ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
最初は、思っていたより普通だった。腕を回して肩をほぐし、脚を伸ばして身体を温めていく。学校の体育でも経験したことがあるような準備運動ばかりで、教室で聞いた「Liella!の練習は厳しい」という話から、もっと最初からとんでもないことをするのだと思っていた私は、少しだけ拍子抜けしていた。
「これくらいなら、きな子も大丈夫そうっす」
「じゃあ前屈いくよー」
「はいっす!」
嵐先輩の動きを真似して、私はそのまま身体を前へ倒した。ここまでは学校の体育でもやったことがあるし、これくらいなら問題なくついていけそうだと思っていたのだけれど、つま先へ向かって手を伸ばしたところで、その考えはすぐに怪しくなった。
もう少し届くと思っていた指先は、想像していたよりずっと手前で止まっている。さらに身体を倒そうとすると、太ももの裏が早くも強く突っ張り、これ以上は無理だと全身で訴えてくるようだった。
「きな子ちゃん、ちょっと硬めかな」
「ちょっとっすか?」
「うん。ちょっと」
「その『ちょっと』、信用していいんすよね?」
念を押すように聞くと、嵐先輩は楽しそうに笑いながら私の背中へそっと手を添えた。
「じゃあ、ほんの少しだけ押すね」
「はいっ——いだだだだだっ! 折れるっす! きな子折れるっす!」
「ご、ごめん!」
慌てて手を離した嵐先輩を見ながら身体を起こし、私は早くも太ももの裏をさすった。
まだ始まったばかりで、やっていることもただのストレッチにすぎない。それなのにこの有様なのだから、この先に待っている練習を想像すると、さっきまで感じていた余裕はすっかり消えていた。
この時点で、ほんの少しだけ嫌な予感がしていた。
◇
「はっ......はっ......」
その予感は、すぐに現実になった。
ランニングが始まってしばらくすると、最初はどうにかついていけていたはずの脚が少しずつ重くなり、呼吸もどんどん荒くなっていった。前を走る五人の背中がじわじわ遠ざかっていくのを見ながら、それでも必死に足を動かし、ようやく走り終えて膝へ手をつく。
「はぁ......はぁ......お、終わったっす......」
「じゃあ次、筋トレいこっか!」
「——次?」
腹筋にスクワット、それから体幹トレーニング。途中からは回数を数えるだけで精一杯になり、脚は震え、腕にもまともに力が入らなくなっていく。
それでも、周りを見ればLiella!の皆さんだって汗をかいていた。決して楽そうにこなしているわけではないのに、誰も途中で止まらず、終われば息を整えて次の動作へ移っていく。その姿を見ていると、苦しくないのではなく、苦しくても続けられるだけの身体を作ってきたのだと嫌でも分かった。
「皆さん......これ、毎日やってるんすか?」
「日によって違うけど、基礎トレはするよ」
「——————Liella!、怖いっす」
「えぇ!?」
「悪い意味じゃないっす、たぶん......」
「たぶん!?」
唐先輩が目を丸くし、平安名先輩が呆れたように肩をすくめる。
「まだダンスもやってないわよ」
「——聞きたくなかったっす」
◇
少し休憩したあと、今度は嵐先輩にダンスの基本を教えてもらうことになった。
「右、左、右、左。まずはこれだけね」
見よう見まねで足を動かしてみると、意外にもこれはできた。今日ここまで身体の硬さと体力のなさを思い知らされてばかりだったから、たった数歩でも自分の身体が思った通りに動いたことが妙に嬉しい。
「できたっす!」
「うん、いい感じ! じゃあ次は腕もつけてみようか」
「はいっす!」
ところが、喜んだのもそこまでだった。足へ意識を向ければ腕が止まり、腕を考えれば今度は足が止まる。右足と左腕を頭の中で確認している間にも次の動きはやってきて、直そうとするほど身体が固くなっていった。
「自分の身体なのに言うこと聞かないっす!」
