ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
「今日はありがとうございましたっす!」
澁谷先輩と嵐先輩へ頭を下げ、私はスクールアイドル部の部室をあとにした。扉を閉めて廊下へ出ると、さっきまで話し声に包まれていたせいか、放課後の校舎が少しだけ静かに感じる。窓から差し込む夕方の光を横目に歩きながら、なんとなく今日一日のことを思い返した。
朝、校門をくぐった時には知り合いなんて一人もいなかった。新しい制服を着て、知らない校舎を歩いて、これからちゃんとやっていけるのかと、そればかり気にしていたはずなのに。
それが今では、米女さんと若菜さんという同級生の名前を知っている。二人に連れられるようにして校内を歩き、米女さんから聞いたこともなかったスクールアイドルについて熱く語られ、その本人である澁谷先輩と嵐先輩にまで会ってしまった。
しかも最後には、ライブの映像を見せてもらって——スクールアイドルをやってみないか、なんて誘われた。
朝の私に話したところで、たぶん何一つ信じてもらえないと思う。
ほんの一日の出来事なのに、入学したばかりの学校が、朝よりもずっと広くなったような気がした。
「高校って、すごいところっすね」
ぽつりと呟いてから、廊下を数歩進む。
でも、すぐに首を傾げた。
……いや。
高校がすごいというより、今日会った人たちが濃すぎただけかもしれない。
校舎を出た頃には、朝感じていた緊張はほとんど消えていた。春の風が校庭を抜け、制服の裾と髪を柔らかく揺らしていく。まだ歩き慣れない校門までの道も、朝とはどこか違って見えた。
登校した時は、知らない人ばかりの学校でちゃんとやっていけるのか、それだけで頭がいっぱいだった。それなのに、たった一日過ごしただけで何人もの人と話して、今まで知らなかったものまで知ってしまった。
特に、さっき部室で見た光景はまだ頭から離れない。小さな画面の中に広がっていた眩しいステージと、大勢の歓声を浴びながら楽しそうに歌う五人の姿。自分とは縁のない世界だと思っていたし、誘われた時だって無理だと答えた。それなのに、こうして帰ろうとしている今も、ふとした拍子にあの映像が頭の中へ浮かんでくる。
どうしてこんなに気になるのかは、まだ自分でもよく分からない。ただ、朝には知らなかったものが一つ増えた。それだけで、これから始まる高校生活にも、まだ自分の知らない何かがたくさん待っているような気がした。
私は少しだけ軽くなった足取りで、校門へ向かって歩いていった。
「友達……って言っていいんすかね」
口にしてみたものの、さすがにまだ早いような気もする。今日初めて会ったばかりだし、明日また顔を合わせたら、きっと少しくらいは緊張する。
それでも、朝は知っている人なんて一人もいなかった。それがたった一日で、校内を歩けば顔を思い浮かべられる人が何人もいる。
そう考えると、朝にはどこかよそよそしく感じていたこの学校が、ほんの少しだけ自分の居場所に近づいたような気がした。
「桜小路さん!」
不意に背中から聞き覚えのある声が飛んできた。
足を止めて振り返ると、校舎の方から澁谷先輩がこちらへ走ってくる。私の前まで来たところで足を止め、少し乱れた呼吸を整えるように胸元へ手を添えた。
「澁谷先輩?」
「よかった、まだ帰ってなかった」
「どうしたんすか? きな子、何か忘れ物したっすか?」
「ううん、そうじゃなくて。ちょっと話したいことがあって」
「?」
わざわざ追いかけてくるほどの話って、なんだろう。
今日初めて会ったばかりの先輩が、自分を呼び止めるためにここまで走ってきた。そのことが妙に気になって、さっきまで軽くなっていたはずの胸の奥に、ほんの少しだけ緊張が戻ってくる。
「今日は部室まで来てくれてありがとう」
「こちらこそっす! スクールアイドルのこと、いろいろ知れて面白かったっす」
「どうだった?」
「どう……っすか?」
聞き返しながら、自然とさっき見たライブ映像が頭に浮かんだ。
眩しい光に包まれたステージで、たくさんの歓声を浴びながら歌っていた五人。部室を出てからも何度か思い出してしまったくらい、その光景はまだ鮮明に残っている。
何がそんなに印象に残ったのか、自分でも上手く説明できそうになかったけれど、少なくとも何も感じなかったわけではない。
