ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
次の日になっても、二人の間にできた距離は戻らなかった。
朝の教室では、米女さんが先に席に着いていた。少し遅れて若菜さんが入ってきても、どちらから声を掛けることもない。お互いの存在に気づいていないはずなんてないのに、視線すら合わせないまま、それぞれが自分の席で一日を始めていた。
昨日だけなら、まだ思えた。
あれだけの言い合いをしたのだから、少しくらい気まずくなることだってある。時間が経てば、またいつもの二人に戻るかもしれない。
けれど、一時間目が終わっても、二時間目が終わっても、何も変わらなかった。
これまではどちらかが何となくもう一人の近くにいた。わざわざ約束しているわけでもないのに、気づけば同じ場所にいて、米女さんがぶっきらぼうに何かを言えば、若菜さんがいつもの調子で淡々と返す。そんな何気ないやり取りを、私はいつからか二人の間にあって当然のものとして見ていたらしい。
だからこそ、それがなくなった今になって初めて気づく。
二人の間には、私が思っていた以上にたくさんの「いつも」があったのだ。朝、一緒に歩くことだけじゃない。自然と近くにいて、特に用事がなくても言葉を交わして、次の授業が始まればまたそれぞれの席へ戻っていく。昨日まではわざわざ意識することさえなかった一つ一つがなくなっただけで、教室の景色までどこか違って見えてしまう。
休み時間も終わりに近づいた頃、ふと若菜さんが手元から顔を上げた。
何気なくその視線を追ってみれば、少し離れた席にいる米女さんへ真っ直ぐ向けられている。米女さんの方は気づいているのかいないのか、こちらを見ることもなく自分の席に座ったままだったけれど、若菜さんはしばらくその姿から目を逸らそうとしなかった。
——何か、言うのかな。
そう思って見守っていると、やがて若菜さんの唇が僅かに動いた。
名前を呼ぼうとしたのか、それとも昨日のことを話そうとしたのか、私には分からない。ただ、今までなら考えるより先に「メイ」と呼んでいたはずなのに、今日はその声が出てくるまでに、ほんの少しだけ時間がかかっていた。
けれど、その僅かな迷いよりも早く、米女さんが椅子を引いた。
床を擦る音とともに立ち上がると、若菜さんの方を見ることもなく、そのまま教室を出ていってしまう。開いた扉の向こうへ赤い髪が消えていくまで、若菜さんは何も言わなかった。
そして、追いかけることもしなかった。
昨日、米女さんから「来んな」と言われたことが残っているのかもしれない。若菜さんは閉じた扉をしばらく見つめていたけれど、やがて何事もなかったように手元へ視線を戻した。
その表情は、いつもとほとんど変わらない。
それでも私は、さっき声をかけようとして僅かに動いた唇を見てしまっていた。
話したくないわけではないのだと思う。米女さんのことを気にしていないわけでもない。それなのに、昨日までなら当たり前にできていたはずの「メイ」と呼ぶことさえ、今の若菜さんにはできなくなっている。
そう思うと、胸の奥がきゅっと小さく痛んだ。
——本当に、このままになっちゃうんすか……?
昨日は、二人のことだから二人で話さなければいけないのだと思った。先輩たちとも、無理に間へ入るのは違うのかもしれないと話した。
でも、こうして同じ教室にいるのに言葉を交わすことさえできなくなった二人を見ていると、本当に何もしないままでいいのかという気持ちが、どうしても膨らんでしまう。
考えれば考えるほど、私はこのままじっとしていることが難しくなっていった。
◇
「米女さん」
昼休みになって教室を出ていく米女さんの背中を追いかけ、少し早足になりながら声を掛けると、彼女は廊下の途中で足を止めた。
「……なんだよ」
振り返った顔には、いつものぶっきらぼうな雰囲気が残っていた。少し低い声も、眉間にうっすら寄った皺も、これまで何度も見てきた米女さんらしいものだった。
けれど、いざ目の前に立ってみると、さっきまで頭の中で考えていたはずの言葉が急に出てこなくなる。
「あの……」
「なんだよ。言いたいことあるなら言えよ」
急かすような言葉に背中を押され、私は一度だけ息を呑んだ。ここまで追いかけてきておいて、何でもないとは言えない。
「若菜さんと……まだ、話してないんすか?」
その名前を出した途端、米女さんの表情が僅かに固まった。
本当に一瞬のことだった。それでも、さっきまでと変わらなかったはずの空気が急に重くなったように感じて、聞くことを間違えたのかもしれないという不安が胸の中に広がっていく。
「無理に聞こうとか、そういうつもりじゃないっす。ただ、昨日から二人とも全然話してないから……」
「お前には関係ねえだろ」
返ってきたのは、普段のぶっきらぼうな言い方よりも低く、私との間に線を引くような声だった。
「…………」
その一言に続ける言葉を失って、私は思わず視線を床へ落とした。
言われてみれば、その通りなのかもしれない。二人が中学生の頃からどんな時間を過ごしてきたのか、その全部を私は知らない。昨日初めて知ったことだってたくさんあったし、今だって米女さんが何を思って若菜さんと距離を取っているのか、本当のところは何も分かっていない。
それなのに、二人が話さないままでいるのを見ていられないというだけで、勝手に間へ入ろうとしてしまった。
心配だからといって、それが踏み込んでいい理由になるわけじゃない。そう思った途端、さっきまで胸の中にあった勢いが急速に萎んでいく。
「……ごめんなさいっす」
「あ……」
謝ってそのまま引き下がろうとしたところで、今度は米女さんの方が小さく声を漏らした。
顔を上げてみると、さっきまで私を遠ざけるようにしていた表情は消えていて、代わりに少し気まずそうに眉を寄せている。視線もどこか落ち着かず、まるで自分が口にした言葉を今になって気にしているようだった。
