ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
カラン、と軽やかな音を立ててドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店の奥から聞こえてきたのは、ここへ来るようになってからすっかり聞き慣れた声だった。
「こんにちはっす」
「あ、桜小路さん。こんにちは」
カウンターの向こうにいた野山さんが、私に気づいて顔を上げる。
—————Café Arbre。
東京へ来てまだそれほど日が経っていないのに、気づけば何度も足を運ぶようになっていた店で、今では扉を開けた時に感じるコーヒーの香りや落ち着いた店内の空気にも、少しずつ馴染みを感じるようになっている。
とはいえ、今日は野山さんに何か相談したくて来たわけではない。昨日の体験入部について話そうと決めていたわけでもなく、学校を出てからなんとなく足がこちらへ向いただけだった。本当に、ただなんとなく寄っただけ。
そう自分に言い聞かせながら空いている席へ向かおうとしたところで、背後から声をかけられた。
「桜小路さん」
「はい?」
何だろうと思って振り返ると、野山さんは注文を聞くでもなく、なぜか私の方をじっと見ていた。その視線が顔ではなく少し下へ向いていることに気づき、嫌な予感がする。
「歩き方、どうしたんですか」
「............」
思わず自分の足元へ視線を落とした。自分ではなるべく普通に歩いているつもりだったのだけれど、どうやら痛む脚を庇うような不自然な歩き方になっていたらしい。
「......この人にも分かるんすか」
学校でも散々痛みに苦しんできたというのに、まさか店へ入って数歩歩いただけで見抜かれるとは思わなかった。
「筋肉痛っす」
「ああ」
理由を答えると、野山さんはひとまず納得したように頷いたものの、何か気になることでもあったのか、すぐに少しだけ首を傾げた。
「何したんですか?」
「昨日、ちょっと身体を動かしすぎたっす」
「運動?」
「まあ、そんな感じっす」
曖昧に答えてから、別に隠すようなことでもないと思い直す。そもそも昨日、自分がどうすればいいのか散々相談した相手なのだから、そのあと実際にどうしたのかくらい、話してもいいはずだ。
「実は昨日、Liella!の練習に行ってきたっす」
「へえ」
予想していなかったのか、野山さんの手がほんの一瞬だけ止まった。けれど、それ以上大げさに驚くことはなく、すぐにいつもの調子で聞き返してくる。
「見学してきたんですか?」
「それが......見るだけのつもりだったんすけど、流れで体験入部することになったっす」
「体験入部までしたんですか」
「したっす。その結果がこれっす」
そう言いながら自分の脚を指さすと、野山さんはようやく今の私の歩き方と話が繋がったらしく、納得したように小さく笑った。
「なるほど。それでその歩き方なんですね」
「笑い事じゃないっすよぉ」
恨めしそうに文句を言いながらいつもの席まで向かい、できるだけ脚へ負担をかけないよう、ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。けれど、それだけの動作でも太ももの奥がじわりと痛み、思わず顔をしかめてしまった。
「いだっ」
「相当ですね」
「はい、相当っす」
そんな私を見て、野山さんは少し可笑しそうにしていたものの、それ以上からかってくることはなく、カウンターの向こうへ戻るといつもの飲み物を用意し始めた。
店の中には食器の触れ合う小さな音が響き、カウンターの向こうで野山さんが慣れた手つきで作業を続けている。その姿を何となく眺めているうちに、学校を出てからずっと胸の中に残っていた引っかかりも、少しずつ静かになっていくような気がした。
「それで」
しばらくして、作業を続けていた野山さんがふとこちらへ顔を向けた。
「実際にやってみて、どうでした?」
「............」
そう聞かれた途端、昨日の出来事が頭の中に次々と浮かんできた。
身体の硬さを思い知らされたことも、ランニングや筋トレでへとへとになったことも、ダンスで何度も失敗したことも覚えている。それなのに、最後には自分からもう1回やりたいと言っていた。
いろいろありすぎて、どこから話せばいいのか分からないまま、私は昨日のことをゆっくりと思い返していた。
「死ぬかと思ったっす」
「そんなに?」
「そんなにっす!」
昨日の大変さを思い出した途端、つい声にも力が入ってしまい、私は痛む身体のことも忘れて身を乗り出した。
「最初はストレッチだったんすよ。だから、きな子もこれくらいならできるって思ったっす!」
「はい」
「そしたら嵐先輩に背中ちょっと押されただけで、身体折れるかと思ったっす!」
「それは大げさじゃないですか?」
「大げさじゃないっす!」
必死に訴えているというのに、野山さんの口元がわずかに緩んでいる。どうやらあまり深刻には受け取ってもらえていないらしく、私は少し不満に思いながらも、そのまま昨日の出来事を順番に話していく。
「その後走ったっす」
「はい」
「全然ついていけなかったっす」
「はい」
「その後筋トレっす」
「はい」
「死んだっす」
「今生きてますけど」
「気持ちの問題っす!」
間髪入れずに返され、思わず頬を膨らませる。こっちは昨日の苦労を一生懸命説明しているというのに、野山さんは相変わらず淡々としていて、どこまで本気で聞いているのか分からない。
そんなやり取りをしているうちに、用意していたアイスミルクティーがカウンターへ置かれた。私は一度話を止めてグラスを手に取り、そのまま一口飲む。
冷たい飲み物が喉を通っていくと、勢いのまま喋り続けていた身体から少しだけ力が抜けた。昨日のことを思い返せば、大変だったことはいくらでも出てくるし、今日になって全身が筋肉痛になっていることを考えても、決して楽な体験ではなかったはずだ。
それなのに、こうして野山さんに順番に話していると、不思議と嫌だったことばかりが浮かんでくるわけではない。むしろ昨日は必死で気づく余裕もなかった出来事まで、今になって思い返すと少しだけ面白く感じられて、話したいことが次から次へと出てくる。
「しかも、それで終わりじゃなかったっす」
「まだあるんですか」
「ダンスっす!」
思わず声が弾み、昨日の光景が頭の中へ蘇ってくる。
嵐先輩に動きを教えてもらいながら、何度も同じところを繰り返した。最初は自分の身体なのに思った通りに動かせないことが不思議で、周りの人たちが当たり前のようにできていることを、自分だけができないのが少し悔しかった。
「最初、足だけだったらできたんすよ」
「へえ」
「右、左、右、左って。だから、その時はきな子も意外といけるんじゃないかって思ったっす」
昨日教えてもらった動きを思い出しながら、椅子に座ったまま足を小さく動かしてみる。筋肉痛のせいでいつもより少しぎこちないけれど、右、左と動かすくらいなら今でもちゃんと覚えていた。
「それで、次に腕もつけることになったんすけど......」
「できなかった?」
「なんで先に言うんすか!」
「話の流れ的に」
「もう、きな子がこれから言おうと思ってたのに」