「すごかったっす。米女さんがあんなに夢中になるのも、ちょっと分かった気がするっす」
「そっか」
澁谷先輩が嬉しそうに笑った。自分たちのことを褒められたから、というだけではないような、どこかほっとしたような笑顔だった。
その表情を見ていると、さっきまで部室で話していた時のことが自然と思い出される。ステージの上ではあんなに眩しく見えたのに、こうして目の前で笑っている姿は、やっぱり普通の先輩と何も変わらない。
「桜小路さん、ライブ見てる時すごく楽しそうだったよ」
「えっ?」
「最初はスクールアイドルのこと全然知らなかったのに、途中からずっと画面見てたでしょ」
思いがけないことを言われて、返事がすぐに出てこなかった。自分ではただ映像を見ていただけのつもりだったけれど、どうやら澁谷先輩にはしっかり見られていたらしい。画面に夢中になって身体を乗り出していたことまで思い出してしまい、今になって急に恥ずかしくなってくる。
「そ、それは……すごかったからっす」
「うん」
誤魔化すように答えてみても、澁谷先輩はからかうこともなく、ただ納得したように頷いた。
「それに、私たちのことを『思ってたより普通』って言ってくれたのも、私はちょっと嬉しかったんだ」
「そ、そこは忘れてほしいっす」
よりによって、そこまで覚えていたらしい。
本人たちを目の前にして随分なことを言ってしまったものだと、改めて思い出すだけで顔が熱くなる。悪い意味ではなかったとはいえ、もう少し言い方というものがあったはずだ。
「でも、やっぱりきな子には無理っすね」
恥ずかしさを誤魔化すように笑いながら、そう付け加えた。
ライブを見るのは楽しかったし、スクールアイドルがどんなものなのか、もっと知ってみたいという気持ちも少しだけある。でも、それと自分がステージに立つことはまったく別の話だ。
部室で誘われた時と同じように、私には縁のないことだと思っていた。
けれど、澁谷先輩は笑わなかった。
さっきまで柔らかく細められていた目が、少しだけ真剣なものに変わる。
「どうして?」
「え?」
「どうして無理だと思うの?」
予想していなかった問いかけに、思わず澁谷先輩の顔を見返した。
てっきり「そっか」と流されるものだと思っていたのに、澁谷先輩はこちらの答えを待つように、まっすぐ私を見ている。
どうして、と改めて聞かれると、かえって困ってしまった。私にとっては、できないと思う方がずっと自然だったからだ。
「どうしてって……きな子、歌もダンスもやったことないっすし、運動もそんなに得意じゃないし、人前に出るのも得意じゃないし……」
口にしてみれば、理由はいくらでも出てきた。どれも私にとっては当たり前のことで、わざわざ考えるまでもないことばかりだった。
ふと校舎の方へ視線を向ける。あの建物の中で見たライブ映像が、まだ頭の中にはっきりと残っていた。
大勢の歓声を浴びながら、眩しい光の中で歌っていた五人。歌もダンスも堂々としていて、何よりステージに立っていることを心から楽しんでいるように見えた。
あの姿と自分を並べてみれば、答えなんて最初から決まっているように思える。
「皆さんみたいに、キラキラしてないっすから」
そう言って、少しだけ笑った。
自分を卑下したつもりはなかったし、それを悲しいとも思っていない。ただ、自分とあの人たちは違う。それくらい当たり前のことを口にしただけのつもりだった。
だから澁谷先輩も、きっと困ったように笑うか、そのまま頷くのだと思っていた。
けれど、澁谷先輩はすぐには何も言わなかった。
私の言葉を否定するでもなく、かといって同意するでもなく、何かを思い出すようにほんの少しだけ視線を落とす。
やがて顔を上げた時、その表情にはさっきまでとは違う、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
「私も、最初からできたわけじゃないよ」
思いもしなかった言葉に、目を瞬かせる。
「歌えなかったこともあったし、人前に立つのが怖かったこともあった」
「澁谷先輩が?」
「うん」
反射的に聞き返してから、私は澁谷先輩の顔をまじまじと見てしまった。
