ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
学校の昇降口を抜けた私は、そのまま寄り道せず、まっすぐ家へ帰るつもりだった。少なくとも、学校を出た時まではそのつもりだったのだけれど。
「......」
気づけば私は、見覚えのある一軒のカフェの前に立っていた。
木製の看板に、入口の脇へ並べられた鉢植え。大きなガラス窓の向こうには、以前と変わらない落ち着いた店内が見える。
———Café Arbre
前に来た時は読み方すらよく分からなかった店名も、今ではちゃんと覚えている。
念のためスマートフォンを取り出して地図を確認してみると、現在地を示す印はきちんと目的の場所に重なっていた。駅からここまで、一度も道を間違えていない。
「今日は迷ってないっす」
誰も聞いていないのに、なぜか口に出してしまった。前にここへ来た時は、東京の道に迷って偶然この店を見つけただけだった。それが今日は、自分でここへ来ようと決めて、地図を見ながら一人でちゃんと辿り着くことができた。
東京で暮らしている人にとっては当たり前のことなのかもしれない。それでも、少しずつこの街に慣れてきたような気がして、ほんのちょっとだけ誇らしい。
スマートフォンを鞄へしまい、私は改めて店を見上げた。別に、何か特別な用事があるわけではない。
ただ、せっかく自分でここまで来られたのだから、少しくらい寄っていってもいいだろう。
そう自分に言い訳をしてから扉へ手をかけると、からん、と軽やかなベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、すぐに聞き覚えのある声がした。
顔を上げて声のした方を見ると、カウンターの近くにいた男の人とちょうど目が合う。
「あ」
「あ」
声が重なった。
数日前、この店で初めて会った人。そして偶然にも、私が子供の頃に憧れていたピアニストと同じ名前を持っていた人————野山幸之助さんだ。
「桜小路さん」
野山さんが、今度はちゃんと私の名前を呼んだ。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がほんの少しだけ明るくなる。前に会ったのは一度きりだったから、もしかしたら忘れられているかもしれないと思っていたけれど、どうやらちゃんと覚えていてくれたらしい。
東京へ来てからまだそれほど日も経っていない。学校では少しずつ知っている人も増えてきたけれど、それ以外の場所で私の名前を知っている人なんて、まだほとんどいなかった。
———だからなのかもしれない。
前は迷子になった末に偶然辿り着いただけのこの店に、自分を覚えていて、名前を呼んでくれる人がいる。そのことが、なんとなく嬉しかった。
「また来てくれたんですね」
「はいっす!今日は迷ってないっす!」
胸を張って答えると、野山さんが一瞬だけ黙った。
何も言ってはいない。それなのに、ほんの少しだけ目元が緩んだのを私は見逃さなかった。
「なんすか、その間は」
「いや、まだ何も言ってませんけど」
「顔が言ってたっす。『また迷ったのかな、この子』って」
「そこまで失礼なことは考えてませんよ」
野山さんはそう否定したけれど、なんとなく歯切れが悪い。じっと顔を見ていると、わずかに視線を逸らされた。
「じゃあ、ちょっとは思ったんすか?」
「......」
「やっぱり思ったんすね!?」
今度こそ確信して問い詰めると、野山さんは答える代わりに店内へ片手を向けた。
「お好きな席へどうぞ」
「誤魔化したっす!」
抗議する私を見て、野山さんは堪えきれなかったように小さく笑うと、そのまま仕事へ戻っていった。
絶対に少しくらいは思っていたはずっす。
そう確信しながらも、それ以上追及するわけにもいかず、私は少しだけ頬を膨らませて店内を見回した。
空いている席はいくつかあったけれど、自然と足が向いたのは窓際だった。椅子を引いて腰を下ろしてから、そこが数日前に座ったのと同じ席だということに気づく。
別に、ここを選ぼうと決めていたわけではない。それでも無意識に同じ場所を選んでいたことが、なんだか少しだけおかしかった。
「またここにしたっす」
座ってみると、やっぱりこの席はなんとなく落ち着く。窓の外を行き交う人たちをぼんやり眺められるのも、気に入っている理由の一つなのかもしれない。
鞄を隣の椅子へ置いてメニュー開く、流し目に一通り見た後、前回と同じアイスミルクティーを注文する。
それからしばらく窓の外を眺めていると、注文したグラスを手に野山さんがやってきた。
「お待たせしました」
「ありがとうっす」
目の前に置かれたグラスを手に取り、一口飲んでみる。ひんやりとした冷たさが口の中に広がって、学校からここまで歩いてきた身体にはちょうどよかった。
ほっと息をつきながらグラスをテーブルへ戻すと、さっきまで少しだけ残っていた疲れまで、一緒に抜けていくような気がした。
「そういえば」
「?」
グラスを置いたところで、野山さんから声を掛けられた。顔を上げると、仕事へ戻りかけていた野山さんがこちらを見ている。
「学校、どうでした?」
「......?」
一瞬、何のことだろうと思ったけれど、すぐに前回来た時の会話を思い出した。そういえば、春から結ヶ丘へ通うことを話していた。
「覚えてたんすね」