先回りされてしまったことが少し悔しくて頬を膨らませると、野山さんは可笑しそうに笑った。けれど、自分でもそのやり取りがおかしくなってしまい、結局私までつられて笑ってしまう。
「でも、本当に不思議だったっすよ。足だけならちゃんとできてたのに、他のことも一緒にやろうとした途端、急に何も分からなくなったっす」
「一つずつならできても、同時にやるのは難しいってことですか」
「そうっす! まさにそれっす!」
ようやく分かってもらえた気がして、大きく頷く。
それからも、思い出したことを一つずつ話していった。初めてやることばかりで戸惑ったことも、思っていた以上に自分とLiella!の皆さんとの差が大きかったことも、昨日実際にその中へ入ってみたからこそ分かったことだった。
けれど、話しているうちに、いつの間にか私は「できなかった」ということばかりを話しているわけではなくなっていた。野山さんもそれに気づいたのか、何も言わずにこちらを見ている。
「?なんすか?」
「いや」
「なんか言いたそうっす」
「別に」
そう答えながらも、野山さんの口元にはわずかに笑みが残っていた。
その理由が分からず首を傾げてから、私はもう一度昨日のことを思い返す。
大変だった。
できないこともたくさんあった。
自分とLiella!の皆さんとの間にある差だって、実際にやってみたことで余計にはっきり分かってしまった。
それなのに。
「............」
どうして私は、こんなに楽しそうにその話をしているんだろう。
そこまで考えたところで、自分の中にある気持ちが、昨日よりもほんの少しだけ形を持ち始めたような気がした。
「何回かやってたら—————」
話しているうちに昨日の感覚が鮮明に蘇ってきて、気づけば身体が自然と前へ傾いていた。
「一回だけ、ちゃんとできたっす」
「できたんですか?」
「はいっす!」
聞き返された途端、嬉しかった瞬間を誰かに伝えられることが急に楽しくなって、思わず声まで大きくなる。じっと座って話しているだけでは足りないような気がして、昨日の動きを再現するように手まで動かしていた。
「本当に一瞬だけだったんすけど! 右、左ってやって、腕もちゃんと動いて! 嵐先輩にも『今の!』って言ってもらえたっす!」
ほんの一瞬だった。それまで何度やっても上手くいかなかったのに、あの時だけは足と腕がぴたりと噛み合って、考えるより先に身体が思った通りに動いてくれた。
昨日の練習でできなかったことを数えれば、その何倍もある。それでも今こうして思い返していると、不思議なくらい鮮明に浮かんでくるのは、失敗した瞬間よりもあの時の感覚だった。
「そのあと、音楽流したらまた全然できなくなったんすけど。でも、一回だけちゃんとできたっす!」
もう一度念を押すように言ってから、ようやく一息つく。
「............」
けれど、野山さんから返事がない。
さっきまでは私が何か話すたびに相槌を打っていたのに、今は何も言わず、こちらをじっと見ている。そのことに気づいて、さっきまで勢いよく動かしていた手を少しずつ下ろした。
「......?」
何か変なことでも言っただろうかと思いながら顔を上げると、野山さんと目が合った。
「なんすか?」
「いや」
野山さんは一度だけ視線を逸らし、それから何かに気づいたようにほんの少しだけ笑った。
「楽しそうですね」
「—————え?」
予想していなかった言葉に、ぴたりと手が止まる。
何を言われたのか理解するまでに少しだけ時間がかかった。昨日の練習がどれだけ大変だったのかを話していたはずなのに、いつの間にか私は身振りまで交えながら、たった一度できたことを夢中になって話していた。
そのことを野山さんに指摘されて初めて、自分がどんな顔で昨日の話をしていたのかを意識した。
「いや、さっきから大変だったって話しかしてないのに」
野山さんはそう言いながらカウンターへ片手をつき、さっきまでの私の様子を思い返しているのか、どこか可笑しそうな表情を浮かべた。
「妙に楽しそうに喋るなと思って」
言われている意味がすぐには分からず、私はその言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
——————楽しそう。
昨日の練習について話していた私は、そんなふうに見えていたのだろうか。身体は今でも筋肉痛で、さっきまで散々大変だったと訴えていたし、実際にできなかったことの方が圧倒的に多かった。それなのに、野山さんから見れば、私はそれを楽しそうに話していたらしい。
「そんな顔してたっすか?」
「してましたよ」
確かめるように自分の頬へ触れてみる。言われて意識したせいなのか、少しだけ熱を持っているような気もするけれど、当然ながら自分がさっきまでどんな表情で話していたのかなんて自分では分からない。
ただ、嵐先輩に「今の!」と言ってもらえた時のことを話していた時だけは、昨日の嬉しさがそのまま戻ってきたような感覚があった。
「楽しかった、んすかね」
「俺に聞かれても分かりませんよ」
「そこはなんか言ってほしいっす!」
「自分の気持ちでしょう」
「そうっすけど」
少しくらいそれらしい答えをくれてもいいのにと思いながら頬を膨らませると、野山さんは特に気にした様子もなく、再びカウンターの中で仕事へ戻ってしまった。
結局また、自分で考えろということらしい。
昨日だってそうだった。やった方がいいとも、やめた方がいいとも言ってくれなくて、最後に決めるのは自分だと言われた。今だって、私が楽しかったのかどうかという答えくらい、野山さんなら何か言ってくれるかと思ったのに、簡単には決めてくれない。
手元の飲み物へ視線を落としながら、昨日のことをもう一度思い返してみる。
大変だったのは間違いない。それでも、もう一回やりたいと思った瞬間があって、今日になってからも何度もLiella!のことを考えている。朝には澁谷先輩たちと別れたことを少し寂しく感じて、放課後には練習へ向かう五人の背中を思わず目で追ってしまった。
そこまで考えたところで、仕事へ戻ったはずの野山さんが、ふと手を止めてもう一度こちらを見た。
「ただ」
「?」
もう話は終わったのだと思っていたところで、野山さんが何気ない調子のまま言葉を続けた。
「昨日よりは、ずいぶん顔が明るいですけどね」
思いがけないことを言われて、すぐには言葉を返せなかった。
昨日ここで話していた時の自分がどんな顔をしていたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、スクールアイドルをやるのか、やらないのか、どちらを選べば後悔しないのかと考えてばかりで、何をするにも失敗することを怖がっていたことだけは覚えている。
それに比べれば、今日はどうなのだろう。
実際にやってみたことで、簡単ではないことは昨日よりずっとよく分かった。できないことだってたくさん見つかったし、身体にはこうして筋肉痛まで残っている。それでも、昨日より顔が明るくなっていると野山さんには見えるらしい。
野山さんは、それ以上何も言わなかった。
やればいいとも、Liella!へ入ればいいとも言わない。私が楽しそうにしていたことと、昨日より顔が明るく見えることを伝えただけで、その先にどんな答えを出すのかまでは、やっぱり私に任せるつもりなのだろう。
私も、それ以上は聞かなかった。
