ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
——あの日から、何日かが経った。
けれど、米女さんと四季ちゃんの間にできた距離は、少しも縮まっていない。
朝の教室でも、休み時間でも、二人が言葉を交わすところを見なくなった。以前なら、どちらかが意識しているようにも見えないくらい自然と近くにいて、気づけば同じ場所で過ごしていたはずなのに、今では席を立つ時間まで少しずつずれているように感じる。
偶然そうなっているだけなのか、それとも、どちらかが相手を避けようとしているのか。私には分からない。ただ、不思議なことに、どれだけ離れていても相手がどこにいるのかだけは、二人とも今までと変わらず分かっているように見える。
その日の朝も、そうだった。
教室へ向かう廊下を歩いていると、少し前に米女さんの姿が見えた。いつもと変わらない足取りで進んでいたはずなのに、ふいにその歩調がほんの少しだけ緩む。
何かあったのかと思って視線の先を追えば、反対側からこちらへ歩いてくる四季ちゃんがいた。まだ何人分かの距離がある。それでも二人は、ほとんど同じタイミングで互いの存在に気づいたらしい。
米女さんが顔を上げ、四季ちゃんも足を進めたまま視線を向ける。
そして、二人の目が合った。
——ほんの一瞬。
二人の視線が重なったのは、それだけだった。
四季ちゃんも米女さんも何も言わない。どちらからともなく目を逸らすと、歩みを止めることさえなく、そのまま互いの横を通り過ぎていく。
「…………」
少し後ろを歩いていた私は、遠ざかっていく二人を目で追いながら、結局どちらにも声を掛けることができなかった。
——何か言わなきゃ。
そう思っているのに、喉の奥で言葉が引っかかって、声になってくれない。
少し前までの私なら、たぶん迷いながらでも声を掛けていたと思う。余計なお世話かもしれないし、二人のことに私が口を出していいのか分からなくても、それでも何もしないでいるよりはいいはずだと、そう思えていた。
でも、今は違う。
『私は一人でも平気』
『だったら私だって、お前がいなくても平気だ』
あの日に聞いた二人の声が、今でも耳の奥に残っている。
私は四季ちゃんに、米女さんとちゃんと話した方がいいと言った。何も言わないまますれ違っているより、自分の気持ちを言葉にすれば、きっと何かが変わると思っていたからだ。
そして実際に、二人の関係は変わった。
ただ、それは私が願っていたものとは、まるで違う方向だった。
「……きな子」
「っ」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか四季ちゃんが少し先で足を止め、こちらを振り返っていた。
「教室、行かないの?」
「あ、行くっす。今行くっす」
慌てて追いつく私を待ってから、四季ちゃんは再び教室へ向かって歩き始める。それ以上、さっきすれ違った米女さんのことを口にすることはなかった。
私も、何も聞けなかった。
米女さんのことも、科学愛好会のことも、もう一度話してみた方がいいんじゃないかということも。聞きたいことも、言いたいことも胸の中にはいくつも浮かんでいるのに、そのどれか一つでも口にしてしまえば、また何かが変わってしまうような気がして、どうしても声にすることができない。
だから私は何も言わないまま、四季ちゃんの隣を歩いた。
廊下の少し先には、さっきすれ違った米女さんの背中がまだ見えている。その距離は歩けば追いつけそうなくらいしか離れていないのに、四季ちゃんが足を速めることはなく、私も何も言えないまま同じ歩調で隣を進んでいく。
結局、その背中を追いかけることなく、私たちは並んで教室へ向かった。
◇
「はい、そこでストップ!」
千砂都先輩の声が飛んだところで、練習場所に流れていた音楽が止まった。
「はぁ……はぁ……」
私もその場で動きを止め、膝に両手をつきながら大きく息を吐く。何度か深く呼吸を繰り返しても、胸の奥に残った息苦しさはなかなか抜けてくれなかった。
放課後、いつもの練習場所には、私を含めたLiella!の六人が揃っている。
さっきから繰り返しているのは、もう何度も練習してきた振り付けだ。動きを忘れたわけでも、足の運びを間違えているわけでもない。それなのに今日はどうにも身体がついてこなくて、次の動きが頭では分かっているのに、手や足がそこへ追いつくまでにほんの少し間が空いてしまう。
「きな子ちゃん」
呼ばれて顔を上げると、千砂都先輩がこちらへ歩いてくるところだった。
「今のところ、もう一回やってみよっか。ちょっとだけ動きが固くなってるかも」