「そりゃ覚えてますよ」
「そうなんすね」
さらっと返されただけなのに、また少しだけ嬉しくなった。私はグラスから手を離し、昨日のことを思い返しながら答える。
「楽しかったっす!」
「それはよかった」
「もう、すっごい人がいっぱいだったっす!」
「すごい人?」
野山さんが少し興味を持ったように聞き返してくる。それだけで話したいことが一気に浮かんできて、私は自然と身を乗り出していた。
「最初に会った人は急に後ろから声かけてくるし、その友達は最初ちょっと怖かったんすけど、話してみたら二人とも面白い人だったっす」
「初日からなかなかですね」
「そうなんすよ! それだけじゃなくて———」
昨日一日のことを思い返しながら話していると、次から次へと言葉が出てきた。米女さんと若菜さんに出会ったこと。最初は少し怖いと思っていた米女さんが、スクールアイドルの話になると急に止まらなくなったこと。
そんな私の話を、野山さんは時々相槌を打ったり、少し笑ったりしながら聞いてくれる。
「初日からかなり濃いですね」
「きな子もそう思ったっす!」
野山さんは仕事の途中だから、もちろんずっと私のそばにいるわけではない。注文が入ればカウンターへ戻り、お客さんが来ればそちらへ向かう。それでも手が空くと、さっきの話の続きを聞くようにまた声を掛けてくれた。
誰かに学校であったことを話すのは、思っていたより楽しかった。北海道の家族にもあとで話すつもりではいるけれど、こうして目の前にいる相手が驚いたり笑ったりするのを見ながら話すのは、電話やメッセージとはまた少し違う。
そんなふうに昨日の出来事を順番に話していけば、当然、あの話にも辿り着く。
昨日一日の中で、一番強く頭に残っているもの。
スクールアイドルのことに。
「それで、前に野山さんが言ってたスクールアイドルにも会ったっす」
「Liella!?」
「そうっす! 本当に学校にいたっす」
思わず力を込めて言うと、野山さんが少しだけおかしそうに笑った。
「そりゃ、その学校の生徒ですからね」
「それはそうっすけど!」
言われてみればその通りなのだけれど、昨日までチラシや映像の中でしか知らなかった人たちが同じ学校の廊下を普通に歩いているというのは、やっぱり不思議な感じがする。
「それで、実際に会ってみてどうでした?」
「普通だったっす」
「普通?」
「あっ、違うっす! 悪い意味じゃなくて!」
口にしてから、昨日もまったく同じ失敗をしたことを思い出した。どうして私はまたこの言い方をしてしまうんすか。
野山さんに変な意味で受け取られないよう、慌てて両手を振りながら言葉を続ける。
「ライブだとすっごくキラキラしてたのに、普通に話してみたら、本当に私たちと同じ高校生なんだなって思ったんす」
「ライブも見たんですか?」
「映像を見せてもらったっす。すっごかったっすよ! 歌って、踊って、あんなにたくさんの人の前に立ってるのに、みんな楽しそうで......」
説明しているうちに、昨日画面を見ながら感じていたものが少しずつ蘇ってきた。
眩しいステージも、楽しそうに歌っていた五人の姿も、まだ思っていた以上にはっきりと覚えている。それを野山さんに伝えようとすればするほど自然と声が弾んで、気づけばさっきまでより身振りまで大きくなっていた。
「きな子、スクールアイドルなんて全然知らなかったけど、ちょっと分かった気がするっす」
「そうでしたか。随分気に入ったんですね」
「......」
何気なく返されたその言葉に、さっきまで弾んでいた声がぴたりと止まった。
気に入った。そう言われると、なぜかすぐには頷けない。けれど、あれだけ夢中になってライブのことを話していたのだから、野山さんから見ればそう思うのも当然なのかもしれなかった。
「桜小路さん?」
「......あの」
「はい」
「きな子、そのLiella!に誘われたっす」
「Liella!に?」
「スクールアイドル、やらないかって」
野山さんが目を丸くした。思っていなかった話だったらしく、少し間を置いてから素直に感心したような声が返ってくる。
「すごいじゃないですか」
「でも、断ったっす」
さっきまでの勢いが嘘みたいに声が小さくなり、私は手元のグラスへ視線を落とした。中の氷がわずかに溶けて、ストローの向こうで小さく揺れている。
「そうなんですね。興味なかったんですか?」
その問いに、今度はすぐ答えることができなかった。
今朝までの私なら、きっと「そうっす」と頷けたと思う。歌もダンスもできないし、Liella!の練習についていけるとも思えない。だから自分には無理で、興味だってないのだと、そう言ってしまえば話は簡単に終わる。
けれど、今はそれを口にすることに妙な抵抗があった。ついさっきまでライブのことを話していた自分が、明らかに楽しんでいたことくらい自分でも分かっている。それに澁谷先輩からも、ライブを見ている時にずっと楽しそうだったと言われたばかりだ。
それなのに「興味がない」と答えるのは、なんだか自分で自分に嘘をついているような気がした。
「興味は......あるっす」
少し迷ってから、ようやくその言葉を口にした。
自分の中では、もうなんとなく分かっていたのかもしれない。昨夜から何度もスクールアイドルのことを考えて、今日だって教室でその話が聞こえただけで気になってしまった。それでも、こうして誰かに向かって「興味がある」とはっきり認めたのは初めてだった。