「焦らなくて大丈夫。もう一回やってみよう」
何度間違えても、嵐先輩は嫌な顔ひとつせず同じ動きを見せてくれた。焦らなくていいと言われて一度深く息を吐き、もう一度、右、左と順番に身体を動かしていく。
「そう! 今の!」
「......!」
ほんの一瞬だけ、足と腕が噛み合った。
「できたっす!」
「うん、できた!」
たった数秒。それでも何度も失敗したあとの「できた」は思っていた以上に嬉しくて、疲れていることも忘れて笑ってしまう。
もっとも、その直後に音楽を流されると話は別だった。
「右、左———あれっ!?」
「逆!」
「えっ!?」
「今度は合ってる!」
「どっちっすかぁ!?」
音楽は私が考え終わるまで待ってくれない。さっきできたはずの動きさえ途端に分からなくなり、結局ほとんど何もできないまま曲が止まった。
「さっきと同じ動きっすよね?」
「うん」
「なんで別物になってるんすか!?」
嵐先輩が笑い、つられて私も笑ってしまう。全然できなくて悔しいのに、不思議と嫌ではなかった。さっき一瞬だけ身体が噛み合った感覚が残っていて、もう一回やれば今度はもう少しできるかもしれないと思えたからだ。
歌の練習でも似たようなものだった。葉月先輩に姿勢や呼吸を教えてもらい、澁谷先輩の声を聞きながら簡単なフレーズを歌うだけなら、思っていたよりちゃんと声を出すことができた。
「うん、ちゃんと声出てるよ」
「本当っすか!?」
ようやく見つけた自分にもできそうなことに喜んだのも束の間、ステップをつければ歌が止まり、歌へ集中すれば足が止まった。
「みんなどうやってるんすか、これ!?」
「慣れかな」
「その『慣れ』まで何年かかるんすか!?」
身体はもう疲れていたし、できないことの方が圧倒的に多い。それでも、始める前に感じていた怖さはいつの間にか薄れていた。
難しい。でも、一つずつなら少しできる。そして一度できてしまうと、次はもう少しやってみたくなる。その感覚が、少しだけ楽しかった。
◇
「つ、疲れたっすー」
一通りの体験を終えた私は、水を飲みながら壁へ背中を預けた。柔軟から始まって、ランニングに筋トレ、ダンス、それから歌。短い時間の中で普段使っていないところまで散々身体を動かしたせいか、腕も脚もすっかり重くなっていて、もう今日一日分どころか数日分は運動したような気分だった。
「じゃあ、そろそろいつもの練習やろっか」
「......え?」
これで終わりだと勝手に思い込んでいたところへ聞こえてきた嵐先輩の言葉に、ペットボトルを持ったままゆっくりと顔を上げる。
「今までのは......?」
「きな子ちゃんの体験だよ」
「——これから本番なんすか!?」
思わず素っ頓狂な声を上げると、五人から一斉に笑い声が返ってきた。こっちはすでに立ち上がるのも億劫なくらい疲れているというのに、どうやらLiella!にとっては、ここからが普段通りの練習らしい。
その事実には少しだけ目眩がしそうになったけれど、不思議と帰りたいとは思わなかった。むしろ、ここまで私がやってきたものは、初心者でも体験できるように内容や難しさを調整してくれていたのだと気づくと、その先にあるものを見てみたいという気持ちの方が強くなっていった。
昨日、自分の目で確かめたいと思ったのは、きっとこっちだ。
「きな子、ここで見ててもいいっすか?」
「もちろん」
澁谷先輩が笑顔で頷いてくれたので、私は邪魔にならないよう少し離れた場所へ移動する。五人はそれぞれ水分を取ったり汗を拭ったりしながら短い休憩を終えると、慣れた様子で立ち位置についた。さっきまで私と一緒に笑っていた人たちだ。それなのに、音楽が流れ始めた瞬間、それまでの和やかな雰囲気がすっと消え、練習場所の空気そのものが切り替わったように感じた。
嵐先輩の合図に合わせて五人の身体が同時に動き、床を擦る靴の音が重なっていく。私なら右か左かを考えている間に止まってしまったステップも、五人は次の動きへ途切れることなく繋ぎ、そのうえで呼吸を合わせるように歌まで重ねていた。
