止まる。数歩先まで進んでいた若菜さんも、二人がついてきていないことに気づいたのか足を止め、ゆっくりとこちらへ振り返った。
行き交う生徒たちが私たちの横を通り過ぎていく中、米女さんは何も言わず若菜さんを見ている。
まだ怒っているようには見えなかった。ただ、自分の知らないところで自分の話が出ていたことが意外だったのか、さっきまでとは違う戸惑いがその顔に浮かんでいた。
「中学の時のこと。私とメイが知り合った頃の話とか」
若菜さんは、やっぱりいつもと変わらない調子だった。
その言葉を聞いて、米女さんの表情が僅かに強張る。
「......なんで、そんな話したんだよ」
さっきまでの何気ない質問とは、明らかに声の調子が違っていた。
若菜さんもそれには気づいているはずだった。それでも慌てて言い訳をすることも、言葉を濁すこともなく、ただ真っ直ぐ米女さんを見返す。
「メイのことを知ってもらった方がいいと思ったから」
「私のことを......?」
米女さんが確かめるように呟く。
その瞬間、私の胸の奥にも、昨日は感じなかった小さな引っかかりが生まれた。
昨日、若菜さんから二人の昔の話を聞いた時には、何もおかしいとは思わなかった。中学生の頃に二人がどうやって知り合ったのか、米女さんがどれだけスクールアイドルを好きなのか。それを聞いて、私も先輩たちも、ただ二人がずっと一緒に過ごしてきたのだと知った。
けれど今、目の前にいる米女さんの表情を見ていると、昨日とは少し違って見えてくる。
米女さんは、知らなかったのだ。
若菜さんが自分たちの昔のことを、Liella!のみんなに話していたことを。
昨日の私は若菜さんから聞く側だったから、それを不思議に思うことさえなかった。
けれど、もし自分の知らないところで、自分の過去や大切にしているものについて誰かに話されていたとしたら——。
そこまで考えたところで、さっきまで何でもないように見えていた二人の間に、ほんの少しだけ違う空気が流れ始めていることに気づいた。
米女さんはすぐには何も言わず、若菜さんの顔をしばらく見つめていた。
その沈黙の間に何を考えているのか、私には分からない。ただ、さっきまでのように何気なく聞き流しているわけではないことだけは、その表情から何となく伝わってきた。
「......他にもなんか話したのか?」
やがて聞こえてきた声は、ほんの少しだけさっきまでと調子が違っていた。
けれど若菜さんは、その変化を気にした様子もなかった。隠すようなことではないと思ったのか、それとも聞かれたからそのまま答えただけなのか、いつもの淡々とした口調で続ける。
「昨日、みんなをメイの家にも連れていった」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋がぴんと固まった。
「若菜さん......」
思わず名前を呼んだ時には、もう遅かった。米女さんは何も言わない。
ただ、目の前の若菜さんをじっと見ていた。
さっきまで僅かに寄っていた眉は、いつの間にか元へ戻っている。怒っているようにも、驚いているようにも見えず、むしろ表情らしい表情が消えてしまったように見えたからこそ、私はその沈黙が余計に怖く感じた。
けれど、若菜さんはそのまま説明を続けた。
昨日、私たちを米女さんの暮らしているマンションまで連れていったこと。外から双眼鏡を使って米女さんの部屋を見たこと。そして、そこにたくさん並んでいたスクールアイドルのグッズを見て、みんなが米女さんの本当の気持ちを知ったこと。
どれも昨日、実際にあったことだった。
若菜さんは余計なことを付け足すでもなく、ただ起きたことを一つずつ説明していく。けれど、それを隣で聞いているうちに、昨日は何とも思わなかった一つ一つの出来事が、今になって急に違うもののように感じられてきた。
あの時は、米女さんにスクールアイドルへの気持ちを認めてもらうために必要なことなのだと思っていた。
でも、米女さん本人は何も知らなかった。