言ってしまうと、思っていたよりもすんなり胸の中に収まった。
「ライブもすっごかったし、もっと見てみたいって思ったっす」
「じゃあ、何が引っかかってるんですか?」
「それは——」
改めて聞かれると、今度はすぐに答えられなかった。
グラスの中で氷が小さく鳴り、私は考えを整理するようにストローを指先で弄る。何が不安なのかは、昨夜から何度も考えてきたはずだった。
「きな子、歌なんてやったことないっす」
「はい」
「ダンスもできないっす」
「はい」
「運動も得意じゃないっす」
「はい」
そこまで並べても、野山さんは否定するでも励ますでもなく、ただ続きを待つように相槌を打っている。
「————そこは何か言ってほしいっす」
「まだ続きがありそうだったので」
「あるっすけど」
あまりにも普通に返されて、思わず肩の力が抜けた。
さっきまで少し言いづらかったはずなのに、野山さんが変に励ましたり否定したりせず聞いてくれているせいか、もう少しだけ話してみようという気になる。
私は弄っていたストローから指を離すと、胸の中に残っている一番大きな不安を言葉にした。
「今日、学校で聞いたっす。Liella!はラブライブ!で優勝するために、すっごく練習してるって」
「そうなんですね」
「一年生が入っても、ついていくのは大変なんじゃないかって」
そこまで話してから、私は一度言葉を区切った。朝はその話を聞いて、自分には無理なのだと納得したはずだった。でも、澁谷先輩と話して「見るだけでもいい」と言われてから、その結論にも少しだけ自信がなくなっている。
「きな子、何にもできないっす。それなのに、そんなところに入っていいのかなって」
野山さんは何も挟まず、静かに私の話を聞いていた。
歌もできない。ダンスもできない。そんな自分が、本気でラブライブ!の優勝を目指している人たちの中へ入っていいのか。それが怖いのだと口にしてみると、昨夜から抱えていた不安の形が少しだけ見えたような気がした。
「それに......」
続きを言いかけたところで、言葉が喉の奥に引っかかった。
これはスクールアイドルとは関係のない話かもしれない。歌やダンスとピアノは違うし、昔のことを今ここで持ち出す必要だってないはずだ。
それでも、何か新しいことを始める自分を想像するたびに、ずっと胸の奥に残っていた記憶がある。
野山さんは急かすことなく、私が続きを話すのを待っていた。私はしばらくグラスの中で揺れる氷を見つめてから、迷いながらもゆっくりと口を開く。
「きな子、昔ね。———ピアノやってたことがあるっす」
—————その言葉を聞いた瞬間、野山さんの表情がほんのわずかに止まった。
目を見開いたわけでも、何かを聞き返したわけでもない。ただ、それまで自然にこちらへ向けられていた視線が、一瞬だけ動きを失ったように見えた。
けれど、それも本当に一瞬のことで、私が気に留めるより先に、野山さんはいつもの表情へ戻っていた。
「そうなんですね」
「はいっす」
野山さんの返事を聞きながら、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
目の前にいる人は、もしかしたら私が子供の頃に憧れていた、あの野山幸之助本人なのかもしれない。もし本当にそうなら、私は昔、この人の演奏を見たことがきっかけで———。
そこまで考えたところで、慌てて思考を打ち切った。
今は、そのことを確かめたいわけじゃない。
「でも、やめちゃったっす」
口にすると、昔ピアノの前に座っていた頃のことがぼんやりと蘇ってきた。
「誰かにやめろって言われたわけじゃないっす。きな子が、自分でやめたっす」
始めたばかりの頃は、確かに楽しかった。画面の向こうで見た演奏みたいに、自分もいつか綺麗に弾けるようになりたくて、鍵盤へ指を置いて簡単な曲から何度も練習した。
初めて一曲を最後まで弾けた時の嬉しさも、もっと上手になりたいと思っていたことも、今でもちゃんと覚えている。
けれど、続けていれば当然、思い通りにいかないことも増えていった。同じところで何度も間違えて、練習してもなかなか上手く弾けなくて、それでも練習しなければ上達しない。そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にかピアノへ向かう時間そのものが少しずつ減っていった。
今日はいいや、明日やればいい。そうやって後回しにする日が増えて、気づいた時にはほとんど鍵盤に触れなくなっていた。
別に、何か大きな出来事があったわけじゃない。悩みに悩んでやめると決めたわけでもなく、ただ少しずつ離れて、そのまま弾かなくなっただけだった。
あの頃は、それで終わったのだと思っていた。
けれど時間が経ってから、ふとした時に思い出すことがある。
もし、あの時もう少しだけ続けていたら。
そんな、今さら答えの出しようもないことを。
——もし続けていたら。
——今頃、どれくらい弾けていたんだろう。
私は膝の上で両手を握り、少しだけ俯いた。
「だから、また何か始めて———同じみたいになるのが嫌なんす」
口にしてみると、自分で思っていたよりもその言葉は重く感じられた。