「違う。そういう意味じゃねえよ」
「え?」
「だから……」
どう言えばいいのか迷っているのか、米女さんは一度乱暴に頭を掻くと、私から逃げるように視線を廊下の先へ逸らした。
「お前が謝ることじゃねえって言ってんだよ。これは私と四季の話だから、お前が気にすることじゃねえってだけだ」
言い方そのものは相変わらずぶっきらぼうだったけれど、さっきのように突き放す響きはもうなかった。少しだけ困ったように視線を逸らしているところを見ると、どうやら私を傷つけたかったわけではないらしい。
それが分かって少しだけ安心したものの、だからといって「分かったっす」と引き下がる気にはなれなかった。
「でも……きな子、二人がずっとあのままなのは嫌っす」
「…………」
米女さんの眉が僅かに動く。
「昨日まで普通に一緒にいたじゃないっすか。朝も、休み時間も、気づいたら二人でいて……なのに今日は、一度も話してないっす」
朝からずっと見てきた光景を思い出しながら言葉を重ねる。さっきだって、若菜さんは米女さんに声を掛けようとしていた。それなのに、結局名前を呼ぶことすらできなかった。
「若菜さんだって、さっき——」
「今はいいんだよ」
最後まで言い切るより先に、米女さんが静かに遮った。
声を荒らげたわけではない。むしろ、さっきよりずっと落ち着いた言い方だった。それでも、その短い言葉にはこれ以上踏み込まないでほしいという意思がはっきりと滲んでいて、続けようとしていた言葉を私は飲み込んだ。
米女さんはすぐには立ち去らなかった。
何かを考えるように黙り込み、やがて小さく息を吐く。その視線は私ではなく、少し離れた教室の方へ向けられていた。扉の向こうにいるはずの若菜さんを見ているわけでもないのに、その横顔が誰のことを考えているのか、なんとなく分かってしまった気がした。
「……米女さんは、それでいいんすか?」
思わず聞いてしまうと、米女さんはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ目を伏せて、それから面倒そうに頭を掻く。
「よくねえから、今はいいって言ってんだよ」
「……え?」
「別に、このままでいいなんて言ってねえ」
それだけ言うと、米女さんは私の横を通り過ぎた。けれど数歩進んだところで、その足が一度だけ止まる。
「……そのうち、どうにかする」
振り返ることはなかった。
それ以上何かを聞く隙も与えないまま、米女さんは再び歩き出し、その背中は少しずつ廊下の向こうへ遠ざかっていく。
——そのうち、どうにかする。
それがいつなのかも、どうするつもりなのかも分からない。もしかしたら米女さん自身、まだ何も決められていないのかもしれなかった。
それでも、「このままでいいわけじゃない」と口にした時の表情だけは、いつものぶっきらぼうな米女さんとは少し違って見えた。
本当に若菜さんのことなんてどうでもよくなってしまったのなら、きっとあんな顔はしない。
少なくとも、二人の間にあったものまで全部なくなってしまったわけじゃない——そう思いたくて、私は遠ざかっていく米女さんの背中をしばらくその場から見つめていた。
◇
放課後になっても、昼休みに米女さんが残していった言葉は、ずっと頭の片隅に引っかかったままだった。
——そのうち、どうにかする。
米女さん自身がそう言っていたのだから、これ以上私が余計なことをしない方がいいのかもしれない。二人には二人にしか分からないことがあって、私が無理に間へ入ったところで、かえって話をややこしくしてしまうだけなのかもしれない。
そんなことを考えながら校内を歩いていた——はずだった。
「……来ちゃったっす」
気づけば足は、科学室の近くまで私を連れてきていた。
自分でも何をしているんだろうと思いながら、小さく息を吐いて扉の向こうを覗く。そこには昨日と同じように、若菜さんが一人で机に向かっている姿があった。
「若菜さん」
声を掛けると、若菜さんは手元からゆっくりと顔を上げた。
「きな子」
「……入ってもいいっすか?」
「いいよ」
短く返して、若菜さんが僅かに身体をこちらへ向ける。それを合図に科学室へ足を踏み入れると、机の上には私には用途の分からない器具やノートがいくつも広げられていた。
若菜さんは作業を中断して、持っていたペンをノートの上へ置く。それから椅子を少しだけこちらへ向けた。
「どうしたの?」
「えっと……」
聞かれた途端、ここへ来るまで胸の中にあったはずの言葉が詰まってしまった。
昼休みに米女さんから言われたばかりなのだ。
——これは私と四季の話だから。
その言葉を思い出すと、ここへ来たこと自体が余計なお世話だったのではないかという迷いが、今さらになって湧いてくる。
それでも、目の前の若菜さんに「なんでもないっす」と笑って、このまま引き返すこともできなかった。
「……米女さんのことっす」
私がそう告げても、若菜さんは驚かなかった。
ただ、さっきノートの上に置いたペンへ一度だけ視線を落としてから、静かに私へ戻す。
「メイのこと」
「はいっす。お昼に……少しだけ話したっす」
「……そう」
ほんの僅かに声の調子が変わった気がした。
それが気のせいなのかどうか分からないまま頷くと、若菜さんは私の次の言葉を待つように黙っている。
「米女さんからは『今はいい』って言われたっす。今すぐどうにかしようとはしてないみたいで……」
「そう」
返ってきた声は、いつもの若菜さんとほとんど変わらない。
けれど、その指先が机の上に置かれていたペンに触れた。何をするでもなく一度だけ転がして、また元の場所へ戻す。
表情だけを見ていたら、きっと何も分からなかったと思う。
でも昨日から若菜さんを見ているせいなのか、その小さな動きまで、米女さんのことを気にしている証拠のように思えてしまった。