ここでまた答えを求めたところで、きっと野山さんは決めてくれない。それに今は、それでいいような気もしていた。
ただ、手元の飲み物へ視線を落としても、一度意識してしまった言葉は簡単には頭から離れてくれなかった。
『楽しそうですね』
昨日の練習を思い出しながら夢中になって話していた自分と、その時に感じていた嬉しさが、もう一度胸の中へ蘇ってくる。
その言葉だけが、小さな引っかかりとなって、いつまでも胸の奥に残っていた。
◇
店を出る頃には、空は昼間よりもずっと低い色へ変わり、建物の窓に反射した夕日が道路の端を橙色に染めていた。さっきまで店の中で野山さんと話していたせいか、外へ出た途端に急に一人になったような感覚がして、私は肩に掛けた鞄の紐を握り直しながら歩き始める。
昼間より少し冷たくなった風が頬を撫でていく中、頭の中には店を出る前に言われた言葉が、何度も繰り返し浮かんでいた。
『楽しそうですね』
たったそれだけの言葉なのに、どうしても頭から離れてくれない。
楽しかったのかと聞かれれば、少し前までの私はきっと素直に答えられなかったと思う。柔軟では身体の硬さを思い知らされ、ランニングでは息を切らし、ダンスでは右と左すら分からなくなったのだから、大変だったことならいくらでも思い出せる。
それでも、あれだけ苦しかったはずなのに、「もう二度とやりたくない」とは少しも思っていなかった。それどころか、一晩経った今でも一番はっきり覚えているのは、苦しかったことではなく、何度も失敗した末にほんの一瞬だけ身体が思った通りに動いて、嵐先輩から「今の!」と言ってもらえた時のことだった。
「—————楽しかった」
確かめるように声へ出してみると、自分の耳へ返ってきたその言葉は、思っていたよりもずっと素直に胸の中へ落ちてきた。
昨日の練習は楽しかった。
そう認めるだけなら、それほど難しいことではないはずだった。それなのに、胸の奥には小さな怖さが残る。楽しかったと認めてしまえば、今度はまたやってみたいと思っている自分まで認めることになる。そして、その気持ちをさらに先へ辿っていけば、ずっと避けていた一つの答えへ近づいてしまう気がした。
——また、やりたい。
——もう一度、あの人たちと練習してみたい。
そして、その先にあるのはきっと、Liella!へ入るという選択だった。
無意識に歩調が緩み、昨日見た五人の練習風景が頭の中に浮かんでくる。
何度も音楽を止め、そのたびに嵐先輩が気づいたところを伝えると、澁谷先輩たちは息を整えながら元の位置へ戻っていた。上手くいかなければ、もう一回。それでも合わなければ、またもう一回。誰かに強制されているわけでもないのに、自分たちが納得できるまで何度でも繰り返していた。
昨日までは、その姿を少し離れたところから眺めていただけだった。
けれど、もしLiella!へ入ったら。
今度はあの輪の外から眺めるのではなく、自分もその中へ立つことになる。
さっきまで少し軽かった胸が、今度はゆっくり重くなった。
「きな子が入ったら——————」
足を引っ張る。その言葉を口にするのが嫌で、最後まで声にはしなかった。
でも、頭の中にははっきり浮かんでいた。
体力もない。ダンスもできない。
歌いながら踊るなんて、何をどうすればいいのかすら分からない。
楽しかった。
だから入りたい。
そんな簡単な気持ちだけで、本気の人たちの中へ入っていいんだろうか。
—————歩き出す。
足元へ落ちる自分の影が、夕日のせいで長く伸びていた。
その影を眺めているうちに、なぜかずっと昔のことが記憶の底から浮かび上がってきた。
まだ小さかった頃、ピアノを習い始めたばかりの私は、鍵盤を押せば音が鳴るというだけで楽しかった。少しずつ音を繋げられるようになり、覚えた曲を最後まで弾けた時には、それが嬉しくて何度も同じ曲を繰り返していたことを覚えている。
けれど、続けていくうちに弾く曲は少しずつ難しくなり、思ったように指が動かないことも増えていった。何度練習しても同じところで間違えて、そのたびにもう一度やり直しているうちに、いつしか楽しかったはずのピアノが、練習しなければならないものへと変わっていった。
練習しなきゃと思えば思うほど、ピアノの前へ座ることが億劫になっていった。
——今日はもういい。続きは明日にしよう。
そうやって一日だけ離れたつもりが、いつの間にか触れない日の方が増えていき、最後にはほとんど弾かなくなった。そして、そのまま私はピアノを辞めた。
「もし、あの時も続けていたら—————」
そんなことを、今でも時々考えることがある。続けていたからといって上手くなれたとは限らないし、今さら考えたところで何かが変わるわけでもない。それでも、途中でやめてしまったものだからこそ、ふとした時に「あのまま続けていたら」と思うことだけはなくならなかった。
だからこそ、昨日の自分が少しだけ不思議だった。
初めてやったダンスは、昔のピアノ以上に何もできなかった。足だけならどうにか動かせても、腕をつければどちらかが止まり、音楽が流れれば右と左すら分からなくなる。何度やっても間違えて、その頃には身体だって十分に疲れていたのだから、もうやめたいと思ったとしてもおかしくなかったはずだ。
それなのに、昨日の私は違った。
『もう一回、お願いしてもいいっすか?』
昨日の自分の声が蘇った瞬間、いつの間にか歩いていた足が止まっていた。
あれは、誰かにもう一度やれと言われて出た言葉ではない。疲れている私を見て、澁谷先輩たちはいつ終わりにしてもいいようにしてくれていたし、そこでやめたとしても誰かに責められることなんてなかった。
それでも私は、自分からもう一回やりたいと言った。
それは誰かに言わされたものではなく、間違いなく私自身が口にした言葉だった。
「きな子が......自分で言ったんすよね」
もう一回やりたい、と。
改めてそう考えると、胸の奥に残っていた昨日の感覚が少しずつ蘇ってくる。何度やっても上手くいかなくて、身体だって疲れていたのに、不思議と嫌にはならなかった。それどころか、一瞬だけ思った通りに身体が動いた時には、それまでの失敗を忘れてしまうくらい嬉しかった。
「............」
胸の前で手を握りながら、その時に感じたものをもう一度確かめてみる。
もし、もっとできるようになったら。
昨日は何度も止まってしまったステップを最後まで続けられるようになって、歌いながらでも身体が自然に動くようになったら。いつか、昨日は少し離れたところから眺めていることしかできなかったあの五人と、同じように歌って踊れるようになったら。
そこまで想像したところで、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「できるように、なりたいっす」
小さく口にした言葉は、今度も思っていた以上に素直に出てきた。
楽しかったから、もう一度やってみたい。それだけでも、昨日までの私からすれば十分に大きな変化だったと思う。でも、今胸の中にあるものは、それだけではなかった。
できなかったからこそ、できるようになりたい。
昨日までは、自分にはできそうにないということを、やらないための理由にしていた。それなのに実際にやってみて、本当にできないのだと分かった今になって、今度はそのことがもう一度やってみたい理由へ変わり始めている。