ピアノをやめたことをずっと後悔しているわけではないし、今でも続けていればよかったと毎日のように考えているわけでもない。それでも、新しいことを始めようとした時に、あの頃の自分が頭をよぎってしまう。
野山さんは何も言わず、続きを待つようにこちらを見ていた。
「Liella!の皆さんは本気なんす。ラブライブ!で優勝するっていう目標があって、そのためにずっと練習してるっす」
「はい」
「そんなところに『ちょっと興味あるからやってみたいっす』って入って、それで大変になったら『やっぱり無理でした』って。きな子、そういうのは嫌っす」
昨日見たライブが頭に浮かぶ。ステージの上にいた五人は本当に楽しそうで、あんなふうになれたらすごいとも思った。
けれど、その笑顔の裏でどれだけ練習して、どれだけ大変なことを乗り越えてきたのか、私はまだ何も知らない。きっと、ただ憧れて飛び込めば同じ場所に立てるほど簡単なものではないはずだ。
だからこそ、中途半端な気持ちで始めることが怖かった。
「やるって決めるなら、ちゃんとやりたいっす。今度は、途中で簡単に投げ出したくないっす」
そこまで言い切って、握っていた手からゆっくりと力を抜いた。
歌えないことも、踊れないことも不安ではある。でも、たぶん私が一番怖がっているのはそこじゃない。
始めたあとで、自分から諦めてしまうこと。
ようやく言葉にできたことで、自分でも初めてそれが分かった気がした。
向かいにいる野山さんはすぐには何も言わず、ただ少しだけ目を細めて私を見ていた。
「なるほど」
野山さんはそれだけ言うと、私の話を頭の中で整理するように少しだけ間を置いた。
「桜小路さんは、やりたくないわけじゃないんですね」
「......え?」
「スクールアイドルをやりたくないんじゃなくて———」
そこで一度言葉を切り、野山さんは少し考えるように視線を落とした。それからもう一度こちらを見る。
「やるって決めるのが怖いんじゃないですか」
すぐには何も返せなかった。
その言葉を聞いた瞬間、昨夜からずっと胸の中で絡まっていたものを、代わりにほどいてもらったような気がした。
私はスクールアイドルをやりたくないわけじゃない。ライブを見た時は素直にすごいと思ったし、もっと見てみたいとも思っている。どんな練習をしているのかも気になるし、スクールアイドルというものをもっと知りたいという気持ちだって、もう否定できない。
それでも、自分がやると決めることだけは怖かった。
一度その中へ飛び込んでしまえば、「やっぱり無理でした」では済ませたくない。もしみんなについていけなかったら、途中で苦しくなったら、そしてまた、ピアノの時と同じように自分から離れてしまったら———。
そんなことばかり考えているから、最初の一歩を踏み出すことさえ怖くなっていたのかもしれない。
野山さんに言われて初めて、自分が何を怖がっていたのか、その輪郭がはっきり見えた気がした。
「......そう、かもしれないっす」
ようやくそれだけ答えると、不思議なくらいその言葉が胸の中にすんなり収まった。できないから嫌なのではなく、始めたあとでまた諦めてしまうのが怖い。そう考えれば、昨日からずっと自分でも説明できなかった迷いにも納得がいく。
野山さんはそんな私を見ながら少し考えたあと、落ち着いた口調で言った。
「だったら、無理に今決めなくてもいいんじゃないですか」
「—————え?」
思ってもいなかった答えに、私は反射的に顔を上げた。
ここまで話せば、「それならやってみればいい」と背中を押されるものだと思っていた。それなのに、野山さんはむしろ今すぐ決める必要はないと言う。
「桜小路さんの話を聞いてると、軽い気持ちで始めたくないんですよね」
「......はいっす」
「だったら、軽い気持ちで決めなきゃいいと思います」
言っていることは分かる。それでも、決めることを先延ばしにしたところで、今抱えている不安がなくなるとも思えなかった。
「でもそれじゃあ、いつまで経っても決められない気がするっす」
「そうですか?」
「だって、きな子がスクールアイドルに向いてるかなんて、今のきな子には分からないっす」
「それは俺にも分かりません」
「......」
あまりにも迷いのない即答だったので、思わず言葉を失った。
ここは少しくらい「向いていると思いますよ」と励ましてくれるところじゃないんすか。
そんな不満が顔に出ていたのか、野山さんはわずかに苦笑してから言葉を続けた。
「無責任に『桜小路さんなら絶対向いてますよ』って言われたいですか?」
「それは......嫌っす」
「でしょう?」
「むぅっ」
言われてみればその通りで、反論しようにも言葉が見つからなかった。励ましてほしいわけではないし、何の根拠もなく「大丈夫」と言われたところで、今抱えている不安が消えるとも思えない。
それでも、あまりにもあっさり言われたのが少しだけ悔しくて、私は不満を誤魔化すようにストローの先を指でつついた。
「それに、向いてるかどうかと、やりたいかどうかは別じゃないですか」
「......?」
「最初からできるかどうかだけで、やるかどうかまで決めなくてもいいんじゃないですか、ってことです」
野山さんの言いたいことはなんとなく分かる。でも、それだけではまだ引っかかるものがあった。
「でも、できなかったら迷惑かけるっす」
「それを俺に聞かれても、Liella!の人たちじゃないので分かりませんよ」
「それはそうっすけど......」
