ラブライブ!スーパースター!! ~あの日の音の、その先で~ 作:かべたろ
—————四月のある土曜日。
電車が小さく揺れるたび、窓から差し込む春の日差しが膝の上に開いたページをゆっくりと滑っていく。休日の午前ということもあって、平日の通学時間帯とは違い、車内にはどこか気の抜けたような穏やかさが漂っていた。座席にもちらほら空きがあり、吊り革につかまっている人もそれほど多くない。
俺は車両の端の席に腰を下ろし、そんな周囲の様子にはほとんど目を向けず、手元の文庫本に視線を落としていた。
今日は大学も休みで、Café Arbreのシフトも入っていない。誰かと約束をしているわけでもなく、久しぶりに丸一日何の予定もない休日だった。
だから家で一日を過ごしてもよかったのだけれど、昨日になってふと思い出した本があった。以前から一度読んでみたいと思いながら、近所の図書館では見つけられず、大学の図書館にも置いていなかった一冊だ。試しに所蔵を調べてみたところ、少し離れた図書館に所蔵されているらしい。
——なら、行ってみるか。
理由なんて、それだけだった。
休日にわざわざ電車へ乗って、本を一冊探しに行く。興味のない人からすれば随分と物好きに見えるのかもしれないけれど、俺としては休日だからこそできることでもある。目的の本を探して、ついでに気になったものを何冊か見繕い、時間が余れば帰りにどこかでコーヒーでも飲む。それくらいで十分、悪くない休日だった。
ページをめくるうち、視界の端を流れていく街並みも、駅に停まるたび入れ替わる乗客の姿も、少しずつ意識の外へ追いやられていく。物語もちょうど終盤に差しかかっていて、ここまで来ると区切りのいいところまで読み進めたくなる。
あと少し。せめてこの章だけ———。
『———次は、〇〇———』
「あ」
車内放送に聞き覚えのある駅名が混ざり、ようやく顔を上げた。窓の向こうにホームの駅名標が見えた瞬間、自分が何をしていたのか理解する。
慌てて栞を挟んで本を閉じ、鞄へしまいながら立ち上がる。開いているドアへ急いで向かい、どうにかホームへ降りた直後、背後で扉が閉まった。数秒もしないうちに電車がゆっくりと動き始め、俺は遠ざかっていく車両を見送りながら小さく息を吐く。
危なかった。あと十秒気づくのが遅ければ、そのまま次の駅まで運ばれていただろう。休日に本を探しに出かけ、その道中で本を読んで乗り過ごす。さすがに笑えない。何事もなかったような顔をして改札へ向かった。
◇
駅から十分ほど歩いたところに、その図書館はあった。
普段利用しているところより随分と規模が大きく、ガラス張りの入口を抜けると、それまで耳に入っていた車の走行音や街を行き交う人たちの声が一気に遠ざかる。代わりに聞こえてくるのは、床を踏む靴音と、どこかでページをめくる微かな音。それから、天井付近から響く空調の低い音くらいだった。
こういう空気は嫌いじゃない。というより、かなり好きな方だと思う。静かだから、というだけでもない。
見渡せば、いくつもの書架が奥まで規則正しく並んでいる。当然、そのほとんどは俺がまだ読んだことのない本だ。人生で読める本の数には限りがある。この建物に並んでいるものだけでも、おそらく全部を読み終えることなんてできない。
そう考えると少し残念な気もするけれど、それ以上に、まだ自分の知らないものがこれだけ残っているという事実が妙に心地よかった。まず検索端末へ向かい、目当てのタイトルを入力する。画面に表示された『貸出可』の文字を確認すると、それだけで少し気分が上がった。
「よし」
小さく呟き、表示された分類番号と場所を確認する。目的の本は上の階にあるらしい。
階段を上がり、案内表示を頼りに目的の棚へ向かう。番号を確認してから、並んでいる背表紙を一冊ずつ目で追っていった。一段目にはない。二段目にも見当たらない。さらにその隣へ視線を動かして———ようやく探していたタイトルを見つけた。
「あった」
ちょうど目線より少し下。手を伸ばす。
——その瞬間だった。
視界の右側から、ほとんど同時にもう一つの手が伸びてきた。
「あ」
「あら」