自分でもおかしな話だと思う。けれど、そう考えれば、昨日からずっと胸の中に残っていたものにも少しだけ説明がつく気がした。できた瞬間ばかり何度も思い出したことも、自分から「もう一回」と言ったことも、野山さんに昨日のことを話しているうちに楽しくなってしまったことも、きっと全部同じところへ繋がっている。
「きな子......」
一度言葉を切り、自分自身へ確かめるように胸の前で握った手へ少しだけ力を込める。
「できるようになりたいんすね」
その言葉を口にした瞬間、昨日からずっと胸の中で引っかかっていた名前のない気持ちが、ようやく一つの形を持ったような気がした。
◇
翌日の放課後、私は再びLiella!の練習場所まで来ていた。
昨日とは違って、今日は体験入部をさせてもらうために来たわけではない。確かめておきたいことがあって、それを聞いたうえで、自分の口から伝えたいこともある。そのためにここまで来たはずなのに、いざ練習場所を目の前にすると、なかなか最後の一歩を踏み出せなかった。
「............」
ドアの向こうからは、Liella!のみんなが話している声がかすかに聞こえてくる。それを耳にしただけで胸の鼓動が少し速くなり、昨日ここへ来た時とはまた違った緊張が身体を包んでいく。
それでも、実際にみんなの顔を前にして上手く言葉にできるのかと思うと、急に自信がなくなってくる。
「......よし」
小さく呟いて息を吸ったところで、知らないうちに肩へ力が入っていたことに気づき、一度ゆっくりと息を吐く。
ここまで来たのだから、今さら引き返すつもりはない。
昨日は、誘われたから体験してみた。でも今日は違う。誰かに背中を押されたわけでも、ここへ来るよう言われたわけでもなく、自分で考えて、自分の意思でここまで来た。
だから今度こそ、ちゃんと自分の言葉で伝えたい。
「—————ふぅっ」
もう一度だけ息を整えてから、私は意を決してドアへ手をかけ、その向こうへ一歩足を踏み入れた。
「あれ?」
真っ先に私の姿へ気づいたのは、澁谷先輩だった。
「きな子ちゃん?」
「澁谷先輩」
「どうしたの? 今日も体験?」
「いえ」
首を横へ振ると、それだけでさっきより緊張が増したような気がした。体験なら、昨日と同じように教えてもらえばいい。けれど、今日はそのために来たわけではないし、これから口にしようとしていることは、昨日よりもずっと自分自身のことに関わっている。
「聞きたいことがあるっす」
「聞きたいこと?」
澁谷先輩が首を傾げると、それまで少し離れたところにいた四人も何事かとこちらへ集まってきた。五人の視線が一斉に自分へ向けられた途端、ここへ来るまで何度も考えていたはずの言葉が、急に喉の奥へ引っかかったような気がする。
手のひらが少し汗ばんでいる。無意識に制服の裾へ触れてから、乾いたように感じる喉を潤すため、一度だけ唾を飲み込んだ。
「あの......」
ここまで来たのだから、ちゃんと聞かなければならない。
昨日までなら、できないことを並べるのは簡単だった。自分には無理だと諦めるために、できない理由ばかり探していたのだから。でも今は、そのために口にするわけではない。
「きな子、昨日ほとんど何もできなかったっす」
「え?」
「ランニングも全然ついていけなかったし、筋トレも途中で死にそうになったっす。ダンスなんて足と腕を一緒に動かすだけでも何回も間違えたし、歌いながら踊ろうとしたら、どっちかに集中した瞬間もう片方が止まったっす」
改めて口にしてみると、本当にできなかったことばかりだった。昨日はほんの少しできただけでも嬉しかったけれど、それで五人との差がなくなったわけではない。むしろ実際に同じ練習を体験したからこそ、自分がどれだけ何もできないのかは、始める前よりずっとよく分かっている。
「まあ......」
澁谷先輩が少し困ったように笑った。
「初日だからね」
「でも!」
その言葉に甘えてしまいそうになって、私は思わず声を強くした。
初めてだったからできなくても仕方ない。それは昨日も言ってもらったし、自分でも分かっている。何度も練習すれば、少しずつできるようになるのかもしれない。
けれど、私が気にしているのはそこだけではなかった。
「皆さんは、本気でラブライブ!の優勝を目指してるっす」
その言葉を口にした瞬間、五人の表情がほんの少しだけ変わった。それまで私を迎えてくれていた柔らかな雰囲気が消えたわけではない。それでも、昨日その目標を聞いた時と同じような真剣さが、それぞれの顔に浮かんだように見えた。
昨日までは、「ラブライブ!で優勝する」という言葉の大きさを、私はちゃんと分かっていなかった。
けれど今は違う。
「昨日、皆さんの練習を見て、少しだけ分かったっす。何回も同じところを練習して、ちょっとでもずれてたら止めて、また最初からやり直して......誰も『これくらいでいい』って言わなくて、もっと良くするために何回でも繰り返してたっす」
話しながら、昨日見た光景が鮮明に蘇ってくる。
音楽が止まるたびに乱れた呼吸を整え、汗を拭いながら元の位置へ戻っていく五人。疲れているはずなのに、誰かがもう一回と言えば当たり前のように構え直し、納得できるまで同じところを繰り返していた。
あの時の私は、それを少し離れたところから見ているだけだった。
でも、もしこれからもLiella!と一緒にやっていきたいのなら、ずっと外から眺めているわけにはいかない。
次は、自分もあの輪の中へ入ることになる。何度も間違えながら、それでも五人と同じ目標を追いかける側になる。
「.....」
そう考えた瞬間、胸の奥にあった不安が、さっきよりもはっきりと形を持った。
自分ができるようになるかどうかだけじゃない。
今の自分がそこへ入ることで、本気で優勝を目指しているこの人たちの邪魔になってしまわないのか。
それを確かめないまま、「やりたい」という自分の気持ちだけを伝えることはできなかった。
「だから——————」
そこまで言ったところで、続くはずだった言葉が喉の奥に引っかかった。
聞きたいことは最初から決まっていたし、そのためにここまで来た。それなのに、いざ五人を目の前にして口にしようとすると、もし自分が一番聞きたくない答えが返ってきたらと思ってしまう。
それでも、ここで聞かずに帰るわけにはいかなかった。
「そんなところに、今のきな子が入ったら......迷惑じゃないっすか?」
言い終えた途端、それまでよりも周囲が静かになったように感じた。
五人はすぐには答えなかった。そのほんのわずかな沈黙が妙に長く感じられて、私は耐えきれずに視線を落とす。
やっぱり、そうなのかもしれない。
本気でラブライブ!の優勝を目指している人たちの中へ、昨日初めてダンスをしたような自分が入る。五人が先へ進もうとしているのに、自分だけできなくて何度も練習を止めてしまうかもしれない。昨日は体験だったから笑って待ってもらえたけれど、それが毎日のことになったら話は違うのではないか。
そんな考えが次々と浮かび始めたところで、最初に口を開いたのは嵐先輩だった。
「きな子ちゃん」
「はいっす」
顔を上げると、嵐先輩は困ったような顔をするでもなく、いつもと変わらない柔らかな表情で私を見ていた。
「最初から踊れる人なんて、ほとんどいないよ」
「え?」