「……若菜さんは、このままでいいんすか?」
少し迷ってから尋ねると、今度はほとんど間を置かずに答えが返ってきた。
「よくはない」
思っていたよりもずっと早く、そしてはっきりとした返事だった。
その言葉に、思わず一歩踏み込んでしまう。
「だったら、若菜さんから米女さんに——」
「でも」
続きを口にする前に、若菜さんが静かに遮った。
「メイが怒ってる理由は、分かってる」
私は開きかけていた口を閉じた。
若菜さんはすぐに続きを話そうとはしなかった。何かを確かめるように視線を落とし、机の上のペンへ再び指を添える。
昼休みに会った米女さんも、このままでいいとは言わなかった。
そして今、若菜さんも同じことを言った。
二人とも、このままでいいとは思っていない。
それなのに——二人の間にできた距離は、まだ縮まらないままだった。
「勝手に話したことは悪かったと思ってる。メイが嫌がることも分かってた」
淡々とした声を聞きながら、昨日の二人のやり取りが頭の中に蘇った。
——分かってるから。
米女さんから「お前なら分かってると思ってた」と言われた時、若菜さんは確かにそう答えていた。
分からなかったわけじゃない。米女さんが嫌がることも、怒るかもしれないことも、若菜さんは最初から分かっていた。それでも、自分で決めてあの行動を取ったのだ。
「それでも……やったんすよね」
「うん」
迷いのない返事だった。
だからこそ、余計に分からなくなる。
「どうして、そこまで……」
若菜さんはすぐには答えなかった。
机の上へ視線を落とし、さっきから指先で触れていたペンを静かに置く。どう説明すればいいのか考えているのか、それとも自分の中にあるものを確かめているのか、しばらく黙ったあとで、ようやく口を開いた。
「メイは、スクールアイドルをやりたい」
「……はいっす」
それは私にも分かる。昨日、米女さんの部屋を外から見た時も、スクールアイドルのことを話していた時も、その気持ちだけは疑いようがなかった。
「でも、踏み出さない」
「それって……やっぱり、自分にはできないって思ってるからっすか?」
少し前の自分を重ねながら尋ねてみる。けれど、若菜さんは小さく首を横へ振った。
「それだけじゃない」
一度そこで言葉を切ると、若菜さんはいつもと変わらない静かな声で続けた。
「私がいるから」
「……え?」
思わず若菜さんの顔を見つめた。
あまりにも迷いなく言うものだから、最初はその意味が分からなかった。けれど本人は特別なことを打ち明けたつもりもないのか、まるで前から分かっていた事実を確認するような顔をしている。
「メイは、私が一人になることを気にしてる」
そう言って、若菜さんは机の上に広げられた器具へ視線を向けた。
「科学愛好会もそう。メイは科学に興味ないのに、ずっとここにいる」
「そうだったんすか?」
「うん。実験を見ても、だいたい『分かんねえ』って言う」
ほんの少しだけ想像してみる。
難しそうな器具を前に黙々と作業する若菜さんと、その隣で「何やってんだよ、それ」と顔をしかめる米女さん。あまりにも簡単にその光景が浮かんできて、思わず瞬きをした。
私はてっきり、米女さんも科学が好きだから若菜さんと一緒にここへ来ているのだと思っていた。
「中学の時から、メイは私のところに来る」
その言葉だけは、それまでよりもほんの少しゆっくりだった。
中学生の頃から、ずっと。
若菜さんが何かをしていれば米女さんがそこへ来て、気づけば隣にいる。それが二人にとって当たり前になっていたのだろう。
「私が一人でも、気にする必要はないのに」
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の中に小さな引っかかりを覚えた。
「でも米女さんにとっては、そうじゃないんじゃないっすか?」
考えるより先に口を挟んでしまうと、若菜さんがゆっくりこちらを見る。
「若菜さんが一人になるのが心配だから、仕方なく一緒にいるっていうより米女さん自身が、若菜さんと一緒にいたいんじゃないっすかね」
「…………」
「きな子には二人のこと、まだ全然分かんないっすけど……」
そこまで言ってから、昨日までの二人を思い返した。
朝になれば自然と一緒に登校して、気づかないうちに近くにいる。米女さんが何か言えば若菜さんが返して、若菜さんが少しずれたことを言えば米女さんが呆れる。今日になってそれが全部なくなったからこそ、私は初めて、それがどれだけ二人にとって当たり前だったのかを知った。
「少なくとも、きな子には……どっちか一人だけのために一緒にいたようには見えなかったっす」
若菜さんは何も答えなかった。否定もしなければ、頷きもしない。ただ、私の言葉を考えるように僅かに目を伏せる。やがて、その唇が静かに動いた。
「それでも、メイがやりたいことをやらない理由に私がなってるなら、嫌」
声はいつもと変わらないくらい静かだった。
けれど、その一言を聞いて、ようやく若菜さんが何を考えていたのか、ほんの少しだけ分かった気がした。
若菜さんは、米女さんを遠ざけたいわけじゃない。
ただ、米女さんが本当にやりたいことを、自分の存在が理由で諦めてしまうのが嫌なのだ。
だから、自分では踏み出そうとしない米女さんの背中を押そうとした。
昨日、Liella!のみんなに米女さんのことを話したのも、本人に何も聞かないままマンションまで連れていったのも、そのためだったのだろう。
もちろん、それで若菜さんのしたことが全部正しかったことになるわけじゃない。米女さんが怒った理由だって、今なら私にも少し分かる。
それでも——その奥にあった気持ちまで、間違っていたとは思えなかった。
「だったら……やっぱり、ちゃんと米女さんに話した方がいいと思うっす」
「話す?」
若菜さんが僅かに首を傾げる。
