ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
—————閉店時間を過ぎた店内には、昼間とは違う静けさが広がっていた。
最後の客を見送ってからしばらく経ち、テーブルに残されていたグラスやカップもほとんど片付いている。営業中に流していた音楽もすでに止めてしまったから、聞こえてくるのは食器同士が触れ合う小さな音と、店内を歩く俺の足音くらいだった。
布巾を片手に残ったテーブルを順番に片付けていき、最後に窓際の席へ向かう。今日、桜小路さんが座っていた場所だった。
『きな子、昔......ピアノやってたことがあるっす』
テーブルを拭いていた手が、ほんの一瞬だけ止まった。
ピアノという言葉を聞くこと自体は別に珍しくないし、子供の頃に習っていたという話ならなおさらだ。それなのに、あの時の桜小路さんの声だけが妙に頭へ残っているのは、単純に俺にとってその楽器が昔からあまりにも近すぎたからなのかもしれない。
『でも、やめちゃったっす』
何度も練習して、それでも思うように弾けなくなって、少しずつピアノから離れていった。もし続けていたら、今頃どれくらい弾けるようになっていたんだろう———桜小路さんは、そんなことを今でも時々考えるのだと言っていた。
そして、その経験があるからこそ、今度は興味だけで何かを始めて、簡単に投げ出してしまうことを怖がっている。
「真面目だな......」
思わず声に出してから、もう一度布巾を動かした。もっと単純に考えてもいいんじゃないかとは思う。
高校一年生なのだから、興味があるなら一度やってみればいいし、実際にやってみて合わなければ別の道を探したっていい。そういう考え方だって、何も間違いではない。
ただ、桜小路さん自身はそうしたくないらしい。やると決めるならちゃんとやりたいし、途中で簡単には投げ出したくない。だからこそ、その最初の決断にあれだけ悩んでいるのだろう。
昨日までほとんど知らなかったスクールアイドルのことで、あそこまで真剣に悩めるのだから、少なくとも適当に物事を決める人ではないらしい。
テーブルを拭き終え、少しずれていた椅子を元の位置へ戻したところで、今度は自分が桜小路さんへ言った言葉が蘇ってきた。
『自分で決めて、その選択を自分で正解にしていくしかないんじゃないですか』
「............」
我ながら、随分と偉そうなことを言ったものだと思う。
正しい選択なんて、選ぶ前から分かるはずがない。だから自分で選び、その先で選んだものと向き合っていくしかない———桜小路さんにはそう言ったし、別に間違ったことを言ったつもりもなかった。
ただ、それを自分自身に向けても同じように言えるかと考えると、話は少し変わってくる。
布巾を置き、何気なく店の奥へ視線を向けた。そこにあるものが目に入った瞬間、無意識に呼吸が浅くなった。
—————壁際に置かれた、一台のピアノ。
この店で働き始めてから何度も目にしてきたものだし、今日突然そこに現れたわけでもない。それなのに今夜に限っては、妙にその存在が大きく見えた。
「——っ」
すぐに視線を逸らし、手元の布巾を畳み直す。いつも通り、そこにあるものとして放っておけばいい。わざわざ意識する必要なんてない。
そう思って片付けへ戻ろうとした時、また桜小路さんの声が頭に蘇った。
『きな子、昔......ピアノやってたことがあるっす』
俺が昔ピアノを弾いていたことを、彼女は知らない。あの話だって、自分のことを説明するために出しただけだろう。
だから、あの言葉に俺への意味なんてない。分かっているのに、気づけばもう一度ピアノを見ていた。
「何やってんだか......」
小さく呟きながら、いつの間にか足がそちらへ向いていた。
手を伸ばせば届くところまで来て、ようやく立ち止まる。掃除の時に近くを通ることはあっても、こうしてピアノそのものを見るために目の前へ立つのは久しぶりだった。昔は、こんなふうに考えることすらなかった。