「......すごい」
思わず漏れた声にも気づかないくらい、私はその姿へ見入っていた。けれど、しばらく見ているうちに、もう一つ気づいたことがあった。五人だって、最初から何もかも完璧にできているわけではない。
「ストップ。今の二番に入るところ、少しずれてた」
「ごめん、私かな?」
「かのんだけじゃないよ。もう一回合わせよう」
嵐先輩の声で音楽が止まり、五人はその場で動きを確認すると、すぐに元の位置へ戻っていく。もう一度曲を流して、同じところを合わせ、それでも納得できなければまた止める。
一度や二度ではない。少し進んでは確認し、必要なら何度でも同じ動きを繰り返す。その姿を見ているうちに、私はさっきまで「すごい」としか思えなかった五人が、どうやってあのステージへ辿り着いているのかを、ほんの少しだけ見せてもらっているような気がした。
そして、教室で聞いた「Liella!の練習は厳しい」という言葉の意味も、少しずつ分かってきた気がした。
誰かに厳しくされているわけではない。失敗したからと怒られることもなければ、できないことを責める人もいない。それでもこの人たちは、自分たちでもっと良くできると思えばそこで止まり、納得できるまで何度でも同じところを繰り返している。
もっと揃えられるなら、もう一回。もっと良くできるなら、もう一回。そうやって自分たち自身に妥協することなく積み重ねてきたものの先に、昨日私が画面越しに見た、あのキラキラしたステージがあるのだ。そう思った瞬間、昨日とはまったく違う意味で、目の前の五人がすごい人たちに見えた。
「......昨日より、すごいっす」
練習が一区切りしたところで思わずそう漏らすと、タオルで汗を拭っていた澁谷先輩が、不思議そうにこちらへ顔を向けた。
「昨日?」
「昨日見せてもらったライブも、すっごかったっす。みんなキラキラしてて、歌もダンスもすごくて......きな子には全然届かない世界みたいに見えたっす」
一度言葉を切って、私は改めて五人を見渡した。額には汗が浮かび、さっきまであれだけ動いていたせいで呼吸だってまだ完全には整っていない。それでも、少し休めばまた次の練習を始めようとしている。
「でも今日見て、あのステージに立つまでに、こんなに何回も練習して、できなかったところを何回もやり直してるんだって分かったっす。だから......」
昨日は見えなかったものを、今日はほんの少しだけ見ることができた。そのうえで口にした言葉は、昨日ライブを見た時に出た「すごい」とは、自分の中でも少し違っていた。
「Liella!って、本当に本気なんすね」
「うん」
澁谷先輩は迷うことなく頷いた。その表情からは、さっきまで話していた時の柔らかさが少しだけ消えていて、返ってきた声もまっすぐだった。
「本気だよ。ラブライブ!、優勝したいから」
それは、教室で聞いた噂とほとんど同じ言葉だった。
けれど、今の私にはその響きがまるで違って聞こえる。朝は「初心者の自分には無理だ」と諦めるための理由にしか聞こえなかった言葉の向こうに、五人がどれだけのものを積み重ねているのかを、今はほんの少しだけ知っている。
——ラブライブ!で、優勝する。
その言葉が初めて、五人が本気で目指しているものとして胸の中へ落ちてきた。
◇
「最後にもう一回、ちょっとやってみる?」
嵐先輩にそう聞かれ、私はすぐには答えられなかった。
Liella!の普段の練習を見た今では、自分との差が始める前よりもずっとはっきり分かっている。簡単なステップひとつであれだけ苦戦していた私には、五人のように踊りながら歌う自分なんてまるで想像できないし、昨日までただキラキラして見えていた場所が、実際にはどれほど遠いところにあるのかも少しだけ分かってしまった。
それでも、断ろうとは思わなかった。