また正しいことを言われてしまった。
私がついていけるのか、初心者が入ったら迷惑になるのか。それを決めるのは野山さんでも私でもなく、実際に活動しているLiella!の皆さんなのだろう。
言い返せずにいると、野山さんは少しだけ声の調子を落として続けた。
「ただ、何も知らないまま『自分には無理だからやらない』って決めるのも、逆に『楽しそうだからやる』って決めるのも、桜小路さんが嫌なら——」
そこで一度言葉を切ると、野山さんは考えを押しつけるでもなく、確かめるようにこちらを見た。
「自分が納得できるまで知ってから、決めればいいんじゃないですか」
「......知ってから?」
「はい。今の桜小路さんって、スクールアイドルのことをほとんど知らないんですよね?」
「そう...っすね」
言われてみれば、その通りだった。
昨日初めてスクールアイドルというものを知って、Liella!のライブ映像を見て、今日になって教室で練習が厳しいという話を聞いただけ。自分には無理だと何度も考えていたくせに、その判断に使っていたもののほとんどは、まだ誰かから聞いた話でしかなかった。
「知らないなら、まず知ってみればいいと思います。そのあとでやりたいと思うかもしれないし、やっぱり違うと思うかもしれない。それなら、その時に決めればいいんじゃないですか」
「......」
やるか、やらないか。その二つのどちらかを、今すぐ選ばなければいけないと思っていた。
けれど、その前に自分の目で見て、知って、それから考えるという道だってある。
「—————知ってから、決める」
確かめるように口にした瞬間、少し前に聞いた声が頭の中に蘇った。
『もし、ちょっとでもスクールアイドルに興味があるなら、いつでも練習見に来て』
澁谷先輩も、見るだけでいいと言ってくれた。
入るかどうかは抜きにして、興味があるなら練習を見に来てほしい、と。
「—————あ」
今になって、二人の言葉が自分の中でつながった気がした。
練習を見に行くことは、スクールアイドルになると決めることじゃない。ただ、今の私が知らないものを、自分の目で確かめに行くことなんだ。
それならできるかもしれない。
そう思ったはずなのに、胸の奥にはまだ何かが残っていた。
「でも......」
「はい?」
「ちゃんと知ったら、決められるんすかね」
口にしてから、自分でも少し変な質問だと思った。野山さんに聞いたところで、未来の自分が答えを出せるかどうかなんて分かるはずもない。それでも、ここまで話を聞いてもらったせいか、胸の中に浮かんだ疑問をそのまま口にせずにはいられなかった。
「それは分かりません」
「またそれっすか」
あまりにも迷いのない返事に、張っていた肩から思わず力が抜ける。もう少しくらい安心できる言葉をくれてもいいんじゃないかと思いながら、私は少し不満そうに野山さんを見た。
「そこはもうちょっと、こう、『きっと大丈夫ですよ』とかないんすか?」
「俺が言ったら決められるんですか?」
「うっ」
痛いところを突かれて、続けようとしていた言葉がそのまま喉の奥へ引っ込んだ。野山さんはそんな私を見て少しだけ笑っていたけれど、次に口を開いた時には、さっきまでよりも真面目な表情に戻っていた。
「結局、最後に決めるのは桜小路さんですから」
「きな子が......」
「俺は桜小路さんのことをまだよく知らないですし、スクールアイドルについても詳しくありません。だから、やった方がいいとも、やめた方がいいとも言えません」
言われてみれば当然のことだった。野山さんに相談したからといって、私の代わりに答えを出してもらえるわけではないし、それは自分でも分かっている。
それでも、最後は自分で決めなければならないのだと改めて言われると、さっき少しだけ軽くなったはずの胸の奥に、また別の迷いが顔を出した。自分で決めるのが怖いからこうして悩んでいるのに、その答えをまた自分に返されてしまった。
「じゃあ、野山さんならどうするっすか?」
「俺ですか?」
「はいっす。もし野山さんがきな子だったら、スクールアイドルやるっすか?」
せめて参考くらいにはなるかもしれない。
そんな気持ちで尋ねると、野山さんは少し考えるように黙り込んだ。けれど、数秒後に返ってきた答えは——
「分かりません」
「えぇ......」
少しくらい参考になる答えが返ってくると思っていただけに、あまりにもあっさり否定されて、思わず情けない声が漏れた。
「そこはなんかあると思ったっす」
「だって俺、桜小路さんじゃないですから」
「むぅ......」
また正論を返されてしまい、私は不満を隠さず頬を膨らませた。けれど、野山さんはそんな私の反応にも特に困った様子を見せず、落ち着いた口調のまま話を続ける。
「俺がどうするかと、桜小路さんがどうしたいかは別ですよ」
それはさっきも言われたばかりで、自分でも分かっている。それでも、何か一つくらい答えをもらえたら楽なのにと思ってしまうあたり、私はまだ誰かに背中を押してほしいのかもしれなかった。
「俺が『やった方がいい』って言って、それで桜小路さんが始めても、逆に『やめた方がいい』って言って、それで諦めても———」
野山さんはそこで一度言葉を切り、少しだけ考えるように間を置いた。
「何かあった時、たぶん後悔すると思いますよ」
「......後悔」