物心がついた頃にはすでに弾いていて、学校から帰れば練習し、レッスンへ通い、コンクールが近づけば普段より長い時間をピアノの前で過ごした。別に、それが嫌だったわけではない。弾けなかったところが弾けるようになるのは嬉しかったし、舞台で上手く弾けた時にはもっと上手くなりたいとも思った。ピアノ自体は、確かに好きだった。
ただ、いつからか、その先まで当然のように決まっているように感じるようになった。次はどの曲を弾くのか。どのコンクールへ出るのか。その次はどこを目指すのか。
結果を残すたびに次の話が出て、その先には当たり前のように「ピアニストになる未来」が置かれていた。誰かに強制されたわけじゃない。それでも、上手くなればなるほど、その道を進むことが当然になっていった。
自分の人生なのに、自分で選んでいる感じがしなかった。だから中学を卒業する時、やめると決めた。
ピアニストになるための道から、自分の意思で外れた。あの時の決断を間違いだったとは思っていない。自分の人生くらい、自分で選びたかったんだ。それだけは今でも変わらない。
「.....」
目の前のピアノへ視線を戻す。
黒い蓋の向こうに鍵盤が並んでいることくらい、見なくても分かる。何年もまともに触れていない以上、昔のようには弾けないだろう。それでも、何も弾けなくなっているわけではないはずだ。そんなことを考えている自分に気づいて、苦笑した。
「弾く気もないのに、何考えてんだよ......」
「まだいたの?」
不意に背後から声がして、肩がわずかに揺れた。
振り返ると、店長が店の奥から出てくるところだった。
「片付けが残ってたんで」
「もうほとんど終わってるでしょ」
「あと少しです」
そう答えると、店長の視線が俺からピアノへ移った。
「珍しいね」
「何がですか」
「幸之助君がそこにいるの」
「掃除してただけですよ」
「布巾持ってないけど」
一瞬だけ言葉に詰まり、反射的に手元へ視線を落とす。もちろん布巾なんて持っていない。さっきテーブルの上へ置いてきたままだった。
どう返そうか考えているうちに、店長はそれ以上追及することもなく、俺の隣へ並ぶようにしてピアノへ視線を向けた。その何気ない仕草のせいで、かえって自分だけが妙に意識しているような気がして、少し居心地が悪くなる。
「弾けばいいのに」
「弾きませんよ」
ほとんど考えるより先に答えていたらしく、店長が少しだけ眉を上げた。
「あら、即答ね」
「弾く理由ないでしょう」
「理由がないと弾いちゃいけないの?」
「そういう話じゃないです」
「じゃあ、どういう話?」
軽い調子で聞かれただけなのに、今度はすぐに言葉が出てこなかった。
弾きたくないから弾かない。それだけなら簡単なはずなのに、いざ理由を尋ねられると、自分でもどこまでが本当なのか分からない。
結局うまい答えを見つけられないまま、俺は閉じられたピアノの蓋へ視線を落とした。店長は俺が昔ピアノをやっていたこと自体は知っている。ただ、どこまでやっていたのか、どうしてやめたのかまでは話していない。
「別に、今さら弾きたいとは思わないんで」
「そう」
もっと何か聞かれるかと思ったけれど、返ってきたのはそれだけだった。
代わりに、店長はピアノへ目を向けたまま何でもないことのように言う。
「まあ、今なら誰も聴いてないけどね」
「え?」
「お客さんもいないし、私ももう帰るし。間違えても誰にも文句言われないよ」
「....」
店長は本当にそれだけ言うと、そのまま奥へ戻っていった。しばらくして鞄を持って現れ、戸締まりを任せる言ってと店を出ていく。
入口のベルが鳴り、扉が閉まった。今度こそ、本当に俺一人になった。
「誰も聴いてない、か......」
何気ない一言だったのに、妙に残った。
昔は、誰かが聴いていることの方が多かった。先生がいて、家族がいて、コンクールなら審査員や客席があった。
誰かに聴かせることが嫌だったわけじゃない。ただ、いつの間にか弾けば評価され、次を期待され、その先の未来まで決められていくように感じていた。だから、そこから降りた。自分で選んで、自分でやめた。それでいいはずだった。
「俺がやめたかったのって......」