どうしても、さっき見た映像と今の話が結びつかない。あれだけ大勢の人を前にして、楽しそうに歌いながらステージを駆け回っていた人が、人前に立つことを怖がっていたなんて。
冗談を言っているようには見えなかった。
澁谷先輩は少しだけ照れくさそうに笑っている。その表情を見ているうちに、さっきまで自分の中で当たり前だった「自分とこの人たちは違う」という境目が、ほんの少しだけ曖昧になった気がした。
「でも、やってみたいって思ったから始めたんだ」
「……」
「だから、できるかどうかは後からでもいいんじゃないかな」
言っている意味は分かる。
でも———。
「でもなんで、きな子にそんな話をするんすか?」
ずっと引っかかっていた疑問を口にすると、澁谷先輩は少しだけ目を丸くした。
そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。何度か瞬きをしたあと、どう答えようか考えるように視線を彷徨わせ、それから少し困ったように笑った。
「新しいメンバーを探してるっていうのもあるけど……それだけじゃないかな」
「それだけじゃない?」
「うん。今日話してみて、桜小路さんって面白い子だなって思ったし」
「お、面白いっすか?」
「いい意味でね」
思わず聞き返すと、澁谷先輩が慌てたように付け足した。
面白い子なんて言われたことがあっただろうか。少なくとも、今日初めて会ったばかりの先輩からそんな評価をされるとは思っていなくて、どう受け取ればいいのか分からず首を傾げる。
「スクールアイドルのことを知らなくても、知らないからって離れないでちゃんと聞いてくれたし、ライブを見た時もすごく素直に楽しんでくれてた。そういう人と一緒にやれたら、きっと楽しいんじゃないかなって思ったんだ」
そこまで言って、澁谷先輩は少し照れくさそうに笑った。私はすぐに返事をすることができず、その顔を見つめたまま黙り込んでしまう。
てっきり、何かスクールアイドルに向いているところを見つけたのだと思っていた。歌が上手そうだとか、ダンスができそうだとか、あるいは人前に立つのに向いていそうだとか。もし誘われる理由があるとすれば、そういうものだとばかり思っていた。
でも、澁谷先輩が見ていたのはそんなところではなかったらしい。
米女さんの話を聞いていたことも、ライブ映像に夢中になっていたことも、本人たちを前にして「思っていたより普通」なんて失礼なことを言ってしまったことも含めて、今日会ったばかりの私をちゃんと見てくれていた。
そのうえで、一緒にやったら楽しそうだと思ってくれた。
そう考えると、胸の奥がほんの少しくすぐったくなる。
自分でも認めてしまえるくらい、素直に嬉しいと思った。
だからこそ、簡単に頷くこともできなかった。
そう思ってもらえたことと、私が実際にスクールアイドルになることは、まだ自分の中ではあまりにも遠く離れていた。
「それに、最初からできる人しかスクールアイドルになれないわけじゃないよ」
「……」
「私がそうだったから」
澁谷先輩はそう言って、柔らかく笑った。その表情を見ながら、私はさっき聞いた話をもう一度頭の中で反芻する。
歌えなかったことがあって、人前に立つのが怖かった。それでも今は、あのステージの上で大勢の人を前に歌っている。
最初から何でもできたわけじゃない。
澁谷先輩本人にそう言われてしまうと、「できないから」というだけで最初から全部を決めてしまうのは、少し違うような気もしてくる。
それでも、だからといって自分があの場所に立つ姿を想像できるわけではなかった。
あの眩しいステージの真ん中に自分を置こうとしても、どうしてもしっくりこない。
「でも、きな子なんかより、もっと向いてる人がいると思うっすよ」
困ったように笑いながらそう言うと、澁谷先輩は少しだけ首を傾げた。
「向いてる人?」
「はいっす。歌が上手だったり、ダンスが得意だったり、もっとこう……スクールアイドルっぽい人っす!」
自分で言いながら、スクールアイドルっぽいって何だろう、と少しだけ思う。
けれど、少なくとも私ではないことだけは確かな気がしていた。
「きっと、そういう人が見つかるっすよ!」
励ますつもりで笑ってみせる。
これなら話も綺麗にまとまった。そう思ったのだけれど、澁谷先輩から返事がない。
「……?」
不思議に思って顔を上げると、澁谷先輩は一瞬きょとんとした顔でこちらを見ていた。