二人の指先が、背表紙のすぐ手前で止まる。ほんの少し動けば触れてしまいそうな距離だったので、俺は反射的に手を引いた。隣を見る。
——そこにいたのは、俺よりいくらか年下に見える女の子だった。
まず目を引いたのは、腰近くまで伸びた金色の髪だ。綺麗に手入れされた長い髪は、落ち着いた色合いの書架が並ぶこの場所ではかなり目立つ。整った顔立ちに、意志の強さを感じさせる目元。休日だからなのか制服ではなく私服姿で、肩から小さな鞄を提げていた。
高校生くらいだろうか。ずいぶん華やかな人だな、というのが最初の印象だった。
「どうぞ」
「え?」
「それ、探してたんですよね」
本を指差して譲ると、女の子はすぐには手を伸ばさず、少し意外そうに俺の顔を見た。
「そうだけど……あなたもでしょう?」
「まあ、そうですけど」
「じゃあ、どうして譲るのよ」
「どうしてって、一冊しかないので」
「それは見れば分かるわ」
「だったら、どっちかが諦めるしかないでしょう」
「だからって、あなたが諦める必要はないじゃない」
予想していなかった返しだった。譲ったはずなのに、なぜか軽く注意されているような気分になる。
「俺はまた今度でもいいので」
「でも、先に取ろうとしてたのはあなたでしょう?」
「そこまで見てたんですか」
「隣にいたんだから分かるわよ」
「そうですか」
もう一度、二人の間にある本を見る。確かに一冊しかないし、このまま二人で眺めていても勝手に増えてくれるわけではない。
俺は棚から本を抜き取った。女の子の眉が僅かに動いたが、そのまま彼女へ差し出す。
「はい」
「何?」
「先に借りてください」
「でも———」
「俺は予約を入れておきます。返却されたら借りられるので、それでいいです」
女の子は差し出された本と俺の顔を交互に見比べた。まだ少し納得していないようにも見えたけれど、やがて小さく息を吐き、ようやく手を伸ばす。
「ありがとう」
「いえ」
それだけ言って、俺は別の本を探そうと棚へ向き直った。
せっかくここまで来たのだから、正直なところ惜しくはあった。けれど、同じ本へ同時に手を伸ばした相手と、たった一冊を前に譲り合っているのも妙な話だ。
目当ての一冊が借りられなかったのは残念だけれど、ここには他にもいくらでも本がある。また来ればいいだけの話だ。
「ねえ」
「はい?」
呼び止められて振り返る。
女の子はまだそこにいて、さっき渡した本を胸元に抱えていた。
「この作家、好きなの?わざわざ探してたみたいだから」
「ああ。まあ、好きですね。何冊か読んでます」
「そう」
女の子は手元の表紙へ視線を落とし、それから棚の少し離れた場所へ目を向けた。何かを思いついたように口を開きかける。
「だったら———」
「?」
「いえ、なんでもないわ」
途中で言葉を引っ込められた。
何を言おうとしたのかは分からないけれど、無理に聞くことでもない。
「そうですか」
「ええ。本、ありがとう」
「どういたしまして」
今度こそ女の子は歩いていった。長い金色の髪が背中で揺れ、やがて書架の向こうへ消えていく。
変わった人だったな。
そう思いながら、さっきまで本があった空いた場所へ目を戻す。
わざわざここまで来た目的の一冊はなくなってしまったけれど、不思議とそこまで惜しい気はしなかった。
「まあ、いいか」
代わりに隣へ並んでいた別の本を一冊抜き取る。休日はまだ長い。本なら、他にもいくらでもある。
◇
それからしばらく、俺は特に行き先を決めることもなく館内を歩いていた。
目当ての本が借りられなかった以上、急いで探すものもない。書架の前で足を止めて背表紙を眺め、気になったものがあれば手に取る。数ページだけ読んで戻すこともあれば、そのまま腕の中へ残すものもある。
こういう時間も悪くない。
最初から読む本を決めて図書館へ来るより、何も考えずに棚を眺めている時の方が、思いがけず自分の好みに刺さる一冊と出会えたりする。その偶然があるから、本屋や図書館を歩く時間そのものが好きなのかもしれない。
結局、二冊ほど気になる本を手に取り、閲覧スペースへ向かった。窓際に空席を見つけて腰を下ろし、最初の一冊を開く。