言いかけて、口を閉じる。ピアノだったのか。それとも、ピアノを弾き続けることが当然になっていた、あの人生だったのか。
今まで、その二つを分けて考えたことはなかった。
ピアニストになる道をやめる。だからピアノもやめる。
当時の俺にとっては、それで一つだった。
——でも、本当に同じだったんだろうか。
「......」
答えが出ないまま、視線が蓋の端へ落ちる。手を伸ばせば、すぐに開けられる。その下には、昔何千回と触れてきた鍵盤がある。
右手がわずかに動いた。自分でも意識しないまま、指先がピアノへ近づいていく。
あと少しで触れるというところで、また桜小路さんの声が蘇った。
『だから、また何か始めて......同じみたいになるのが嫌なんす』
彼女は、もう一度何かを始めることを怖がっていた。
また途中でやめてしまうかもしれないから、簡単には決めたくないのだと。
俺はそんな彼女に、自分で決めろと言った。ちゃんと知って、ちゃんと考えて、それでもやりたいと思ったなら、自分で選べばいい。そして選んだなら、その選択と向き合えばいい。
「............」
伸ばしかけていた手が止まった。
指先とピアノの間には、ほんのわずかな距離しかない。それでも、その先へは動かなかった。
しばらくそのままでいてから、ゆっくりと手を下ろす。
「ほんと何やってんだ、俺」
自嘲するように笑い、ピアノから一歩離れた。桜小路さんは、始めることを怖がっている。
俺は、一度自分でやめたものに、もう一度触れることを怖がっている。
事情はまるで違う。それでも、自分で選ぶことについて偉そうに語った直後に、たった一枚の蓋を開けることすらできない自分を見ていると、どうにも笑えてきた。
「人のこと言えないな」
別に今日、答えを出す必要はない。
そもそも俺自身、またピアノを始めたいのか、ただ一度弾いてみたいだけなのか、それとも桜小路さんの話のせいで一時的に昔を思い出しているだけなのかも分からない。
ただ、今までならピアノの前で立ち止まることすらなかった。
それなのに今日は、わざわざここまで来て、蓋へ手を伸ばしかけた。
「......あの子のせいだよ、まったく」
口にしてから、さすがに責任転嫁もいいところだと思って苦笑する。桜小路さんは何もしていないし、昔ピアノをやっていたという自分の話をしただけで、そこに勝手に引っかかり、こうして昔のことまで思い出しているのは俺自身だ。
もう一度だけピアノへ目を向ける。さっきと何一つ変わらず蓋は閉じたままで、その向こうにある鍵盤も見えない。結局、ここまで来ても触れることはできなかったけれど、それでいいのだと思う。
少なくとも、今はまだ。
無理やり自分の中で区切りをつけるように呟き、俺はピアノへ背を向けた。残っていた片付けを済ませてから店内を一通り確認し、照明を一つずつ落としていく。最後に入口近くの明かりだけが残る頃には、さっきまであれほど気になっていたピアノも、店の奥の暗がりへ静かに溶け込んでいた。
戸締まりを終え、店の鍵を手に取ったところで、俺はもう一度だけ振り返る。
暗がりの中ではその輪郭すら曖昧になっていたけれど、そこに何があるのかは見なくても分かっていた。
それでも、戻ることはせずに扉へ向かう。
結局、その夜。
ピアノの蓋が開くことはなかった。
◇
—————今日は絶対に言う。
昨日の帰り道でそう決めてから、何度も頭の中で言葉を繰り返していた。澁谷先輩に会ったら、Liella!の練習を見せてほしいと伝える。ただそれだけなのだから、別に難しいことじゃない。
昨日みたいにスクールアイドルになるかどうかを決めるわけでもないし、入部すると伝えるわけでもない。ただ、自分の目で確かめるために練習を見せてもらうだけだ。
そう考えれば、きっと普通に言えるはずだった。
「あっ」
何気なく廊下の先へ向けていた視線が、見覚えのある髪を捉えた。少し離れたところを歩いているのは、昨日別れ際に「いつでも練習を見に来て」と言ってくれた澁谷先輩だった。
「.....」