やがて何かに気づいたように目を細めると、困ったような、それでいて少しおかしそうな笑みを浮かべる。
「桜小路さん」
「はいっす?」
「もしかして、自分はその『向いてる人』に入ってない?」
「え?」
何を聞かれているのか分からず、思わず瞬きをする。
「入ってないっすけど……」
当たり前のように答えると、澁谷先輩はとうとう小さく吹き出した。
「そっか。ちゃんと言わないと伝わらないか」
「?」
まだ話が見えない。
首を傾げる私に、澁谷先輩は一度だけ息を吐いてから、今度はまっすぐこちらへ向き直った。
さっきまでのどこか楽しそうな表情とは少し違う。
柔らかいけれど、冗談を言っているわけではないことだけは、その目を見れば分かった。
「私ね、誰でもいいから誘ってるわけじゃないよ」
春の風が二人の間を通り抜け、澁谷先輩の髪をふわりと揺らす。
その言葉の意味を考えているうちに、胸の奥が小さくざわついた。
「今日、桜小路さんと話して、一緒にやってみたいって思ったの」
そこまで言ってから、澁谷先輩はほんの少しだけ笑った。けれど、その目はまっすぐに私を見ていて、冗談や思いつきで言っているようには見えなかった。
「だから——桜小路さんも、私たちとスクールアイドルやってみない?」
「……」
部室でも、一度似たようなことを言われている。
あの時は米女さんと若菜さんも一緒で、三人まとめて「やってみない?」と声を掛けられただけだった。突然のことに驚きはしたけれど、どこか話の流れで出てきた言葉のようにも感じていた。
でも、今は違う。
澁谷先輩はわざわざ部室を出た私を追いかけてきて、どうして私を誘おうと思ったのかまで話してくれた。そのうえで、もう一度、今度は私一人に向かって聞いている。
さっきまでよりも、その言葉がずっと重く聞こえた。
これはきっと、部員を探しているから誰にでも声を掛けている、というだけの話じゃない。
目の前の澁谷先輩は、他の誰でもなく、桜小路きな子をLiella!へ誘っている。
そこまで理解した途端、胸の奥がどくんと大きく鳴った。
何か答えなければと思うのに、すぐには言葉が出てこなかった。
言葉そのものは、ちゃんと耳に届いていた。
けれど、それが自分に向けられた言葉だと理解するまでには、少し時間がかかった。私たちと、スクールアイドルをやってみない?
頭の中でもう一度繰り返してみても、どうにも上手く意味が繋がらない。
「何をっすか?」
「スクールアイドル」
「……」
澁谷先輩はごく普通に答えた。
あまりにも普通に言うものだから、余計に分からなくなる。
私は一度自分の胸元へ視線を落としてから、確認するようにゆっくりと自分を指差した。
「きな子が?」
「うん」
「スクールアイドルを?」
「うん」
一つ確認するたびに、澁谷先輩は迷いなく頷く。
どうやら聞き間違いでも、誰か別の人と勘違いされているわけでもないらしい。
それでも最後の一つだけは、どうしても確かめずにはいられなかった。
「……Liella!で?」
「うん」
また頷いた。
今度こそ逃げ道がなくなった。
さっきまで私が画面越しに眺めていた、あの五人。その中に自分が加わるという話を、澁谷先輩はしているらしい。
そう理解した途端、胸の奥が急に騒がしくなった。
「いきなり決めなくてもいいよ。まずは一緒に練習してみない?」
「練習……」
その言葉を聞いた瞬間、今日一日の出来事が頭の中を駆け巡った。
米女さんから渡された一枚のチラシ。廊下で偶然出会った澁谷先輩と千砂都先輩。そして部室の小さな画面で見た、眩しいステージ。
大勢の歓声の中で歌い、踊り、それでも心から楽しそうに笑っていた五人の姿が、さっきよりもずっと近いものとして浮かび上がってくる。
ほんの少し前まで、ただ「すごい」と眺めていただけの場所。
そこへ今、自分が誘われている。
そう考えただけで、身体の奥が落ち着かなくなるような、不思議な感覚が広がっていった。
米女さんがあれだけ熱く語っていたスクールアイドル。手渡されたチラシに写っていたLiella!の五人と、部室で見せてもらったライブ映像。
眩しい照明に包まれたステージで、大勢の観客を前に歌って、踊って、それでも楽しそうに笑っていた五人の姿が頭の中に蘇る。
そして、その隣に———私?