「私だって、最初から全部できたわけじゃないし。できなかったことを練習して、少しずつできるようになったんだよ」
あまりにも当たり前のことを話すように言われて、私は思わず嵐先輩の顔を見つめた。
昨日、私が右と左すら分からなくなっている横で、嵐先輩はまるで呼吸でもするように身体を動かしていた。そんな姿を見たあとでは、この人にもできなかった時があったということが、どうしてもすぐには想像できない。
「でも、嵐先輩はあんなに踊れるっす」
「今はね」
「今は......」
「うん。いっぱい練習したから」
その言葉を聞いた瞬間、昨日見た練習風景がまた頭に浮かんだ。できるから練習しているのではない。もっとできるようになるために、今も練習を続けている。分かっていたはずのことなのに、自分のことになると、どうしてか最初からできなければいけないように考えていた。
「そうデス!」
勢いのある声にそちらを見ると、今度は唐先輩が一歩前へ出ていた。
「唐先輩......」
「できないから練習するのデス! 最初から全部できる必要なんてありマセン!」
力強く言い切られ、その勢いに思わず少し身体を引く。それでも、唐先輩の表情に迷いはなく、本当に何をそんなに悩んでいるのかと言いたそうだった。
「でも......きな子ができない間、皆さんの練習を止めちゃうかもしれないっす」
できないことそのものが怖いわけではない。今なら、練習すれば少しずつできるようになるのかもしれないとは思える。
それでも、その間に五人の足を引っ張ってしまうことが怖かった。
昨日のことを思い返しながら、ずっと引っかかっていた不安をようやく口にする。Liella!の五人は、ラブライブ!で優勝するために毎日練習している。その時間の中へ、まともにステップひとつ踏めない自分が入れば、昨日のように何度も動きを教えてもらったり、できるまで待ってもらったりすることになるはずだ。
体験だった昨日なら、それでもよかったのかもしれない。けれど、本当にこの人たちと一緒にやっていくとなれば話は違う。自分ができないせいで五人の練習時間を奪ってしまうのではないか。そう考えると、ただ「やってみたい」という気持ちだけで飛び込んでいい場所なのか、どうしても分からなかった。
「だから何よ」
「え?」
思ってもいなかった返事に、私は目を瞬いた。もっと優しく否定されるか、あるいは少しくらい困った顔をされるものだと思っていたのに、平安名先輩は腕を組んだまま、何をそんなに気にしているのかと言いたそうな顔でこちらを見ている。
「練習してたら、誰かが間違えて止まることくらいあるでしょ。昨日だってそうだったじゃない」
「それは、そうっすけど」
言われて、昨日見せてもらった五人の練習が頭に浮かんだ。音楽が途中で止まり、動きを確認して、また最初からやり直す。確かに止まっていたのは私が参加していた時だけではない。澁谷先輩たちだって何度も動きを合わせ直していたし、そのたびに誰か一人を責めるようなこともなく、当たり前のようにもう一度同じ場所へ戻っていた。
「あんただけが間違えるわけでもないし、あんた一人のために全部止まるわけでもないわよ」
「でも、きな子は皆さんよりずっとできないっす」
それでも簡単には納得できなかった。昨日の五人が修正していたのは、私には違いすら分からないような小さなずれだった。それに比べれば、右と左を考えているだけで動きが止まってしまう自分は、同じ「間違える」でもまるで程度が違うように思える。
「だから練習するんでしょう?」
あまりにも当然のことのように返されて、続けようとしていた言葉が止まった。
できないから練習する。言葉にしてしまえば、それだけのことだった。昨日だって最初は足と腕を一緒に動かすことすらできなかったのに、何度も繰り返しているうちに、ほんの一瞬だけ身体が思った通りに動いてくれた。その時の嬉しさを、私はまだ覚えている。
「できないから迷惑、なんて言ってたら、新しいことなんて何も始められないじゃない」
何も言い返せなかった。
昨日までの私は、できないことを「やらない理由」にしていた。経験がないから、運動が得意じゃないから、Liella!みたいにはできないから。けれど実際にやってみた昨日、できないことばかりだった私に対して、五人の誰一人として迷惑そうな顔はしなかった。
何度間違えても嵐先輩はもう一度教えてくれた。ほんの少しできただけで、みんなが一緒になって喜んでくれた。そして最後に私が「もう一回」と言った時にも、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。
「それに、本当に迷惑だと思ってるなら、昨日あんなに付き合ってないわよ」
平安名先輩はそれだけ言うと、もう話は終わりだと言わんばかりに小さく息を吐いた。自分が見落としていたものに今さら気づかされたような気がした。
できなかったことばかりを気にしていたけれど、その間ずっと、五人は私を待っていてくれた。それを勝手に「迷惑だったかもしれない」と決めつけることは、むしろ昨日一緒に練習してくれた五人に失礼なのかもしれない。
「……そう、っすね」
ようやく出てきた声は、自分でも分かるくらい小さかった。それでも胸の中にあった不安の一つが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「最初からできないなんて当たり前でしょ。昨日より今日、今日より明日って、できることを増やしていけばいいじゃない」
平安名先輩の言葉を聞いた瞬間、昨日も似たようなことを言われたのを思い出した。
『最初よりはできてたじゃない』
あの時の私は、一日体験してみて分かった自分のできなさばかりを数えていた。身体は硬いし、体力も足りない。ダンスでは足と腕を一緒に動かすことすらできず、歌まで加われば、それまで覚えたはずの動きまで全部飛んでしまった。
そんな私に、平安名先輩はできなかったことではなく、最初より少しだけできるようになったことを見てくれていた。
それなのに一日経った今日も、結局私は同じところで立ち止まっている。
自分にはできない。みんなみたいには動けない。だから一緒にやれば迷惑になるかもしれない。昨日より少しだけ前へ進んだつもりでいたのに、気づけばまた「できない」を理由にして、自分から遠ざかろうとしていた。
そう考えると、なんだか少しだけ可笑しくなってきた。昨日あれだけ言ってもらったのに、たった一日でまた同じことを気にしているのだから、自分でも相当しつこいと思う。
「できないことがあるのでしたら、これから一つずつできるようになればいいのではないでしょうか」
そんな私の考えを見透かしたわけではないだろうけれど、今度は葉月先輩が穏やかな声でそう続けた。平安名先輩のはっきりとした言い方とは違って、こちらが自分で答えを見つけられるように、そっと背中を押してくれるような声だった。
「これから......っすか?」
「はい」
葉月先輩はゆっくりと頷いた。
「昨日できなかったからといって、これからもずっとできないと決まったわけではありません。それに、最初から何でもできることよりも、これからできるようになるために努力を続けられることの方が、大切なのではないでしょうか」
「これから—————」
その言葉が、妙に胸へ残った。