「はいっす! すみませんっす!」
「謝らなくていいよ」
反射的に頭を下げた私に、千砂都先輩は柔らかく笑いながら近づき、肩へ軽く手を置く。
「間違えたわけじゃないんだから。力が入りすぎてるだけ。もうちょっと肩の力抜いてみよ?」
「肩の力……」
言われるまま自分の肩を上下させてみると、思っていた以上に力が入っていたらしい。意識して抜こうとしても、すぐにまた肩が強張ってしまうような感覚があって、いつもより身体そのものが重くなっている気さえする。
「きな子ちゃん、疲れてる?」
その様子を見ていたのか、今度はかのん先輩が心配そうに声を掛けてきた。
「少し休む?」
「だ、大丈夫っす!」
考えるより先に言葉が飛び出して、自分でも少し驚くくらい大きな声になった。かのん先輩はそんな私の顔をじっと見つめていたけれど、やがて何かを飲み込むように小さく息をつく。
「そっか。でも、無理はしないでね」
「はいっす!」
心配させないように大きく頷いてみせる。
大丈夫。練習はまだできるし、身体のどこかが痛いわけでも、具合が悪いわけでもない。少し動きが固くなっていただけなのだから、ちゃんと意識して踊ればいつも通りできるはずだ。
胸の中でそう繰り返しながら、私はもう一度自分の立ち位置へ戻った。
「それじゃあ、もう一回最初からいくよー!」
千砂都先輩がぱん、と手を叩く。その声に合わせてみんながそれぞれの位置へ戻っていく中、可可先輩が両手を握りしめて勢いよく胸を張った。
「ハイ! 今度こそ完璧に決めマス!」
「可可、さっきも同じこと言ってなかった?」
すぐ隣から飛んできたすみれ先輩の冷静な一言に、可可先輩の眉がぴくりと動く。
「すみれが余計なことを言うからデス! 可可の集中を乱さないでクダサイ!」
「なんで私のせいなのよ! あんたが勝手にミスしたんでしょ!」
「な、なんデスってー!」
練習が始まる直前だというのに、二人はいつもの調子で向かい合う。その様子を見ていた恋先輩が、口元に小さな笑みを浮かべながら二人の間へ声を挟んだ。
「ふふっ。お二人とも、その続きは後にしましょう。そろそろ始まりますよ」
「……分かってるわよ」
「可可も分かってマス!」
揃って前を向く二人を見ていると、張りつめていた胸の奥から少しだけ力が抜けていく。
可可先輩とすみれ先輩が言い合って、恋先輩がそれを宥めて、千砂都先輩が練習を進めていく。何度も見てきた、いつものLiella!の空気。その中に自分も立っていると思うだけで、さっきまで頭の中を占めていたものが、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
私はゆっくり息を吸い、吐きながら正面へ向き直る。
やがて音楽が流れ始め、身体に馴染んだイントロが耳へ届く。
今度こそ、ちゃんとやるっす。
そう自分に言い聞かせ、最初の一歩を踏み出した——そのときだった。
「——なるほど」
音楽に混じって、不意に練習の輪の外から声が聞こえた。
「え?」
踏み出しかけていた足を止めて振り返る。そこにいた女の子を見て、私は思わず目を瞬かせた。
——鬼塚さん?
同じクラスだから、もちろん顔も名前も知っている。ただ、これまで一度もまともに話したことはなかった。
「なるほど、なるほど……」
いつからそこにいたのだろう。
少し離れた場所に、一人の女の子が立っていた。着ているのは私たちと同じ結ヶ丘の制服だから、この学校の生徒なのは間違いない。けれど、練習を見に来たにしては声を掛けてくる様子もなく、こちらへ向けたスマートフォンの画面をじっと覗き込んでいる。
まず目に入ったのは、左右で高い位置にまとめられた長い髪だった。毛先はくるりと大きく巻かれ、頭の上には赤いリボンが覗いている。前髪の隙間から見える大きな瞳も相まって、同じ制服を着ているはずなのに、どこか華やかで目を引く雰囲気の子だ。
それなのに、今は私たちよりも手元のスマートフォンの方が気になるらしい。画面を覗いては何かを確かめるように小さく頷き、ときどきこちらへ視線を向けている。
「……誰?」
かのん先輩が戸惑ったように首を傾げても、女の子は答えない。
聞こえていないのかと思ったけれど、そういうわけでもなさそうだった。スマートフォンの画面と私たち六人を何度も見比べながら、何やら一人でぶつぶつと呟いている。
「結ヶ丘女子高等学校スクールアイドル部、Liella!。現在メンバー六名……」
「えっ?」
突然自分たちのことを読み上げられ、思わず声が漏れる。それでも女の子はこちらの反応を気にした様子もなく、画面の上で素早く指を滑らせていく。