自分がいないところで昔のことを話されたことも、私たちが自分の住んでいる場所まで行ったことも、自分の部屋に並んでいるものを見られたことも。
そのことに今さら気づいてしまって、私は何も言えなくなった。米女さんも、若菜さんが話している間、一度も口を挟まなかった。
廊下には私たち以外にも生徒がいるはずなのに、遠くから聞こえてくる話し声や足音が、なぜかひどく遠く感じられる。いつの間にか、目の前にいる二人の間だけが周囲から切り離されてしまったようだった。
やがて若菜さんが説明を終えても、米女さんはすぐには何も言わなかった。
ほんの少しの間、何かを堪えるように視線を床へ落とす。
それから、ゆっくりと顔を上げた。もう一度若菜さんを見たその目が、さっきまでとは違って見えた。
「......なんで?」
ようやく米女さんの口から零れたのは、驚くほど小さな声だった。
怒鳴っているわけでもなければ、若菜さんを責め立てるような強い口調でもない。それなのに、朝、廊下で何気なく話していた時の声とはまるで違って聞こえて、私は思わず息を詰めた。
米女さんは若菜さんから視線を逸らさないまま、もう一度、今度は少しだけはっきりと尋ねる。
「なんで、そんなことしたんだよ」
それでも若菜さんは迷わなかった。
自分がしたことにも、その理由にも、疑問を持っていないのだろう。米女さんの目を真っ直ぐ見返したまま、いつもと変わらない声で答える。
「メイのため」
「......私のため?」
米女さんの眉が僅かに動いた。その反応をどう受け取ったのか、若菜さんは淡々と言葉を続ける。
「メイはスクールアイドルが好き。でも、自分からは言わない」
そこに責めるような響きはなかった。
ずっと隣にいたから知っている。米女さんが何を好きで、何を本当はやりたいと思っているのか。それをただ事実として口にしているだけのように聞こえた。
「だから、みんなに知ってもらった方がいいと思った」
若菜さんの中では、きっとそれで全部繋がっているのだろう。
米女さんが自分から言えないのなら、自分が代わりに伝える。好きなのに一歩を踏み出せないのなら、その背中を押すためにできることをする。
少し前の私なら、それを聞いて納得していたかもしれない。けれど、米女さんはすぐには何も返さなかった。
きつく唇を結んだまま、じっと若菜さんを見つめている。怒っているのだと言われれば、そう見えなくもない。けれど今は、それだけではないような気がした。
怒りより先に、何か別のものを堪えているような——そんな表情だった。
「——私が言ってないことを」
やがて米女さんが口を開く。
一度そこで言葉を切り、何かを飲み込むように息をついてから、若菜さんへ向き直った。
「なんでお前が、勝手に言うんだよ」
若菜さんはほんの僅かに目を瞬かせた。それでも返ってきた答えは、やはり迷いのないものだった。
「メイが言わないから」
「そういうことじゃねえよ」
今度は、米女さんの声がはっきりと強くなった。廊下を通り過ぎようとしていた生徒が一瞬だけこちらを見る。その視線にも気づいていないのか、米女さんは若菜さんを見たままだった。
一方の若菜さんも、どうして否定されたのか分からないように米女さんを見返している。二人とも相手のことをよく知っているはずなのに、今だけは互いが何を考えているのか分かっていないように見えた。
その空気に耐えきれなくなって、私は思わず二人の間へ声を挟む。
「よ、米女さん。若菜さんも、別に悪気があったわけじゃ——」
「分かってる」
私の言葉を遮った米女さんの返事は、思っていたよりも早かった。声を荒らげたわけではないけれど、そこにははっきりとした強さがあった。
米女さんはこちらへ顔を向ける。
「別に桜小路たちに怒ってるわけじゃねえよ」
それだけ言うと、米女さんはすぐに視線を若菜さんへ戻した。その横顔を見た瞬間、私はそれ以上何も言えなくなった。
昨日、若菜さんについていったのは私たちだし、米女さんの部屋を見たのも、その話を聞いたのも私たちだ。だから何か言わなければと思ったけれど、今、二人の間にあるものは、私たちが謝ったり取りなしたりすれば済む話ではないような気がした。