見つけた瞬間、さっきまで頭の中で繰り返していた言葉が急に遠くなった気がした。
それでも、ここで立ち止まっていたら昨日と何も変わらない。私は自分を奮い立たせるように鞄の持ち手をぎゅっと握り、かのん先輩の背中へ向かって声を出そうとする。
「か、かの———」
「あ、澁谷さん!」
「!」
けれど、私の声が名前を呼びきるより早く、横から歩いてきた別の生徒がかのん先輩へ声をかけた。
反射的に口を閉じてしまい、踏み出しかけていた足もその場で止まる。
澁谷先輩は呼びかけに気づいて足を止めると、声のした方へ身体を向けた。
「うん、どうしたの?」
そのまま別の生徒と話し始めるのを見て、私は行き場をなくした視線をそっと前へ戻した。ここで待っていれば話が終わるかもしれないけれど、なんとなくその場に立ち続けることもできず、結局は何事もなかったような顔をして二人の横を通り過ぎていく。
別に、怖くなって逃げたわけじゃない。今は他の人と話しているのだから、そこへ割って入る方が迷惑だし、声をかけるならもっとちゃんとしたタイミングの方がいい。
「......今のは仕方ないっす」
誰に聞かせるでもなく小さく呟きながら、私は自分自身へ言い聞かせるように何度も頷いた。
そう。今のはただ、タイミングが悪かっただけっす。
◇
昼休みになって、今度こそ声をかけられる機会がやってきた。
廊下の向こうを歩いている澁谷先輩は一人で、朝のように誰かと話している様子もない。周りを見ても、今から声をかけようとしている人はいなさそうだった。
これなら大丈夫。今度こそ邪魔が入ることもないし、昨日から何度も考えていたことを伝えるだけだ。
私は少しだけ歩く速度を上げ、澁谷先輩との距離を縮める。
「澁谷先———」
キーンコーンカーンコーン。
名前を呼びきる寸前、狙ったようなタイミングで校内にチャイムが鳴り響いた。
「えっ、もうこんな時間!?」
澁谷先輩は驚いたように時計を確認すると、そのまま慌てて教室へ向かって走り出してしまった。
あと少し早ければ届いていたはずの手をゆっくりと下ろしながら、私は遠ざかっていくその背中をただ見送る。
「......タイミングが悪いっす」
朝に続いて二度目だけれど、今度こそ私のせいではない。少なくともそういうことにしておこうと、自分に言い聞かせながら小さく頷いた。
◇
放課後。
「きな子、何やってるんすかぁ......」
情けない声を漏らしながら、そのまま自分の机へ突っ伏した。
昨日はあれだけ悩んで、野山さんにも話を聞いてもらって、帰り道では自分なりにちゃんと答えを出したはずだった。スクールアイドルになるかどうかはまだ分からないけれど、まずはLiella!が普段どんな練習をしているのか、自分の目で確かめてみる。
そのために澁谷先輩へ「練習を見せてほしい」と伝える———たったそれだけのことなのに、結局一日かけても言えないままだった。
「練習見せてください、でいいんすよ......?」
机に頬をつけたまま呟いてから、ゆっくりと顔を上げる。
教室にはまだ何人かの生徒が残っていて、部活動へ向かう子もいれば、友達と楽しそうに話している子や、帰る準備をしている子もいる。みんなそれぞれ当たり前のように自分のやることを決めて動き始めているのに、私は一日かけて先輩一人に声をかけることすらできていない。
朝は他の人に先を越されて、昼はチャイムが鳴った。どちらもタイミングが悪かったのは本当だけれど、このまま何もしないで帰ったら、今度はタイミングのせいにはできない気がする。
「よし」
小さく気合いを入れ、今度こそ机から立ち上がった。
待っていても仕方がないのなら、今度は自分から澁谷先輩を探しに行けばいい。どこにいるのかまでは分からないけれど、スクールアイドル部ならこれから練習へ向かうはずだし、校内を歩いていればどこかで会えるかもしれない。
鞄を手に教室を出ると、私は廊下を見回してから歩き始めた。
今度こそ、見つけたらちゃんと声をかける。
そう自分に言い聞かせながら、澁谷先輩の姿を探した。
「桜小路さん?」
「ひゃあっ!?」
突然後ろから名前を呼ばれ、心の準備をする暇もなく身体が大きく跳ねた。