「……」
想像してみようとした。
あのステージに立って、同じように衣装を着て、大勢の人から見られながら歌っている自分を。
けれど、何度考えてみてもまるで形にならない。それどころか、想像しようとすればするほど、客席いっぱいの視線だけが一斉にこちらへ向かってくるような気がして、背中がぞわっとした。
——無理だ。
できるとか、できないとか、それ以前の話だった。私があそこに立つなんて、どう考えても現実味がなさすぎる。
「む……」
「む?」
喉の奥から漏れた声に、澁谷先輩が不思議そうに首を傾げる。
その顔を見た瞬間、頭の中でぐるぐるしていたものが一気に口から飛び出した。
「無理っすううううううううううっ!!」
「ええっ!?」
「き、きな子なんか絶対無理っす! 歌えない! 踊れない! 人前なんてもっと無理っす!」
「ちょ、ちょっと待って桜小路さん!」
「ごめんなさいっすうううう!!」
勢いよく頭を下げる。ほとんど反射だった。このままここにいたら、また何か聞かれるかもしれない。もう一度誘われたら、今度こそ何を答えればいいのか分からない。
そう思った次の瞬間には、身体が勝手に動いていた。
「ま、待ってー!」
背中から澁谷先輩の慌てた声が追いかけてくる。
それでも振り返る余裕なんてなかった。肩からずり落ちそうになる鞄を押さえながら、私は逃げるように校門へ向かって走った。
春の風が頬にぶつかり、まだ履き慣れない靴が地面を何度も叩く。
どうしてこんなことになったんすか——!
そんなことを考えながら、とにかく今は、この場から少しでも遠くへ行くことしかできなかった。
◇
「はぁ……はぁ……」
どれくらい走ったのかも分からないまま、ようやく足を止めた。
その場で膝に両手をつき、乱れた呼吸を整えようと何度も息を吸い込む。慣れない全力疾走のせいで脚は重く、胸の奥では心臓がまだどくどくと大きな音を立てていた。
春先の空気はまだ少し冷たいはずなのに、走ったせいで頬が熱い。
「び、びっくりしたっす……」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ようやくここまでの出来事を思い返す。
Liella!に誘われた。それも、澁谷先輩がわざわざ追いかけてきて、私と一緒にやってみたいと言ってくれた。
もちろん、それにも驚いている。
でも今になって一番信じられないのは、あれだけ大きな声で断った挙げ句、その場から全力で逃げ出してしまった自分自身だった。
「もっと普通に断ればよかったっす……」
思い返した途端、さっきとは別の意味で顔が熱くなる。
澁谷先輩はただ誘ってくれただけなのに、私は「無理っす」と叫んで逃げてきた。明日また学校で顔を合わせる可能性だってあるのに、その時どんな顔をすればいいのか分からない。
いっそこのまま北海道まで走って帰れたら——なんて、できるはずもないことまで考えてしまう。
しばらくして呼吸が落ち着いてくると、私はゆっくりと身体を起こした。それでも胸の奥だけはまだ妙に騒がしい。
走ったせいだと思いながら、確かめるようにそっと胸元へ手を当てた。
「きな子が、スクールアイドル……?」
胸元へ手を当てたまま、澁谷先輩に言われたことをもう一度、自分の口で確かめるように呟いてみる。
言葉にした途端、さっき部室で見たステージが頭の中に蘇った。眩しい光に照らされながら、大勢の観客を前に歌って踊るLiella!の五人。その中に自分の姿を置いてみようとするけれど、やっぱりどうしても上手くいかない。
「……無理っす」
思わずぶんぶんと首を振る。
あんなにたくさんの人に見られながら歌って、踊って、笑うなんて、今までの自分からはあまりにも遠すぎる。澁谷先輩から直接誘われた今でさえ、自分がステージに立っている姿なんて少しも現実味がなかった。
「全然、想像できないっす……」
だからといって、スクールアイドルそのものが嫌なわけではない。
むしろ、今日初めて見たライブは素直にすごいと思ったし、画面を覗き込んでしまうくらい夢中にもなった。映像が終わったあとだって、あのステージが何度も頭の中に浮かんできた。
もう一度見てみたい。もっと知ってみたい。
そんな気持ちが自分の中にあることまで、なかったことにはできなかった。
それでも、自分がスクールアイドルをやるというところだけは、どうしても上手く繋がらなかった。
「運動だって得意じゃないし……」