読み始めてしばらくすると、周囲の物音が次第に遠のいていった。最初の十ページではまだ文章の癖を探りながら読んでいたのに、二十ページを越える頃には物語の輪郭が見え始め、ページをめくる手も自然と速くなっていく。
気づけば、窓から差し込む光の角度が少し変わっていた。
時計を見ると、思っていたより時間が経っている。
「結構読んだな」
開いていた本を閉じて立ち上がる。
面白かった。借りて帰ってもいい。ただ、せっかくここまで来たのだから、もう一冊くらい探してから決めよう。
再び書架の間へ入り、今度は少し違うジャンルへ向かう。何冊か背表紙を眺めていると、見覚えのある作家名が目に入り、足を止めた。
「これ、まだ読んでなかったな」
シリーズの中では比較的新しい作品で、評判がいいことは知っていたものの、何となく後回しになっていた一冊だった。
棚から抜き取ったところで、すぐ横から声がした。
「それも読むの?」
「はい?」
聞き覚えのある声に顔を向けると、さっきの金髪の女の子が数冊の本を腕に抱えて立っていた。向こうも俺に気づいたらしく、少し意外そうに目を瞬かせる。
「またあなた?」
「それ、俺の台詞でもいいですか」
「私が先にいたんだけど?」
「じゃあ俺が悪いですね」
「なんか引っかかるわね、その言い方」
「素直に認めたのに」
「本当に悪いと思ってる?」
「棚を見に来ただけなので、そもそも悪いとは思ってないです」
「ほら」
女の子が呆れたように息を吐く。
最初に会った時から思っていたけれど、表情がよく変わる人だ。気の強そうな見た目とは裏腹に、何を思ったのかが案外そのまま顔に出る。
「それで、何でしたっけ」
「え?」
「さっき、それ『も』読むのかって」
「ああ。さっきの本と同じ作家でしょう?」
「よく分かりましたね」
「表紙に名前が書いてあるじゃない」
「そりゃそうか」
言われてみればその通りだった。何を感心しているんだと自分でも妙な返事をした気がして、少し気まずくなりながら手元の本へ視線を落とす。
「この作品はまだ読んでなくて。借りようか迷ってたんです」
「その人が好きなんじゃないの?」
「好きですよ。でも、全部読んでるわけじゃないので」
「だったら読むといいわ」
女の子は迷う必要なんてないと言わんばかりに答えた。その言い方からして、どうやらこの作品もすでに読んでいるらしい。
「おすすめですか?」
「面白いわよ。でも、私は前の作品の方が好き」
「ああ、あれですか」
思い当たる作品名を口にすると、それまでどこか探るようにこちらを見ていた女の子の目が僅かに見開かれた。
「読んだの?」
「読みましたよ」
「どうだった?」
「好きでした。特に後半ですね」
「後半?」
声の調子が分かりやすく変わった。さっきまでこちらの反応を窺うようだった視線が、一気に作品そのものへ移ったらしい。ほんの少し前まで名前も知らない相手だったはずなのに、好きな本が共通していると分かっただけで随分と話しやすくなるものだ。
「主人公が故郷に戻ってからのところが、俺は好きでした」
「そこなの?」
予想外の答えだったのか、女の子は少し眉を上げると、手にしていた本を胸元へ寄せながら考えるように首を傾けた。
「私は前半の方が好きだけど。後半は少し説明しすぎなのよ。前半くらいの距離感の方が、あの主人公には合ってたと思う」
「そうですか? 俺は逆ですね」
今度は俺の方が首を傾げる。確かに後半になって主人公の内面が直接描かれる場面は増えていたけれど、それこそがあの作品の面白さだと思っていた。
「前半は意図的に主人公の内面を隠してるでしょう。だから後半で本人が何を考えてたのか分かって、ようやく前半の行動に意味が出てくる」
「それは分かるけど、全部分かっちゃうのって、つまらなくない?」
「俺はそこまで全部説明してるとは思わなかったですけど」
「してるわよ」
「してないでしょう」
「してる」
思いのほかきっぱりと言い切られて、俺もすぐには返せなくなった。
どうやら、この部分については完全に意見が割れているらしい。しかも、お互いに相手の言っていることが分からないわけではないくせに、自分の解釈を引っ込める気もない。