「ご、ごめん! そんなに驚くと思わなくて」
慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、今まさに探しに行こうとしていた澁谷先輩だった。
「し、澁谷先輩......!」
「うん。どうしたの?」
探そうと決めて教室を出た途端、向こうから現れるなんて思ってもいなかった。あまりのタイミングの良さに頭が一瞬真っ白になったけれど、朝や昼とは違って、今度は邪魔をするものも何もない。
もう逃げられない———なんて考えてから、すぐに違うと思い直す。そもそも逃げる必要なんてないし、昨日の自分は、この人に伝えるためにちゃんと決めたはずだ。
私は鞄の持ち手を握り直すと、一度大きく息を吸った。
「あの!」
「う、うん」
「昨日言ってた練習、きな子も見てみたいっす!」
言葉が口から出た瞬間、胸の奥につかえていたものまで一緒に飛び出していったような気がした。
ようやく言えた。昨日の帰り道から何度も頭の中で繰り返して、今日になってからもずっと言えずにいた、たった一言を。
澁谷先輩は一瞬だけ目を丸くしたものの、その意味を理解すると、すぐに表情をぱっと明るくする。
「もちろん!」
返ってきたのは、驚くほどあっさりとした答えだった。
断られると思っていたわけではない。それでも、昨日の夜からあれだけ悩んで、今日一日ずっと声をかける機会を探していたことを考えると、なんだか急に力が抜けてしまう。
「よかった......」
「そんなに緊張してたの?」
「してないっす!」
思わず反射的に否定したけれど、澁谷先輩は明らかに信じていない顔でこちらを見ていた。
「してたよね?」
「してないっす!」
もう一度強く言い張ると、澁谷先輩はとうとう可笑しそうに笑い出した。その反応が少し恥ずかしくて、私は誤魔化すように視線を逸らす。
けれど、これで一番言いたかったことはちゃんと伝えられた。
そう思ったところで、もう一つだけ確認しておきたかったことを思い出す。
「......あの、もう一個いいっすか?」
「うん?」
いざ口にしようとすると、本当にそこまで言っていいのか少しだけ迷った。
昨日の帰り道では、まずLiella!の練習を自分の目で見てみようと決めた。それがどれくらい大変なのか、みんながどんな気持ちで取り組んでいるのか、そして自分がそこへ入るということがどういうことなのか。何も知らないまま答えを出すのではなく、ちゃんと知ってから考えようと思ったからだ。
でも、今になって少しだけ思う。
ただ見ているだけで、本当に知ったことになるんだろうか。
昨日見せてもらったライブだって、画面の向こうで歌って踊る五人を見て、すごい、楽しそうだと思った。けれど、自分が同じことをする姿はどうしても想像できなかったし、見ているだけでは歌うことや踊ることがどんなものなのかまでは分からない。
本当に自分にできるのか、自分がやってみたいと思えるのか。それを知りたいのなら、少しくらい自分でやってみなければ分からないんじゃないか。
そこまで考えてから、私は意を決して澁谷先輩を見る。
「見るだけじゃなくて......」
「うん」
「きな子にもできることがあるなら、一緒にやってみたいっす」
口にした途端、自分でも少し驚いた。
スクールアイドルになると決めたわけじゃない。それでも昨日、誘われただけで大声を上げて逃げ出した自分が、今は自分から「やってみたい」と言っている。
澁谷先輩も同じことを思ったのか、一瞬だけ目を大きくして私を見つめた。
「えっと......ダメっすか?」
「ううん! 全然ダメじゃない! じゃあ、体験入部してみる?」
澁谷先輩から返ってきた言葉を聞いて、私は一瞬だけ固まった。
体験入部。もちろん意味は分かるし、今の話の流れからすれば何もおかしくない。それなのに「入部」という二文字だけが妙に強く耳へ残り、さっきまで少し前向きになっていた気持ちが急に慌ただしくなる。
「た、体験っすよね!?」
「うん」
「まだ入るって決めたわけじゃないっすよ!?」