これはきっと、ずっと一緒にいた二人だからこその話なのだ。
「......四季」
しばらくして米女さんが名前を呼ぶと、若菜さんは静かに首を傾けた。
「何?」
「お前なら、分かってると思ってた」
その言葉を聞いて、初めて若菜さんの表情が僅かに変わった。
ほんの少しだけ目を細め、米女さんの顔を見つめる。それが何を意味しているのかまでは分からなかったけれど、さっきまで何一つ迷わず答えていた時とは違って見えた。
「分かってる」
それでも、返ってきた答えは迷いのないものだった。米女さんの眉が寄る。
「だったら、なんでやったんだよ」
「分かってるから」
「......は?」
同じ言葉を使っているはずなのに、二人が言っていることはまるで噛み合っていなかった。
短い沈黙の中、若菜さんは米女さんから目を逸らさない。その視線には迷いよりも、どうして伝わらないのだろうという戸惑いの方があるように見えた。
「メイはスクールアイドルをやりたい。でも、やりたいって言わない。昨日だってそうだった」
「今はその話してねえだろ」
「同じ話」
「違う!」
鋭い声が廊下に響き渡った。
近くを歩いていた生徒たちが驚いたように振り返り、少し離れたところにいた子までこちらを見る。その視線に気づいた米女さんは、はっとしたように口を閉じると、一度だけ強く唇を噛んだ。
それから、さっきよりずっと小さな声で言い直す。
「......違うだろ」
声は小さくなったのに、今度の方がずっと苦しそうに聞こえた。若菜さんも何も返さない。
「私がスクールアイドルやりたいとか、やりたくないとか......今はそういう話じゃねえ」
米女さんが伝えようとしていることと、若菜さんが答えていること。その二つが少しずつずれていることは、私にも分かった。
若菜さんはきっと、米女さんがスクールアイドルを好きなのに、その気持ちを自分から言えないことを分かっている。だからこそ自分が動いたし、それが米女さんのためになると考えた。
でも、米女さんが今、若菜さんに伝えようとしているのは、そのことではない。若菜さんもようやく何かを感じ取ったのか、それ以上は答えず、黙って米女さんの言葉を待っていた。
けれど米女さんの方も、すぐには続きを口にできなかった。
何度か唇を動かしかけては止め、視線を若菜さんから外す。怒鳴ることならできても、その奥にあるものを言葉にすることの方が、ずっと難しいように見えた。
いつもなら遠慮なく言い合って、それでも当たり前のように隣を歩いていた二人が、今は互いを目の前にしながら、ほんの少しの距離を埋められずにいる。
米女さんはしばらく黙ったあと、ようやく言葉を探し当てたように、もう一度口を開いた。
「私に何も聞かなかったことだよ」
ようやく絞り出すように告げられた言葉に、若菜さんの目が僅かに動いた。米女さんはそれを見ても止まらなかった。さっきまで言葉にできずにいたものが、ようやく形になったのかもしれない。
「私がどう思うかも聞かないで、勝手に私のこと話して、勝手に家まで連れてって......それで『私のため』って、なんなんだよ」
最後の方は、怒鳴るというよりも、若菜さんへ問いかけるような声だった。その言葉を聞いて、私は思わず息を呑む。
米女さんは怒っている。もちろん、それもあるのだと思う。
でも、それだけではない。
目の前の若菜さんを見つめる米女さんの顔には、怒りとは少し違うものが混じっていた。ずっと一緒にいて、自分のことを誰より知っていると思っていた相手の中に、初めて自分の知らない部分を見つけてしまったような、そんな戸惑いがあるように見えた。
若菜さんはすぐには答えなかった。米女さんが何を言っているのか確かめるように少しだけ考えてから、やがて静かに口を開く。
「聞いたら、メイは嫌だって言うから」
その瞬間、米女さんの表情が止まった。さっきまで僅かに揺れていた目も、若菜さんを見つめたまま動かなくなる。
けれど若菜さんは、その変化の意味に気づいていないのか、そのまま理由を続けた。