それまでの言葉とは違って、その一言だけが妙にはっきりと胸の奥へ落ちてきた。自分で決めることから逃げようとしていたことを指摘された時よりも、「後悔」という言葉の方がずっと重く感じられる。その理由を考えるより先に、頭の中には昔の自分と、長いこと触れていないピアノの鍵盤が浮かんでいた。
やめたことを毎日後悔しているわけではないし、あの頃の自分にはあの頃なりの理由があった。それでも時々、もしもう少し続けていたら、今の私は何か違っていたんだろうかと考えてしまうことがある。
「だから、桜小路さんには後悔しない選択をしてほしいとは思います」
野山さんの言葉を聞きながら、私はすぐに返事をすることができなかった。
後悔しない選択。言葉にしてしまえば簡単なのに、いざ自分のこととして考えてみると、それが何なのかは少しも分からない。
スクールアイドルをやらなければ、いつか今日のことを思い出して「あの時やっていれば」と考えるかもしれない。けれど、やると決めたところで、Liella!の練習についていけず苦しくなれば、今度は「やらなければよかった」と思うかもしれない。
どちらを選んでも、その先に何が待っているのかは今の私には分からないし、未来の自分がどう感じるのかなんて、もっと分からなかった。
「でも......未来のことなんて分からないのに、どうやって後悔しない方を選ぶんすか?」
考えても答えが見つからず、そのまま疑問を野山さんへぶつけた。
野山さんはすぐには答えず、私の言葉を受け止めるように少しだけ視線を落とす。しばらくして顔を上げた時、その表情はどこか穏やかだった。
「後悔しない方を選ぶ、って考えるから難しいんじゃないですか」
「......え?」
思っていたものとは違う答えに、私は思わず野山さんの顔を見返した。けれど、野山さんは特に言い直す様子もなく、そのまま静かな口調で続ける。
「どっちを選んだって、迷う時はあると思います。やって失敗したら、やらなきゃよかったと思うかもしれないし、やらなかったら、やっておけばよかったと思うかもしれない。選ぶ時点で未来のことなんて分からないんですから、絶対に後悔しない方なんて誰にも分からないですよ」
それでは、さっき言っていた「後悔しない選択」とは何なのだろう。矛盾しているようにも聞こえるのに、野山さんが適当なことを言っているようには見えなかった。むしろ、その先にまだ何か続きがあるような気がして、私は少し身を乗り出す。
「じゃあ、どうしたらいいんすか?」
問いかけると、野山さんはほんの少し考えるように間を置いた。それから、今度は迷うことなく私を見る。
「まず、自分で決めるんです」
「自分で......」
「ちゃんと知って、ちゃんと考えて、それでもやりたいと思ったなら、自分でやると決める。そうしたら———」
野山さんはそこで一度言葉を切った。さっきまでと変わらない穏やかな口調だったのに、続いて紡がれた言葉だけは、不思議なくらいまっすぐ耳の奥へ届いた。
「決めたことを、やり通す」
思わず息を止めるようにして、その言葉を聞いていた。
「最初から正しい選択が分かる人なんていませんよ。だったら、自分で決めて、その選択を自分で正解にしていくしかないんじゃないですか」
すぐには何も返せなかった。
私はずっと、始める前から自分にできるかどうかばかりを気にして、失敗しない方、後悔しない方を選ぼうとしていた。どちらへ進めば間違えないのか、最初から答えが分かっていなければ怖くて、そのせいで一歩を踏み出すことすらできずにいた。
けれど、野山さんの言う通り、そんな答えを今ここで見つけることなんて、そもそもできないのかもしれない。
選ぶ前から正解が決まっているわけではないのなら、大切なのは選んだあとに自分がどうするのか。そう考えると、さっきまでずっと探していた「後悔しない選択」というものが、少しだけ違って見えた。
「何かを成し遂げたいなら、結局それしかないと思いますよ」
野山さんは最後まで声を強めることなく、静かにそう言い切った。
それなのに、その言葉には妙な説得力があって、私は返事をすることも忘れたまま、しばらく野山さんの顔を見つめていた。
「—————野山さん」
「はい?」
「今の、すっごく格好よかったっす」
「そうですか?」
「そうっすよ。きな子、ちょっと感動したっす」
素直にそう伝えると、野山さんは一瞬だけ目を丸くした。てっきり照れながら笑うのかと思ったのに、なぜかすぐに気まずそうに視線を逸らし、何か言いにくそうに口を開く。
「......まあ」
「?」
「これ、俺の好きな作品のヒロインが似たようなこと言ってたんですけどね」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。けれど、その意味を理解するにつれて、数秒前まで胸の中にあった感動がものすごい勢いでしぼんでいく。
「野山さんの言葉じゃないんすか!?」
「いや、俺なりには解釈してますよ」
「今ちょっと感動してたきな子の気持ち返してほしいっす!」
「そこまで言います?」
「言うっす!」
思わず声を上げると、野山さんは堪えきれなくなったように笑った。なんだかうまく誤魔化されたような気がして、私は不満を込めて頬を膨らませる。
それでも不思議なことに、元になった言葉が別にあると知ったからといって、さっき野山さんから聞いた言葉まで軽くなったようには感じなかった。