ついさっきまで、互いの名前すら知らなかったはずなのに。
図書館の棚の前で、初対面の相手と小説の主人公について真剣に言い合っている自分がおかしくなって、俺は小さく息を漏らした。
「まあ……好みですかね」
「そこで終わらせるの?」
納得がいかないらしく、女の子が僅かに眉を寄せる。どうやら彼女の中では、まだこの話は終わっていなかったらしい。
「終わらせないと、本当にここでずっと話すことになりますよ」
「別に私は———」
女の子が何かを言いかけたところで、不意に口を閉ざした。そのまま俺の肩越しへ視線を向けたので、何かあるのかと思ってつられるように振り返る。
少し離れた閲覧席では、何人かが机に本を広げ、静かにページをめくっていた。こちらを迷惑そうに見ている人がいるわけではない。それでも、周囲に満ちている静けさを改めて意識すると、さっきまで作品の解釈について言い合っていた自分たちの声だけが、随分と場違いだったように思えてくる。
どうやら本の話に夢中になりすぎて、ここが図書館だという当たり前のことを二人揃って忘れていたらしい。
「ちょっと喋りすぎましたね」
「そうね。さすがにここでは迷惑だわ」
「場所、変えます?」
「ええ」
確か近くに、多少話しても問題のない休憩スペースがあったはずだ。俺がそちらへ向かって歩き出すと、女の子も特に迷う様子もなく隣についてくる。
ついさっき偶然同じ本へ手を伸ばしただけの相手と、そのまま場所を変えてまで話を続けることになるとは思ってもいなかった。それでも不思議と、ここで別れて終わりにしようという気にはならなかった。
むしろ、さっきの話にはまだ続きがある。
そんなことを考えながら数歩進んだところで、もっと根本的なことを何ひとつ知らないままだったことに、今さら気がついた。
「そういえば、名前聞いてませんでしたね」
俺が足を緩めると、隣を歩いていた女の子もぴたりと立ち止まった。
「今さら?」
「本の話しかしてなかったので」
「普通は名前が先でしょう」
「確かに」
言われてみればその通りなのだけれど、あの流れのどこで自己紹介を挟めばよかったのかと考えると、それはそれで難しい気もする。
「ほんと、変な人ね」
「さっきから結構言いますね」
「だって変でしょう?」
悪びれる様子もなく返されてしまい、反論しかけた言葉をそのまま飲み込んだ。
否定しづらい。
俺だって、名前も知らない相手と小説の解釈についてあれだけ真剣に言い合った挙げ句、話し足りないからと場所まで変えることになるとは思っていなかった。相手からすれば変な人だろうし、それを言うなら彼女だって大概だと思うのだけれど、そこを指摘すればまた話が長くなりそうだった。
女の子は腕に抱えていた本を持ち直すと、今度こそ自己紹介をするつもりなのか、改めて俺の方へ身体を向けた。
「平安名すみれ」
「へあんな?」
「平安名。すみれ」
「ああ、平安名」
一度では上手く聞き取れず、教えられた名字を頭の中でもう一度繰り返す。
——平安名すみれ。
随分と珍しい名字だ。聞き慣れない響きではあるけれど、逆に一度覚えてしまえば、そう簡単には忘れそうにない。
「俺は野山幸之助です。大学二年」
「あら、大学生なのね」
平安名さんは少し意外そうに俺を見た。そういえば向こうも、俺が何者なのか何も知らないまま話していたことになる。
「平安名さんは?」
「高校二年よ」
「やっぱり高校生だったんですね」
「分かってたの?」
「なんとなく」
制服を着ているわけでもないから確信があったわけではない。ただ、話している時の雰囲気や見た目から、少なくとも自分より年下だろうとは思っていた。そう答えると、平安名さんは少しだけ顎を上げて俺を見た。それから初めて会った時よりも遠慮のない視線で、顔から服装へと改めて観察するように目を動かしていく。
「大学生にしては、落ち着いてると思っただけ」
「褒めてます?」
「どうかしら」
「どっちなんだ」
結局はぐらかされてしまい、思わず苦笑する。
すると、それまでどこか勝ち気な表情を浮かべていた平安名さんも、堪えきれなかったように小さく笑った。