「聞いたら止めると思った。だから聞かなかった」
言い訳をしているわけでも、悪びれているわけでもなかった。若菜さんは、本当にそれが一番いいと思っていたのだ。
米女さんが聞けば嫌がることも、自分を止めようとすることも分かっていた。それでも、米女さんが自分からは一歩を踏み出せないことを誰より知っているからこそ、自分が代わりに動いた。
それは確かに、若菜さんなりの優しさなのかもしれない。けれど今、その言葉を聞いた米女さんの顔を見ていると、それだけでは済まないのだと分かった。
「......そうかよ」
返ってきた声から、急に熱が消えていた。ついさっきまで強く握り締められていた手も、力が抜けるようにゆっくりとほどけていく。
それだけを見れば、怒りが収まったようにも見えたかもしれない。
でも、私にはむしろ逆に思えた。
声を荒らげていた時よりも、ずっと遠くへ行ってしまったように見えた。
「分かってて、やったんだな」
米女さんは、もう一度だけ確かめるように尋ねた。若菜さんは僅かな迷いも見せず、その問いに頷く。
「うん」
たったそれだけだった。けれど、その返事を聞いた瞬間、米女さんは若菜さんから視線を逸らした。
何かを言い返すことも、もう一度怒ることもしない。ただ小さく息を吐いて、廊下の先へ顔を向ける。
「......今日はもういい」
そのまま歩き出そうとする背中へ、若菜さんが初めて戸惑ったような声をかけた。
「メイ?」
「話したくねえ」
米女さんは足を止めなかった。若菜さんも反射的にそのあとを追おうと、一歩踏み出す。
「来んな」
その一言で、若菜さんの足が止まった。
米女さんは振り返らない。そのまま廊下の向こうへ歩いていく。
若菜さんも、追いかけることも呼び止めることもせず、ただその場に立ったまま、遠ざかっていく米女さんの背中をじっと見つめていた。
私も、すぐには動くことができなかった。
朝までは、あんなに普通だったのに。
並んで廊下を歩いて、いつものように言い合って、昼休みには何でもない顔で同じ机を囲んでいた。ずっと一緒にいる二人なら、昨日のことだってきっと大丈夫なのだろうと、私はついさっきまでそう思っていた。
それなのに今は、少しずつ小さくなっていく米女さんの背中と、そこから動こうとしない若菜さんの間に、目には見えない何かが立ちはだかっているように感じられた。
「......若菜さん」
どう声をかければいいのか分からないまま名前を呼ぶと、若菜さんはようやくこちらへ顔を向けた。
「何?」
返ってきた声は、いつもの若菜さんとほとんど変わらない。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえなくて、それがかえって私を困らせた。大丈夫なはずがないと思うのに、目の前の若菜さんからは、そう決めつけていいほどの変化を見つけられない。
「その......大丈夫っすか?」
「大丈夫」
若菜さんは短くそう答えると、米女さんが消えていった廊下の先から視線を外した。それ以上は何も言わなかったし、私も何を聞けばいいのか分からなかった。
◇
放課後。
Liella!の練習へ向かおうと教室を出たものの、昼間のことがどうしても頭から離れなくて、気づけば私は科学室の前まで来ていた。
米女さんと若菜さんが、あのあとどうなったのか気になっていた。
あれから何時間か経っている。もしかしたら、少し時間を置いたことで米女さんも落ち着いて、今頃はいつもの二人に戻っているかもしれない。朝に見たように、若菜さんの作っているよく分からないものを米女さんが覗き込んで、また「変なもん作ってんのかよ」と文句を言っているかもしれない。
そんな期待を抱きながら、半分ほど開いていた扉からそっと中を覗く。
若菜さんはいた。
窓際の机にいくつかの器具を並べ、その一つを手に取って何かを確かめている。時折ノートへ書き込みながら作業を続ける姿は、いつもの若菜さんと何も変わらないように見えた。
けれど、少し室内を見回しただけで、期待していたもう一人がいないことにはすぐ気づいた。