「分かってるよ」
念を押しても、澁谷先輩は困るどころか笑顔のままだった。それでも不安になって、私はもう一度だけ確認する。
「本当にっすよ!?」
「分かってるってば」
今度はとうとう可笑しそうに笑われてしまった。
「大丈夫。今日は一緒にやってみるだけ」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
入ると決めるわけではなく、まずは自分で見て、少しだけ実際にやってみる。それなら昨日の自分が出した答えからも外れていないし、何より、さっき自分から「やってみたい」と言ったばかりだ。
「......それなら」
一度小さく息を吸ってから、私は澁谷先輩へ向き直った。
「よろしくお願いしますっす!」
こうして、昨日は誘われただけで逃げ出した私が、今度は自分から一歩だけ足を踏み入れることになった。
まだLiella!に入ると決めたわけではない。スクールアイドルになると決めたわけでもない。
それでも、まずは自分の目で見て、自分でやってみるための———私の一日体験入部が決まった。
◇
練習場所へ向かう途中、私は何度も自分の足元へ視線を落としていた。
ただ澁谷先輩の後ろを歩いているだけなのに、どうにも落ち着かない。ついさっきまでは「練習を見せてほしい」と伝えるだけであんなに緊張していたはずなのに、気づけば見るだけではなく、体験入部までさせてもらうことになっている。
もちろん、誰かに無理やり決められたわけではない。見るだけでは分からないかもしれないと思ったのも、「一緒にやってみたい」と口にしたのも自分だ。
それでも、いざ本当に身体を動かすのだと思うと、昨日まで画面の向こうから眺めていただけの世界へ、自分の足で踏み込もうとしているのだという実感が急に湧いてきた。そう考えるたびに胸の奥がそわそわして、歩いているだけなのに足元まで頼りなく感じてしまう。
「きな子、本当にやるんすね」
「え?」
「な、なんでもないっす!」
思わず漏れた独り言が聞こえてしまったらしく、少し前を歩いていた澁谷先輩が不思議そうに振り返る。私は慌てて首を振って誤魔化しながら、もう一度だけ自分に言い聞かせた。
今日やってみたからといって、Liella!へ入ると決めたわけではないし、スクールアイドルになると決めたわけでもない。まずは自分の目で見て、実際に自分の身体でやってみて、そのうえで自分がどうしたいのかを考える。
昨日あれだけ悩んで、さんと話して、ようやく自分で決めたことを、今日は実際にやってみるだけだ。
そう考えると少しだけ気持ちが落ち着いて、私は前を歩く澁谷先輩の背中を追いかけるように、もう一度しっかりと足を前へ踏み出した。
「みんなー!」
澁谷先輩が声を上げる。
澁谷先輩について練習場所へ着くと、そこにはすでに四人の先輩たちが集まっていた。
嵐先輩だけは昨日少し話しているけれど、残る三人とこうして直接顔を合わせるのは初めてだ。それでも誰なのか分かったのは、昨日見せてもらったLiella!のライブ映像と、部員募集のチラシで何度も顔を見ていたからだった。
「あ、きな子ちゃん!」
最初に気づいてくれたのは嵐先輩だった。こちらへ向けられた笑顔は昨日と変わらず柔らかくて、それだけで少し緊張が和らぐ。
「来てくれたんだね」
「はいっす。今日は、その......練習を見せてもらって、できることがあったら体験もさせてもらおうと思ってるっす」
「そっか。もちろん大歓迎だよ」
嵐先輩が嬉しそうに笑うと、その声で残る三人もこちらへ視線を向けた。
画面越しには何度も見た顔が一斉に自分へ向けられ、さっきまで落ち着きかけていた胸がまた少しだけ騒がしくなる。
「この子が昨日話してた一年生?」
「うん。桜小路きな子ちゃん」
澁谷先輩に紹介され、私は慌てて姿勢を正した。
「さ、桜小路きな子っす! 北海道から来たばっかりで、スクールアイドルのこともまだ全然知らないっすけど......今日はよろしくお願いしますっす!」
勢いよく頭を下げると、すぐ近くから明るい声が返ってきた。
「よろしくお願いしマス!