歌だって、人前でまともに歌ったことなんてほとんどない。ダンスに至っては経験すらなく、今日見たLiella!のように大勢の観客を前に笑ってステージへ立つ自分なんて、どれだけ考えてみても想像できなかった。
やっぱり私には無理だ。
そう結論づけて、帰り道を歩き出そうとする。
「……でも」
なぜか、その足が止まった。
何となく後ろが気になって振り返ると、少し離れたところに結ヶ丘の校舎が見えた。
朝、初めてあの校舎を見上げた時とは、少しだけ違って見える。
あの時は、知らない人ばかりがいる知らない場所だった。これからここでやっていけるのかと不安ばかりが先に立っていたのに、今はもう、あの中に顔を思い浮かべられる人たちがいる。
米女さんと若菜さんがいて、澁谷先輩と千砂都先輩がいる。
そして、今日まで何も知らなかった世界が、あの校舎の中にある。
スクールアイドル。
「……キラキラしてたっす」
口から零れた言葉と一緒に、部室で見たライブが蘇る。
眩しい照明に照らされたステージと、そこに響く歌声。大勢の歓声を浴びながら、それ以上に楽しそうに笑っていた五人の姿は、時間が経った今でもはっきりと思い出せた。
スクールアイドルが嫌なわけじゃない。興味がないなんて、もう言えないと思う。
もっと見てみたいし、もっと知ってみたい。
ただ、その中に自分が入ることだけが怖かった。
もう一度校舎を見上げていると、澁谷先輩の言葉が耳の奥に蘇る。
『最初からできる人しかスクールアイドルになれないわけじゃないよ』
「そんなこと言われても……」
困ってしまう。
最初からできなくてもいいなんて言われたら、本当に少しだけなら、自分にも何かできるんじゃないかと考えてしまいそうになるから。
もし、本当にもしも。
私がスクールアイドルをやったら———。
そこまで考えたところで、また頭の中にあのステージが浮かびかけた。今度はその端に、自分の姿までぼんやりと入り込みそうになって。
「む、無理っす!」
慌てて首を振り、浮かびかけた想像を追い払う。
やっぱり無理だ。今の私には、そんな自分なんてどうしても想像できない。
そう言い聞かせて、今度こそ結ヶ丘に背を向けた。
それでも、帰り道を歩き始めてからも、頭の中から『スクールアイドル』という言葉は消えてくれなかった。
朝までは名前すらよく知らなかったはずなのに、今ではステージの光も、五人の笑顔も、あの楽しそうな歌声も知っている。
そして何より、澁谷先輩が最後に私へ向けた言葉が、何度も繰り返し蘇ってくる。
『桜小路さんも、スクールアイドルやってみない?』
断った。
無理だとも思っている。
それなのに、どうしてだろう。
駅へ向かって歩きながら、胸の奥だけがいつまでも、ほんの少し落ち着かなかった。
〇米女メイ
結ヶ丘女子高等学校1年生。
ぶっきらぼうで口調も強く、一見すると近寄りがたい雰囲気を持つが、実際は面倒見がよく情に厚い性格。スクールアイドルが大好きで、特にLiella!への思い入れは非常に強いものの、素直にそれを表に出すのは苦手。
音楽にも親しんでおり、ピアノを弾くことができる。加入後は持ち前の真面目さと音楽への理解を活かしながら、Liella!の一員として活動していく。幼なじみの若菜四季とは特に深い関係にある。
本作では、きな子と同学年の友人としてLiella!で共に活動していくほか、「ピアノ」という共通点から野山幸之助とも関わりを持つ(かもしれない)。かつてピアノを弾いていた幸之助と、現在も音楽を好むメイがどのような関係を築いていくかは、今後の物語で描いていく(かもしれない)。
〇若菜四季
結ヶ丘女子高等学校1年生。
物静かで感情を表に出すことが少なく、独特のテンポで話すクールな少女。一方で周囲のことはよく見ており、特に幼なじみの米女メイを非常に大切にしている。メイの気持ちを理解しているからこそ、時には彼女の背中を押す行動力も持つ。
科学が得意で、科学室に入り浸るほどの科学好き。*作の道具を作るなど発想や行動にも独特なところがあり、Liella!の中では冷静な観察役でありながら、時折かなり突飛な行動に出ることもある。
本作でもきな子・メイと同学年の友人として登場。入学直後からきな子と関わりを持ち、やがて共にLiella!で活動していくことになる。感情表現の分かりやすいきな子や不器用なメイとは対照的に、静かに周囲を観察しながら必要なところで手を差し伸べる存在として描かれる。