いつもなら科学に興味があるわけでもないのに、当たり前のようにこの部屋にいて、若菜さんのすることを隣から眺めているはずの赤い髪が、今日はどこにもない。
「若菜さん」
扉のところから声をかけると、作業をしていた若菜さんが顔を上げた。
「桜小路さん」
「今から、科学愛好会っすか?」
「うん。少し実験してから帰る」
そう答えながら、若菜さんは手元の器具を机へ置き、今度はノートへ何かを書き込んでいく。昼間の出来事を引きずっているようには、少なくとも表面上は見えなかった。
だからこそ、その隣に誰もいないことが妙に気になった。
「......米女さんは?」
私が尋ねると、ノートの上を動いていた若菜さんの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにまたペン先は動き始めたけれど、今の間を見なかったことにはできなかった。
「今日は来ないと思う」
「......そう、っすか」
どうして、とまでは聞かなかった。聞かなくても、たぶん分かっていたから。
昨日、二人が中学生の頃から一緒だったことを聞いた時、米女さんは科学そのものに興味があるわけではないのに、若菜さんと一緒にいるためにここへ来ていたのだと知った。
だから今までの若菜さんにとって、この部屋で過ごす時間には、きっと当たり前のように米女さんがいたのだろう。机も、並べられた器具も、窓から差し込む夕方の光も、きっと昨日までと何も変わっていない。
ただ一人、米女さんがいない。
それだけなのに、いつもより科学室が広く見えた。
「じゃあ、きな子は練習に行ってくるっす。先輩たちも待ってると思うので」
「うん。頑張って」
「......はいっす」
いつも通りの声で返されて、私はそれ以上そこにいる理由を見つけられず、扉へ手をかけた。けれど、そのまま閉めてしまうことができなくて、僅かに残った隙間からもう一度だけ中を見る。
若菜さんは、もうこちらを見ていなかった。
さっきまでと同じように机へ向かい、手元の器具へ視線を落としている。
何も変わっていないように見える。それなのに、どうしてだろう。
一人でいる若菜さんの姿が、朝まで見ていた若菜さんとは、少しだけ違って見えた。
◇
練習場所へ向かうと、かのん先輩たちはすでに集まっていた。
いつもなら私も急いで着替えて、そのまま練習に加わるところなのだけれど、今日はどうしても昼間のことが頭から離れない。そんな私の様子に気づいたのか、かのん先輩がこちらへ顔を向けた。
「きな子ちゃん、遅かったね」
「あ......すみませんっす」
声をかけられて、私は一度足を止めた。
このまま何も言わずに練習を始めても、たぶん集中できない。それに、昨日のことにはここにいるみんなも関わっている。少し迷った末に、私は先輩たちの方へ近づいた。
「ちょっと......若菜さんのところに行ってたっす」
その名前を出した途端、何人かの表情が変わった。
昨日、若菜さんに連れられて米女さんのマンションまで行ったみんなだ。特に千砂都先輩は、すぐに何かあったことを察したようだった。
「四季ちゃん、何か言ってた?」
「ほとんど何も......。いつもどおり実験してたっす。ただ——」
そこで一度言葉を切る。
「今日は米女さん、科学室に来ないみたいっす」
「え?」
かのん先輩が僅かに目を見開いた。その反応を見て、やっぱり昼間のことも話した方がいいのだと思い、私は順番に説明していく。
若菜さんが昨日のことを米女さん本人へ話したこと。中学生の頃の二人の話を私たちにしたことも、みんなをマンションまで連れていったことも、隠さずに全部伝えたこと。
そこから二人の話が噛み合わなくなってしまったこと。
米女さんは、若菜さんが自分のためにしたことだというのは分かっていた。それでも、自分に何も聞かず、自分の知らないところで勝手に話されたことが嫌だったらしいこと。
そして最後には、「今日はもう話したくない」と言って、若菜さんを残したまま行ってしまったこと。