ちゃんと知って、ちゃんと考えて、そのうえで最後は自分で決める。そして、一度決めたのなら簡単には投げ出さず、自分が選んだものと向き合っていく。
今の私には、まだその全部をできる自信なんてないし、スクールアイドルをやると決めたわけでもない。それでも、何も知らないまま怖がっていた時とは違って、まず何をすればいいのかだけは、少しずつ見えてきたような気がした。
「それじゃ、仕事戻りますね」
「あ、はいっす。ありがとうっす」
「俺、ほとんど何もしてないですけど」
「そんなことないっす」
そう答えると、野山さんは小さく笑って仕事へ戻ろうとした。
その背中を何気なく目で追っていたところで、さっきまでとは別のことがふと頭をよぎる。
自分から口にした、昔のピアノの話。
野山さんに相談している間はスクールアイドルのことで頭がいっぱいだったけれど、話し終えた今になって、ずっと胸の片隅にあったもう一つの疑問が再び顔を出した。
野山幸之助という名前を初めて聞いた時から、ずっと気になっていたことだ。
子供の頃、画面の向こうでピアノを弾いていた男の子と、今この店で働いている野山幸之助さん。名前が同じというだけなら偶然なのかもしれないし、まだ本人だと決まったわけでもない。
けれど、もし本当に同じ人だったら。
私はこの人の演奏を見て、ピアノを始めたことになる。
「あの、野山さん」
考えているうちに、気づけば呼び止めていた。
野山さんが足を止め、こちらを振り返る。
「はい?」
「野山さんって———」
そこまで口にしたところで、続くはずだった言葉が喉の奥に引っかかった。
聞くこと自体は難しくない。
昔、ピアノを弾いていたことはありますか。
たったそれだけ聞けば、この疑問には答えが出るかもしれない。
なのに、いざ本人を前にすると、その一言がどうしても出てこなかった。
私はついさっき、自分が昔ピアノを習っていて、それを途中でやめてしまったことまで野山さんに話している。
もし目の前にいる人が、本当にあの野山幸之助だったら。子供の頃の私がその演奏に憧れて、自分もあんなふうに弾いてみたいと思った、その本人だったら。
そんな相手に、私は何も知らず「途中でやめたっす」と話してしまった。
そう考えた途端、今さらになって急に恥ずかしさが込み上げてきた。
もちろん、野山さんがそんなことで私を責めるとは思っていない。それでも、かつて憧れていたかもしれない相手に、自分がその憧れを最後まで続けられなかったことを知られていると思うと、どうしてもその先を聞く勇気が出なかった。
「......」
「桜小路さん?」
「—————ううん、なんでもないっす」
一度は呼び止めておきながら、結局その先を言えないまま視線を逸らした。野山さんはますます不思議そうな顔をしている。
「本当になんでもないっす!」
「そうですか?」
「はいっす!」
「ならいいですけど」
勢いで押し切るように答えると、野山さんはまだ少し気になっているようだったけれど、それ以上追及してくることはなかった。そのまま仕事へ戻っていく背中を見送りながら、私は誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
「また、聞けなかったっす」
前にこの店へ来た時も、結局確かめることはできなかった。今日こそ聞けるかもしれないと思っていたわけではないけれど、こうして二度も機会を逃してしまうと、いったいいつになったら聞けるんだろうと思ってしまう。
けれど、今すぐ知らなければ困ることでもない。本人だったとしても、そうではなかったとしても、目の前の野山さんが急に別の人になるわけではないのだから。
そう自分に言い聞かせながら、私はもう一度グラスへ口をつけた。話し込んでいる間に時間が経っていたらしく、中に残っていた氷はいつの間にか随分と小さくなっている。
冷たさの薄くなった飲み物を口にしながら、それでもさっき聞けなかった問いだけは、まだ胸の片隅に残っていた。
◇
「ごちそうさまでしたっす!」
「ありがとうございました」
会計を済ませて鞄を肩へ掛けると、来た時よりも店内へ差し込む光が随分と柔らかくなっていた。窓の外もすっかり夕方の色に変わっていて、思っていた以上に長く話し込んでいたらしい。
それでも不思議と長居をしたような感覚はなく、私は鞄の位置を直してから出口へ向かった。
「桜小路さん」
「?」
扉へ手を伸ばしかけたところで呼び止められ、振り返る。野山さんはカウンターの向こうから、いつもと変わらない穏やかな表情でこちらを見ていた。
「気をつけて帰ってください」
「大丈夫っす! 今日は迷わないっす!」
「今日は?」
言われてから、自分が余計な一言を付け足してしまったことに気づいた。
野山さんと目が合ったまま、なんとも言えない沈黙が流れる。
「......今のなしっす」
「はい」
素直に頷いているけれど、口元がほんの少しだけ上がっているのを私は見逃さなかった。
「絶対笑ってるっす」
「笑ってませんよ」
「笑ってるっす!」
否定したところでもう遅い。どう見ても笑っている。
抗議するように野山さんを睨んでみたものの、本気で腹が立っているわけでもなく、気づけば私の口元にも同じように笑みが浮かんでいた。