その笑顔を見た時、さっきまで二人の間にわずかに残っていた、初対面の相手と話している時特有の硬さが、ほんの少しだけ薄れたような気がした。
名前も知らないまま本について言い合っていた相手が、ようやく「平安名すみれ」という一人の人間になった。もっとも、名前を知ったところで、やることはたぶん変わらない。
休憩スペースへ着いたら、さっき途中で終わらせた本の話の続きをするだけだ。
◇
休憩スペースへ移動すると、空いていた丸テーブルを挟んで俺たちは向かい合って座った。平安名さんが腕に抱えていた本をテーブルの上へ置く。全部で三冊あり、そのうち二冊は小説だったが、残る一冊だけは少し毛色が違い、表紙を見る限り歴史関係の本らしい。
「ジャンル、結構ばらばらですね」
「何でも読むもの」
「歴史も?」
「好きよ。特に日本史」
「へえ、意外ですね」
「何が?」
「見た目からは分からなかったので」
「読書の趣味が見た目で分かってたまるもんですか」
「それもそうですね」
「本当に失礼ね、あなた」
言葉だけを聞けば怒られていてもおかしくないのに、その口元には僅かに笑みが浮かんでいた。さっきまでは何か言うたびに値踏みするような視線を向けられていた気がするけれど、今はそれも随分と和らいでいる。
どうやら、さっきまでより話しやすくなったと感じているのは、俺だけではないらしい。
「でも、歴史ものなら———」
せっかく日本史が好きだというのなら、と以前読んだ作品の中から一つタイトルを挙げてみる。
「あ、それ読んだわ」
「じゃあ同じ作者の———」
「それも」
「これは?」
「読んだ」
「持ってます?」
「持ってるわ」
間髪入れずに返ってくる答えに、今度は俺の方が少し驚いた。一冊や二冊ならともかく、思いつくままに挙げた作品がことごとく既読となると、本人の言う「何でも読む」はどうやら謙遜でも何でもないらしい。
「平安名さん、相当読んでますね」
「普通よ」
「絶対普通じゃないですよ」
「野山さんに言われたくないんだけど?」
「俺は結構読むって認めてますから」
そう返すと、平安名さんは何か思いついたように僅かに目を細めた。さっきまでこちらから作品を挙げていたのが気に入らなかったのか、今度は自分の番だと言わんばかりに身を乗り出してくる。
「じゃあ、これは?」
挙げられたタイトルには、すぐに心当たりがあった。
「ああ、それなら読みました」
「これは?」
「それも」
「じゃあ———」
「持ってます」
三冊目まで答えたところで、平安名さんの目がゆっくりと細くなった。
「あなた、本当に何なの?」
「大学生です」
「それはもう聞いたわよ」
何を聞かれているのかは分かっていたけれど、あえてそう返すと、平安名さんは呆れたように眉を寄せる。その反応がおかしくて、俺は堪えきれずに笑ってしまった。
気づけば、ただ好きな本について話していただけのはずが、いつの間にか相手の知らない作品を先に挙げた方が勝ちという、よく分からない勝負のようになっている。
もっとも、それを勝負だと思っているのが俺だけなのか、平安名さんも同じなのかは分からない。
「じゃあ、これは知らないでしょう」
そう言って平安名さんが続けて挙げたタイトルには、今度こそ聞き覚えがなかった。頭の中で作者や表紙を探ってみても何も浮かばず、素直に首を横へ振る。
「それは知らないですね」
「ほら」
平安名さんが僅かに顎を上げる。
ほんの少しだけ得意げに細められた目といい、満足そうな口元といい、どう見ても勝ち誇っている。さっきまでの落ち着いた態度はどこへ行ったのかと思うくらい、その喜び方は分かりやすかった。
「なんで勝ち誇ってるんですか」
「やっと勝ったからよ」
「勝負だったんですか、これ」
「今決めたの」
「後出しじゃないですか」
平然と言い切る姿を見ていると、また一つ、この人のことを知った気がした。どうやら平安名すみれという人は、思っていた以上に負けず嫌いらしい。
「それ、面白いんですか?」
「ええ。私は好き」
「じゃあ、覚えておきます」
「覚えるだけじゃなくて読みなさいよ」
「図書館にあったら」
「そこまで言ったなら探しなさい」
「厳しいな」