考えてみれば、私はずっと今の自分と五人を比べていた。昨日初めてダンスのステップを教えてもらったばかりで、歌いながら身体を動かすことなんて一度もしたことがなかった自分と、これまで何度も練習を重ねてきた五人を同じところへ並べている。
そうして自分だけができないことを見て、やっぱり向いていない、自分が入れば迷惑になるのだと決めつけていた。
けれど、最初から同じ場所に立っていたわけではないのだから、今できることが違うのは当たり前なのかもしれない。
昨日だってそうだった。
最初は足だけなら動かせたのに、腕をつけただけで何も分からなくなった。それでも何度も繰り返しているうちに、一瞬だけ足と腕が同時に動いてくれた。ほんの少し前までできなかったことが、完全ではなくても、少しだけできるようになった。
その瞬間に感じた嬉しさを、私はまだはっきり覚えている。
もし本当にあの五人と一緒にやってみたいのなら、今できるかどうかだけで決めなくてもいいのかもしれない。
今はできなくても、練習すれば少しずつできるようになるかもしれない。昨日より今日、今日より明日と積み重ねていけば、今は想像することすら難しいあの場所へ、少しずつ近づいていけるのかもしれない。
「昨日できなかったことが、今日できるようになる。今日できなかったことが、明日できるようになる。その積み重ねなのだと思います」
昨日から何度も頭へ浮かんでは、そのたびに胸の奥へ残っていた言葉だった。
できないから、やらない。
少し前までの私なら、それだけで話は終わっていた。
でも今は違う。
できないからこそ、できるようになりたい。
昨日の練習を終えてから自分の中に生まれたその気持ちが、葉月先輩の言葉を聞いたことで、少しずつ確かなものへ変わっていくような気がした。
「それにね」
それまでみんなの言葉を黙って聞いていた澁谷先輩が、今度はまっすぐ私の方を見た。さっきまでと変わらない柔らかな表情なのに、何を言われるのだろうと思うと、自然と背筋が伸びる。
「きな子ちゃんが迷惑かどうかを、きな子ちゃんが決めなくてもいいんじゃないかな」
「え?」
思いもしなかったことを言われて、私は目を瞬いた。
迷惑をかけるかもしれない。みんなの練習についていけないかもしれない。自分が入ったせいで、今まで五人で積み重ねてきたものを邪魔してしまうかもしれない。
それはずっと、自分がLiella!へ入らない方がいい理由の一つだと思っていた。だからこそ、こうして直接確かめに来たはずだったのに、その考え方そのものを否定されるとは思っていなかった。
「だって」
戸惑う私に、澁谷先輩は少しだけ笑みを深くした。
「一緒にやるのは、私たちなんだから」
言われてみれば当たり前のことなのに、私は今まで一度もそんなふうに考えたことがなかった。
自分が足を引っ張る。自分が迷惑をかける。だから入らない方がいい。
全部、自分の中だけで考えて、自分一人で決めようとしていた。
けれど、本当に迷惑なのかどうかを決めるのは私ではない。一緒に練習して、一緒にステージへ立つことになる、この五人なのだ。
「私たちは、きな子ちゃんと一緒にやってみたいよ!」
一瞬、言われたことの意味を理解するのが遅れた。恐る恐る周りへ視線を向ける。
嵐先輩が笑っている。唐先輩は何度も大きく頷いていて、平安名先輩は腕を組んだままこちらを見ている。その表情はいつも通り少し呆れたようにも見えるけれど、私を拒むようなものではなかった。葉月先輩も穏やかな笑みを浮かべている。
誰一人、困った顔をしていなかった。昨日、初めて練習へ参加した時と同じだった。
何度失敗しても待ってくれた。できなければもう一度教えてくれた。ほんの少しできただけでも、一緒になって喜んでくれた。
私はずっと、そんな五人に迷惑をかけることばかり考えていた。
でも、その五人が今、自分たちの方から「一緒にやってみたい」と言ってくれている。
胸の奥が強く鳴った。
昨日、一瞬だけステップができた時とも違う。野山さんに「楽しそうですね」と言われた時とも違う。自分がずっと遠いところにいると思っていた人たちから、その場所へ来てもいいのだと言ってもらえたような気がして、胸の奥へじんわりと熱が広がっていく。
けれど、すぐに返事をすることはできなかった。
嬉しい。その気持ちに嘘はない。
ここで「はい」と答えてしまえば、きっとみんなも喜んでくれる。それに、昨日から自分の中に生まれていた気持ちを考えれば、その答えはもうほとんど決まっているようにも思えた。
それでも、最後の一歩だけは勢いで踏み出したくなかった。
東京へ来てから、私はずっとスクールアイドルのことを考えてきた。自分には向いていないと決めつけて、一度は誘いを断った。それでも気になって、自分の目でLiella!を見て、実際に練習まで体験した。
——できないことをたくさん知った。
——思っていたよりずっと大変なことも知った。
——それでも楽しかった。
——もう一回やってみたいと思った。
——できないままで終わるのではなく、できるようになりたいと思った。
そして今、目の前の五人が、一緒にやってみたいと言ってくれている。
ここまで来たのだから、最後くらいは誰かの言葉に押されて決めるのではなく、自分で選びたかった。
誘われたからでもない。
みんなが歓迎してくれたからでもない。
野山さんに背中を押されたからでもない。
自分がどうしたいのか。
ちゃんと自分の中にある言葉を見つけて、それを五人へ伝えたかった。
私は胸の前で両手を握り、一度だけゆっくりと息を吸った。
昨日の自分の姿が、次々と頭の中に浮かんでくる。
練習についていくだけで精一杯になり、床へ座り込んで息を切らしていた自分。簡単そうに見えたステップでさえ、腕をつけただけで右と左が分からなくなり、自分の身体なのに思った通りに動かせなくて何度も立ち止まった自分。
できなかったことなら、いくらでも思い出せる。
それでも最後まで残っているのは、そんな自分が何度失敗しても嵐先輩の前へ立ち、もう一度同じ動きを繰り返していたことだった。
『もう一回、お願いしてもいいっすか?』
あの時、自分の口から出た言葉だけは、今でも不思議なくらいはっきりと覚えている。
誰かにもう少し頑張れと言われたわけではない。嵐先輩たちに続けるよう促されたわけでもなければ、その場の空気に流されて口にしたわけでもなかった。身体はもう十分に疲れていたし、あそこで終わりにしたとしても、きっと誰も私を責めなかったと思う。
それなのに、もう一回やりたいと思った。私が、自分でそう思って、自分の言葉で口にした。
「............」
胸の前で握っていた手へ、自然と少し力が入る。
怖くないわけじゃない。
昨日たった一日練習しただけでも、Liella!がどれだけ本気でスクールアイドルをやっているのかは嫌というほど分かった。もし本当にこの五人と一緒にやっていくのなら、昨日よりずっと大変なことが待っているはずだ。
何度練習してもできなくて、自分だけみんなについていけない日があるかもしれない。頑張っているのに上手くならなくて、悔しくなることもあるかもしれないし、自分にはやっぱり無理なんじゃないかと、また立ち止まりたくなることだってあるかもしれない。
それでも。今度は、できないことを理由に離れたくなかった。