「はいっす。今、きな子に話してくれたことを、そのまま米女さんにも話すっす」
「でも、メイは今、私と話したくない」
「そうっすね」
そこは否定できなかった。実際、今日一日二人が言葉を交わしていないことも、若菜さんが声を掛けようとした時に米女さんが教室を出ていってしまったことも、この目で見ている。それでも、昼休みに聞いた言葉を思い出す。
「でも、ずっと話したくないってことじゃないと思うっす」
若菜さんの目が、僅かにこちらへ向いた。
「米女さん、怒ってたっす。でも『このままでいいわけじゃない』って言ってたっすよ」
「メイが?」
「はいっす。それに最後に、『そのうち、どうにかする』って」
その言葉を聞いた瞬間、若菜さんの表情が大きく変わったわけではなかった。
ただ、ずっと机の上に落ちていた視線が、ほんの少しだけ上がった。
「だから米女さんも、若菜さんのことが嫌になったわけじゃないと思うっす」
もちろん、これは私の勝手な想像かもしれない。
私は二人が一緒に過ごしてきた時間のほんの一部しか知らないし、米女さんの気持ちを全部理解しているわけでもない。
それでも、昼休みに見たあの顔と「そのうち、どうにかする」という言葉だけは、どうしてもそうは思わせなかった。
「ちゃんと話せば大丈夫っす」
そう言いかけたところで、私は口を閉じた。
昨日までの私なら、そのまま言っていたかもしれない。二人は中学生の頃からずっと一緒なのだから、少しくらい喧嘩をしたってきっと大丈夫。明日またいつもの二人に戻っている——実際、昨日の私はそう思っていた。
けれど、その「いつも通り」が今日になっても戻らなかったことを、私はもう知っている。
米女さんも若菜さんも、このままでいいとは思っていない。それでも、同じ教室にいるのに話すことさえできなくなってしまった。
だったら、簡単に「大丈夫」なんて言ってしまうのは違う気がした。
「……少しは、伝わると思うっす」
だから、今の私に言える言葉へと言い直した。
全部分かってもらえるとは限らないし、すぐに元通りになれるとも限らない。それでも、何も言わないままでいるよりは、きっと少しくらい伝わるものがあると思う。
若菜さんはしばらく私の顔を見つめていた。やがて私の言葉を自分の中で確かめるように小さく頷く。
「そうかも」
「はいっす」
「——そう、じゃあ話してみる」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥にずっと引っかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。
これで全部元通りになるなんて、もう簡単には思わない。
それでも、二人ともこのままでいいとは思っていないのなら、今より少しだけ前へ進めるかもしれない。
「でも、四季ちゃんは——」
そこまで口にしたところで、若菜さんが僅かに目を見開いた。続けようとしていた言葉が、その反応につられて止まる。
「……?」
どうしてそんな顔をするんだろう。
若菜さんは何も言わない。ただ、普段よりほんの少しだけ大きく開いた目でこちらを見ている。
数秒ほど見つめ合ってから、私は今しがた自分の口から出た言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
——四季ちゃん。
「あっ……」
気づいた途端、顔が熱くなる。
今までずっと「若菜さん」と呼んでいたのに、話に夢中になっていたせいか、何の確認もせずに名前で呼んでしまった。
「ご、ごめんなさいっす! 今、勢いで……」
「別に謝らなくていい」
「あ、いや、その——」
一度呼んでしまったものを今さらなかったことにするのも変な気がして、私はおそるおそる若菜さんの顔を窺った。
「だ、だめっすかね? 四季ちゃんって呼ぶの」
尋ねると、若菜さんは何度かゆっくりと瞬きをした。
嫌そうには見えない。ただ、どうしてそんなことを確認されているのか考えているようにも見えて、やがていつものように小さく首を傾ける。
「別に。いいよ」
「ほ、本当っすか?」
「うん。きな子がそう呼びたいなら」
「……よかったっす」
ほっと息を吐きながら、思わず胸を撫で下ろす。
呼び方一つでここまで緊張する必要もなかったのかもしれない。それでも、勝手に距離を縮めたように思われたらどうしようと、気づいた瞬間からずっと気になっていた。
「急に馴れ馴れしかったかなって思ったっす。今までずっと若菜さんって呼んでたので……」
「気にしてない」
「ならよかったっす」
そう答えながら、心の中でもう一度だけ、新しくなった呼び方を繰り返してみる。
——四季ちゃん。
さっきまでと目の前にいる人は何も変わっていないはずなのに、「四季ちゃん」と呼んだだけで、少しだけ距離が近くなったような気がした。
思えば今までの私にとって、四季ちゃんは「米女さんといつも一緒にいる人」という印象が強かったのかもしれない。教室でも科学室でも二人は当たり前のように隣にいて、私が話す時だって、そこには大抵米女さんがいた。
けれど、今日こうして二人きりで話して、初めて知ったことがいくつもある。
四季ちゃんには四季ちゃんなりの考えがあって、それを言葉にするのは少し苦手で、それでも米女さんのことをずっと気に掛けている。昨日の行動が正しかったのかどうかは簡単には決められないけれど、少なくとも、四季ちゃんなりに米女さんのことを考えた末のものだった。
私はこれまで、米女さんの隣にいる四季ちゃんを見ていた。
でも今日は、それよりほんの少しだけ——若菜四季という一人の人を知ることができた気がした。
「それで、四季ちゃんはさっき——」
新しくなった呼び方をもう一度口にしながら話を続けようとした、その時だった。何気なく向けた視線の先、開いたままになっている科学室の扉の向こうに人影が見えた。