顔を上げると、真っ先にこちらへ近づいてきたのは唐先輩だった。
ライブ映像の中でも表情がころころ変わる人だと思っていたけれど、実際に会ってみると想像していた以上に勢いがある。初対面のはずなのに距離を感じさせないというか、こちらが緊張している暇すら与えてくれないというか———そんな印象だった。
「桜小路きな子サン!」
「は、はいっす!」
「Liella!の練習へようこそデス!」
「よ、よろしくお願いしますっす!」
ぐっと距離を詰められ、思わず身体が少し後ろへ傾く。すると可可先輩はさらに目を輝かせた。
「ついに新しいメンバーが———」
「可可」
その言葉を遮ったのは、少し呆れたような声だった。
「まだ体験でしょ? いきなり入部したことにしてどうするのよ」
声の方を見ると、長い金色の髪をした先輩が腕を組んでいる。
平安名すみれ先輩。昨日のライブでは堂々とステージに立っていた姿が印象に残っていて、こうして目の前にすると少し近寄りがたい人なのかと思ったけれど、可可先輩への遠慮のない言い方を聞いていると、どうやら二人の間ではこれが普通らしい。
「分かってマス! 可可は少し先の未来を言っただけデス!」
「勝手に未来を決めないの」
「あ、あの! きな子、まだ入るって決めたわけじゃないっす!」
「ほら、本人が一番慌ててるじゃない」
平安名先輩が肩をすくめると、嵐先輩と澁谷先輩が楽しそうに笑った。
来て早々Liella!の新メンバーにされかけて焦ったけれど、そのやり取りのおかげで、初対面の人がいるという緊張はいつの間にか少し薄れていた。
「私は
「よ、よろしくお願いしますっす!」
改めて挨拶され、私も頭を下げる。最初は少し怖そうに見えたけれど、話してみれば意外と面倒見のいい人なのかもしれない。
「そして、私は葉月恋と申します」
続いて一歩前へ出たのは、長い髪を綺麗に整えた葉月先輩だった。
姿勢も話し方もきちんとしていて、立っているだけなのにどこか上品に見える。三人の中では一番緊張してしまいそうな人だったけれど、向けられた笑顔は思っていたよりずっと柔らかかった。
「桜小路さんのお話は、かのんさんから伺っています。本日はよろしくお願いします」
「は、はいっす! こちらこそよろしくお願いしますっす!」
また勢いよく頭を下げると、葉月先輩は少し驚いたあと、穏やかに笑ってくれた。
これで、昨日ライブ映像の中で見た五人全員と顔を合わせたことになる。
画面の中では、眩しい照明を浴びながら大勢の観客の前で歌っていた人たち。私とはまるで違う世界にいるように見えていたのに、実際に話してみれば、唐先輩は驚くほど勢いがあって、平安名先輩はそんな唐先輩へすぐに突っ込みを入れて、葉月先輩は丁寧に挨拶をしてくれた。澁谷先輩も嵐先輩も、昨日と同じように普通に笑っている。
その姿を見ていると、ここへ来るまで胸の中にあった緊張も少しずつ和らいでいった。
けれど———これから私は、この五人が普段やっている練習を実際に体験する。
そう思った途端、安心したばかりの身体にもう一度力が入り、私は無意識に背筋を伸ばしていた。
「今日はきな子ちゃんにも、できるところは一緒にやってもらおうと思ってるんだ」
「桜小路さんは、歌やダンスの経験はあるのですか?」
葉月先輩に尋ねられ、私は少し申し訳なくなりながら首を横に振った。
「ほとんど何もやったことないっす。歌も、人前でちゃんと歌ったことなんてないっすし、ダンスは本当に初めてっす」
「そっか。じゃあ最初は無理しないで、きな子ちゃんにできそうなところから一緒にやってみようか」
「うん。分からないところがあったら、私たちが教えるから」
嵐先輩と澁谷先輩がそう言ってくれる。
何もできない私をいきなり普段の練習へ放り込むのではなく、ちゃんと初心者として見てくれているのだと分かって、ありがたいと思った。
でも、そのまま頷こうとしたところで、少しだけ引っかかるものがあった。
「あ、あの!」
「ん?」
声を上げると、みんなの視線がこちらへ集まった。急に注目されて少し怯みそうになったけれど、ここへ来た理由を思い出して、そのまま言葉を続ける。
「きな子に合わせるために、いつもの練習を全部変えなくても大丈夫っす」
「え?」
澁谷先輩だけでなく、他のみんなも少し意外そうな顔をした。
言い方を間違えたかもしれないと思い、私は慌てて付け加える。
「もちろん、いきなり全部できるとは思ってないっす! たぶん......というか、絶対できないことの方が多いと思うっすけど」
「そこまで言い切るんだ」
平安名先輩に苦笑され、少しだけ恥ずかしくなる。それでも、ここだけはちゃんと伝えておきたかった。