「投稿動画の再生数、SNS上での反応、直近の注目度……」
何を見ているのかまでは、ここからでは分からない。ただ、その目つきはさっきまでとは少し違っていて、私たち一人ひとりではなく、まるでLiella!というものを数字に置き換えて確かめているようにも見えた。
やがて調べたいことが一通り済んだのか、忙しなく動いていた指がぴたりと止まる。
女の子はようやくスマートフォンから顔を上げると、かのん先輩から順番に、私たち六人をゆっくりと見渡していった。
その大きな瞳が最後の一人まで確かめ終えたところで、何か面白いものを見つけたように細められる。
そして、口元がゆっくりと持ち上がった。
「やはり、事前に調べた数字以上ですの」
「ちょっと。さっきから何を撮ってるのよ」
すみれ先輩が眉を寄せながら問いかけると、女の子はそこでようやく私たちへ向けていたスマートフォンを下ろした。
「おっと」
勝手に撮っていたことを咎められたというのに、悪びれた様子はまるでない。それどころか、何かを確信したように何度も大きく頷き、満足そうな表情を浮かべている。
「間違いありませんの」
「何がデス?」
可可先輩が訝しげに目を細める。その警戒するような視線を受けても、女の子は気にするどころか、胸の前で両手をぐっと握りしめた。さっきまでスマートフォンの画面を見つめていた大きな瞳が、今度はきらきらと輝きながら私たちへ向けられる。
「——これは、マニーの匂いがしますの!」
「…………」
誰も、何も言わなかった。
あまりにも予想していなかった言葉に、私たち六人の間から音が消える。たぶん数秒くらいだったと思うけれど、その間は誰一人として動かず、聞こえてくるのはさっき止まった音楽の余韻の代わりに、外から届く微かな物音だけだった。
「……まにー?」
沈黙に耐えきれず、最初に口を開いたのは私だった。
「そう!」
待ってましたと言わんばかりに女の子の表情が明るくなり、その人差し指がびしっと私へ向けられる。
「マニーですの!」
「なんで二回言ったのよ……」
すみれ先輩が呆れたように呟くけれど、女の子にはまったく堪えていないらしい。むしろ今になって何かを思い出したように「あっ」と声を漏らすと、足元に置いていた鞄へ手を伸ばした。
「申し遅れましたの」
鞄の中を探った女の子が取り出したのは、小さな紙の束だった。そのうちの一枚を慣れた手つきで抜き取ると、なぜか真っ先に私の前へ差し出してくる。
何なのかも分からないまま反射的に受け取ると、女の子はそのまま先輩たちのところへ移動し、一人ひとりに同じ紙を配っていく。
手元に残ったそれへ目を落として、私は何度か瞬きをした。
これは……名刺、でいいんすよね?
少なくとも私にはそう見える。けれど、高校生になってから同じ高校の生徒に名刺を渡されるなんて当然初めてで、どう反応すればいいのか分からない。
戸惑いながら、そこに並んでいる文字を上から順番に目で追っていく。
「株式会社……オニナッツ」
会社名らしき文字の下には、さらに見慣れないアルファベットが並んでいた。
「しー、いー、おー……?」
「その通りですの!」
私がそこまで読み上げた途端、女の子——鬼塚夏美さんは待っていたと言わんばかりに胸を張る。その得意げな笑顔を前にしても、私は手渡された名刺と本人を交互に見比べることしかできなかった。
「株式会社オニナッツCEOにして動画配信者、オニナッツ! 鬼塚夏美ですの!」
名刺を受け取った私たちを前に、鬼塚さんは改めて名乗りを上げる。片手を腰に当て、もう片方の手を胸元へ添えたその姿は妙に堂々としていて、言っていることだけを聞けば本当に会社の偉い人みたいだった。
「CEO……?」
聞き慣れない肩書きをそのまま口にすると、鬼塚さんは待ってましたと言わんばかりに人差し指を立てる。
「最高経営責任者ですの」
「えっ」
「ちなみにCEOとはChief Executive Officerの略称で——」
「そ、そこじゃないっす!」
流れるように始まった説明を、思わず大きな声で遮ってしまう。鬼塚さんはきょとんと目を丸くしていたけれど、驚きたいのはこっちの方だ。私は手元の名刺と目の前の鬼塚さん、それから彼女が着ている制服を順番に見比べる。
「なんですの?」
「いや、鬼塚さん、きな子と同じクラスっすよね!?」
改めて目の前の鬼塚さんを見る。
教室では毎日のように顔を合わせている。それなのに、こうして初めてまともに話してみて、その第一声が「株式会社オニナッツCEO」なのだから、私はどう反応すればいいのか分からない。
「そうですの」