できないのなら、できるようになるまでやってみたい。昨日ほんの一瞬だけ感じた、身体が思った通りに動いてくれた時の嬉しさを、もう一度味わってみたい。その一瞬を少しずつ増やして、いつか目の前の五人と同じように、歌って踊れるようになってみたい。
そこまで考えたところで、ようやく顔を上げた。
「き、きな子!!」
口を開くと、自分でも分かるくらい声が少し震えていた。それでも言葉を止めることはせず、こちらを待ってくれている五人を一人ずつ見ながら続ける。
「昨日、本当に全然できなかったっす」
「うん」
「でも......」
一度だけ息を吸う。
昨日までなら、ここで「だから自分には無理だ」と続けていたのかもしれない。できないことを見つけて、それをやらない理由にして、自分が傷つかなくて済む方へ逃げようとしていた。
けれど、今はもう、その続きを口にしたいとは思わなかった。
「できなかったから、もうやりたくないとは思わなかったっす」
「うん」
誰も口を挟まなかった。
五人が黙って私の言葉を待ってくれている。その視線を受けながら、昨日からずっと胸の中にあった気持ちを、一つずつ確かめるように言葉へ変えていく。
「もっと......」
胸の前で握った手へ、もう一度力を込めた。
「もっとできるようになりたいって、思ったっす」
口にした瞬間、胸の中で絡まっていたものが、ようやく一つの形になったような気がした。
できなかった。
悔しかった。
それなのに、楽しかった。
もう一回やってみたいと思った。
そして今度は、できるようになりたいと思っている。
昔、ピアノから離れた時とは違う。あの頃の私は、できないことが増えていくたびにピアノへ向かうのが嫌になって、少しずつそこから離れていった。
でも、今度は離れたくなかった。
昨日までずっと探していた答えは、誰かから教えてもらうものではなく、最初から自分の中に生まれ始めていたのかもしれない。
「だから———」
大きく息を吸い、五人をまっすぐ見た。
もう迷わなかった。
「きな子も、Liella!でスクールアイドルやりたいっす!!!」
言い切った瞬間、練習場所から音が消えたように感じた。
ほんの一瞬のことだったはずなのに、五人の表情を見つめながら返事を待つ時間が、妙に長く感じられた。
次の瞬間。
「きな子サァァァァァン!!」
「ひゃああああっ!?」
返事を待つ間もなく、唐先輩が勢いよくこちらへ飛び込んできた。何が起きたのか理解するより先に身体を抱き締められ、さっきまで静まり返っていた練習場所が、一瞬にしていつもの賑やかさを取り戻す。
「歓迎しマス! 大歓迎デス!!」
「く、苦しいっす! 唐先輩、苦しいっす!」
「ついに新メンバーデス!!」
「可可、暑苦しいのよ!」
「すみれは黙っててクダサイ!」
「なんですって!?」
私を抱き締めたまま唐先輩が平安名先輩と言い合いを始め、そのあまりの勢いに、ついさっきまで自分がどれだけ緊張していたのかさえ分からなくなってしまう。嵐先輩はそんな二人を止めるでもなく楽しそうに笑い、葉月先輩も口元へ手を添えながら微笑んでいた。
「ふふっ」
気づけば、私も笑っていた。
さっきまで胸の奥を締めつけていた緊張が、賑やかな声に紛れて少しずつほどけていく。あれだけ悩んで、何度も自分には無理だと思って、それでも最後には自分の口から言えた言葉を、目の前の五人はこんなにも喜んで受け止めてくれている。
それが嬉しくて、少しだけ恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しかった。
「これから一緒に頑張ろうね、きな子ちゃん」
「はいっす!」
嵐先輩の言葉に大きく頷くと、ようやく唐先輩の腕から解放された。乱れた制服を直しながら顔を上げたところで、今度は澁谷先輩が私の前へ歩いてくる。
「きな子ちゃん」
「はい」
昨日、初めて練習へ参加した時と変わらない柔らかな笑顔だった。
けれど、今その表情を見ている自分は、昨日までとは少しだけ違う。
「これからよろしくね」
その言葉を聞いた瞬間、改めて胸の奥がいっぱいになった。これから。
さっき葉月先輩から言われたばかりの言葉が、もう一度胸の中へ浮かんでくる。
これから練習して、できることを増やしていく。昨日できなかったことが今日できるようになって、今日できなかったことが、いつかできるようになる。その先で、本当にこの五人と同じステージへ立つ日が来るのかもしれない。
そう考えると、楽しみな気持ちと同じくらい、不安だってまだ残っていた。
Liella!へ入りたいと言ったからといって、急にダンスができるようになるわけではない。次の練習でもきっと何度も間違えるだろうし、歌いながら踊ろうとすれば、また足が止まるかもしれない。体力だって五人には到底及ばないし、昨日のような筋肉痛に苦しむ日も、これから何度もあるのだと思う。
それでも、もうその不安を理由に離れようとは思わなかった。
怖くないから決めたわけじゃない。
自信がついたからでもない。
できると分かったからでもない。
できないことも、大変なことも、自分が五人からずっと遅れていることも知った。そのうえで、それでもやってみたいと思った。
何より、これは誰かに言われて選んだ答えではない。
澁谷先輩たちに誘ってもらったからでも、野山さんに背中を押されたからでもない。実際に自分の目で見て、自分の身体で体験して、迷って、考えて、それでも最後には自分でここへ戻ってきた。だから今度は、迷わず頷くことができた。
「はい!」
昨日までよりもずっと大きな声が出た。
「よろしくお願いしますっす!」
五人の笑顔に囲まれながら、もう一度しっかりと頭を下げる。
昨日、ほんの一瞬だけ踏めたステップとは違う。
今度は、自分で行き先を決めて踏み出した一歩だった。
◇
それから数日後。
昼の混雑が一段落した店内には数人の客が残っているだけで、控えめに流れる音楽の合間を縫うように、食器の触れ合う小さな音が響いていた。俺はカウンターの中で洗い終えたカップを拭きながら、時折客席へ目を配る。いつもと変わらない、比較的静かな午後だった。
カラン———。
「いらっしゃいま———」
「野山さん!」
勢いよく鳴ったドアベルに続いて聞こえてきた声で、最後まで言う必要もなくなった。桜小路さんだ。
店へ入ってくるなり真っ直ぐこちらへ向かってくる姿を見て、初めて会った日のことを少しだけ思い出す。あの時は知らない土地で迷子になったような顔をして、店へ入ってからもどこか不安そうに周囲を見ていた。
それが今は、何かを早く話したくて仕方がないらしい。頬を少し紅潮させ、歩幅までいつもより大きく見える。
「どうしたんですか」
「野山さん、聞いてほしいっす!」
「はい」
手にしていたカップを置くと、桜小路さんは俺の前で立ち止まり、一度だけ息を整えた。
「きな子———Liella!に入ることにしたっす!」
—————なるほど。
「そうですか。おめでとうございます」
「反応薄くないっすか!?」
「え?」
「もっと驚くとかあると思ったっす!」
「いや、なんとなくそうなる気はしてたんで」
「なんでっすか!?」
「この前、楽しそうに話してましたから」
桜小路さんが少しだけ視線を下げる。
以前なら、ここですぐに否定していたかもしれない。けれど、しばらく黙ってから返ってきた言葉は違った。