何度も間違えた中で、ほんの一瞬だけ足と腕が噛み合って、思った通りに身体が動いた時の感覚がまだ胸の奥に残っている。できないことばかりだったからこそ、あの一瞬だけはもう一度確かめてみたかった。
「......やるっす。もう一回、お願いしますっす」
そう答えて立ち上がると、嵐先輩は嬉しそうに頷いて、さっき教えてくれた動きをもう一度ゆっくり確認してくれた。
もちろん、一度できたからといって急に上手くなるわけではない。疲れの溜まった脚は思うように上がらず、頭では次の動きを分かっているつもりなのに身体が遅れてしまい、何度やっても途中で間違える。それでも繰り返しているうちに、一歩、二歩と、さっきよりほんの少しだけ長く動きを繋げられるようになっていった。
「そう! 今の!」
嵐先輩の声が聞こえた瞬間、胸の奥に小さな嬉しさが弾けた。
一度動きを止め、膝へ手をつきながら荒くなった呼吸を整える。脚はもう十分に重く、今日がただの体験だということを考えれば、ここで終わりにしたって誰も何も言わないはずだった。
けれど、まだできそうな気がした。次なら、もう少しだけ長く動けるかもしれない。そう思った時には、誰かに促されるより先に言葉が出ていた。
「......もう一回、お願いしてもいいっすか?」
嵐先輩は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに柔らかく笑って頷いた。
「もちろん」
再び音楽が流れ始め、私は覚えたばかりの動きを頭の中で追いながら足を踏み出す。その瞬間、なぜか昔のことがほんの少しだけ頭をよぎった。
ピアノを習っていた頃も、同じところで何度も間違えることはあった。最初のうちはできるまで繰り返していたはずなのに、いつからか上手くいかないことが嫌になって、「今日はもういいや」「明日やればいい」とピアノから離れる日が増え、最後にはほとんど弾かなくなってしまった。
今だって、できないことには変わりない。身体は疲れているし、何度やっても間違えるし、簡単にできるようになる気配だってない。それなのに今は、もう一回やってみたいと思っている。昔の自分と今の自分で、いったい何が違うのか。
その答えは、この時の私にはまだ分からなかった。
何度目かの練習を終えたところで、嵐先輩が「今日はここまでにしようか」と声をかけた。
音楽が止まり、張り詰めていた空気がゆっくりとほどけていく。私はその場で大きく息を吐くと、もう立っている必要はないと身体が判断したのか、そのまま床へ座り込んでしまった。
「つ、疲れたっす」
足を伸ばしてみるだけでも、太ももやふくらはぎの奥に重たい疲れが残っているのが分かる。腕にも力が入りづらく、今すぐもう一回と言われたら、さすがに少し考えさせてほしいところだった。
「お疲れさま、きな子ちゃん」
「嵐先輩たち、なんでまだ普通に立ってるんすか」
目の前では、五人がそれぞれタオルで汗を拭いたり水分を取ったりしながら、練習で使ったものを片付け始めている。
もちろん全員汗だくだし、息だって完全に整っているわけではない。それなのに、私みたいに床へ沈み込んでいる人は一人もいなかった。
「慣れだよ、慣れ」
「また慣れっすか」
「でも、最初からこんな感じだったわけじゃないよ」
嵐先輩が笑いながらそう言ったので、私は思わず顔を上げた。
さっきまであれだけ自然に動いていた五人を見ていると、どうしても「できる人たちだからできる」と思ってしまっていたけれど、その言い方だと、どうやら最初から今みたいに動けていたわけではないらしい。
「そうなんすか?」
「もちろん」
答えたのは澁谷先輩だった。
まるで当たり前のことを話すように頷いているけれど、昨日ライブ映像で見た姿や、さっきまで目の前で繰り返していた練習を思い返すと、今の五人にも「できなかった頃」があったということが、すぐにはうまく結びつかなかった。
「きな子、てっきり皆さん最初からできたのかと思ってたっす」
「そんなわけないよ」