そこまで薦められると、逆にどんな本なのか気になってくる。忘れないうちにスマートフォンを取り出してタイトルを打ち込んでいると、それまで当然のように話していた平安名さんが、不意にこちらの手元を見て目を瞬かせた。
「本当に読むつもりなの?」
「おすすめしたの、平安名さんでしょう」
「そうだけど」
「そこまで言うなら気になるので」
俺としては、それだけのことだった。面白いと言われた本を知らなかったのだから、今度読んでみようと思っただけだ。
けれど、平安名さんは何か意外だったのか、ほんの少しだけこちらを見つめてから口元を緩めた。
「……そう」
返ってきた声は、さっきまでより僅かに柔らかかった。
その変化が何となく気になったものの、理由を尋ねるほどのことでもない。スマートフォンをしまいながら、今度はこちらの番だと思い直す。
「じゃあ、俺からも一冊」
「何?」
記憶の中から一冊選んでタイトルを挙げると、平安名さんはすぐには答えず、思い出そうとするように視線を上へ向けた。
「……知らないわね」
「よし」
「なんで野山さんまで嬉しそうなのよ」
「一勝一敗ですね」
「さっき勝負じゃないって言ってたでしょう」
「今決めました」
「真似しないでよ!」
さっき自分が言ったことをそのまま返されたのが気に入らなかったらしく、平安名さんが抗議する。その顔がおかしくて笑うと、向こうもすぐに堪えきれなくなったようで、二人揃って笑い声を漏らした。
思っていたより声が響いてしまい、ほとんど同時に周囲を確認する。
幸い、ここはさっきまでいた場所ほど静かではなく、誰かに注意されるようなこともなかった。それでも図書館の中であることに変わりはなく、少し気まずくなって平安名さんへ視線を戻すと、ちょうど向こうもこちらを見ていた。
「…………」
「…………」
目が合う。どちらからともなく、今度は声を出さないように笑った。
ついさっきまで名前すら知らなかった相手と場所を移して、好きな本を挙げ合って、いつの間にか勝手に勝負を始めている。
初対面の相手と、いったい何をやっているんだろう。
そう思うのに、不思議と居心地は悪くなかった。それどころか、次は何の本について話そうかと考えている自分がいるくらいには、この時間を楽しんでいるらしかった。
◇
「野山さんって、大学で文学を勉強してるの?」
ひとしきり本の話をして、テーブルの上に並んでいた作品もだいたい話題に出し尽くした頃、平安名さんがふと思い出したようにそんなことを聞いてきた。
「いや、全然違いますよ」
「え?」
「文学部じゃないです」
「じゃあ、これ全部ただの趣味?」
「そうですけど」
何がそんなに意外なのかと思っていると、平安名さんはテーブルの上に積まれた俺の本と、向かいに座る俺の顔を交互に見比べた。それから改めて冊数を確認するように視線を動かし、少し呆れたように眉を上げる。
「その量で?」
「平安名さんに言われたくないんですが」
こちらも視線を向ければ、彼女の前には小説から歴史関係まで三冊の本が並んでいる。しかも、さっきまでの会話から察するに、今日借りる本が多いというだけではなく、普段から相当な量を読んでいるのは間違いない。
「それもそうね」
てっきり何か言い返してくるかと思ったのに、平安名さんは自分でも思い当たるところがあったのか、意外なくらいあっさり認めた。
「平安名さんこそ、文芸部とか?」
「入ってないわよ」
「じゃあ、そっちも完全に趣味じゃないですか」
「そうね。本は昔から好きなの」
そう答えながら、平安名さんの指先がテーブルに置かれた本の表紙をゆっくりとなぞった。さっきまで作品について話していた時とは違い、その仕草はどこか静かだった。
「一人でも読めるし、何を読んでも、どう思っても自分の自由でしょう? 別に誰かに褒めてもらう必要もないし」
「…………」
最後の一言だけが、妙に耳へ残った。
何気なく口にしただけなのかもしれない。それでも、さっきまで作品の解釈についてあれだけ楽しそうに言い合っていた時とは、僅かに声の響きが違って聞こえた。視線もこちらには向かず、指先で触れている本へ落とされたままになっている。