何を当たり前のことを、とでも言いたげに鬼塚さんが自分の制服へ目を落とす。その反応にますます分からなくなって、私はもう一歩踏み込んだ。
「いや、鬼塚さん、きな子と同じクラスっすよね!?」
「そうですの」
「なのにCEOってなんなんすか!?」
「CEOはCEOですの」
「だから、それが分かんないっす!」
同じ教室で毎日のように顔を合わせていたはずなのに、話せば話すほど分からない人になっていく。私はとうとう助けを求めるように先輩たちへ顔を向けた。
「もういいんじゃない? たぶん聞くだけ無駄よ」
すみれ先輩はすでに理解することを諦めたらしく、受け取った名刺を眺めながら呆れたように肩をすくめる。その隣では、可可先輩も名刺と鬼塚さんを交互に見比べた末、疑わしそうに目を細めていた。
「そうデスね。とても怪しいデス」
「失礼ですの!」
さすがに聞き捨てならなかったのか、鬼塚さんがすぐさま可可先輩へ向き直る。
「オニナッツは健全かつ将来性に満ちた企業ですの! 怪しいところなど一つもありませんの!」
「そこまで自信満々に言われると、逆に怪しく聞こえるんだけど……」
すみれ先輩の呟きを聞いて、鬼塚さんの頬がむっと膨らむ。
そんな三人のやり取りから少し離れたところでは、恋先輩が名刺を両手で丁寧に持ったまま、どう扱えばいいのか本気で悩んでいるようだった。
「企業、なのでしょうか?」
そのあまりにも真剣な声に、今度は誰もすぐには答えられなかった。そんな中、かのん先輩が手にしていた名刺へもう一度目を落としたあと、気を取り直すように鬼塚さんへ向き直った。
「それで、鬼塚さん」
「なんですの?」
「私たちに何か用があるんだよね?」
「もちろんですの!」
待っていましたと言わんばかりに、鬼塚さんの表情がぱっと明るくなる。それまで得意げに胸を張っていたのとはまた違って、大きな瞳には何かを企んでいるような輝きが宿っていた。
さっきの「マニー」という言葉といい、突然渡された名刺といい、嫌な予感しかしない。
私は手元の名刺をもう一度見下ろしてから、恐る恐る鬼塚さんへ視線を戻した。
「単刀直入に申し上げますの。皆さん——」
鬼塚さんはそこで一度言葉を切ると、私たち全員の顔を見渡した。何を言い出すのかと身構えていると、胸の前でスマートフォンを握りしめ、満を持したように声を上げる。
「わたくしに、Liella!の動画を作らせてほしいですの!」
「動画?」
思わず聞き返したかのん先輩に、鬼塚さんは勢いよく頷いた。
「そうですの!」
再びスマートフォンを取り出すと、今度は画面を私たちにも見えるように掲げながら、指を折るようにして説明を始める。
「撮影、編集、企画、そして投稿。そのすべてをオニナッツが請け負いますの。皆さんに必要なのは、いつも通りLiella!として活動することだけですの!」
「それって……私たちの活動を紹介する動画を作るってこと?」
千砂都先輩が確認するように尋ねると、鬼塚さんは「その通り!」とばかりに大きく頷いた。
「理解が早くて助かりますの!」
突然現れてマニーの匂いがすると言われたときはどうなることかと思ったけれど、話だけを聞いてみれば、思っていたよりまともな提案なのかもしれない。
そんなことを考えていたところで、かのん先輩が少し遠慮がちに口を開いた。
「でも、それって……お金とかはどうなるの?」
「ご安心くださいですの。皆さんから制作費を頂くつもりはありませんの」
「え、そうなの?」
意外そうに目を瞬かせたのは、かのん先輩だけではなかった。
私もてっきり、ここまで何度も「マニー」を口にしていたのだから、最後にはお金の話になるものだと思っていた。もしかして、本当に純粋な協力の申し出だったのだろうか。
「では、夏美さんにはどのような利益があるのでしょうか?」
恋先輩が不思議そうに尋ねる。すると鬼塚さんは、その質問を待っていたかのようににっこりと笑った。
「もちろん、動画から発生する収益は株式会社オニナッツへ入りますの!」
「やっぱりマニーじゃない!」
間髪入れずにすみれ先輩の声が飛び、私も心の中で同じことを叫んでしまう。けれど鬼塚さんは少しも怯まず、それどころか「何か問題でも?」と言わんばかりに堂々と胸を張った。
「当然ですの! 皆さんは動画を通してさらなる知名度を獲得し、オニナッツはその再生数によってマニーを獲得する。まさしくWin-Winの関係ですの!」
「最後が本音デス!」
可可先輩がびしっと指を突きつけても、鬼塚さんは涼しい顔でそれを受け流す。
「ビジネスに本音も建前もありませんの!」
「いや、あると思うけどなあ……」