話している途中から、先輩たちの表情は少しずつ重くなっていった。
可可先輩は心配そうに眉を下げ、千砂都先輩も何かを考えるように口元へ手を添えている。恋先輩は黙ったまま私の話を聞いていて、すみれ先輩も途中で口を挟むことはなかった。
全部を話し終えても、すぐに声を出す人はいなかった。
「......そっか」
しばらくして、最初に沈黙を破ったのはかのん先輩だった。
「やっぱり、メイちゃんには言ってなかったんだね」
その声には、少しだけ後悔が滲んでいた。
昨日は私もそこまで考えていなかったけれど、かのん先輩たちも同じだったのだと思う。若菜さんが連れていってくれるから、そのままついていった。米女さんの部屋を見て、あれだけたくさんのスクールアイドルのグッズが並んでいることを知って、やっぱり米女さんはスクールアイドルが好きなのだと納得した。
でも、その時には誰も、米女さん本人がそれをどう思うのかまでは考えられていなかった。
「でも、私たちもついていっちゃったから......」
かのん先輩が俯きかけると、それまで黙っていた恋先輩が静かに口を開いた。
「若菜さんと米女さんの間で、どこまでお話ができていたのか、私たちもきちんと確認していませんでした」
責めるような口調ではなかった。むしろ自分たちにも目を向けるように、恋先輩は一度みんなを見回す。
「若菜さんがどのようなお考えで行動されたのか、そのすべてを私たちが理解していたわけではありません。ですが、私たちも事情を知らないまま一緒に行った以上、今になって若菜さんだけの問題として考えるのも違うように思います」
「......そう、だね」
かのん先輩が小さく頷く。
けれど、だからといって何をすればいいのかは、誰にもすぐには分からなかった。
「二人のことだから、私たちが今すぐ間に入るのも違うかもしれないね」
千砂都先輩が腕を組みながら呟くと、可可先輩が心配そうに顔を上げる。
「でも、このまま放っておくのも心配デス......。四季もメイも、ずっと一緒だったんですよね?」
「だからこそ、でしょ」
それまで黙って話を聞いていたすみれ先輩が、小さく息を吐いた。
「私たちが『はい仲直りしなさい』って間に入ったところで、どうにかなるような話じゃないわよ。あの二人にしか分からないことだってあるでしょうし」
「それは......そうデスけど」
可可先輩もそれ以上は言えず、また考え込むように視線を落とした。
誰も、二人を放っておけばいいと思っているわけではない。
心配だから何かしてあげたい。でも、だからといって今すぐ間へ入ってしまえば、かえって二人が自分たちで話す機会を奪ってしまうかもしれない。
私にも、その迷いはよく分かった。
昼間、言い合う二人の間に入ろうとして、米女さんに「分かってる」と言われた時に感じたことを思い出す。
若菜さんに悪気がないことなんて、米女さん自身が誰より分かっていた。それでも怒って、傷ついて、今は若菜さんと話したくないと言ったのだ。
だったら、あれは私たちが横から簡単に解いてあげられるようなものではない。
ずっと一緒にいた二人だからこそ、二人の間でちゃんと話さなければいけないことなのだと思った。
——でも。
だからといって、このまま何もしないでいていいのかと聞かれれば、それも私には分からなかった。
練習が始まってからも、身体を動かしているはずなのに、ふとした瞬間に昼間の二人が頭をよぎる。若菜さんを見たまま「話したくねえ」と言った米女さんの声も、その背中を追いかけようとして「来んな」の一言で足を止めた若菜さんの姿も、なかなか頭から離れてくれなかった。
今頃、二人はどうしているのだろう。
今日は帰りに、また二人で一緒に歩いているだろうか。少し時間が経てば米女さんの怒りも落ち着いて、若菜さんも昼間には言えなかったことをちゃんと話せるかもしれない。
そうなればきっと大丈夫だと、練習の合間にも私は何度も自分へ言い聞かせた。
◇
けれど練習を終えて帰る頃になっても、二人のことはまだ頭の片隅に残っていた。
米女さんは怒っていた。