見慣れた赤い髪に気づいた瞬間、さっきまで少し軽くなっていた胸が再び小さく跳ねる。
「あ……米女さん」
思わず呼びかけると、廊下を歩いていた米女さんの足がぴたりと止まった。最初に私を見る。それから、その視線がゆっくりと机の前にいる四季ちゃんへ移った。ほんの一瞬だったけれど、最後にもう一度私へ戻ってきたその目が、二人で何をしていたのか確かめようとしているようにも見えた。
誰もすぐには言葉を発さなかった。
昼休みに話した時よりも近くにいるはずなのに、科学室の入口に立つ米女さんと、私の隣にいる四季ちゃんとの間には、廊下から机までの距離以上のものがあるように感じられた。
「メイ……」
先にその沈黙を破ったのは、四季ちゃんだった。
今度は迷わなかった。昼間、教室で声にできなかった名前を、四季ちゃんははっきりと呼んだ。
けれど、米女さんは答えない。
一度だけ四季ちゃんと目が合ったあと、耐えきれなくなったように僅かに視線を逸らした。
「……悪い。用事あるから」
それだけを残すと、こちらへ近づいてくることもなく、米女さんは再び廊下を歩き始めた。
「米女さん……」
反射的に一歩踏み出しかける。追いかけた方がいいんじゃないか。せっかく四季ちゃんも話してみると言ってくれたのだから、今ここで呼び止めれば——。
そんな考えが頭を過ぎったけれど、隣にいる四季ちゃんが動いていないことに気づいて、私も足を止めた。
四季ちゃんはただ、開いた扉の向こうを見つめていた。
さっきまで私と話していた時と同じように、その表情から何を考えているのかを読み取ることは難しい。
それでも、今度はちゃんと「メイ」と呼んだ。
呼んだのに、米女さんは立ち止まってくれなかった。そのことが、私にはどうしようもなく寂しく感じられた。
「四季ちゃん?」
呼びかけると、四季ちゃんは廊下の向こうから視線を戻した。
「大丈夫」
いつもと変わらない静かな声だった。それでも、さっき米女さんが立ち去った方を見つめていた横顔を思い出すと、その一言だけで安心することはできなかった。
「でも……」
何か言おうとした私を遮るように、四季ちゃんが小さく首を振る。
「明日、話すから」
今度は、その言葉に迷いはなかった。さっき私に「話してみる」と言った時よりも、少しだけはっきりして聞こえる。米女さんに避けられても、それで諦めたわけではないらしい。
私はもう一度だけ廊下の先を見てから、しばらく迷った末に頷いた。
「……分かったっす」
今度はちゃんと話せる。
そう言葉にしてしまいそうになって、やめた。
今日一日で、二人の間にあるものがそんなに簡単ではないことは十分に分かったから。それでも、米女さんは「そのうち、どうにかする」と言っていて、四季ちゃんも「明日、話す」と言っている。
二人とも、このままでいいとは思っていない。だったら今度こそ、ほんの少しでも二人の言葉が届けばいい。
——私はただ、そう願うことにした。
◇
翌日の放課後。
Liella!の練習へ向かおうと廊下を歩いていると、少し先に見覚えのある赤い髪を見つけた。
米女さんだ。
声を掛けようかと思ったところで、その少し後ろを追いかけているもう一人の姿に気づく。
——四季ちゃん。
昨日、科学室で交わした言葉を思い出して、私はその場で足を緩めた。
「メイ」
四季ちゃんが呼ぶと、米女さんの足が止まった。
昨日の科学室では、その名前を呼ばれても立ち去ってしまった。でも今日は、すぐに歩き出すことはなかった。
ただ、振り返りもしない。
「……なんだよ」
背中を向けたまま返ってきた声に、四季ちゃんは数歩だけ距離を詰めた。
「話したい」
その一言のあと、二人の間に短い沈黙が落ちる。
周りを通り過ぎていく生徒たちの話し声や足音だけがやけに大きく聞こえる中、米女さんはしばらくその場から動かなかった。
やがて、小さく息を吐いて振り返る。
「……昨日のことか?」
「うん」
「まだなんかあんのかよ」
「ある」
四季ちゃんはいつもと変わらない調子で答えた。けれど、昨日の科学室で「明日、話す」と言った時と同じように、その声に迷いはない。
「勝手に話したことは、悪かったと思ってる」
米女さんの眉が僅かに動いた。それでも何も言わず、四季ちゃんの続きを待っている。
「メイが嫌がることも分かってた。それなのに、聞かないで話した。それは悪かった」
「……分かってんなら、最初からやんなよ」
「うん」
あっさりと頷かれて、今度は米女さんの方が言葉に詰まったようだった。四季ちゃんは一度そこで言葉を切る。
「でも、メイにスクールアイドルを諦めてほしくない」
その瞬間、米女さんの表情が変わった。
「……またそれかよ」
「メイはやりたいはず」
「だから——」
米女さんの眉間に深く皺が寄る。
「それを勝手に決めんなって言ってんだろ」
「決めてない」
「何が違うんだよ。私が何も言ってねえのに、お前が『やりたいはずだ』って決めて動いてんだろ。それが勝手だって言ってんだよ!」
最後の言葉が廊下に響いて、近くを歩いていた何人かが驚いたようにこちらを見る。
思わず二人の方へ一歩踏み出しかけて、私は足を止めた。
——だめっす。
昨日、四季ちゃんは自分から「話す」と言った。
米女さんだって、今は怒っているけれど、立ち去らずに四季ちゃんの言葉を聞いている。だったら、ここで私が間に入るべきじゃない。
握りかけた手をそっと開き、私はその場から二人を見守る。
「メイ」
声を荒らげた米女さんとは対照的に、四季ちゃんは変わらず静かだった。
「メイは、私が一人になることを気にしてる」
「……は?」
「科学愛好会も、本当は興味ないのに来てる。スクールアイドルをやったら、今までみたいに一緒にいられなくなるから」
米女さんは何も答えなかった。
四季ちゃんはそれを否定されなかったからだと思ったのか、そのまま言葉を続ける。
「でも、それは気にしなくていい」