かのん先輩が困ったように苦笑する隣で、私は改めて手元の名刺へ目を落とした。やっぱりこの人、同じ教室で見かけていたときよりずっと濃い人だった。
——野山さんがこの人に会ったら、どんな顔するんすかね。
ふと、そんなことを考える。
たぶん私みたいに驚いたりはしない気がする。名刺を渡されても普通に受け取って、株式会社オニナッツと書かれた文字をしばらく眺めてから、いつもの落ち着いた顔で「……これ、株式会社って書いてありますけど、本当に登記してるんですか?」とか聞きそうだ。
それで鬼塚さんが自信満々に何か答えて、野山さんは「なるほど」と頷く。
……なんだか、簡単に想像できてしまった。
今度お店に行ったときに話してみようかな、なんて思いながら私は名刺を制服のポケットへしまった。
とはいえ、私自身はまだ鬼塚さんをどう受け止めればいいのか分からない。
言っていることだけを聞けば、ものすごく怪しい。さっきから何度も「マニー」を連呼しているし、同じ高校生なのに株式会社のCEOを名乗っている。それなのに本人はふざけている様子もなく、至って真面目な顔をしているのだから、余計にどう受け取ればいいのか迷ってしまう。
「そもそも、なんでLiella!なのよ。他にも動画にできそうなものなんて、いくらでもあるでしょ?」
すみれ先輩が受け取った名刺を指先で挟みながら、探るような目を鬼塚さんへ向ける。
「良い質問ですの」
その問いも予想していたらしい。鬼塚さんは待っていましたと言わんばかりにスマートフォンを持ち直し、迷いのない手つきで画面を操作し始めた。
「もちろん、思いつきで皆さんへ声をかけたわけではありませんの」
そう言ってこちらへ向けられた画面には、いくつもの見覚えのある映像が並んでいる。覗き込んでみれば、それはどれもLiella!がこれまでに公開してきた動画だった。
「こちらの動画。パフォーマンスに対する反応は良好ですの。ただし、冒頭部分が少々長い。初めて見る人が肝心のパフォーマンスまで辿り着かず、途中で離れてしまう可能性がありますの」
鬼塚さんの指が画面の上を滑り、今度は別の動画が表示される。
「一方、こちら。特に反応が集中しているのはサビへ入る直前から。短い動画として切り出すのであれば、この辺りから始めた方がいいですの」
「…………」
最初はまた何を言い出すのかと身構えていたのに、気づけば私も鬼塚さんのスマートフォンを覗き込んでいた。
さっきまでなら、すみれ先輩か可可先輩がすぐに何か言い返していたはずなのに、今は誰からも声が上がらない。かのん先輩も千砂都先輩も、恋先輩も、それぞれ真剣な表情で画面と鬼塚さんの話に耳を傾けている。
「それから、動画ごとに見せたいものが少々散らばっていますの。歌を見せたいのか、ダンスなのか、それとも皆さん自身なのか。もちろん全部を見せることもできますけれど、初めて見る人にとっては、『何を見る動画なのか』が最初から分かりやすい方がいいですの」
話している間にも、鬼塚さんの指は止まらない。動画を切り替え、ときには再生位置を戻しながら、自分が気になったところを次々と示していく。その説明には迷いがなく、さっきまで「マニーですの!」と目を輝かせていた人と同じとは思えないくらい、話している内容は具体的だった。
怪しい人だと思っていた。
——いや、今もそこはあまり変わっていない。
けれど、少なくとも適当な思いつきだけで私たちのところへ来たわけではないらしい。それだけは、鬼塚さんの話を聞いているうちに少しずつ分かってきた。
「……あなた、ちゃんと調べてきたのね」
すみれ先輩も同じことを感じたのか、さっきまでより少し真剣な表情で鬼塚さんを見る。
「当然ですの。価値も分からないものに時間を投資するほど、オニナッツは甘くありませんの」
「また言い方が引っかかるのよね……」
すみれ先輩は眉間を押さえながらため息をつく。それでも、その声からは最初のような警戒心が少し薄れているように聞こえた。私も、いつの間にか鬼塚さんを見る目が少しだけ変わっていた。
「そして——」
不意に鬼塚さんの視線がスマートフォンから離れ、そのまま私のところで止まった。
「特に、あなた」
「……へ?」
続けて向けられた指先まで自分を示しているのを見て、思わず周りを確認しそうになる。
「き、きな子っすか?」
「桜小路きな子さん。今年Liella!へ加入した新メンバーですの」
「そこまで調べてるんすね……」
「下調べは基本ですの」
当然のように即答され、私は曖昧に頷く。
けれど、「新メンバー」という言葉を聞いた途端、さっきまで抜けかけていた肩の力が、ほんの少しだけ戻ってきた。