そして若菜さんも、表情にはほとんど出していなかったけれど、きっと困っていたのだと思う。
それでも、二人は中学生の頃からずっと一緒だったのだ。
駅へ向かって歩きながら、昨日、若菜さんから聞いた話を思い返す。
一人で過ごすことの多かった若菜さんのところへ米女さんがやってきて、それから二人でいることが当たり前になっていった。今日の朝だって、そんな二人はいつも通りだった。若菜さんの持っているものを米女さんが覗き込んで文句を言えば、若菜さんが淡々と返して、また米女さんが言い返す。昼休みにも当たり前のように同じ机を囲んでいた。
あれだけ長い時間を一緒に過ごしてきた二人なのだから、今日一度ぶつかったくらいで、全部が変わってしまうはずはない。
きっと、少し時間が必要なだけなのだ。
明日になれば、米女さんが今日のことを若菜さんに文句を言うかもしれない。若菜さんはいつもの顔でそれを聞いて、また少し噛み合わないことを言って、米女さんに「そういうことじゃねえよ」と怒られるかもしれない。
それでも最後には、いつものように二人で並んで歩いている。
そんな姿を思い浮かべると、胸の中に残っていた重たいものも少しだけ軽くなるような気がした。
——大丈夫。
二人なら、きっとまた話せる。私は、そう思っていた。
——たぶん、そう思いたかったのだ。
◇
けれど翌朝。
昇降口へ向かって歩いていた私は、少し先に見覚えのある赤い髪を見つけ、反射的に足を速めた。
昨日はあんなことがあったけれど、もしかしたら今日はもう——。
「米女さ——」
声をかけようとして、途中で止まった。昨日までなら、探す必要なんてなかった。
赤い髪を見つければ、そのすぐ隣にはいつも若菜さんがいたから。
けれど、今朝は違った。
米女さんは、一人だった。
いつも隣にいるはずの姿が、どこにもなかった。
——それから少しして。
米女さんが校舎へ入っていくのを何となく目で追っていた私は、別の方から昇降口へ向かってくる若菜さんの姿に気づいた。
けれど、どうやら私より先に米女さんの方が気づいていたらしい。
若菜さんの姿が視界に入った瞬間、それまで一定だった米女さんの足取りがほんの僅かに遅くなった。
本当に一瞬だけだった。
立ち止まるほどではない。声をかけるわけでもない。それでも、昨日まで当たり前のように隣を歩いていた相手を見つけて、何も感じなかったわけではないことだけは、その一瞬の変化から伝わってきた。
若菜さんも、米女さんを見ていた。二人の視線がほんの短い間だけ重なる。
昨日までなら、それだけで十分だったのだと思う。どちらからともなく近づいて、気づけばまた隣に並んでいた。わざわざ待ち合わせをしていなくても、一緒に校舎へ入っていく。そんな光景を、私も何度となく見ていた。
けれど、今日は違った。
米女さんは先に視線を外すと、何も言わないまま再び歩き出した。その背中を若菜さんはしばらく見ていたけれど、自分から声をかけることも、追いかけることもしなかった。
そのまま米女さんは校舎の中へ消えていく。
二人の間にあった数メートルの距離は、最後まで一度も縮まらなかった。
「............」
その光景を見ながら、私は何も言えずに立ち尽くしていた。
何か特別なものがなくなったわけではない。
朝、一緒に歩くこと。
見つけたら当たり前のように隣へ行くこと。
名前を呼んで、くだらないことで言い合いながら、そのまま同じ教室へ向かうこと。
昨日までなら、そんなことをわざわざ意識したことさえなかった。二人が一緒にいるのはあまりにも自然で、それがなくなることなんて考えたこともなかったから。
けれど、今朝はその一つ一つが、何もなかった。たった一日前まで当たり前だったものが、なくなって初めて目につく。
昨日の帰り道、私は明日になれば大丈夫だと思っていた。
米女さんの怒りも少しは収まって、若菜さんも何か話して、また二人で並んで歩いている。そんな姿を当たり前のように想像していた。
けれど——。
私が思っていた「いつも通り」は、次の日になっても戻ってこなかった。