「…………」
「私は一人でも平気だから」
あまりにも四季ちゃんらしい、飾り気のない言い方だった。きっと四季ちゃんは、米女さんを安心させようとしている。
自分のことは心配しなくていいから、好きなことをしてほしい。昨日、私に話してくれた気持ちを、今度はちゃんと本人へ伝えようとしているのだと思う。
それなのに。
その言葉を聞いた米女さんの顔は、安心したようには見えなかった。
怒っているとも、少し違う。
さっきまで険しく寄っていた眉が僅かに緩んで、その代わりに、何か信じられないものを見るような目で四季ちゃんを見つめている。
「……お前、本気で言ってんのか?」
低くなったその声を聞いて、胸の奥に嫌な予感が広がった。自分のことは気にしなくていいし、自分に遠慮する必要もない。これからは、本当にやりたいことを選んでいい——少なくとも、そばで聞いていた私にはそういう意味に聞こえた。
けれど、その言葉を受け取った米女さんの表情は、やっぱり安心したようには見えなかった。
「……じゃあ、なんだよ」
ぽつりと零れた声からは、さっきまでの勢いが消えていた。
怒鳴っていた時よりもずっと小さな声なのに、なぜか今の方が胸に引っかかる。
「メイ?」
四季ちゃんも何か違うものを感じ取ったのか、僅かに首を傾げる。
「私がお前のところに行ってたのも」
米女さんはそこで一度言葉を切った。四季ちゃんは何も言わず、その続きを待っている。
「科学愛好会に入ったのも。ずっとお前と一緒にいたのも……全部、お前が一人にならないように私が勝手にやってたって、そう思ってたのかよ」
「それは——」
「だったら」
四季ちゃんの言葉を遮るように、米女さんの手が制服の裾を強く握りしめた。
「お前にとっては、別になくてもよかったってことかよ」
その言葉に、四季ちゃんの目が僅かに見開かれる。
「違う」
「何が違うんだよ」
「そういう意味じゃない。私はただ、メイが——」
「だったら、どういう意味なんだよ!」
再び声が廊下へ響いた。
けれど、さっきまでの怒鳴り声とはどこか違って聞こえた。ただ腹を立てているだけではないことくらい、私にも分かる。
「私は……別に、お前が一人で可哀想だから一緒にいたわけじゃねえよ」
米女さんは吐き出すように言ってから、一度唇を噛んだ。
「科学なんて今でもよく分かんねえし、お前の実験だって何やってんのか大体分かんねえ。でも、それでもあそこにいたのは——」
そこまで言って、米女さんの声が止まる。四季ちゃんは何も言わなかった。
急かすこともなく、ただ米女さんを見つめている。けれど、その沈黙に耐えられなくなったように、米女さんは顔を背けた。
「……もういい」
「メイ」
「よくねえよ。全然よくねえけど……今のお前に何言っても分かんねえだろ」
四季ちゃんが何かを言おうとして、僅かに唇を開く。けれど、そこから言葉が出てくることはなかった。
その様子を見ているうちに、私にもようやく、二人の言葉がどうしてこんなにも噛み合わないのかが少しずつ見えてきた。
四季ちゃんはきっと、そう伝えようとしている。けれど、米女さんが聞いているのは、それだけじゃない。
自分のことを気にして、米女さんが本当にやりたいことを諦める必要はない。これまで一緒にいたからといって、これからも自分の隣にいなければならないわけじゃない。米女さんには、自分に遠慮せず好きなものを選んでほしい。
四季ちゃんはきっと、そう伝えようとしている。
けれど、米女さんが聞いているのは、それだけじゃない。
今まで自分が四季ちゃんの隣にいた時間を、四季ちゃんがどう思っていたのか。けれど、米女さんが聞いているのは、それだけじゃない。
今まで自分が四季ちゃんの隣にいた時間を、四季ちゃんがどう思っていたのか。
毎日のように科学室へ行ったことも、よく分からない実験を隣で眺めていたことも、何でもないことで言い合いながら一緒に帰ったことも——米女さんにとっては、四季ちゃんが一人にならないように付き合っていた時間ではなかったのだ。
同じ相手のことを考えて、同じように大切に思っているはずなのに、二人の言葉は少しずつ違うところへ落ちていく。
「私は、メイにやりたいことをやってほしいだけ」
四季ちゃんはもう一度、確かめるようにそう告げた。
けれど米女さんは、すぐには何も返さなかった。唇を固く結んだまま四季ちゃんを見つめ、やがて絞り出すように口を開く。
「……だから、そのためなら、お前は私がいなくてもいいってことだろ」
「違う」
四季ちゃんはほとんど間を置かずに否定した。
「じゃあ、何が違うんだよ」
「私は、メイがいなくてもいいとは言ってない」
「同じだろ!お前は一人でも平気だから、私がどっか行ったって構わねえって、さっきからそう言ってんじゃねえか!」
「そうじゃない」
「だったら、ちゃんと分かるように言えよ!」
米女さんの声が、再び廊下に響いた。
四季ちゃんは何かを返そうとしたのか、僅かに唇を開く。けれど、そこから言葉が続くことはなかった。
その横顔を見ながら、私は昨日、科学室で二人きりで話した時のことを思い出していた。
四季ちゃんは、こんなことを言いたかったわけじゃない。
米女さんがいなくなっても構わないなんて、一度も言っていない。ただ、自分の存在が米女さんのやりたいことを諦める理由になってほしくない。それだけなのだと、昨日話を聞いた私には分かる。
でも——今、米女さんにはそれが届いていない。
そしてたぶん、四季ちゃんにも、米女さんが本当に聞きたいことがまだ届いていない。
「分かったよ」
しばらく続いた沈黙のあと、米女さんがぽつりと呟いた。
さっきまでの怒鳴り声とは違う、妙に静かな声だった。四季ちゃんが顔を上げる。
「メイ?」
「お前がそう言うなら、もういい」
米女さんは一度だけ視線を落とし、握っていた制服の裾からゆっくりと手を離した。