「というか、かのんなんて最初は——」
「ちぃちゃん!」
嵐先輩が何かを言いかけた瞬間、澁谷先輩が慌てたようにその言葉を遮った。
さっきまで落ち着いて話していたのに、急に反応が大きくなったせいで、何か触れられたくないことがあるのだと逆に分かりやすくなってしまっている。
「な、何?」
「何でもないよ!」
「今絶対何かあったっすよね?」
「何もない何もない!」
そう言いながら澁谷先輩は必死に首を振っているけれど、そこまで否定されると、むしろ何があったのか気になってしまう。
私が澁谷先輩と嵐先輩を交互に見比べていると、そのやり取りを面白そうに眺めていた唐先輩が、待ってましたと言わんばかりに横から身を乗り出してきた。
「かのんには色々あったのデス!」
「可可ちゃんまで!」
「色々ってなんすか?」
「それは——」
「可可ちゃん!」
「分かりマシタ、秘密にしておきマス」
「絶対あとで聞きたいっす......」
「聞かなくていいから!」
澁谷先輩が少し頬を赤くしながら抗議すると、それを見ていた皆さんから楽しそうな笑い声が上がった。どうやら私の知らない何かがあるらしいけれど、これ以上聞けば澁谷先輩が本気で困りそうだったので、気にはなりつつも今は追及しないことにする。
それにしても、こうして笑い合っている姿を見ていると、少し前まで真剣な表情で何度も同じ動きを繰り返していた人たちと同じとは思えない。練習が始まった途端に空気が変わったことにも驚いたけれど、終わればこうして冗談を言い合って、澁谷先輩をみんなでからかって笑っている。
昨日ライブ映像を見た時には、Liella!は自分とはまるで違う世界にいる人たちのように感じていた。ステージの上で歌って踊る五人は眩しいくらいに輝いていて、私には到底届かない存在にしか見えなかったけれど、今日一緒に過ごしているうちに、その印象も少しずつ変わってきている。
できないことがあって、失敗することもあって、それでも練習を続けて、終わればこうして普通に笑っている。
そう思うと、昨日よりほんの少しだけ、目の前の五人が身近な人たちに感じられた。
「でも、本当に最初からできたわけじゃないよ」
一通り笑い終えたところで、澁谷先輩が改めてこちらへ向き直った。まだ少しだけ恥ずかしそうな表情は残っていたけれど、その声はさっきまでとは違って穏やかだった。
「私もできないこといっぱいあったし、今だってあるよ。だから練習してるんだと思う」
「今でもっすか?」
「うん。毎回全部うまくいくわけじゃないしね」
そう言われて、私は少し前まで見ていた五人の練習を思い返した。何度も音楽を止めて、動きを確認して、また同じところからやり直していた。私から見れば十分すぎるほど上手に歌って踊れているのに、それでも本人たちにとってはまだ直したいところがあって、もっと良くするために練習を続けている。
今のLiella!しか知らなかったから、私はどこかで、この人たちは最初から自分とは違うのだと思い込んでいたのかもしれない。
けれど、そうではなかった。
最初から何でもできたわけではなくて、できないことを一つずつ練習してきたから、今の五人がいる。そして今だって、そこで終わったわけではなく、まだできないことをできるようにするために練習を続けている。
その当たり前のことに気づくと、さっきまで途方もなく遠く見えていた五人との距離が、ほんの少しだけ違って見えた。
「......」
さっきまでの自分を思い返しながら黙っていると、横から平安名先輩の声が聞こえてきた。
「というか、あんた今日初めてなんでしょ?」
「え?」
「ダンス」
「はいっす」
「だったら、私たちと同じようにできないなんて当たり前じゃない」
あまりにも迷いなく言い切られて、私は思わず目を丸くした。自分でも初めてなのだから仕方がないとは思っていたはずなのに、いざ五人の練習を目の前で見てしまうと、その当たり前のことまでどこかへ飛んでしまっていたらしい。