言われたことは何も間違っていない。今ここにいる六人の中で、Liella!に入ったのは私が一番最後で、歌もダンスも、スクールアイドルとして積み重ねてきた経験も先輩たちにはまだ及ばない。それは誰かに言われるまでもなく、自分が一番よく分かっている。
だから、そのことを指摘されるのだと思った。ところが、鬼塚さんは私を見つめたまま、満足そうに目を細める。
「非常にいいですの」
「……へ?」
思っていたのとは正反対の言葉に、間の抜けた声が出た。
「他の皆さんはすでに完成度が高い。対して、きな子さんはまだ加入して間もない」
「は、はいっす……」
「できなかったことができるようになる。昨日より今日、今日より明日と変わっていく——」
そこで鬼塚さんは、それまで数字や動画を映していたスマートフォンを静かに下ろした。
「そういう人間には、物語がありますの」
「物語……」
できなかったことが、できるようになる。
それは、私がLiella!に入りたいと決めたときから、ずっと願ってきたことだった。今だってできないことはたくさんあるけれど、練習するたびに少しずつ前へ進んでいる実感はある。
いつか私も、先輩たちと同じところに立てるように。
鬼塚さんの言う「物語」がどういうものなのか、まだ全部は分からない。それでも、その言葉は不思議と胸の中に残った。
「つまり!」
「はいっす!」
急に声を張った鬼塚さんにつられて、私も思わず背筋を伸ばす。さっきの「物語」という言葉がまだ胸に残っていて、次に何を言われるのかと少しだけ期待していると、鬼塚さんはぱっと満面の笑みを浮かべた。
「非常に使いやすいコンテンツですの!」
「こんてんつっすか!?」
思わず聞き返してしまう。
……一瞬でも感動しかけた私の気持ちを返してほしい。
「素晴らしいですの、きな子さん! 成長、努力、新メンバー! 視聴者が応援したくなる要素が揃っていますの!」
「なんか褒められてる気がしないっす!」
「褒めていますの!」
「本当っすか!?」
「もちろんですの!」
そこまで自信満々に言い切られると、これ以上何を言えばいいのか分からない。釈然としないまま隣を見ると、かのん先輩が口元を押さえ、笑いを堪えるように肩を揺らしていた。
「でも、鬼塚さん。そこまでLiella!のことを調べてくれてるってことは、スクールアイドルに興味があるの?」
「ありますの」
かのん先輩の問いに、鬼塚さんは迷うことなく頷く。けれど、その直後に続いた言葉は、たぶん先輩が期待していたものとは少し違った。
「ビジネスとして」
「あ、そっちなんだ……」
分かりやすく肩を落とすかのん先輩を見ながら、恋先輩も少し考えるように首を傾げる。
「では、夏美さんご自身がスクールアイドルをやってみたい、というわけではないのですね」
「まさか」
今度は鬼塚さんの方が驚いたように目を丸くした。その反応を見たかのん先輩が、それでも念のため確認するように尋ねる。
「じゃあ、入部希望ってわけでもないんだ?」
鬼塚さんは答えなかった。
迷っているわけではなさそうで、本当に「どうしてそんな話になるのか」とでも言いたげな顔で、かのん先輩をじっと見つめている。
「……なぜ私が?」
「そこまで不思議そうな顔する!?」
思わずかのん先輩が声を上げても、鬼塚さんはきょとんとしたまま。それから当然のことを説明するように、胸の前で腕を組んだ。
「商品を調査することと、自分が商品になることはまったくの別問題ですの」
「商品って言い切ったデス!」
すかさず可可先輩の声が飛ぶ。
けれど鬼塚さんは、そんな反応などまるで気にしていない。むしろ自分の説明に何の問題があるのか分からない様子で、呆れる私たち六人をゆっくりと見渡した。
「誤解のないよう申し上げておきますの」
スマートフォンを胸の前で持つ。
「私は、皆さんと同じステージに立ちたいわけではありませんの」
それから、満面の笑みで言った。
「皆さんを——売りたいんですの!」
「言い方!」
すみれ先輩の声が響いた。
◇
結局、鬼塚さんの提案をその場ですぐに受け入れたわけではなかった。
突然練習場所へ現れたと思ったら、いきなり「Liella!の動画を作らせてほしい」と言われたのだから、それも当然だと思う。ただ、話を聞いていくうちに、少なくとも鬼塚さんが思いつきだけでここへ来たわけではないことは分かってきた。
これまで私たちが公開してきた動画を見て、数字や反応まで調べたうえで、自分ならどう見せるのかを考えている。その説明にはちゃんと筋が通っていて、最初に感じていた怪しさとは別に、少しだけ任せてみてもいいのかもしれないと思わせるものがあった。