「だったら私だって、お前がいなくても平気だ」
その瞬間だった。それまでほとんど変わらなかった四季ちゃんの表情が、ほんの僅かに揺れた。
目が僅かに見開かれて、何かを言おうとしたように唇が動く。驚いたのか、傷ついたのか、それとも別の何かだったのか。私には分からない。
けれど、米女さんのその一言だけは、今までの言葉とは違うところに届いた——そんな気がした。
「……そう」
それでも、四季ちゃんの口から出てきたのは、それだけだった。米女さんの眉が一瞬だけ歪む。何か別の言葉を待っていたのかもしれない。けれど結局、それ以上は何も言わずに踵を返した。
「…………」
四季ちゃんも呼び止めなかった。
昨日は「来んな」と言われたあとでさえ、反射的にその背中を追おうとしていた。それなのに今日は、床に縫い付けられたようにその場から動かない。
遠ざかっていく米女さんの足音だけが、人気の少なくなった廊下に響いている。
やがてその音さえ聞こえなくなっても、四季ちゃんはしばらく同じ場所に立ったままだった。
◇
次の日。
米女さんが科学愛好会を辞めたと知ったのは、昼休みのことだった。
「……え?」
最初は、聞き間違いだと思った。
昨日、あんな言い合いをしたばかりなのだから、今日は科学室へ行かないとか、しばらく顔を出さないとか、そういう話ならまだ分かる。
でも、そうではなかった。
米女さんは本当に、科学愛好会を辞めたのだという。
昨日の言い合いの最中、感情に任せて「もう辞める」と口にしたわけじゃない。一晩経って、昨日より少しは頭も冷えたはずなのに、それでも自分で辞めることを選んだ。
その事実の方が、私にはずっと重く感じられた。
——だったら私だって、お前がいなくても平気だ。
昨日の米女さんの言葉が頭の中に蘇る。
あれはただ、四季ちゃんに言い返すためだけの言葉じゃなかったのだろうか。
そんなことを考えているうちに放課後になり、どうやら四季ちゃんの耳にもその話が入ったらしい。
廊下の先を歩いていた米女さんを見つけた四季ちゃんは、普段よりも少しだけ早い足取りでその背中を追いかけた。
「メイ」
呼びかけられても、米女さんはすぐには振り返らなかった。
「……なんだよ」
「科学愛好会、辞めたの?」
四季ちゃんが追いついたところで、ようやく米女さんの足が止まる。
「ああ」
返事は短かった。
四季ちゃんはその横顔を見つめたまま、少しだけ間を置いて尋ねる。
「……本当に?」
「辞めたって言ってんだろ」
「どうして」
その問いに、米女さんが初めて四季ちゃんの方を振り返った。
「どうしてって……お前が言ったんだろ」
「私が?」
「一人でも平気だって」
四季ちゃんの目が僅かに見開かれる。米女さんはそんな反応を見ても、もう声を荒らげなかった。
「お前が一人でも平気なら、私が科学愛好会にいる必要もねえじゃん」
「私は、辞めてほしいとは言ってない」
「でも、いてほしいとも言わなかっただろ」
四季ちゃんの言葉が止まった。
米女さんはしばらくその顔を見ていたけれど、返事がないと分かると、小さく息を吐いた。
「だったら、同じだろ」
「メイ、それは——」
「もういい」
今度は四季ちゃんが言葉を続けるより先に、米女さんが背を向けた。
「私がいなくても平気なんだろ。だったら、それでいいじゃん」
そう言い残して、米女さんは廊下の向こうへ歩いていく。四季ちゃんは追わなかった。
呼び止めることさえせず、ただ遠ざかっていく背中を見つめている。
私は少し離れたところから、その様子を何も言えずに見ていた。
昨日までなら、二人の言葉が噛み合っていないことを見て、「本当はそういう意味じゃない」と言いたくなったかもしれない。
けれど、今はもう、それだけでは足りないことが分かっていた。
四季ちゃんが何を言いたかったのかは、私には分かる。
米女さんが何を聞きたかったのかも、少しだけ分かる。
それでも、それを私が代わりに伝えたところで意味がない。
四季ちゃん自身が気づいて、自分の言葉で伝えなければいけないのだ。
遠ざかる米女さんの姿が角の向こうへ消えても、四季ちゃんはその場から動かなかった。
その横顔はいつもとほとんど変わらない。
ただ、昨日までなら当たり前のように米女さんがいたはずの科学室へ、これから四季ちゃんは一人で戻るのだと思うと——その「一人でも平気」という言葉が、昨日よりずっと寂しいものに聞こえた。
四季ちゃんに、米女さんとちゃんと話した方がいいと言ったのは私だった。
何も言わないまますれ違い続けるより、四季ちゃんが考えていることを自分の言葉で伝えれば、少しくらいは米女さんにも届くと思った。科学室で二人きりで話して、四季ちゃんがどれだけ米女さんのことを大切に考えているのかを知ったからこそ、なおさらそう思っていた。
それなのに、二人の距離は縮まるどころか、前よりずっと遠くなってしまった。
米女さんは科学愛好会まで辞めてしまった。
もちろん、私が二人に話をさせたわけじゃない。最後にどうするかを決めたのは四季ちゃん自身だし、米女さんが科学愛好会を辞めたことだって、私が決めたことじゃない。
頭では、そう分かっている。
それでも、もし私があの時余計なことを言わなければ——そんな考えが、一度浮かんでしまうとなかなか消えてくれなかった。
そして、その時だった。
昨日の科学室で見た光景が、不意に頭の中へ蘇った。
私が初めて「四季ちゃん」と呼んだ直後。開いた扉の向こうに、米女さんが立っていた。
あの時、米女さんは最初に私を見て、それから四季ちゃんへ視線を移した。ほんの一瞬だけ、私たち二人の間を確かめるように目が動いていたことまで、今になって妙にはっきりと思い出せる。
「…………」
別に、何も悪いことなんてしていない。
私は四季ちゃんと話をしただけだ。今まで知らなかった四季ちゃんのことを少し知って、ほんの少し距離が縮まって、それまでの「若菜さん」から「四季ちゃん」へ呼び方が変わった。それだけのことだ。