「そ、そうっすけど......」
「何? 今日一日で私たちと同じくらい踊れるようになる予定だったの?」
「そ、そこまでは思ってないっす!」
さすがにそんなつもりはなかったので慌てて首を振ると、平安名先輩は「だったら」とでも言いたげに肩をすくめた。その仕草も言い方も少しだけ厳しく感じるけれど、不思議と責められているような気はしなかった。
「だったら、できなかったことばっかり気にしても仕方ないでしょ」
「でも、ほとんどできなかったっすよ?」
「最初よりはできてたじゃない」
「......え?」
思ってもいなかった言葉が返ってきて、私は反射的に聞き返した。
今日の自分を振り返れば、頭に浮かぶのは失敗したことばかりだった。腕を意識すれば足が止まり、足を動かせば今度は腕がおかしくなって、音楽が流れれば覚えたはずの動きさえ分からなくなる。だから平安名先輩の言葉が、すぐには自分のことを指しているとは思えなかった。
けれど、平安名先輩はそんな私の反応を特に気にした様子もなく、使っていた練習道具を片付けながら、何でもないことのように言葉を続けた。
「最初、腕つけたら足止まってたでしょ」
「うっ」
「音楽流したらもっとぐちゃぐちゃだったし」
「うぅ......」
「すみれ、それ励ましてる?」
「励ましてるわよ!」
澁谷先輩に突っ込まれ、平安名先輩が少しだけ声を上げる。
「でも最後は、最初より動けてたでしょ。だったら今日はそれでいいんじゃない?」
何も返せなかった。
言われてみれば、確かにそうだった。
最初は右と左を考えるだけで止まっていたのに、最後にはほんの少しだけ音楽に合わせて動くことができた。完璧にはほど遠かったし、できた時間だって短かったけれど、始める前の私にはできなかったことだ。
「できないなら練習すればいいのよ。そのために練習してるんだから」
「......なるほどっす」
「何よ、その顔」
「平安名先輩、もっと怖い人だと思ってたっす」
「はぁ!?」
言ってから、しまったと思った。
「ち、違うっす! 悪い意味じゃなくて!」
「悪い意味以外ある!?」
「すみれは最初怖そうに見えるデスからね」
「可可!」
「でも実際は面倒見いいデス」
「余計なこと言わないで!」
唐先輩と平安名先輩がまた言い合いを始め、その横で嵐先輩が声を上げて笑っている。
葉月先輩も困ったようにしながら笑っていて、澁谷先輩は二人を止めるでもなく楽しそうに眺めていた。
昨日初めて見た時には、もっと特別な人たちなのだと思っていた。
ステージの上で歌って踊る、私とは全然違う人たち。
けれど実際には、こうして普通に笑って、言い合いをして、できないことがあれば何度も練習している。
特別だからできるのではなく、できるようになるまで続けてきたから、あんな風に見えるのかもしれない。
「きな子も、続けたら少しはできるようになるんすかね」
ほとんど独り言のつもりだった。
けれど、近くにいた嵐先輩には聞こえていたらしい。
「なると思うよ」
「本当っすか?」
「少なくとも、今日だけでも最初より動けるようになったでしょ?」
さっき平安名先輩にも言われたことだった。
それでも嵐先輩に笑顔で言われると、少しだけ胸の奥が温かくなる。
「もちろん、すぐに全部できるようになるとは言わないけどね」
「そこはちゃんと言うんすね」
「簡単だよって言って、実際大変だったら困るでしょ?」
「それはそうっすけど」
嵐先輩の言っていることはもっともだった。今日実際に体験してみて、スクールアイドルが簡単ではないことは自分の身体で嫌というほど分かっている。それなのに「すぐできるようになる」と励まされたところで、たぶん素直には信じられなかったと思う。
そう考えたところで、ふと引っかかった。
この感じを、つい最近どこかで味わった気がする。
『無責任に「桜小路さんなら絶対向いてますよ」って言われたいですか?』
「......」