ここへ来た時には、スクールアイドルのことを考えるだけで頭の中がぐるぐるしていたはずなのに、今は少しだけ肩の力が抜けている。
答えはまだ出ていない。
それでも、答えを出す前にできることなら、もう見つかった気がした。
「それじゃ、またっす!」
「はい。また」
からん、とベルの音を背中で聞きながら店を出ると、春の夕方の空気が頬を撫でた。
駅へ向かって歩き始める。今日はもう地図を開かなくても、最初の角をどちらへ曲がればいいのか分かっていた。前に来た時は野山さんに何度も教えてもらった道を、今は自分一人で歩いている。
たったそれだけのことなのに、少しだけ嬉しい。
けれど、道に迷わなくなった代わりに、頭の中はこの店へ来た時よりもずっと忙しくなっていた。
『自分が納得できるまで知ってから決めればいいんじゃないですか』
歩きながら、さっきの野山さんの言葉を思い返す。それに続いて、もう一つの言葉も頭の中に蘇った。
『ただ、後悔しない選択をしてほしいとは思います』
「後悔しない選択......」
小さく口にしてみても、やっぱり簡単には答えが出なかった。
ピアノをやめたことを、今でもずっと後悔しているわけではない。あの頃の私にはあの頃なりの理由があって、練習するのが嫌になったことも、思うように弾けなくて面白くなくなったことも、全部本当の気持ちだった。
それでも今になって、ふと考えてしまうことがある。
もし、あの時もう少し続けていたら。諦めずに練習を続けていたら、今頃どんな曲を弾けるようになっていたんだろう。
その答えを知ることは、もうできない。私はあの時、ピアノから離れることを選んだから。
「今度も、そうなるんすかね」
自然と歩く速度が緩くなった。
スクールアイドルをやらないと決めること自体が悪いわけじゃない。本当にやりたくないのなら、無理に始める必要なんてないし、野山さんだってやった方がいいとは一度も言わなかった。
けれど、今の私は本当に「やりたくない」のだろうか。
「興味は......あるっす」
店の中でも口にした言葉を、もう一度自分に向けて呟いた。
ライブをもっと見てみたいし、スクールアイドルについても知りたい。澁谷先輩たちがステージで歌っている姿は、本当にキラキラしていて、今でも目を閉じればあの光景を思い出せる。
それなのに私は、自分にはできそうにないという理由だけで、そこから目を逸らそうとしていた。
今朝だってそうだった。
Liella!の練習は厳しい。一年生、それも初心者が入れば、きっとついていくのは大変だ。そんな話を耳にした時、私はどこか安心していた。ほら、やっぱり無理だった。昨日断ったのは間違っていなかったんだ、と。
そこまで考えたところで、私はふと足を止めた。
「......でも、きな子、自分で見てないっす」
行き交う人たちが、立ち止まった私の横を次々と通り過ぎていく。
今朝聞いたのは、あくまで誰かが話していた噂だ。Liella!が普段どんな練習をしているのか、どれくらい大変なのか、ラブライブ!で優勝するためにどれだけ本気で取り組んでいるのか、私はそのどれも自分の目では見ていない。
昨日見たのは、ステージの上で完成した姿だけだった。
あの場所に立つまでに何をしているのか、その裏側を私はまだ何も知らない。
『もし、ちょっとでもスクールアイドルに興味があるなら、いつでも練習見に来て』
今度は、澁谷先輩の声が蘇った。
「見るだけでもいいって、言ってたっすね」
練習を見に行ったからといって、Liella!に入ると決める必要はない。スクールアイドルをやると約束するわけでもなく、ただ自分が知らないものを、自分の目で確かめに行くだけだ。
そう考えると、朝まで感じていた怖さがほんの少しだけ薄くなった。
むしろ、何も知らないまま「きな子には無理」と決めてしまう方が、今は違うように思える。
Liella!はラブライブ!での優勝を目指して、本気で活動している。だからこそ、私も簡単な気持ちで「やってみたい」とは言いたくない。
もしやると決めるなら、今度はちゃんとやりたい。途中で簡単に投げ出したくない。
だったら、その前に知らなければいけない。
「ちゃんと見てみるっす」
Liella!が普段どんな練習をしているのか。あのステージに立つために何をしていて、自分がその中へ入るということがどういうことなのか。
まずは、自分の目で確かめてみたい。
そこまで考えたところで、ふと顔を上げた。
東京の街の向こうに広がる空は、少しずつ夕暮れの色を濃くしている。北海道で見ていた景色とは何もかも違うのに、こうして一日が終わっていく空だけは、どこか同じようにも見えた。
「それから......きな子がどうしたいのか、ちゃんと考えるっす」
やるのか、やらないのか。その答えはまだ分からないし、自分がステージに立って歌っている姿だって、相変わらずうまく想像できない。
もしかしたら実際の練習を見て、やっぱり自分には無理だと思うかもしれない。それなら、その時にもう一度考えればいい。
ただ、何も知らないまま怖がって、自分から目を逸らすのはもうやめよう。
そう決めると、止まっていた足が自然と前へ出た。
さっきまでと同じ帰り道のはずなのに、不思議と足取りは少しだけ軽くなっている。
「よしっ」
明日、澁谷先輩に言おう。
スクールアイドルになるかどうかは、まだ分からない。
それでも、まずは———。
Liella!の練習を、見せてほしいって。