「でも、きな子はLiella!の皆さんが普段どんな練習をしてるのか、それを知りたくて来たっす。きな子にできることだけに変えてもらったら、本当はどれくらい大変なのかも分からない気がするっす」
昨日、野山さんに言われたことを思い出す。
何も知らないまま無理だと決めるのでもなく、楽しそうに見えたからというだけで始めるのでもなく、自分が納得できるまでちゃんと知ってから決めればいい。
だからこそ今日は、Liella!の楽しそうなところだけを見に来たわけではなかった。
昨日のライブでは見ることのできなかった、その裏側も知りたい。どんな練習をして、どれくらい大変なことを乗り越えて、あのステージに立っているのか。それを自分の目で確かめたうえで、それでも自分がやってみたいと思えるのかを考えたかった。
「できそうなところは、きな子も一緒にやってみたいっす。でも、できないところまできな子に合わせて変えなくてもいいっす。そういうところも含めて、ちゃんと見てみたいから」
そこまで言ってから、少しだけ不安になって付け加える。
「もちろん、本当に無理そうだったらちゃんと無理って言うっすけど」
最後だけ少し弱気になってしまったけれど、それも含めて今の私の正直な気持ちだった。
そんな私を見て、嵐先輩は少しだけ目を細めると、安心させるようにふっと柔らかく笑った。
「分かった。じゃあ、普段の練習も見てもらいながら、できそうなところは一緒にやってみようか」
「はいっす!」
「でも、本当に無理はしないでね。きついと思ったらちゃんと言うこと」
「分かったっす!」
念を押すように言われ、今度は迷わず頷いた。どこまでできるのかなんて自分でも分からないし、きっと思っている以上に大変なこともある。それでも、何も知らなかった昨日までとは違って、今日はそれを確かめるために自分からここへ来たのだ。
「それじゃ、始めようか」
嵐先輩の言葉に、私は少しだけ緊張しながらも大きく頷いた。
昨日まで遠くから眺めているだけだったLiella!の世界へ、今度は自分の身体で触れてみる。
その最初の一歩が、いよいよ始まろうとしていた。
〇唐 可可
結ヶ丘女子高等学校2年生。中国・上海出身のLiella!メンバーで、澁谷かのんとともにLiella!の始まりを作った人物。
スクールアイドルへの憧れが非常に強く、その夢を叶えるため日本へやってきた。明るく感情豊かで行動力があり、好きなものには一直線。独特な日本語表現を交えながら、周囲を勢いよく巻き込んでいく。
衣装制作などの手先を使う作業も得意で、スクールアイドルに関する知識と情熱は人一倍。一方で、目標に対して真剣だからこそ、時には厳しい一面を見せることもある。
本作では、Liella!への加入を考える桜小路きな子を迎える先輩の一人。スクールアイドルが大好きだからこそ、きな子が自分から「やってみたい」と思ってくれることを喜び、その挑戦を明るく後押しする存在として描かれる。
〇平安名すみれ
結ヶ丘女子高等学校2年生。Liella!のメンバー。
華やかな容姿と強い存在感を持ち、決め台詞の「ギャラクシー!」が特徴。自信家で目立ちたがりに見える一方、幼い頃から芸能活動をしてきたものの脇役ばかりだった経験から、誰よりも「認められたい」という思いを抱えている。
芸能活動で培った経験を持ち、ステージでの見せ方や勝負事にも強い。口調はやや強気で現実的な意見を言うことも多いが、根は仲間思いで面倒見がよく、Liella!では周囲を冷静に見る役割も担う。
本作では、Liella!への加入を考える桜小路きな子に対し、初心者だからと過度に甘やかすのではなく、現実的な言葉をかけながらも努力をきちんと認める先輩として描かれる。きな子にとって、かのんや可可とはまた違った形で頼れる存在になっていく。
〇葉月 恋
結ヶ丘女子高等学校2年生。Liella!のメンバーで、結ヶ丘の生徒会長。
真面目で礼儀正しく、責任感の強い性格。普段は落ち着いた丁寧な話し方をする一方、世間知らずなところや好きなものに夢中になる一面もあり、親しくなるほど年相応の可愛らしさが見えてくる。
母・葉月花が結ヶ丘の前身となる学校に深く関わっていたことから、学校への思い入れも非常に強い。幼い頃から音楽に親しんでおり、ピアノを得意としている。Liella!では真面目さと音楽経験を活かし、メンバーを支える存在となっている。
本作では、Liella!への加入を考える桜小路きな子を迎える先輩の一人。きな子の不安や経験不足を理解しながら、その挑戦を穏やかに見守る。