昨日の野山さんとの会話が蘇り、思わず黙り込んだ。
あの時も、野山さんは私が欲しがっていたような分かりやすい言葉をくれなかった。スクールアイドルに向いているとも、きっと上手くいくとも言わず、できるかどうかなんて自分にも分からないとはっきり言った。
その代わり、何も知らないまま無理だと決める必要はないと言ってくれた。ちゃんと自分の目で見て、知って、考えて、それでもやりたいと思えたなら、その時に自分で決めればいいのだと。
そして今日、実際にここまで来てみて、少なくとも一つだけ分かったことがある。スクールアイドルは簡単ではない。それどころか、思っていたよりずっと難しくて、今の私にはできないことばかりだった。
だから、自分には無理だと納得できたのかと言われたら——どうしてか、そうはならなかった。
「きな子ちゃん?」
嵐先輩に呼ばれて、はっと顔を上げる。
「あ、なんでもないっす!」
慌てて首を振ってから、私も片付けを手伝おうと立ち上がった。
脚にはまだ疲れが残っていて、立った瞬間に太ももが少し震える。
「無理しなくていいよ?」
「これくらいはやるっす! 体験させてもらったんすから!」
そう言って、近くにあったものを手に取る。
五人と一緒に片付けながら、さっきまでの練習のことを思い返していた。
できなかった。
疲れた。
大変だった。
でも、それだけじゃなかった。
ほんの少しだけできたこともあったし、もう一度やってみたいと思った瞬間もあった。
そして目の前の五人だって、最初から何もかもできたわけではないらしい。
それを知ったせいなのか、練習前より少しだけ、「自分には絶対無理」という言葉を口にしづらくなっていた。
◇
校門を出る頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。家へ向かって歩き出したものの、いつもより足取りはずっと遅く、練習の疲れが残った身体は、少し歩くだけでも太ももの奥がじんわりと重くなってくる。
「......大変だったっす」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
柔軟では自分でも驚くほどの身体の硬さを思い知らされ、ランニングでは五人についていくだけで精一杯になった。筋トレでは何度も限界だと思ったし、ダンスでは頭で分かっているつもりでも身体が思うように動かず、歌と一緒にやろうとすれば、それまでどうにかできていたことまで分からなくなった。
思い返せば、できなかったことなんていくらでも出てくる。
「全然できなかったっす......」
そこまで分かったのなら、答えはもう簡単なはずだった。
——やっぱり、自分には無理だった。
これまでなら、そう言って終わらせようとしていた。けれど今日は、何も知らないまま決めるのとは違う。実際に自分の身体で練習を体験して、Liella!の普段の練習もこの目で見て、自分と五人の間にどれほど大きな差があるのかまで思い知らされたのだから、今ならちゃんと理由をつけて「無理だった」と言えるはずだった。
それなのに、どうしてもその言葉だけでは終われない。
「......なんでなんすかね」
重たい脚を動かしながら、最後にもう一度ダンスを教えてもらった時のことを思い出す。
『もう一回、お願いしてもいいっすか?』
あれは、間違いなく自分から出た言葉だった。
誰かに頼まれたわけでもなければ、もう少し頑張ってみようと励まされたわけでもない。あの時にはもう十分すぎるくらい疲れていたし、そこで終わりにしたところで、きっと誰も責めなかった。
それでも私は、もう一回やってみたいと思った。そして、それだけではない。
『最初よりはできてたじゃない』
平安名先輩に言われた言葉まで思い出して、私は歩きながら自分の手をぼんやりと見つめた。