「……一本だけなら、試してみてもいいんじゃないかな」
かのん先輩のその一言をきっかけに、みんなでもう一度話し合い、まずは一本だけ鬼塚さんに任せてみることになった。
——そして、いざ撮影が始まってみると。
「はい! きな子さん、もう半歩右ですの!」
「こ、こっちっすか!?」
言われた通りに横へ動いた途端、鬼塚さんがぶんぶんと首を振る。
「逆ですの!」
「じゃ、じゃあこっち!」
「行きすぎですの! もう少し戻って!」
「む、難しいっすー!」
半歩と言われても、どのくらいがちょうど半歩なのか分からない。右へ行っては戻され、左へ動いては行きすぎだと言われ、気づけば私は鬼塚さんの指示に合わせて同じ場所を行ったり来たりしていた。
「そこですの!きな子さん、ストップですの!」
「は、はいっす!」
ようやく許可が出てほっとしたのも束の間、鬼塚さんはすぐに画面へ目を戻し、今度は私の隣へ次々と指示を飛ばしていく。
「かのんさんはその位置でお願いしますの! 千砂都さんは、もう少しきな子さんとの間を詰めて!」
「はーい! これくらい?」
「いいですの!」
千砂都先輩が私の隣へ寄ったかと思えば、鬼塚さんの視線はもう可可先輩へ移っている。
「可可さん、今の表情いいですの! そのまま!」
「可可の魅力を分かっているとは、なかなかデス!」
褒められた可可先輩が得意げに胸を張る。その直後、鬼塚さんの視線が隣へ滑った。
「すみれさん!」
「今度は何よ」
「カメラを意識しすぎですの。もっと自然に!」
「してないわよ!」
「していますの!」
「してないって言ってるでしょ!」
ついにはカメラ越しに言い合いを始めた二人に、少し離れたところから恋先輩の困り果てた声が飛んでくる。
「お二人とも、そのままでは撮影が進みません……!」
そんな調子だから、撮られる私たちも大変だった。けれど、それ以上に忙しそうなのは鬼塚さんだ。
スマートフォンで画面を確認したかと思えば、持ち込んだ撮影機材の位置を変え、光の当たり方を確かめて、今度は私たちの立ち位置を細かく直していく。一度撮り終えても、気になるところを見つければすぐに確認して、納得できなければ迷わず撮り直し。撮影が始まってからというもの、その動きが止まることはほとんどない。
少し前まで「マニーですの!」と目を輝かせていた姿が嘘みたいだった。もちろん、動画でマニーを稼ぎたいというのも本当なのだと思う。
それでも、鬼塚さんがこれだけ真剣にカメラと向き合っている姿を見ていると、それだけでここまでできるものなのかな、と少しだけ思った。
「鬼塚さん」
「夏美でいいですの」
「え?」
呼びかけた途端に返ってきた言葉が予想外で、思わず聞き返してしまう。けれど鬼塚さん——夏美ちゃんは、撮ったばかりの映像を確認したまま、こちらを振り向こうともしなかった。
「同じクラスでしょう?いちいち鬼塚さんと呼ばれる方が面倒ですの」
「じゃ、じゃあ……夏美ちゃん」
少しだけ迷いながら呼んでみると、そこでようやく夏美ちゃんの視線が画面から私へ向いた。
「なんですの、きな子さん」
「……なんでもないっす」
本当に、特に用事があったわけではない。ただ、そう呼んでいいと言われたら、なんとなく一度呼んでみたくなっただけだった。夏美ちゃんは不思議そうに私を見ていたものの、深く気にすることもなく、すぐにスマートフォンへ視線を戻す。
「次、いきますの!」
「はいっす!」
その声に合わせて、私も慌てて元の位置へ戻った。
やっぱり、変わった子だと思う。
口を開けばマニーの話ばかりで、私たちのことも平然と商品だとかコンテンツだとか言ってしまう。今日初めてちゃんと話したばかりなのに、何を考えているのか分からなくなることも多い。
それでも、最初に抱いた印象とは少しだけ違って見えるようになっていた。
「もう一度お願いしますの! 今の、もっと良くできますの!」
撮った映像を食い入るように見つめながら、夏美ちゃんはすぐに次の撮影の準備を始める。
その横顔は、驚くくらい真剣だった。
少なくとも今だけは、あれだけ口にしていたマニーのことなんて、頭から抜け落ちているように見えた。
◇
「つ、疲れたっす……」
撮影が終わる頃には、私はすっかりへとへとになっていた。
ずっと身体を動かしているいつもの練習とは、また違う疲れ方だ。立ち位置を細かく直したり、同じところを何度も撮り直したり、カメラを意識しながら動いたりしていたせいか、身体だけではなく頭まで使い切ったような気がする。