「楽しかったっすから」
「そうですか」
それを聞いて、自然と口元が緩んだ。
結局、俺が何か言うまでもなかったらしい。できるかどうか分からない、自分が入っていいのかも分からないとあれだけ悩んでいたのに、最後にはちゃんと自分で決めた。
「じゃあ今日は俺のおごりで」
「え?」
「加入祝いです」
「いいんすか!?」
さっきまで少し照れたようにしていた桜小路さんの表情が、一瞬で明るくなる。分かりやすい反応に少し可笑しくなりながらも、何でも好きなものを頼まれる前に一応釘を刺しておくことにした。
「一杯だけですよ」
「じゃあ一番高いやつを———」
「いつものにしてください」
「まだ何も言ってないっす!」
「言いかけてたでしょう」
「野山さん、きな子のことなんだと思ってるんすか」
「一番高いやつを頼もうとする人」
「今の一回だけっす!」
頬を膨らませて抗議する桜小路さんを見ていると、堪えきれずに笑いが漏れた。本人は不満そうな顔をしているものの、本気で怒っているわけではないらしく、俺がいつもの飲み物を用意し始める頃には何事もなかったようにカウンター席へ腰を下ろしていた。
それでも、いつもより少し落ち着かない様子なのは見ていれば分かる。カウンターの上へ置いた指先を意味もなく動かしたかと思えば、店内へ視線を巡らせ、またすぐにこちらへ戻してくる。Liella!に入ると決めたことを誰かに話したかったのか、それとも俺に報告したことで改めて実感が湧いてきたのかは分からないけれど、その横顔にはまだ興奮が残っているようだった。
何より、以前ここでスクールアイドルについて話していた時とはまるで違う。あの時は一つ言葉にするたびに迷うような表情を浮かべていたのに、今はどこかそわそわしていながらも、その顔に迷いらしい迷いは見当たらなかった。
「はい。加入祝い」
「ありがとうっす!」
差し出したアイスミルクティーを両手で受け取り、一口飲んだ桜小路さんが満足そうに息を吐く。
「おいしいっす」
「いつもと同じですよ」
「今日は野山さんのおごりだから、三割増しくらいでおいしいっす」
「現金ですね」
「褒めてるっす!」
何をどう褒めているのかは分からない。
そのまま俺は仕事へ戻り、桜小路さんはカウンターで飲み物を飲む。しばらく会話はなかったけれど、妙に気まずく感じることもなかった。
初めて来た時は、たまたま店へ入ってきた客だった。
それがいつの間にか学校のことを話すようになり、悩んでいることを相談され、今日は自分で決めたことをわざわざ報告しに来ている。
「野山さん」
「はい?」
顔を上げると、桜小路さんがカップを両手で持ったままこちらを見ていた。さっきまでより少しだけ真面目な表情をしている。
「応援してくれるっすか?」
「............」
ほんの少しだけ期待しているのが顔に出ていた。適当に返す気にはならなかった。
「もちろん」
「......!本当っすか!?」
「そこ疑うんですか」
「野山さん、あんまりそういうこと言わないから......」
「じゃあ言わない方がよかったですか?」
「言ってほしいっす!」
どっちなんだ。
「頑張ってください」
そう答えてから、これだけでは少し足りないような気がして、俺はほんの少し考えて言葉を付け加えた。
「桜小路さんが、自分で決めたことなんでしょう」
桜小路さんは一瞬だけ目を丸くした。俺がそんなことを言うとは思っていなかったのか、しばらく何も返さずにこちらを見つめていたけれど、やがてその表情がゆっくりと崩れていく。
さっきまでどこか期待するように俺の返事を待っていた顔から力が抜け、頬が緩み、目元まで柔らかく細められる。それは初めてこの店へ来た時に見せていた不安そうな表情とも、何かをごまかすように笑っていた時とも違う、見ているこちらまでつられてしまいそうなくらい嬉しそうな笑顔だった。
「はいっす!」
大きく頷きながら返ってきた声にも、もう迷いはなかった。
その笑顔を見ていると、本当にこれでよかったのだろうと思う。俺が背中を押したからでも、誰かに決めてもらったからでもない。散々迷って、自分で見て、自分でやってみて、そのうえで桜小路さん自身が選んだ答えなのだから。
最初にここへ来た頃の彼女を思い返すと、その迷いのない笑顔が、少しだけ眩しく見えた。
◇
「ごちそうさまでしたっす!」
空になったカップを受け取ると、桜小路さんは鞄を肩へ掛けて入口へ向かった。
「また来るっす! 今度はLiella!のみんなも連れてくるっす!」
「一気に?」
「はいっす!」
「......忙しくなりそうだな」
「みんな良い人っすよ!」
「そこは心配してないです」
何が嬉しいのか、桜小路さんは笑いながらドアへ手をかけ、一度だけこちらを振り返った。
「じゃあ、また来るっす!」
「はい。また」
カラン、とベルが鳴り、最後まで元気な声を残して店を出ていく。
ドアが閉まると、それまでカウンター越しに響いていた声が急になくなり、店内の音楽や食器の音が妙にはっきり聞こえるようになった。
「............」
手元には、桜小路さんが使っていたカップが残っている。初めてここへ来た時は、迷っていた。
東京へ来たことも、学校のことも、スクールアイドルのことも。自分がどうしたいのか分からず、そのたびに考え込んでいた。
それが今は、自分で行く場所を決めて、わざわざそれを報告しに来た。
洗い場へ向かって蛇口を捻ると、水の音に紛れるように以前の会話が蘇った。
『きな子、昔......ピアノやってたことがあるっす』
一度、音楽から離れた。
ピアノをやっていたけれど、続けられなくなって辞めた。少なからず、そのことを引きずっているようにも見えた。
それでも今度は、ピアノとはまったく違う形で、自分からもう一度音楽のある場所へ歩いていった。
「............」
スクールアイドル。歌って、踊って、ラブライブ!とかいう大会を目指す。
正直、俺にはまだよく分からない。
俺とは何の関係もない世界だ。
———そのはずだった。
洗い終えたカップの水滴を拭き取り、棚へ戻す。布巾に残った水気を絞ろうとしたところで、何の気なしに上げた視線が店の奥で止まった。
——ピアノ。
そこにあるのは、いつもと同じものだった。位置も変わっていなければ、当然、姿形が変わったわけでもない。昨日までと同じように、ただ店の奥に置かれている。
それなのに、今日はなぜか少しだけ違って見えた。
——昔は、もっと近かった。
弾くことが当たり前で、鍵盤へ触れることに理由なんて必要なかった。それがいつからか遠ざかって、今では見ても意味がない、触れるつもりもない、自分にはもう関係のないものだと何度も言い聞かせている。
いつもなら、ここで視線を逸らす。
仕事へ戻れば、それで終わる。けれど今日は、さっきまでここにいた桜小路さんの姿が頭に残っていた。一度やめたものとは違う形で、それでももう一度、自分から音楽のある場所へ向かっていった人。
別に、それが俺と何か関係しているわけじゃない。桜小路さんは桜小路さんで、俺は俺だ。
だから、近づくつもりはなかった。
椅子へ座るつもりも、蓋を開けるつもりもない。まして、鍵盤へ触れるつもりなんて。
「............」
それでも、その日はほんの少しだけ、いつもより長く。
俺は、そのピアノから目を逸らせなかった。