そんなことは自分でも分かっている。
なのに、一度気になり始めると、あの時の米女さんの表情まで違って見えてくる。
ただでさえ四季ちゃんとの間に距離ができていた時に、自分のいない科学室で、私が四季ちゃんと二人で話していた。しかも、今までとは違う呼び方で。
——もし、あの時の米女さんが。
何とも思っていなかったわけじゃなかったとしたら。
私が気づかなかっただけで、あの光景を見たことで、余計に何かを感じていたのだとしたら——。
そこまで考えたところで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
考えすぎかもしれない。きっと、そうなのだと思う。それでも、「絶対に違う」と言い切ることもできなかった。
「——私」
声にしようとした途端、喉の奥に何かが引っかかったように、その先の言葉が出てこなくなった。
私はただ、四季ちゃんと仲良くなりたかっただけだ。
それに、米女さんと四季ちゃんにも仲直りしてほしかった。昨日まで当たり前のように隣にいた二人が、同じ教室にいるのに目も合わせなくなってしまったことが嫌で、このままでいてほしくなかった。
だから科学室へ行って、四季ちゃんの話を聞いた。
四季ちゃんが米女さんのことを大切に思っていると知って、それならちゃんと言葉にすれば、きっと少しくらいは伝わるはずだと思った。米女さんと話してみた方がいいと勧めたのだって、私なりに二人のためになると信じていたからだ。
でも——本当に、それでよかったんだろうか。
私が背中を押したあと、二人の言葉は前よりもすれ違ってしまった。
米女さんは科学愛好会まで辞めてしまって、そのうえ昨日の科学室では、四季ちゃんと二人で話しているところを見られている。もちろん、それが全部私のせいだなんて思っているわけじゃない。
それでも、二人のことをまだほとんど知らない私が、「こうした方がいい」と勝手に思い込んで、分かったつもりで間に入ってしまったんじゃないだろうか。
四季ちゃんだって、米女さんのことを分かっているからこそ、自分の考えで動いて、結果的に傷つけてしまった。
だったら私は——?
そう考えた途端、胸の中にあったはずの「二人のために」という気持ちまで、急に自信が持てなくなった。何もしない方がよかったのか。
それとも、話すよう勧めたこと自体は間違っていなかったのか。
今から私にできることがあるのか、それとも、これ以上何もしない方がいいのか。
考えれば考えるほど答えは遠ざかっていって、結局、何が正しかったのかさえ分からなくなった。
◇
放課後の科学室は、静かだった。
いつもの席に座り、途中になっていた実験を再開する。器具を動かして数値を確認し、ノートに書き留める。条件を変えたら、もう一度同じことを繰り返す。
机も椅子も、棚に並んだ器具も昨日までと変わらない。開いたノートには途中まで記録した数字が残っていて、その続きを埋めていけばいい。
問題はない。
元々、私は一人だった。
中学生の頃も、メイと話すようになるまでは一人で本を読んでいたし、それを寂しいと思ったこともない。一人でいることには慣れている。
だから、元に戻っただけ。
そう考えながら、もう一度器具へ目を向ける。先ほどとは違う数字が表示されていた。
「メイ、これ——」
口にしてから、自分の声に気づいた。
顔を上げる。
いつもなら、そこにメイがいる。
興味もないくせにこちらの手元を覗き込んで、「なんだよ」と面倒そうに返事をする。その姿を探すように視線を向けた先には、誰も座っていない椅子があるだけだった。
「…………」
そうだった。
メイは科学愛好会を辞めた。
もう、ここへ来る理由はない。
ノートへ視線を戻し、ペンを握り直す。今の数値を書いて、次の条件を試せばいい。手順は全部頭に入っている。
なのに、ペン先が動かない。
ふと意識した途端、科学室の静けさがやけに耳についた。
椅子を引く音がない。勝手に手元を覗き込んで、「何やってんだよ」と聞いてくる声も聞こえない。説明を始めれば一応は真面目に聞くくせに、少し難しくなると眉を寄せて、「もっと簡単に言え」と文句を言う相手もいない。
今までなら気にも留めなかった音ばかりが、なくなって初めて思い出される。
視線を上げると、見慣れた科学室が妙に広い。
何かが変わったわけではない。
ただ、そこにいることが当たり前になっていた人が、一人いなくなった。
それだけのはずなのに。
——元に戻っただけ。
頭の中でもう一度繰り返してみる。
メイと出会う前だって、私はこうして一人で過ごしていた。本を読むのも、好きなことをするのも、一人で困ったことはない。
今だって同じだ。
一人でも本は読める。実験もできる。メイがいなくても、やるべきことができなくなるわけじゃない。
私は一人でも平気だ。
昨日、メイに言ったことは嘘じゃない。
それなのに——。
「……メイ」
もう一度、名前が零れた。
見せたいものがあったわけじゃない。
返事を期待したわけでもない。
それでも呼んでしまった自分の声だけが、静かな科学室に残る。
返事はない。
その当たり前のことが、思っていたよりもずっと胸に引っかかった。
私は一人でも平気だ。
でも。
——一人でも平気なことと、メイがいなくても平気なことは、同じじゃない。
ようやく気づいたその違いを、どう言葉にすればいいのかは分からなかった。
ただ、目の前にあるはずの景色が、昨日までとはまるで違って見える。
机も、椅子も、器具も、何ひとつ失くなっていない。それなのに、そこにあったはずの色だけが綺麗に抜け落ちてしまったようで、何を見てもひどく白い。
それまで何が描かれていたのかさえ、分からなくなってしまいそうなほどに。
まるで——。
全部を消してしまったあとの、真っ白なキャンバスみたいに。