それなのに夏美ちゃんは、あれだけ私たちの周りを動き回っていたとは思えないほど元気なまま、撮影した映像を一つずつ確認していた。
「素材は十分ですの。編集すれば、かなり良いものになりそうですの」
「もう編集のこと考えてるんすか?」
「当然ですの。撮っただけでは一円にもなりませんの」
迷いなく返ってきた答えに、私は思わず肩を落とす。
「……やっぱり最後はマニーなんすね」
「当たり前ですの!」
何を今さら、と言わんばかりに胸を張る夏美ちゃんを見ていると、さっきまでの疲れも忘れて、思わず笑ってしまった。
撮影機材を片づけて練習場所を出ると、先輩たちは少し先を歩きながら、今日の撮影について楽しそうに話している。私はまだスマートフォンを確認している夏美ちゃんと並んで、その後を追っていた。
廊下へ出てしばらく歩いたところで、前からこちらへ向かってくる人影が目に入る。
米女さんだった。
「あ……」
反射的に声を掛けようとして、口から出かかった言葉が止まる。
ほとんど同じタイミングで、少し先にある別の廊下から四季ちゃんが姿を現したからだ。
二人もすぐに互いの存在へ気づいたらしい。
米女さんの視線が四季ちゃんへ向き、四季ちゃんも米女さんを見る。朝に見たときと同じように、ほんの一瞬だけ二人の目が重なった。
それでも、どちらも足を止めなかった。
声を掛けることも、何かを言いたそうな素振りを見せることもなく、そのまま互いの横を通り過ぎていく。
「…………」
気づけば、私だけがその場に立ち止まっていた。
遠ざかっていく二人の背中を交互に目で追う。もしかしたら、どちらかが振り返るんじゃないか。そんな期待がどこかにあったのかもしれない。
けれど、米女さんは振り返らない。四季ちゃんも、そのまま歩いていく。
朝と同じだった。
お互いがそこにいることには、誰より早く気づいているように見えるのに。
「……最近、あの二人」
「え?」
不意に隣から聞こえた声に振り向く。いつの間にか夏美ちゃんも足を止めていた。
さっきまで撮影した映像に夢中だったはずなのに、今はスマートフォンから顔を上げ、米女さんと四季ちゃんがそれぞれ去っていった方を静かに見つめていた。
「教室でも、あまり雰囲気よくないですの」
「…………」
「前はいつも一緒にいたでしょう?」
夏美ちゃんがこちらを見る。
その表情には、撮影中に見せていた自信満々な笑みも、マニーの話をするときの妙な勢いもない。同じ教室で毎日を過ごしている、普通の同級生として二人のことを気にしているように見えた。
「何かあったんですの?」
私はすぐには答えられなかった。
何も知らないわけじゃない。むしろ、二人の間に何があったのかを知っているからこそ、それを私の口から簡単に話していいとは思えなかった。
「——ちょっと、色々あったっす」
ようやくそれだけを答えると、自分でも驚くくらい小さな声になった。
夏美ちゃんはしばらく私の顔を見ている。
何があったのか。喧嘩でもしたのか。それとも、どうして私までそんな顔をしているのか。
もっと何か聞かれるものだと思っていた。
「……そうですの」
けれど、返ってきたのはそれだけだった。
夏美ちゃんはそれ以上踏み込もうとはせず、手にしていた機材を抱え直すと、先輩たちが歩いていった方へ身体を向ける。
「行きますの、きな子さん。皆さんに置いていかれますの」
「あ、待ってくださいっす!」
先に歩き始めた夏美ちゃんを追いかけ、私も慌てて足を動かした。
少し先には、今日の撮影について話しながら歩いていく先輩たち。その背中を追う私の隣には、今日初めてまともに話したばかりの夏美ちゃんがいる。
そして振り返れば、さっきまでそこにいた米女さんと四季ちゃんは、もうそれぞれ別の方向へ消えていた。
二人のことは、何も解決していない。
どうすれば元に戻れるのかも、私にはまだ分からない。下手に何かをすれば、また二人を傷つけてしまうかもしれないという怖さだって、胸の奥に残ったままだ。
それでも、ずっと同じところで止まっているように感じていた毎日の中に、今日は突然、新しい誰かが飛び込んできた。
マニーがどうとか、CEOがどうとか、私たちをコンテンツにしたいとか。よく分からないことばかりを自信満々に言いながら、いざ撮影が始まれば誰よりも真剣に画面を覗き込んで、私が話したくなさそうにしていれば、それ以上は何も聞いてこない。
ちょっと変わった女の子——と言うには、たぶん足りない。
かなり変わった女の子。
鬼塚夏美ちゃん。
今日まで、同じ教室にいるだけだったその子が、これから私たちの日々にどんな変化を連れてくるのか。
このときの私は、まだ何も知らなかった。