何か理由があるのかもしれない。それとも、俺が勝手にそう感じただけなのか。
少し気にはなったけれど、聞かなかった。
今日会ったばかりの相手だ。たまたま同じ本へ手を伸ばし、話が合ったからこうして一時間近く喋っているだけで、俺は平安名さんのことをほとんど何も知らない。誰にだって、知り合ったばかりの人間に勝手に踏み込まれたくない場所くらいあるだろう。
「趣味なんて、それくらいでいいと思いますよ」
「え?」
平安名さんが顔を上げた。
「自分が好きだからやる。それで十分でしょう」
何かを励ますつもりで言ったわけではなかった。
本を読むのも、音楽を聴くのも、何だってそうだ。仕事でも勉強でもないのなら、自分が好きだからやる。それ以上に理由を求める必要なんてないと、俺はそう思っている。
平安名さんは少しだけ意外そうに俺を見ていた。
ほんの一瞬、まっすぐに目が合う。
「……そうね」
やがて小さく頷いた時の表情は、今日会ってから見た中で一番穏やかなものだった。
俺もそれ以上は何も言わず、手元の本へ視線を戻した。彼女が何を思ってあの言葉を口にしたのかは分からないし、今はそれでいい。
少しの間、二人の間から会話が途切れた。
けれど、妙な気まずさはなかった。
さっきまでは途切れることなく本の話をしていたのに、無理に次の話題を探さなくても、そのまま黙っていられる。平安名さんも自分の本へ視線を落としていて、俺も借りるつもりだった本の表紙を何となく眺めていた。
その静かな空気を壊したのは、俺でも平安名さんでもなかった。
ぐぅ、と。
小さいながらも、向かいに座っている相手には十分届く程度の音が腹から鳴った。
「…………」
「…………」
二人の視線が、ほとんど同時に俺の腹の辺りへ落ちる。
「腹減った」
「ふっ」
「笑わないでください」
「だって、急なんだもの」
平安名さんが口元へ手を添えながら笑っている。さっきまで少し静かになっていた空気が、腹の音一つですっかり元へ戻ってしまった。
「もう昼ですから」
「え?」
言われて初めて気づいたように、平安名さんがスマートフォンを取り出して時刻を確認する。
「一時過ぎてる」
「結構話してましたね」
「そんなに?」
「一時間以上は話してたんじゃないですか」
図書館で声をかけられてから、作品の話をして、場所まで移して、それからも途切れることなく話し続けていた。体感ではそこまで長く感じていなかったけれど、時計を見る限り随分と時間が経っていたらしい。
平安名さんも同じだったのか、スマートフォンの画面と俺を交互に見てから、少し考えるように目を細めた。
「野山さんのせいね」
「そこ俺なんですか?」
「いちいち反論するからでしょう」
「話振ってきたの平安名さんですよ」
「じゃあ半々」
「最初からそうしてください」
結局そこでも言い合いになってしまい、俺は苦笑しながら椅子から立ち上がった。長く座っていたせいで少し固まった身体を伸ばしながら、テーブルに置いていた本をまとめる。
「俺、昼食べに行きますけど、平安名さんは?」
「私?」
自分まで話を振られるとは思っていなかったのか、平安名さんが顔を上げた。
「まだ本の話するなら、飯食いながらでもいいでしょう。予定があるなら別ですけど」
特に深い意味はなかった。
まだ話していない本はいくらでもあるし、途中になっている話題だって残っている。それなら、わざわざここで切り上げるより、昼飯を食べながら続きを話せばいい。それくらいのつもりだった。
平安名さんはすぐには答えず、ほんの少し考えるように視線を落とした。それからテーブルの上に置いていた三冊の本を重ね、まとめて腕の中へ抱える。
「そうね。私もお腹空いたわ」
「じゃあ行きますか」
「ええ」
どちらから誘ったというほど、大げさなものではなかった。
名前を知ったのだってついさっきで、互いについて知っていることといえば、本が好きだということくらい。それでも話題はまだ尽きていないし、二人とも腹が減っている。
だったら、その続きを昼飯でも食べながら話せばいい。
ただそれだけの、成り行きだった。
そんな成り行きに、俺は特に疑問を持たなかった。