最初は本当に何もできなかった。足だけならどうにかなったのに、腕をつければ途端に分からなくなって、音楽が流れればさらに混乱した。それでも何度か繰り返しているうちに、ほんの一瞬だけ思った通りに身体が動いて、最後には最初より少しだけ長くステップを続けられるようになっていた。
できなかったことばかりを数えていたはずなのに、今になって思い出すのは、なぜかそんな小さな「できた」の方だった。
「......」
スクールアイドルの練習を実際に見れば、自分がどうしたいのかも、もっと簡単に分かると思っていた。
あまりにも大変で自分には無理だと思えば、やらないと決めればいい。反対に、思っていたよりできそうなら、その時にはやってみることを考えればいい。それまでは実際に見て、やってみさえすれば、どちらかにはっきり答えが出るものだと思っていたのだ。
けれど、実際に触れてみたら、そんなに簡単な話ではなかった。
難しいことは分かった。大変なことも、自分が今のままでは全然ついていけないことも分かった。Liella!が本気でラブライブ!の優勝を目指していて、そのためにどれだけ練習しているのかも、ほんの少しだけ知ることができた。
その全部を知ったうえで——それでも、少し楽しかった。
「......野山さん」
気づけば、その名前が口から零れていた。
『自分が納得できるまで知ってから決めればいいんじゃないですか』
昨日聞いた言葉を思い出して、私は小さく頬を膨らませる。
「ちゃんと知ったら、余計分かんなくなったっすよ......」
本人がここにいないのをいいことに、聞こえるはずもない文句を呟いてみる。
もちろん、さんが悪いわけではない。あの人は、知れば自然と答えが見つかるなんて一度も言っていなかった。むしろ最後に決めるのは私自身で、誰かに決めてもらったところで意味がないとはっきり言われている。
それでも、知らなかった頃より迷うことになるなんて思っていなかった。ただ、同じ迷いでも、昨日までとは少しだけ違う気がする。
昨日までは、やらない理由を探していた。自分にはできないから。初心者だから。Liella!は本気でラブライブ!の優勝を目指しているから。そういう理由を一つずつ集めて、「だからきな子には無理だった」と納得しようとしていた。
——今は違う。
できないことを自分の身体でたくさん知って、それでも楽しいと思ってしまった自分を、どうすればいいのか分からずにいる。
「......困ったっす」
そう呟いたのに、不思議と嫌な気分にはならなかった。
答えはまだ出ていないし、自分がLiella!に入って活動している姿だって、今の私には相変わらず想像できない。それでも昨日よりスクールアイドルのことを知って、Liella!のことも少しだけ知ることができた。そして何より、自分が思っていたほど簡単には「無理」の一言で終わらせられないことまで知ってしまった。
駅へ向かう道を歩きながら、私は身体に残った疲れごと吐き出すように長く息を吐いた。
「まあ......今日はもう考えるのやめるっす」
身体も頭も、これ以上何かを考え続けられるほど元気ではない。とりあえず家へ帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、それからゆっくり休もう。答えを出すのは、それからでも遅くない。そう決めて、少しだけ歩く速度を上げた。
けれど、しばらくすると、また今日の練習が勝手に頭の中へ戻ってくる。
『そう! 今の!』
嵐先輩が嬉しそうに上げた声。
『最初よりはできてたじゃない』
何でもないことのように言った平安名先輩の言葉。
そして——。
『もう一回、お願いしてもいいっすか?』
誰でもない、自分自身の声。
「............」
気づけば、また同じことを考えていた。
「考えるのやめるのも、難しいっすね」
誰もいない隣へ向かってぼやきながら、それでも足だけは家へ向かって動かし続けた。身体はあんなに疲れているのに、頭の中だけは、まだ今日の練習場所から帰ってきてくれそうになかった。